shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

TreatiseとEnquiry

デイヴィッド・ヒュームほど、哲学者の中でその人格につき毀誉褒貶著しい人物も珍しい。ヒュームの哲学が、ピューリタンにとって不都合と受け止められたため、真っ先に、ビーティやウォーバトンのような神学者からの批判があった。猛烈なバッシングに対して、それまで比較的寛容だったヒュームも、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、「(連中は)私を紳士として扱わなかった」と激怒したようだ。

 

ジョン・ブラウン『当代の風俗と徳義考』には、ヒュームのことを「人気取りと金儲けに腐心した」という激しい人格攻撃の表現がなされている。また、スコットランド人嫌いで有名なサミュエル・ジョンソンは、「愚鈍で悪者で嘘つき」であると罵倒したし、ボズウェルは、「虚栄こそが彼を魅了した愛人であり、一生彼の心を掴まえて離さず、彼を支配し続けたものである」と散々の言い様。あのジョン・スチューアート・ミルまでもが、「文学趣味の奴隷」と罵っていたし、ハクスレーも「単なる有名欲や世俗的成功欲が多分にあり、それゆえに哲学を捨てて、受けのいい政治論や歴史に向かうようになった」と罵倒する。更に、デンマークのクルーゼも、「文学的野心に憑りつかれて真理の探究に無関心になった」と述べ、米国のジョン・ランドルも「ヒュームは二つの目的のために物を書いた。一つは金を儲けるためにであり、一つには文学的名声を得るためにである」と中傷して止まない。

 

しかし、ヒュームはそこまで罵倒されるような人格であったのかというと、どうも実態は異なるようだ。ヒュームは、「もし、私がスコットランドに年収百ポンドも収益できるような土地を相続していたならば、私は一生郷里にとどまり、農業に勤しみ、土地を改良し、読書をし、哲学について書いたことであろう」と友人に宛てた書簡にて述べている。しかしヒュームは、その家柄が伯爵家につながる小領主で、母方の祖父はスコットランドの最高民事裁判所長官であるなど、法律家の家系に生まれたとはいえ、次男であったために、当時のスコットランド法ではさしたる相続持分はなく、自力で経済的基礎を築き上げねばならなかった。しかも、カルヴァン派の教会に目をつけられていたために、エディンバラ大学グラスゴー大学の教授にもなり損ねてしまい、やっとのことでありつけた職であるスコットランド法廷弁護士図書館司書の年棒は、僅か40ポンドだったという(晩年のヒュームは、不労所得だけで毎年1000ポンドの年収があったらしい)。

 

『自伝』によれば、「徹底的に節約した生活をやって資産不足を補い、何とかして独立してやっていきたいと思った」とある。ヒュームは、自らの活動のためには経済的自立が必須だとしていた。サラリ―をもらって生活している者は、経済的独立なきゆえ、真に利害関係を超えた立ち位置を確保することはできない。大学の教員も、結局は雇われの身なので、経済的独立はなく、思い切った言動はできずにいる。Fuck you money!とは中々言えず、自身のポジション確保のために小判鮫とならざるを得ない、しがないサラリーマンというわけだ。

 

ヒュームはこうした事態を打開せんと、英国スチュワート朝成立過程を描いた『ジェームズ1世及びチャールズ1世治下の英国史』を1754年に上梓した。ジェームズ1世は元々スコットランド王ジェームズ6世であったが、未婚のエリザベス1世の死去を受けて英国国王に即位してジェームズ1世となった人物である。元はスコットランドの出であるので、エディンバラにあるスコットランド法廷弁護士図書館の司書であるヒュームにとって資料集めが容易であったことも手伝って、首尾よく第1巻を飾ることになった。ところが、この第1巻は頗る評判が悪く、1年間で45部しか売れなかったらしい。相当へこんで、フランスへの隠遁も考えたというが、その2年後には続編としてチャールズ1世の処刑からクロムウェルピューリタン革命までの歴史を書き上げ成功を収めてから、3年後にはチューダー王朝の歴史を書き、その2年後には、遡って『ジュリアス・シーザーの侵入よりヘンリー7世までの英国史』を完成させる。すなわちヒュームは、自分の一番身近な時代から書き起こし、そこから遡及する形で歴史を叙述していった。

 

実は、こうした書き方は、ヒュームの哲学的主著とされる『人間本性論(人性論)A Treatise of Human Nature』にも見られる。『人性論』は、第1巻の悟性(知性)論、第2巻の情念論、第3巻の道徳論から構成されるが、当初の計画では、悟性・情念・道徳・政治・趣味判断の5つの主題について論じる構想であったという。ところが、ケンプ・スミスやジェソップよるヒューム研究の成果によって明らかになったことは、ヒュームは先に第2巻、第3巻の内容を考え、ある程度書いた上で第1巻を書き始めたというのである。ヒュームにとって、純粋哲学的な仕事の周辺に政治や歴史といった余技があったのではなく、すべてが混然一体になっていた。

 

A Treatise of Human NatureとAn Enquiry Concerning Human Understandingとを読み比べてみると一読瞭然であろうが、明らかに後者の方が読みやすい簡潔・明晰な文章になっている。デカルトゆかりの地であるラ・フレーシュにおいて、3年がかりで書き上げ、ロンドンのジョン・ヌーンとの交渉の結果、漸く出版にこぎつけた主著の英語は、ところどころスコットランド表現が使用されていたり、必ずしもジェントルマンの上品な英語とまでは言えない。日本人研究者が海外の学会に送付した論文の文章のように妙なぎこちなさが残っていて、決して貴族階級の好む美しい英文とは言えない。それに引き換え、後者の英文は、まるで英国貴族階級が書いたような簡潔極まりない美文である。

 

ヒュームは、Treatiseの興業的な失敗の理由を、その内容ではなく文体に帰していた。「いかなる著述の企ても、私の『人間本性論』ほど不運なものはなかった。それは印刷機から死んで生まれおちたのであった(dead-born from the Press)」という表現までしている)」と述べている。この失敗で相当意気消沈したようだが、「しかし、生まれつき楽天的な性格だったから、すぐに速やかに立ち直って」、田舎で研究を続けたとヒュームは語っている。

 

ヒュームは、英語力を磨こうとして英語の勉強にとりかかる。ヒュームが手本にしたのは『スペクテーター』誌の文章で、そこの明晰でかつ上品、さらにユーモアに富んだイングリッシュ・エッセイを書いていたアディソンの機知と諧謔を交えた明晰な文体を真似て文章修行を続けた。その結果、Treatiseに無かった奇蹟論を追加して、Enquiryを書き上げた。文体を改めたことが功を奏したのか、Enquiryやその他政治論集も版を重ねるように売れ、名声も得ていった。ハーファド伯爵やコンウェイ将軍の後ろ盾で国務次官まで上り詰め、パリの社交界でもle bon Davidと呼ばれるほどの人気者となった。

 

言葉は、単に情報を伝達するだけの手段ではない。内容さえよければ形式はどうでもいい、というわけでもない。「内容と形式」という、使い古された文学研究上の枠組みも、あながち的外れというわけでもないという好例であろう。