shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

高天原とは

辛酉正月一日、太陽暦にして2月11日。日向を出立され、大和にたどり着かれたカムヤマトイワレヒコノスメラミコト(『古事記』と『日本書紀』とでは漢字表記が異なるだけでなく、その御名も微妙に変わるので、とりあえず『日本書紀』の記載をカタカナで表記しておく)が大和を平定し、橿原宮にて初代の天皇たる神武天皇として即位された日本建国の日である。『古事記』と『日本書紀』における東征過程の記述が微妙に異なっているのだが、変わらないのは、何れも即位そのこと自体についてはごくあっさりと記載されるにとどまっているということである。

 

記紀の記載とは別に、考古学の成果によると、紀元3世紀頃には、相当程度大きな勢力が大和地方に発生しており、それが邪馬台国と関係しているのかどうかはともかく、全国の土器が集まってくるほどの求心力を誇っていた大国の存在が徐々に明らかになってきている。なお、大和朝廷邪馬台国を連続的に捉えるのか否かという問題は、邪馬台国の比定地をめぐる論争、すなわち「邪馬台国論争」の中心争点になっている。本居宣長和辻哲郎あるいは内藤湖南の書き残した各々のテキスト、具体的には、本居宣長「馭戎慨言」、和辻哲郎『日本古代文化』、内藤湖南卑弥呼考」が邪馬台国比定地問題を扱っているし、さらに時代を遡ると、新井白石まで辿ることができる。現在もなお、未解決問題として、専門の研究者のみならず、アマチュアの歴史愛好家で、単なる趣味の域を超えたレベルの知見を持つ者もいるほどに、こうして江戸時代から戦わされてきた論争への興味は尽きない。

 

本居宣長は、邪馬台国について、次のように述べている。

筑紫の南のかたにていきほひある、熊襲のなどのたぐいなりしものの、女王の御名のもろもろのからくにまで高くかがやきませるをもて、その御使といつはりて、私につかはりたりし使也。

要するに、南九州の一部を勢力下に治め、勢い盛んだった熊襲か何かの、訳のわからん女酋長が、その名がシナにまで轟いていた皇国の女王の名声を利用し、自らがその女王であると詐称して魏に遣いを出していただけだと言うのである。邪馬台国とは、大和朝廷とは何ら関わりがない、単なる南九州の一部族集団だったと言いたいのであろう。

 

此の從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。

対して内藤湖南は、この宣長の見解を上記のように「破天荒」として一蹴し、宣長の見解を現代的な意味で「継承」しているとみなした白鳥庫吉「倭女王卑弥呼考」に見られる九州説を批判して「卑弥呼神功旧説引戻論」を立て、畿内説それも大和に比定地を求める見解を提示した。さながら古代史・考古学における東京学派対京都学派といった様相である。

 

和辻哲郎も『日本古代文化』において、この「邪馬台国論争」に首を突っ込んでおり、「魏志倭人伝」と記紀の記述の共通点を探り当てる方法に基づき、邪馬台国の比定地を九州に求めた。但し、和辻の場合、邪馬台国大和朝廷を断絶したものと見るのではなく、邪馬台国は勢力を拡大し、徐々に大和へと勢力を延ばして行ったとする見解、すなわち「邪馬台国東遷論」を提起した。「邪馬台国東遷論」にはいくつかのバリエーションが存在するが、和辻哲郎によると、天照大神卑弥呼に、高天原邪馬台国として解釈し、記紀の記述に基づきつつ、邪馬台国大和朝廷とを連続的に捉えるのである。

 

以上、この三人だけみても、内容はバラバラ。況や、その他論者の見解を見渡せば、邪馬台国の比定地をめぐって百家争鳴の様相である。その主張も玉石混交。文献学的、考古学的な裏づけに一応基づいたそれなりに堅実な立論もあれば、ほとんど思い込みの類の珍説・妄説も数多氾濫し、それら珍説・奇説・妄説の一々を相手にしていては、いつまでたっても前には進まない。

 

そんなこんなの論争状況でありながら、それなりの学者・研究者の唱える有力な説は、概ね二分されてきた。一つは、畿内説、なかでも大和に比定地を求める見解。この見解は、大和朝廷邪馬台国の延長線上の国と位置づける見解に繋がりやすい。もう一つは、北九州地方のどこに置くかどうかで様々な見解に分かれるものの、北部九州にあったと解する九州説である。邪馬台国問題に対する基本的なアプローチとしては、言うまでもなく文献学的アプローチと考古学的アプローチが考えられるが、文献学的アプローチに傾斜しがちであった過去の邪馬台国論争は考古学の発達にともない、徐々に考古学的アプローチの占める割合が相対的に高まってきた。

 

