shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

「自己責任」論と「無料オプション」

去年の今頃は、アホほど高かったニューヨークのアパートメントの家賃相場は一旦下落傾向を示したけれど、そんな状況は長続きせず、いつの間にやら再び高騰に転じ、コロナ禍前の水準に戻ろうという勢いが見られるところがチラホラ出始めてきた。マンハッタン区でも、場所にはよるけれど、例えば比較的在留邦人が多く住むイーストヴィレッジなどでも家賃相場が高騰し、そこそこの部屋だと月7000ドル以上の支出を要する部屋も多い。1万ドルを超える部屋など山ほど存在し、その数は東京の比ではない。東京だと、7000ドルも出せば、かなり好立地の物件のそこそこの広さの部屋にありつける。

 

ニューヨークやサンフランシスコ、ロンドンやフランクフルトそして香港も、家賃相場は概ね東京より高い水準で推移している。世界の主要都市の中で、東京の不動産は割安と受け止められている。賃貸に回した時の利回りも他の主要都市に比べれば高いと受けられている。それゆえ、東京都心部の好立地の不動産を狙っている海外の不動産投資家やファンドは、条件さえ満たせば、利回りが低くなろうと買い漁る。一般庶民は一般庶民で、東京23区に、それが無理ならその近郊に狭小戸建住宅を建てようと必死になり、今では住宅用地が不足するような状況になっている。新庄耕の小説『狭小邸宅』(集英社)で描かれている不動産会社のモデルとなった某社の最近数年の大躍進は、こうした東京の不動産市況を反映したものと言える(日本の不動産業界の腐蝕は尋常ではなく、明白に消費者利益に相反する行為や慣習が横行している業界である。いつまで経っても、社会的ステータスは低く見られたままである。この小説を読めば、そこそこの学歴に恵まれ、人並みの幸せな生活を送りたいと望む以外の強欲はないという者ならば、率先して選択するような業界ではないことがわかろう)。住宅建設会社も用地仕入れに手こずっているとも聞く。

 

一時のニューヨークは、主として高級レジデンスなどが供給過剰気味で、専ら投資用として購入した買手が多いものだから、人が住まない空室がチラホラ目立ち始めて、価格も下落傾向に向かう兆候を見せてきていたが、元々空室率が2%を切るような人気のあるエリアなので、基本は貸主の天下である。しかも、日本のように借地借家法のような借主保護のための法制度が完備されていないので、なおさら借主の立場は弱い。賃料が払えなければ、即退去である。ニューヨーク在住者の大多数は、持ち家を持たない借家人である。米国人の平均所得並みの年収しかない者だと、サンフランシスコ市街地ほどではないにせよ、一段と住みにくい場所になりつつあるのかもしれない。憧れからマンハッタン区に転居したはいいが、再び家賃の上昇にともない、泣く泣くブルックリン区やら隣のニュージャージー州に出ていくことを余儀なくされる者もいる。ホームレスが数万人という異常な都市である理由もよくわかる。

 

ニューヨークの冬は糞寒い。それゆえ、冬を乗り越えることは、ホームレスにとって命賭けのこと。毎年凍死者が続出するわけだが、できるだけ凍死者を出さないため、一時的な「避難シェルター」が設けられている。そこに5万人ほどが押し掛けるというのだから、この国はどこか狂っていると言う他ない。東京はまだ、ニューヨークと比べると、表に出ている数字の上ではホームレスの人数は圧倒的に少ない。しかし、諸事情から友人や知人の家を転々とする者、24時間営業のマンガ喫茶やファスト・フード店で毎夜を過ごさざるを得ない状況に陥っている者など、「事実上のホームレス」が勘定に入れられいないので、(それでもニューヨークのホームレスの数よりは少ないとは思うが)、行政の視線も、目につきやすい路上生活者だけにしか向けられていない。「事実上のホームレス」を含めると、表に現れている数字の数倍のホームレスが存在していてもおかしくはない。今の日本という国も、相当に狂っていると言うべきだろう。

