shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

偉大な碩学の足跡

我が国における西洋中世哲学研究の権威として高名な稲垣良典九州大学名誉教授が今月15日に帰天されたという。享年93歳とのことだが、最近まで新書の形で一般読者向けにわかりやすく、しかしなるべく問題の水準を落とさないような工夫を施しつつ、形而上学キリスト教神学について書かれていたことを思う時、何だか急な訃報に思えて些かなりにも衝撃を受けている。西洋中世哲学やキリスト教神学を学んできたわけでもなければ、哲学を専攻した者ですらない、全くの畑違いの門外漢である僕ですら、「この人は、ガチの学者だなあ」という畏敬の念を抱きながらその著作に接してきた。

 

カトリックの信仰を持ちながら、しかし同時に哲学者として幾分か距離を置きつつ控えめなトーンで綴られてきた若い時分の研究書とは異なり、晩年の『カトリック入門-日本文化からのアプローチ』(筑摩書房)や『神とは何か-哲学としてのキリスト教』(講談社)といった一般読者向け著作では、率直にカトリックの信仰者としての立場を押し出していたように思われる。特に前者は、後半部分においてカトリック信仰における「保守的」立場を宣揚する、ほとばしるような「信仰告白」とも読め、カトリック信仰を持たない僕が読んでも、碩学の筆から遂に溢れ出た熱情に感動を覚えた。

 

後者は、人生の旅路を歩んできた一人の老哲学者が、一貫して手放さなかった根源的問い、すなわち「神とは何か」という単純にして超絶に難しい問いに挑み続けてきた総決算のような高密度な内容で、とてもじゃないが流し読みすることなど到底許されないという雰囲気を醸し出す。一文一文丁寧に何度も精読してついて行かないことには、著者の高速度な思考から振り落されること必至である。新書の形で出された哲学書の中では、おそらく最も難解な部類の著作なのではないかと想像される。同じ新書でも、約50年前に書かれ、数年前に増刷された名著『現代カトリシズムの思想』(岩波書店)と若干趣が異なる。

 

稲垣良典博士の業績は、何といってもトマス・アクィナスの神学及び哲学についての膨大な研究である。門外漢ゆえ、正確にその意義を整理することなどできないわけだが、『トマス・アクィナス哲学の研究』(創文社)や『トマス・アクィナスの神学』(創文社)そして『トマス・アクィナス「存在」の形而上学』(春秋社)、難解極まる『抽象と直観-中世後期認識理論の研究』(創文社)を始めとして数々のトマス研究の学術書(『トマス・アクィナス倫理学の研究』だけは入手できなかったので、まだ読めていない)、そして何十年もの歳月を要して漸く完訳された『神学大全』全45巻のうち約半数の翻訳を担った大業は、後々の世にも燦然と輝き続けるに違いない。なお、それら一連の学術書には、詳細な事項索引・人名索引が充実しており、学術書を出版するとはどういうことか、手抜き作業が目立つ最近の出版業界への反省を促すものともなっている。特に、『トマス・アクィナスの神学』は、きめ細やかな事項索引のみならず、用語解説まで付する念の入れよう。氏がどれだけ本書に対して愛着を持っていたかが伺われる。

 

あくまで素人としての感想でしかないが、氏の功績により我が国の西洋中世哲学はより奥行きのあるものになったのではないかと思われる。というのも、それ以前は中世哲学研究をメインに研究する者は、『「存在の論理学」研究』(岩波書店)や『存在論の諸問題』(岩波書店)などの著作で知られた松本正夫などの研究者がいたとはいえごく僅かであって(両書とも手元にあるのだけれど、後者の特に「存在論的認識論に関する覚書」と題する論文は、その分析の手法が現象学的分析を彷彿とさせるような印象を与えていて意外性のある論文。前者は、ズボラ故に未読のまま)、東京大学の哲学研究室でも古代や近世の哲学の研究者が中世哲学の研究を志す者を研究指導するということが見られたほど研究者の層が薄かったのだそうだ。卒業論文の指導は、それゆえアリストテレス研究で知られる出隆教授が担当したという。

 

