shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

市民主義の哲学

昭和35(1960)年と言われて、すぐに思い浮かべるのは、日米安全保障条約の改定を実現しようとする岸信介内閣の打倒を掲げた一部の国民による激しい抗議運動である「60年安保闘争」であろう。「闘争」といっても、一部の都市において、一部の者が騒いでいた「ええじゃないか」みたいな騒動だったというのが実態だそうで、現に大都市の一部で局地的な盛り上がりを見せたというにとどまり、全国各地で国民多数が政府に反旗を掲げて抵抗した運動ではなかった。

 

この年に出された雑誌『思想の科学』7月号に、久野収の対話形式の論文「市民主義の成立-一つの対話」が掲載され、論壇全体に激震が走ったと言われている。真相はどうだったのか、実地に確認したわけではないので、あくまで想像の域を出ないが、確かにこの論文以降、積極的な意味で「市民運動」という言葉が使われ、特定の政治党派や労働組合が牽引する従来の左翼運動とは一線を画した運動が前面に出てきた。その意味で、この久野論文は、戦後日本の思想における一つの「切断面」となる「思想史的大事件」だったのかもしれない。いわゆる全共闘世代に熱狂的に読まれたということになっているらしい吉本隆明共同幻想論』(河出書房新社)よりも、後世の市民運動に及ぼした影響は大きい。

 

久野収は、中井正一とともに雑誌『世界文化』や『土曜日』を刊行し、「反ファシズム」運動に従事していた廉で治安維持法違反に問われて検挙された経歴のある、京都学派左派の系統に位置する哲学者である。林達夫などと同様に、博覧強記でなる大教養人であったが、これと言った主著を持たなかった人なので(先の論文「市民主義の成立」も、分量からすれば10頁ほどの短いものだ)、今では忘れられた存在であるかのような格好となっている。とはいえ、その代わりと言っては何だが、しゃべるわしゃべるわ、対談集だけで電話帳数冊分に上る。

 

谷沢永一『悪魔の思想-「進歩的文化人」という名の国賊12人』(クレスト社)の第7章「恫喝が得意な権力意識の化身 〈「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収(くのおさむ)への告発状〉」の中で、「左翼ジャーナリズムの“奥の院”」として攻撃を受けた。この谷沢の著書自体については、所々事実誤認が甚だしい箇所が散見されるし、また思想研究のレベルには到底及ばず、単に言葉尻を取り上げて罵倒の飛礫を投げつけるだけのゴシップ本の域を出るものではない屑本であり、『こんな日本に誰がした―戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』(クレスト社)と同様、さしづめ蓑田胸喜の劣化版といった著書である(橋川文三『日本浪漫派批判序説』における三島由紀夫とのやり取りに関する箇所を読めば、大江健三郎が「戦後民主主義の代表者」とは異なる側面を持つ偉大な小説家であることがわかるはずだ。よくもまあ、クレスト社は、渡部昇一『かくて昭和史は甦る』などの「頭が悪さ」丸出しの「エロ本」を濫造したものである。これでは「赤線地帯」と化した左翼論壇を笑えないだろう)。なお、公平を期すならば、谷沢永一には『大正期の文藝評論』(中央公論社)や『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋)あるいは『文豪たちの大喧嘩-鴎外・逍遥・樗牛』(新潮社)のような名著もある。他にも、本好きの者にとってはたまらない著作を数々残している優れた書誌学者の一面を持っている。しかし、粗製濫造の社会・政治評論の著作は、ことごとく屑本であることだけは断言できる。ただ、岩波書店の「権威」があった頃の雑誌『思想』の編集にも大きな力を発揮していた事情を踏まえると、左翼論壇で枢要の位置を占めていたことに相違ない。

 

