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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

多世界解釈に対する素人からの疑問―ボルンの規則の導出について

量子力学多世界解釈における確率の問題は、世界の分岐がボルンの規則と無関係であるために発生する。この理論では、測定結果の可能な組み合わせ系列は量子振幅のサイズに関係なく(それがゼロでない場合)量子状態のいくつかの分枝で実現される。これは、理論に経験的な内容が付与されていないことを意味する。

 

ヒュー・エヴェレットとブライス・ド・ウィットは、ボルンの規則は理論自体から(つまり、ユニタリーな量子力学と、その相対状態解釈から)導出できると主張した。この主張は後に、デイヴィッド・ドイッチュ、デイヴィッド・ウォレス、サイモン・サウンダーズらによって復活され(「オックスフォード学派」と呼ぶ向きもあるようだ)、ボルンの規則は幾つかの非確率論的な合理的意思決定理論の公式から導出できると主張している。この考えの要点は、ユニタリーな量子力学に合理的決定理論を適用し、決定理論の表現定理の量子論的バージョンを証明することである。その結果は、エヴェレット的(デイヴィッド・ルイスの言うところの)「主要原理Principal Principle」になるということであり、このエヴェレット的「主要原理」によると、多世界宇宙において分岐した観測者は、もしその観測者が合理的ならば、行為のための主観確率として量子確率を採用するよう制約されるはずだというのである。したがって、量子状態の全体的な決定論的力学にもかかわらず、合理的観測者は量子測定の結果が真に確率的であると信じるだろう。確率は、崩壊を伴う標準的な量子力学がそうであるように、ボルンの規則によって与えられる。

 

あくまで門外漢としての僕の疑問でしかないが(こと確率論については、これまで研究してきたし、何より仕事で利用している身だから、素人ではないつもりだが、物理学については全くの素人である)、ここでの感想は、次の2点に集約できるだろう。すなわち第一に、このような主張は、量子状態の決定論的力学と分岐描像と完全に一致しないため、非量子論的な頻度の世界の発生確率がゼロもしくはゼロに近いことを否定することができないという点である。つまり、多世界理論では、量子測度ゼロを確率ゼロで識別することは意味がないと思われる点である。

 

第二に、たとえ合理的観測者が多世界理論を真であると信じていたとしても、量子力学の統計的予測が正しいと信じる理由はないのだから、合理的決定理論に訴えることによって問題を解決できるかどうかは明らかにはならないという点である。多世界解釈の有力な提唱者であるデイヴィッド・ドイッチュの決定理論的アプローチも、いまいち説得力を欠く。特に、ボルンの規則は、多世界理論から導き出すことはできないと考えられるからである。

 

多世界理論が仮に真である場合でも、全世界の一部の部分集合で発生する頻度のみがボルンの規則に合致するのみである。したがって、この部分集合の世界を追跡する観測者のみが、ボルンの規則と量子論双方が真であると見ることになる。さらに、多世界理論では、ボルンの規則だけでなく、確率法則も無意味になる。この問題を解決する唯一の方法は、多世界理論に、やはり確率的な要素を追加することでしかないのではないかということである。

 

エヴェレットとド・ウィットは、量子力学の多世界(または相対状態)解釈を量子力学における測定問題の明示的な解決策として提案した。多世界理論の動機は、それが相対論的定式化で記述できるという事実から始まる。この点で、崩壊理論と「隠れた変数」理論の両方の説明よりも優れているように思われたからである。多世界理論では、崩壊のないユニタリーな量子力学を完全な理論とみなしているため、理論が世界について言及することを理解するには、量子状態の解釈の根本的変更が必要となる。

 

これは以下のように、まとめることができるだろう。宇宙の純粋な量子状態が与えられた場合、その部分集合には常に、独自の量子状態を割り当てることができる。一般に、この状態は純粋ではなく混合状態である。但し、時間tでの宇宙の全体的な状態を考えると、ゼロ以外の振幅を持つ宇宙の部分系の状態は、同じ時間tでの宇宙の残りの相対状態を一意に決定するのだと。

 

「相対状態」の意味を理解するには、次のことを考えればいいだろう。Hを宇宙のヒルベルト空間とし、宇宙に(純粋な)量子状態があるとする。宇宙を2つのサブシステムH =H1⊗H2に分割することを考える。H1は特定の物理系に関連づけられた空間であり、H2は「宇宙の残り」であると考えることができる。H1の基底とH2のを取って、宇宙の状態について、これら基底に関して表現する。

 

多世界理論では、物理系には絶対的な量子状態ではなく、同じ分岐内の別の系の状態に対する相対的な量子状態が割り当てられる。これは、重ね合わせの各分岐がある種の独立した存在と見なすことができ、すべての分岐を同等のステータスで扱う必要があるという直感を正当化するために取られている。エヴェレットとド・ウィットが述べたことは、標準(崩壊)量子理論とその統計的予測のすべての通常の機能は、ユニタリーな量子力学と一緒に普遍的な量子状態によって与えられた説明から、相対状態のスキーム内で導出できるはずであるという信念からだった。ここでは崩壊は想定されておらず、量子力学的状態以上の余分なまたは「隠れた変数」は仮定されていない。

