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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

エーリッヒ・ベッヘルの形而上学-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察③

職場の同僚の話によると、エーリッヒ・ベッヘルはドイツでは優れた哲学者として知られているらしいが、現在の日本ではほとんど触れられることはない。ドイツ出身でカトリック教徒である知人から紹介されるまで僕も知らなかったわけだから偉そうに言えないのだが、ミュンヘン大学などで教鞭をとるなど活躍したものの、若くして亡くなったこともあって、なおのこと日本で知る者は少ない。

 

ちなみに、その知人に日本の神道について簡単に説明すると、「古代ゲルマンにも似たような原始的な宗教はあった」とか何とか抜かしやがったので、頭にきて「エリアーデか何かの読み過ぎじゃねえ?」と返してやったが、同時に「こいつには、我が惟神の道は永久にわかんねぇんだろなぁ」と思うより他なかった。調べてみると、エーリッヒ・ベッヘルの著作は、Einführung in die Philosophieが『哲学入門』(創元社)として訳されているだけのようである。

 

形而上学と自然科学との関係について深く思考したベッヘルの哲学は、その最終的な結論には同意できなくても、現代における形而上学の可能性を考える上で、示唆に富む思考を供してくれている。ベッヘルの哲学的営為は、19世紀半ばから20世紀初頭にかけてドイツで起きた形而上学復興運動の系譜に位置づけることができる。

 

幸い、ベッヘルの書くドイツ語は比較的読みやすく、エルンスト・カッシーラーの読みやすいドイツ語の文章を読んでいる気分にさせられもする。カントやヘーゲルあるいはフッサールのような、少なくとも僕にとっては、読むのに苦痛を感じさせるようなドイツ語の文章とは違う。例えば、カントのこんな調子の文と比べてみるといいだろう。

Da die Zeit nur die Form der Anschauung, mithin der Gegenstände, als Erscheinungen, ist, so ist das, was an diesen der Empfingung entspricht, die transzendentale Materie aller Gegenstände, als Dinge an sich(die Sachheit, Realität). 

どう考えてもヘンテコな一文であり、読み手がその意味合いを思い切り斟酌しながら読んであげなければ直ちにはその文意がはっきりせず、それゆえ、ひどく読み手を疲労させてしまうに違いない。ざっと文意を掴むとすれば、時間は感覚の形式であり、物自体としての対象について実在性と語られてきたものが、現象としての対象においては、質料としての感覚に対応するものであるという感じに解しておけば一般読者としては済むのだろうけど、しかしこうした掴み方は、ある程度カントについての情報を予め持っているからこそ可能なものだとも言えよう。いずれにせよ、カッシーラー等の文章のようなスラスラ流して読める文ではないことは明らかだ。

 

19世紀半ばの形而上学復興は、カント主義に対する反動として、ドイツ観念論の衰退後に形而上学を改革して復活させようと、ヘーゲルの自然哲学の路線とは別に、形而上学と自然科学との関係を再定義することから始まった。既に、ヘーゲルの観念論的な自然哲学は、当時の自然科学者の目からも「失敗」と見なされるようになっていたのだ。

 

そんな状況下で、形而上学復興運動の支持者は、形而上学のための異なる方法を提案したわけだが、そのプログラムは経験的諸科学にしたがって形而上学を構築するという考えに基づいていた。特に、経験的諸科学が行ってきたように、経験に定位しつつ帰納的推論を使用するという方法を選択した。

 

ベッヘルにとっては、経験的現象を超えるいかなるものの合理的肯定に対する道も閉ざすことを主張するカントの反実在論的・反形而上学的立場の認識論は容認できないものであった。「神の宇宙論的証明」に対するカントの批判はトマス・アクィナスによる論証の筋を誤解したものであって、Ens realissimumの観念から必然的存在を演繹するものではないにも関わらず、カントはそれを演繹と解して反駁しているところなどを見ると、カントが持っていた論証概念に首を傾げざるを得ない。

 

あくまで素人としての感想でしかないだろうが、僕がトマスを読む限りでは、トマスの論証は、カントが反駁したと称する手順とは正に反対の順序で構成されている。すなわち、必然的存在の実在が因果論的論証から打ち立てられたのなら、そのような存在は同時に必然的かつ有限であることはできないという論証の順であるということだ。というのも、本性的に有限として存在の原因を求めるからであり、そうであればこそ必然的存在は無限であるに違いなく、単純に一なるものであると考えられるからである。

