shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

呪われた五輪

 昭和15(1940)年に開催予定だった東京五輪は、日華事変の泥沼化と軍部の反対もあり、2年前に開催地が返上された「幻の五輪」であった。終戦後の昭和39(1964)年に漸くアジア初の五輪が東京で開催され、昭和45(1970)年の大阪万博と並んで、この東京五輪は高度経済成長を演じた我が国の発展ぶりと「戦後復興」を象徴するイベントとして人々の脳裏に刻みこまれてきた。

 

 「この時代の夢を再び!」と思ったのだろうか。大東亜戦争敗戦によって焼け野原となった状態からの急速な復興と東日本大震災によって大きな被害を受けた後の「復興?」を重ねているのだろうか(被災地の復興というには、この国の政府はあまりにも東北地方に対して冷淡な姿勢だったことと矛盾するし、今なお原発事故による被害が回復したとまでは言えない福島県の状況を考えるならば、とてもじゃないが事故からまだ10年ほどしか経過してない段階で「復興」などという言葉を安易に使用することはできないはず)。ともかく、2020年開催のオリンピック・パラリンピックの東京招致と2025年開催の万博の大阪招致がなされたわけだが、もちろん五輪や万博の開催が経済成長をもたらした原因ではない。高度経済成長の時期に五輪や万博の開催が重なったというだけのことで、確かにそれを象徴するイベントになったことは事実だとしても、両者の間に因果関係を読み込むことはできない。だが、そこに因果関係を読み込む幻想にとりつかれた者の五輪開催への執念は根深い。

 

 なんのことはない。金融と産業をつなぐ金融資本の組織性が耐久消費財を中心とする重厚長大型設備投資を実現していく経済システムへと転化し、資本主義世界の協調路線・通商拡大路線が、安定的な国際通貨体制とともに冷戦構造を支える政治経済秩序とされたことで、先進諸国の安定的な高度成長がもたらされた結果に過ぎなかった。増大する生産能力の過剰を吸収するだけの有効需要が創出され、産業技術の進展によって耐久消費財の多様化・高度化がもたらされた時代に重なったということである。

 

 こうした幻想に加えて、1984年のロサンゼルス五輪を機に「商業五輪」と化して以降、五輪の「利権」にあずかる一部の者たちが金儲けのためのイベントとして利用し始めると、この「金の成る木」からもたらされる果実を是が非でも死守することが第一義とされ、開催地の住民の意思が蔑ろにされていき、本来素晴らしいはずの五輪の理念などどこ吹く風とばかりに、利権を貪る連中のためのイベントと化してしまったかに見える。この度の東京オリンピックパラリンピックのドタバタは、これまでに陰に陽に見え隠れしていた最近のオリンピック・パラリンピックの欺瞞を図らずもはっきりとした形で露呈させてくれた。

 

 そもそも、東京オリンピックパラリンピックの招致段階からキナ臭かった。招致を言い始めたのが石原慎太郎という男だと聞けば、察しがつく。おかしな話で、石原慎太郎東京都知事に就任する前、ちょうど衆議院議員を辞めて作家活動に専念し始めた頃、テレビ東京で放映されていた「渡部昇一の新世紀歓談」という番組にて、オリンピックやワールドカップなどといったスポーツイベントは発展途上国がやることであって、先進国がわざわざ開催するようなものではないと言っていたはず。しかも、東日本大震災に苦しむ東北地方の惨状を前にして「津波は天罰」と言ってのけた石原が都知事の時に立候補したわけで、悪い冗談も大概にしてくれと言いたくなる。

 

 それが、都知事になってからは掌を返して五輪招致に乗り出した。国内候補地選定の段階で先に立候補したのは福岡市だったが、その際、福岡市の応援をした姜尚中東京大学教授(当時)に対して民族差別ととられてもおかしくはない言辞を弄していたことを鮮明に覚えている。日本民族の面汚しという他ない醜い言動であった(なお、僕は姜尚中政治的主張に同意するどころか、真逆の立場にいる者だが、民族差別的言辞は、一つの民族の誇りの感情を傷つけるものであって、到底許されるべきことではない)。

 

 しかも石原慎太郎は、ことあるごとに障がい者とされている人々に対して侮蔑の言葉を投げつけてきた男である。この「障がい者」という言葉も、「何をもって『障害』とみなすのか?」という難しい問題を抱えているわけだが、さしあたり「それぞれの観点から見て、ある社会を構成する成員の圧倒的多数派の生活形式への適用のしにくさの度合」と解しておくとしよう。

 