なぜ、この論文が一つの「思想史的事件」となったのか。この論文が世に出る前までは、主として左翼論壇において、「市民」という言葉は、否定的な意味を帯びて用いられていた。概ね、「小市民」だの「プチ・ブル」だのといった意味を持って使用されていることもあれば、現実の階級関係を隠蔽するために捏造されたブルジョアイデオロギーとして機能する抽象的個人という虚像としての意味を持って使用されてきた。久野の論文は、こうした否定的意味を担わされてきた「市民」という言葉に、積極的な意味をまとわせた画期的な論文であったというわけである。そして、久野は後に自らを「市民主義者」と称するまでになっていく。

 

では、久野収が積極的に肯定されるべきものとして再定礎した「市民」とは、いかなる存在か。久野が定義する肯定的な意味で捉え返されるべき「市民」とは、「職業を通じてのみ生活をたてている人間」ということになる。久野は、「職業と生活との分離が必要」であると言う。「どこからどこまでが自分の職業で,どこからどこまでが自分の生活かが分離していない生き方からは,身分的人間が生れても,市民的人間は生れてこない。職業と生活とが分離していれば,農業も市民の有力な一部分だが,農民が市民とよばれにくいのは,日本の農村ではこの両方がごちゃまぜになりがちで,戦後の改革をまってこの分離がやっと地につきだしたからだった」と主張する。ホワイトヘッドは、“仕事”が“職業”として生活から分離しなければ,仕事の中に理論的知識の導入による着実な改善は実現しにくいし,仕事は現在の習慣や伝統の支配を脱することができないと述べている。そして、日本の農村共同体から社会変革の声が出てきにくい原因は、「仕事が職業化されて,生活から分離しないところにある」と判断する。

 

久野は、この点を確認した上で、職業の特質について論じる。その特質としてあげているのは、「職業組織は本来国家権力とは無関係だという」点である。日本においては、「国家権力からの遠近,国家 権力のテコいれの度合によって職業の高低をきめ,国家権力の国策決定にはアプリオリに弱い日本の職業人的慣習からすると,この特質はなかなかわかりにくいし,自覚されにくい」と。しかし、そもそも職業人の自主的組織であるギルド(同業組合)やツンフトを考えるならば、ギルドは自分たちの職業を国家権力とは無関係にやれる権利を金をだして国家権力から買いとって,自主と自治の母体になったわけだし、「“自リバ由テイ”が“免許状ライセンス”からはじまる」のだと。要は、市民は、職業人(専門家)と生活人の両面を通じて自分を自覚していったといってよい。誤解をおそれずいえば,生活人の側面は都市や地方自治体の中でのばされていった。

 

但し、職業組織,同業組合は根本のところが国家権力への“翼賛組織”の域を出ていない。だからこそ,戦争協力のレールがあれほど見事にしかれたのだ。たとえば新聞人という職業がある。新聞という職業は階級的にみれば,経営者と労働者にわかれるだろうし,職制からすれば,デスクや現場記者,営業部や印刷所にわかれるだろう。しかしそれと同時に新聞人という同一の職業に属する職業的市民の立場があるはずだし,この立場は各社の企業のカベをこえる連帯を持っているはずだ。この立場にたって,政治権力とは無関係なところから,政治権力の政策決定が新聞人の職業をやっていくうえに不都合なところがあれば,どうどうと批判し,抵抗し,訂正をせまらねばならない。久野によると、「市民運動とは,職業人としての自覚にたったこのような運動のこと」だといってよい。こうした動きは,労働者としての動きとは別に考えられてよいし,協力する場合もあるし,平行する場合もある。

 

