shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

田辺元と弁証法

『最近の自然哲学』や『科学概論』そして『数理哲学研究』などで知られる田辺元は、その哲学研究の営みを科学哲学研究から始めた。第一高等学校の理科で首席であったように、元から自然科学に関心があったわけだが、その基礎となるはずの哲学に関心が移っていったのだろう。実際、科学研究に従事することになれば、目の前の課題に追われ、基礎理論を探求する悠長な真似はできそうもない。そういった事柄は「暇人」がやることだから、暇を謳歌できそうな哲学科に移ったことは、田辺の問題関心から言っても、賢明な判断だったと言えるかもしれない。

 

科学哲学といっても、それをどう捉えるかに関して、今日では大凡二つの考え方に大別される。一つは、論理的経験主義を表明していたハンス・ライヘンバッハ『科学哲学の形成』(みすず書房)に代表される立場、すなわち「科学的に哲学する」という考えに基づき、「方法論としての科学哲学」を追求する立場である。ちなみに、論理実証主義者の集団「ウィーン学団Wiener Kreis」のメンバーが、ライヘンバッハと同様の科学哲学観を持っていたかというと、必ずしもそうではない。ライヘンバッハの場合、個別の科学の成果を分析・批判することによって哲学の諸問題を解決していこうとする科学的哲学を目指したのに対して、「ウイーン学団」の主流の依って立つ前提は、世界について有意味な言明は経験科学の言明のみであり、哲学は世界について何も語らないということ、そして哲学本来の役割は、科学の概念と文の論理的分析に尽きるという立場であり、明らかに異なっている。彼らに共通していたのは、形而上学批判と、文学的修辞でごまかす類の哲学の一部に散見される傾向に対する露骨な嫌悪くらいなものである(特に、ハイデガー的な文章への軽蔑)。

 

もう一つは、自然科学や社会科学といった科学的営為を対象にし、科学理論の意味や観察と理論との関係や、法則と実在との関係などについての哲学的分析、あるいは時間や空間の存在論的位置づけや、進化と自然選択の意味などといった個別の哲学的問題を分析の対象にする哲学の総称としての科学哲学という意味である。つまり、考察対象を科学の営みに限定しつつ、科学理論一般の持つ存在性格をメタレヴェルに立って考察する哲学的な営み、もしくは科学理論の対象になる事柄そのものに潜む哲学的な問題を個別に抽出し、それに対して哲学的な分析を試みる営みを指す。現在では、科学哲学といえば、圧倒的に後者の意味で用いられている。

 

では、田辺元の科学哲学は如何なる性格を持っているか。田辺は、科学哲学を単に科学を対象にする哲学といった哲学の一部門とは考えず、さりとて「科学的に哲学する」というライヘンバッハ的な意味で考えるのでもなく、科学を媒介にした哲学、「科学の自覚としての哲学」を模索した。これはちょうど、メタフィジックスがフィジックスとの緊張関係の中で初めて成立するように、古代からの哲学の根本問題そのものを扱う「正統派」の哲学観だとの意気込みだったのではないかと思われる。その意味では、後者の見解にやや近いと言えるかもしれない。

 

後に、社会哲学へと関心を移したかのように見えるが、しかし晩年の『数理の歴史主義展開』にみられるように、主な関心事が社会哲学になったとしても、「田辺哲学」を貫く根本は、若き頃の科学哲学研究に支えられていたとも言える。科学哲学研究から出発したその延長で、自ずからカントの批判哲学の研究に向かい、カントの本来の意図がそうであったように、科学批判を通じた形而上学の可能性に関心が拡大した。そこから、ドイツ観念論の再検討へと至り、フィヒテシェリングそしてヘーゲルについての研究へとさらに広がっていったのである。

 

この哲学的進展の内的動機と、時代の直面する社会的現実の課題への関心という外的動機の両面から、遂には歴史的社会的存在の問題について、マルクス主義との対決を試みたり、徐々に台頭し始めてきた国家主義民族主義との対決のために、「種の論理」として一括される種々の論文で表明された社会存在論に取り組むことになった。この「社会存在論」は、古代の「自然存在論」や近代の「人格存在論」に対する第三の段階と位置づけられた、「基体即主体」とする存在論であって、前二者の弁証法的総合でもあった。

