shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

慕情-追憶の香港

1955年に封切られた米国映画『慕情』は、第二次世界大戦後から朝鮮戦争の時期の英領香港を舞台に、ジェニファー・ジョーンズが演じる英中混血の女医と、ウィリアム・ホールデンが演じる米国人香港特派員との間の悲恋を描いた、映画史に残る作品として知られている。原作の自伝的小説『慕情(Love is a Many-Sprendored Thing)』の著者ハン・ス―インは実際、英中混血ではなく白中混血らしいが、それはともかく彼女は、国民党軍将校の夫を共産党に殺された未亡人。

 

映画では、シンガポールにいる妻と別居中の新聞記者マーク・エリオットとハン・スーインとの恋が中心に描かれるわけだが、悲恋に終わることになるこの関係が描かれる背景となる舞台は、第二次世界大戦後の国共内戦によって大陸の支配を固めつつあった中共の支配から逃れようと、大量の人間が流入してきた混乱期の香港である。

 

ハン・スーインがあるパーティでマーク・エリオットに出会った時期は、1949年3月。毛沢東中華人民共和国建国宣言を北京の天安門楼上において読み上げるのが10月1日なので、大陸における中共の勝利が決定的となっていた時期にあたる。マーク・エリオットは朝鮮戦争従軍記者として1950年8月に死亡するので、二人の交際期間はわずか1年半ほどの短いものであった。

 

ハン・スーインは勤務先の同僚たちから、「祖国に帰って新たな国家建設に寄与しないのか」という問いに対して、「共産革命が人民に幸福をもたらすものであるとするならば、香港に共産党の支配を逃れてくる大量の流入者の存在を説明できない」との言葉を返し、当時蔓延していた共産主義に対する幻想に騙されず、香港に残る道を選択する。

 

実際、プロパガンダに長けた中共は、あの手この手と策を弄して農民を騙すことに成功して支配地域を拡大していく中、掌返して暴力的な弾圧を開始し、異論を挟む者を粛清し始めていた。こうしたことは概ね、世界中の共産党に見られる現象であるが、ロシアのボルシェビキによる革命政府が元からそうした体質であった点からして、何ら驚くにあたらないだろう。

 

ちなみに日本共産党は、「ソ連社会主義は本来の社会主義共産主義の理念と無縁であり、あのような強圧的支配権力はスターリンにこそ起因する」と強弁し、「レーニン自身は間違っていなかった」と言わんばかりの奇妙な見解を採っている。その証拠に、ソ連・東欧の社会主義圏崩壊時の「しんぶん赤旗」のバックナンバーを閲覧してみるといいだろう。そこには、「スターリン以後のソ連社会主義社会主義とは名ばかりの社会帝国主義に変質したのであり、それよりも前のレーニンはいち早く民族自決の理念を尊重したし、第一次世界大戦終結を主張していた素晴らしい革命家であった」というような主張が見られるし、『経済』や『前衛』といった機関誌では、盛んにレーニンを讃える論考があまた掲載されていた。こうしたレーニン評価については、今も日本共産党は見解を変えていないはずである。

 

実際のところ、ボルシェビキの暴政は、スターリンより前のレーニンの頃から見られたことである。ボルシェビキの意向に沿わない者には「反革命」のレッテルを貼り、秘密警察を組織して強権的に粛清していったのは、紛れもなくレーニントロツキーであった。ボルシェビキや以後の共産党政府によって、どれほど残忍な行為が行われてきたか。残虐非道な行為につき、スターリン一人にその責めを帰すことなど到底できない相談である。レーニントロツキーも、その残忍さにおいて、スターリンやベリヤと変わるところはなかった。毛沢東も、毛沢東主義を実践しようとしたクメール・ルージュポル・ポトも然り。世界中に散らばった毛沢東主義を掲げた共産ゲリラの無差別テロを見よ。南米ペルーのセンデロ・ルミノソなどその典型例だろう。中共は支配地域で権力を握るや、党の独裁権力を維持する為に、反対者や共産党が犯してきた暗黒な面を知る者たちの粛清に乗り出した。

 

世界中のほとんど全ての共産党共産主義者は、一見耳触りのよい言葉で人を魅惑する。特に、お調子者の「知識人」は間抜けなことに、そうした誘惑に乗せられやすかった。要するに、中途半端な「知識人」だったというわけである。そして例外なく、共産党共産主義者は、遂には隠していた牙を剥き出しにして、異論を挟む者を容赦なく弾圧していくという手法で人々を恐怖に陥れた。激動の渦中に身を置く者が、世の中がどこへ向かおうとしているのかを判断することは難しい。しかし、あらゆる革命が、その元となった事情よりも更に悲惨な結果をもたらすことを知っていた真の知識人も、少ないながらも存在した。

