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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

キュービズムの哲学

野家啓一は、『物語の哲学』(岩波書店)において、独自の「物語論」と言語哲学に関する一定の立場に基づき、また大森荘蔵の見解への批判的再検討を加えながら、歴史記述の物語性について論じている(なお、野家の言う「物語論」でいう「物語」とはstoryとしてではなく、narrativeとして用いられている)。実在のありのままの客観的記述を前提にする「素朴実在論」に与する者、歴史学者、「汚辱の歴史」として悪し様に我が国の歴史や戦没者を呪詛・罵倒し続ける活動に精出す高橋哲哉などから批判が寄せられるほど、反響があった著書である。

 

野家の主張は、その射程を歴史叙述の範囲だけでなく、物理学をはじめとする自然科学にも及ぼしたいとの意図が感じられる。「物語論」に基づく歴史哲学ならば、まだ反発は小さくて済む。しかし、この見解を自然科学にまで拡大適用する主張をしていたならば、ちょうどこの頃、いわゆる「ソーカル事件」として知られる問題が盛んに論じられ、「ポストモダン」の思想として一部の者たちに持て囃された論者のデタラメぶりが暴露されたことのとばっちりを受けて、「正統派」の科学哲学に異を唱えた「新科学哲学」までもが槍玉にあげられていた状況を踏まえると、より物議を醸していたかもしれない。元は物理学徒であった野家啓一は、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『「知」の欺瞞-ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波書店)で攻撃されている論者の一部に見られる杜撰な議論はしていないし、のみならず、本書の邦訳にあたっての協力者であるだけに、仮に議論を拡張したところで、襲い掛かってくるだろう批判に対して、相応の対し方ができていたかもしれない。

 

いわゆる「ソーカル事件」について、一言触れておこう。ファッション感覚で消費されていた「ポストモダン」的言説は逆に、「ソーカル事件」が話題になるや、「王様は裸であった」とばかりに天から地へと引きずり降ろされた挙句、遂には、読みもしないのに、「フランス現代思想」と聞くだけで、「インチキだ!」と決めてかかり、あからさまに軽蔑の態度を示す者が俄かに増えた。僕は、ソーカルとブリクモンの主張全てに首肯できるというわけではないが、「フランス現代思想」として括られる少なからぬ論者の言説の一部に見られる「知的詐欺行為」を糾弾するソーカルらの批判は、出るべくして出た批判であると思っている。

 

ソーカルやブリクモンは統計物理学者であるが、哲学者からも、それら一連の言説に対する批判は寄せられていた。例えば、『アナロジーの罠―フランス現代思想批判』(新書館)や『哲学の自食症候群』(法政大学出版局)で知られるフランスの哲学者ジャック・ブーブレスが代表的な存在かもしれない。前者は、特にレギス・ドゥブレによる、ゲーデル不完全性定理の誤用を徹底的に叩くことに主眼が置かれているが、ソーカルやブリクモンのスキャンダラスな行為を糾弾するだけのジャック・デリダに対する批判も書かれている。後者は、構造主義ポスト構造主義に対するより広範な批判となっており、その文脈は異なれど、批判の対象者は、エリザベス・アンスコムの下で学び、英国の保守主義に立脚した思考を展開していたロジャー・スクルートンのThe Thinkers of the New Leftで槍玉に上がっている者らと重なる。米国の哲学者トマス・ネーゲルを、その隊列に加えてもいいだろう。

 

だが、その声は大きくならなかった。その理由は、彼らがソーカルのような派手なパフォーマンスをしなかったこともあるが、何よりも、英米の哲学科では、分析哲学・科学哲学・数理論理学や伝統的な哲学の解釈学が主流を占めているので、「フランス現代思想」の居場所は元からなく、予め摩擦が回避される「棲み分け」構造が見られ、「フランス現代思想」は主として文学研究の分野で受容されたきたからである。

 

ポストモダニズムの浸透に対する最も強力な「抵抗勢力」となったのは、英米の哲学科だった。ケンブリッジ大学が、デリダに対する哲学の名誉博士号を授与する際、ガーディアンと並んで英国のクオリティ・ペーパーとして名高いタイムズ紙上に、クワインやアームストロングなど名だたる哲学者が連名で反対声明を掲載した事件が有名である。デリダは哲学の分野以外の領域で影響を与えたかもしれないが、哲学に対する貢献という点で見れば、デリダはさほど寄与していないというのである。それどころか、ダジャレやレトリックまがいの舞文曲筆によって人を誑かすといった、およそ真理の探究や学問の誠実性に背を向けたことしかやっておらず、栄誉あるケンブリッジ大学名誉博士号を授与されるに相応しい人物ではないというのが反対声明の内容である。

 