九鬼周造天野貞祐そして和辻哲郎などと同窓で稀代の大秀才であった岩下壮一が欧州留学から帰国後、用意されていた東京帝国大学の中世哲学担当教授の職を辞退していなかったならば、おそらく我が国の西洋中世哲学研究のシーンは一変していたのであろうが、恩賜の銀時計を賜るほどの優秀さを誇った岩下壮一は、英国のセント・エドモンズ大神学校やベルギーのルーヴェン大学、そしてバチカンのコレジョ・アンジェリコなど欧州の大学や神学校に留学中にカトリックの司祭となり、帰国後は神父としての活動とともにハンセン氏病患者のための病院で奉仕する人生を選択することで、我が国の中世哲学研究の歩みは大きく左右された。

 

しかし、その岩下壮一の書いた「公教要理」とも言うべき『カトリックの信仰』(筑摩書房)や、神学についての論文や随筆をまとめた『信仰の遺産』(岩波書店)の詳細な解説の執筆者に稲垣良典、解題の執筆者に山本芳久両氏がなっているところを見ると、岩下壮一の蒔いた種が回り回って花開いたと言えるのかもしれない。岩下壮一の果たした日本の哲学研究史上での役割については、中公新書から出た熊野純彦編『日本哲学小史』にも触れられている。というか、最終的には大学の哲学研究者の道を選択せずカトリック司祭となった岩下壮一神父の学問的業績の偉大さを正当に評価し、相応の分量を割く方針を定めた熊野純彦の慧眼に改めて驚かされる。フランス語で執筆したという岩下の卒業論文を改稿した「アウグスティヌスの神国論」という一種の「歴史哲学」の論文を目にした時、簡潔きわまる文体と明晰な論理の運びに接して、「当時の最優秀の帝大生って、こんな水準のものを書いていたのか」と驚嘆したものである。岩下の功績に触れる熊野の筆致から薄々とであれ感じ取れる岩下壮一への畏敬の念も本書の読みどころの一つだろう。『カトリックの信仰』でも触れられている近代哲学批判に対して(特に、カントに対する批判には相当な分量が割かれている)、近代以降の哲学はきちんと応答し得ているのだろうかという反省をも喚起させられるもしよう。

 

先ほど「畑違い」とは言ったが、完全にそうなのかと言われればそうでもない。法学部の学生として法実証主義の思想的前提に根本的な疑問を抱いていた僕は(法実証主義には、決定的に重要な何かが欠けているのだ)、法実証主義に対する批判を展開するネオ・トミズムの自然法思想に基づく法哲学にも多少の関心を抱き、その中で稲垣良典『法的正義の理論』(成文堂)を参考にさせてもらった。法実証主義の思想が支配的な現在では、キリスト教神学と密接に関係する自然法思想は支持者が少ないように見える。フラ―などの自然法理論などを参考にしながら、顧みられなくなった共通善正義の思想(ライプニッツが、その「最後」の提唱者だろう)の復権を静かにしかし同時に切実に展望する著作である。ジョン・フィニス『自然法自然権』が登場した後に著されていたとするならば、きっと面白い対話が実現していたに違いない。自然法思想はトミズムと密接に関わるものであっても、もちろん全く同じではなく、キリスト者でなくとも十分に示唆に富む思考に親しめるはずだ。特に、法実証主義に欠落している重要な何かがあるはずだと日々疑問を抱く者にとっては、その苛立ちを上手くすいとってくれているように思われたのである。

 

ハーバード大学でジョン・ロールズと親交を結んでいた氏は、ロールズの「正義論」には全面同意はできかねるものを持っていたとはいえ、ロールズの志に、法実証主義の根本的思想に収まりのつかぬ何かを感じとっていたのかもしれない。ただ残念なことに、ロールズはその何かについて探究する姿勢を見せていない。むしろ、ともすれば「反動的」とも捉えられてしまうような、「共通善正義」への拘りを持たれた氏に共感を覚えてしまう。法哲学への関心も最晩年の著書『神とは何か-哲学としてのキリスト教』の最終章にまで貫かれている。「自由」や「人間の尊厳」などを巡って、とりわけ日本国憲法における「個人の尊厳」原理の不十分さを突く筆致は、とても90代の年齢の人が書いたとは思えないほどシャープな切れ味である。