 

マルクスは、共産主義こそが労働者にとって平和・平等・豊かさを保証する理想的な社会を実現すると思い、資本主義が駆動するメカニズムとその内部矛盾を剔抉し、資本主義の非永続性と崩壊プロセスにおける革命の必然性を示唆したが、理論的にも欠陥だらけの主張であるだけでなく、現実は共産党幹部による恐怖支配という最悪の結果をもたらした。「本来の共産主義は、そうではない」と苦し紛れの弁明をする共産主義者が絶えないが、上手くいった事例を一例も挙げられない。ことごとく失敗しているのである。マルクス自身は共産主義社会の具体像を述べないまま亡くなったことも、その弁明がはびこっている理由にもなっているのかもしれないが(強いて言えば、プロレタリアート独裁について触れている『ゴータ綱領批判』くらいか)。

 

まともなオツムの持ち主ならば、考え方そのものに致命的な欠陥があるのではないかと疑うものだが、カルト信者と同様、共産主義者はそれを直視できない。むしろ、意固地なまでに独善的正義を振りかざす。世俗を超越するものの価値の理念を一切持たないがゆえに、逆に「究極的価値」の所在を共産主義の理念に求め、しかも、その解釈権を前衛党の幹部が独占する。それゆえ、逸脱する者は「反革命」として「悪」の烙印をおされて抹殺される。共産主義者による虐殺が比較を絶して残忍であり、かつ大量であったことが端的に物語っている。共産主義者同士の「内ゲバ」も、そういう性格を如実に反映していた。日本共産党新左翼との憎悪を剥き出しにした対立もそうだし、新左翼内でも中核派革マル派との「内ゲバ」殺人も然り。

 

こういう連中が権力を握れば、どういう悲惨な社会が到来するか、火を見るより明らかだろう。権力と権威の争奪戦に明け暮れる連中の実態は、これまたおぞましく、他人に対しては「清貧」を説く癖に、自分だけは豪奢な生活を、しかも党費や組合費をネコババすることによって謳歌するというものだ。日本共産党の元議長である不破哲三は、神奈川県にある約1000坪の大豪邸に住み、家政婦やお抱え運転手付きの生活を送っている。その共産党で長年独裁体制を敷いてきた宮本顕治も、宮本百合子と死別して早々に後妻を迎え、聖蹟桜ヶ丘に豪邸を構えていた。革マル派幹部で長年ある労働組合に君臨していた男もハワイにコンドミニアムを所有するなど、我が身かわいさを地で行く人物だった。共産主義者など、一皮剥けばこんなものである。

 

英領香港は、1997年7月1日に中華人民共和国に「返還」された。アヘン戦争講和条約である1842年締結の南京条約に「中國将廣東省寶安縣的一個沿岸小島香港、割與英國」との規定が入り、香港島が英国に割譲され、さらに、第二次アヘン戦争講和条約である1860年締結の北京条約によって、香港島対岸の九龍半島南端も割譲された。1898年には、九龍半島の深河以南地域と大嶼山などを含む后海湾と大鵬湾の両海域に関わる租借権を英国が獲得し、この英国管轄下に置かれた地域が「新界」と呼ばれる地域である。

 

1997年において予定されていた返還に関して、英国の考えは当初、あくまで租借期限満了を迎える新界のみを対象とし、香港島と対岸の九龍地区南側を割譲する意図はなかった。しかし、マーガレット・サッチャーと鄧小平との交渉によって(水源のストップや人民解放軍の侵攻をもちらつかせるといった、ほとんど恫喝に近いものだったという)、結局サッチャーは鄧小平に押し切られる形で「香港」全域を「返還」することになり、英国は東アジアからの完全撤退を余儀なくさせられた。香港島及び九龍半島南端部分と租借地である新界が都市機能の面で不可分一体になっており、「香港」と言えば租借地も含めた領域のことを指すという認識が広まっており、新界と切り離してしまっては香港島及び九龍半島南端だけで自立することは不可能であった点に加え、衰退途上の英国には中共からの要求を撥ねつけるだけの力はなかったからである。

 

1982年から始まった英中交渉は、1984年12月に英中共同声明となって結実した。南京条約が結果的に反故にされる形に終わったことで、英国の統治権保持も叶わぬ夢となった。かろうじて「一国二制度」が確約されたといっても、香港住民の不安は拭い切れず脱出する者が相次いだ。この「一国二制度」とは、香港を「特別行政区」と位置づけ、この「特別行政区」では社会主義の制度と政策を実施せず、従来の資本主義制度と生活様式を保持し、これを50年間変えないとするものである。これは、「英中共同声明」に基づいて1990年4月に制定された「中華人民共和国香港特別行政区基本法」の大原則でもあった。その内容は、一見自由主義的諸制度を保障するように見えるが、そこには周到な罠が仕掛けられていた。さすが鄧小平の狡猾である。この基本法の第158条には、「本法の解釈権は、制定者たる全国人民代表大会常務委員会に帰属する」とある。更に第23条には、「反逆・国家分裂・反乱扇動・中央人民政府転覆・国家機密窃盗のいかなる行為をも禁止する」と規定されてある。そこで、香港の共産化を恐れ、毎年数万人規模での市民の脱出が続き、英国国民海外旅券(BNO)取得に大量の市民が殺到した。