ともあれ英米では、「フランス現代思想」は「フレンチ・セオリー」として、哲学以外の文学や社会学あるいは文化研究の分野において影響を及ぼした。ソーカルがパロディ論文を投稿したのは、「ソーシャル・テクスト」というカルチュラル・スタディーズ系の学術雑誌であって、権威ある哲学系ないしは科学哲学系の学術雑誌に対して投稿したのではなかった。無意味な科学用語や数学用語の濫用によって、その貧弱な主張に意匠を凝らして粉飾し、恰も深遠な主張をしているかのように装う「知的詐欺行為」に筆誅を浴びせかけた行為は、たとえその行為が「お行儀のよい行為」ではなかったとしても、倫理的に非難されるほどのことではないだろう。

 

但し、このソーカルらの批判を完全に真に受けるわけにはいかない。というのも、ソーカルらは、本書で異なる問題をないまぜにして主張しているからである。野家啓一『科学の解釈学』(講談社)が適切に整理しているが、その整理によると、ソーカルらの主張は、①「フランス現代思想」の「巨匠」たちに少なからず見受けられる科学用語や数学用語の無理解に基づく無意味な濫用への批判、②クーンのパラダイム論やクワインの認識論的ホーリズムやファイヤアーベントの方法論的アナーキズムなどの「新科学哲学」や反実在論の哲学的主張への批判、③「社会構築主義」や「フェミニズム科学」やラトゥールの科学論を含めた科学社会学の見解に対する批判に分けられる。

 

この著書の問題点を指摘するとすれば、極端な「相対主義」や「反実在論」の主張に対するソーカルらの批判は、ソーカル自身は脚注において否定してはいるものの、結局はソーカルらが「素朴実在論」という一つの哲学的立場を暗に前提にしているからこそなのではないかとの疑いが拭い切れない点が一つあげられよう。これは、未だ決着がつかない哲学上の大問題である。したがって、この点に関して、ソーカルらの主張を正しいと決めつけることはできない。

 

次の点も指摘できるだろう。すなわち、いわゆる「新科学哲学」で主張されている「通約不可能性テーゼ」に対する批判は、その極端な形態をとった過激な主張に関するものに限定されているが、ソーカルら自身が当初の批判の範疇を遥かに逸脱して、哲学的に見れば「過激な」・「極端な」主張になってしまっている点である。逆に、極めて精密な議論をするバス・ファン=フラーセンのような科学哲学者から手厳しく批判されるかもしれない。もっとも彼は、「構成的経験主義」に立つ「反実在論」を主張しはすれ、相対主義には反対の立場なので、ソーカルらの立場と全く相容れないというわけでもない(もちろん、ソーカルらの批判は、「第一の間奏」の箇所で、僅かに過激な主張に限定して展開しているに過ぎないが)。

 

「フランス現代思想」に少なからず見られる傾向について、ラカン、クリスティヴァ、イリガライ、ボードリヤールヴィリリオドゥルーズ=ガタリあるいはラトゥールらの言説を取り上げて批判するのはよいとしても、その舌鋒が彼ら彼女らの言説とは無関係な「新科学哲学」の一部の傾向に対する批判へと逸脱して、未だ根拠さだかならぬ一つの立場を絶対視しかねない主張を紛れ込ませてしまっているのが、ソーカルらの主張の欠陥である。

 

クワインの論文「経験主義の二つのドグマ」の中にある、「仮説の検証時に指示される観察対象は既に何らかの学説によって解釈されたものである」という主張がある。これは、決して相対主義を肯定する主張ではない。ハンソンの「観察の理論負荷性」のテーゼも、ある意味でウィトゲンシュタインの「アスペクト知覚論」と同様、観点の違いからくる経験の相対性に関係した議論なのであるから、これもまた相対主義を肯定する趣旨ではない。だから、この点に関しては、露骨な相対主義を主張するファイヤアーベントの学説に対する批判を除き、ソーカルらの主張のすべてを肯定するわけにはいかない。ソーカルらによる「新科学哲学」の一部の極端な主張に対する論駁は必ずしも成功しているとは言い難いのである。

 

ところが、「ソーカル事件」は、ソーカル自身の意図を超えて独り歩きしてしまった。つまり、ソーカルの批判やその対象者の文章を実際に読みもせずに知ったかぶりして味噌も糞も一緒くたにして非難を浴びせかけるだけに終始し、自己自身の知的怠惰を安易に正当化してしまう者を大量に生んでしまったということである。「フランス現代思想」の論者に見られた「知的不誠実」を主として批判する営為が、「知的不誠実」な者たちに歓迎されてしまったという不幸が、特に日本社会で見られたのである。

 

