shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

「いかがわしさ」の擁護

戦後日本の歴史において「最大の事件」と言ってもおかしくない1985年のプラザ合意の直後、急激な円高による不況に陥った日本経済は、その後、一気に内需拡大政策を加速させた。その結果、だぼついた大量のマネーが株や不動産といった現物資産へ流れ、急激な資産バブル状況になった。日経平均株価は3万8000円を超えるなど、見かけの好景気に浮かれる者がいる一方で(余剰マネーで海外の資産を買い漁るわ、金さえあれば何でもできると万能感に浸りきった勘違い野郎の醜態を見るに見かねて筆誅を食らわすごく僅かな言論人もいた。石堂淑朗「一日千秋の思いで待つ兜町大暴落」が好例だろう)、都市部の異常な地価高騰に伴い、方々で過激な「地上げ行為」が社会問題化した。いわゆる暴力団対策法の施行と相まって、過激な地上げ行為は姿を消した。

 

もちろん、地上げ行為そのものは悪ではない。問題は、その態様である。社会経済活動にとって用地取得は必要不可欠であり、かつての地上げ屋の行為に行き過ぎがあったとしても、社会はその必要性を認めてきた。東京など大都市の開発の大部分は全て、地上げ屋あって可能になったことを失念すべきではないだろう。都市開発のみならず、例えば東京ディズニーランド青森県六ケ所村の核燃料再処理施設といった大規模施設のための用地取得も、三井不動産三菱地所などの大企業が地上げ屋を利用していたわけだし、六本木ヒルズの開発にあたっては、森ビルは比較的穏健な手段で開発予定地域の買収に時間をかけてきたが、中には、なかなか立退要求に応じない者に対する強引な交渉もあったという(森ビル自身ではなく、いくつかの不動産業者によるものらしいが)。

 

いずれにせよ、「今だけ・金だけ・自分だけ」と呼ばれる風潮が支配するようになった現代日本ではあるが、こうした日本人の精神構造の先鞭をつけた出来事が、バブル期に起きていた。プラザ合意が及ぼした影響は、経済のみに限定されるものではなく、日本の社会構造や日本人の精神構造にまで及んでいるのである。よく、全共闘世代のおっさんがノスタルジーに浸りながら、イマニエル・ウォーラーステインと同じく、1968年を時代の転換点であるかのように特権視することがあるが、完全に寝惚けている。1969年の東大安田講堂立て籠り事件につき、警察庁次長として取締りを指揮した後藤田正晴は、全共闘による活動について、「あんなのは体制を揺るがす力とは見ていなかった。ただ、当面厄介な存在だったというに過ぎない」と述べていた。

 

少なくとも、日本社会にとって決定的に重要な年は、「プラザ合意」があった1985年か、あるいは「ニクソン・ショック」のあった1971年であろう。NHKスペシャル「戦後50年、その時日本は」という、昔に放映されていた全12話の録画を視聴したことがあったが、やはり最終集は「プラザ合意」で締められていた。当然の感覚だ。

 

日本の借地借家法は借地人や借家人を過剰に保護する法的建付けになっているので、いざ開発を進めるにあたっても、立退きに応じない者が現れると、遅々として進捗しないことが多い。そのことで、かえって地上げ屋のような存在が重宝された。米国にも地上げ屋擬きの真似をしている業者もいないわけではないが、日本の借地借家法のような借主が圧倒的に有利な法律はないので、立退きに際して、さほど強引な真似をせずに済む。

 

日本において、もし地上げ屋が存在しなければ、都市開発など到底できるものではなかった。強引な地上げ行為ですら、誰かがやらねばならない「必要悪」だと言う人もいた。いわゆる「汚れ仕事」について、表向きは決して手を汚せないことになっている大企業が直接行うわけにはいかないから、下請けの更に下請けに丸投げしてきた。しかし、開発による直接・間接の恩恵を受けてきた一般の人も、それを可能にした「汚れ仕事」の存在に気づきもせず、それどころか、社会的な害悪として軽蔑の眼差しを向けてきた。動物の肉を食しながら、その動物を屠殺する役割を担わされてきた者たちを「穢れ」ある者として蔑視し差別してきた者たちの欺瞞と重なる。

