shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

外国人投票権について

先週、米国のニューヨーク市議会は、永住権もしくは就労許可を得ている、同市に30日以上滞在する外国籍の者に対して、市長選及び市議会議員選挙における投票権を付与する法案を可決した。これによって、来年初めからニューヨーク市在住の要件を満たす約80万人の外国籍の者にも新たに投票権が付与されることになる。

 

現在の市長デブラシオは、今年いっぱいで退任。来年早々に、新市長に就くアダムズも賛成の意を示しているので、基本的には結果が覆ることはないとは思うが、すんなり行くかどうか。

 

こうしたことは、別にニューヨーク市が初めてというわけではなく、既に10ほどの市が、一定の要件を満たす外国人に対して、市長選挙や市議会議員選挙の投票権を付与している。但し、それはメリーランド州イリノイ州のごく一部の田舎町のことであって、ニューヨーク市のような大都市で認められたことは、やはり衝撃的である。当然、共和党は反発しており、ひょっとすれば法廷に争いが持ちこまれることになるやもしれない。

 

外国人参政権問題は国民主権の原理に抵触しかねないデリケートな問題なので、ともすれば感情的な対立にまで発展しやすく、そうであればこそ、なおのこと冷静かつ慎重な議論が必要となる。国政選挙に関しては、どこをどう解釈しても国民主権の原理に反するので、国民主権原理を憲法の大原則として採用している国々では、外国籍の者に対して参政権を付与すること自体が憲法に違反するとされるため、問題になりにくい(浦部法穂説のような特異な見解でも採らない限り、どうしても不可能との帰結になる)。

 

対して、地方参政権に関しては、有権者団を構成する主体が「住民」となり、この「住民」の意味をどう解するかについて複数の解釈があるため(「住民」というのは「国民」の部分集合であることが本来予定されているので、「住民」とは、当該自治体の区域に住所を有する日本国籍保持者を指すと解するのが、ごく自然な理解だと思われるけれど)、その是非をめぐって様々な意見が入り混じった争いが起きてしまう。

 

このように、ニューヨーク市議会でも揉めていた外国人投票権の問題は日本の一部自治体においても生じているようで、武蔵野市の外国人住民投票問題が、揉めに揉めているという。但し、武蔵野市の場合、ニューヨーク市とは違って、市長選挙や市議会議員選挙における投票権付与の是非が争われているのではなく(日本の場合、地方自治体の首長選挙や議会選挙における投票権を条例だけを以って付与することはできず、仮に平成7年最高裁判決における傍論部分を是とした場合でも、「法律」にそれを認める規定を設けなければ不可能であろう)、形式的には、その結果について法的拘束力を持たせない住民投票における投票権を、武蔵野市に3か月以上居住する外国籍の者に対して付与するのが是か非かという問題だ。

 

住民投票制度を設けている自治体は近年増えてきてはいるものの、まだ大部分の自治体は住民投票制度を定めておらず、ましてや、単に3か月以上居住しているという要件を満たすだけで、外国人に住民投票における投票権を付与する制度を設けている自治体となると、(調べたわけではないが)皆無に近いか皆無なのではないだろうか。ともかく、住民投票制度は二元代表制を補完するための制度であり、あくまで原則は二元代表制の方であるから、憲法地方自治法の趣旨を反映して、住民投票の結果には法的拘束力を持たせないとされる諮問型であるのが通常である。

 

では、なぜ武蔵野市の場合に揉めているのか探ってみると、どうやら政策決定プロセスがほとんど見えない中での唐突な市長による提案であったことに加え、制度の建付が悪すぎるという点が見られるからではないかと思われる(単に「外国人が嫌い」というだけの者やら、「在日韓国・朝鮮人を日本から叩き出せ!」と叫んでいるだけの排外主義者の主張は検討に値しないので、ここでは無視しておく)。

 