 

今年の東京は、例年比べて一段と冷え込んでいると聞く。しかも、(実はコロナ禍以前から見られたことだけど)コロナ禍が貧困層の増大に拍車をかけ、住居確保給付金等の補助が講じられたとはいっても、コロナ禍が長期化している状況で思うような職に就けずにいるうちに支給期間が満了となり、家賃が支払えずやむ無く退去せざるを得なくなった者もいるだろう。すなわち、路頭に迷い、極寒の冬を過ごせるのか不安に苛まれている者も相当数に上ることが容易に想像できる。中には、「ボロ雑巾」のように酷使された外国人技能実習生が放り出された例もあるかもしれない(この問題は、外国メディアでも取り上げられており、日本の恥というべき問題。どうして、日本社会はかくも醜くなってしまったのか)。

 

根本的解決には資さないが、とりあえず一時凌ぎのための暖房の効いた部屋と食料を提供する「避難シェルター」のような施設を各地に設けたり、あるいは空室になっているホテルを政府や自治体が一括して借りて部屋を用意するなど、凍死や餓死など含め衰弱して命を落とす者を極小化するために、政府や自治体のできる施策を早急に実行に移すことが肝要。現場の状況を把握できないのであれば、生活困窮者支援を日常的に行っているNPOやボランティア等から情報収集して、その意見を参考にするなり、場合によっては協力体制を整えて今すぐ打てる手を尽くす。ネット上での情報でしかないが、こうした日本社会の貧困問題を考え、住居を失った・失う可能性の濃厚な状態にある生活困窮者を大量に生み出す日本社会の現状を告発し、困窮者支援活動に乗り出す学生ボランティアの団体もいくつか現れているようだ。仮に、日本国の基本的なあり方や外交・安全保障などの面では意見を異にする、言うなれば「右」と「左」の違いがあろうと、日本社会の貧困問題がもはや放置できないレベルにまでに至っているとの問題意識は共有したい。

 

「棄民国家」になっては、何のための国民国家なのかわからない。ここまで社会問題化した貧困層の増大は、国民国家の存在理由そのものが問われかねない事態なのだという自覚を持たない為政者がいるとするならば、そうした天誅に値する売国奴は有害無益の存在なので、早々に政治の現場からご退場願いたい。牙を抜かれて久しい日本人の「大人しさ」をいいことに、やるべき施策を一向に講じず、ましてや問題を問題として自覚すらせず、権力の座に安穏しながら「床屋政談」のような他人事としてのおしゃべりに身を窶す連中だから、本来なら、そうした連中に対して暴動が連発していてもおかしくはない状況なのである。

 

前政権を担った菅義偉は、首相就任して早々に「自助・共助・公助」と、現況を正しく把握しない絵空事を述べ立てていたわけだが、形式的には一見常識的に思えるこの言葉が首相の口から飛び出すことが何を意味するか。それは、国家としての責任を放棄するとの無意識の表明だったわけである。貧困層貧困状態に陥ったのは当人の責任であるとでも言いたげなこの寝惚けた戯言が端的に誤りであることは、多少考えればわかろうもの。最近20年の間に貧困層が増加傾向にあり、そしてコロナ禍により更に深刻化したわけだが、では最近になって日本人が急に怠け者になったというのだろうか。突然、無能な人が急増したとでもいうだろうのか。高度成長期の日本人より、現在の日本人の方が格段に能力的に劣り、しかも努力をしなくなったというのか。社会におけるマスの現象を個々人の能力や努力などに還元して単純化する言説が愚かな主張であることくらい、そこらの中学生でもわかる話である。

 