 

そもそもカントが理解するように、完全性の観念からの演繹にはなっているわけではない。こうしたカント的立場に公然と対決するベッヘルの意気込みは理解できるし、そうであればこそ同僚に勧められて読むに至ったわけだが、とはいえ最終的には、ベッヘルの形而上学には無理があることを予め言っておかねばならない。

 

ベッヘルの出発点は、『形而上学と自然科学: 両者の関係についての認識論的研究Metaphysik und Naturwissenschaften. Eine wissenschaftstheoretische Untersuchung ihres Verhältnisses』である。その他にも、『自然哲学Naturphilosophie』や『人文科学と自然科学: 科学の理論と分類に関する研究Geisteswissenschaften und Naturwissenschaften. Untersuchungen zur Theorie und Einteilung der Realwissenschaften』を著している。

 

ベッヘルは、形而上学と自然科学の関係の研究を体系的に比較することから始める。ベッヘルは、自然科学の知識の対象として、実在の物理的対象と見なす自然の対象と特性と関係及びそれらが関与する過程を特定する。しかし、個々の自然科学は常に物理世界の特定の部分または側面のみを扱う。例えば、植物学は地質学以外の自然の部分を研究する。そして、自然のすべての領域に影響を与えるように見える物理学でさえ、自然物の特定の側面のみを調べ、これらの側面は、例えば化学によって調べられるものとは異なる。それゆえベッヘルは、自然科学を「部分的諸学Partialrealwissenschaften」と呼ぶ一方で、形而上学を世界に対して包括的な視点をもたらす「全体的学Totalrealwissenschaft」と呼ぶ。

 

もっとも、形而上学もまた実在の特定の部分や側面を考慮することがあるが、自然科学とは異なり、常に全体的な実在に関連している。例えば、生物学は有機生命に関係しているが、形而上学有機生命が全体的な実在の他の部分、例えば魂や意識にどのように関連しているかという問題を扱う。

 

このように、形而上学と自然科学は、それらの対象に関して互いに接触している、あるいは重なり合っているとさえ言える。しかし形而上学は、全体的な実在の観点から、個々の科学の結果の単なる並置を超えた主張をしているとベッヘルは指摘する。

 

自然科学と形而上学の対象に関する関係をこのように位置づけることができるとしても、知識の基礎と方法の観点から、それらが互いにどのように関係しているかという問題が出てくるだろう。俄かには受け入れがたい主張であるが、ベッヘルによれば、形而上学の方法は自然科学の方法の分析から導き出すことができると言うのである。

 

自然科学は特定の方法、すなわち彼が詳細に分析する経験的帰納的方法によって特徴づけられる。この方法では、自然科学は知識の究極の源泉として知覚から出発する。なぜならば、知覚のプロセスが我々が実在を直接把握できる唯一の方法であると言えるからである。もっともベッヘルは、我々が自身の現在の意識内容に直接アクセスすることしかできないと考えている。しかし、自然科学の経験的帰納法や日常生活において重要な役割を果たす特定の認識原理を利用することで、意識の領野を超越できると指摘している。

 

ベッヘルによると、自然科学にとって最も重要である3つの原則は、

①「記憶の信頼推定要件Voraussetzung des Erinnerungvertrauens」、

②「合法則性の推定要件Gesetzmäßigkeitsvoraussetzung」、

③「因果原理Kausalprinzip」

である。①の「記憶の信頼推定要件」は、我々が日常生活でも信頼している基本原則である。一方、②「合法則性の推定要件」と「因果原理」は、より基本的な推定である「規則性の推定要件Regelmäßigkeitsvoraussetzung」に基づいている。

 

ベッヘルが指摘するように、規則性のより弱い推定は、我々の科学以前の日常の現実認識に関係している。合法則性のより強い推定と因果原理は規則性の推定の強化されたものであり、それらは自然科学の産物である。

 

「記憶の信頼推定要件」によれば、過去の記憶は少なくとも、原則として信頼できると推測される。記憶は現在の意識内容であり、過去の経験の複製として理解されている。とりあえず反論がない場合、我々は通常これらの表現を信頼する。

 