市長から提案されている素案によれば、例えば、住民投票結果に法的拘束力は認められないとしても、その結果について、市長や市議会は尊重する義務があるとされているので、たとえ形式的には拘束性がないと言っても、実質的には拘束力を認めたも同じことだとの批判を招き寄せてしまうだろう。

 

条例案に反対する意見の中には、憲法上の疑義からの批判と政治的理由からの批判が含まれるが、このうち前者に絞って軽く検討してみると、日本国民に限り地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有すると規定した地方自治法11条、18条及び公職選挙法9条2項の、憲法15条1項、93条2項適合性が争われた平成7年最高裁判決がまず参照されることだろう。もっとも、本件の争点と同種の争点とは言えない事案なので、平成7年判決の趣旨をどこまで斟酌するかによって見方が異なってくる。いずれにせよ、本事案を考えるにあたってどこまで参考になるかは、これ自体おそらく一つの議論になるに違いない。レイシオ・デジデンダイを構成しない「傍論」であるので、それを金科玉条のように扱うわけにもいかない。とはいえ、外国人地方参政権に対する最高裁の見解が記されているという点で、全く無視するわけにも行かないし、その見解の中に、本条例案の是非を考えるにあたっての重要な視点が含まれていると考えることもできよう。

 

平成7年判決は、理由中の判断において、これまでの最高裁判例と同様に、憲法第3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上、日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、在留外国人に対しても等しく及ぶものであることを確認した上で、但し、憲法15条1項に規定する公務員の選定・罷免権の保障が在留外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かという点について、同規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものに他ならず、主権が日本国民に存するものとする憲法前文及び1条の規定に照らせば、憲法国民主権の原理における「国民」とは、日本国籍を有する者を意味することは明らかであるから、同規定は日本国民のみが対象であって、在留外国人の権利を保障したものではないと判示している。

 

そしてまた、地方自治について定める憲法第8章について、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることから、憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、在留外国人に対して地方自治体の首長選挙や議会の議員選挙における選挙権を保障したものではない。これは、外国人の政治活動の自由が争点の一つとなった「マクリーン事件」大法廷判決の趣旨からも明らかである。

 

なお、当該大法廷判決では、「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動等」について、憲法21条1項の保障対象に含まれる政治活動の自由と言えども、こと外国人に対しては、これを保障するものではないということが示されていた。もちろん、「マクリーン事件最高裁大法廷判決で判示されたこの部分は、本判決主文を導く理由中の判断に含まれている。

 

但し、平成7年最高裁判決は、判決主文を導く理由中の判断には含まれない「傍論」において、憲法第8章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性を考慮するならば、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解される以上、在留外国人の中でも、永住者等、当該居住区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者について、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、特段憲法上禁止されているものではなく、そうした措置を講ずるかどうかは、専ら国の立法政策に関わる事柄であるとも述べている。

 

武蔵野市条例案の対象となっている住民投票制度は、通常の住民投票制度と同様、住民投票結果に法的拘束力が付与されていない諮問型住民投票制度である。といっても、素案によれば、その結果に対する尊重義務を市長および市議会に課しているのであって、たとえ形式的には自由な裁量を観念できることになっていても、実質的には法的拘束力を認めているのも同然という疑義が残る。その上、当該区域の住民の権利義務に関係する事項の是非をめぐる問題を解決するための政治的意思決定プロセスに参画させることは、広く解すれば、外国人には保障対象外であるはずの「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動」を認めることに繋がるとの危惧が生じる。

 

住民投票における投票権を在留外国人に認めたからと言って、直ちに違憲となるとまでは断定できないにせよ、民主主義における自己統治の観念(ここでの「自己」とは、「国民」自身である)を毀損する、外国人による「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動等」となりかねないことを考慮するならば、慎重の上にも慎重を重ねる必要があるだろう。

 

