shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

「信用貨幣」とは何か

以前、朝日新聞編集委員の原真人が、「れいわ新選組」代表の山本太郎の主張する経済政策が、日本でも一部の支持を集めているというMMT(現代貨幣理論)に立脚する政策に基づくものであり、そのMMTは根拠薄弱な経済学的に受け入れ難い「トンでも学説」であると主張していたことがある。原のような意見は少数派というわけではなく、主流派経済学からマルクス経済学の広範囲の研究者の中からも異論が出ている。マルクス経済学の出自である金子勝も、あらん限りの罵詈雑言を山本太郎に浴びせかけていたことを思い出す。

 

確かに、山本太郎が主張していた政策は、MMTと重なる点もあるが、必ずしも同じではなく、特にMMTでなくとも、既存の経済理論からでも導き出せる「財政・金融政策」の範囲内である。したがって、MMTの是非はともかくとして、こと山本太郎の政策をMMTと同一視して非難する主張は、もとより失当である。

 

仮に、その主張がMMTに基づく主張だとして、ではMMTに対する明確な論拠を示した上での批判が展開されているかと言えば、現在の日本の状況に当てはめること自体が不適切な事例を持ち出すなど、既に論駁済の理屈を繰り返すものばかりで、本質的な批判がなされているとは言えないのが現状である。だからといって、MMTが正しいとも言えない。状況によっては、適合することもありうる理論の一つとして、暫定的な取扱いをしておけば足りる。ともあれ、山本太郎の主張の是非をめぐっては、まず現代資本主義における「信用貨幣」の概念を理解することで、初めてその議論の出発点とすることができるだろう。

 

そこで、「信用貨幣」の要諦とは何かを見ていくために、循環と信用創造にスポットを当てながら確認しておきたい。MMTに対する賛否を決める以前のレベルで、信用貨幣論や利子率決定論としての「流動性選好論」について理解しておくことが肝要だと思われるからだ。

 

学説史の基本的知識のおさらいになるが、ケインジアンマネタリストとの論争の対象になった問題の一つに、「貨幣数量説」に対する評価がある。物価変動は貨幣数量変動に比例するという考え方は、かなり昔から存在した。これを明確に定式化したフィッシャーの交換方程式は、貨幣数量と貨幣の流通速度との積が物価と取引量との積に恒等的等価の関係に立つことを示すものだが、貨幣数量説はこの恒等的関係に「流通速度の一定」という仮定が付加される。「新貨幣数量説」を主張するミルトン・フリードマンは、「マーシャリアンk」の安定性という前提の上に、貨幣数量が物価水準を決定すると主張している。

 

フィッシャーによって定式化された交換式は、MV=pXの形をとる(Mは貨幣量、Vは貨幣の流通速度、pは物価水準、Xは実質生産量である)。pX=YのYは名目国民総生産にあたり、Xは実質国民総生産で、pはGNPデフレーターに対応する。そうすると、MVは総需要、pXは総供給と読むことができる。ここに因果関係を読み込んだ解釈をしなければ、上記式は単なる恒等式である。だから貨幣数量説は、この式に特定の因果関係を読み込む解釈において成立すると言えるだろう。すなわち、貨幣量Mの増減が実物的関係とは無関係に、一意に物価水準pの変化を規定すると読むのである。

 

もし、これが正しければ、貨幣は実物的関係を覆うベールに過ぎず、貨幣量の変化は物価水準を変化させるだけで、実物的関係に何の影響も与えないということになる。「貨幣の中立性」テーゼとは、この貨幣と実物との二分法を言うわけである。

 

