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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

空間論・時間論に対して共同主観性論及び物象化論はどの程度寄与しうるのか

世界観総体の革命を企図する壮大な哲学体系樹立を目指した廣松渉にとって、世界認識の範疇的枠組たる空間や時間の概念がその検討さるべき主題となるのは必然的であろうと思われるところ、その膨大な業績を見渡しても、廣松哲学に固有の空間論・時間論と呼べるものを見出すことは難しい。『廣松渉著作集』(岩波書店)第2巻に収録されている短い論文「時間論のためのメモランダ」で、廣松は以下のように述べている(なお、この論文は、元はと言えば、『事的世界観の前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』所収の論文であったが、著作集では、各章がテーマごとに分解されて収録されている)。

時間というものをいかなるものとして了解するかは「世界観」の総体と相即的に関わっている。それゆえ“近代的”世界観の全般的超克が課題となっている今日、時間概念の抜本的再検討が要件をなすことは更めて言を俟たない。

しかしこの論文は、廣松曰く「覚書風に書留め」たものに過ぎず、本格的な時間論と呼べるものとは言い難い。何より論域が狭く、その内容も、見田宗介『時間の比較社会学』(岩波書店)のような、地理的・歴史的な時間観念ないしは時間意識の相違の記述と分析が大半を占める。結論を先取りして言えば、廣松哲学固有の時間論として、現代の科学の知見から導かれた主要な時間論などと建設的対話が可能と言えるほどの内容は、残念ながら展開されていない。空間論についても、同様のことが指摘できるだろう。この空間論・時間論を欠いている点が、壮大な哲学体系を展望していた廣松哲学の「弱点」の一つとなっているものと思われる。

 

「主観-客観」図式の排却と四肢的構造論、「対自的-対他的」認識とその共同主観的存立構造の議論は、現代物理学の認識論的問題提起に触発された一面を持つと断っている通り、空間論・時間論の動向に対して無視を決め込む態度をとらない。実際、『著作集』第3巻に収録されている『相対性理論の哲学』や『科学の危機と認識論』において、ニュートン力学からマッハ主義の再検討を経由して、アインシュタイン相対性理論に対する論述へと至り、最終的には量子論までをも論域に収めた考察を残している。『科学の危機と認識論』では、以下のように述べている。

認識論はもとより自然科学の“後追い”を宗とするものではない。しかし、嘗て物理学の専攻を志していた著者が「哲学専攻」へと進路を転じた機縁からいっても、著者の個人的な事情に即するかぎり、現代物理学の当面している認識論的問題状況を慮外に措いては、認識論的構案について語ることができない。

 

ここでの廣松の主要目的は、近代以降の自然科学の代表的な学問である物理学の進展に配視して、相対性理論量子力学の提起した深刻な認識論的=存在論的な問題次元を照射することで、「物的世界像」の最大の堡塁たる物理学的実在概念の本拠を突き、以って「事的世界観」への推転を諭すことである。『相対性理論の哲学』には、次のような記述がある。

相対性理論は、ヨーロッパ思想の宿痾となっている実体主義的な存在観を「実体主義の第一拠点たる物理学」の内部から震盪させ「関係の第一次性」を顕揚したこと、存在論的な視角ではとりわけこの件に留目させられる。筆者の謂う「事的世界観」にとってこれが一つのインパクトをなしていることは言うまでもない。認識論的な視角では、方法論的全構制を支える間主観的(相互主観的=共同主観的)な観測における「観測結果の間主観的同型化による対象的所知措定」の構制に着目したい。これは筆者流にいえば、「対自-対他」的な「共同主観的四肢構造」の構制にほかならない。

 

ここで注目すべきは、他の主題における論じ方とは若干異なっている点である。その異なる点とは、ニュートンにおける絶対時間・絶対空間の概念がアインシュタインの相対論によりもはや維持しえなくなっている事態を、近代において支配的であった空間・時間概念の破綻として論じるだけでなく、相対論と量子論が「近代的パラダイム」に収まりきれないことを強調して、自説の共同主観性や関係の第一次性の主張に引き付けて論じることに終始し、空間論・時間論の核心については触れられていないという点である。換言すれば、あくまで近代的世界観の崩壊の萌芽を自然科学の理論的進展によって論じることに止まっており、空間や時間の「真実態」の探究がなされているとは言い難い。

 

