shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

無責任体系としての大統領型政治

民主制が必ずしも最も優れた政体であるとは言えないことは、近代以降の保守思想の常識になっているが、しかし民主制に対する懐疑は何も近代保守思想の専売特許ではなく、プラトンにまで遡る。

 

プラトンの徒であった田中美知太郎の穏健な保守思想は、長いプラトン研究からの帰結と言えなくもないが、それ以上に近代以降の「マス化」と大衆の熱狂の恐ろしさに対する警戒と用心という点において、近代以降の保守思想との親和性の方が強いのではないかと思われる。それは『善と必然との間に-人間的自由の前提となるもの』(岩波書店)や『人生論風に』(新潮選書)あるいは『人間であること』(文藝春秋)など田中の狭義の専門外の事項に関する考察を読めばよくわかる(専門的内容を持ち、かつ一般向けにも書かれている『ロゴスとイデア』(岩波書店)は、名著の誉れ高い。田中美知太郎が戦前・戦中・戦後とブレずに一貫していた節操ある学者であることがわかるだろう)。

 

それがどうだろう。「論壇」そのものが崩壊したので、当然に田中美知太郎や福田恆存小林秀雄などが活躍していた保守論壇も消失してしまった。古典的な教養人の消滅は、昔の論壇誌と現在の形だけの「なんちゃって論壇」を読み比べて見れば一目瞭然だ。かつての保守論壇はそれなりのレベルを維持していて、今の時代の者が読んでもその卓越性が際立つ。

 

このことは、昔の左派論壇誌と比べてもわかろう。昔から左翼は一貫して頓珍漢なことを論じていた。これほどコンスタントに間違い続けてきたのも珍しいくらいだ。といって、今の自称「保守」の連中が良いかと言われたら、左翼と同じレベルに転落してしまったと言わざるを得ない。よく言って二流、大半は三流の「論客」で占められているという悲惨な状態だ。あるのは、『正論』やら『月刊Hanada』や『月刊WiLL』といった低劣雑誌ばかりで、これらは左翼雑誌と「頭の悪さ」の点で同レベルとしか言いようがない。左翼が概して、知性の点で劣っていたことは今に始まったことではないので、左翼が頭が悪いことはある意味許せる。しかし、保守と称する者までが左翼と同じバカになってしまっては、シャレにならない。

 

民主制に向けられた批判的視点は、実はマルクスヘーゲル国法論批判』にも見られた。このテクストはマルクス研究の中であまり取り上げられることはないが、『ドイツ・イデオロギー』が執筆された1845年を境にマルクスにおける思想的切断を見る論者からは特に顧みられることの少ないテクストであるように思われる。この点だけなら、旧ソ連の公認学説であったマルクスレーニン主義と、「疎外論から物象化論へ」というテーゼを掲げる廣松渉は共通している。

 

マルクスは「ヘーゲル国法論批判草稿」において、ヘーゲルの人民(das Volk)の主権という概念を批判している。ヘーゲル『法の哲学』には、

人民というものは、君主を抜きにして解されたり、まさに君主こそ必然的かつ直接的に関連している全体の分節的組織を抜きにして解されたりする場合は、無定形の塊であって、もはやこれは国家ではない。

とある。これに対してマルクスは、ヘーゲルが同義反復を犯していると批判する。要するに、人民を君主制の下での人民としか考えないから、君主制なき人民は無定形な塊になるほかないというわけだ。

民主主義は君主制の真理であり、君主制は民主主義の真理ではない。君主制は必然的に自家撞着としての民主主義であるが、君主制的契機は民主主義のなかでの不合理な要素なでは全くない。君主制をそれ自体から理解することはできないが、民主主義はそれ自体から理解できるものである。民主主義においては諸契機のどれ一つも自己に属する以外の別の意義を持つことはない。一つ一つが現実的にましさく全デーモスの契機なのである。君主制においては一部分が全体の性格を規定する。体制全体が、固定的な点に合わせて、あり方を修正せざるをえないのである。民主主義は体制の類である。君主制は一つの種、しかも不良種なのだ。民主主義は内容と形式である。君主制は唯の形式にすぎないとされるが、それは内容を偽造する形式なのである。

ここで述べられているのは、人民の自己統治のことである。特殊な政治制度や国家制度を意味するものではない「デーモス」の「クラートス」であるところの自己統治。近代における国家・市民社会の分離・二重化を前提にした民主主義論であり、当然これは現代の民主主義の理念となっている。問題は、マルクスが指摘するように、

