shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

ナショナリズム

大澤真幸ナショナリズムの由来』(講談社)を読んだのは、まだ大学に入学してしばらく経ち、一人暮らしがしたくなったために、実家から大学まで十分通えたにもかかわらず、「渋谷で乗り換えるのが面倒だ」とか何とかゴネた挙げ句、どうにか引越しすることに成功した頃だから、かれこれ10年ちょい前になる。再度手にとって眺めていると、案の定、いつもの「第三者の審級」の議論が「魔法の如意棒」の如く振り回されていて、「またか」とため息をつきそうになるのが正直なところである。さりながら、トライベッカのオデオンカフェ辺りにいそうな、口角泡を飛ばしているインテリおじさんのような語りの一つとして読むならば、別の側面から面白く読める。論理に多々飛躍が目立つとはいえ、理論社会学と呼べるものに出くわす機会が滅法少なくなってきた今日、こうした仕事に注力する大澤真幸の仕事は、これはこれで貴重な仕事かもしれないと思うと、幾分肯定的な気分にもなる。

 

仕事が一段落ついた後やら、まとまった休日を過ごしている時、あるいは酒をチビりチビりと飲みながら色々と妄想を巡らしている時、ふと仕事関係から遠く離れた内容の、特に、学生時代に読んだ書物に自ずと手が伸びてしまうのは、日本語に対する「飢餓感」がそろそろ生じてきたせいなのかもしれない。望郷の思いとは異なるが、日本語から離れている時間が長くなるに連れ、尚更そういう気分にさせられる。

 

大澤真幸の理論的な仕事に総じて言えることだが、大澤には基本的な「思考の型」というものが既に出来上がっていて、この「思考の型」は、若い頃に著した『行為の代数学-スペンサー=ブラウンから社会システム論へ』(青土社)、『身体の比較社会学Ⅰ、Ⅱ』(勁草書房)、『意味と他者性』(勁草書房)において概ね完成していたのだろう。後の仕事は、それを調理する対象ごとにアレンジして上手く料理して一丁上がりという姿勢が感じられる。それゆえ、完成した論文からは勢い、「金太郎飴」みたいな印象を受けてしまう者が多いのではないだろうか。

 

この点は廣松渉にも指摘できることで、廣松の場合だと、「関係の第一次性」・「四肢的構造連関」・「共同主観性」・「物象化」などの概念で以って、あらゆる哲学的諸問題をグレーダーのように均してしまいがちのところが見られる。大澤にも、「第三者の審級」・「遠心化作用」・「求心化作用」などの概念を様々な事象に当てはめて行く議論が目立つ。違いと言えば、大澤の場合、哲学や自然科学といった他分野からの借用が際立ち、例えば、プリゴジーヌの散逸構造論、複雑系の理論、内部観測論等々からの参照がされている。廣松渉の影響を強く受けており、岩波書店から出された『廣松渉著作集』全16巻の月報に寄せた文章には、駒場教養学部前期課程の学生向けの廣松の講義「哲学概論」を受講していた時の思い出を綴っていたかと思う。

 

久野収がとにかくしゃべりまくる人であったのに対し、大澤真幸はとにかく書きまくる人であるようだ。それゆえなのか、中には「お手つき」と言える駄作もいくつか見られる。例えば、『量子の社会哲学-革命は猫が救うと過去が言う』(講談社)がそれにあたる。この書は、アナロジーにつぐアナロジーを積み重ねた「こじつけ」の域を出ない「トンでも」と言われかねない著書で、好意的に受けとっても、娯楽本として編まれたものだと割りきって読む他ないエッセイ集。とても学術的使用に耐えられそうな著作とは言えない。

 

人文・社会科学系の一部の研究者や著述家が率先して話題にしたがる物理学の理論が、量子力学である。その次が相対性理論になるのだろうが、概ね特殊相対性理論しか相手にせず、より面白い哲学的問題を含むはずの一般相対性理論には飛びつかない。技術的な問題でついていけないからかもしれないが、しかし、それを言うなら、量子力学もある程度技術的な問題をクリアしない限り、何が真の問題なのかについて正確に掴むことはできないはず。基本的な四則演算すらままならない者が、加法や乗法などの概念を理解できているとは誰も思わないことと同様である。

