shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

fagging out

ギャングに属するゲイの男にとっての「男らしさ」とは、どのようなものなのか。ヴァネッサ・パンフィルのThe Gang's All Queer: The Lives of Gay Gang Members, NYU Press.はこう問いかけている。パンフィルは社会学と刑事政策の分野で学位を取得した女性研究者で、自らもレズビアンとしての性自認を持つ。

 

本書では、異性愛規範や過剰な「男性性」の発現がイメージされているギャングの一般的イメージが打ち壊されている。パンフィルは、オハイオ州コロンバスの53人のゲイやバイのギャング構成員へのインタビューと、その内部に入り込んだフィールドワークにおいて、彼らの生態を見ていく中、意外に数が多いゲイやバイのギャング構成員の「男性性」が絶えず揺れ動いていく様を詳細に分析している。

 

おそらく日本でも言えることなのだろうが、米国でも、ギャングという不良集団の中には、結構な数のゲイやバイがいるように思われる(その潜在的な者も含めて)。それゆえにこそ、自身の「女性性」の発現を極度に警戒し、その不安が増幅されていく。それがかえって、同性愛嫌悪の言動になって跳ね返っていくという現象も普遍的に見られることである。それほどまでに異性愛規範が現代社会の隅々にまで行き渡っているということなのだろう。

 

同性愛嫌悪がさほどなかったとされる江戸期以前において、例えば江戸時代中期に登場した、派手な衣装をまとった旗本奴や、その影響を受けた町人からなる町奴は、世間に反発する若者たちからなる不良集団として、江戸市中の厄介者とされたわけであるが、彼らも仲間内で夜な夜な性行為に盛り合っていた。現代でも、暴走族の集団の中には、ふざけ合って互いの性器をこすりあうなどの行為をしていたところもある(もちろん、これは少数であろうが、休刊した雑誌『チャンプロード』には、そうしたじゃれ合い行為を言っていたチームがあった。具体名は、差し控えるが)。

 

逆に、ゲイもしくはバイであると見られることを過剰に警戒するあまり、互いに牽制し合った結果として、むしろ同性愛嫌悪的な言動に出がちな者も確かにいる。当然と言えば当然であろう。ただ、米国のゲイ向けのポルノには、黒人のゲイのギャングっぽさを演出した作品が数多く存在する。本書の中に登場するゲイのギャングには、実際に売春行為で日銭を稼ぐ者もいる。

 

社会学理論におけるシンボリック相互作用論における枠組を強調しすぎるきらいはあるものの、それが上手く行かされているのも確かで、「意味づけ」プロセスを通じたアイデンティティ構築についての分析の冴が光る。ゲイのギャングが、ゲイとしてのアイデンティティを構築していく過程を、彼らの幼少時からの経験から掘り起こしていく。面白いのは、パンフィルが三つのグループに分けているところだろう。通常、この種の研究に予想されることは、ギャングに属する少数のゲイを取り上げるだけに終わりそうなもの。しかし、パンフィルは、ゲイが多数のギャング、ゲイとストレートの混在するギャング(ハイブリッド・ギャング)、そしてストレートが多数のギャングと三つのグループ分けをして、その違いを描いている。

 

ギャング構成員の複数のアイデンティティと、ギャングのメンバーシップの関係については、それぞれのグループでゲイのギャングがどう受け入れられていくのも記述されており、この辺の具体的な内容は、読んでいて面白いところではないか。その際、ゲイのギャングが「異端」と見なされることへの「不安」」を考慮して、「女性性」の行動兆候を防ぐため、彼らがどのような振舞いを見せるに至るかまで、微に入り細に入り記述している。

 

中でも、執拗に分析されている”fagging out”という独特のスラングが、異なる文脈で異なる意味において使用されている点に着目していることも、本書の際立った特徴である。時には、他のゲイのギャング構成員に対する言葉として使用されることもあれば、その「女性的」な行動を批判する時にも使われたりと、様々な意味に変容する。これは、「男性性」と「女性性」との間の揺動空間を図らずも表していることが取り出される。これは、ゲイのギャング自身の内面化された同性愛嫌悪に関係するものであると同時に、愛情の一形態として出されている点も見逃さない。

 

ゲイのギャングの内部に入り込んでのフィールドワークゆえ、違法行為による「経済活動」の詳細も描かれていて、彼らもやはりギャング。相当なことをやらかしているわけで、ここらの記載は、読む者によってはきついと感じるかもしれない。構造的不平等の中で、ゲイのギャングが自らのアイデンティティを模索し、もがき苦しむ姿を描くと同時に、彼らを単なる「犠牲者」・「被害者」として位置づけるような単純な視点を取らないことも好感が持てる。彼らゲイのギャングの暴力性と犯罪加害者としての側面を直視することも忘れない。

 

パンフィルは、同性愛嫌悪との闘いと違法活動への参加がどのようにバランスが取れているかを検討することを通して、ゲイのギャングの「抵抗」の持つ意味を再考する。その着眼点が、先述した”fagging out”という用語の使用文脈の分析である。これは、クィアとしての自己識別のためだけでなく、将来の嫌がらせから身を守るためにも使用されている言葉だ。パンフィルは、ギャングの周りにいることやその用語が彼女自身の語彙や行動にどのように影響したか、そして道徳的懸念など、議論された各テーマが自分自身にどのように関連しているかを検討するという点で、再帰的な研究になってもいるところが何より興味深い。

 

本書の対象となったギャングは、ほとんどが黒人の労働者階級に属する者たちである。対して、パンフィルの位置づけは、「部外者」つまり特権的な白人の女性学者である。しかし、パンフィル自身、レズビアンアイデンティティ社会学者・犯罪学者としての両側面から、ギャングたちの内部観察に入り込んでいく。パンフィルが自称する「ブッチ・アイデンティティ」によって、むしろギャングたちの警戒が解かれ、信頼を獲得していく様も面白いだろう。

 

いずれにせよ、ゲイの男性を対象にした研究書は数あるわけだが、ゲイのギャングを対象にした研究となると、ほとんどない。もちろん、対象となったギャングはオハイオ州コロンバスという局地的な場にいるギャングであることから、そこで指摘できることを全体化することは慎まねばならないが、今までになかった研究であるだけに、それだけでも本書は貴重な読書体験を与えてくれるだろう。