民主主義においては、体制一般は人民の一つの定在契機にすぎず、政治的体制がそれだけで国家を形成するわけではないということである。

もちろん、このマルクスの思考は、1845年の『ドイツ・イデオロギー』以前のものであるので、仮にアルチュセール廣松渉の切断説を是するとするならば、マルクスの最終的な見解とするわけにはいかないが、いずれにせよ、デモクラシーをブルジョア的概念として一律に廃却したとするわけにはいかない。「体制とは、現実具体的な人民自身の自由な生産物」であるとしているわけだから。

 

但し、ここでマルクスが求めていたのは、『ヘーゲル法哲学批判序説』にいう「政治的解放」ならぬ「人間的解放」である。『資本論』があってこそ、『ヘーゲル法哲学批判序説』やその他マルクスの「若書き」も着目されるわけだから(もし『資本論』を執筆していなければ、おそらくマルクスは歴史に残る思想家として遇されてはいなかっただろうが)、マルクスレーニン主義のように初期マルクスを無視するような立場はいただけない。

 

とはいえ、『資本論』は間違いだらけだし、現在の経済を適切に分析するための有効な概念装置を生み出せないので、それだけでは当然使い物にならない。金融資本が決定的な影響力を持つに至った現代の資本主義を分析するのに、せいぜい「擬制資本」が云々と抜かしてお茶を濁すだけで、点でお話にならない。数理化が進展した近代経済学の諸議論に応対可能な理論的成果を期待することなど到底できそうもない。何とか現代経済学に通用させようと、数理化・現代化に苦心するごく僅かしかいない優れたマルクス研究者の奮闘は多とするけれど、そうではない旧態依然の「マルクス経済学」を墨守するだけの大多数の議論は、既に死亡宣告が突きつけられている。

 

立脚する価値論こそ違えど、その論理構造自体において、新古典派と強い類似性を持つことの自覚すら持たず(マルクス経済学なるものは、古典派のリカードの亜流でしかないという見解も宜なるかなマルクスに経済理論を期待する方がどうかしているのであって、汲むべき主張は「マルクス経済学体系」ではなく、その政治経済学批判にこそ、力点がおかれるべきなのである)、所謂「新自由主義」(この「新自由主義」という言葉も、意味内容が論者によって融通無碍に使用されているので、現在の政治経済体制を捉える適切に捉える概念としてどこまで有効か怪しい)を批判するのに「マルクス経済学」を持ち出すのはボケているとしか言いようがない。

 

財政学に関しても、マルクス経済学の立場に立つ多くの論者の言説は、「財政破綻論」を吹聴する財務省のお先棒を担ぐことしかやっていないという滑稽さも際立つ。現に彼ら彼女らは、財務省を批判するというより、財務省の批判者を批判するという、朝日新聞に代表される主張に与する「反動」を演じている。金子勝らの主張を見ればわかろう。彼らはCOVID-19の影響による経済的打撃以前から消費増税によってGDPが大幅に低下したという事実を直視しようとすらしない。労働者や貧困層に寄り添うようなスタンスをとりながら、逆にそうした者たちを苦しめることにつながる政策を支持し、自らの政治的主張を優先させた「画に描いた餅」でしかない抽象的な理念を振りかざすばかりである。明日の生活にすら不安を抱える者にとって、おそらくこうしたイデオロギーを振りかざすだけの典型的左翼こそが身近に潜む「敵」であると考える者が多いことに気がつかないうちは、状況の改善を期待するなど到底できない。

 

マルクス経済学者が90年代後半からの日本経済のデフレ化の流れを率直に認めようもしなかったことも端的に表れているように、ほとんど頓珍漢なことしか言えていないのである。日本共産党系の雑誌『経済』を一瞥してもよい。その内容たるや、ボケ老人の戯言めいた駄文で溢れかえっている。かつて、ミルトン・フリードマン東京大学に招かれた時、歓迎したのはマルクス経済学に立脚する研究者が主だったことや、宇野弘蔵の論文を読んだ米国人が「こいつはニュー・クラシシズムの亜種の立場の者なのか」と質問したというエピソードすらあるくらい、実は彼ら彼女らが「新自由主義」として批判する対象に瓜二つということが理解できていないのである。

 