そして、安保反対の運動に対して久野は次のような診断を下す。「従来の職業的革命家にひきいられる前衛的少数派としてデモをおこなっているのではない。学生としての職分からみて,許しがたいと判断したからこそ,猛然とたちあがった。東京の諸大学でいえば,常時出席者数の約半分が街頭にすわりこんでいる。平素はまったく勉強と遊びのなかに余念のない学生の多くの顔がそこにあるということが重大である。ジャーナリズムは彼らを名づけようがないので,主流派,反主流派などとよんでいるが,彼らは実は無流派の市民学生だ。彼らは目のまえの状況をかえるためにでてきたのであって,マルクス主義や革命運動とはほとんど何の関係もない。むしろ職業政治家たちや職業革命家たちのあいかわらずの指導者意識や指導者行動を苦笑しながら見あげていた。ぼくは一緒にすわりこんで下から指導者のアジ演説をする顔を見あげながら,周囲の学生の苦笑する姿をはっきりとみた。ここにも運動にくわわった新しい質と量のはばとあつさをみることができる」と。

 

もっとも、この段階に久野は安住しない。運動の根底にひそむ市民的エートス,特にその職業人的側面は明らかになったとはいえ、しかしこの側面からもたらされる声は小さいと、久野は率直に認める。必要なことは、「すべての種類の職業人がめいめいの職業は本来,国家権力とは無関係のもので,国家権力の態度決定に賛成するか反対するかは,めいめいの自由なんだという自覚をどれだけ深めるか。国家権力のくわえる統制や干渉を一致してしりぞける力をどれだけやしなえるか。国境をこえて世界の同業者,同職者とともに共通の判断,共通の価値尺度をどうしてきずいていくことができるか」である。この観点からすると、安保反対運動は、まだ市民的人間への成熟に達していないことになる。各種各様の職業組織の微妙な自己調節と相互調節による社会の充実こそ,文明の向上をはかる尺度であるからだ。

 

久野は断言する。「市民は革命家ではない。だからさほどの不満,よほどの憎悪がなければ,街頭にあふれでるものではない。職域と地域を往復し,職域ではたらき,地域でやすむものだ。その市民が現在みられるように,毎日毎日街頭にでて,抗議の意志を表示する人々の数がふえつづけているのは,実にたいへんなことだ。政治的保守派は地域をおさえ,政治的進歩派は街頭をおさえ,職域は両方がとりあう。保守派とは,市民を職域と地域に安住させ,街頭にでて抗議することをまえもって防止する政策をとるグルー プということだ。ウォールポールのいいぐさではないが,“静まっている水をことさらに波だてない”Quieta non movereをモットーとする。彼は,できるだけこうしておいて,商人階級の利益を着々と表現した」と。

 

久野が期待を賭けるのは、「地域における市民の向背」である。市民はここで有権者ないし主権者として現れる。とはいえ、久野は注意深く念押しする。市民の生活地域における政治活動の組織は,政治活動だけを目的にしてはいけないという点である。そして、「パートタイマー」的な政治活動を敢えて前面に立てる。すなわち、「目のまえの生活上の利益をまもり,ふやすグルーピング,生活をゆたかにするグルーピングが,第二次的な目的として国政的政治活動を,・・・,パートタイマー的におこなうのがいちばんよいのだ」と。

 

されど、言うは易し、行うは難し。地域の“市民会議”は,その下に複数の小集団が活動していなければ上手く機能しない。ところが、この小集団を「ゆったりと」かつ「いろいろな方向で」組ませることは容易ではないことを、久野は了解済。さらに、こうした小集団や“市民会議”には,政党の原理や職域の地位や労組の主張などが持ち込まれてはいけないが、政党や職域や労組の活動家たちには,その自覚がないことを指摘している。すぐにそれぞれのグルーピングなり, “市民会議”なりを自分らの思う方向にもっていこうとする。逆に「これらのグルーピングや“市民会議”こそ,めいめいの認識,めいめいの判断,めいめいの実感,めいめいの動機が一層ふかめられ,公的な認識,公的な判断,共通的実感,公的な動機に転化する場所として,政党の原理,職域の仕事,労組の主張をたえずフレッシュにくみなおすエネルギーのわき口なのだ」が、「既成のアクティーブたちには,新しいエネルギーのわき口を既成の原理,既成のルーティン,既成の主張でおさえてしまえば,エネルギーはかれてしまうということがわからない」。ただただ、「労組と地域との結合だとか,政党の地域への浸透などといってよろこんでいる」。だから、「とにかく地域のグルーピングでは,政党や労組や職域でのステータスは,ぜんぶ消えなければうまくいかないだろう」と診断している。

