shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

安倍政権の功罪-内政・教育行政編

 安倍政権の内政面の功罪について考えると、どうしても功よりも罪の方が大きいと言わざるを得ない。いや、功の側面を見つけようとしても見出すことが難しい。その意味で、外交面とは逆の評価で完全に落第点がつくだろう。その最大の問題は、デフレ脱却の方向を決定づけることができなったことだが、それは経済政策編で簡単に触れたので、ここではそれ以外の内政面の失策、とりわけ行政機構との関係や教育行政に注目したい。

 

 それは、橋本龍太郎政権下での「行政改革」ほどの大規模かつ破壊的なものではなかったとはいえ、その方向性を加速したと言える「構造改革」路線の追求に関わる。先帝御譲位にまつわる不敬な言動、大嘗祭に関わる伝統破壊、行政機構の改悪、教育行政の改悪、自主憲法制定の不実行などなど語り尽くせぬほどの暴挙をやってのけた政権であり、明らかに、保守とは名ばかりの左翼政権と見紛うばかりの実態であった。

 

 新帝践祚前に御名御璽なく行われた元号前倒し発表は、時が天皇の御代であることを象徴的に表す元号の意義を蔑ろにする許しがたい蛮行であった。また新元号の典拠に関しても、古来の慣例に沿って四書五経などの漢籍に求めることをせず独自色を出そうとしたことも非難に値する。古来、皇太后という名称があるにも関わらず、上皇后皇嗣殿下といった造語を作ったことも罪深い。何より、大嘗祭のための大嘗宮設営に際して、伝統的な茅葺き屋根をやめて板葺き屋根に改め、さらに一部をプレハブ方式にしたことは、思い返す度に腸煮えくり返る思いがする。これはひとえに、たとえ我が身を捧げてさえも上御一人をお守りするとの宰相のあるべき姿勢に対する志が欠如しているために起こった。皇尊への崇敬と伝統についての心構えに欠ける愚行は、未来永劫語り継がれることになろう。

 

 橋本龍太郎政権時に断行された「行政改革」という名の改悪事例をなぞるように、安倍政権下での内閣人事局設置による官僚統制は、もちろん十全に機能すれば内閣による行政各部に対する民主的統制の確保として評価されるはずであるが(官僚機構が内閣の統制に服さず、民主的コントロールなくして各省庁が独自に暴走してしまう危険は、内閣が陸軍省海軍省などに対して統制がかけられなかった戦前日本の統治機構の欠陥を思い返せば理解されよう)、実際は内閣総理大臣やその周囲の者の個別の利害を忖度する官僚を量産し、ただでさえ大した力を持たなかった官僚をさらに弱体化させてしまったことは、長い目から見ると日本国の将来に禍根を残すことになろう。

 

 挙げ句の果てが、財務省理財局による公文書改竄問題である。官僚が不都合な公文書を見せまいとして隠蔽に走ることはこれまでもあったが、公文書の改竄となると前代未聞の不祥事である。この件に関して、改竄を指示された近畿財務局勤務の担当者が自責の念にかられて自ら命を断つ痛ましい事件まであった。本来ならば、少なくとも財務大臣が更迭されても仕方のない事案であるにも関わらず、誰もろくな責任を負わずやり過ごされたことは、我が国の公文書管理の在り方と公文書に対する国民の信頼を毀損する由々しき事態である。もちろん、安倍首相が改竄を指示したとまでは到底考えにくいわけだが、内閣総理大臣として何らかの責めを負うべき事案であることに変わりない。

 

 その他にも、加計学園獣医学部創設に絡む問題も不可解な点が多かった。競合していた京都産業大学の申請書類に比べて加計学園が提出した申請書類の分量を見せられた時は衝撃であった。申請書類の分量の多さが直ちにその質を保証するものではないにせよ、あまりの差にその質すら疑われても仕方のないほどの分量だっただけに、この事案が政治イシューではないかと勘繰りたくなる象徴的な絵図だったことは確かだ。推測の域を出ないが、おそらく安倍首相が直接加計学園を選ぶように指示したことはないのだろう。ただ、安倍首相と加計理事長との懇意な仲は官邸の官僚ならば承知していたことであり、元々「忖度」に長けた官僚のことだから、黙示的に事が安倍首相の覚えめでたい方向に進められたのではないか。

 

 もっとも、こうした忖度は、官邸のみならず会社や学校など組織につきものである。なぜ、単なる新聞記者でしかなかった渡邊恒雄が正力家を差し置いて読売新聞グループの首領として長年君臨し続けられたのか。読売新聞グループ本社会長の地位こそ譲ったが、こだわりの「主筆」の地位だけは記者上がりとしての矜持のためか最後まで手離さずにいる90代の老人が、今もなお読売新聞グループ内の最高実力者であり続けているのは、周りの「忖度」あってこそである。蓮實重彦東京大学教養学部長から副学長に就いている時期に断行された駒場寮廃寮騒動における反対派学生に対する強権的な鎮圧行為に対して、普段は左翼的な言動をして息巻いていた駒場の教員はだんまりを決め込むか、率先して学生の鎮圧にあたっていた教員も、ボスである蓮實に「忖度」していたのだろう。