確かに、時間論における真の問題構制として、「過去」・「未来」の世界と「現在」の世界との相関性の構造を問うてはいる。ところが、時間概念の歴史的・文化的変遷を確認した上で、認識の四肢的構造連関に時間概念の成立機序を帰着させることで以って、相関性の構造の解明とされてしまっている。これでは、「過去」・「未来」・「現在」の観念の形成に関する仮説の提示であっても、「過去」の世界・「未来」の世界とこの「現在」の世界の相関性の構造を解明したことにはならないだろう。

 

『存在と意味』第1巻では、第三篇第一章「事物的世界の分節態勢と空間・時間」及び第三節「時間的規定の形象化」において論じられている。ここでは、所謂“近代人”の代表的時間表象として、ニュートン力学において前提される絶対時間に見られる線型時間が取り上げられている。この時間表象が、歴史的・文化的に特異な時間表象である旨が確認され、「狩猟民族型」・「農耕民族型」・「遊牧民族型」・「旅商人型」という時間表象の4類型が抽出される。時間表象の類型としては、狩猟民族や農耕民族に見られる循環的時間表象が多数派であり、線型的時間表象は、元来は遊牧民の行路が時間経過の形象化として具現化されたものであって、一般的な時間表象ではないことが論じられている。

 

廣松は更に、この4類型を身体的自我とその移動的変様形態に定位して、以下のように説明している。①身体的自我そのものは止住しつつ世界が移動的に変様する場合には「狩猟民型」に該当する。②身体的自我そのものは止住し世界も非移動的に変様する場合に、表象的世界と知覚的世界とのうち、一者から他者への変様がもっぱら変様的変化として了解されているとき、これが「農耕民型」に該当する。③身体的自我そのものが移動するとはいえ世界もまた一緒に移動的に変様する場合、これが「遊牧民型」に該当する。④身体的自我は移動的に運動するが、世界そのものは移動しない場合、これが「旅商人型」に該当する。

 

体験的時間の分析に即して、知覚的現在は抑々が、物理学で論じられる瞬間的同時位相ではなく、一定の持続が体験される時間帯とでもいうべきものであって、旧来の哲学的・物理学的時間論の理論閉塞は、こうした瞬間的同時位相としての「今」を前提にすることから立論していることに起因するとされ、この前提は体験的時間の実情に沿わないとして退けられる。そして、時間なるものが瞬間的現在の継起的持続であるかのように観念される傾向こそが、瞬間的現在としての「今」の遷移としての「過去」・「現在」・「未来」の時間の措定とその物象化的錯視をもたらす要因になっている。さらに、時間の自体的存在性を前提とする運動に先行する条件としての時間概念を転倒した考えであると論じ、運動の先行性とそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間概念を説明している。

アインシュタイン相対性理論をまつまでもなく、時間・空間・質量等々は相互制約的な有機的聯関態をなしており、現代物理学的に言っても、時間は空間や質量から独立に存在するものではない。しかるに、時間・空間・質量が聯関態においてのみ存在するということは、視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している。-時間や空間といった規定性は、この原基的存在たる運動態のモメンテを悟性的に抽象し、それを運動なるものの先行的存在条件とみなしつつ宛かも自存的な存在であるかのように扱ったものにすぎない。-翻って思うに、われわれの体験的時空間は、まさにそのような聯関態において存在する。・・・過現未にわたって既在する時間なるものがあるからこそ、運動・変化(の知覚)もはじめて存在しうるというがごときは、悟性的抽象に立脚した物象化的倒錯にほかならない。

 

体験的時間の先後関係を持った持続性及び運動の一貫性を以って時間表象を組み立てることによって、時間の自体存立性と線型性を否定し、そうした体験から来る先後関係を持った持続性が理念化された形象として、時間が観念されるというのである。『存在と意味』には、以下の記述がある。

時間なるものの流過的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界はそれぞれ「時間」の一部分を分有するという表象になるし、時間なるものの路線的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界がさながらモノ・レールのように「時間」に跨っているという表象になる。・・・世界の内実をなす変化的現相は「先後的布置をもった持続」という存在様式を現示するが、この「先後的布置をもった持続」という存在様式をイデアジーレンしたもの、それが「時間」にほかならない。

