shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

「汚れ仕事」と日本社会

何年ぶりだろうか。久々に伊丹十三監督の映画『マルサの女』と『マルサの女2』を観た。両作品は、宮本信子が扮する東京国税局査察部の査察官板倉亮子が、脱税を働く会社経営者や地上げ屋稼業に勤しむ宗教法人役員といった海千山千の「悪党」らの不正を摘発する奮闘ぶりを描いたヒット作である。

 

両作品が公開された年は昭和62(1987)年と昭和63(1988)年で、ちょうど日本経済が「バブル経済」と呼ばれる好景気を演じていた時期に当たる。もちろん、僕はまだ生まれていない。

 

東京を中心とした見せかけの経済的繁栄を享受していたのは、何も大企業や不動産業者や銀行・証券会社だけでなく、都市中間層以上の者であれば、程度の差こそあれその恩恵にあずかれたというのだから、正に「バブル」と呼ばれるに相応しい状況であったのだろう。この「バブル期」を象徴するイメージとして、東京・芝浦にできた「ジュリアナ東京」での「お立ち台」の映像が映し出されたりするわけだが、妙な扇子を振りかざして、幕末の「ええじゃないか」みたいに我を忘れて踊り狂うワンレン、ボディコンの女の嬌態が表しているのは、既に崩壊が決定づけられた「バブル」自体の滑稽さを人々の目に焼きつけることになった。

 

その裏で、地価高騰の煽りを受けて「地上げ」のターゲットとなり、住み慣れた土地から追い出される者もいた。また、権威主義的企業支配の束縛から過労死する者も続出していたし、更には、そうした歪な社会構造が校内暴力などの現象となって噴出した負の側面を見なければならないだろう。80年代から90年代初頭までの消費社会・金満大国ニッポンというメダルの表と裏である。

 

こうした事態に胡座をかいて「バブルの宴」に酔いしれていたのは、人文社会系「知識人」を自認する者も含まれていた。「知識人」を自称しようと、何のことはない、最もミーハーな「大衆」的性格を持つ自称「知識人」は、その潮流に乗っかり、「バブリー」な言説を垂れ流してもいた。オルテガ『大衆の反逆』が言う「大衆」とは、正にそうした自称「知識人」を典型とする存在である。

 

そうした言説も「バブル経済」崩壊とともに腰折れとなり、デフレに突入する90年代後半にはその化けの皮が剥がされることになる。強いてこの時期の風潮に警鐘を鳴らしていたまともな言説を探るとすれば、廃刊された雑誌「新潮45」に掲載された石堂淑朗「一日千秋の思いで待つ『兜町大暴落』」くらいしか見当たらない。

 

昭和60(1985)年のプラザ合意以後の急速な円高に襲われた「円高不況」に陥った日本経済は、有効需要の内部的創出のため内需拡大政策を強力に推し進められた結果、国内の余剰資金が株や不動産といった資産に大量になだれ込み、株価や不動産価格の高騰を招いた。

 

日本社会にとって決定的なメルクマールの年を挙げるとすれば、プラザ合意があったこの昭和60(1985)年である。

 

東京のオフィス需要の高まりとともに都市再開発事業が強力に推進され、そのため「地上げ」行為が横行し、中には暴力的な「地上げ」までもがまかり通るような状況となった。警察は「民事不介入」という建前を通したために、民事介入暴力が各地で放置され、立ち退きに応じない者には暴力的な事実上の強制までなされてもいた。

 

三國連太郎が扮する地上げ屋で表向き宗教法人「天の道教団」の管長をしている鬼沢鉄平との死闘を繰り広げる『マルサの女2』は、こうした地上げ屋とその地上げ屋を利用して土地の転売によって荒稼ぎする商社や銀行や国会議員の姿を描く。エンターテーメントとしての性格上幾分誇張して描かれてはいるが、「バブル経済」に浮かれていた日本社会の裏の姿を見るのに参考の一つになるはず。

 