 

性風俗産業や、その他「夜の街」での職に従事する者を徒に蔑んでいる連中に共通する態度とも言える。例えば、COVID-19の感染が拡大していた時の日本では、クラスターの発生源の一つともなっている性風俗店やホストクラブあるいはキャバクラなど、「夜の街」の接客業に従事する者たちに対するバッシングが激しかったという。昨年の春頃の、パチンコやパチスロを営むホールや客に対する常軌を逸したバッシングを反復するかのように、「夜の街」が「叩きやすい敵」として槍玉に上げられていったのである。そうした存在を前提にして成り立ってもいる社会での生活を謳歌しているにもかかわらず。

 

物理的接触を伴うことの多い業種ゆえに、感染の類型的危険性を有することは抽象的に言えるので、仮に物理的距離が感染拡大に寄与しているとの推測が正しいとするならば、一時的に休業など一定の営業自粛を要請することはやむを得ないだろう。しかし、感染拡大を抑止するために休業を含めた営業自粛を要請するのであれば、彼ら彼女らだって正当な経済活動により生計を営んでいるのだから、休業等にともなう損失の補填がなされないことには死活に関わる。にもかかわらず、性風俗産業やホストクラブあるいはキャバクラなど「夜の街」の接客業はまるで世にあってはならぬ職種であるかの如く蔑み、補償などする必要はないだの、廃業すればよいだのと己の独善的な道徳観念を振り回して全否定する言説が罷り通っていた。

 

縦しんば、そうしたナイトワークが様々な問題を抱えているとの社会通念があるとしても、そのことを以って、特定の業種に特別な犠牲を強いておきながら損失の補償を何ら無しで済ませることを正当化する合理的理由と解することはできない。そもそも論点が逸れた話をしていることになる。問題の本質は、特定の業種に特別の損失を生じさせる措置を講じておきながら、何らの補償もしないことが許されるのかということなのだから。

 

かつて、皮革業や屠殺業などにたずさわっていた人々を「穢れた者」として道徳的に裁断する思想で以って差別していた構図が、ここでも見え隠れする。「いや、そうではない。彼ら彼女ら性風俗業などに従事する者たちは『搾取』されている犠牲者であり、悪いのは、専らそれによって利益を得ている経営者であり、彼ら彼女らを批判」と弁明するかもしれない。

 

しかしながら、性風俗産業などを「社会悪」とする思想そのものが、これら産業を一つの立派な産業とは見なさないとする道徳的基準を以って裁断する、根深い偏見からくる度し難い差別なのではあるまいか。「搾取」であるか否かは、個別具体的な労働実態によって判断されるべきことであって、この点は他の産業でも等しく当てはまることである。

 

独善的な道徳観念を振りかざすばかりで、他人や社会に己とそのお仲間だけにしか通用しない「道徳的価値のヒエラルキー」に支えられた基準を押し付ける人々の典型的なやり方が、手前勝手に理解された「搾取」という概念を都合に合わせて持ち出すやり方である。しかし、「搾取」とは何かとなると、それを明確に論じ立てることは難しい。マルクスを持ち出す者にせよ、おそらくマルクスをさして読みもしないで「搾取」の一語で以って相手を封じ込めようという意図が見え見えである。戯画的なのは、言っている当人も「搾取」が何であるかが理解できていないことである。

 

剰余価値」とは、労働者が自分の生活に必要なものを生産するのに要する労働時間を超えて労働することにより、剰余ないしは利潤が発生すると言う内容が含意されている。この主張自体は、スミスやリカードなどの古典派経済学に共通するものであるが、そこに非労働所得としての「搾取」を読み込む解釈を採ることにマルクスの独自性が存する。剰余価値率とは、剰余価値を必要労働量で除することによって得られる。置塩信雄森嶋通夫による証明のプロセスは省略するが、正の利潤、正の均等利潤率が存在するための条件は、剰余価値が正、剰余価値率が正であることと同値であること、すなわち、労働者の剰余労働なくして利潤はありえないという命題が、剰余価値学説を裏づける「マルクスの基本定理」の核心である。