 

国際政治学者で著名な高坂正尭の父で、カント研究や歴史哲学研究でも知られる、「京都学派第二世代」を代表する哲学者高坂正顕の回想によると、田辺元マルクスの革命的実践の意図を認め、それに同情的であったとのことである。しかし同時に、マルクス弁証法には批判的で、特にそのエンゲルスの「自然弁証法」に対しては、多くの哲学者の例に漏れず、あからさまな嫌悪を抱いていたという。僕の知る限り、エンゲルスの「自然弁証法」を評価している優れた哲学者は皆無である。スターリン時代のソ連の「公認学説」であったマルクスレーニン主義の哲学(ソ連科学アカデミー哲学研究所が編集した『マルクスレーニン主義哲学の基礎』に代表される)は、実在や思考をも貫く原理として「弁証法唯物論」を措定した上で、それを歴史に適用したものを「史的唯物論」とし、自然に適用したものを「自然弁証法」として位置づけしたわけだが、もちろん、こうした哲学体系をマルクスが抱いていたかは大いに怪しい。否、むしろそれどころか、マルクス自身の思考とは似ても似つかぬ代物とと言ってもよい。

 

こうした誤解はレーニン毛沢東などにも見られたわけで、そのレーニンの理解は、一時「赤色図書館」を作れるのではないかと思ったくらい左翼文献を片っ端から収集していた僕の見立てによると、カウツキーに遡ることができるのではないかと勘繰っている。もちろん、革命路線や現状分析に関してカウツキーと対立し、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』を著す程のレーニンであったが、ことマルクスの哲学についての理解は、カウツキー由来のままだったのではないかということである。その影響は、レーニン『哲学ノート』とエンゲルス『反デューリング論』からの引用に頼り、マルクスのテクストから直接引用することがほとんどない毛沢東『矛盾論』にも及んでいる。

 

この弁証法唯物論哲学としてのマルクスレーニン主義に対しては、教条主義マルクス主義墨守する戸坂潤を除いて、田辺元和辻哲郎三木清は、早くから異論を表明していた。戦後では、初期マルクスから影響を受けた、和辻哲郎に教わった梅本克己や、極左暴力集団日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(いわゆる「革マル派」)の最高指導者であった黒田寛一らも旺盛な批判を展開していた。黒田寛一『現代唯物論の探求』(こぶし書房)は、優れた著作である(意外というべきか、こぶし書房から出されている著作は、歴史的名著とされてもおかしくはないものが結構ある)。中でも、廣松渉マルクス主義の地平』(勁草書房)が先鋭的な批判を展開していた。日本以外でも、西欧マルクス主義アルチュセール構造主義マルクス主義、ヘーゲリアン・マルクス主義者としてのフレデリック・ジェイムソンも、旧ソ連公認の哲学体系を支持してはいない。ソ連が崩壊して既に30年経過した今日、「弁証法唯物論哲学」を恭しく奉じているのは、日本共産党系の学者くらいではないだろうか。

 

田辺元マルクス主義との対決は、雑誌『哲学研究』に6回に亘って掲載された「弁証法の論理」という論文から始まった。その後の『ヘーゲル哲学と弁証法』の序文には、以下のような記述がある。

之(「弁証法の論理」のこと)を書いた直接の動機というべきものは、当時急速に大学の学生間に勢力を有し来った唯物弁証法が、一部無批判なる人々には宛も魔術の棒の如く万能の論理と信ぜられ、これさえあらば一切の学問認識は直ちに獲得せらるる如くに考えられ、現に数学の如きも正負反対の数の結合を取扱うものたるを以て弁証法に由り処理せらるると語る人あることを伝聞して、論理に携わる教師の一人として黙すべきにあらざるを痛感したことにある。・・・私の弁証法ヘーゲル哲学とに関する研究は、直接には弁証法唯物論に対する関係に動機づけられたものである。現在までの私の思索の結果は、唯物史観を半面の真理として認めつつ、而もその説く実践の概念を否定し、無産階級独裁の為の闘争行為を直接に実践の必然的内容とする如き主張に反対して、歴史を支配する見えざる全体に対する目的論的道徳的実践を強調する絶対観念論に外ならない。私はこれが階級的に制約せられつつ階級を超え、存在に規定せられながら却って之を媒介として精神内容を実現せんとする思想の本質に相当するものであると信ずる。思想の存在に由る規定の一面のみを認めて、それに対する自由形成の他面を無視するならば、弁証法唯物論を主張する思想家自身が自家撞着に陥ることを免れない。思想は存在に限定せられると共に限定せられず、却って之を限定するが故に弁証法的なのである。私は正しき弁証法の理解が観念弁証法と共に唯物弁証法をも併せ斥けて、両者を超ゆる絶対弁証法に至るのでなければならぬことを確信するものである。

