shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

批評と経済小説

「経済評論家」と名乗る割には経済学的知に疎い一方で、日本企業のスキャンダラスな側面を論じる舌鋒においては異様に鋭い嗅覚で以って的確な批判を展開する資質に恵まれるという極端なギャップを見せる佐高信は、経済小説ないしは企業小説と呼ばれるジャンルを頗る評価する。対照的に、純文学とされる小説に関しては、「“他人本位の屈折”を経たことのない作家たちのギルド的文壇文学だった」として貶めている。佐高のこの主張について、言わんとするところの一部は首肯できる点もあるが、この手の主張は、結果的には、小説というものが物語とは区別された近代特有の表象形態であることに意識的ではない「通俗小説」の過剰評価と、そうした「通俗小説」しか読まない多くの日本のダメなサラリーマンたちの無教養についての居直りを肯定する役割しか果たさない。

 

佐高のこうした態度は、例えば柄谷行人に対する否定的評価にも現れている。もちろん僕も、柄谷行人のある時期の批評、とりわけ「形式化の諸問題」とやらに憑りつかれて、位相幾何学数学基礎論についてロクに知りもせずに出鱈目な戯言を吹聴していた時期の批評について、これまでも散々批判してきたように全く評価できないが、初期の文芸批評や『トランス・クリティーク-カントとマルクス』(岩波書店)以後のものについては、相応の卓見も見られるわけで、これはこれで優れた仕事であることを見ないわけにはいかない。しかし、佐高の場合、柄谷の批評を読み込んで批判しているのか、極めて怪しい。現に、内容について詳細な批判を加えた箇所は一行も見られないのである。単に、自分に基礎的な教養がないというだけのことではないのか、と疑ってみたくもなる。哲学者久野収の薫陶を受けたと言うけれど、どうやら久野からは、哲学・思想のテクストの読み方に関してまでは教わっていなかったようだ。

 

ちなみに久野収は、まとまった哲学的著作こそ出していないが、その一方で、ジャーナリスティックな文章を発言集や対談を通じて大量に残している。ジャーナリスティックな活動で目立ってはいたが、本来は、中井正一三木清あるいは戸坂潤と同じく、京都学派左派の系譜に位置づけられる哲学者であり、林達夫と同様、古今東西の膨大な量の哲学書を読み込んでいた博覧強記の大教養人であった。鶴見俊輔との共著『現代日本の思想』(岩波書店)所収の論考「日本の超国家主義昭和維新の思想」は短い論考ながらも、昭和維新の運動の祖として、安田善次郎を刺殺した朝日平吾の遺書の分析から始めるなど冴が際立っており、久野が思想というものの扱い方をいかに了解していたかが伺われる資料にもなっている。

 

簡単にまとめると、佐高信は以下のような主張をする。企業に生きる人間を捉えずして現在の人間や社会の本質を捉えることなどできない。なのに、文学界での経済小説・企業小説の地位は不当に低く見られている。「私小説」中心の日本の文学界では経済音痴の批評家ばかりだから、経済小説や企業小説を正当に評価する声がない。それは、批評家や読書人の社会に対する視野が狭く、それゆえ個人的な殻に閉じこもってしまう傾向にあることに由来するというのである。

 

このような評価が、果たして妥当と言えるだろうか?我が国の文芸批評家の多くが「経済音痴」であることは確かだろうし、ジョージ・スタイナーのような広範な領域にある程度通じている文芸批評家ともなれば、なおのこと少ない。しかし、「経済音痴」でない「経済評論家」も同じく少なく、文芸批評家の場合とそう違わない。確かに、純文学に現れる人物の境遇が一面的な傾向にあることに関して、佐高の主張も理解できないわけではない。しかし、「私(わたくし)小説」であるからといって、「個人的な殻に閉じこもって」いるとは限らない。逆に、経済小説の中でも、「個人的な殻に閉じこもって」いるものもあるだろう。

 

「売れなければ純文学で、売れれば大衆小説なのか」という梶山季之の言葉を引用するけれど、経済小説ないし企業小説のジャンルが文学の世界において地位が低い理由は、批評家が「経済音痴」であることによるのではなく、単純にその作品の質が低いからである。むしろ、経済小説で登場する人物こそ、「個人的な殻」に閉じこもっているケースが多く、しかも紋切り型でしかない。佐高信が『経済小説の読み方』(社会評論社)で紹介している小説や、その他話題になっている経済小説ないし企業小説が、今後何十年何百年と読み継がれていくであろう普遍性と質を誇れる小説であるかを問うてみればわかろう。

 

小説の「素材」を企業社会における男性サラリーマンの姿に求めたからといって、それを読むことにより、我々が意識やイメージには容易に還元できない「物質」としての言葉そのものの「肌ざわり」を得られるわけでもないし、単なる情報の伝達とは異なる「小説」としての必然性を感じることもない。企業に勤務するサラリーマンの行動類型についての情報が触れられたとしても、それだけなら単に情報を提供したという範囲を出るものではなく、「小説」であることの必然性はない。手っ取り早くレポートを読めば済む話である。

 