 

しかしながら、この命題は、投下労働価値説という特異な価値論を前提とした上で証明できる命題であるにすぎず、現在この投下労働価値説を是とする者は、マルクス主義者の中でも教条的で頑迷な者くらいしか存在しない。だが、投下労働価値説が妥当しない現象など至る所で見られる。要は、現在では妥当しない前提に立脚した主張なので、これに基づいて「搾取」を云々すること自体、失当である(マルクス自身が、果たして投下労働価値説を採っていたかという問題は、また別の話である。例えば、疎外論批判から物象化論を展開した廣松渉は、マルクス資本論』を、疎外論の一種である投下労働価値説に基づく立論として捉えていない。とはいえ、物象化論を視軸として『資本論』を解釈したとして、ではそこで、「マルクスの基本定理」として証明された剰余価値としての「搾取」を論定できるのだろうかという問題が別途提起されるはずである)。

 

ウォルター・ブロックのDefending the Undefendableは、こうした「不道徳」なものとして軽蔑されがちな存在(中には、犯罪とされるような行為も含まれる)を擁護する論陣を張る。ブロックは、シカゴ学派頭目ミルトン・フリードマンの愛弟子ゲーリー・ベッカーに師事した経済学者で、アナルコ・キャピタリストないしはリバタリアンとしても知られる。かなり強烈な思想の持主ではあるが、麻薬取引をも公然と擁護したオーストリア学派のフォン・ミーゼスやフリードリヒ・ハイエクらの思想に滲みのある者ならば、それほど「極端」とまでは思わないかもしれない。事実、この書に対してハイエクも称賛を惜しまない。

 

文脈は異なるが、ある意味でデイヴィッド・グレーバーのBullshit Jobs(未邦訳かな?)の真逆を行く書であり、僕からすれば、その奥底に潜む道徳主義的な説教と拭い難く見え隠れするルサンチマンに支えられているグレーバーの書よりも、ブロックの書の方が断然面白く読める。

 

誇張されたその主張に完全に同意することはないが、世間ではとかく「悪徳」と槍玉に挙げられ虐げれてもいる連中を経済学的にあるいは倫理学的に無理やりにでも擁護しようとするブロックのある種の「狂気」は、「弱者のルサンチマン」を滔々と聞かされるよりは精神衛生上健全だと思われないわけではない。但し、この主張を現実の政策に反映させるとなると、話は別である。事実上不可能だろうし、想定可能な範疇を超えた害悪の発生が考えられるだろう。したがって、あくまでも「思考実験」としての域を出るものではない。この点が、学校という箱庭でしか生息できない大学教員の限界でもある(アカデミズムとビジネスの世界を自由に横断するタレブ的リバタリアニズムの方が断然知的レベルも上だと思われる)。

 

内容はというと、ブロックの学問的出自や題名から推して知るべし。ゲーリー・ベッカーやリチャード・ポズナーの「経済学帝国主義」、すなわち大雑把に言うならば、社会に発生するほとんど全ての公共政策学的・道徳的・倫理学的諸問題を経済学的費用便益分析に還元して処理する考えに立脚して、「不道徳」な存在とされ、場合によっては犯罪として厳しい規制が課されている存在を擁護する論陣を張る。違法ドラッグの売人であったり、高利貸しや薬物中毒者、賄賂を受け取る悪徳警察官やダフ屋、売春婦、闇金融業者など社会で犯罪または不道徳的とされている行為を倫理学的・経済学的に擁護し、彼ら彼女らこそ「ヒーロー」であるとまで祭り上げる。

 