 

また、カトリックの哲学者ジャック・マリタンの『人間と国家』の翻訳も共訳の形で手掛けている。氏の「人権」や「主権」についての考えは、相当程度このマリタンの思想の影響を受けているように思われ、それが「ペルソナ的存在論」を打ち出した『人格《ペルソナ》の哲学』(創文社)に色濃く現れているように思われるし、「国民主権」の概念にも懐疑的であった氏の態度も、なるほどマリタンの思考由来であることも伺える。『人格《ペルソナ》の哲学』の一節を見てみよう。

 

万人の平等について言うと、人々の間の様々の差異を相対化して平等の原則を基礎づけることのできるような、人間の固有の価値は完全に不明なままである。また「自立」の重要性は強調されるが、自立すべき者(「私」「自己」)の「存在」に光があてられることはほとんどないし、さらに「個人の尊厳」とか「かけがえのない個」という言葉が明確な価値観の指標であるかのように語られるが、個々の人間に帰せられるべき価値は人間という「存在」に固有の価値にもとづくものであって、後者なしには空虚な幻影にすぎないことはなぜか無視されている。社会的通念ともいえる人間観にひそんでいるこうした欠陥は、いずれも「人格」概念の不在-「人格」という言葉、あるいは「人格の尊厳」「人格の形成」という標語は広く流通しているにもかかわらず-に由来する、と私には思われた。・・・われわれが「私」「自己」と呼んでいる存在を明確に認識し、その存在に固有な価値を基礎づけることができるのは、人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場を超え出て、人間を明確に「人格」として経験し、理解することによってである。

 

ジャック・マリタンは『三人の改革者-ルター、デカルト、ルソーTrois Réformateurs, Luther, Descartes, Rousseau』において、近代社会を支配した宗教改革者である自我中心主義者ルター、哲学の改革者である天使の座についたデカルト、道徳の改革者である聖徒ぶったルソー3人を批判したわけだが(特に、デカルトを「天使主義」として批判したことが有名だが、批判のトーンはルターに対するものよりは控えめである)、この批判は最晩年の著書『神とは何か-哲学としてのキリスト教』(講談社)で触れられているデカルトに対する批判にも緩やかな形で反映されている。ついでなので、このジャック・マリタンのTrois Réformateurs, Luther, Descartes, Rousseau, éd. Plon.にある一節を取り出して訳してみよう。

 

デカルトの過ちは、天使主義の過ちである。デカルトは、認識と思惟とを救いようもない混乱と不安の深淵に陥れたのである。これは、デカルトが人間の思惟を天使の思惟の型に当てはめて考えたからである。このことを一言で表わすならば、「思惟の事物に対する独立」である。これこそが、デカルトが人間の思惟のうちに認め、その中に植え付けたものであり、また思惟に自覚させたことでもある。デカルトの罪は精神的なものであり、抽象の第三段階においてなされたので衒学者の長衣を纏った狂人たちの、すなわち高等法院評定官のジョアシャン・デカルトが己の息子について言っているように、子牛の皮で製本させる連中だけの関心事に過ぎなかったのではなかろうか。

 

『現代カトリシズムの思想』(岩波書店)では、第二バチカン公会議の機運の影響もあったり、また南米での「解放の神学」の運動の熱気も冷めやらぬ頃であったからだろうか、マルクス主義との応接にも心を配るような記述が見られる。

ルフェーブルは「こんにち主要な世界観は三つしかない」といい、「個人主義が死滅したあとに残って面と向きあっているのはカトリシズムとマルクス主義である」といいきっている。もし、この言明になんらかの真実がふくまれているとしたら、それはマルクス主義とカトリシズムとの対話が緊急に必要だ、ということであろう。わたくしがいいたいのは、マルクス主義者はカトリシズムとの対話を通じて、カトリック思想家はマルクス主義との対話を通じて、それぞれ自らの思想を厳密なものにし、また豊かにしてゆく必要があるのではないか、ということである。

