shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの日記

Winter in NewYork

 Autumn in NewYorkならぬWinter in NewYork。再びニューヨークに配転となってから一月余り。2年ぶりに移り住んで驚いたことは、家賃の更なる高騰ぶりである。ニューヨーク在住者の多数は、持ち家を持たない借家人である。手元に細かなデータを持ちあわせているわけではないが、ニューヨークのマンハッタン地区ともなると、賃貸アパートの平均はおそらく3000ドルを上回っているだろうから、米国人の平均所得を考えれば、いかにニューヨークが一段と住みにくい環境になってきているかがわかる(サンフランシスコほどの著しい落差はないが)。そりゃホームレスが10万人ほどいるわけだ。一夜を過ごすための収容施設には、ニューヨークの糞寒い冬を乗り越えるために最低でも5万人ほどが押し掛けるという有り様だ。東京に勤務する日系の大企業のサラリーマンでも役員待遇でない者のサラリーなら、ニューヨークのマンハッタン地区に居を構えると、かなりの部分が家賃に消えていき生活するのがやっとという状態になるだろうし、ましてや平均年収程度の稼ぎの者なら家賃すら払えない状況となる。

 

 事実、ニューヨークやサンフランシスコなどでは年収1000万を多少超える程度の所得と言えども低所得者として分類される。それほどに日本の大企業の報酬は少ない(中小企業ともなるとなおさらだ。だからといって、全ての労働者が無能ということなどあり得ず、能力や働きに応じた正当な報酬が支払われず報われない人々がいる)。中央省庁の官僚でも極めて安い給与に甘んじている(外務省の場合、ちょっと事情は違い、在外勤務となると、事実上の給与の二重払いがあって、特命全権大使を数年勤めて帰国すると、結構な額が貯まっているというのだから、決して低賃金とばかりは言ってられないだろう)。大学の研究者でも教授職で1000万円前後と低い水準にとどまっている(一部の私立大学だと1300万円ほど支給されるというが、この程度だと日系の大企業のサラリーマンなら普通にもらっている金額だし、有名外資系企業だと入社一年目でもらえる金額だ)。米国だとハーバードやコロンビアあるいはプリンストンといった有名大学の教授なら平均20万ドル程度(一部の教授は高額のサラリーをもらっているが)で、決して割のいい仕事とは言えないが、それでも日本の大学の教員の所得よりは上だ(もっとも、米国の大学教授の給与が高いだけであって、世界的に見れば日本の大学教授の給与が特別低いというわけではなさそうだが)。

 

 いずれにせよ、アカデミズムのポストは、こと金銭面を考慮すると、さほど魅力ある職とは言い難い。しかも、今では自身の研究だけでなく大学行政上の事務仕事で忙しないという有り様だから(こうした現状は決して望ましいことではなく、全うな研究を堅実に積み上げている研究者が気の毒だ。さらに目立たない問題は、大学の事務職員の待遇である。国立大学法人はまだましだろうが、公立大学法人の中には、大学の果たす役割を企業のそれと勘違いしている学長のトップダウンタウンの経営方針に振り回され、サービス残業などの長時間労働を余儀なくさせられるなどのブラック企業化している大学が多いと聞く。私立大学ともなると、酷いところでは事務職員の半数以上が派遣社員でまかなっている大学もある)、理科系ではともかく、文科系においては昔から大学院を目指そうと思う優秀な学生はごくわずかで、日本の大学の大学院には見向きもしない。したがって特に文科系の大学院は、就職活動に失敗した、ないしは端から労働市場からは相手にされない者の、とりあえず体面だけを保っておくだけの「駆け込み寺」のような場と化しているところが多く、その傾向は東京大学でも京都大学でもかわりない(東大や京大の法学部は、優秀な学生を繋ぎ止めるたむに、大学院の課程をすっ飛ばして学士助手ないしは学卒助手の制度を設けてきた)。だからこそ、比較的優秀な学生は、特に文科系に関しては、元から研究職を志望せず、官僚や日系の大企業を目指す者が多かった。ところが、その中央省庁も日系の大企業も魅力を失いつつあり、外資系企業を志望する傾向に傾く。例えば、東京大学法学部の卒業生の進路の変遷がそのことを物語っている。弁護士にも魅力を感じなくなった者は、せっかく東大法学部に在籍しているのだから国家公務員試験や司法試験に合格しておこうと思う者がいても、とりあえず合格したという実績を残すだけで、外資系を選択する者すら出てきた(昔は、旧大蔵省時代は特に、東大法学部在学中の三年ないし四年時に旧司法試験に合格しておいて、事実上の年齢制限が課せられている国家公務員試験Ⅰ種を四年時に合格して入省という者が結構多かったし、中には旧司法試験、国家公務員試験Ⅰ種法律職、外務Ⅰ種に一番で合格し、かつ東大法学部を首席で卒業するといった「三冠王」「四冠王」の受験巧者もいた)。