 

大澤真幸も、盛んに「量子力学の深遠」と口にはするものの、量子論における抽象度の高い複雑な内容の核心には踏み込まず、一般に流通している量子力学に対する漠然としたイメージから、連想ゲームのように無関係と思われていることに接続させている。もっとも、哲学者・倫理学者の議論の中にも、聖アウグスティヌス以来の倫理学における重要な問題の一つをなす自由意志の問題の解決について、量子力学に期待する妙な議論もないわけではない。事実、我々が自由意志を持っているということを量子力学が保証すると主張するコンウェイとコッヘンによって提唱された「自由意志の定理」を参照して、自由意志と量子力学を結びつける見解を展開する者も存在する。しかし、今のところロクな成果は見られない。倫理学の問題と量子力学の問題が接点を持つ場面を探すとすれば、量子力学そのものではないが、その解釈論の一つである多世界解釈(もしくは、厳密にいえば多世界解釈とは異なるが、デイヴィッド・ルイスの様相実在論)を是とした際に、倫理学的問題が立ち上がってくるということくらいだろう。

 

国際関係論の研究者として著名なアレキサンダー・ヴェントのQuantum Mind and Social Science : Unifying Physical and Social Ontology, Cambridge UP.もまた、大澤の著書と論じられている中身が異なるし、大澤の著書よりは複雑な議論を展開してはいるという違いがあるものの、量子論を社会理論に接合して論じるために、いくつかの明白な誤謬を犯していることと、踏まえるべきステップを何段階もすっ飛ばした論理的飛躍が目立つことで、大澤の著書との共通性が見られる。

 

念のため、ヴェントの著書に触れておこう。ヴェントは、先に触れた通り、古典力学パラダイムを基底として理論構築がなされてきた社会科学理論の閉塞状態を指摘し、それに代わる量子力学的認識論・存在論を基底的パラダイムとする社会科学理論を再構成すべきことを説く。ヴェントの主著はSocial Theory of International Politicsであり、これは明らかに、国際政治学におけるネオ・リアリズムの大家ケネス・ウォルツの主著であるTheory of International Politicsを意識した著作名であろう(このウォルツの著書は、国際政治学における画期を告げるものであり、たとえて言うなら、我が国の民法学の金字塔とも言うべき我妻栄近代法における債権の優越的地位』(有斐閣)に匹敵する業績。とはいえ、僕が好きな民法学者は、「歩く通説」こと我妻栄ではなく、その弟子で「歩く反対説」との異名をとった四宮和夫である。この人のせいで論点が増えたではないかと恨む声もあろうが、四宮和夫・能見善久『民法総則』(弘文堂)は、今も輝きを失っていない名著である。但し、生意気ながら、民事訴訟法における訴訟物理論に関する立場については四宮博士には同意できず、僕は二分肢的訴訟物理論を支持する者である。団藤重光と平野龍一との関係もそうだが、単に師や兄弟子に追従するのではなく、弟子や弟弟子が、師や兄弟子とは異なる見解をぶつけながら、法学者としての力を身につけて行く環境が、東大法学部が優れた法学者を生み続けてきた所以なのだ)。

 

ともあれ、ヴェントは、この書によって国際関係論における有力なパラダイムの一つであるコンストラクティビズムを理論的に基礎づけようとしたが、コンストラクティビズムに対する賛否はさておき(僕は、ネオ・リアリズムの支持者である)、まともな労作であることは確かだった。それに引き換え、Quantum Mind and Social Science : Unifying Physical and Social Ontologyに関しては、量子論を社会理論に結びつけようとする言説によくありがちな誤りが方々に散りばめられているので、この種の誤謬の一覧を知っておくのには利用できる反面教師的な書物である。

 

ヴェントが問題視するのは、社会科学の諸学問の基底となっている古典力学的なモデルに則った世界理解が、社会科学の諸学問の閉塞状態を決定づけているという点である。それゆえ、新たな理解の枠組を模索しなければならず、新たな社会存在論としての量子論的社会存在論こそが、その枠組を提供する。それによって、例えば、エージェンシー問題や心身問題あるいは、意識と社会構造との関係などの諸問題が解明できる。このように、ヴェントは主張する。

 