 

もっとも、ジャック・マリタンが第二バチカン公会議の方向性に疑問を抱いていたように、氏もまたカトリック正統派の言うなれば「保守派」の思想に共感を抱いておられたように思われなくもない。少なくとも、カール・ラーナーやハンス・キュングのような「リベラル」とされるカトリック神学者の立場とは異なった見解をお持ちであったように思われる(この点に関連して、今野元『教皇ベネディクトゥス一六世-「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』(東京大学出版会)は滅法面白いと言える)。もちろん僕はカトリックの信仰を持たない部外者であるし、カトリシズムの思想に全くの不案内な者だから、勝手な推測でしかないことは承知している。

 

僕が稲垣良典という学者を初めて知ったのは、確か哲学書房から出ていた『季刊哲学』のバックナンバーを図書館で漁っていた頃だと記憶している。ライプニッツやクザーヌスに関心を持っていたので(法学部進学予定の身としてはスアレスにも興味があったわけだが、『神とは何か』を読む限り、スアレスへの評価は辛いようにも思える。面白いのは、既に指摘する声も一部にはあるけれど、改めてスアレスデカルトへの影響を述べているところである)、この雑誌が取り上げていた論題は至極魅力的に映った。可能世界やアナロギアや存在の一義性やカントルの集合論など現代哲学と中世哲学ないし神学が邂逅する場面に着目する特集を組んでいたかと思う。その内容は、『批評空間』やら『現代思想』やら『情況』よりも遥かに僕の興味を惹きつけていたことは間違いない。もちろんディレッタントの域を出ないものであったとはいえ、近代以降の哲学者で「こいつは抜群にオツムが切れるな」と思えた存在はごくわずかしかいないのに、近世や中世ともなると「こいつは明らかに俺とはオツムの出来が違いそうだ」と思えるのがわんさかいたので驚嘆したものである(興味深いことに、現代の理論物理学者の中でもとびきり抽象的な思考を好むクリストファー・アイシャムの論文を読んでいると、中世の神学者のような思考との親和性を感じさせられもするのである。それもそのはず、アイシャムは神学に親しむカトリック信者だったと知ってなるほどと思ったりもした)。ともかく、『季刊哲学』で「稲垣良典」という名を知ったのである。

 

それにしても、哲学書房が出版したラインナップを見ると、「編集者はいいところに目をつけるなあ」という思いを強くする。と同時に、一般受けするものではないだろうから、出版社の経営状態はよくないだろうとも感じていたが、案の定、哲学書房は廃業の憂き目に遭った。『神学大全』の翻訳を出版した創文社も廃業。出版助成制度が改悪されてしまい、こうした篤実な出版社が次々と潰れていっている。やはり、我が国の現状は狂っている。そう考えると、詐話師ロバート・キヨサキの品性下劣なエロ本『金持ち父さん、貧乏父さん-アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』を出した筑摩書房を安易に責められないという気にもさせられる(このアホな「エロ本」に騙されて、よく知りもしないで「投資」に血道を上げるバカの金を巻き上げて、それを篤実な出版社への助成金にまわせねえかなあ)。

 

ズブの素人としての感想だが、稲垣博士が最も傾注していたのは、トマス・アクィナスの哲学の枢要をなす「存在esse」と「認識intelligere」の問題であったように思われる。そして、そこにこそ近代以降の哲学の趨勢に対する根源的批判の足場を求めた。トマスにおいては、認識の働きについての認識がなされるのは、知性の対象である「存在するものens」に含まれる。最高の完全性としての「存在esse」の認識は自己認識を介してのみ達成される。というのも、「存在esse」とは事物がそれによって存在する実体的形相にとっての現実態actusであり、そうすると「存在esse」の認識はこの形相の認識において成立する。しかし、事物の形相は不可知であり、唯一の例外が自己認識を介して達せられる人間の精神の本性の認識である。そこで、「存在esse」を捉えるための「通路」として自己認識が位置づけられる。ここが重要なのだが、自己認識とは自己意識への還帰ではないということだ。精神が自身の存在を通じて自らを認識するという時の自己認識と、人間精神の本性が普遍的な仕方で種的・類的認識によって認識する場合の自己認識とは異なる。前者につき、トマスは『真理論De Veritate』第10問第8項において以下のように述べている。