とりわけ、この時代にはこれといった文字史料は残されていないわけだから、その分考古学的知見に一層頼らざるを得ない。最近の考古学的知見により、俄然支持者が増えてきた畿内説であるが、年代測定の見方の変化にともない、大和で発掘された遺跡が従来思われてきた時代より更に遡られるのではないかとされて以降、特に纏向周辺が邪馬台国の比定地として相応しいのではないかとの見解が学界の中でも有力説を形成している。この問題は、単に邪馬台国の所在地をめぐる議論に収まらず、後の大和朝廷との連続性を考えるならば、国家成立史に深くかかわる問題であるので、歴史学・考古学上の一つの論争で済む話ではない。

 

邪馬台国については根拠薄弱な論拠しか示さなかった本居宣長であるが、それまで読めなかった『古事記』を厳密な文献学的考証に基づいて解読した『古事記伝』に見られるように、本居宣長実証主義的な方法論を身に着けていた、賀茂真淵の薫陶を受けた偉大な学者でもあった。その宣長が、弟子にせがまれて、その学問方法論として『うひ山ぶみ』を執筆した。これは、学問をするための心構えを説くものであるのだが、『古事記』などの古典を読む際の心構えとしても理解すべきでろう。そうしなければ、決して宣長を読むことはできないし、また読んだところで得られるものは少ないだろう。

道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意、儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし。

小林秀雄本居宣長』(新潮社)は、こうした姿勢に貫かれた著作であり、だからこそ、宣長を論じるまず先に、桜についての話から説き起こすことができたのだと思われる。現在の宣長研究の水準から見た場合、所々誤りも散見されるものの、そうした欠点があろうと、なお尽きせぬ魅力をたたえている名著である。

 

本居宣長は、ことのほか桜の花を愛した。現在の日本人も、桜を愛でる習慣を持っているし、そんな習慣を、谷崎潤一郎細雪』は流麗な文体で綴っている。京都の平安神宮神苑の枝垂桜を見物する有名な一節である。

古今集の昔から、何百首何千首とある桜に関する歌、-古人の多くが花の開くのを待ちこがれ、花の散るのを愛惜して、繰り返し繰り返し一つことを詠んでいる数々の歌、-少女の時分にはなんという月並みなと思いながら無感動に読み過ごして来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただ言葉の上の『風流がり』ではないことがわが身にしみてわかるようになった。

不思議なことに、『万葉集』には桜が登場することはほとんどない。『古今和歌集』になっても、意外に少ないと思われるのではないだろうか。頻繁に登場し出すのは、後の『新古今和歌集』からであろう(宣長の新古今注釈の書『美濃の家つと』は、その源氏物語論である『玉の小櫛』や『紫文要領』ほどには知られていないが、素晴らしくも謎に満ちた書である)い。吉野の山桜(現在の日本で知れ渡っている桜の大半は染井吉野であって、本居宣長の愛した桜ではない)をこよなく愛し、吉野山へ幾度となく参じた本居宣長は、上千本・中千本・下千本と山一面に咲き誇る、この吉野山について次の有名な歌を残している(谷崎潤一郎吉野葛』においても、「義経千本桜」の挿話がある)。

 

漢国にはない我が国固有の桜に対する、ある種異様なまでの執着を見せた宣長は、(小林秀雄本居宣長』の冒頭に紹介されている通り)自分の墓に桜の木を植えてくれと、遺言書に指示していたのだが、その宣長の「よし野山の歌」はこうある。

神代より たうとき山と いてましの 宮しかしけむ みよしのの山 さくら花 訪ねて 深く入る山の かひありけなる 雲の色かな 櫻花 かつ咲きそめて ここかしこ 霞色つく 美吉野の山 見渡せば 花よりほかの 色もなし さくらに 埋む み吉野の山 咲き続く さくらの中に 花ならぬ 松めずらしき み吉野の山 あかさりし 花の名残りと みよしのの 山は青葉も 懐かしきかな み吉野の 花は日数も かぎりなし 青葉の奥も なほ 盛りにて。

 

日本書紀』は明確な漢文で綴られているものの(大和言葉に関しては、漢語に訳すのではなく、音を漢語に当てているわけだけど)、一方の『古事記』はと言えば、とてもまともな漢文とは言えない奇妙な文章になっており、宣長より前は、読めない文献であると言われてきた。そのためか、『日本書紀』の写本は腐るほど存在するのに対して、『古事記』の写本はほとんど存在しない(確か、愛知県のどこぞの寺で発見されたもののみではなかったか)。だから、『古事記』は偽書であるという見解も存在するくらいである。いずれにせよ、賀茂真淵との出会い、そして「松阪の一夜」から、三十年にもわたる研究の末に出た畢生の大業『古事記伝』によって、後世の我々は、漸く『古事記』を読めるようになった。小林秀雄の言うように、「大変ありがたいこと」である。