マルサの女』では、山崎努が扮するラブホテル経営者権藤英樹が様々な方法で脱税を試みる、異常に金銭に執着する守銭奴としての側面が描かれている。一方で、財産を一人息子に残したいと切実に望む父親としての人間味ある人物の側面も描写されている。

 

対して『マルサの女2』では、鬼沢鉄平の人としての弱さを描くシーンがないとは言わないまでも、基本的には「正義」に対する「巨悪」の側の一人として描かれている。双方とも基本は勧善懲悪のトーンになっているが、そのトーンは二作目がより強烈になっている(もっとも、『マルサの女2』では、現実的に真の「巨悪」はマルサの追及を逃れ得るわけだが)。

 

しかし本作の魅力は、こうしたわかりやすい勧善懲悪の物語にあるのではない。むしろ、東京国税局査察部(納税する身からすれば、査察以上に国税局の資料調査課の連中の方が怖いけれどね)の面々よりも「巨悪」とされた悪党どもの方の魅力が勝るというところなのだ。

 

但し、伊丹十三の他の作品『ミンボーの女』もそうなのだが、「悪」と決めつけられた「民事介入暴力(民暴)」を生業とする個々のヤクザの人々の描写が過分に戯画化されており、ヤクザのかっこよさが全く削ぎ落されいる(これを見て頭にきた仁侠界の人々もいるだろうなという内容。民族派団体の中には仁侠に生きる人々もいるわけだけど、このような戯画化されたヤクザはいない)。

 

マルサの女2』は、東京のとある場所で水死体としてなって発見された男から始まる。高層ビルの上層階の部屋で国会議員や銀行や商社の役員がタラバガニを遮二無二食いつつ次の地上げの標的となる土地の品定めをしながら、「水死体となった男は使えた地上げ屋だった」と回想しながら、次に使えそうな地上げ屋を紹介する小松方正が扮する国会議員の猿渡に対して、中村竹弥が演じるボス格にあたる国会議員の漆原が女性にマッサージされながら「お前の知り合いならどうせワルに決まっている。第一、地上げ屋なんか使い捨てりゃいいんだよ」と吐き捨てるシーンが強烈だ。

 

地上げで頭角を現す鬼沢鉄平率いる「鬼沢一家」は、表向きは「天の道教団」というインチキ宗教法人の看板を掲げ、アホな信者から多額のお布施をむしり取るなどの活動をする一方で、税務調査の入りにくい宗教法人のメリットを利用して脱税スキームのための一つの「ハンドバック」替わりに利用している。

 

ある日、父親の借金の「カタ」として連れて来られた洞口依子演じる女子高生の奈々を愛人にした鬼沢だったが、彼には加藤治子が扮する赤羽キヌという内縁の妻がおり、赤羽は「天の道教団」の教祖として信者からの信仰を集めている。とはいえ、インチキ宗教にありがちなことに、この赤羽キヌは贅の限りを尽くし、4500万円もするロシアン・セーブルの毛皮を衝動買いするほどの浪費家。奈々も最初は健気な女子高生だったが、愛人として暮らすうちに潜在していた欲望が開花したのか、豪奢な宝飾品で着飾るなど身なりも生活も派手になっていく。遂には教祖であるキヌにまで「鬼沢の心はとっくに離れているのだから、とっとと別れろ」と迫るほど、鬼沢一家の色に染まりきっていく。

 

鬼沢の収入に目を付けた東京国税局査察部の板倉亮子は調査を開始するも、中々尻尾を掴むことができない。鬼沢曰く、「地上げのコツは愛情と脅し」。手下の若い衆に地上げを成功させて大金をつかみ取ってみろと喝を入れ、チンピラたちはあるマンションで立ち退きに応じない数人と近くの寂れた食堂を営む夫婦に対して、多額の立退料を用意して交渉に当たる一方、それでも応じない者に対してはダンブカーで突っ込んだり、獰猛な犬を近くで飼ったり、大音量やいたずら電話などで嫌がらせするなどあの手この手で暴力的に立ち退きを迫る。

 