或る人は、自分が感覚したり、認識したり、その他この種の生命活動を行使していると知覚することにおいて、自らが霊魂を有し、生きており、存在していると知覚する。・・・霊魂はそれが認識もしくは感覚していることを通じて自らが存在している現実に知覚するに到る。

 

トマスは、感覚し認識していると知覚する(percipere)に到るところの自己認識を「最も確実certissima」であるとする。この自己認識が自明の根源的所与であり、人間の認識一般の出発点である確実性の所在とするならば、デカルトの「コギトcogito」とそう遠い距離にはないように見える。氏が着目するのは、にもかかわらず、トマスはこの種の自己認識に何らの理論的重要性を認めていないという点である。ここで言われた「最も確実」というのは、あくまで「我々にとって」の限定が付くものであって、かつ、自分が存在していることの知覚はそれがなにであるかもわからない現存の意識に過ぎず、最高の完全性としての「存在esse」の把握とは異なる。意識の事実としては「最も確実」であるとしても、認識としては不明確かつ混乱した不完全な状態に過ぎないと考えるのがトマスの見解であることをはっきりと抽出した。トマスは、人間精神の本性が直接・無媒介的にすなわち「自分自身に即して可知的secundum seipsam intelligibilis」であるとは認めない。それゆえ、哲学がそこから出発すべき根源的所与であるはずがないのである。

 

氏は、トマスの『神学大全』を現代への「挑戦の書」として位置づけた。『トマス・アクィナスの神学』の「まえがき」は、以下のように述べる。

この書物は全体としてわれわれに、われわれ自身の生き方の吟味を強く迫ってくる。もちろん、トマス自身はこの書物で「道」であるキリストに従って、人間の真実の幸福をめざして旅するために最も重要な「知恵の探究」を徹底的に行っているのであるが、その探究は安易な妥協や暫定的な解決にとどまることを許さない徹底した問いかけであるかぎりにおいて、読者に対して「あなたは人間として善く生きるための知的探究を徹底して行っていますか」と鋭く問いかける挑戦という側面をおびてくるのである。

 

そこには近代哲学が削ぎ落してきた肝心要のことを再び思い出させる意図があったように思われる。現代の哲学では、思想における近代主義批判と相即する形で近代哲学への批判の動きが起こって久しい。かつて我が国でも論じられた「近代の超克」の議論も、近代哲学ないしは近代的思考が依って立つ前提に対する深刻な反省によって動機づけられていたと言えよう。さらに、この課題を自らの哲学の枢要として位置づけた廣松渉の哲学や、大森荘蔵の哲学も我が国では注目されてきた。局地的に一時期話題になった「思弁的実在論」による相関主義批判も、この近代哲学批判の文脈に位置づけて理解できるだろう。

 

但し、そうした試みが上手く行っているかは甚だ心許ない。そういう状況で、豊かな思考が展開された西洋中世哲学の精華に立ち返ることは、実り豊かな思考をもたらす契機にもなるはず。その意味で、稲垣良典博士の足跡は、過去の豊かな遺産の将来への継承ともなる、偉大な碩学からの贈り物なのかも知れない。『神とは何か-哲学としてのキリスト教』は次のように記す。

人間の生が旅路であるとは、「旅人なる人間」(homo viator)は人間であることの完全な実現である幸福への到達をめざして旅する者だ、ということを意味する。そして知識がこの旅それ自体、つまり時として危険と困難が避けられない人間の営為を、できる限り有効かつ快適に遂行することに関わるのに対して、知恵は旅の目的地である人間の真実の幸福に関わる。ところで完全な幸福は旅路の終わりに、いわばオーケストラの「本番」演奏として実現されるが、それに先立って旅路の合間の憩いの時にいわばリハーサルとして予感される。そしてそのいずれにおいても幸福の本質は人間の最高の能力による最高の働きとしての観想である、というのが知恵の教えるところである。