荒井悠介『若者たちはなぜ悪さに魅せられたのか:渋谷センター街にたむろする若者たちのエスノグラフィー』(晃洋書房)は、一橋大学大学院社会学研究科に提出された博士論文が元になった社会学の研究書である。
十数年前に世に出た『ギャルとギャル男の文化人類学』(新潮社)で既に注目されていた著者だが、明治大学の学生が中心となって設立されたイベントサークル(いわゆる「イベサー」)として知られる「ive.」四代目代表という経歴を持つ。似たような存在はあちこちで作られ、法政大学の学生が中心となって設立したlogosという名のイベサーもその一つだった。
明治大学を卒業して慶應義塾大学SFCの政策・メディア研究科修士課程を修了したばかりの、いわば「駆け出し」研究者だった時に、修士論文に手を加えて一般読者向けに書き改めた書が、この『ギャルとギャル男の文化人類学』だった。
この書は、新書の形で世に出たものだからすいすい読めるのに対して、『若者はなぜ悪さに魅せられたのか』は、博士論文が元になっていることから、幾分硬い書き方になっているものの、内容に関しては相変わらずの面白さだ。特に、前著でも触れられていた「悪さ」に焦点があてられ、「悪徳資本」や「不良資本」という著者独自の概念が提起されて行くところなどは、日本文化論としても面白く読めるだろう。
「サー人」のメンタリティにおいて高い価値が付与された「悪徳性」の徴表として、①非常識で煽情的な方法で注目を集めたり、脱社会的な発想や行動をするという「ツヨメ(脱社会的逸脱行動)」・②異性愛を利用するという「チャライ(性愛の活用)」・③逮捕されない範囲で反社会的行動をとるという「オラオラ(反社会的暴力性)」が抽出され、その獲得された「悪徳性」を、いわば「資本」として、現代日本社会での経済的成功の糧にして行った「サー人」のその後の人生を追っていく本書は、ある意味で、現代日本社会の主たる潮流に対する挑発の意味を持ってもいる。単純化して言うならば、「草食性」に対する「肉食性」の対置である。
もっとも、「悪さ」に魅せられた一部の若者たちと言っても、古来我が国では「悪」という言葉に肯定的な意味を持たせてきた歴史がある。生まれてきた武士の男児に対して「悪太郎」だの「悪源太」だのと、「悪」の字を名前に加えることもあったくらいだ。これにはもちろん訳があって、「悪」とは、道徳的悪とは異なる「強さ」を意味することがあったからである。
ともかく、研究対象はいずれも、1990年代後半から2000年代にかけて、東京の「渋谷」に集ってグループを形成していった、概ね15歳から22歳までの若者の中で目立った存在であった「ギャル」とその男性形の「ギャル男」といったある種の「トライブ」であり、長期にわたる参与観察とインタビューに基づいて、その生態や価値観、行動態様や社会との関係性などを分析・記述した著書である点において共通している。
だが今回の書は、前著よりもある意味範囲を広げたように見えるし、更にそこで培った「悪さ」を上手く「資本」にしてその後の人生における経済的成功を収める様などが詳しく描かれていて、「ギャル」や「ギャル男」における表面的な「ギャル性」の描写は後退し、「悪徳性」に重きを置く内容になっている。
規範逸脱的な、場合によっては反社会的とも映る若者の行動態様や価値観などを調査した先行研究は、我が国においては、佐藤郁哉『暴走族のエスグラフィー』(新曜社)や打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房)などが存在するし、1970年代の英国社会における労働者階級の子弟の「落ちこぼれ」を描いた、ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども-学校への反抗・労働への順応』や、米国オハイオ州コロンバスのゲイのギャング集団への参与観察を通してゲイやバイのギャング構成員の行為態様や内面等に迫った、バネッサ・パンフィルのThe Gang's All Queer: The Lives of Gay Gang Members. New York UP.も、その系譜に位置づけられるだろうが、予め参与観察者としてから観察対象に接近したのと(この点では、打越の書も同様だ)、当事者であった者が、事後的に観察対象との一定の距離を意識的にとりながら研究者として再コミットすることは決定的に異なり、著者の研究は後者である。