 ともあれ石原の場合、一度や二度の失言ではない。何度もこの種の暴言を一貫して吐き続けている確信犯である。拭いがたい差別感情や選民思想を持つこのような男が、どの面さげてパラリンピックを招致したいと言ったのか、不思議でならない。五輪招致に際して皇室の利用を企て、皇太子殿下(当時)に招致活動の先頭に立ってもらいたいと不敬な言動を残し、それをやんわりたしなめた宮内庁長官に対して「木っ端役人」と罵倒した人物も、石原慎太郎という男である。元々、数々の不敬発言で知られる石原のことだから、腸煮えくり返る思いはしたものの、驚きはなかった。石原なら、さもありなん。

 

 後継の猪瀬直樹による、ドヤ顔で何を話してるかわからないほどの悲惨な英語をまくし立てたプレゼンテーションが、その後の災難を暗示していたのかもしれない。高円宮妃久子さまの英語・フランス語を交えた演説と比べると、その差は歴然だったことが、なおのこと猪瀬のプレゼンテーションの悲惨さを際立たせてもいた(徳洲会から5000万円を受領していた事実が発覚して惨めな辞め方をしたことも記憶に新しい。不都合な事実を、直前に亡くなった先妻の責任に転嫁しようとした男であった)。

 

 また、東京選定過程の際にIOC関係者に多額の賄賂が渡されたかもしれない疑惑が生じ、フランスの検察が捜査に入ったはず。確か、まだ捜査は継続中ではなかったか。要は、招致段階から醜悪ぶりが際立っていたということである。

 

 そんなこんなのゴタゴタの中で、COVID-19のパンデミックときた。パンデミックの収束は概ね2年は要するだろうと言われているのに、1年延期をゴリ押し。COVID-19の世界的蔓延の非は、初期対応に失敗し情報隠蔽をして事態の悪化を招いた中華人民共和国習近平政権にあることは確かだが、その後の日本政府の対応がオリンピック・パラリンピック開催を至上目的とするあまり支離滅裂な対応となってしまい、開催都市のある国民からも歓迎されない醜悪イベントと化してしまった。

 

 オリンピック・パラリンピックのロゴの盗作疑惑に始まり、昨年末には開閉会式の演出チームの解散や、野村萬斎に代わって新たに演出総合統括に就いた広告代理店の男がタレントの容姿を蔑視したと疑われる演出を企画段階で提案したことが非難されて辞任するし、大会組織委員会会長の森喜朗も女性蔑視発言で辞任に追い込まれるなど混乱が続いた。

 

 予想されていたように、ワクチン接種率が低い段階にもかかわらず強行開催されようとしている直前に入国した選手・大会関係者から、検疫をすり抜けた陽性者が出てきたし、バブル方式により徹底管理をうたいながら、宿泊先から逃走する選手が現れ、そのデタラメぶりが白日の下にさらされた。

 

 開会式まで1週間をきった段階で、(最後の最後に?)メガトン級の爆弾が投下された。オリンピック・パラリンピックの開会式に楽曲を提供する小山田圭吾の過去の行状を得意気に語った雑誌記事の内容が多くの人々の目にとまる機会があり、小山田の楽曲をオリンピック・パラリンピックの開会式に使用することの是非が俄に問われ始めている。

 

 不思議なことに、森喜朗の女性を蔑視したと言われても仕方ない不適切な発言に対して「女性差別反対」やら「人権尊重」を掲げて糾弾活動をしたり、オリンピック・パラリンピックに絡む醜聞にすぐ飛び付いて批判してきた左翼やリベラルを称する人々の目立った声がないように見える。普段から人権の問題に敏感に反応している連中が、ことごとく無視を決め込んでいるのだ。雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」の渋谷陽一が、坂本龍一藤原帰一など比較的リベラルとされる者と近しい関係にあり、彼らを雑誌に登場させてきたことに気兼ねした党派的理由からなのだろうか。

 

 もちろん、僕が日本の状況を正確に把握していないだけなのかもしれないが、少なくとも、ネット上で確認できる情報だと、そう思える。英米の主要メディアに取り上げられるに及んで漸く発言し始めた人もいるようだが、それ以前は黙り込んでいた。こういうところにも左翼・リベラルの欺瞞が透けて見えてしまう。小山田の言動は、森喜朗の不適切発言など比ではないほどの鬼畜行為てあるにもかかわらずだ。かつて福田恆存は『日本を思ふ』(文春文庫)において、日本の左翼は個別の被害者には関心が希薄で、政治的主張を展開する際のダシに利用できる限りで被害者を担ぎ上げてるに過ぎない旨のことを批判していたことを思い出す。

 