もっとも、そこには単なる「経済学帝国主義」には収まらないものがあって、その前提には、「リバタリアニズム」として知られる自己所有権を基礎とする私有財産絶対の思想がある。だから本書は、「経済学帝国主義」と異常に単純化された功利主義リバタリアニズムとの融合の書と言え、それがブロックのアナルコ・キャピタリズムの主張の支えにもなっていると言える。ちなみに、「法と経済」の大家ポズナーの主張「貨幣で計量可能な富の最大化が正義である」というテーゼが背景にある。日本人の多くの人の感覚からすれば、首を傾げないわけにはいかない主張であるが、ポズナーはこのテーゼに基づいて、判事として次々と判決を下していったというのだから、たまげたものである。日本にもわずかながらリバタリアニズムやアナルコ・キャピタリズムの支持者が存在するが、大きな勢力にはなっていない。

 

ブロックの擁護対象の中でも分かりやすいものと言えば、違法ドラッグの売人や高利貸しや売春婦(もっとも、売春婦と言っても女に限られるわけではなく、売り専などを考えると男も含まれているだろうが)である。

 

麻薬の売人が肯定されるのは、直接的には誰にも危害を加えずして客の欲望成就に貢献しているからだ。もちろん、反論が想定されよう。その典型は、高額の薬物欲しさのために依存者による窃盗・強盗・恐喝・詐欺・横領など金銭を不法に取得する犯罪行為を誘発するというものだ。しかしブロックに言わせれば、薬物の末端価格が高騰しているのは、薬物に対する規制が強すぎるからこその帰結だということになる。規制が強いからこそ稀少価値が増し、マフィアなどの犯罪組織の資金源になりうるものとして重宝されるというわけである。もし、薬物が解禁され、店頭でごく普通に入手できるようになれば、市場メカニズムが機能して末端価格はディスカウントされるだろうから、マフィアとしても旨味がなくなる。しかも、安価で入手可能となるので、高額な薬物欲しさに強盗などの犯罪に手を染める必要は激減する。禁酒法時代の米国でアル・カポネのような存在を生んだのは、正に禁酒法という規制そのものであった。もちろん、ブロックの立論にはいくつかの穴があるわけだが、概ね正しい主張だろう。薬物規制の立法目的の大部分は当該規制の撤廃によっても達成可能であり、より制限的でない他に選びうる手段があるのならば、こうした自由を制約する規制の正当性はないということになりそうである。

 

高利貸しにしても、資金需要を吸収する点で肯定される。高利貸しは、高い金利を設定することで貸し倒れリスクをヘッジし、それによってより広範な資金需要に対応できるようにしている。貸金業者からすれば、リスクある顧客に対して高い金利を設定し、優良顧客に対して低金利を設定するのは当たり前のことであって、金利等契約内容については、契約自由の原則により金銭消費貸借契約の当事者が合意により取り決めればよいのだから、これまた外部がとやかく言う筋合いのものではない。

 

日本でも、利息制限法のいわゆる「グレーゾーン金利」の任意返済規定の解釈をめぐる最高裁判決(利息制限法の条文の文言を素直に解釈すれば、滅茶苦茶とも言える解釈だった)以降、過払金返還訴訟が立て続けにおこり、この「クレ・サラ問題」で弁護士や司法書士が荒稼ぎした。要は、楽して稼げる飯のタネを見つけたわけで、ある意味「貧困ビジネス」の最たるものだ。最も救われたのは、多重債務者ではなく、食い扶持に困っていた弁護士や司法書士だったのである。一方で、借りたくても借りられなくなった人がヤミ金に流れる動きも見られた。

 

この超過需要をどう吸収するのかという問題について、弁護士や司法書士は何も対応していない。日弁連でも何でもよいが、彼らが低利で貸し出すなり、債務保証してやれば良かったものを、そうはしない(もちろん、日弁連という組織の規約等から、会の設立目的に含まれない行為はできないと思われるけれど)。騒ぐだけ騒いで、後の面倒は全く見ない。当の弁護士は、自らを「正義のヒーロー」として売り出せる契機になったのかもしれないが、これでは問題解決とは程遠く、逆に新たな問題を生み出すことになりかねないのだ。

 

総量規制等の影響で、高利でも構わないから当座資金が必要だという者が市場から閉め出されて借りられなくなったわけだが、それで需要がなくなるわけではない。そこで、どうにかして資金を工面する必要に迫られるわけだが、銀行や政府系金融機関が、その者からの融資の求めに応じるだろうか。もちろん、そんな与信の無い者に融資するわけがない。では、当の弁護士や司法書士が工面してくれるのか。もちろん、そんな真似するわけがない。こういう行為は「正義」でも何でもない。単に無責任というべきだろう。