 

 安倍政権になって一段とその流れが加速されたとはいっても、元々官僚とは「忖度」するものであり、政治家の圧力に屈せずひたすら国益のために全身全霊を捧げた官僚という描像は所詮虚像でしかないような気もする。中にはそういう官僚もいたのかも知れないが、大抵は多かれ少なかれ「忖度官僚」だったのではあるまいか。これは日本の官僚機構にのみ見られることではない。城山三郎官僚たちの夏』を真に受けてはいけないのだ。評論家の佐高信がことあるごとに持ち上げる元通産事務次官の佐橋滋は、『官僚たちの夏』のモデルの一人で、佐高は師である(もっとも、制度上の師弟関係ではない)久野収と佐橋滋の対談まで企画したほど入れあげようだったが、果たして佐橋滋がそれほど誉めそやかされるほどの人物であるかは大いに疑問だ。例えば、本田宗一郎から言わせれば、ろくでもない官僚だったという評価になりそうである。

 

 教育行政に関する改悪も酷い有り様だった。大学入試における英語の試験のあり方をめぐる騒動は、萩生田光一文部科学大臣による「身の丈」発言もあり、大きく取り上げられたが、可能な限り公平性の確保を旨としなければならない文科相自身がフェアであることを放棄した暴言であった。共通試験における民間テスト導入の件に関しても、受験の公平性や公正性の確保を犠牲にして、特定の民間業者に利益誘導しようとする一種のレントシーキング活動であることは明白だった。民間業者によるテストを導入したとしても、英語の力は伸びるどころか逆にますます衰えてしまうことだろう。下村博文といい萩生田光一といい、安倍首相に近い関係にある文科相経験者は、残念のことに我が国の文部科学行政によからぬ影響を与えた「教育破壊者」というより他なかった。

 

 確かに、これまでの英語教育の有り様は、長く学校教育で英語の授業が行われているにも関わらず、ろくに英語が使えない者を大量に産み出したことから、とりあえず失敗だったと思われるが、この失敗が、英語の民間テスト導入や公教育での英語学習の早期化またはオーラル・コミュニケーションの重視などによって改善するわけはない。日本の英語教育は読み書き能力の向上に偏向しているので、読み書きの能力に長けている者が多いが、話す聞くの能力が不足していると一般に思われている。しかし、それは俗説でしかなく、実際は読み書きの能力に長けていることはない。読み書きの能力も不足しているのが実態ではあるまいか。

 

 そもそも、コンポジションの能力があるのに話せないということがあるのだろうか。コンポジションの能力が怪しいからこそ、話す能力も怪しいと考えるのが自然である。日本人の英語能力は概して低く、これは大学の教師や大企業のサラリーマンそして官僚に至るまで等しく当てはまる。国際的な学会でもいいし、経済人が集まる国際カンファレンスでもいいが、日本人のプレゼンテーションの際の発表と質疑応答の場面では、思わずこちらまで赤面してしまうような酷い英語が披露されているし、日本人研究者がFacebookなどのSNS上で時折英語で綴った短文ですら、間違いや表現のぎこちなさが目立つ。ご本人は受験英語で鍛えた自信があるのかもしれないから、きっと正しいと思い込んでいるのだろうが、英語に慣れた者からすると、失笑モノという表現が相当ある。いわば「受験英語」丸出しと一目でわかる表現で、この感覚は普段から英語に浸っていないとわからない感覚だろう。

 

 外国語教育もさることながら、国語教育も改悪されようとしている。その一例が、「論理国語」なる珍妙な授業の導入である。そもそも、この「論理国語」という表現そのものが売国的な表現であり、まるで我が国語が非論理的な言語であるかのような含意を持つ。これも、左翼教育の成れの果てなのかもしれない。しかし、ある一定の領域において持続的に用いられている言語体系で論理的でない言語が存在するのだろうか。もちろん、人工言語のような論理的に精緻化された体系ではない。だからといって「非論理的」であるということはない。言語を理解するということは、当の言語が使用されている一定の文化的・社会的背景を前提にしたコンテクストにおいて理解することであって、それは時には一見非言語的とも言える行為とも合わさった全体的な相互活動の反復から血肉化していく。

 