しかし、ベッヘルが指摘しているように、我々の記憶が常に我々を欺く可能性を排除することはできない。記憶の信頼性を先験的に証明する方法はない。更に、記憶の信頼性も経験的に正当化することはできない。過去に頼ることなく、記憶の信頼性を経験的に検証することもできない。そうするためには、記憶の信頼性を前提としなければならず、その結果、記憶の信頼性のそのような経験的正当化は常に循環的な営為となってしまう。

 

超越論的または経験的な正当化がない場合、我々はそれを証明または正当化することができずに、我々の記憶の信頼性を信頼する以外に選択肢はない。我々が記憶の信頼性に依拠しなければならない理由は、それが知識の獲得に必要な(erkenntnisnotwendig)要件だからである。ベッヘルはNaturphilosophieにおいて、以下のように述べている。

それがなければ、我々は現在の意識の領域を超越することはできなかった。特に、過去の知識を得ることができなかった。つまり、それは我々の認識の対象として不可欠であるため、我々はそれを信頼しているのである。

 

更なる別の原則が含まれていなければ、しかし我々の知識は、我々の現在と過去の意識の領野に閉じ込められたままになる。この領野を超越するために、我々は別の原則すなわち「規則性の推定要件」に依拠する。

 

第一に、この原則は我々自身の経験に関する「規則性の推定要件」である。過去の経験から未来の経験について何事かを推測する場合、我々は観察できる規則の原則に依存している。これまでの経験の領野は未来にも当てはまるというような要件がなければ、我々は現在と過去の意識の領野を超えることはできない。だからこそ、この要件は我々の日常生活と科学の営為における「理解Erkenntnis」にとって不可欠である。

 

しかし、「記憶の信頼推定要件」の場合と同様、Geisteswissenschaften und Naturwissenschaftenにおいて、ベッヘルは「規則性の推定要件」は循環論法なしでは、超越論的にも経験的にも正当化することはできないとも述べている。未来についての知識を得たいのであれば、それを信頼しなければならない。もっとも、それが真理であることの理由を与えることができるという意味で、この原則が正当化できるとは言えない。にもかかわらず、それが経験的知識を得る唯一の方法であるため、この原則を適用することには一定の正当性があるというのである。

 

ベッヘルは、類推と帰納的一般化に関し、Naturphilosophieにおいて、それらを密接に関連した推論の形式であると位置づけている。類推は、例えば私が最初に私の意識の特定の状態を決定した時に働く。痛みは、私の体の特定の反応と相関している。叫んでいると、別の人が叫んでいるのを聞いた時、私は類推によって彼にも対応する痛みの感覚があると推測する。帰納的一般化は、例えば、水銀が加熱されると膨張するという観察から推測する時、これは将来水銀が加熱される時にも起こるだろうと推測する。

 

推論は「規則性の推定要件」に依存している。ベッヘルは、規則性の要件が自然科学にとって特に重要であることを強調する。というのも、自然法則についての推論は帰納的一般化に基づいており、したがって規則性の要件に基づいているという他ないからである。

 

ベッヘルはまた、Geisteswissenschaften und Naturwissenschaftenにおいて、この「規則性の推定要件」により、過去への推論を引き出すことが可能になるとも述べている。例えば、夏と冬は思い出せなくても5歳のときに経験したと推測できる。しかし、これは記憶への信頼の要件に基づいて得た結果と、規則性の要件に基づいて得た結果が互いに矛盾する可能性があることを意味する。

 

次に、この場合、関係する知識の原則のどれを優先すべきかを決定する必要がある。これは、知識を獲得するために必要なこれらの原則が、あらゆる場合に争うことのできない前提ではないことを意味する。特に、他の認識原理の結果との競合、または同じ原理に基づく他の結果との競合は、特定の使用に疑問を投げかける可能性がある。これらの原則は、我々が何をしようとしているのかという前提ではなく、反駁可能な推論を伴う規則である。

 

これまでのところ、厳密に言えば、我々は我々自身の意識の領野を超えていない。記憶の信頼要件は、我々自身の意識の過去の状態を推測することを可能にする。規則性の要件により、過去の経験から未来の経験まで推測することができる。これは現在の意識内容を超越することを可能にするが、我々はまだ外の世界に一歩踏み出していない。

 