この時間論における特徴は、体験的時間の持続の一貫性と「原基的存在」の運動態のモメントを並列させて、①時間の先行性、②自体的存立性、③「点」として表象される「今」の抽象化を否定していることである。しかし、理念化された抽象概念の自立的展開とその経験的基底となる「生活世界Lewenswelt」の忘却という、お馴染みの批判と同種の批判を並列させて論じられるのかが、そもそも怪しい。

 

アインシュタイン相対性理論は、ミンコフスキー由来の、時間と空間を分離不可能な「時=空」概念の描像に基づく「事象の存在論」を示している点から、確かに時間・空間・質量が「有機的聯関態」を形成していると論じることは可能だとしても、しかし、そこから直ちに「原基的存在」としての運動態のモメントとそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間という理解が肯定されているわけではない。相対性理論が証したのは、時間と空間の非独立的存在性格なのであって、運動態の先行性と時間の抽象化という廣松の主張は、相対論からは帰結しはしない。また、物体の配置の変化を基底とする時間の再構成と、運動態を基底とする時間の抽象化に結びつけことにも慎重でなければならないだろう。

 

だから、「視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している」との廣松の主張は、必ずしも言えないのである。しかも、体験的時間の持続の一貫性を強調する文脈でアインシュタインが持ち出されているが、「過去」・「現在」・「未来」の存在論的位置づけの差異を認めず、時空多様体として捉えたアインシュタインの立場と明らかに齟齬を来す点が無視されている。線型的絶対時間及び絶対空間からなる描像を批判したいがあまり、体験的時間の持続の一貫性と相対性理論が同一次元に並列されて論じられているところは、明らかに議論が錯綜している。

 

廣松の空間論・時間論の立論は、歴史的・文化的な時間概念の概観を踏まえつつ、知覚的現認対象たる自己と予期的世界に表象される自己との二重性、言うなれば身体的自我の「自己分裂的自己統一」という覚識を媒介環とする時間意識の発生機制及び時間の形象化の可能性条件についての論述としては示唆に富む考察であるが、あくまで「主観的」な時間の形象化に関する立論にとどまっており、「客観的」時間を、各共同体の歴史的・社会的・文化的生活世界における、相互の自己分裂的自己統一を媒介とする世界の変容態として共同主観的に形象化されたものと見るその論理には、明らかな飛躍が見られる。

 

相対性理論における異なる「観測系」の相互関係に基づき、同一事態を交換可能な双方当事者の両視座に立って定式化可能な事態を以って、共同主観性の理論的補強を試みる廣松の『相対性理論の哲学』での立論は、以下の通りである。

相異なる運動・観測系に所属する二人の観測者にとって、所与の物理現象の直接的現相は合致しない。一者にとっての対自的現相と対他的現相(すなわちもう一人の観測者たる他者にとっての現相)とは、直接的な所与性においては相貌が異なる。こうして、対自的現相と対他的現相は相違するにもかかわらず、観測者たちは所与現相の観測的定式化(自己の属する観測系に即しての描写的定式化)に所定の変換を施すことによって、対他的見地を“脱自的”観念的に扮技することができ、当の事象を共同主観的に同一の相で認識・定式化することができる。

すなわち、相対性理論の異なる「観測系」の“互換性”を以って、個別的主観性と共同主観性の相互関連性の理由づけとなしている。なるほど、相対性理論はその理論内部に「観測者」概念を取り込んでいるかに一見したところ思われるかもしれない。だが、相互に相対運動する「観測者」同士では質量や長さや時間についての測定結果が一致しないことはあるが、とはいえ、質量や長さや時間の集合間の関係を支配する法則については一致するし、相対運動していない際の特定の質量や長さや時間の記述については完全に一致するのだから、理論内部から「観測者」概念をいわば“消去”したとしても問題は生じない。相対性理論量子論と異なり、「観測者」概念を理論内部に包含している体系とは必ずしも言えないのである。個別的主観性と共同主観性との二重化された相互関係性を根拠づけるのに際して、相対性理論を「観測者」を取り込んだ理論体系とみなした上で利用する方法は、明らかに失敗しているという他ない。

 

のみならず、この立論内容では、科学哲学者や物理学者の世界で論じられている時間の実在性や方向性等の問題に代表される時間論に対応させることは難しい。確かに、アインシュタイン相対性理論の成果を取り上げ、空間と時間が各々単独で独立して存在するものとして扱うことの非を主張し、運動の先行性と空間・時間の自体存在性の否定を主張する立論は、マッハの主張、あるいは更に遡るとライプニッツの主張と一部重複する。しかし、アインシュタイン相対性理論が空間と時間の非分離的規定態として時空概念を提起したといっても、「時空」概念が実体的な「ブロック宇宙」として理解されるべきか否かという問題は、未だ決着つかない問題であり、認識論的側面における四肢的構造連関に基づく共同主観性論による実体主義的解釈への批判の射程が、こうした論争に対して積極的な寄与を果たすかと問われれば、些か心許ないと言わざるを得ない。

