shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

それをいっちゃあ、おしめえよ

先月末、京都市内に在住のALS患者に対する嘱託殺人の疑いで、医師2人が京都府警に逮捕された。筋萎縮性側索硬化症は、筋肉が萎縮し徐々に筋力が低下していく進行系神経変性疾患で、治療法は未だ確立されていない難病である。理論物理学スティーブン・ホーキングがこの病を患っていることで、意外と世に知られているのではないだろうか。

 

漕艇部でコックスを務めるなど、スポーツにも打ち込んでいたホーキングを襲ったのは、彼がケンブリッジ大学の院生時代だった。自由が利く左手の小指と薬指で(後には、眼球の動きなどを利用して)機械を操作して意思疎通を図る「車椅子の天才物理学者」として知られ、「人類最高峰の頭脳」とまで遇せられいた。数年前、残念ながらホーキングは亡くなったが、いつ亡くなるかという不安の中で、それでも70代半ばまで生き続け、その生涯において、ホーキング輻射の理論や、ロジャー・ペンローズとの共同研究で特異点定理を発表し、ジム・ハートルとの共同して無境界仮説に基づく宇宙論を打ち立てるなど、画期的な業績を上げた。

 

それはそれとして、この事件で亡くなった患者が具体的にどのような生活を送り、どういう苦しみを抱えていたかは想像するより他ないので、この女性が死という選択をしたことそれ自体に対して賛意を表したり、また逆に非難するといったことはする気もないし、またそうする資格を欠いている。ただひたすら、「ご冥福をお祈り申し上げます」としか言えない。

 

気になるのは、この事件を「優生思想」が現れた末での事件であるかのように議論されたり、中には、「新自由主義」と絡めて取り出されたりと、およそ「優生思想」の歴史的展開について多少勉強すれば出てこないような杜撰な話に流れて行きそうな点である。一口に「優生思想」といっても、僕のような全くの門外漢にとってさえ、その内容は存外複雑であることは承知している。例えば、フランシス・ゴルトンのような比較的単純な見解もあれば、中立進化説で知られる木村資生のような見解もある。集団遺伝学の発展に伴い、その知見が生態学に応用される形で提唱されたウイルソン社会生物学も、見ようによっては「優生思想」を背後に忍ばせた思想だと言えてしまうだろう。

 

英国で「優生思想協会」ができた頃に、熱烈にこの「優生思想」を支持していたのは、カール・ピアーソンのような(マルクスレーニン主義とは別の系統の)フェビアン協会社会主義を奉じる人々が多くいた。それにも関わらず、「新自由主義」と結びつけて論じようとする安直な議論も目立つ。そうした主張をする者は、おそらく優生学史に関する基本的知識がないままに、単純に「弱者切り捨て」というイメージだけに基づき、「優生思想」というフレーズを連呼しているのかもしれない。事実、この事件後に発せられた数多の論者の見解の中で、この事件と「優生思想」と結びつけて論じる論者は、進化論や優生学史についての知見に乏しい人が多く、逆に、この方面の知識に案内のある者は安易に「優生思想」という文言を用いていないように見受けられる。

 

もちろん、この事件の背景にある考え方が「優生思想」と一切無関係であるとまでは断言するつもりはない。しかし、かなりかけ離れたものであると考える専門家の方が圧倒的に多いのではないか。結局、銘々が勝手に抱いているイメージに基づいて批判しているのであって、「優生思想」の根深さというのは、ピアーソンのような比較的穏健な社会主義思想を抱く者にも、一見「人権」だの「平和」だの「平等」だのといった耳障りのいい標語を唱えているだけのリベラルな者にも、ナチズムやコミュニズムの信奉者にも、その片鱗が見られることである。からも明らかである(ナチズムばかりが喧伝されているが、コミュニストも似たような政策を採っていた)。ジョン・ロールズ『正義論』と「優生思想」を絡めて論じたアラン・ブキャナンのFrom Chance to Chois: Genetics and Justiceだってある。それゆえ、この件を「優生思想」に基づいた嘱託殺人だといって社会問題化したところで、かえって「優生思想」の根深さが隠蔽されてしまうように思われてならない。

 