この貨幣数量説の問題点は、以下のように整理できる。一つは、方程式の諸変数間の因果関係の問題である。これは、貨幣量の外生的付与の可能性に対する疑問でもある。仮に、一時的な貨幣量を規定しえても、貨幣による購買量の変化は企業の生産決定や投資決定に影響を与え、実質生産量Xを変化させる点が重要である。商品を購買するためには、それに先立って貨幣の保有が必要だということから帰結する。このため、実質生産量Xは貨幣量Mから独立ではないので、貨幣量の変化が長期利子率や投資需要に影響を与え、それが実質生産量に影響を与える。そうすると、貨幣と実物との間の相互作用があるとの結論に至る。また、流通速度Vは、利子率やストックとしての貨幣に関わる金融市場の制度的編成の変化によっても影響を受けて変化しうる。そうすると、貨幣量の変化は、財・サービスの取引に使用される貨幣と金融資産の取引に使用される貨幣との比率を変化させることになってしまう。とりわけ、今日の金融取引における超高速度取引は、貨幣の流通速度を高めている(フィシャーはこの流通速度を一定とする仮定をおいて立論している)。以上のような理由から、貨幣と実物の二分法である「貨幣中立性」テーゼに対する批判がなされる。大雑把だが、学説史からは、概ね以上のように整理される。

 

貨幣数量説を批判するケインズは、貨幣需要流動性選好関数に乗せて説明するわけだが、その前に、この「貨幣」という概念は、従前の「商品貨幣」論に立脚した概念ではなく、それとは異質な「信用貨幣」論に立脚する概念であることを押さえておかなければならない。世間一般の貨幣イメージが「商品貨幣」論を前提とする貨幣概念だから、なおさら重要になる。

 

「信用貨幣」論でいう「信用」とは、一種の債権債務関係であり、「信用貨幣」とは銀行債務が貨幣化したものである。信用創造は銀行から企業への貸付が行われることによって発生するもので、その信用が結果として貯蓄をもたらす。その逆ではない。一般の人々が素朴にイメージするような描像、すなわち貯蓄が預金され、その預金を元に借手に貸付られるというわけではないのである。

 

信用供与の基礎となるのは、企業の投資計画が生み出す収益性に関する「期待」であって、それが信用の返済可能性の基礎を与える。貨幣の創造と消滅のプロセスとしての貨幣循環においては、経済主体による貨幣の支出は、必ず他の経済主体の貨幣的な所得となっている。つまり、「支出こそが所得を生み出す」というわけである。この認識は別にMMTの特質でも何でもなく、既存の「信用貨幣」論の主張の一部でしかない。言うならば、ごく当たり前の常識である。

 

現代資本主義において、貨幣とは、銀行システムによって創造される「信用貨幣」である。そこでは、貨幣供給に関する因果関係の出発点は、企業が投資計画を決定する時の「期待」であった。企業の投資計画に基づいて民間銀行に対する資金需要が発生し、民間銀行から企業への貸付が行われる。これが貨幣フローの発生の起点である。それによって生じる貨幣の循環を経て、銀行のもとに預金が形成され、さらなる準備金の必要を発生させる。中央銀行は、未決済通貨残高に対応した貨幣を供給する。これが大雑把に整理された内生的貨幣供給論の要諦である。

 

森嶋通夫『思想としての近代経済学』(岩波新書)が、レオン・ワルラスの業績を然るべく評価しつつも、ワルラスの理論体系に欠けている重要な要素として、この銀行システムに対する視点の欠如を指摘していることを想起しよう。その意味で、森嶋はシュンペーターの主著『経済発展の理論』を評価するのである。

 

ちなみに、シュンペーターの業績は、この『経済発展の理論』の他にも、『経済学説と方法』、『景気循環論』、『資本主義・社会主義・民主主義』、『経済分析の歴史』とあるが、『景気循環論』は『経済発展の理論』の着想を統計的・歴史的に確認したものに過ぎないから、前者は後者の拡大版とみなすことができる。『経済発展の理論』での主題は「イノベーション」であるけれど、そこでは企業者の役割を強調するとともに、ワルラスが無視した銀行家の機能を明確にした上で、経済の動態と発展の理論を構築したことが功績である。要するに、森嶋のシュンペーター評価の最大のポイントは、今日でいうところの「銀行システム」の重要性の強調という点である。

 

貨幣供給は、経済システムの内部の期待形成・需要条件・生産条件・価格形成などの諸条件によって決定される。重要なポイントは、銀行から企業に貸付が行われた時点で、既に貨幣は創出されていると考えるのが、カルドアなど優れたポスト・ケインジアンによって主張されている内容である。中央銀行が貨幣供給をコントロールできるので、この点においても、貨幣供給はあくまで外生的であると考えるマネタリストと対立する。