「小説」は、経済を学ぶ道具でも、企業社会の内情を理解する媒体でもない。サラリーマンおやじを慰撫したいのか、話の途中で挿入される恋愛描写も陳腐な表現で描かれ、早い話が頻繁に放映される暇つぶしのための2時間もののサスペンスドラマの中のチャチな「濡れ場」シーンとさしたる違いのないチープな消費財でしかないものが多い。それが悪いとは言わない。西村京太郎のトラベルミステリーが量産され続けているように。しかし、西村京太郎の小説を珠玉のミステリーと捉える者はほとんどいないだろう。題材を企業社会に置けば、それで視野が開かれたと言えるのかが、そもそも怪しい。

 

佐高信は、高杉良と対談集まで出版しているし、『経済小説の読み方』などで高杉の作品を紹介しているだけでなく、『高杉良の世界-小説が描く会社ドラマ』(社会思想社)なる著作まで出している。残念ながら、本書は高杉良の人となりを紹介する本であっても、言葉で表現された芸術(作品)である「小説」に対する批評にはなりえていない。彼は、経済小説を称揚する際に盛んに、経済小説は純文学と違って社会に発生する事実(企業社会という特殊な経済現象の一つ)を丹念に取材した上で成立する「リアリティ」に富んだ小説になっているがゆえに、現在の社会と人間の本質を捉えることに成功しているということを強調する。そこで問われている「リアリティ」なるものの内実・程度・根拠については、この場で追及するのはよしとしよう。ところが、事実の調査に基づいた「リアリティ」に富んだことを強調しておきながら、誰もがさして努力せずとも了解している基本的事実すら弁えていないのが気にかかるわけである。

 

佐高は、高杉良との対談において、『ボヴァリー夫人』の著者がバルザックであると思い込んで語っている。一瞬、言い間違いなのだろうと思っていたが、どうやら本気でそう思っているようなのである。もちろん、『ボヴァリー夫人』の著者は、ギュスターヴ・フローベールである。読書人を自認するのだから当然読んでいるだろうし、言い間違いでない以外で著者を間違えるようなことはないはず。しかし、彼はバルザックバルザックと言って憚らない。のみならず、半ば一人歩きしているといえる”Madame Bovary, c'est moi.”とのフローベールの言葉を、まったく履き違えて捉えている。『ボヴァリー夫人』の著者すら、フローベールではなくバルザックと言っているぐらいだから、当然といえば当然なのかもしれないが、この程度の知識で純文学を批判する口実として主張する「私小説に偏りすぎている」との批判が、一体どの程度の認識に基づいてなされたものなのか、その底の浅さが露呈されていると言えるのではないだろうか。

 

フローベールのこの言葉は、この評論家がこれまた批判対象にしていた小林秀雄の「私小説論」においても触れられているのである。小林秀雄は、フローベールが「近代小説の祖」というべき立場にたち、一見私小説的とはいえない『ボヴァリー夫人』の著者たるフローベールの上記表現にあらわれた等式の意味を指摘していた。この問題意識は、雑誌「改造」の懸賞論文において二等となった小林秀雄「様々なる意匠」に対して、一等の座を射止めた「敗北の文学」を著し、後の日本共産党の「首領」というべき地位にまでなった宮本顕治も共有していた。佐高の宮本批判が的確なだけに、こうした小説や文芸批評方面に関する知識があまりに貧弱であることが、残念というほかない。不案内な領域にまで出しゃばってボロを出すものだから、真っ当な企業社会批判の正しさが霞んでしまうのである。

 

このことは、三島由紀夫の小説に対する批判にも現れている。城山三郎との対談で、三島の『絹と明察』について悪口雑言を尽くして罵倒している。『絹と明察』は、三島由紀夫の小説の中でも異例の作品で、一見したところ「社会派」(実のところ、この「社会派」とは何の意味か未だに不明なのだが)である『絹と明察』に対する城山三郎の否定的評価に乗っかる形で、佐高は、

タイトルからして焦点の定まらない『絹と明察』(新潮文庫)は、いま読み返しても安手な探偵小説、もしくは薄っぺらな事件小説といった印象しか受けないが・・・誰が主人公なのかも不明で、「眼高手低」ならぬ「眼低手高」のこの作品について・・・主人公とされる駒沢善次郎のモデルは近江絹糸の社長だった夏川だが、何の魅力も伝わってこないのである。

と言い、あとは例の如く醜聞めいたことを連ねて批判するという格好になっている。城山の三島に対する批判の要諦は「社会が描かれていない社会小説」との題名のままである。城山三郎のこの批判は確かに正鵠を射た批判の一つであり、三島の筆が上滑りしている感が否めず、明らかな失敗作であろう。とってつけたような「聖戦哲学研究所」のハイデガー哲学の説明も、「お勉強ノート」の書き抜きの域を出ない。この作品で三島が「社会」を描こうとしたのか、様々な媒体での三島の言を読んでも詳らかにはわからない。少なくとも、「日本的父性」と個人主義化していく社会との相克の問題を自らの問いとして抱え、これまでに三島が表現してこなかった題材を使用した作品であることは言える。もちろん、それがいわゆる「社会派」ないし「社会小説」であるか否かは、副次的な問題である。