 

多世界理論において、デコヒーレンス(例えば、ディーター・ツェーの言う)は、いわゆる優先基底問題(我々の経験が、特定の粗視化された状態に関連づけられている理由の問題)を解決するための鍵である。デコヒーレンスは、デコヒーレント状態の観点から定義された粗粒の分岐を生成することを示すことができ、これは通常の準古典的な経験を説明するのに十分である。デコヒーレントな分岐は互いに独立して進化し、そのような分岐では再干渉の観測可能な影響は無視でき、観測者は波動関数の分裂(自分の状態の分裂のどちらでもない)を認識できない。

 

多世界理論の主な問題は、標準的な崩壊量子力学の確率論的内容をどのように説明するかである。この問題は、エヴェレット-ド・ウィット的分岐が量子確率とは無関係であるために発生する。繰り返し測定の有限集合では、シーケンスがゼロ以外の量子振幅を持っている限り、標準理論の予測とは根本的に異なる相対頻度のシーケンスを含め、結果のシーケンスが確実に発生する。対照的に、標準理論は、崩壊仮定とボルンの規則を介して確率に関係づけられている。したがって、発生する可能性が高い典型的な分岐と、非典型的であり確率が減少しかつ観察されることは稀である逸脱分岐との間には、自然な違いがある。多世界理論における問題は、我々の経験を説明する標準理論のこの特徴を説明することである。

 

標準的量子力学は、確率論的崩壊仮説のおかげで、結果のシーケンスが多項確率であるランダムなものであることを意味する。標準理論では、これらの確率は真の確率過程に対応するものとして解釈される。すべての組み合わせ可能なシーケンスから、1つだけが実現される。さらに、Nが∞に近づくと、実際のシーケンスが量子確率と一致する相対頻度を示す確率は1に近づく。言い換えれば、典型的な一連の結果がボルンの規則に従うという事実は、ランダム変数についての古典理論の大数の法則の単純な帰結である。

 

他方、多世界理論では、上記の一連の測定は、量子状態での分岐によって完全に記述される。この状態は分岐の重ね合わせであり、実際には長さNのシーケンスのすべての組み合わせ可能な組み合わせを使い果たし、それらはすべて実在している。これは、観測者の組み合わせの過半数が、量子力学が彼らの経験と矛盾することを発見することを意味する。したがって、一般的な規則として、観測された頻度から量子確率が(経験的推測として)推測される可能性があると明確に主張することはできない。さらに、振幅の二乗係数を定義したとしても、その確率は、すべての分岐が実在のものであるため、無関係である。つまり、真の確率論的プロセスとしての測定がない場合、世界の組み合わせの大多数はまだ典型的ではない。

 

あくまで素人の思いつきでしかないが、組み合わせの数え方が正しいものであると思われないのである。要は、確率測度が多世界理論によって自然に選択される意味がまったくないという点である。これまでのところ、測定の分岐の数は、考えられるすべての結果の数によって決定されると想定してきた。これは、エヴェレットが理論を画定した方法である。しかし、デコヒーレンスに基づく説明では、各結果に関連づけられた分岐の数は無限であることが指摘されている。これは、この数がデコヒーレンス基準の正確な選択、粗視化の程度、および他の要因に敏感に依存することを意味する。

 

一連の測定の可能な結果の有限集合は、少なくとも1つの実際の分岐(世界)に対応する。多世界理論は、それ自体では分岐を超える尺度を提供しない。そのような方法がない場合、ある分岐が別の分岐よりも典型的であるかどうかを判断する方法はない。問題は、典型的であるという概念(typicality)や分岐に関する尺度を直接的または間接的に想定せずに、ボルンの規則を多世界理論から導き出すことである。果たして、それが可能なのか、疑問が尽きない。

 

世界の部分集合を、状態によって記述された分岐に関連づけるとしよう。各部分集合の測定値は、対応する分岐の振幅の2乗で与えられ、ウェイトが大きい部分集合は、ウェイトが小さい部分集合よりも多くの世界を含むと解釈される。このような理論は、測定結果に関する標準的な量子力学の予測と互換性を持たせることができる。しかし、僕が思うに、それは個々の世界が確率的に個々の世界の文脈遷移確率で進化するという変装された「隠れた変数理論」とどう違うのかという疑問につながる。さらに、そのような理論では、世界の部分集合は含まれない量的特性を持ち、量子論自体から推測することはできないのではないか。

 

ド・ウィットは、崩壊仮説のない量子力学の非確率論的部分から単純に続くと主張した。つまり、量子確率と一致しない頻度を持つ分岐の量子測度はゼロであるため、量子力学的分岐は実際には典型的(測度1を持つ)であり、頻度が異なる分岐は非量子確率は、発生する確率はゼロである。しかし、これは循環論法である。相対頻度の定理は、量子力学的頻度を持つ分岐が量子測度1を持つことのみを伴う。シーケンスは、ヒルベルト空間の内積によってR∞iに収束する。したがって、ボルンの確率則は、R∞iの固有値を一般的なシーケンスの制限頻度で特定するときに暗黙的に想定されている。ド・ウィットの議論は、相対頻度の限界として確率を定義するために、古典的な強法則を適用する試みに類似している。