食堂の夫婦は遂に観念するも、マンションの部屋を借りてるゴシップ誌記者と大学の教員は中々難癖をつけて応じない。大学教師は鬼沢曰く「世間を知らない連中」だから、調子に乗って買取金額を吊り上げようと欲張るも、生き抜いていく力にかけては一枚も二枚も上手の鬼沢に敵う訳もない。結局鬼沢の計略に嵌り、スキャンダルをばらされたくなければ言うことを聞けと迫られ、立ち退きせざるを得なくなるに至る。質の悪いゴシップ誌記者の方は、地上げ屋を雇う銀行や商社の役員に直接抗議し記事にすると脅しにかかるわけだが、これまた鬼沢の計略に嵌って、自ら立退き承諾書の判をつかせてくださいと懇願する状況にまで追い込まれていく。

 

こうした手口で次々と地上げを成功させる鬼沢だったが、遂にボロを出す。国会議員で地上げ屋の黒幕になっている漆原が「自分の土地を売却したいが、税金を払うのがアホくさいから、どうにか脱税できないか」と鬼沢に相談を持ち掛ける。いつでも消せるチンピラ一人をかませた代物弁済を利用した脱税スキームを鬼沢は提案するが(現行制度ではこのスキームは使えないのだが)、これが国税に狙わた。

 

板倉たち査察部の面々は鬼沢の宗教法人に強制調査に入り、この脱税スキームが明らかになり、任意の取調べを受けるのだが、その鬼沢もスナイパーに命まで狙わるまでに追い詰められる。鬼沢に対して、板倉は「あんたもトカゲの尻尾なんだよ」と耳元で囁く。そこまで追い詰められた鬼沢だが、肝心のところで口を割らない。重要参考人のチンピラまで消されることになり、結局鬼沢の背後に潜む漆原など真の「巨悪」は摘発されず仕舞い。命を狙われた鬼沢は、妊娠していている奈々を連れて自分たちが入る予定の金で作ったどでかい墓の前で「俺の財産には指一本触れさせないぞ」と喚き散らして終わっていく。

 

ラストのラストは、鬼沢が地上げし、銀行や商社が転売で中抜きした土地に建設する高層ビルの地鎮祭を無事済ませた漆原たちの姿を冊越しに歯噛みしながら見つめる板倉亮子たちの無念の表情が映し出されてジ・エンド。

 

現在の日本には、約20万ほどの宗教法人が存在する。そして、宗教法人法に守られた宗教法人に対しては税法上の優遇措置が講じられ、宗教法人の非営利事業は原則的に非課税である他、営利事業に関しても特例があって課税標準が違っている。しかも財務状況の調査も難しく、それゆえ宗教法人を「ハンドバック」代わりに悪用してくれといわんばかりのシステムを利用しようと思う者が出てくるのは当然である。

 

日本では、安倍晋三元首相殺害事件以降、俄に旧統一教会(旧世界基督教統一神霊協会)と政界との癒着が取り沙汰されていているが、僕から言わせると「何を今さら」という思いを強くするばかりだ。旧統一教会は、安倍晋三の祖父岸信介笹川良一などを通じて日本に進出し、国際勝共連合などの活動とも相まって、徐々に政界や学界などにも浸透していった。特に自民党清和会系のタカ派の議員と懇ろな関係を結んで行ったことは、とうのむかしからマスメディアにおいて周知の事実だった。福田赳夫などは、教祖ムン・ソンミョンを前にして「世界の指導者」だの「現代のメシア」だの称賛していた。

 

この旧統一教会と政界との醜い癒着ぶりを下敷きにして描かれた小説が大藪春彦の『処刑軍団』である。この小説は、ちょうど福田赳夫がムン・ソンミョンを前にして歯の浮くようなべんちゃらを弄していた東京のホテルのシーンから始まる。事情に詳しい人ならば、具体的に名前が思い浮かぶように現実の人物が誰であるか特定できるだろう。やたらとSMシーンや薬物をきめてセックスに興じるシーンとかも出てくるが、それがまた、このカルト団体と政界との癒着の醜さをあらしていることがわかるだろう。