今回の事件に関しては、少なくとも報道されている通り、この医師が特異な主張をしていて、その考えに基づいて事件を起こしたのが事実であるとするなら、これは「優生思想」云々というレベル以前の話でしかなく、単に頭がイカれた医師二人が起こした妄動であるにすぎないと考えておくべきではないか(相模原障害者施設殺傷事件にしても然り。ただ、あの事件に関しては思い出すたびに内臓が抉られるような思いがして、まだ冷静に見ることはできそうもない。生き残った重度の精神障害を持った負傷者が病室で看病する両親を呼び続けている姿を見た御両親が、改めて「無駄な命なんかじゃ絶対にない。この子が生まれてきてよかった」と心底思ったことを語った記事を目にして、思わず号泣してしまって以降、特に気持ちの落ち着かせる場所が見いだせないのである。この御両親にとって、この重度の精神障害者とされた子は、おそらく「天使」に違いないのだ。そう思うとき、ふと脳裏をよぎるのは良寛様であるのが不思議である)。

 

この事件直後に、れいわ新撰組選出の参議院議員舩後靖彦が、「インターネット上に『安楽死を法的に認めてほしい』というような反応が出ているが、人工呼吸器を付け、ALSという進行性難病とともに生きている立場から強い懸念を抱いている」と声明を出し、その中で「こうした考え方が難病患者や重度障害者に『生きたい』と言いにくくさせ、生きづらくさせる社会的圧力が形成していくことを危惧する」と述べた。ALS患者という当事者として、さらに国会でも精力的に活躍している議員として、至極まっとうな見解である(その中で「生きる権利」・「死ぬ権利」という表現があったが、後に触れるように、この表現に関しては違和感がある。舩後議員は、そういう言葉が流通してしまっている現状を踏まえ、敢えてこの言葉を使ったのだろうと思われるが)。

 

この発言に対して、日本維新の会幹事長で衆議院議員馬場伸幸が、「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している。非常に残念だ」だの「れいわの議員(舩後靖彦と脳性麻痺を患う木村英子両議員を指しているのだろう)は積極的に国会で議論する役目がある」だのと批判したという。個別の事件を離れて、一般に終末医療の在り方や個人の尊厳ある生き方、特に重度の障害や疾患を持つ人々の生き方などについて、それをサポートするための政策論上の議論が必要になってくる場面はあろう。但し、この問題は非常にデリケートな問題だから、慎重の上にも慎重を重ねた議論が必要で、個々の議員の判断を可能にするだけの十分な見識がない状態では、安易に手を付けるべきではない。アホな奴がアホな判断しかできないままで早急に結論を急ぐと、必ずアホな結論に至るからである。

 

しかし、馬場の発言は事態の前後の文脈からして、そういう類のものではない。ALS患者への嘱託殺人事件が起き、しかも、その容疑者が「優生思想」云々というレベル以前のイカれた考えに基づいて実行した事件直後に発せられたALS当事者の声明に対して、「議論を封じるようなコメント」と批判したのである。これが、特に当事者にとってどういう意味として理解されるかを想像できないのだろうか。今後こういうことも許容されるような法整備について国会でも議論すべきなのに、その議論を封印するのはおかしいとでも言いたいのだろうか。第一、人としてどうかしている思われるが、少なくとも国会議員の発言として論外中の論外である。はっきり言おう。完全にイカれている。

 

国家は、最低でも当該国家に帰属する全ての国民の生命を守ることを第一義とするところにraison d’êtreがある。国民の生命を何らかの事情によって半ば意図的に奪うような方向の「政策」についての議論は、少なくとも前国家的・前憲法的前提としての「個人の尊厳」を至上の価値として、それを守るための諸々の基本権体系とこれを担保する統治制度を具備した近代立憲主義国家としての政策論議の名に値しないのだ。「死ぬ権利」というが、「死ぬ」ことに権利も何もあったものではない。ついでに言うと、「生きる権利」というけれど、「生きる」こと自体に権利もヘチマもない。

 

生存権」とは「生きる権利」と同義ではなく、したがって憲法25条の「生存権」規定は「生きる権利」なるものを保障した規定ではない。権利とは、原則として「生きていること」を前提にして初めて成り立つものである。胎児などの権利を認める特別規定の存在ような例外はあるが、これは、民法上の権利能力取得を母体からの全部露出時という解釈があるからだし、刑法上の法益主体となるのは、直接身体が侵害される可能性が生じる一部露出時とする解釈があるからである。いずれにしても、これから「生きよう」としている生命体だ。生存権」は、現に生きている人の存在を前提として、その上で、原則としてその者が国民として包摂される権利主体ならば、国民として「健康で文化的な最低限度の生活」が保障される地位にあることを意味する。現に生きている存在が一定の法的保護に値する身分または地位を持つか否かという区分けに関わる次元で問われるものであって、ある人間の「生きる」・「生きない」を区分するものでも何でもない。そもそも、法ごときが「生きる」ことを権利化してその有無を決せられるわけないことぐらい誰でも多少考えればわかるだろう。馬場の発言は、国政のあり方を最終的に決定する力でもあり権威でもある国民からの付託にこたえるべき「全国民の代表」として全く相応しくない発言であって、この発言自体が議員辞職に値する妄言なのである。