 雑誌記事は25年ほどの前のものである。その内容は、既に一部の者には知られていたことらしく、そこで語られている行状は更に過去のことであるから、30ないし40年以上前の小山田圭吾の振舞いということになる。相当前のことであるので、そこで語られている内容を現在の視点や当人のあり様を無視する一方で、ことさら問題視することは酷であるという擁護も場合によってはありうるわけだが、例えばガーディアンはじめ海外メディアでも報道されている内容が事実だとすれば(実際に書かれており、かつ何度も当人が当該事実を認める発言をしているので、よほどの虚言癖の持ち主であるならばともかく、とりわけ当該事実の存在を否定する根拠がない以上、事実だと考えるのが合理的であろう)、表現し難いほどの「鬼畜の所業」というべき異常な内容なだけに、いかに過去の行状であろうと問題視されるのは当然。

 

 もちろん、過ちのない者など皆無に等しい。誰でも何かしら恥ずべき振舞いを犯した過去の経験を一つや二つ持つ。中には、犯罪に該当する行為をした経験を持つ者もいるだろう。そして、大人になるに連れ、自らの過去の過ちを悔いて反省し、被害者に対して申し訳ないことをしたと謝罪の念を抱き、まっとうな人間として更正する者もいる。今もなお悪さをしている者でさえ、人間としてこの一線を越えまいと独自の線引きを自らに課している者もいる。こうした線引きは、「清廉潔白でない」大抵の人間にも備わっていることだし、これは極道の者でさえ、心得ているだろうことである。

 

 過ちの程度いかんによっては、時が経つに連れ、その傷が癒えてくる場合もあろう。そうした修復可能な過ちに対して反省と悔悟の念を抱いて更正したことが誰の目にも明らかなケースならば、何十年も前の悪行を殊更蒸し返されることに対して、「何もそこまでしなくてもよいではないか」と擁護する余地もあろう。

 

 加えて、こうした過去の悪行の追及が不特定多数の者から寄せられることの重圧を慮る必要があるとする擁護の声にも一理あるかもしれない。怒りのあまり、直接の当事者ではない者たちの「正義の暴走」になることを警戒しなければならず、批判するにせよ、その態様につき犯罪や集団リンチとならぬよう注意しなければならないことも確かだろう。

 

 ところが小山田圭吾は、東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会が開会式等で使用する楽曲提供者の一人として起用した人物であり、この大会には開催都市東京を抱える日本政府の予算から多額の費用が拠出されており、また開催都市東京都の予算からも膨大な費用が捻出されている。こうした公共的イベントのあり方についての問題は、それ自体として公的関心事であり、国民や都民がこれに関係する事柄に対して適切な方法で積極的に声をあげて批判する権利は当然あるわけであって、例えば当人やその家族に対して危害を加える旨を告知するなど犯罪行為に該当するような不適切な態様でなされる批判を除き、然るべき態様で為された批判までをも十把一絡げに含めて「ネットリンチ」と形容するのは、失当も甚だしい。

 

 いずれにせよ、小山田圭吾の過去の行状は、「未成年の時、不適切な行為に及んだことがあるが、今は反省している」と一言謝罪の言葉を述べたところで済まされることではないと考える人が多数であろうことも、また想像に難くない。必ずしも品行方正とは言えないまでも、ごく普通の学生時代を過ごしてきた僕のような者が一読しても、読んでる最中から強い生理的嫌悪を喚起させられたものはないと思われるほどの内容であり、時を経れば許容されるかもしれない過去の過った行動の範疇を遥かに逸脱している行為であって、到底看過できるものではない。目にした人は、おそらく「人間とは、かくも残忍な鬼畜になれるのか」と悲痛な感情に襲われもすることだろう。それほどまでに悪辣・非道・陰惨・残忍に満ちた行為であり、万死に値する鬼畜外道の振舞いと言って差し支えないほどだ。

 

 しかも雑誌記事は、過去の過ちを猛省する内容になっているどころか、この鬼畜外道とも言うべき所業について、ある種の自慢話ないしは武勇伝のつもりで嬉々として編集者と語り合うという形式になっている。その証拠に、悪びれもせず、「(笑)」を挿入してもいた。許し難いのは、その障がいを持つ子が母親と一緒になって書いたらしい自筆の年賀状の画像をさらし、陰険極まる嘲笑の対象にしている点である。

 

 何もすべて「御行儀の良い」内容の誌面であるべきなどというのではない。場合によっては、世の中の風潮やモラルに反抗すべく、些か攻撃的な誌面で飾ることだってありうる。しかし、そうした編集方針の雑誌にもある種の「掟」があるはずで、全く抵抗できない状況にある「弱い者」をいたぶり、嘲りの言葉を吐くような「人間のクズ」のようなことは決してしない。ところが、件の雑誌のやっていることは、深い傷を負った人間を後々まで更に痛めつけることに喜びを見出だす異常者たちの行動そのものであり、先立っての相模原市の施設の入所者を虐殺した殺人鬼とそう遠くない精神構造をしているのではないかと、疑いたくなるほどの内容で、これはもはや論外である。