 

こうした診断は、戦前から左翼運動に携わって、その内部のいざこざから自己崩壊していった運動の顛末を身をもって知る久野収だからこそ、下せるのかもしれない。そして、この課題は、1960年から60年経過した現在も、なお解決されていない問題として残り続けている。左翼運動が下火のままであり続けている原因は、既に久野収によって指摘されていたというわけである。

 

日本国憲法第九条の改正をめぐる護憲運動組織として、井上ひさし梅原猛大江健三郎・奥平康弘・小田実加藤周一澤地久枝鶴見俊輔三木睦子の9人が呼びかけ人となって「九条の会」が結成されたのは、平成16(2004)年である。この組織は、あくまで外部の者として見た限り、先に上げた久野収の運動論が反映されているように思われる。全国組織はあるものの、地域別・職域別の各々の「九条の会」の小集団が形成され、緩やかな連合体の形態をとっている。しかも、「九条の会」には、個別の政治的イシューや思想の方向性などにおいてそれぞれ異なる考えを持つ者が入り混じるわけだが、こと九条問題に関しての大きな方向性についての一致という点で結びついた連帯という形を維持しているかに見える。

 

限定的集団的自衛権行使を許容する「安保法制」をめぐる反対運動にも、こうした運動論が影響を与えているのではないか。大学生有志が立ち上げた「自由と民主主義のための緊急学生緊急行動(SEALDs)」の運動は、固定された特定の政治党派により主導された運動ではなく、個別の政治イシューで一致を見る者たちが、それこそ「政治的市民」として、いわば「パートタイマー的」に集った緩やかな連帯と見るのが自然だろう。もちろん、左翼党派の中には、盛り上がった運動体に入り込み、自党派へのオルグを通じて浸透を図ろうと意図して参加した者もいるだろうし、おそらく、そうした意図を感じ取って、一定の警戒を怠るまいと行動していた者もいるに違いない。いったん活動を終了したと聞くが、これも肯定的に捉えるならば、組織の固定化・硬直化によって瓦解してきた左翼運動の二の轍を踏むまいとの意思から出た選択かもしれない。

 

このように、久野収の論文「市民主義の成立-一つの対話」は、短い論文ながらも、未来の市民運動の方向性を先取りする思想、すなわち「市民主義の哲学」の誕生を告げるものとなったのである。

 

かくいう僕は民族派右翼の立場なので、左翼市民運動の依って立つ思想的立場とは真逆、いうならば彼ら彼女らの「敵」なのであろう。また、ここで理想化された「政治的市民」ないし「市民的人間」からは逸脱してしまう「野蛮な暴力」に惹かれる側の人間なので、当然にこの「市民主義」には共鳴できない。やくざ者として市民社会から排除された者、またヤンキーとして市民社会の規範からの逸脱を志向する者、「ツヨメ(脱社会的逸脱行動)」・「チャライ(性愛の活用)」・「オラオラ(反社会的暴力性)を併せ持つ、荒井悠介『ギャルとギャル男の文化人類学』(新潮社)で分析された旧「イベサー」の一部の者、生まれつき心身に「障害」を持っているが故に、暗黙の内に普通の「市民」の類型からは除外されている者は、ここで言われる、「職業を通じてのみ生活を立てている」者として想定されていない。

 

ともかく、この「市民主義の哲学」は、「敵」としてバカにはできないことは確かである。そこで、この「市民主義の哲学」との間に引かれた対決線の向こう側に属する、「ヤンキーの哲学」というものがあるのだとすれば、それはどういった形で定礎できるのだろうか。