 

さすがに日本維新の会代表の松井一郎は、この馬場のイカれた発言に対して問題であると批判し、自分は舩後の立場と同じくすると火消に回ったが、この妄言に対して日本維新の会としてどうけじめをつけるのか注視していく必要があろう。思い返せば、日本維新の会は、舩後靖彦、木村英子両議員が国会で議員活動を全うするための介護者の負担をどうするかについて、「議員特権」が云々と寝ぼけたことを言っていたはず。国会議員にALS患者や脳性麻痺患者が就くことを想定してはいなかったことまでは理解できなくもないが、現実に参議院議員に選出されたのだから、両人が「全国民の代表」として国会での議員活動を全うできるだけの可能な限りの整備を行うために国会で予算措置をとれば済む話であり、こうした予算措置を講じたからといって直ちに「議員特権」となるわけでもない。こういう意味不明な与太事を吐いていたのも、日本維新の会の党員であった。

 

かつて、元キー局のアナウンサーだった者が「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担させよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」との表題をつけたブログ記事を載せたことがあった。こういう表題を掲げるような者が国会議員になろうものなら、それこそ「日本を亡ぼすだけだ!!」なのだが、幸いなことに落選した。問題は、このブログ記事が書かれた翌年の衆議院議員総選挙において、日本維新の会はこの者を公認候補として擁立していたということである。しかも、二年後の参議院議員選挙において、一旦は比例区の公認候補者ともなっていたところを見ても、党としてさほど問題視していなかったことが伺える。その後、被差別部落に対するあからさまな差別発言が問題視されて公認辞退に至ったようだが、度重なる暴言を吐いてきた人物をなぜこの政党は容認し続けたのか。この点にも説明責任があるのに、その責任を公党として果たしているとは言い難い。

 

ちなみに、日本近世史・中世史研究におけるこの方面の研究はかなりの蓄積があるから、そのすべてとはもちろん言わないが、ある程度の知識を踏まえて述べないとテンで話にならないわけだ。歴史学の専門研究書は素人で読みこなすのも大変だろうから、かなり独自色が強い面もあろうが、網野善彦の書いた一般向けの書物としても読めるだろう『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和』(平凡社)とか『異形の王権』(平凡社)といった名著があるので、そこから始めてもよい。網野は政治思想的には左翼で僕とは真逆の人物だけど、それでもなお、これらの書は紛れもなく名著であり何より抜群に面白い(面白いことに、網野の中世史研究に影響を与えたのは、これまた真逆の思想の持主である平泉澄なのである)。何と、日本史とは豊かなものであることか、と改めて気づかされもする。併せて、折口信夫柳田國男の被差別民の研究を読むのもいいだろう。日本にもこうした偉大な学者がいたということ、そして彼らの虐げられた人々に対する眼差し、それも単に憐みの対象としての眼差しではなく、そこで逞しく生き続けてきた人々に対する信を置いた眼差しすらも感じることができるかもしれない。

 

それはともかく、日本維新の会の議員全てとは言わないけれど、どうもこの種のトンデモ発言をする者が関係者の中で目立つように思われるのは気のせいだろうか。急成長してきた政党にありがちなことだが、議員としての資質に難ありとおぼしき人物が一定の地位に収まると、党全体の体質がそうなのではないかと疑われてしまうだろう。この面子を見て、「ヤバい!」と感じてしまう人物があまりに多いのだ。候補者選定は慎重の上で念入りに行われないことには、更にとんでもないのが瞬く間に出現するかもしれない。

 

世界的に見て特に政治家の質が劣化している状況の中で、日本の国会議員のそれの劣化が著しくなった要因がなにかははっきりしないが、少なくとも衆議院において中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に改められたことも関係しているのではないか。確かに中選挙区制の下では政権交代が起きにくいとされているが、政権交代自体が必ずしも良い結果をもたらすとは限らないわけで、現に旧民主党政権を経験した国民は、あの時代の悪夢をトラウマとして持っている。そのため、いくら安倍晋三内閣がデタラメなことをし続けようと、政権を野党に託そうとする声には結びつかない。つまり、旧民主党政権の悪夢が安倍晋三のデタラメを温存させているわけだ。政権交代によるよき政治への転換という夢物語を抱くよりも、自民党内の相互牽制の力学が機能していた派閥均衡型政治による安定した運営の方がよほど危険度は小さくて済むのだから、まずは中選挙区制復活を図るべきだろう。