 言語は単なるビジネス・コミュニケーションのためのスキルではなく、その人の人格を形成する核心部分にまで深く刻み込まれる実存に関わるものである。「言語の海」に浸りきって実存している我々人間の本質を何ら理解していなからこそ、平気で「論理国語」なるアホの極みのような表現が出てくる。国語の崩壊は、日本人の実存・生き方そのものの崩壊につながるといっても過言ではない。なぜ、チベット人チベット語ではなく北京語による教育の強制を行う中共に対して焼身自殺してまで抗議の声をあげるのか。それは、チベット語チベット人の人格の核心をなすものであるからだ。

 

 契約書やら公文書の読み書き能力なんぞ、職業に従事して一週間もあれば自ずと身につく程度の薄っぺらいものでしかない。国語の表現の豊かさやその国語による思考の機微を捉えるのに、いくら契約書や公文書の読み書き能力を身につけても、ロクな総合的な判断能力は身につかない。何より、当人の生を豊かなものにはしないだろう。国語はしかも現代文だけに限らず、古文も漢文も全て国語を形成している。小林秀雄「実朝」の末尾にある「わが国語の美しい持続」と「巨大な伝統の美しさ」にただ只管に平伏す態度なくして、我が国の国語教育などあり得ない相談なのである。

 

 国立大学法人の改革といえば聞こえはいいが、「改革」と名のつくものがことごとく失敗している通り、おそらくロクなものにならないことが予想できる。だから先ずは、「余計なことはするな!」の一語が投げかけられるだろう。かつてG型大学とL型大学への区分けが提案されたことがあったが、安倍政権下での大学「改革」はこのラインと類似した構想の下に提案されたものかもしれない。様々な小賢しい細工によって機能不全に陥っている大学の根本問題は放置されたままで、より事態を悪化させるだけのことしかしていない。「教育再生実行会議」が提案した国立大学における人文社会系学部の廃止・転換で解決する問題ではないのである。

 

 大学の運営費交付金が削減され、教員の非正規雇用が拡大し、基礎科学研究に費やされる予算が削減され、目先の応用研究ばかりが注目される。こうした事態に陥った大学に魅力はない。優秀な学生ほど大学院進学を回避し、売れ残った者がモラトリアムとして大学院に進学するから、全体のレベル低下は免れない。そういう惨憺たる状況だから、実力のない「高学歴ワーキング・プア」や「ホームレス博士」があぶれ出す。

 

 一方、大学全盛期に就職にありつけた高齢の研究者はロクに研究せず何一つ業績らしいものを残せないのに悠々自適の生活を謳歌している。研究はそっちのけで、政治活動にかまける左翼教員が大学の組織に寄生しながら無責任な戯言を吐き続けている。こういう体たらくなものだから、人文社会系学問に対する疑念が増幅され、この点を突かれて「人文系学問不要論」が俄かに主張されるようになるのだ。要は、自分たちで自分たちの首を絞めているわけである。こういう歪な構造は、我が国の科学技術や学問研究を間違いなく破壊することになるだろう。

 

 大学は企業の論理とは別の論理で動くという誰もが理解していた常識まで否定され、大学が企業なかでも多国籍企業の利益に資する機関に包摂されていく。これも「偏差値教育」の究極形なのかもしれない。破壊すべきは、大学受験システムとこれに奉仕する「偏差値教育」であって、教育そのものではないのだ。期待しても仕方がないが、萩生田文科相が残された時間で着手すべきは、大学受験の廃止である。試みに、思い切って東大入試や京大入試などを撤廃してみたらどうだろうか。「偏差値」が唯一の物差しとされ、その「偏差値」による輪切りにされた受験ヒエラルキーが、目先の経済的利害に基づく制度改変へと至りつくのは、ほとんど自明の理と言える。だから、目先の経済的利害に基づいて教育改悪を批判する者が、「偏差値教育」に基づく受験システムそのものに対して批判の目を向けないのは矛盾していると言うべきなのである。「点取り競争」が「金儲け競争」に転嫁しただけのことであるからだ。

 

 但し、安倍政権下での教育改悪は安倍政権に特有の問題ではなく、とりわけ90年代から始まった動向の一環である。さらに、世界を見ても程度の差こそあれ、実用重視の価値観の教育への浸透は見られる。これは、企業の多国籍化の動向と軌を一にしている。日本社会における企業の多国籍化が本格化するのは、90年代半ばである。これに合わせて、経済団体が教育の介入に着手し始める。90年代後半、国公立大学の民営化が提起され、結局は独立行政法人化という仕方で落ち着いた。

 

 この独法化を当初歓迎したのは、何と東京大学の盆暗教授たちであった。これから一層東大に集中的資金投下がなされるだろうとの浅ましい期待に基づいて、単純に喜んだのだろう。実は自らの首を絞める罠であることに気がつきもしなかったのである。やっと目覚めても、時すでに遅し。何でもかんでも安倍の責任だと喚くだけで前後の文脈を考えない左翼は、安倍政権下での教育改悪が多国籍資本の動向による一連の「改革」の流れの一つとして捉えきれていなかったのである。