ついでに言うなら、個々人の経済的成功に関しても、それを個々人の努力や能力の帰結に還元してしまう見方も誤りである。その要素が皆無とは言わないが、むしろ他の複数の要因が絡んだ上での結果というべきである。事実、「まぐれ」としか言いようがないケースもまま見られる。例えば、先の不動産業界を例に挙げるとすれば、同じ労働内容でも、取引される物件の価格によって得られる報酬は異なる。そして高額物件にありつけるか否かには必然性はなく、専ら偶然の賜物である。ところが、当人はその報酬があたかも己の努力と才能といった「実力」の結果なのだと勘違いする。投資家も似た面があろう。不動産業界よりは露骨ではないが、例えば、ナシーム・ニコラス・タレブのFooled by Randomnessは、投資家を含め、経済的成功を収めた者がいかに「まぐれ」によって左右されているか、にもかかわらず成功の原因を自分の実力の賜物と勘違いすることが往々にしてあるかを論じている。

 

こうした社会構造の歪みに対して「自己責任」の一語で片付けようとする者の頭の悪さもさることながら、何もかも全て資本主義が悪いと大風呂敷を広げて何かを言ったつもりになっている者もいる。両者は正反対に見えるが、目の前にある問題から目を背けて手前勝手のイデオロギーを振り回しているだけという点では同じ穴の貉である。確かに、現代の金融資本主義のあり方に強い違和感を持つこと自体は、当事者の一人でもある僕自身にも理解できる。というより、金融資本主義の「走狗」に成り下がっている当事者だからこそ寧ろ、理論的に論証することなどできないものの(投下労働価値説が正しいとするならば、マルクス剰余価値学説は正しいとの帰結に至り、いわゆる「搾取」の存在を論証することができるとする主張に説得力はあろうが、投下労働価値説が誤った前提に基づく見解であるだけに、マルクス剰余価値学説は必ずしも妥当な見解であるとの結論にはならない)、少なくとも直感としては、「資本主義は倫理として悪なのではないか」という思いをふと抱くこともないではない。

 

しかし、「資本主義を打倒せよ」だの、「これからは脱成長型の経済のあり方を模索すべき」だのと言った大上段に構えた言説は、こと目の前の社会問題の改善には何ら資さない、イデオロギーを振り回して悦に入ってる左翼の自己満足に終始する有害な言説でしかない。おそらく、増大する貧困層の大半は、何も「資本主義の打倒」だの「脱成長への経済構造の転換」だのといった抽象的お題目を唱えているわけではない。宙に浮いた絵空事を絶叫して何かを言ったつもりになっている左翼とは違い、贅沢な望みを抱いているのではなく、「普通に働き、普通の生活をしたい」、「人としてのディグニティを回復したい」という切実な望みを抱いているだけなのだと思われる。決して、イデオロギーを振り回したいわけではないのだ。

 

経済状況が悪化すると、非自発的失業が増えたり、失業を恐れて劣悪な待遇でも生きていくにはやむを得ないと低賃金労働に甘んじる他ない者も増える。使い捨てされて精神疾患を抱える者もいる。とりわけ、最近になって、事何か発生するとすぐさま生活困窮者に追いやられる貧困層が急増したのは、政策の結果である。何のことはない。いざ不況になれば、そのツケだけを背負わせる対象を意図的に作ってきたからである。利益が出れば自分たちに、不利益が出れば他人にツケだけを背負わせる。こうしたある種の「無料オプション」を掠め取ってきた者たちがいよいよ可視化されてきた。

 

そして、このオプションを掠め取っている者とは、必ずしもいわゆる「富裕層」であるとは限らない。「富裕層」といっても、どのようにして富を築いてきたのか人によって様々だし、「富裕層」とまでは言わずとも、その代弁者となって禄をもらっている者も、この種のオプションを享受してきた者に含まれる。要は、金持ちであるかそうでないかの違いではないということである。「富裕層」でも、真っ当な手段で富を得た者、努力と才能と運が上手くかみ合って富を得た者、あるいは全く偶然を自らの富の拡大に活かし得た者もいる。これは何ら咎められることではない。問題は、ここで言う「無料オプション」を掠め取ってきた者であるのか、そうでないのかという違いである。