著者自身は、犯罪の抑制の意図を含みながら本書を執筆したということのようだが、本書から伝わってくるのは、時には犯罪に該当するような行為にも手を広げていた一部「サー人」の、「悪さ」の魅力にひきつけられていく様を肯定的に描きたいという欲望である。
表だっては口にしないが、コンプライアンスにうるさくなり、バイタリティを失っていく現在の日本社会に対する鬱屈した感情を持つあまり、かつての「サー人」をやや美化しているのではないかと思われるほどだが、著者自身がかつてそうであったように、本音のところでは今もイケイケであるために、現在の退屈で活力に欠ける社会に対して「糞喰らえ」という思いを抱いているに違いない。
だからこそ、単なる一大学の教員(助教)でいることに、学生時代から大所帯を上手く仕切ってきたほどの人物が満足できているのか、研究との二足のわらじでもいいから、ビジネスの世界で暴れる気はないのだろうかと問いたい気にもさせられる。
あくまで個人的な体験だが、米国の大学院に進んで確率論と出会った時に「これだ!」と思って取り憑かれたように夢中になっていったのは、何も高邁な学問的動機やら数理科学への情熱のためではなく、マーケットでリスクを取ったときに感じる興奮とスリルからだ。デリバティブは、トレードと複雑な数学が一体になっているものの、実のところ数学的取扱い扱いが難しい。強欲と恐怖が絡み合った世界でのリスクをドラッグとしたハイになった状態だ。
確率論は科学と哲学に跨がる論理だし、神学、哲学、心理学、物理学をはじめとする自然科学など様々な問題と関わるし、不確実性の下での意思決定やリスクマネジメントといった世俗的問題の中心に位置づけられるし、血生臭い暗号解読にも使われる。それでいて、大金をゲットできる可能性に開かれてるとなれば、関心を持たない方がどうかしている。それもこれも、リスクを自ら背負った勝負に我が身を晒すことのスリルと快感から来るのだ。
話を多少ずらすが、休刊した雑誌「men's egg」に掲載されていた広告ことを思い出す。日焼けした肌にタトゥーの入った、金メッシュの髪の男たちがケツ丸出しにしたその広告を目にした中学生の時、憧れを抱いただけでなく、同時に性的な関心にもなっていたことを思い出す。多感な思春期だからこそ、刺激的であったことは間違いない。
雑誌「men's egg」と同様に、休刊の憂き目にあった雑誌「チャンプロード」は、「暴走族御用達雑誌」と言われたことだけあって、取り上げる対象は暴走族やヤンキーあるいは暴走族のOBやOGの改造「VIPカー」で、時には、道路交通法違反(共同危険行為)を助長しているのでないかと映りかねない誌面構成であった。
以前は、「チャンプロード」のみならず、「ティーンズロード」や「ライダーコミック」といった、主に暴走族を取り上げた雑誌が刊行され、富士山麓の河口湖を目指して暴走する「初日の出暴走」や、全国の著名なチームの特集が組まれ、臨場感ある写真がその場の興奮を伝えてもいた。
「チャンプロード」に関しては、休刊となるまで、(確か)毎月26日の発売日を楽しみにしているほどの愛読者だったが、単車にしてもサーフィンにしても、中学時代にこうした雑誌に遭遇していなければ、おそらく今もやっていたかどうかわかならないと思われるほどに決定的な影響を受けた。
僕にとっての、ある種の「感情教育」であったのだろう。当時は、「チャンプロード」で取り上げられる暴走族が格好よく思え、強烈な憧れを増していくに連れて、実家の近くの環状八号線を暴走する集団を見物しようと、夜中に家を抜け出して見に行ったものである。その頃は既に、暴走族の全盛期からは程遠い状況で、特に東京都23区の中でも、少なくとも世田谷区や大田区あるいは目黒区あたりでは、ほとんど消えかかっていたと言ってもよかった。そうした状況であっても、週末の夜中の環八には10台程度の集団がたまに暴走していた。
東京の族は、他道府県のそれと比べて硬派なチームが目立ち、サラシを巻いて特攻服を着込み、足元はテープをぐるぐる巻きにしたブーツか、あるいは素足に雪駄(特攻服を着ない時には普通のサンダルだったが)。こういうところにも地域色が出るもので、関西の暴走族は、地下足袋が多く、旧車會ならばともかく、特攻服を着こんで暴走する際は地下足袋スタイル。伝統的に暴走族のチーム数が多い北関東(茨城、栃木、群馬)では、地下足袋スタイルを目にすることはない。基本はブーツである。