田辺元が『カントの目的論』における立場から弁証法的立場に至った要因は、マルクス主義との対決であった。では、ヘーゲルの観念弁証法でもなければ、マルクスの唯物弁証法でもない、「第三の道」としての「絶対弁証法」とはいかなるものであるのか。それを示しているのが、『ヘーゲル哲学と弁証法』に続いて書かれた『哲学通論』である。

 

弁証法Dialektikという言葉は、元は「弁論術」の意味であって、対話を意味するDialogと語源を同じくする。プラトンは、デアレクティケを真理に達しイデアを見る方法と解したのに対して、アリストテレスは、デアレクティケをソフィストにおける弁論だから真理に到達する方法ではなく、単なる蓋然的な意見に過ぎないものをもっともらしく理由づける方法でしかないと考えた。古代ギリシアから、弁証法=ディアレクティケは、二重の意味を併せ持ってきたというわけである。カントにおいて「超越論的弁証論transzendentale-Dialektik」が「仮象の論理Logik des Scheins」とされたのは、カントがアリストテレス的な意味で弁証法を用いていたことを裏づけていると解釈することもできるだろう。

 

他方、ヘーゲルは、正反互いに否定しあうことによって、合において互いに一面的な正と反とを総合する高次の具体的真理、具体的全体に到達する哲学の方法と位置づけられた。ヘーゲルの観念弁証法においては、存在ないし自然は、思惟ないし精神が「自己疎外Selbst-Entfremdung」あるいは「外化Entaeusserung」を行った結果にほかならず、物質を精神から展開させる、もしくは「概念Begriff」から展開させるという観念弁証法に堕してしまっているという点が、マルクスによる批判であった。

 

田辺はこの点に関して、マルクスヘーゲル批判を正しいと考えた。というのも、世界のすべての存在を精神あるいは概念から発出させるヘーゲルの観念弁証法は、所詮は観念論的な「発出論Emanations-Lehre」の一種であって、弁証法をして弁証法たらしめるところの、正反の対立、具体的には精神と物質の対立の面を抹殺させることに至りつくからである。そこで田辺は、マルクスの「意識が存在を規定するのではなく、その社会的存在が意識を規定する」というテーゼを肯定する。また、マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』の最後にある章句、「哲学者たちは、様々に世界を解釈してきた。しかし世界を変革することこそ何より大切なことである」を、ことヘーゲル哲学に対する文句としては妥当すると考えるのである。ヘーゲルにおいては、すべての矛盾対立は観念論的に解決され、その意味で「和解の哲学」ともいう構造を有している。すべての矛盾対立が観念論的に解決・解消されるがゆえに、そこに「実践」が介入する余地などない。しかし、矛盾対立が現実的である限り、それは単に観念的に解決されるわけはなく、「実践」の契機が不可欠になるのは当然である。そう考えるほど、田辺はマルクスに好意的だった。

 

しかし、マルクスの唯物弁証法ヘーゲルの観念弁証法に対して持っていた批判力の一方のみが強調されることによって、ヘーゲル哲学が陥ったのと同様の自己否定の結果を招く、と田辺は論じるのである。マルクスの唯物弁証法は、ヘーゲルの観念弁証法に対して物質すなわち存在を力説するあまり、観念的なものは物質的なものの人間の頭脳への置換転移されたものに過ぎないという主張にまで及びかねず、そうすると、これは18世紀の機械的唯物論と大差のない杜撰な主張に至るというわけである。ヘーゲルが「観念論的形而上学」であるならば、マルクスも「唯物論形而上学」である。その危険性は、エンゲルスにおいて度合いが激しいものとなる。存在が意識を規定することを強調しすぎると、弁証法でも何でもない機械的因果論的な主張と化してしまう。そう田辺は主張する。