閑話休題カール・シュミットの思想は、「民主制の危機」や「議会制の危機」を背景に形成されてきた。19世紀西欧各国における国民国家形成の原動力の一つとなったリベラル・デモクラシーは、市民社会の成立とともに確立されていった法治国家体制の政治理論として機能したわけだが、市民社会の「自律性」を標榜し、国家権力による市民社会に対する干渉を極力排斥したリベラル・デモクラシーの政治理論への批判者としてシュミットが登場したことも、耳にタコができるほど聞かされている。Democracy in Crisisである。

 

1932年の『現代議会主義の精神史的位置』と1931年の『憲法の番人』に、シュミットのリベラル・デモクラシーに対する正面切っての批判が展開されている。シュミットに言わせれば、議会制はリベラリズムの産物であり、デモクラシーからの必然的帰結ではない。議会制の理解においてデモクラシーを持ち出す必要はないのであって、デモクラシーの本質を規定するものは「同一性」の観念、すなわち「治者と被治者の同一性(自同性)」である。議会の議員は国民から選出され、立法権限を受託されたものであり、議会を通じて行われる決定が国民自身の決定と等置される。技術的理由から国民の代表者としての議会におけるその受託者が決定権限を行使することを正当化する理屈は、たとえ唯一の者が国民の名において決定権限を行使することを正当化する理屈にもなりうることを示すことによって、たとえ反議会主義であろうとデモクラシーに矛盾するものではないということである。

すべての真実のデモクラシーは、等しいものが等しく取り扱われるばかりではなく、その必然的結果として、等しくないものは等しく取り扱われないことによって成立する。従って、デモクラシーには同質性が必要なのであり、やむをえない場合、異質的なものを排除し、絶滅することが必要なのである。

デモクラシーの原理とリベラリズムの原理は、究極において相対立する契機を内包すると考えるシュミットの思考と同様の思考を見せるのは、我が国の憲法学者清宮四郎である。対して、リベラリズムとデモクラシーとは調和すると考えるのが芦部信喜である。デモクラシーの本質に関する理解において、僕は清宮の見解に同意し、芦部のような折衷案を採らない。デモクラシーの持つ危険性について、芦部はさほど意識的でないような気もするわけで、こうした考えが内閣の解散権の性格をめぐる芦部の見解である責任本質説にも結び付いているようにも思われる(対して、権力作用の分立性を重視する佐藤幸司は、均衡本質説を主張する)。

 

はっきりしているのは、デモクラシーとリベラリズムが究極的には相矛盾する契機を内包すると考えるのか、必ずしもそう考えるわけではない立場であるかを問わず、権力分立原理はデモクラシーから帰結する原理ではなく、寧ろデモクラシーの暴走を抑制する原理として制度的に取り込まれているのが近代立憲主義であるあるという考えは共通している。

 

モンテスキューが国家権力の作用として立法権・執行権・司法権の三つを区別したことぐらいは小学生でも知っていることだが、このうちの立法権と執行権(ここでは行政権と考えてもいいことにしておく)の二つの権力作用の関係に基づいて政体を分類する議論が論じられることは極端に少ない。大統領型政治と内閣型政治の二分類である。もっとも、この分類は立法権と執行権の関係に基づく政体の分類であるので、大統領の存在があるからだとか内閣があるからだとかいう点だけで大統領型政治形態と内閣型政治形態になるというわけでは必ずしもない。立法権を有する国家機関は立法部すなわち議会であり、執行権については執行権を有する執行部として大統領と内閣がある。この執行部は通常は行政部と同義に用いられることが多く、行政部の長である大統領あるいは行政部である内閣に執行権が帰属すると考えられている。

 

アメリカ合衆国憲法第2条1項には、「行政権はアメリカ合衆国大統領に付与される」と規定されており、日本国憲法第65条で「行政権は内閣に属する」と規定されている。立法権と執行権の関係は、先ずは執行権の帰属が確定され、その次に執行権が帰属する機関と立法部との関係が問われることになるという構成をとっている(もっとも、執行権の帰属を明文において規定していない英国のような例外もあるが)。

 