 

確かに、多重債務問題に取り組んだ弁護士の活動によって、違法な取り立てに苦しんでいた者が助かった事例もあろう。強要罪等に該当するような行為は違法行為なので、取り締るのは当然である。といっても、彼ら彼女らが専ら手弁当で活動していたわけではなく、ちゃっかり報酬を得ているわけだから、慈善活動でも何でもなく、あくまで彼ら彼女らの営業活動だった。しかし同時に、「こいつらがいらんことしてくれたばっかりに、借りられなくなったではないか」と怒り心頭の者もいる。

 

要は、弁護士や司法書士らの活動は、銀行等から低利で融資が受けられるだけの与信のある者の資金需要だけを尊重し、与信のない者の資金需要を無視して事足れりとしている。更には、過払金返還されたはいいが、弁護士報酬として大部分持っていかれた債務者が続出した。おまけに、貸金業者が次々と倒産し、路頭に迷う失業者を大量に生み出しもした。食えなくなった失業者の中には、再雇用もままならず、仕方なく特殊詐欺の片棒を担ぐ者やら、最近数年で下火になった不動産投資ブームに乗って参入した悪質な業者で、エビデンスの改竄等不正行為を働いて生き残りを図る者すら出てきた。

 

売春行為によって生計を営む者や、ホストクラブやキャバクラなど、「夜の街」の接客業に従事する者も、皆それぞれ異なる仕方で経済活動に貢献している。これも、社会的分業の一つである。売買春行為そのものが悪であるとする決めつけもあろうが(現在の日本では、売買春行為そのものは認められていないという建前になっているが)、それはその人の道徳観念がそうさせているのであって、互いの合意によって成立した契約に基づく経済活動である点に関して、他の取引行為と基本的には同じである。問題があるとするなら、当人の意に沿わない強制というべき態様で行われたか否かという点である。仮に、真意に反する強制と見なし得る行為に至れば、強要罪として処罰すればよいわけだから、金銭を介した性的サービスの提供そのものを社会的な悪とする必要はない。強要という行為が、個人的法益を侵害する「悪」とみなされる根拠になるのだ。

 

「性の商品化」が良くないとする言説もあるが、「性の商品化」が許されず、「労働力の商品化」なら許容されるという理屈は、あくまで恣意的な区別でしかない。まさか、性行為は純粋な愛情の発露としての行為のみしか許容されないと言うことでもあるまい。愛情がなくとも、単純に性欲を充たすべく性行為に耽ることはあるし、欲望充足のために金銭を介した行為もありうる。金銭を介した性行為そのものが道徳的に許されないとの信条を個人の思想信条として持つのは結構だが、個人の思想信条を、それを共有しない者にまで押しつけるのは、個人の自由に対する過度な介入である。人権を盾に取る言説も然りで、人権侵害というなら、むしろ「自己決定権」や「営業の自由」を許容しない方にこそある。

 

再度言うように、その人が何らかの宗教上の理由なり道徳的信条から、金銭を介した性交または性交類似行為を包含する性行為そのものを悪と考えることは自由だが、「純潔主義」を背後に隠し持っているその思想信条を他人から押しつけられる筋合いはない。自己の身体をどう処分するかは、原則として当人の自由であり、自由に任せていては著しい支障を来すような場合に限り、例外的に必要最小限のパターナリスティックな制約が社会的に要請されることはあろうが、この制約は、あくまで「必要最小限」にとどめるべきだ。

 