 

先述の通り、マルクスレーニン主義よりも、むしろ「エンゲルスレーニン主義」ともいうべき旧ソ連「公認」の弁証法唯物論哲学は、弁証法とは名ばかりの機械論的唯物論と化してしまった。日本共産党は、表向きソ連共産党と袂を分かった格好になっていた。とはいえ、日本共産党の機関紙『赤旗』のモスクワ支局は、最後まで存続し続けた。朝鮮労働党とは、ラングーン事件後の関係悪化によって平壌支局はなくなったはず。それと比較すると、本当に日本共産党ソ連共産党との関係を切っていたのかどうか怪しい。それはともかく、その根本となる哲学・思想に関しては、何ら変わらぬ「科学的社会主義」を標榜するのが、日本共産党系の学者・言論人である。

 

日本共産党系の新日本出版社から出されている雑誌『経済』や、日本共産党中央委員会の機関誌『前衛』に書かれている哲学者や経済学者などの論文や対談を読めば明らかだが(『文化評論』までは、古すぎて追えていない。なお、この『文化評論』という雑誌も日本共産党系統の機関誌で、蓮實重彦『表層批評宣言』にも自身が攻撃を受けた旨を、蓮實独特の嫌らしい表現でからかっていたのを思い出す)、ほとんどが「タダモノ」論であって、例えば、党員哲学者であった岩崎允胤(この人は、これまた党員哲学者であった出隆の弟子にあたる)や平野喜一郎による分析哲学批判も、数々の論理実証主義批判を無視して、それを論理実証主義と同一視した挙げ句、「観念論」とのレッテルを貼るだけに終わっていた。廣松渉に対しては、「主観的観念論である」と、大して読みもしないで攻撃するなど酷い内容で、まるで『唯物論と経験批判論』のレーニンのような批判内容であった。特に、マルクスエンゲルスにおける思考の差異を指摘する主張に対しては、血相を変えて攻撃する。『経済』や『前衛』における「エンゲルス特集」の論文や対談を読むといい。また、学者ではないが、新日本出版社から出されている不破哲三志位和夫の著書を読めば、彼らがいかにマルクス=レーニン主義を後生大事にしていたかがわかろう。

 

和辻哲郎と同じく、田辺元マルクス主義とは対決したけれど、決してマルクス自身の思考を否定することはなく、むしろ哲学者としても極めて優れた存在として高い評価を下していた。田辺の主張はさらに続く。マルクスが社会の基礎構造として考えていた生産力及び生産関係に関して生産力と一口に言おうと、自然力と技術の対立があり、その技術や機械には既に観念的なものが先行するわけだし、生産関係にしても階級関係にしても、自然的契機と人為的契機の対立が含まれているはずである。そのような対立が無視され、容易に物質的なものに帰着されてしまう。また、実践の優位も理論的に成立しなくなる。というのもマルクスの言うように、歴史の変革は生産力と生産関係の矛盾の必然的帰結であるというのならば、そこには真の実践が介入する余地がなくなってしまうからである。そう、田辺はマルクスを批判する。

 

ヘーゲルのみならず、マルクスですら、弁証法的であるよりも形而上学的なものに陥ってしまうのは、あくまで互いに矛盾すべきものが、その絶対に矛盾的であるべき性格を見失い、あたかも一から他が発出せしめられるかのように考えることからくる、形而上学的実体化の罠に嵌まってしまうからである。しかし、真に弁証法的であろうとするならば、物質と精神とはどこまでも対立的・矛盾的でなければならず、ヘーゲルのように、自然は精神の自己疎外であるとか、マルクスのように、観念は物質の脳髄における反映であると一元的に考えることはできないはずである、と田辺は批判する。よって田辺からすれば、真の弁証法は絶対の矛盾の上に立つものであり、したがってどこまでもヘーゲル的なものとマルクス的なものの矛盾を自己の中に内包し止揚するものでなければならない。この立場が「絶対弁証法」であり、この絶対弁証法は、絶対的な二元論を内包し、それを止揚したと言いうるものである必要がある。

 