 

その序文にあたる『直毘霊』には、

そもそも此天地のあひだに、有りとある事は悉有に神の御心なる。・・・そも此の道はいかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊によりて、神祖伊邪那岐伊邪那美大神始めたまひて天照大神の受けたまひもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。故是以神の道とは申すぞかし。

とあり、これを受けて、『古事記伝』には、

人は人事を以て神代を議るを、我は神代を以て人事を知れり。・・・凡て世間のありさま、代々時々に、天下の閲かる大事より、民草の身々のうへの事にいたるまで、悉に此の神代の始めの趣きに依るものなり。・・・古へより今に至るまで、世の中の善悪き、移りもて来しさまなどを験むるに、みな神代の趣に違へることなし。

と記す。この世に生起する出来事は、須らく神代に生い立った出来事にほかならず、したがって、この世の森羅万象すべてが神の御心なのである。そう、宣長は喝破する。ここで問題なのは、神代とは何か、神とは何かということであり、神代や高天原を現在から遡及した時点として、また、この世に一定の領域を占める空間上の地点して解する常識的な見方を宣長は排除する。『古事記伝』には、こう書かれている。

高天原は、すなわち天なり。然るを、天皇の京を云ふなど云る説は、いみじく古への伝へにそむける私説なり。凡て世の物知人みな漢意心に泥み溺れて、神の御上の奇霊きを疑ひて、虚空の上に高天の原のあることを信ぜざるはいと愚かなり。かくしてただ天と云ふと、高天の原と云との差別は如何ぞと云に、まず天は、天つ神の坐します御国なるが故に、山川木草のたぐひ、宮殿そのほか万つの物も事も全御孫命の所知看此の御国土の如くにして、なほすぐれたる処にしあれば、大方のありさまも、神たちの御上の万づの事も、此の国土に有る事の如くになむあるを、高天の原としも云ふは、其の天にして有る事を語るときの称なり。

 

産巣日は、字は皆借字にて、産霊は生なり。其は男子女子、又苔の牟須など云牟須にて、物の成出るを云ふ。日は、書紀に産霊と書れたる、霊の字よく当れり。凡て物の霊異なるを此と云。高天の原に坐します天照大御神を、此の地よりみさけ奉りて、日と申すも、天地の間に比類なく、最霊異に坐すが故の御名なり。されば産霊とは、凡て物を生成すことの霊異なる御霊を申すなり。あらゆる神たちをみな此神の御児なりと云むを違はず。神も人もみな此神の産霊より成出づればなり。されば世に神はしも多に坐せども、此の神は殊に尊く坐々して、産霊の御徳申すも更なれば、有るが中にも仰ぎ奉るべく、崇き奉るべき神になむ坐ける。

 

ここで宣長は、高天原をこの世界の特定の場所とは考えていないし、神代を現在の点として表象される線型的時間イメージの端点として措定してもいない。また、現在とそれが基底としてもたざるを得ないそれとともにある共存せる過去ととして把握される時間像をも同時に退けている。それとは別の時間把握がなされていることに注目すべきであろう。「つぎつぎとなりゆくいきおひ」を歴史意識の「古層」として取り出す丸山真男に反して、本居宣長は『古事記伝』において、正にこうした丸山真男の把握の仕方を明確に否定していたことは、注目に値するだろう。宣長にとって、神々は時間的順序にしたがって生まれてきているのではなく、一挙に与えられているものでなければならない。

 

神代とは、過去でもありかつ現在でもありかつ未来でもある。一切は、「永遠の今」での出来事として「とうの昔」に起こっており、それが「いつ」・「どこで」起こったのかと問うことが全く無意味な問になるのだ。そしてこの時間・空間の捉え方に対して視線を向けるとすれば、それは出来事が次々とある順序にしたがって出来する考えをも退けていることが指摘される。そのような考え方は、むしろ伊藤仁斎が出来事の逐次的継起としての時間という考えを示していた。また、自ずからなる流れとしての時間でもない。それは、「天地おのづからなる道」である老荘思想の一種だとして、宣長は否定していた。宣長が、仁斎に示された儒者の考えも、老荘思想のそれをも退けた上で、敢えて「ムスビの神」を持ってきている意味を理解しなければならないだろう。宣長は、注釈にて以下のように指摘する。

是をよく弁別て、かの漢国の老荘などが見と、ひとつに思ひまがへそ。

一体、なぜ「ムスビの神」の媒介を宣長は必要と考えたのか。これを物活的自然観とみることはできない。単なる物活的自然観というならば、その発想の根底は、仁斎のそれとさしたる差はないことになる。しかし、先述の通り、宣長は仁斎の考えるような自然の捉え方をしてはいなかった。これは、いまだ解明されていない謎のままである。