shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

グロティウスとストア派

ベンヤミン・シュトラウマンのHugo Grotius und die Antike. Römisches Recht und römische Ethik im frühneuzeitlichen Naturrecht (Baden-Baden)は、フーゴ―・グロティウスの著作の中でも、主に『捕獲法論De jure praedae commentarius』と『戦争と平和の法De jure belli ac pacis』などを扱っている。

 

グロティウスは、公海の法的位置づけをめぐる論争相手との議論において、盛んに古典を法源とする立論をしているのだが、著者シュトラウマンは、その立論がグロティウスの主張の全体にどのように機能しているのかについて論じている。国際公法の法制史を知る上で、有益な著作であることは間違いない。

 

そもそも、なぜグロティウスが公海や領海などについて自然法論に基づく根拠づけが必要と考えたかというと、その背景に、オランダとスペイン(ポルトガルも含めてもいいだろう)が17世紀に入って利害対立が深刻化したことが挙げられるからである。スペインとポルトガルは15世紀半ばから海洋権益を独占するために、ローマ教皇の教書や条約や先占などを論拠とした。ところが、海洋進出がスペインなどより遅れたオランダは、1602年に東インド会社を「先兵」として海洋進出を拡大させていく。この文脈の中で『捕獲法論』が著された。

 

グロティウスが参照した古典のテキストは、キケロである。有名な『バルブス弁護Pro Balbo』や『法律についてDe legibus』や『善と悪の究極についてDe finibus (bonorum et malorum)』を引用しながら、自然法が神の意志とは独立した理性の命令としての規範であることが確認される。各国の慣習法で流通している財産秩序と自然的財産秩序が区別され、公海は後者の性質を帯びている。オランダ東インド会社ポルトガルとの争いについては、各国の慣習法に現れた実定法に基づく処理はできないと論じた。

 

本書で特に面白いのは、自然法国際法を区分けし、自然法が自明な諸原理からアプリオリに導出できるものであるのに対し、後者は実定法上の概念から経験的に導出されるとするグロティウスの定式化がrhetoric上の演繹法帰納法に由来していると論定するところかもしれない。あとは、ストア派の人間観との関係を論じる場面であろうか。

 

グロティスのアプリオリな議論の基盤となっている人間観は、ストア派のoikeiosis(親近性)・appetitus societastis(社交欲求)に支えられる人間観である。キケロの『善と悪の究極について』からは、ストア派ではoikeiosisは自己保存欲求という第一段階から自然に一致したものを選び取るhonestum(徳)を備えた第二段階への移行が重要であり、この考えがグロティスの議論を突き動かしているのではないか、とシュトラウマンは論じていく。

 

自然状態における正義の概念が論じられる箇所は、prima naturaeという生活必需品に倫理学的・自然法的重要性を認め、これを正義論に組み入れ、ストア派のhonestumを他人の財産の侵害禁止として再構成し、アリストテレスで言うところの配分的正義より匡正的正義の文脈に位置づける。

 

グロティウスは、この「自然的正義」と「自然状態」から「主権的自然権」の観念を生み出した。この観念を理由に、オランダはポルトガルとの紛争において、causus belliに基づいて実力行使に踏み切ったのである、つまり、「自然状態」において司法権が不在の下では、「主観的自然権」の行使として正当化されるというのである。

 

本書は、その知名度の割には、その立論過程における古典とりわけストア派の思想に強い影響について知られているとは言い難いグロティウスの思考の道筋を知る上で、ひじょうに参考になる著作である。