しかし、上で見たように、ベッヘルは、形而上学と同様に自然科学も知識の対象として物理的対象を持っていると考えている。ベッヘルは、我々が実在の知識を持つことができ、これは形而上学に限らず、自然科学や日常生活にもある程度見られる一種の知識であると明確に主張している。したがって、我々は外界の物体の知識を得ることができるように、我々自身の現在、過去、そして未来の意識の知識をどのように拡大することができるかを問う必要がある。

 

実在論の正当化において、ベッヘルはこの形式を明示的に反映させることなく、別の形式の帰納的推論すなわち最良の説明への推論に暗黙的に依拠している。実在論の正当化におけるこの推論形式の使用は、帰納的一般化や類推のように、最良の説明への推論が規則性の要件に基づいていることを示している。これは、推論形式の「最良の説明への推論」が形而上学にとってどれほど中心的な役割を担っているかを示唆する有益な例である。

 

ベッヘルは、実在の物体の知識は、未来の知識のように規則性の要件に基づいていると指摘する。ベッヘルによる実在論の再定礎は、全体的な実在を次のように見ることができるように、実在の物体の存在の仮定を導入する。我々自身の意識だけが存在すると仮定した場合、生起することの多くは、我々自身の意識状態に限定されるだろうし、それはいかなる規則にも従わないことになるだろう。

 

私が意識の内容に集中する場合、例えば突然の大きな音は、いかなる規則に従っても私の意識の以前の内容とは関係のない出来事である。一方、外部の物体の存在を仮定して文脈を拡張し、それを知覚体験の原因として理解することができれば、それによって大きな音の体験を通常の全体的な文脈に組み込むことができる。大きな音は、木の板の荷降ろしなど定期的に大きな音を発生させる外部プロセスによって因果的に説明することができる。

 

このことは、経験の多くについて等しくあてはまる。ベッヘルはまた、外部の物体が我々の知覚をどのように引き起こすかについての理論を構築するために、最初から始める必要はないことを指摘している。この外部対象の仮定は、最良の説明への推論によって支持されていると言えるだろう。

 

第一に、最良の説明への推論の方法は、説明を必要とする一連の観察された現象から始まる。第二に、様々な仮説が検討される。これらの仮説が真である場合、観察された現象を説明する。第三に、これらの仮説を比較して、どの仮説が現象を最もよく説明しているかを判断する。第四に、どの仮説が最良の説明を提供するかが決定されると、推論が導き出される。第五に、観察された現象の最良の説明であると考えられる仮説を推論する。このようなステップを辿るというのである。

 

ベッヘルは、世界全体を可能な限り規則的なものと見るために、我々の一連の知覚の因果的説明として、実在の外部対象があるという仮説を導入した。したがって説明は、規則性の要件に基づいていると言えるだろう。規則性の要件を背景に、この仮説は我々の知覚の(そうでなければ不規則な)系列の最良の説明である。つまり、規則性の推定に従って、世界全体(一連の知覚を含む)が非常に規則的であると表示される。

 

ベッヘルが対立する見解に対してどのような批判を向けているか。これら対立する見解は、我々の一連の知覚の出現を説明できない、あるいは少なくとも十分に説明できないとベッヘルは批判する。外界は起源と未来の認識を予測する手段として使用するフィクションであるとする見解を、ベッヘルは批判する。なぜなら、そのような立場の支持者は、我々の知覚が外部の物体があるかのように見えることを認めているからである。この立場は、実在論とは対照的に、満足のいく説明を提供しえないのである。

 

同様に、カントとフィヒテの観念論的な立場も排除する。Metaphysik und Naturwissenschaftenにおいて、観念論は子供が天文学の法則を知らないにもかかわらず天文学の計算に合った正確な位置で月を見ているという事実についての最良な説明を提供しえないと批判する。観念論では、子供たちの理解または私が月をどのように正確な位置に置くようにしているのか理解できない。したがって、観念論は実在論より劣っている。実在論では、子供でさえ月が正しい場所にあるという事実を簡単に説明できる。ベッヘルが述べているように、知覚された物体はそれ自体が実在であるという仮説は、観念論よりも「比類なき強力な仮説eine unvergleichliche leistungsfähigere Hypothese」である。つまり実在論は、我々の一連の知覚の最良の説明を提供するというわけである。

 