大澤の著書は、量子論をアナロジーやメタファーとして使用するという点で、まだ謙抑的な主張に収まっていると言えるが、ヴェントの場合、量子論的社会存在論として文字通りの客観的記述を考えている。曰く、

古典物理学の実在像に基づく)これまでの社会科学の基本的前提が誤謬である可能性を探っていく。特に私が主張したいことは、人間の存在、それゆえその社会生活全体ということになるわけだが、それが量子論的可干渉性を示しており、我々は実際に波動関数を生きているということである。・・・この議論は、アナロジーでもなければメタファーでもなく、人間の真の存在の仕方がどういうものなのかということについての、実在論者としての主張なのである。・・・私自身の信念では、人間の存在は量子系であるということなのである。

と(これを目にした時は、「こいつ、マジかよ!?」と呟いてしまった)。

 

ヴェントがこの着想を得たのは、シカゴ大学構内の書店で手にしたイアン・マーシャルとダナ・ゾハーによるThe Quantum Societyを読んだ2001年だったらしい(ヴェントは、この経験を「アハ!体験」と書いている)。ヴェントに言わせれば、これまでの社会科学において、意識や社会生活は究極的には古典物理学的現象に還元しうるものという前提で思考されてきたが、意識を理解するにはそれでは不十分である。というのも、意識とはマクロレベルで現れた量子論的現象であるからだ。それゆえ、社会科学者は、量子論量子論解釈について戦わされている科学哲学的議論を取り込んで理論の再構築に努めなければならないらしい。

 

第一部では、量子力学の基本理論とその解釈について整理し、第二部では、量子論と意識の関係性について論じ、第三部・第四部では、人間の量子論的モデルやホーリスティックな「人間-社会」理解について触れ、第五部では、エージェンシー問題量子論的社会存在論から再構成するといった展開になっている。第二部の途中までは、その個々の事象の解説に関してという限定付きではあるが、重大な誤謬は見られない。この方面の物理学者や科学哲学者による著名な論文についても、ある程度サーヴェイできてはいる。

 

しかし、第二部の途中あたりから、徐々に雲行きが怪しくなってくる。意識の理解に量子力学の知見を導入するという議論は、もちろんヴェント以前にも見られた。事実、ヴェントはこの点で専ら先行する研究成果に則るだけで、彼独自の見解を披露しているわけではない。高名な物理学者で、数年前にノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズによるShadows of the Mindや、その影響を受けて量産される量子脳理論の論文からの知見を惜しげもなく展開するわけだが、これ自体を直ちに「トンでも」と断定したいわけではない。ただ、量子論を意識や社会理論に応用する議論に往々にして見られる論理の飛躍と性急さが、粗として目立つ。この方向性が上手く行くには、幾重ものハードルを乗り越えなければならず、どれもこれも議論が安直に過ぎると言いたいのである。仮に上手く行くとするなら、量子情報理論がその媒介役を果たすだろうという漠然とした予感しか持てないというのが、僕のような素人から言える最大限のことだ。

 

とはいうものの、どうしても氷解しない問題が残る。意識を量子論に関係づけて理解する主張の前提には、非局所性と量子的干渉性の問題が、脳の広範な領域同士が相互にどう干渉しあっているのかという問題に結びついているという直観があるらしいのだが、波動関数がマクロなオブザーバブルへと(ペンローズの言うところの)「客観的収縮」する過程を意識に関係づけるといったところで、この種の議論には、その波動関数の「客観的収縮」過程とやらについての理論的裏付けがすっぽり抜け落ちているのに、どうして一足飛びに意識へと結びつけて論じることができるのかという疑問が拭いきれない。これなら、意識の非計算的過程について、証明論の観点からペンローズを批判するヒラリー・パトナムの主張の方が余程筋が通っていよう。そもそも、ある精神的状態を脳の特定の様相とみなすことは、あるクラスの脳の状態との同一視であって、このような同一視は、クラス分けに明確な特徴づけがなされない段階における物理的概念への還元的説明でしかない。量子論を意識のようなある種の精神的状態に適用しようとするならば、先ずは状態空間の数学的構造なりオブザーバブルの集合を考えなければならないはずで、果たして「精神状態の空間」というものが観念できると仮定して、それが射影ヒルベルト空間の構造を有すると解すべき根拠はない。ある状態から別の状態への遷移確率を決定する内積を、ある精神状態と別の精神状態の間の関係から定義する方法すらない。それほどまでに、この種の議論にはギャップがある。それゆえ、量子論と社会理論を安直に結びつけるような「お話」においそれと飛びつくわけには行かない。大澤の立論にも、こうしたヴェントのような「ヤバさ」を感じる。

