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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

訴訟における証明論の基礎

東京大学教養学部理科Ⅰ類から法学部に進学したという「変わり種」である太田勝造が、東京大学大学院法学政治学研究科に提出した修士論文(指導教官は、高名な民事訴訟法学者の新堂幸司。なお、新堂学説の中で最も有名な部類に入るだろう争点効理論については同意しかねる。とはいえ、訴訟法上の信義則でごまかそうとする判例の立場にも肯けないが。理論的に一番すっきりするのは、訴訟物の解釈に関して二分肢的訴訟物理論を採用する見解(ドイツの判例・通説)であるように思われる)を基にして著した『裁判における証明論の基礎-事実認定と証明責任のベイズ論的再構成』(弘文堂)は、裁判における事実認定の際の証拠の証明力を裁判所がどう評価しているかという点について、ベイズ確率を用いて定性的かつ定量的に分析した論文である。民事訴訟法解釈において、専ら裁判官の自由心証に基づくとの曖昧な表現でしか書かれていなかった証明力ある証拠による「証明」に関して、ベイズ決定理論を用いて明晰化した論文であると言ってよいだろう。

 

民事訴訟とは、訴訟上の請求の当否を法適用によって判断する手続きである。そして、法適用の前提に事実認定がある。当事者間の争いは、事実の存否についての争いが大半なので、適用される法規範にとって重要な事実の存否が解明されることが不可欠となる。裁判官は事実の存否につき、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果を斟酌して、自由な心証に基づき、当事者の事実主張の真偽を判断する(民事訴訟法247条)。

 

裁判所が事実の存否につき心証を形成できなかった場合にも裁判を行う義務があるので、その際、どのように裁判しなければならないかをめぐる問題が、本来の意味での証明責任の問題である。ある事実の存否が不明な場合に、そのことにより受ける一方当事者の不利益を証明責任と解しているような言及をよく目にするが(特に予備校本。これだから、予備校本は信用ならない)、これは証明責任の厳密な意味ではない。それは、証明責任分配規範からの帰結であって、証明責任そのものの意義とは別異である。もっとも、そう誤解したからといって、実務において特に支障が出るようなことはないだろうが、ただ言えることは、こうした誤解は、特に要件事実論を学び始めたばかりの者が犯す誤り、すなわち法律要件要素と「要件事実」とを概念的に混同する誤りに似ているということである。こうした概念上の誤解をしている者に往々にして見られる現象は他にもあり、例えば、刑事訴訟法における公訴事実と訴因との関係についての誤解は、その典型であろう。せいぜい、訴因変更が許容される範囲を画する機能概念としての公訴事実というくらいに理解しておけば、こと司法試験に合格するには十分だから、結局よくわかっていないのではないかと思われる法曹がちらほら存在するというのが実情だ。

 

裁判所は、原告の事実主張が適用法規の法律要件を充足するか否かを判断することから始め、原告の主張を正当化するのに必要な事実主張に欠ける場合は、裁判所は釈明権を行使するなどして補充を求めるが(法149条1項)、それがなければ原告の請求を棄却しなければならない。原告の事実主張が十分な場合、次に被告の主張を検討することになるわけだが、被告の主張は原則として、単純否認や積極否認または抗弁によって防御としてなされる。

 

被告の陳述によって、原告の主張する訴訟の実体法上の基礎が影響を受けるか否かが調査され、被告の防御陳述によってもなお、原告の請求が正当化される場合には、この防御陳述については証拠調べは行われない。このことは、被告が相殺の抗弁を提出したはいいが、例えば「相殺禁止特約」があったことを陳述するような場合、相殺の抗弁は法律上重要ではなくなり、たとえ反対債権の存否につき争いがあっても、抗弁自体が失当とされ、証拠調べは行われない。

 

「証明」とは、争いのある具体的な事実主張が真実であるとの確信を得させるべき当事者及び裁判所の活動であり、証拠申出と証拠調べから構成される。証拠の提出は弁論主義の下では、原則として当事者の責任であり、当事者の証拠申出がなければ証拠調べが行われない。ある事実が真偽不明になって不利益を受けることを望まない当事者は証拠を提出しなければならないが、いずれの当事者が証拠提出責任を負うかは、証明責任分配規範と一致するのが原則である。法は「証明」の目標につき、完全証明と疎明を区別し、この区別の相違は、証明度の相違とされる。証明度とは、裁判官がある事実主張が証明されたものとして、裁判の基礎とするために必要とされる証明の強度である。最高裁判例によると、この証明度は「真実の高度の蓋然性」となる。