 

国際政治の力学に翻弄されてきた香港の特殊な性格を、ハン・スーインはBorrowed place, Borrowed timeと呼んだ。英中いずれでもない漂流する根無し草のような都市としての香港。この漂流する根無し草ゆえの性格からくる独特な「魅力」を持った香港は、約束された「一国二制度」すら反故にされ、中共の暴政に覆い尽くされようとしている。既に、中共に手なずけられた香港の政界や財界が北京の軍門に下り(ショッキングだったのは、香港上海銀行HSBC)までもが目先の利益目的で中共側についたことである)、自由と民主の価値の重要性を主張する香港市民は、「香港国家安全維持法」に基づいて次々に拘束されている。

 

これまで、自由世界の住民も、中華人民共和国の飛躍的経済発展のおこぼれにあずかろうと、中共の覇権拡大による世界の不安定化の流れに抗しようとはしなかった。米国もエンゲージメント戦略によって、中共のソフトな形での民主化が将来的には期待できるとの過度な楽観に基づいて対中政策を講じてきた。その間、中共は表向き牙を隠しつつ虎視眈々と覇権拡張の機会を見計らっていた。これも鄧小平の長期計画の成果である。

 

それに比べると、習近平の頭の悪さが際立つ。習近平指導部の露骨な体制ゴリ押しは、当然に香港の経済発展の基礎となってきた「国際金融センター」としての役割を低下させる。なぜ香港が「国際金融センター」としての地位を築けたのか。金融市場に対する規制が少なく、しかも為替管理が課されておらず、資金移動の制約がない。のみならず、香港ドルが米ドルにペッグされているから、為替リスクが少ないというメリットが香港の相対的優位をもたらしてきた。この特殊な性格によってもたらされてきた恩恵を犠牲にしても、なおゴリ押しを断行する理由はどこにあるのか。

 

精神的自由と経済的自由とは、本来密接不可分である。経済的自由をおざなりにして精神的自由を言祝ぐばかりなら、いずれ精神的自由さえ確保されなくなる。逆も然り。共産主義がその典型だ。共産主義社会には、精神的自由も経済的自由もない。米国の優れた外交官ジョージ・ケナンの対ソ封じ込めに倣って、対中封じ込めと行きたいところだが、アフリカ諸国を始め、中共に借金漬けでどうにもこうにも抵抗できない国が多くなっているので、対ソ封じ込めのように上手く行くとは限らない。

 

つくづく、我が国の戦前・戦後にわたる対中政策の失敗が悔やまれてならない。1つは、支那事変の早期収拾に失敗して事態を泥沼化させてしまった結果、大陸の共産化に貢献してしまったこと。中には、コミンテルン中共のゲリラ活動によって撹乱されたことを理由に弁明する向きもあるが、たとえそれが事実であるとしても、最悪の事態を予見せずして大陸奥地にまで首を突っ込んでしまったのだから、これは言い訳にしかならないだろう。もう1つは、第二次天安門事件以後に孤立化した中共の国際社会復帰に日本が手を貸してしまったことだ。

 

既に遅きに失する事態となってはいるものの、これ以上の中共の覇権拡張を許しては、いずれ我が国も「中華勢力圏」に呑み込まれてしまい、不十分ながらも比較的に自由な社会である今の社会すら維持できなくなってしまう。尖閣諸島の実効支配の切り崩しにかかる中共は、更に要求をエスカレートしていき、沖縄県全体をも日本の領土ですらないと言い始めてきた。共産党系の機関紙『環球時報』では、そういう記事が目立ち始めた。これが北京政府の見解となるのも時間の問題だろう。沖縄県と北海道を取りに着々と戦略を練っている。現段階ではほとんど支持者のいない「琉球独立派」をけしかけてくるかもしれない。そういう状況なのに、東京の政治家は沖縄の分断を加速させるような不神経な言動を繰り返している。

 

冷戦終結によって、共産主義に対する一応の勝利を見たと思えたのも束の間、細々と残っていた共産主義のこぼれ火が再び燃え盛らないよう、国内外の共産主義者から自由と独立を守るための自由社会の反共団結が切実に求められている。