 

話は大いに逸れたが、数年前に復刊された、高名な物理学者で科学哲学者でもあった渡辺慧の『時』(河出書房新社)の冒頭解説にしても、渡辺慧の業績、収録論文、随筆に関する直接的な言及が極端に少なく、大澤の関心事に偏った我田引水が過ぎる解説になっており、渡辺慧の業績を知らない読者が初めて手にして冒頭解説を読んだとすれば、誤解するのではないかと恐れる(予言の遡言の非対称性に基礎を置く渡辺慧の立論には、僕は納得できないが)。河出書房新社の編集者は、一般読者には馴染みの薄い渡辺慧の著書の復刊に際して、知名度のある大澤に冒頭解説を依頼して多少なりなりとも売上向上を図りたいと願ったのかもしれないが、人選ミスの感が拭えない(大澤真幸を貶めているのではない。明らかに領域違いだということだ)。

 

もっともこの著書は、渡辺が方々で書いてきた文章の寄せ集め集であり、アルバート・アインシュタインからアンリ・ベルグソンそしてカール・バルトまでの、物理学・哲学・神学にまたがる広範囲の領域に関わる題材を取り上げている上、渡辺の『時間と人間』(中央公論社)の第1章と第3章に収録されている論文のようなまとまりに欠けているので(第2章は、確か仏教思想とショーペンハウアーニーチェとの時間論的観点から捉えられる関係についての渡辺ドロテアの論文が収録されていたかと記憶するが)、解説者の選定に困難を極めることは理解できる。物理学・哲学・神学全域に明るかった柳瀬睦男のような碩学がいたらと思わずにはいられない。

 

閑話休題。話を本題に戻すと、『ナショナリズムの由来』は三部構成をとっている。第一部は、ナショナリズムとネーションの構造・発生・展開が論じられる。第二部は、第二次大戦世界後の「第三世界」に起こった「ナショナリズムの最後の波」以降のナショナリズムの構造と「資本主義」との関係が論じられる。第三部は、ファシズムの問題が論じられる。おそらく一読した読者は、この部分が、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』と、ジョルジョ・アガンベンホモ・サケル』を下敷きに構成されていると直感するだろう。

 

注意すべき点は、大澤が本書で言及する「資本主義」が、通常そう思われているような資本主義とは意味が異なっているということである。大澤は、経済現象に限定されない社会システム一般の特徴として拡大解釈された資本主義を「広義の資本主義」と命名し、この「広義の資本主義」とナショナリズムの相同性を論定する。この辺の議論は、『戦後の思想空間』(筑摩書房)の第二章で論じられていたことと一部重なるだろう。

 

大澤によると、「広義の資本主義」は、より包括的かつ普遍的な規範的地平、つまりは経験可能領域の先取をめぐる競争によって定義され、社会システムの標準的な経験可能領域も、順次包括的なものへと遷移して行くと理解される。この経験可能領域の包括化とは、許容される行為とそうでない行為の区別、つまりは行為の当/不当を区別する境界が弛緩していく過程として把握される(この辺りの論理構成は、『行為の代数学』や、『意味と他者性』における冒頭の章、すなわちソール・クリプキによるウィトゲンシュタイン論(俗に「クリプケンシュタイン」と呼ばれているそうだが)に仮託させて論じた規則随順性の問題に扱った章(うろ覚えだが)が色濃く反映されているだろう)。そして、包括化した多様な行為の間に機能的に有効な連関を与えるために、規範は同時により抽象的なものへと転換される必要がある。この無限拡張性を本義とする「資本主義」は、規範的地平を拡張させていく一方、それにともない規範は、より抽象度を増すことにより対応する。

 