 

学界にも勝共講師団などで手なづけら大学教員も多くいた。松下正寿などその典型。統一教会系新聞である「世界日報」を「クオリティーペーパーだ」と絶賛していた渡部昇一(まあこの人は幸福の科学にもいい顔していた無節操な人だったが)も有名だ。その他にも、世日クラブに呼ばれて嬉々として講演を快諾して高額な講演料を得ていたエセ保守の大学教員や評論家がいて、数え出すとキリがないほど。

 

霊感商法などにより日本人の財産をむしりとることを教義の一つにしていた反日宗教として、心ある民族派は、旧統一教会の危険性について警告していた。旧統一教会日本支部の代表を長く務めていた久保木修己天皇に代わってムン・ソンミョンに跪づく儀式も行われていたことを耳にしたこともあり、民族派の中では怒り狂う人もいたが、残念ながらその声はいつも黙殺された。

 

統一教会ほどではないが、高額な献金を得ることを目的にした新興宗教は枚挙に暇がなく、日本会議を構成する主要メンバーに、こうした新興宗教の代表者が数多く存在する。その教団では、保守系政治家の応援に組織を動員するなど、とても創価学会公明党のことを揶揄することなどできないほど、集票マシーンと化した新興宗教の手先となっている癒着ぶりが見られる。

 

閑話休題地上げ屋鬼沢は、東京のオフィス需要を満たすべく高層ビル建設の用地を確保して企業を呼び込まなければ国際金融センターとしての地位を香港に奪われてしまうという危機感を口実に、自分たちの行為の正当性を主張する(実際、国際金融センターの地位は香港に奪われてしまったわけだが、香港の中共による香港の暴力的制圧によってどうなるかはわからない)。

 

一見、居直りともとれる鬼沢の主張ではあるが、同時にある意味正しいとも言える。銀行や商社は、自らは「汚い仕事」を引き受けることなく地上げ屋のおかげで利潤を得ていたわけで、この鬼沢の主張は、そうした者たちへの怒りをも含んでいる。

 

父親の借金の「担保」として鬼沢の愛人となった高校生の奈々は健気な女子高生だったものの、次第にそういう鬼沢を愛するようになり、鬼沢ファミリーの一員として別人に変容していくわけだが、借金の「カタ」にとられた不幸を経ながらも、それを単なる不幸な女としては描かれず、むしろ鬼沢すらも手玉にとるかのような女に変貌していく姿は、鬼沢鉄平という欲望剥き出しのワルの魅力を間接的に描き出してもいるようだ。

 

こうした地上げ行為は現在ではほとんど姿を消したわけだが、しかしいずれにせよ、用地取得は必要不可欠なことなので、かつての地上げ屋の行為に多少行き過ぎがあるとしても、その必要性を社会は認めてきた。東京など大都市の都市開発事業は、全て彼ら地上げ屋のおかげと言ってもいいだろう。

 

都市開発だけでなく、例えば東京ディズニーランド青森県六ケ所村の核燃料再処理施設もその例外ではない。日本の借地借家法は借地人や借家人を過剰に保護する法制なので、いざ開発をすすめるにあたっても中々進まないことが多く、その反動から地上げ屋のような存在が重宝された。もし、地上げ屋がいなければ都市開発など到底できるものではなかった。鬼沢曰く「誰かがやらないと」ダメな仕事いわば「必要悪」であったというのである。

 

こうした「汚れ仕事」は、表向ききれいな大企業が直接するわけではないし、また開発による直接間接の恩恵を受ける一般人も、それを可能ならしめた「汚れ仕事」の存在に気づきもせず、それどころか社会的な害悪として軽蔑の眼差しを向ける。自分は動物の肉を食いながら、その動物を屠殺する役割を担わされてきた者たちを「穢れ」ある者として蔑視し差別してきた者たちと同様の振る舞いをしてケロリとしている。

 

「汚れ仕事」に対して見て見ぬ振りをしてきた日本社会が、いつ真正面からこの問題を捉え返すのか。何も変わらないのだろうけど。