 

最高裁判例で示されたこの「証明」の基準については、明確になっていない問題が存在したままである。すなわち、裁判官は事実が真実であるとの「確証」を得なければならず、かつそれで足りると解してよいのか。それとも、一定程度の客観的蓋然性の存在を要求するのかという問題である。この点につき、「真実の高度の蓋然性」という基準を示したのが、いわゆる「東大病院ルンバール事件」最高裁判決である。この判例は、民事訴訟における因果関係の証明について、どの程度の蓋然性が要求されるかということに加えて、心証形成の合理性の要求をも示唆する判断としても読めるからである。

 

訴訟法上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。

 

一見すると、最高裁は、客観的蓋然性の存在を要すると判示しているようにも読める。しかし同時に、「通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信をもちうるものであること」と述べているように、信念の度合いとしての主観確率をも示しているかに思える。客観確率主観確率の関係という確率の哲学における問題に、図らずも最高裁判決は触れているのである。

 

自由心証主義といっても、それは、裁判官の恣意的判断や不合理判断までをも是認する趣旨ではない。したがって、心証形成の合理性が問われるべきであって、この合理性の有無を定量的に確認する手段としては、今のところ確率論以外の方法は存在しない。最高裁の意思もそこにあると見るべきではないか。太田の著書は、事実認定における裁判官の心証形成の合理性をどう担保するかという問題にも触れ、それがベイズ決定理論を用いることで、一定のモデル化がなされると考えたのだった。

 

「世界には偶然(chance)のようなものはないが、あらゆる事象の真の原因についての我々の無知は、その理解に同じ影響を及ぼし、同じような種や信念や意見を生み出す」とデイヴィッド・ヒュームは述べている。デイヴィッド・ヒュームが「世界の偶然」の存在を否定した時、彼が否定したのは、自然界において基本的な役割を果たす確率の存在であった。しかし同時に、ヒュームは客観確率の代替概念を提供していた。それは、世界の根底にある決定論的因果構造に対する我々の無知に由来する概念である。

 

決定論的原因の無知によって生み出されたヒュームの信念や意見の種は、ピエール・ラプラスの先駆的な研究から生まれた確率の古典解釈の特徴でもある。ラプラスは、確率の分析において、可能性を等確率の結果に分割することを前提とし、次に可能性のあるすべてのケースの数に対する好ましいケースの数の比率で確率を定義した。その場合、状況の確率的特徴は、可能性がどのように等確率の結果に切り分けられるかに完全に依存する。つまり、ラプラスの議論は「無差別の原理」に依存しており、それによって証拠となる状況の対称性が等しい確率に反映されるという構造を持つ。

 

確率についての古典的描像は決定論的な古典物理学の全盛期に繁栄したが、量子力学の出現は、世界自体が客観的に確率的であるという見方を復活させたとも言える。ドナルド・ギリースは、確率へのアプローチを古典解釈、論理解釈、主観解釈、頻度解釈、傾向解釈に分類する。このギリースの分類に加えて、新たにエヴェレット流量子力学解釈(多世界解釈)に基づいた6つ目のアプローチが追加してもいいだろう。

 

主観主義は、主観的な可能性または信念の程度によって確率を識別する。このように解釈される確率は、エージェントに依存する。エージェントが異なれば確率も異なる可能性があり、エージェントがいなければ確率は存在しない。この主観主義に反対する理論は二元論であり、これは、客観的および主観的という2つの異なる形式の確率を認めている。主観確率ないし信憑(credence)は、個々のエージェントの個人的な信念の程度によって構成される。二元論は、主観確率客観確率を対比するが、客観確率は更に様々な方法で考えることができる。古典解釈によれば、確率の客観的要素は、可能な状態空間を等確率のセルに分割することにより得られる。論理解釈は、確率を命題間の論理的関係として理解する。頻度解釈は、確率を相対頻度として見る。傾向解釈は、確率が自然界の動的性質で構成されていると言い、エヴェレット主義は、確率を量子論的多宇宙の状態の分岐の重みとして理解する。

 