ベッヘルの形而上学の文脈では、そう簡単に却下できないバートランド・ラッセルによって提唱された理論を考えてみる(とはいえ、ベッヘルはラッセルについて言及していない)。対象は単なる知覚の可能性であるという考えを考慮し、ジョージ・バークレーにまで遡らせている。この理論によれば、実在の物体はないが、実在になり得るのは我々の知覚と特定の知覚の可能性だけである。例えば、今は気づいていない背中の後ろの壁は、振り返るとすぐに実在になる知覚の可能性である。この理論に対するベッヘルの異議は、それでは不十分であるとういうものである。実在ではなく、単に実現されていない可能性であるというだけでは因果関係を持つことができず、実在の因果関係に組み込むことはできない。それゆえ、そのような単なる知覚の可能性の仮定は、世界のあり方を実在の法則によって支配されるあり方と見なすことはできないのである。

 

ラッセルの理論は、この現象主義の一つのバージョンと見做せるだろう。Mysticism and logic and other essays所収の論文“The relation of sense-data to physics”で示されたラッセルの目的は、感覚与件から物理的対象を構築することであった。感覚与件とは、我々の感覚の直接の対象、例えば特定の色のパッチや特定のノイズを意味する。

 

しかしラッセルは、実際に感知された感覚与件だけから物理的対象を構築することは不可能であることを理解していた。このためラッセルは、彼は「センシビリアsensibilia」と呼ぶ追加の実体を導入する。「センシビリアsensibilia」は感覚与件と若干異なり、必ずしも実際ーに感知されるとは限らない。対象の外観は、実際の外観(感覚与件)と可能な外観(未感知)に分けることができる。次に、常識的な対象は、それらの実際の外観と可能な外観のクラスとして定義される。

 

単なる知覚の可能性の理論との違いは、「センシビリアsensibilia」は実際に感知されることとは独立して存在するという主張にある。是は存在論的に言えば、対象の可能な外観は実際には存在する「センシビリアsensibilia」であり、実際には感知されないことを意味する。そうすると、ラッセルの主張は、ある種の実在論を含意するかに思える。ラッセルは、誰にも感知されることなく存在する「センシビリアsensibilia」の存在を仮定しているからである。ベッヘルとラッセルが、各々の理論を発展させる際の進め方には類似性がある。我々の知覚の範囲を特定の理解可能な規則に従う世界の全体像に拡大するために実在の物体を仮定するベッヘルのように、ラッセルは、我々の一連の知覚のギャップを埋めるために「センシビリアsensibilia」を仮定する。とはいえ、重要な問題は、同じ与件の様々な可能な説明をどのように決定するかである。

 

ラッセルは、Our knowledge of the external world as a field for scientific method in philosophyにおいて、自分の理論は単なる仮説であり、科学の仮説と同様、確実性を主張することはできず、未来の更なる証拠あるいはより良い代替案によって転覆される可能性があることを認めている。では、ラッセルがなぜ、他の競合する理論よりも自身の理論を選択すべきと考えたのか。ラッセルは、別の理論ではなく特定の理論を採用する基準として「オッカムの剃刀」を持ち出す。

 

ラッセルによって仮定された「センシビリアsensibilia」は感覚与件と類似ではあるけれど、それ自体としては無意味である。他方、ベッヘルの実在論は、我々がすぐにアクセスできる知覚とは完全に異なる種類の対象つまりそれ自体のものを仮定している。したがってラッセルは、仮説がその一般的な存在論的コミットメントに関してより単純であるため、自分の仮説が一連の認識のより良い説明につながると主張しているのである。

 

しかし、ラッセルの理論は、仮定された実体のタイプに関しては単純だと言えても、「センシビリアsensibilia」から構築された特定の物理的対象は、ベッヘルによって仮定された対象よりも単純と言えるだろうか。ラッセルの理論によれば、各物理的対象は、無限に多くの「センシビリアsensibilia」で構成され、各々がその時点で構築された対象の潜在的な観察者の異なる潜在的な視点を表していることになろう。

 

そうすると、ラッセルは、「センシビリアsensibilia」からの対象構築が実際にどのように機能するかを説明するために長い時間を費やす必要があり、それゆえ、ラッセルの理論がラッセルが考えているほど単純とは言えないのではないか。少なくとも、「オッカムの剃刀」の基準では、ラッセルとベッヘルいずれの理論のどちらが優れているかは明らかにはならない。