 

 一連の行動から、反省も悔悟も謝罪の念の欠片もないことは明らか。その子や母親がどういう思いで年賀状を書いていたかを想像するだけで胸が締めつけられる思いがするし、涙がこぼれてくる。別の雑誌となると、冷やかしついでに被害者宅に赴くなど、一連の行動に加担するかのような様子。この雑誌でも編集者は、小山田と同じく人の尊厳を踏みにじるだけでは飽きたらず、強く抵抗できない被害者やその家族をいたぶる行為にまで及んでいるのだ。

 

 こうした点からして、何年も経った後でもなお、鬼畜の本性に変化が見られなかったということが推認されよう。雑誌も、そうしたケダモノが編集する変質的かつ猟奇的な行為を「娯楽」として楽しんでいたのだろう。一体どういう雑誌なんだろう。被害者やその家族の者でない第三者的な立場である者ですら怒りにふるえるわけで、ましてや当事者からすれば、どんなに時が経過しようと、思い返すたびに「犯人を八つ裂きにしてやりたい」と思うくらいの激しい憎悪を抱き続けているに違いない。そう思うのが、ごく普通の感覚ではあるまいか。

 

 吐き気を催すおぞましい行為に対して笑いを入れながら語り合っている姿を想像すると、小山田を含め、対談相手の編集者も同様の鬼畜な精神の持ち主かもしれない。この雑誌の異常性に身の毛がよだつ思いがするし、こういう猟奇的な内容の記事を娯楽として掲載する雑誌が今もなお廃刊されずに存続していることに愕然とさせられる。遅きに失したが、「事後共犯」の関係に立つ「ロッキング・オン・ジャパン」や「クイック・ジャパン」の一刻も早い廃刊を勧告したい気にもさせられる。

 

 なぜこの雑誌が罪深いのか。単に、語られた内容を記載したのではないからだ。虐待していた相手の年賀状まで誌面に掲載し、それを嘲り倒した当人がこの雑誌の編集者なのだから、雑誌の方針として小山田圭吾の行為を肯定的に捉えて載せたのだろう。何年も経て、興味本位で被害者宅にまで赴き、更に陵辱・恥辱を加えようとするおぞましいことまでしているという醜悪ぶり。雑誌として世に出されてよいものではない。完全に「一発アウト」の内容であり、とにかく廃刊されるのが相当と言うべきである。

 

 小山田圭吾の行為は、深い反省と悔悟と謝罪の念とともに長い年月を経た上ではじめて修復可能な過ちの域を遥かに超えた、その子や親兄弟の尊厳を凌辱し、踏みつける、人でなしの行為であり、重大な犯罪行為でもある。ともすれば、単純な殺人行為よりも悪質で倫理的に非難されるべき行為であると考えられもするほどの所業だ。このような人物をオリンピック・パラリンピックの開会式の楽曲提供者として起用することは、明らかに五輪憲章の精神に反することだけははっきりしている。

 

 開会式まであと数日と迫った段階で、今更ながら開会式の進行を変えるわけにはいかないとの事情から、留任が相当だと大会組織委員会は判断するかもしれないが、このまま何事もなかったかのように事を運ぼうとするならば、日本に対するイメージが著しく棄損されることになるだろう。世界各国にこの事実が正確に伝えられたならば、オリンピック・パラリンピックの関係者から「開会式をボイコットすべし」との声が上がるかもしれない。大会組織委員会は、世界に対して誤ったメッセージが発せられることのないよう、起用した責任者として、早急に小山田圭吾を更迭するのが最低限の務めであるし、多少調べればボロが出る人物を選定した責任者も、同時に処分されるべきだろう。

 

 悪化する感染状況下で開催されようとしているオリンピック・パラリンピックに対して天皇陛下が憂慮をお持ちのように拝察するとの宮内庁長官の発言が米国でも報道されたが、今のところ、開会式には陛下御一人がお出ましになるとのこと。上皇陛下と同じく、障がい者とされる人々の活動に対して並々ならぬ御関心を持たれ、皇后陛下とともに数々の福祉関連施設に行幸あらせられている天皇陛下の御臨席の下で、この男の楽曲が流されることを想像するだけで悪夢を見るようだし、この件が聖上の御耳に触れることにでもなれば、どのように思われるだろうか。皇后陛下愛子内親王殿下のこともあろうから、おそらく陛下の逆鱗に触れるのではないかと想像されもする。

 

つくづく、「呪われた五輪」であるとの思いがいや増す。