「資本主義」は、<第三者の審級>の不断の抽象化を伴うので、これが究極のまで突き詰められると、<第三者の審級>の不在にまで至りつくことになる。これは、社会的規範の完全な失効を含意する。だからこそ、社会システムとしては、最小限の具象性を備えた超越的審級が抽象化傾向の抵抗として措定され、最小限の積極的かつ実定的な内容を有する規範によって構築されるインテグリティが、ある特定の範囲の共同体に対して想定されることになる。そうはいっても、普遍的な規範が要請する社会的世界の均質性に関する想定は、現実には充足されない。なぜなら、それがは規範が通用しない外部を含むからであり、多様性を呈さざるを得ないのが実際の社会的世界だからである。それゆえ、この社会の規範的均質性の想定と実際上の不可能性との乖離を埋める装置として、ナショナリズムが要請される。ざっと整理すると、こんな感じになろうか。

 

さらに、規範的均質性の要請と、それをもたらす視点の措定に絡み、ナショナリズム(nationalism)とノヴェル(novel)の「二つのN」の相同性を導き出す。このことは、かつて蓮實重彦『表象の奈落−フィクションと思考の動体視力』(青土社)所収の「小説の構造」において暗に指摘されていたことを、大澤が定式化したと言えるかもしれない。大澤は、この「広義の資本主義」とナショナリズムの関係を、カントロヴィッツの「王の二つの身体」、すなわち〈政治的身体〉と〈自然的身体〉の二重性の「お話」に仮託させて、その先駆的形態を西欧中世に見出す。

 

大澤の議論は、<第三者の審級>の話を矢鱈滅多に振り回すのだが、極めつけは、「逆説的な第三者の審級の回帰」として論じる段である。その論筋を大雑把に整理すると、こうなる。すなわち、資本主義のダイナミズムは、<第三者の審級>をより抽象度の高いものへと置換させていく過程であるという点を確認した上で、かかる過程は、その度に<外部>が見出され、それを経験可能領域へと包摂していくことの反復であると捉えられる。対して、逆に<外部>の側から見ると、かかる過程は<外部>が<第三者の審級>を「これは求めていたものではない」としての拒絶作用の反復として捉えられる。そして「この普遍性は、不十分であって限界があること」だけが真の普遍性の可能性を保証しているという仕方で逆説的に捉え返されて理解され、「この<第三者の審級>は違う」という否定性そのものを具現する<第三者の審級>が立ち現れると考えるというのである。すなわち逆説的な仕方で回帰する<第三者の審級>というわけである。この<第三者の審級>が普遍化不可能性を直接に実定化するものであるならば、それは具象的現れにおいてほかにありえない。その具象的現れがナショナリズム成立を保証する可能性の条件となる。この辺りの論理構成は、『身体の比較社会学』で見られたものと類似の構造を持つように思われる。

 

この他にも、個別の事象について膨大な参照事例が紹介されているわけだが、キリがないので割愛する。ただ、大澤のナショナリズム論の骨格となる論理構成の核心部分については、以上のようにまとめられるように思われる。実証主義的スタンスから社会学研究を行っている者からすると、相当異質な社会学研究の書に映るに違いないが、社会哲学としてみた場合、こういう思弁的方法でナショナリズムを語る論説は当然ありうる(もちろん、どこまで説得力があるかは心許ない)。

 

大澤真幸の論文を、仮に欧米人が初めて目にしたとするならば、おそらくは、大澤真幸が意外にも直接引用することの少ないヘーゲル哲学の影響下で仕事をしている社会哲学者による論文との印象を受けるのではないだろうか。この他にも、ニコラス・ルーマン廣松渉に多大な影響を受けていることも明々白々だが(といっても、かく言う僕は、ヘーゲルや廣松の文章には慣れ親しんできたつもりでも、ことルーマンに関しては、主要著作をすべて読んだわけではないので、こう断言するのは憚られるべきかもしれない)、これまた意外にも直接引用されることは少ない。逆に言うと、それほどまでに、自身の「思考の型」の形成途上に決定的役割を果たしていることを暗示しているのかもしれない。

 

いずれにせよ、『行為の代数学』や『身体の比較社会学』そして『意味と他者性』を経て、幾度も繰り返し登場する「第三者の審級」論を手当たり次第に振り回すことの単調さという欠点を抱えつつも、こうした電話帳より分厚いナショナリズム論をものした力技は大したものである。