 

ドイッチュ、ウォレス、サウンダーズ、グレーブスなどによって進められた多世界理論における意思決定理論的アプローチに目を向けるとすると、ドイッチュは、量子論の非確率論的公理および古典的決定理論の非確率論的公理となるものから、ボルンの規則を導出できると主張している。ボルンの規則を導き出す際のドイッチュの核心的な考えは、ドイッチュの定理が仮定されているということである。ヒルベルト空間形式のみに依存するか、または先験的な合理性の原理に依存するかである。したがって、ドイッチュの定理を解釈して、決定理論の非確率論的公理によって定義される意味で、量子力学がボルンの規則を取り除いたものも、ボルンの規則を行為の一意の確率関数として採用するように制約されていることを意味すると解釈される。これは、多世界理論が真である場合(これは崩壊とボルンの規則が取り除かれた量子力学であると想定されている場合)、合理的なエージェントが量子測定の結果の予測に依存するすべての決定を必ず行うことを意味すると見なされている。

 

ドイッチュ、ウォレス、サウンダーズなどによると、崩壊を伴う標準的な量子力学の確率論的解釈全体は多世界理論で導き出せるものであり、その結果、確率問題が解決されるとされている。ドイッチュのアプローチは、ラムジー、サベージ、デ・フィネッティなど、合理的エージェントにおける優先順位に基づいて確率を定義しようとする者らによって展開された確率の哲学における「主観主義」の伝統に属する。しかし、ドイッチュの定理は、特定の選好集合に対して一意的な確率関数をもたらさない、古典的決定理論の一般的結果よりも遥かに強い主張をしている。明らかに、量子確率へのドイッチュのアプローチが成功した場合、それは一般に、確率への主観的アプローチに強力な支持を与えることに違い。しかしながら、だからと言って、ドイッチュの定理が多世界理論の確率問題を解決するとは考えられない。

 

ドイッチュは、古典的な決定理論が多世界理論に適用可能であると想定している。後者は決定論であり、閉じた系の(純粋な)量子状態がそれを完全に説明すると仮定されているため、これは自明ではない。一方、決定理論は不確実性に直面した合理的な行動の理論である。多世界宇宙でエージェントが直面する不確実性の性質が何であるかは、正確には明らかではない。対照的に、古典的決定理論へのすべての基本的なアプローチは、事前に不確実性の概念を前提としている。これは、確率によって直接表されるか、または事後確率が確率を生じさせる尤度次数として表される。したがって、決定理論を適用するために必要とされる不確実性の概念は欠落しており、それがなければ、ドイッチュの証明を根拠にすることはできないはずである。それにもかかわらず、多世界理論ではある種の主観的不確実性は量子状態とその決定論的力学の完全な知識と互換性があると主張されているわけである。

 

多世界理論では、ボルンの規則は合理的決定理論(の確率論的でない部分)があろうとなかろうと、量子力学の非確率論的な部分から導出することはできない。分岐は、量子力学的確率とは無関係であるということである。しかし、問題はさらに深くなる。多世界理論でボルンの規則は導出できないだけでなく、観測者が事後測定で自分自身を見つける確率分岐は、普遍的な量子状態におけるその分岐の確率振幅の2乗に等しいとする確率規則を追加の経験的仮説として仮定することも理解できなくなるのである。

 

多世界理論において、確率を使って量子測定を多世界理論における確率として同定することの意味を考えてみる。確率をどのように理解しても(つまり、信念の度合い、相対頻度、客観的偶然)、確率がその役割を果たすことになっている場合、それは少なくとも、我々の世界で実際に発生する相対頻度が典型的であることが判明するような仕方で我々の世界において出来事が生起する統計的パターンに少なくともアポステリオリに関連している必要があるということである。物理学理論において、確率がどのような役割を果たすのであれ、これは必要条件である。量子論的確率規則は、多世界理論ではこの条件を充足しえない。なぜなら、この理論では、力学は量子確率と無関係に、いかなる可能な組み合わせのシーケンスも完全な確実性を以って起こることを論理的に含意してしまうからである。

 

量子状態のユニタリーな力学では、ボルンの規則を世界で発生する頻度に関連する方法で選択するものは何もない。我々のようなエージェントでさえ、アポステリオリに量子確率に適合しているように見える系列を観察したとしても、未来の行為に対する主観確率として量子確率を採用することは、完全に恣意的である。というのも、量子確率に合致しない頻度を観測するように制限されている我々の複製が存在するからである。我々そして我々の未来の「コピー」の何人かにとって、量子確率規則が誤っていることが判明するだろう。したがって、多世界理論が真であると信じる場合、未来の行為の主観確率として量子確率規則を採用することはまったく不合理である。そうすると、そもそも合理的決定理論が多世界理論に適用できるかどうかさえ自明ではなくなる。