話を戻するとして、この野家啓一の「物語論」の主張と一部親和的な主張を展開する物理学者による見解も存在し、彼らは自らの科学的営為について、「物語と方程式の記述の間の動的な相互作用」と説明している。マサチューセッツ大学ボストン校の物理学者であるフックスらが主唱するQBismと呼ばれる考えによると、これまでの物理学は、以下のような物語行為によって書かれていたというのである。すなわち、「昔々、波動関数があった。これは、世界の物理系の状態を完全に表すと言われていた。波動関数の形状は、観測者がそれに対して実行する可能性のある測定の結果の確率をエンコードするが、波動関数は自然そのもの、つまり客観的な現実の客観的な記述に属していた」と。

 

フックスは、ベイズ確率として波動関数の確率解釈をする。ベイズ確率は、乱暴に言ってしまえば、測定結果に賭けるためのギャンブルの態度、新しいデータが明らかになると更新される態度と考えることができる。言い換えれば、波動関数は世界を説明するのではなく、観測者を説明しているのだというわけである。「量子力学は思考の法則である」とのブックスの言は、そういう意味であろう。「量子ベイズ主義」、またはフックスが現在そう呼んでいるQBismは、量子論の最も深い謎の多くを解決するかに映る。

 

例えば、「波動関数の崩壊」を考えてみよう。この場合、量子系は、複数の同時状態から単一の現実に不可解に遷移する。QBismによると、波動関数の「崩壊」は、単に観測者が測定を行った後に自分の信念を更新することである。1人の観測者が粒子を測定すると、向こう側の粒子の波動関数が「崩壊」するが、それほど不気味ではないことがわかる。ここでの測定は、観測者が状態に賭けるために使用できる情報を提供するだけである。しかし、我々は疑問に思う。ここでの観測者の測定は、2番目の観察者がそこで行う測定の結果に影響を与えるのか否か?と。もちろん、そんなことはない。波動関数は系自体に属していないため、各観測者には独自の波動関数がある。私の波動関数は他人の波動関数と一致する必要はない。

 

量子力学の解釈の中で、QBismは孤立している。伝統的な「コペンハーゲン解釈」は、観測者を古典外部系に置き、観察されているものを支配するものとは異なる物理法則によって支配される。2番目の観測者が最初の観測者を観察するためにやって来るまで、それはすべて上手く行っている。「多世界解釈」は、宇宙とそのすべての観測者が、「崩壊」することのない単一の巨大な波動関数によって記述されていると主張する。もちろん、それが成り立つためには、経路のすべての分岐点(すべてのコイントス、すべての決定、すべての瞬間)で波動関数が分岐することが必要である。我々がやろうとしやっていないことは、すべて「やっている」ということだ。宇宙に浸透し、宇宙のすべてを決定論的に支配する誘導力の存在を仮定することによって、より具体的な実在を世界に復元しようとするボームの解釈もある。

 

これらの解釈にはすべて共通点がある。波動関数を、複数の観測者が共有する客観的な実在の記述として扱っているという暗黙の前提を共有している点である。一方QBismは、波動関数を1人の観測者の主観的な知識の記述として扱う。それはすべての量子パラドックスを解決するが、我々が「実在」と呼ぶかもしれないものの犠牲を伴う。いずれにせよ、量子力学がずっと我々に伝えようとしてきたことは、単一の客観的実在を素朴に措定する態度は括弧に入れられるべきだ、ということである。

 

QBismはまた、多くの新しい、同様に重要な疑問を改めて提起するだろう。波動関数が観測者を表す場合、観測者は人間である必要があるか?と。さらに、その観測者は意識を持っている必要があるか?あるいは、波動関数を他者の波動関数と一致させる必要がない場合、我々は同じ宇宙にいると言えるのか?と。そして、量子力学が外部の実在を説明していない場合、何をしているのか?と。

 

では、QBismの物語はどのように終わるのか?最終的に、フックスは、恩師であるジョン・ウィーラーによって提起された問題、すなわち「なぜ量子なのか?つまり、なぜ世界は量子力学の奇妙な法則によってのみ記述できるような方法で構築されるべきなのか?」を問う。ジョン・ウィーラーは晩年、「法則のない法則」という奇妙な概念を主張した。すなわち、「結局のところ、唯一の法則は、法則がないということである」と。物理学の究極の法則は存在しない。物理学のすべての法則は可変的であり、その可変性自体が物理学の原理であるという、俄には信じがたい主張である。

 

シュレーディンガーは、ギリシャ人は我々を一種の支配に下におく力を持っていたと考えていた。ギリシャ人は、世界について考えることを進歩させる唯一の方法は、「知ある主体」なしでそれについて話すことであると考えていた。QBismは、量子力学は我々のいない世界のあり方についてではないと言う。理論の主題は、世界や我々ではなく、世界の中の我々、そして2つの間のインターフェースである。