 

内生的貨幣供給論の特徴は、銀行が企業に対して貸付を行う際に、貸付量が利子率とは独立であると解する点である。企業は、投資計画に基づいて銀行に借入の要求を行う。これに対して、銀行による信用の供与は、所与の利子率のもとで、企業により個々の借入要求に対する可否として決定される。すなわち貨幣供給は信用によって誘発され、需要によって決定されるというわけである(もっとも、貨幣需要に関しては、利子率の水準が投資決定に影響を与えることがあり得るので、貨幣需要が利子率によって影響を受けないとは言い切れないだろうが)。

 

利子率の決定においては、①中央銀行の割引利子率、②短期貸付利子率、③長期利子率を区別する必要がある。ケインズの利子率決定論である「流動性選好論」における「流動性」とは、資産の転売可能性であり、この可能性の最も大きなものが貨幣である。資産の保有形態としては金融資産を債券として保有するか貨幣として保有するかが問題となるが、流動性選好は不確実性が存在する場合に現金や現金転換性の高い流動資産へと金融資産を転換しようとする選好である。

 

したがって流動性選好論では、貨幣に利子が発生するのは資産を流動性が最も高い貨幣の形態で持たないで貨幣を手放すことに対する「報酬」と説明されることになる。貨幣は購買力を行使できるが債券はそれを保持している限り貨幣に変えることができないし、転売して貨幣に転換しようとしても不確実性が残る。ケインズは、金融資産のなかで転売可能性が最も高い貨幣を「現在と将来とを結ぶ連鎖」と表現している。不確実性が存在する中で、人々は将来の時点で支払いの必要が発生に備えて貨幣を保持しようとするというわけである。

 

金融資産の転売行為は不可逆的時間において行われるものだから、そこには不確実性が付きまとう。こうした不確実性を伴う過程では貨幣を含む金融資産が将来においてどの程度のキャッシュフローを生むのかが問われ、それゆえこの可能性に対する期待が各経済主体に形成される。制度派経済学は、貨幣と貨幣代替的金融資産との間に流動性の大きさに関して階層的構造が存在するが、それは金融資産市場という場の構造と状態の中での反復的転売行為を通じて形成される経済主体の共有期待に基づいて生み出されるものだから、各経済主体が金融資産の転売可能性に付与する確信の度合いは金融資産の転売行為が行われる場の性質と状態またはその他制度的諸要因によって規定されると考える。

 

特に、現代の株式会社制度の下で株式市場の組織化が進むと、こうした期待形成に大きな影響を与えるわけで、株式市場における取引のルールや企業業績の情報伝達経路などの制度的編成が株式価格の期待形成に際して重要な役割を果たす。要するに、そこでは株式取引を行っている経済主体間で株価の長期的な傾向に対して共通に保有される期待が形成され、それが各経済主体の行動に影響を与えるということである。

 

短期利子率と長期利子率の関係は、もし現在のベース・レートすなわち中央銀行から借入れによって資金調達している民間銀行の貸付利子率の基礎となる利子率や短期貸付利子率が一時的なもので長期的には別の水準に落ち着くという期待を不確実性下の金融市場で金融資産を取引する企業や家計が持った場合、短期利子率と長期利子率との間に乖離が発生する。ここで重要なことは、ベース・レートに関する中央銀行の政策的慣習は、長期利子率から独立しているという点である。もっとも、これは理論的な想定であって、実際は必ずしもそうではない。中央銀行が金融資産の意見を市場の意見として聞くことは往々にしてあるからだ。ともあれ、これは市場メカニズムの作用ではない。

 

重要なことは、利子率は貨幣的現象であって、その決定因を単一の要因に帰することには無理があるということである。複数の利子率が存在して、フローとしての貨幣とストックとしての貨幣が金融システムを規定する様々な制度的要因や期待がそれぞれの利子率の水準を規定するという側面を見なければならない。