 

仮に、廣松渉の空間論・時間論が、徹底した関係主義を採る「ライプニッツーマッハ」路線の踏襲として自らを位置づけるのならば、少なくとも物理学理論における関係主義的理論構成が未だ成功していない現実に配視すべきところ、この点に関する問題意識が希薄であると言うべきである。また、ニュートン的絶対時間の概念が、アインシュタイン相対性理論が含意する時間概念からすると背理の関係に立つことを論じはしても、この点に定位して論を進めるならば、相対性理論量子力学の時間概念も同じく齟齬を来すはずである。

 

一般相対性理論の「時間」と量子力学の「時間」は、相互に互換性のない概念である。この非互換性は、ブラックホールや初期宇宙など双方の条件が適用される状況において、両者を単一の枠組に置換する際に多くの問題を生じさせる。量子力学ニュートン的絶対時間に基づいており、ここでは、時間は固定された背景となるパラメータである。時間にユニタリーな発展があり(つまり、確率は常に1になる)。この発展は、時間依存的な波動方程式(時間依存的シュレーディンガー方程式)と一致し、ヒルベルト空間のスカラー積は、保存された確率流束につながる。

 

ニュートンの外部的絶対時間とは対照的に、相対論では時空の別の座標としての時間という意味が与えたれている。従来の一般相対論的時空は、<M, g>すなわち、Mを時空位多様体とし、gをアインシュタイン重力場方程式に従うメトリックにより定式化される。座標の一般的な選択としての時間は、一般相対性理論的時空が、その時間の定数値に対応する一連の空間のような超曲面にスライスされる方法で幾何学的に具体化される。相対論と量子論が統合される閉じた量子宇宙論のような真に閉じた系を記述することと、外部的絶対時間の概念は両立しない。特定の時間に行われる測定は、従来のコペンハーゲン解釈(特権的な時間の存在に固定されている)の基本的な要素である。観測可能量は、所与の時間値を測定できる量である。一方、「履歴」は、一連の時系列測定の結果を参照する場合を除いて、直接的な物理的意味はない。その「履歴」は、経路積分形式では量子力学に似ているが、一般相対性理論に似た機能を保持することもでき、一般相対性理論量子力学の調整(の一部)の前兆となる可能性もあるが、いずれにせよ、宇宙全体で量子力学をどのように解釈すべきかは、今もなお謎に満ちた問題である。

 

両者の統一を試みる量子重力理論の抱える最大級の難問が、この”The Problem of Time”であり、有力な理論として考えられる超弦理論とループ量子重力理論は、相対論に軸足を置くのか、それとも量子論に軸足を置いて考えるかの違いを反映していると見ることもできないわけではない(あくまで素人しての印象でしかないが、超弦理論は相対論に、ループ量子重力理論は量子論にそれぞれ軸足を置いて思考しているように見受けられる)。それゆえ再び、両者における時間概念の不一致がどうしても現れ出てくるように思える。それほどの難問中の難問であり、いまなお解決を見ていないが、その中から、様々な時間論が思いもよらぬ副産物として生み出されている。米国ではピッツバーグ大学、英国ではケンブリッジ大学やオックスフォード大学などが、世界的な研究拠点になっているが、この連中の議論と比べて、やはりどうしても見劣りしてしまう。あるいは、イスラエルヘブライ大学で哲学の教授を務めていて、最近亡くなったイタマール・ピトフスキーのようなピカ一の頭脳を持った者が我が日本から登場することは期待できそうもない(ピトフスキーは、主として確率の哲学で著名だが)。

 

ともかく、相対論や量子論にまで論域を広げて空間論・時間論を展開するのであれば、この齟齬に対して踏み込んだ考察がない限り、さして実りある成果は期待できないだろうし、さすがの廣松も自分の手に負えることではないとの直感が働いたのか、新たな世界観の宣揚を打ち出す割には、空間論・時間論に触れる論考が著しく少ない理由になっているものと思われる。