数学の哲学における論理主義と古典解釈に触発された確率の論理解釈のアプローチの特徴は、先述の通り、客観確率を命題間の論理的関係として扱うことであった。これは、この古典的なアプローチを2つの方法で一般化した。結果は異なる重みが付けられる可能性があり、証拠が対称的でない場合でも確率を定義することができる。論理解釈の代表はケインズ『確率論』であるが、ケインズと同様の思考が、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』においても見られる。ルドルフ・カルナップ帰納論理は、このアプローチの帰結であり、それは「客観的ベイズ主義」へと至りつく。

 

論理解釈に対する初期の批判は、この解釈の中心にある命題間の論理的関係に向けられる。すなわちこの批判は、命題間の論理的関係とはそもそも神秘的に過ぎ、そのようなものは認識論的にアクセス不可能ではないかというフランク・ラムジーからの批判に由来する。代わりにラムジーは、主観主義の洗練されたバージョンを提供し、実用的な選択肢の間の選択に対する確率の帰属を訴えた。ラムジーは、エージェントの信念の程度がエージェントの賭けの性質に現れるという考えを導入し、意思決定理論における表現定理(意思決定のパターンに十分な構造を持つエージェントが、主観的な確率測度の観点から信念を表すことができることを証明する定理)に至る思考を準備した。

 

この主観主義者のプログラムは、ブルーノ・デ・フィネッティによってさらに一歩進められ、デ・フィネッティの試行の交換可能性の概念により、主観主義者はギャンブルの成功行動を合理化するために必要な信憑の回復の種類をモデル化することができた。いわゆる「ギャンブラーの誤謬」などを回避するには、特定の種類の結果を確率的に互いに独立しているものとして扱う必要がある。そして、デ・フィネッティは、一連の結果の異なる順列を同等の可能性があると見なす必要のあるエージェントによって、この独立性が捉えられることが可能であることを示したのである。

 

科学における統計的推論の成功によって、こうした哲学的問題は放置されてきたが、そこから頻度解釈が有力化されていく。ポパー、ライヘンバッハ、フォン・ミーゼスらによって主導された頻度解釈は、実験科学の成功に支えられていた。しかし、頻度主義は、単一のケースの確率に対処することも、客観的にありそうもない一連の結果の真の可能性を許容することもできない。潜在的頻度主義といっても、確率概念の基本的な問題を解決することはできないばかりか、それ自体が新しい問題を引き起こすことになる。しかも、統計のスタティックな性質は、量子確率のダイナミックな性質を正当化しないように思われた。頻度主義は、原子核物理学の遷移確率が特に顕著にした単一のケースの問題に対処する上で役に立たない。こうした理由から、カール・ポパーは頻度解釈を放棄し、彼が「傾向解釈」と呼んだ解釈に改説した。この傾向解釈は、後にメラーらによって洗練されていく。

 

「傾向」は、世界の実在の特徴であると考えられている。しかし、それらは直接認識できないし、また測定可能でもない。そのようなとらえどころのない量が、我々の期待を合理的に制約することができるのだろうか。デイヴィッド・ルイスは、偶然(chance)と信憑性(credence)を結びつける確率の原理を設定することによって、この課題に一つの解決を図ろうとした。ルイスの「主要原理(Principal Principle)」である。すなわち、ここでは、既知の偶然(chance)は信用(credence)を制約すると述べている。ルイスは、許容できる偶然の理論は、その理論の偶然の候補に適用される「主要原理」が合理性の規範を構成する理由を説明する必要があると主張したのであった。

 

客観確率主観確率との関係に有望な見解を示しているかに見えるルイス主義の偶然の概念は、しかし制約的に過ぎる可能性がある。例えば、客観的偶然(0でも1でもない偶然)を決定論と両立させることができるのか否かという問題を提起するだろう。そして、ここにまた新たな論点が生まれる。ルイス主義の方向性で客観確率主観確率との関係を理解しようとする哲学者は、統計力学などの理論によって与えられる確率に対応するために、「主要原理」をより柔軟に修正していく方向性を模索することで、客観確率主観確率との調和を図ろうとしている。確かに、これは非常に魅力的なアプローチと思われるものの、未だ上手く行っているとは言い難い状況にある。

 

「東大病院ルンバール事件」最高裁判決が示した、訴訟法上の因果関係の証明の証明力に関する一見何気ない基準には、こうした客観確率主観確率との調和をいかに考えるかという哲学的難問を図らずも提起していたと理解することができるのではないか。