 

初期の文明では、人々は客観性と主観性を区別する方法を完全に知らなかったと言われている。しかし、2つを分離するという考えが定着すると、我々はそうしなければならないよう躾られてきた。そして自然科学は、そうした態度の究極形態である。人々がQBismに対して抱く最大の恐れは、まさにこの点に関してである。それは、徹底した人間中心主義であるということである。この考えによると、物理学の法則は「そこにある」ものに関するものではないということである。むしろ、それらは我々自身の限界が何であるかについての我々の最高の表現である。我々が、光速は究極の制限速度であると言う時、我々は光速を超えることはできない。しかし、ダーウィンの言う「進化」によって我々の脳が大きくなったように、最終的には、今はできないことを利用できる段階に進化することを想像することができる。それらを「物理法則の変化」と呼ぶかもしれない。通常、我々は宇宙を、変えることのできない堅固なものと考えている。代わりに、方法論的には、正反対のことを想定する必要がある。宇宙は我々の前にあるので、我々はそれを形作ることができ、それを変えることができ、そしてそれは我々を押し戻す。それがどれだけ我々を押し戻すかに気づくことによって、我々は我々の限界を理解する。

 

ブルーノ・デ・フィネッティは、確率論に関する2巻本の冒頭で、「確率は存在しない」と大文字で書いている。彼はそれがフロギストン、魔女、エルフと妖精の道を辿るだろうと述べている。ピエール・ラプラスの時代には、確率は主観的な言明と考えられていた。すべてを知っているわけではないが、知識を定量化することで管理できる。しかし、1800年代後半から1900年代初頭にかけて、確率は客観的に見える方法で発展してきた。人々は統計的手法を使用して、実験室で測定できるもの、例えば熱などを導き出していた。したがって人々は、この量が確率論的考察のために発生し、それが客観的である場合、確率も客観的である必要があると考えたのだった。その後、量子力学が登場した。コペンハーゲン学派は、量子力学は完全な理論であり、完成し、閉じていると主張していた。これは、そのすべての機能が自然の客観的な機能であるべきだということを意味するとしばしば解釈されてきた。量子状態が確率を与える場合、それらの確率はまた、自然の客観的な特徴でなければならない。他方、量子力学が完全ではないと述べたアルバート・アインシュタインがいた。彼が量子力学の確率を説明した時、彼は確率を不完全な知識、主観的な状態の言明として解釈したようであった。

 

デ・フィネッティは、私の確率は私の経験に基づいており、他者の確率は他者の経験に基づいているので、私の確率と他者の確率が一致する理由は何もないと言う。その場合、我々ができる最善のことは、確率をギャンブルの態度と考える場合、我々の個人的なギャンブルの態度をすべて内部的に一貫させることである。それが、デ・フィネッティが「確率は存在しない」と言った際に意味したことである。

 

「量子ベイズ主義」を、フックスはQBismと呼ぶ。対して、フックスの研究仲間であるデビッド・マーミンは、彼らの結論を受け入れないベイズ主義者が多く存在する以上、QBismは「量子ベイズ主義」の略だと称するのは相応しくないと言う。それでマーミンは、ブルーノ・デ・フィネッティにちなんで「量子ブルーノ主義」と呼びたかったようである。但し、この呼称もまた問題含みである。というのも、デ・フィネッティでさえ、QBismの形而上学的部分は受け入れないだろうからである。

 

QBismは量子測定の結果を理解しているので、それは個人的なものである。他の誰もそれを見ることができない。ある個人的な経験を別の個人的な経験に移すような変化はない。ウィリアム・ジェームズは、「2つの心が1つのことを知ることができる」と主張しようとした時、ちょうど間違っていた。しかし、問題は違う。QBismは、ギリシャ人が持っていたように、世界が「外側」のものから構築されているわけではない。また、バークリーやエディントンのような観念論者が持っているように、「内側」のものから構築されているわけでもない。むしろ、世界の事物は、我々一人一人がすべての生きている瞬間に遭遇するものの性格にある。それは、内側にも外側にもない。2つの間の切断の前にあるものだ。

 

ベルの不等式は、世界の非局所性を我々に告げている。この非局所性とは何か?QBismの主張者は、代わりにベルの不等式が実際に示しているのは、測定結果は経験であり、すでにそこにある何かの暴露ではないという。もちろん、主観的な信念の程度について話しているわけだから、この時、この主張は科学的言明であると言いうるのかという疑問もでてこよう。ただ、それらを使用して、量子力学で確率を生成する数学的手順であるボルンの規則を別の言語で書き直すことができるかもしれない。ボルンの規則は、仮説の観点から現実を分析することに深く関わっているように見える。
 
なんちゃって。