仮に、在留外国人に住民投票権を付与するとしても、少なくとも、「永住者等、当該居住区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」に限定した上で、かつ、住民の日常生活に”特に”密接に関係する地方公共団体の公共的事務の処理についての提案の是非を問う住民投票のみに限られるとするなどの一定の制約を課す必要があろう。かく解したからといって、長年当該自治体に住所を有し、その日常生活に関わる公共的事務の処理に特別な関心のある永住者または特別永住者は、ここで言う「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」に該当すると解釈されるので、例えば、日本のみにしか生活の拠点を持たない在日コリアンを排除することにはならないはず。

 

但し、特別永住者として扱われている在日韓国・朝鮮人に関しては、別の問題が生じることもまた確かである。というのも、地方自治体の諮問型住民投票制度の中での投票権に過ぎないので、同列に論じるわけにはいかないにしても、在日韓国人は帰属国である大韓民国の選挙において投票権を持つ身分であり、朝鮮籍の中でも朝鮮民主主義人民共和国を帰属国とする者は、朝鮮民主主義人民共和国公民として最高人民会議代議員選挙の選挙権を行使できる身分を持つ。そうすると、帰属国での選挙権を行使できるのに、日本でも住民投票制度の中での投票権とはいえ、これを行使できるというのは、「二重帰属」を認めるようなものであって納得できないという声が出てくるかもしれない(もちろん、国政と地方行政とは一応区別されるわけだが)。しかも、朝鮮民主主義人民共和国公民としての自覚ある者は、むしろ日本における選挙権要求は「同化」にあたるとして消極的な姿勢を示しているはずである。

 

ともあれ、できるだけ多種多様な住民の意見が反映された地方自治体の運営にすべく、二元代表制の原則だけでは掬いとれない住民意思を明確に問う住民投票制度を補完的に活用し、その中で、そこに生活の拠点を置く在留外国人の意思も参考意見として聞く必要があるとの意見にも一定の理がある。しかし、広く解すれば参政権に含まれるだろう住民投票権を権利として認めるとなると、事は国民主権の原理に密接に関係するだけに、性急な判断は将来にわたって重大な禍根を残す恐れもなしとは言えない。

 

だから、国民主権の原理を規定する憲法前文及び1条の規定に抵触しないようにしつつ、しかし同時に、当該自治体と緊密な関係を持つに至った住民の意思を幅広く反映させようとする地方自治制度の趣旨との調和を図ることのできるギリギリの範囲で許容される方法が模索されねばならない。しかし武蔵野市条例案では、3か月以上の居住を要件としているしているだけであって、これでは、およそ「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」とは言い難い者までも対象に含められてしまうという問題を抱える。

 

平成7年最高裁判決の傍論を斟酌するといっても、その内容は、あくまで「法律」で以って在留外国人に対して地方公共団体首長選挙および議会選挙における選挙権を付与しても直ちに違憲にはならず、したがって付与する・しないの問題は立法政策に委ねられるというものであり、「条例」によってそれが可能となるとは述べていない。この点を以っても、平成7年最高裁判決の傍論を根拠に、「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」とは言い難い者まで投票権者の対象に含める本条例案を肯定しようとする主張は、些か杜撰な主張ではないかと思われる。対象者をどこまでに限定するかは、もちろん解釈論上の様々な議論が行われるだろうが、少なくとも、3か月以上の居住を要件とするのみでは、制約としてほとんど無きに等しいと言うべきである。

 

市は本条例案を一旦撤回するべきである。それでもなお、外国籍の者に対して住民投票権を付与する必要があるというのならば、慎重な議論を尽くしたと言えるような状況になって後に、例えば、永住権を持つ者、少なくとも就労許可を得て長期滞在している者などに限定するなど一定の制約を付した案に改ためた上で議会にかければよいだろう。ともかく、本条例案はあまりに唐突で、かつ意思決定プロセスも不透明である。その上、制度の建付も杜撰である。やはり、一度撤回することが望ましい。