執行権と立法権の関係は、基本的にはこの二つの権力作用が独立的であるか否かということ、すなわち権力分立の理論に基づいて議論される。権力分立論を徹底化させた形態が大統領制であり、権力分立が厳格でなく執行部と立法部が密接な融合関係にあるかもしくは執行部が立法部の信任に立脚している形態が内閣制であり、我が国の現行憲法は後者のそれも「議院内閣制」を採用している。米国では執行権は大統領に帰属し、議会(Congress)に対立する関係にあるから大統領型政治に分類され、英国の内閣は立法部の「執行委員会」であるから内閣型政治である。大統領と内閣をともに有するフランスでは、執行権は大臣会議議長(首相)に帰属し、首相は議会(Parlement)の信任に基づいてこれを行使するので内閣型政治と考えられる。つまり、名称として大統領あるいは内閣という存在があろうと、それとは直接に関わらず、権力分立論の援用によって大統領型政治か内閣型政治とに分類されるのであって、立法権と執行権が互いにどの程度独立的であるのかの程度に応じて大統領型政治か内閣型政治かはたまたその中間的な形態なのかに分かれる。

 

最近の日本の政局において、黒川弘務前東京高検検事長の定年延長問題や検察庁法改正案が採りあげられ、そこでは安倍内閣に対する権力分立原則の毀損との糾弾がなされていたが、どうやら批判のポイントを外したものでしかなかった。

 

当然のことながら、法務・検察は行政部門に属するわけだから、原則として内閣の統轄下に置かれている。検察庁法14条にある法務大臣検事総長に対する指揮権は、その端的な表れでもある。検察庁法改正が「司法権の侵害」などに該当するわけがないことくらい憲法学を学んだ者なら当たり前の常識である。もちろん、検察権力は行政部門に属するとはいえ、その特殊な性格上「準司法的作用」をも有する点が否めないので、一般の行政各部に対するのとは自ずと異なる慎重な取り扱いが求められることは確かである。とはいえ同時に、行政部門であることには変わりなく、しかも内閣の統轄から離れることにより間接的な民主的コントロールが確保されないことの方がよほど恐ろしいはずである。

 

したがって、批判するならば、権力分立原則に訴えるのでなく、内閣が個別の事案についてまで干渉しうるのではないかとの疑念をもたれかねないような人事政策を採るべきではないということであって、むしろ検察庁法14条に規定される法務大臣の指揮権発動すら検事総長に対して行使できるに過ぎないと規定する趣旨を前面に押し出す方が筋としてはよかっただろう。

 

Presidential Governmentの典型は米国であるが、これでも純粋な大統領型政治とまではいかない。執行権は前述の通り大統領に帰属し、大統領の任期は4年で間接選挙で国民により選出されることは常識である。この権限は強大であり、任期中は死亡するか弾劾されるかしない限り失職することはなく、国家元首であるとともに執行部の長である。フランスの大統領と首相とを一緒にしたようなポストであるから、むしろ「総統」という呼称が相応しいかもしれない。軍の統帥権を持ち、行政権を統轄し、高級官僚の任免権をも独占する。権力分立が徹底しているとは言いながら、司法長官の任命権をも有する。

 

フランクリン・ルーズベルトは、ニューディール政策について連邦最高裁での違憲判決を出させないために連邦最高裁の判事を入れ替えてしまったエピソードがよく知られている。大統領は、憲法と法律に規定する権力の行使にあたり、長官(Secretary)という一つの国家機関を介することになっているが、長官は立法部に対して責任を負わず大統領に対してのみ責任を負うことになっているので、大統領は自由に長官を任免できるといっても、議会に議席を有する者を任命することはできない。確かにCabinetという言葉が慣用的に使われてはいるが、これは大統領と各行政部門の長官との会合を意味するに過ぎず、執行権が帰属する本来の内閣(Cabinet)とは異なる。

 

こうした大統領型政治の根本的欠陥は、よく言われているように、立法部と執行部との間の過度な独立性に向けられる。両者の間の溝が調整不可能な程のデッド・ロックに陥った場合の対処をどう図るかという問題である。打開策として常設委員会(Standing Committee)が設けられているとはいえ、かえって非効率を招いてしまう。さらに議会に対する法律案の発議権が認められていないので、せいぜい教書の形で願い出るほかなくなる。立法部と執行部が徹底的な牽制関係にあるという建付けのため、執行部は立法部に対して責任を負わないばかりか、大統領は任期中においても国民に対してすら責任を負わないのである。行政各部を所掌する長官は大統領に対してのみ責任を負うので、ある意味で「究極の無責任体系」としての大統領型政治が出現する。