ところが、単に二元論的な矛盾を内包するというだけなら、元より二元論でしかなく、弁証法である必要はない。弁証法であると言いうるためには、最終的に両者が止揚されなければならないはずである。しかし、それを止揚するものが何らかの存在であるならば、物質的なものか精神的なもののいずれかになってしまい、結局は観念弁証法か唯物弁証法かに帰着してしまう。だから、絶対弁証法においては、精神や物質を止揚するのは、「有」ではなく「絶対無」であるよりほかないことになる。矛盾対立するものを交互転換的に否定せしめるものは、「絶対無」の実践的自覚である。精神は自己に対立する他者、すなわち物質において自己を否定するものを見て、物質もまた精神において自己を否定する他者に対する。そのとき、精神が物質の必然たるを知り、己を無にして自己を否定し、物質の必然に即して実践したならば、精神は物質から離れた抽象的自己としては物質の中に死するとともに、却って物質を自己の内容として具体的な自己としてよみがえる。つまりは「死して生きる」のであり、逆に物質も盲目的必然ではなく、自覚された必然として必然即自由となる。要するに、絶対弁証法とは、一方であくまで精神的なものと物質的なものの矛盾を内包しつつ、他方でその両者を「絶対無」自覚的実践によって止揚するというものである。この「無」の自覚は、後に「愛」となって昇華させられるのであるが、ここに田辺の「種の論理」の挫折と転回を見て取ることができる。

 

田辺の社会存在論では、個-種-類の系列において個が包摂されてしまう弁証法全体主義を避けることはできない。もちろん、個の契機を完全に全体に包摂するとまでは言っていない。田辺は、個人主義を否定すると同時に、全体主義をも否定していた。個人主義でも全体主義でもない社会存在論を構想することによって、西欧の個人主義やドイツロマン主義の社会有機体論的全体主義をも乗り越える方向性を志向した。

 

しかし、田辺が国家社会の構造を理性の自律に転じられねばならないとして思考した営為に見られる個人と国家と世界の多層関係は、きれいな体系に収まる一方、その体系に収まらない要素については意図的に無視されている。そこに抜け落ちている要素とは、個の偶然性とそれに関連する悪の問題である。この個の偶然性が田辺の「種の論理」では閑却されてしまい、個の「自由の王国」は、「必然の王国」に系列下される限りで存在するものでしかなかった。田辺の晩年の思索『マラルメ覚書』の主題は、まさしく偶然性である。体系的哲学者による自己の同一性の必然性を志向した「種の論理」からの転回であった。

 

この点、哲学体系の構築を予め放棄しているかに見える九鬼周蔵は、かつて田辺が全体化してしまった二元論を、二元論のまま留めつつ思考した稀有な哲学者である。相対立する要素の二元性を安易に弁証法的に止揚してしまうのではなく、個々の異質な要素を相対立する緊張関係において捉える。その典型が『「いき」の構造』であった。この書は、「いき」という日本文化に見られる特質を捉えるにあたり、様々な現象の分析から始め、「いき」を形づくる「立体的構造」の三つの契機を、「媚態」・「意気地」・「諦め」として抽出する。

 

同じく、九鬼の『偶然性の問題』では、偶然性を「偶々然かあるの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないこと」であり、「有と無の接触面に介在する極限的存在」と位置づける。九鬼は、偶然性が必然性の対概念であることから必然性の三様態に応じた偶然性の三様態を「定言的偶然」・「仮説的偶然」・「離接的偶然」と定義する。「定言的」・「仮説的」・「離接的」という表現では若干わかりにくいが、要するに九鬼自身も言い換えているように、「論理的」・「経験的」・「形而上学的」と理解しておけばよい。一つ目が単なる現実としての一つの実存がこの偶然性を実践的内面化するときに、無数の個同士の「間柄」の自覚に至るというのである。

 

ここで言う「間柄」とは、共同体の網の目に絡まれた役割連関により規定された関係としての和辻哲郎的「間柄」とは別異の概念である。そうした社会的役割連関からは一旦遊離した「他者との邂逅の刹那」に開示される偶然的事実性である。浮遊する端的な事実性としての個。この場面で問われる倫理とは、通常言われる倫理でも道徳でもない。九鬼の偶然性論は抽象的な存在論でも形而上学でもない。もちろん、現在の規範倫理学やメタ倫理学とは一線を画しているが、それら倫理が成り立つ社会的基盤の更に手前の段階で問われる倫理である。