 

正当に富を得た者ではなく、「無料オプション」を他人に生じる害悪を犠牲にして掠め取ってきた連中が自己の利益を防衛したいがために口にする好都合な言葉の一つが、「自己責任」という言葉である。「自己責任」とは、アンフェアな状況を作り上げた者が、自己利益を防衛するために社会に蔓延させたイデオロギーと化してしまったのである。「自己責任」という言葉は、相応のリスクを自らが背負う覚悟を持ち、現にリスクを背負って何事かに挑み、他人に対してツケを回さない者だけが口にすべき言葉である。そうすると、この言葉を正当な資格をもって口にしうる者は皆無に近いくらい少数だということがわかる。もちろん、皆無とは言わない。周りから冷ややかな視線に晒されながらも身銭を切り、失敗に次ぐ失敗を重ねながら発明や発見を成し遂げた極く僅かな者、あるいは残念ながら夢破れた者で、自らの決断に後悔をしていない者が口にする「自己責任」という言葉は、むしろ清々しさや高邁ささえ感じられよう。

 

しかし、そういう者はかえって、その具体的状況を何ら斟酌せずして他人に対して安易に「自己責任」という言葉をぶつけるような真似はしまい。自らのスネに傷がある者、あるいは、どこか後ろめたいものを薄々感じてはいるが、しかし同時にそれを認めたくはない者、さらには自分の成功や安定は実は自分の能力や努力の帰結ではなく「まぐれ」でしかないことを認めたくはない者が、自己防御の身振りとして使用しているケースが多いのではないだろうか。

 

その典型が、多くの経営者である。インセンティブベースのストックオプションの形で業績好調の際には不釣り合いな高額の報酬を得たり、お手盛り同然の役員報酬につり上げたりする一方、従業員に対しては適正な分配をせず出し渋りする。それどころか、人件費を削るため安易に雇用責任を放棄し、「備品」調達のノリで派遣従業員で人員を調達し始める。酷い会社となると、雇用契約から業務委託契約に切り替える。やりたい放題である。事何か起これば整理解雇するしか能のない経営者が「自己責任」と口にする時には、必ず「但書」が添えられている。すなわち、「自分はこの限りに非ず」という但書だ。解雇が一概に悪いというのではない。解雇規制が実態にそぐわないケースもあろう。だが、他人に多大な不利益を強いるのであれば、自らも応分のリスクを背負うべきだということである。整理解雇が状況によって必要な場面は、もちろん存在する。したがって、やむを得ない場合もあろう。但し、雇用責任を全うできず整理解雇せざるをえないような事態を招いた経営陣も経営責任をとって会社を去るべきであろう。

 

経営が傾くも、職位と報酬に相応な責任をとることはなく、せいぜい役員報酬の数%をカットする程度でお茶を濁す。これまで支払われてきた高額報酬が没収されるというような当然課されるべきペナルティもない。仮に、今辞めたとしても、逃げ切れるだけの蓄財をしているわけだ。明日から路頭に迷う心配はもちろんない。そういう「逃げ得」を許さないために様々なペナルティ条項を委任契約に明記したとしても、雇用契約の場合と違って労働基準法24条等に抵触することはないのだから、「自己責任」を他人に向けて吐く経営者は、率先して委任契約の条項に、その職位と報酬に見合った責任を負わせる旨の条項を加えるなどしてはいかがか。少なくとも、公的資金を注入して救済された銀行の経営陣らの個人資産を全て没収するくらいのペナルティを与えなければ、リスクとリターンの著しい不均衡は解消されない。高額報酬が背負うリスクと責任に見合うものであるならば、誰も文句は言わない。問題は、そうなっていないということなのだ。自らの経営判断の誤りによって他人を路頭に迷わせ、ともすればその生命すら事実上殺めてしまいかねない可能性を常に抱えている経営者に対しては、いざとなればその財産と生命を差し出させるくらいの負担を強いて然るべきなのである。それが嫌なら、経営者にならないことだ。