 

この議論は、ベッヘルが実在論的な存在論の議論の基本的な考え方について興味深い見通しを示している一方で、それが成功するためには多くの詳細を検討する必要があることを示している。現在の証拠に基づいてどの説明が最良であるかを判断できるようにするために、説明を評価するための具体的な基準を検討する必要がある。

 

このための最初のステップは、説明が科学でどのように機能するかを調べ、競合する可能性のある説明が科学的実践でどのように評価されるかを分析することである。自然科学の経験的帰納的方法は、いくつかの異なる部分的なステップを組み込んだ複雑な方法である。それは知識の究極の基礎としての知覚に基づいているので、この点では経験的な方法である。様々な形式の帰納的推論(帰納的一般化、類推、および最良の説明への推論)が含まれているため、この点では帰納的方法である。

 

しかし、演繹的要素と先験的要素も含まれているという事実も見逃してはならないだろう。自然科学は、経験に基づかない数学的知識も活用している。ベッヘルは、帰納的推論に加えて演繹的推論が自然科学において重要な役割を果たしていると述べている。

 

一方で、帰納的推論された一般法則からさらに具体的な法則が演繹的に導き出される。他方、未だ確認されていないと考えられている仮説は、それらから演繹的に結果を導き出すことによって検証でき、その後、経験に基づいて検証することができる。

 

我々自身の現在の意識内容の領野を超越することを可能にする帰納的推論は、経験的に正当化できない推論に基づいている。それらが超越論的に正当化できないとしても、ベッヘルはそれらを超越論的原則と呼んでいる。それが自然科学の方法である。

 

では、形而上学の方法をどのように設計すべきか。これに関するベッヘルの見解は、経験的帰納的方法を形而上学にも適用する必要があるというものである。ベッヘルは古典的な形而上学の超越論的方法に批判的であった。形而上学は超越論的方法に従わなければならないという考えは、形而上学で言及される全体的な実在が我々の経験の限界を遥かに超えているという事実によって生み出される。

 

しかし、形而上学的体系のどれもが批判に耐えられることが証明されていないのである。未確認の経験的要素が常にこれらの体系の構築に組み込まれている。ここで主張されている超越論的体系は、経験的要素が全くないわけではない。それゆえ、形而上学においても経験的根拠を求めるべきである。ベッヘルは、こう結論するのである。

 

ベッヘルに言わせると、自然科学で証明され、成功裏に使用されてきた経験的帰納法は、形而上学の分野にも適用できる。形而上学では、知識の究極の基礎としての知覚も不可欠である。形而上学が探求しようとしている実在と接触しているからである。経験的帰納的方法の枠組の中で経験の限界を超えることができないという恐れは、その根拠がないことが既に証明されているというわけである。自然科学はまた、特に認知に必要な超越論的推定の形で、経験的帰納的方法において超越論的要素と原理に依存していることが明らかになった。

 

したがって、特に規則性の要件に基づく最良の説明への推論を使用することにより、経験の限界を超越することができ、即時の経験を超越する領域で洞察を得ることができる。これが、形而上学の枠組の中で同様に行うことができるということなのである。但し、形而上学であっても、それが完全であるとは決して保証されず、経験と証明できない認識の原則に基づいているため、決して確実であるとは考えられない。

 

こうしたベッヘルの形而上学の考えは、「形而上学」で意味されている内容が若干異なるように思われるので即断することは慎まれるものの、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる「形而上学」批判がそのまま妥当するようにも思える。もちろん、ウィトゲンシュタインによる「形而上学」批判は、時間・世界・存在といった形而上学的問いの重要性を否定したものと受け取るべきではない。但し、そうした形而上学的問いを、日常的な言語使用の延長により経験的事実に準えて考えることを否定したに過ぎないという点に注意するべきかもしれない。ウィトゲンシュタインによる「形而上学」批判とは、無時間的かつ非経験的事実である事柄について、特殊な時間的存在や持続的に存在する経験的対象のように考える愚を諫めたと理解すべきだろう。そう考えると、エーリッヒ・ベッヘルによる形而上学の試みに対して、少なくとも部分的に、このウィトゲンシュタインによる批判が妥当してしまうように思われるのであるが、だからといって、古典的な形而上学に可能性があるのかと問い返されたら、これまた心許ない返答しか用意できない。