東京の暴走族は硬派チームが専らで、特攻服にしても、色とりどりに派手な刺繍を施すわけでなく、右翼団体の隊服と変わらないシンプルな特攻服である。ケツに乗った者は金属バットやゴルフクラブもしくは木刀を振り回しながら対向車を威嚇し爆音を奏でているところを初めて目にした時は、鼓動が激しくなるほど興奮を覚えたものだ。時に敵対チームとの抗争でやられるかもしれない、時に事故に遭遇するかもしれない、時に警察に逮捕されるかもしれない、そうしたリスクに身を晒した上で、己の欲望に任せて突っ走ることへの憧憬とでも呼べるかもしれない。
ところが、「チャンプロード」は「有害図書」指定され、それでもしばらく生き延びてきたとはいえ、時代の趨勢に抗しきれなくなり、休刊した。メインの読者層の十代半ばの者にとって、紙媒体をわざわざ買うことが億劫になったこともあろうが、全体的にヤンキーやヤンキー好きな人間が激減したことが決定的に大きい。少子化の加速で十代の絶対数が減少し、それだけにヤンキー人口も激減するだけでなく、世の中全体の「クリーン化」とでもいうべき状況において、ヤンキーの居場所がなくなっていったことも大きく影響しているのかもしれない。もちろん、規制が厳しくなり社会がコンプライアンスにうるさくなってきたことも手伝っているだろう。
街が「クリーン化」されると同時に、その街独特のいかがわしさからくる魅力も消え失せてしまった。多少時期はずれるるが、イベサーの衰退も、街の「クリーン化」に伴って、いかがわしさが排除されていったことと無縁ではないはずだ。
1990年代後半から日本経済がデフレ状況に突入し、日本経済全体のパイが縮小していくにつれて、社会の活力も減衰していった。そのだめ押しがリーマンショック以後の低迷期である。反対に、日本経済の衰退傾向とは逆に勃興してきたアジア諸国の都市では、かつての日本の暴走族と見紛う集団が公道を暴走するようになっていく。
「天下の悪法」とも言うべき暴力団対策法や、内閣法制局による「事前審査」を通しては違憲の判断がなされるだろうことを考え、その抜け道として各地方自治体における条例という形で規制することを図った暴力団排除条例の影響によって、既存のヤクザ組織が弱体化し、代わりに一般人を直接狙った犯罪が密行性を高めた形で行われるようになり、ちょっと前まではチャイニーズ・マフィアが我が国の繁華街を大手を振ってもいた。特殊詐欺案件の急増が何を意味しているのか、その背景となる要因を分析していくと、明らかに暴対法や暴力団排除条例が直接ないしは間接に関係しているはずである。いわゆる「半グレ」の暗躍も、その例から漏れるものではない。
徒に規制が強化され、街の「無菌化」が図られようと、大半の「いい子ちゃん」はそれに盲目的に従うかもしれないが、いくら少子化になったとはいっても、そうしたものに抗いたくなる「アウトロー」的な若者は一定数は存在する。若者のエネルギーがここまでスポイルされようとも、それには満足できない「荒くれ者」は、それがたとえ違法と評価されるような行為であったとしても、「のし上がること」に優先的な興味を抱き、またそうして成功した者に強い憧れを抱く。
それは、そうした者たちが他の一般人にない魅力を湛えているからでもある。荒井の著書に登場する一部の「サー人」たちも(そしておそらく著者自身も!)、そんなメンタリティを共有していたに違いない。もちろん、大部分の「サー人」は、単に要領がいいだけの世渡り上手な典型であったかもしれない。だが、中にはそれとは別の人間もいた。
著者荒井悠介が研究対象としたのは、「ギャル」や「ギャル男」の中でも、さしたる目的もないイベントを企画・運営する「イベサー」と呼ばれる集団に属する若者たち、すなわち「サー人」と呼ばれる連中であった。この集団は、クラブイベントを行う「インカレ」と、「チーマー」と呼ばれる繁華街の愚連隊擬きの文化が混ざり合って形成された、若者たちの「逸脱集団」の要素をあわせ持っていた。場合によっては犯罪となりうる行為など、合法・違法の境界線での「ビジネス」にも関わっている者も含まれていた。