 

他方で、使い捨てられる従業員は、その職位と対価に見合う責任を担わされるという多大なリスクを抱えている。タレブに言わせれば、ダウンサイドだけ負わされて、アップサイドが与えられていないというわけだ。こうした状況は、決してフェアな状況とは言えない。自らが背負い込める以上のリスクを他人に背負わされる一方、自分が抱えるリスク以上のリターンを掠め取る連中に、「自己責任」の一語を他人にぶつける資格はないのである。

 

ウォール街の元オプション・トレーダー兼クオンツで、確率論や不確実性の科学や認識論の研究者でも知られる作家ナシーム・ニコラス・タレブが倫理について興味深い視点を提供している。タレブは、誰かがアップサイドを手に入れることにより、もう一方が知らない間にダウンサイドを負わされ損を蒙っているという事態をアンフェアであると言う。こうしたアンフェアな状況を利用して何ら責任のない者にダウンサイドを負わされる事態は、倫理として許されないことだとタレブは言うのである。

 

ある種の「罪刑法定主義」や「比例原則」の考えの元になったとも言うべき「ハンムラビ法典」を評価するタレブの主張によると、世界には3種類の人々がいる。一つ目は、リスクを取らずに他人から利益を貪り傷つける人々、二つ目は、他人から利益を奪うこともないし、また他人を傷つけることもない人々、三つ目は、他人のために自己を犠牲にして率先して害を引き受ける人々である。伝統的な社会では三つ目の人々こそが「英雄的」とされ称賛され、価値ある生き方とされてきた。他人のためにどれだけダウンサイドを背負う覚悟があるかで、その人の価値や評価が決まった。タレブが挙げる例では、騎士や将軍や聖人などである。逆に現代では一つ目の人々が増え、明らかに利益と不利益の非対称性が大きくなっている。いわゆる「エージェンシー問題」がその典型である。タレブが挙げる例は、銀行家や企業幹部や政治家や評論家など、社会から「無料オプション」を掠め取っている連中がデカい面をしている。

 

タレブは、もちろん「富裕層」ないしブルジョアを糾弾しているわけではない。また、資本主義を批判し社会主義を礼賛しているわけではない。したがって、資本家や経営者を糾弾し、労働条件の待遇改善を主張したいというわけでもない。労働者が一方的に搾取されていると非難しているわけでもなければ、福祉国家を望んでいるわけでもない。僕から言わせれば、むしろタレブは社会主義とは真逆のリバタリアンである。しかし、リバタリアンであればこそ、アンフェアな事態は倫理的に容認できないという立場なのだろうと思われる。

 

タレブの倫理的主張を一言でまとめるならば、(潜在的)リスクとリターンの著しい不均衡によって他人に害を及ぼすことは倫理的に悪であるというものである。タレブの提案は、成功したか失敗したかに関係なく、起業家やリスク・テイカーなどをピラミッドの頂上に置くべきであり、反対に、他人をリスクに晒すくせに自分ではリスクは負わない非倫理的な人々をピラミッドの底辺に置くべきというものだ。それなのに、現代社会ではその逆を行っていると言うのである。

このタレブの主張には賛同できる点とそうでない点もあろう。はっきりしていることは、「金持ち」は「貧乏人」から搾取しているというような乱暴な議論には与していないということである。「金持ち」がフェアな状況で(つまり「無料オプション」を掠め取っているわけではない状況で)、しかも他人を傷つけずに「金持ち」になることは、何ら咎められることではない。「金持ち」であろうが、そうでなかろうが、リスクとリターンの著しい不均衡をおいて、自分は利益を得つつ、不利益については他人に負わせるだけのアンフェアな行動をとることが、倫理的非難に値する行為なのだということである。