 

佐高信は、この題名そのものが「焦点の定まらない」としているが、一体どうしたらよかったというのだろうか。まさか、『小説近江絹糸』にしろというのだろうか。この種の題名は、『小説日本銀行』や『小説日本興業銀行』の作者に任せておけばよかろう。さらに、誰が主人公かが不明だというけれど、小説に主人公が必要不可欠であるというのだろうか。ならば、アラン・ロブ・グリエ『去年マリエンバートで』の主人公って、一体誰をもってくればいいのだろうか。あるいは、グレッグ・イーガンディアスポラ』の主人公はどうなのか? 埴谷雄高の『死霊』の場合、一応三輪與志ということになるのだろうが、いわゆる主人公というに相応しい扱いがなされているとまでは言い難い。そもそも実体に対する「虚体」をめぐるおしゃべりなのだから、主人公もヘチマもあるまい。蓮實重彦が実験的に著した奇妙な小説『陥没地帯』は、どう評価すればよいのか?

 

対して、佐高信が評価する高杉良はどうだろう。例えば『呪縛 金融腐蝕列島Ⅱ』(角川文庫)を取り上げてみよう。この作品は、かつての第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)の総会屋に対する不正融資事件をモチーフに取り上げた小説である。闇社会で大きな力を持つ大物総会屋と蜜月関係を結び朝日中央銀行(ACB)の「首領」として君臨する代表取締役相談役の娘婿である同行企画部次長という中間管理職の男が主人公である。同行と闇社会の「呪縛」が、とある証券会社絡みの商法違反事件となって白日の下に晒される。同行が東京地検特捜部の家宅捜索を受け、取締役会の面々が商法違反の被疑事実を理由に次々と逮捕されていく。混乱する銀行の「膿」を出そうと娘婿を中心とする中間管理職有志が行内改革に乗り出し、様々な妨害(闇社会からの脅しなど)を受けつつも孤軍奮闘し、やがて周囲の若手行員をも巻き込んで闇社会との決別と銀行の再生を図るべく突っ走る。遂には、相談役を退きつつも機関決定で設けられた最高顧問という地位に就いていつまでも銀行にしがみついている義父との対決をも辞さず東京地検に売り飛ばすという筋立てである。

 

要するに、ある人物がヒロイックに活躍する組織の危機と再生・復活の物語というわけだ。合併したとはいえ、今だ旧行意識が根深いために慣行化されている「たすき掛け人事」の問題やら、大手都市銀行の熾烈な派閥争いやらドロドロした人間関係は、巨大組織に身を置いている者ならば、多少は身に覚えのあるエピソードがちりばめられていて、エンタテーメントとしてはそれなりに面白く読める小説であることは確かだろう。しかし、だからと言って、これが佐高が批判する「純文学」以上に「人間の本質」とやらを的確に捉え描いていることに成功しているかは怪しい。義父とその愛人との入浴シーンやら、他の性生活の描写にしても陳腐だ(いわゆる「経済小説」のそれは、概してこの点の描写が月並みで、サラリーマンおやじのための凡庸なエロ描写でしかない)。

 

ともかく、これによって当の不正融資事件の概要と大手都市銀行と闇社会との関係の一端を掻い摘んで理解することができるのかもしれないが、問題は、それが「小説」である必然性があるのかどうかという点である。単に調査した事実を元に、ある経済的諸事象を舞台として「男のロマン」とやらを称揚したいがために、安手の物語を展開してみせることが「小説」であるわけではない。何をテーマに、どこを舞台にするかは自由。しかし、この種の「小説」にありがちなヒロイックな物語をなぞるだけでは、「小説」として書かれることの意味は、なお不明である。物語だけ聞きたければ、そのあらすじだけなぞっておけばそれでよろしい。そこで「男のロマン」とやらを感じて涙を流すもよし、義憤にかられるのもよし。ただ、この「男のロマン」とやらが、駄目サラリーマンのチンケな欲望を慰撫するために予め捏造された安手のイデオロギーであるかもしれないことに意識が向いているかが問われる。

 

書かれた文字が描く物語の内部に、その物語そのものに還元しえないような思わぬ細部を露呈させ、ともすればそれが物語自身を自壊させてしまうかもしれない当の言葉自体の持つ緊張が文章において生きられていることに、「小説」を敢えて読む喜びがあるのではないだろうか。そこにこそ、近代という特殊な時代の特殊な表象形態である「小説」であることの試金石がある。「小説」という表現形式は、大昔から存在したわけではないし、果たして未来にも存続しうるのかも疑わしい、近代社会の中で一定の条件を充足した社会において成立しえた特殊な表象形態である。そのことに無自覚な「小説」であるとすれば、やれ企業社会における人間と社会の本質を浮き彫りにするなどともてはやされようと、その言葉は陳腐な掛け声にすぎなくなるだろう。ただ単に、作者の観念するイメージを流通させて駆動する物語を再生させ、その不自由さに無自覚なまま安手のイデオロギーの機能に加担しているだけでは出来の良い「小説」とはなり得ない。