むしろ、この業種を蔑視し過剰な規制を加えることが、それに携わる者の待遇改善の障害になっている。もちろん、昔のように家の事情で女衒に身売りされた女性がいたという悲しい過去はある。ともすれば今でも、借金のカタにされて自らの意思に反する行為を実質的に強制されている者(これは女性に限られず男性にもあてはまるだろう)もいるかもしれない。しかし、それは強要罪という個別の犯罪行為の取締りの問題であって、性風俗業全体を否定する理屈にはならない。また、こうした事情の者が当該業界で圧倒的多数であるという事実があるのならば、社会の中での救貧対策の問題として解決が図られるべきであって、一つの産業を「不道徳」なものとして蔑視することで済む話ではない。性風俗を禁止したからといって、そこに従事する者の貧困が解決するわけではない。むしろ逆に、更なる貧困に陥らせてしまうだろう。

 

仮に、救貧対策が功を奏したとしても、性風俗業に従事したいと思う者は、おそらく絶えることはないだろう。なぜなら、今日の性風俗業に従事する者で、絶対的な貧困下に置かれ、他の職業に従事したくてもできないという状況の者が圧倒的多数である状況とは思われないからである(コロナ禍により、そうした境遇の人は増えたと想像されるが、これについては、政府による救貧対策が喫緊に求められる)。シングルマザーでかつ、親族からの援助すら期待できない人が、やむなく比較的高給で軽労働な風俗業界に進む場合もあるだろうけど(この場合、シングルマザーやシングルファーザーといった片親家庭に比較的多くみられる貧困の問題として対処が図られるべきだろう)、最近では、刺激的な世界への興味やら、ブランド物欲しさやホストクラブに通い続けるために手っ取り早く稼げる風俗業界に自ら進んで入って行く者の方が多いのではないだろうか。その者たちに対して別の職業を斡旋しても、当該職が高給で軽労働という条件が保証されるわけではないだろうから、とてもじゃないが代替にはなり得ない。ホストクラブに通い続けるために月に100万円以上稼ぐソープ嬢や、贔屓にしてもらっている上客から都心一等地の高級マンションの一室を与えられ、ブランド物の商品を大量にプレゼントされているキャバクラ嬢等に対して、月給20万円程度の低賃金の職を紹介したところで、「バカバカしくて、やってられない」という一言が返ってくるだけだろう。

 

問題は、真意に沿わない労働を無理やり強いられていると言えるかどうかであり、その判断は個別の態様により異なる。過酷な労働環境である炭鉱労働者が存在するからといって、炭鉱を閉鎖しなければならないという結論にはならない。過酷な労働環境を少しでもましな環境に改善していくことが筋である。野辺送りに携わる者が賎民扱いされてきた歴史を見てもそうだが、では野辺送りの仕事を無くせばよいというのか。そうではなく、野辺送りに携わる者を蔑視する思想そのものが改められるべきとの方向に向かうべきだろう。

 

ホストクラブにしても、ホストが女性を「食い物」にして暴利を貪るイメージだけが喧伝され、ホストクラブを利用する客の満足度については無視される傾向にある。サービスに対する報酬を決めるのは原則として当事者同士の合意であって、部外者が高いだの安いだのと決定する資格はない。何本ものボトルを空けてシャンパン・タワーを楽しむことに数百万費やす神経を理解することは難しいが、それでも当人はそれで満足しているわけだから、赤の他人からイチャモンをつけられる筋合いのものではない。ジャクソン・ポロックの落書きみたいな絵画に200億円以上支払うケネス・グリフィンのような人物もいれば(個人資産で約1兆7000億円、1500億円ほどの年収らしいので、大したことがないのかもしれないが。最近も、セントラルパーク南の57丁目辺りに約260億円出して新住居を購入したようだし)、楽吉左衛門三代道入の黒楽茶碗に数千万円程度なら惜しげもなく出す収集家もいるだろう。本阿弥光悦志野焼茶碗の国宝「不二山」なら、数億円出しても手に入れたいと思う人もいる。現代抽象絵画に無関心の者や、100円ショップで売られる瀬戸物しか買わないという者からすれば、異常な神経ということになるのかもしれないが、それでも当人はご満悦なのだから、金額に見合うだけの効用が当人にはあるに違いない。物事の価値とは、諸個人の効用を無視した何らかの「本質」によって決定されるものではない。

 