衰退していく日本社会の動向に歩調を合わせるのではなく、それに逆行して荒々しく生きていく者に対して一部の若者が憧憬を抱くのはむしろ自然なことであって、マネーが特にモノを言う今日の世界においては、是が非でも他人より稼ぐことにより強烈な刺激と快感を覚えるようになるのも無理ない話である。
そういう一定数の者たちにとって、やれ「スローライフ」だの「脱経済成長至上主義からのライフスタイルへの転換」だのといったところで、全く魅力的には映らないし、そもそも絵空事の偽善くらいにしか思われない。偽善・欺瞞に対し敏感な嗅覚を持つ彼らにとって、人間の欲望を素直に肯定しようとしないこうした言説は、その嘘っぽさがプンプンして反吐が出るだろう。
型通りのレールに乗ったところで、稼げる額は高が知れている。しかし、そこからズレたところでは、知恵と度胸さえあれば、他人の何倍何十倍もの金を稼ぐことは意外と容易い。ならば、そうした進路を選択するのも悪くはないと思う若者が出てきても不思議ではない。
特に、日本社会は、先進諸国において稀に見る低学歴社会なので、「エリート」とされる者と非エリートとの境は曖昧だし、仮にエリートとされたところで、エリートに相応しい高所得が期待できるわけではない。ならば、海外に飛び出すか、さもなくば起業して「一発屋」を狙うしかないことになりそうだが、そのいずれかでもない場合、手っ取り早く稼ごうと思えば、グレーな領域にこそ可能性がある。ホワイトでもなくブラックでもないグレーゾーンに「金のなる木」が植わっているというわけだ。
早慶上智ICU、GMARCH、関関同立といった、いわば中途半端な大学の学部卒の、とりわけ文科系学部出身者は微妙な立ち位置にある。そこからのしあがろうとする数少ない血気盛んな若者は、イベサーなりで築いた人脈や対人コミュニケーションスキルを活用して、たとえグレー、場合によってはブラックな「ビジネス」と見なされるであろうと、その道を歩むことを一手段として選択するに躊躇しないだろう。そこで、最も動きがとりやすい「半グレ」として裏ビジネスを進んで選択する者も出てくる。ある意味、ナシーム・ニコラス・タレブの著書で盛んに登場する、ストリート・スマートの典型で架空の人物「デブのトニー」の口癖である「カモを見つけろ」というセリフを思い起こさせる。
もちろん、「半グレ」と「イベサー」は同じではないし、暴走族同様、異なる出自を持つ。と同時に、その具体的内容を明らかにできないという制約があるだろうから、「サー人」の行っていた「悪さ」をかなり薄めて描いているように思われるが、明らかに「半グレ」化して、性風俗業や貸金業などに違法な形で進出したり、違法薬物の売買や特殊詐欺に従事した「サー人」は数多く、中には、特殊詐欺やいかがわしいネットワークビジネスで荒稼ぎした資金を元に、不動産会社(中でも物上げ業の会社)を設立している者も存在する。
「悪さ」に魅せられた者たちは、特殊な専門的知識あるいは多額の資本を要するごく一部の領域におけるビジネスは別として、現在の日本社会における、文科系でも行ける大部分の領域のビジネスには高度な知識や技能あるいは資本は不要であり、本音のところでは、少なくとも日本の大学の学部段階で(特に文科系)学ぶ内容はビジネスに全くといっていいほど役に立たないと思い(大学は就職するためにあるわけではないので、当たり前のことだけど)、むしろストリート・スマートになって、人間集団における力学や対人スキルなどを身につけながら、本能的にグレーな領域こそが金になるとの嗅覚を鍛えていく。世の中の偽善や欺瞞をもあざとく感じとる敏感な感性の持ち主であるから、「清く・正しく・美しく」ではいられない。グレーなビジネスに対する抵抗感も薄いので、容易く道徳的軛を外して行動できるというわけだ。
あまり露骨に本音を出すと世間からのバッシングにさらされるのではないかとの危惧からか、抑えた調子で書かれているものの、全体に漂うトーンから見え隠れする本音は、社会の「クリーン化」やSNSの流通によって進行したある種の「監視化」、そして若者の「草食化」に対し、かつて自身もそうであったような、欲望煮えたぎらせギラついた愛すべきワルたちの放つ魅力を肯定的に描き、これを対置することではなかったか。単なる社会学者には収まりのつかぬ著者自身の実存が現れ出た著作である。