ホスト狂いの女だって、贔屓にするホストは当人にとっては「最高の男」なのであって、少なくともそれに文句を垂れている男どもよりも、ずっと男としての色気と魅力があるに違いない。それどころか、ホストクラブ通いをするために自らすすんでソープ嬢として稼ぐ道を選択した女にとって、批判するだけの男は単なる金づるの「諭吉」にしか見えないわけだ。もちろん中には、ホストクラブの売掛金回収のために、それまでツケで遊んでいた女が追い込まれて自殺するといった事例も見られるが、それがホストクラブ利用者の多数を占めるわけではない。そうしたことなら、先物取引で失敗した者が首を括るといった事例は今も昔も一定数あるのであって、何もホストクラブだけに当てはまることではない。売掛金回収の際の態様が強要罪を構成する程度のものならば、それを取締れば済む話であって、これまたホスト業界全体を潰せばよいという話にはならない。先物取引に失敗して首を括ったごく一部の者がいるからといって、「先物市場を廃せよ」と主張することが暴論であるのと同様である。投資にせよギャンブルにせよ、酒やタバコも含め、何事も「やりすぎは禁物だ」というに過ぎない。

 

ブロックの主張には極端なものも含まれているが、このブロックの著書は、倫理学的にも重要な示唆を与える。人間の欲望を真正面から受け入れることができず、特異な「道徳的価値のヒエラルキー」を一様に当てはめ、そこから逸脱する者を「不道徳」なものとして糾弾する主張は、倫理学的にも経済学的にも正当化することは難しい。正面切っての反論ができない者たちは、「構造的暴力」だの「支配抑圧構造」だのといった、どうとでも取り様のある便利な合言葉を外挿することによって、ごまかしを図る。中には的確な指摘もあることは認めるが、それを全体化させてしまうと、たちまち胡散臭い話に陥る。要は、自分たちの道徳観念や目指すべき社会像にそぐわない者の主張を「悪魔視」する言説に変容するわけである。

 

特に、共産主義者にありがちな傾向で、自分たちの理想を万人にまで押し付けようとする独善によって「悪魔視」された者は、徹底的に糾弾され、場合によっては「反革命分子」のレッテルが貼られた挙げ句、血の粛清が行われる。これまでの共産主義者は、ほぼ例外なく反対者を合法非合法を問わず抹殺してきた。自らの行為は「正義」であるとの妄念に凝り固まった「善意の集団」がやらかした凄惨な出来事を想起すればわかろう。思想が誤っているとみなされた者に対しては、「思想改造」が施されてきた。プロレタリア文化大革命の際の紅衛兵や、マオイズムにかぶれたポル・ポト率いるクメール・ルージュの蛮行はその最たるもので、彼ら彼女らは等しく皆、人間の欲望や業の強さを理解せず、人間や社会はこうあるべきだとの独断的な「正義」の観念に憑りつかれていたので、意に反する者たちを「悪魔」として殲滅を図る。人間は欲にまみれたいかがわしい存在であるとの諦念がないので、攻撃するにしても手加減を知らない。喧嘩に慣れていない者の喧嘩が一線を越えやすいのに似ている。

 

もちろん、人間はどこかで「かくあるべし」との理想を抱くこともあるし、自らが「正義」と思うことの実現を志向することもある。「正義」に対してシニカルになることは問題だろう。しかし同時に、自らではどうしようもない業や欲望に絡められたり、自らの判断が誤ることもしばしばである不完全な存在であるとの認識を失念するようではまずい。万能の理性を持ち、かつ、それにしたがって生きる存在とはかけ離れている。人間の生き方は、一つの価値観に染め上げられるような単純なものでもない。「正義」といっても、何を「正義」と考えるかの段階で、争いが生じるのが常である。

 

ブロックの主張は、極端に誇張された一つの「思考実験」として捉えてみるならば、その主張に同意し難い面もあるものの、人間の欲望を素直に肯定できず、己の特異な価値観や道徳観念によって「不道徳」と見なす行為や商売を禁止することで一つの価値観で一様に塗り固めていこうとする全体主義的な思考の狂気に対する反省と、許容可能な自由の最大化の問題についての再考にといって、一つの材料を提供してくれている。