 

 確かに外資系企業での競争は熾烈であり、実績を残せなければ容易に解雇されるリスクはあるし、そうなったとしても労働者の権利が手厚く保障されているわけではないから、経営者側の判断を受け入れるほなかいほど立場が不安定である。しかし、その競争の過程で培ったスキルを活かして第二、第三の職場で活躍するチャンスは与えられているし、中には思いきって独立起業する者もいる。もちろん、日本では誤ったイメージが流通し、米国ではあたかも起業=成功という安易な考えを持つ日本の若者もいて、彼ら彼女らはベンチャー企業の米国での倒産の実態をよく理解していないように見受けられる。そうした幻想に踊らされることに用心した方がいいが、それでもある程度大学大学院で学んできた者で自分にある程度自信を持っている者ならば、外資系企業に進むことは良い選択であると言っておきたい。給与は日系企業とは比較にならない額を支給してくれる企業もかなり多く、年収数千万円もざらにいるし、億を超える者だって珍しくはない。

 

 優秀な高校生ならば、日本の大学ではなく欧米の有名大学に直に進学することを勧めたい。米国のアイビーリーグの大学は確かにバカ高い授業料だが、奨学金制度が充実しているし、保護者が低所得であればその額に応じて授業料が減免される制度も存在する。制度を上手く利用しさえすれば日本の大学に進学するよりも安上がりで、かつ得られるものは比較にならないわけだから、東京大学京都大学など日本の有名大学に進学するのではなく、欧米の有名大学への進学を考えた方が、あのほとんど無意味な大学受験のための勉強などしなくて済み、労力と時間を有意義なことに費やせるわけだ(ちなみに僕は、今のような大学入試制度の下では大学受験のための勉強はほとんど無意味であり、受験制度は廃止で構わないと考えている。もちろん受験のための塾も予備校も不要だ。受験のための教育産業など潰れてしまえというのが本音)。

 

 日本では年収1000万円超というのですら5%もいないという極めて平板化された資本主義国家で(外資系企業では入社一年目から1000万円を遥かに超える企業がざらにある)、一時は「世界で最も成功した社会主義国家」とさえ皮肉を込めた表現がなされたこともあったが、それは日本経済全体が右肩上がりの成長力があったればこそであって、このまま地盤沈下が続くようなら、その平等性は「底辺への競争」と化し、ごく一握りの者以外の「一億総貧乏」国家へとまっしぐらだ。

 

 僕の借りているアパートメントでも月に4500ドルほどで、幸い会社からの家賃補助(というより、会社により借り上げがなされ、一部が給与から天引きされる仕組みになっているので、事実上の家賃補助ということになる)のおかげもあって、さほどの負担にはなってはいないが、平均的な収入の人なら相当な高負担であり、東京都港区の家賃相場が高いといっても、まだ大都市中心部にしては安い方で、それゆえに海外の投資家にとって東京中心部の不動産はまだお買い得感があるというのが実際のところではあるまいか。一連の香港のデモは、直接的にはいよいよ左翼全体主義の本性を剥き出しにしてきた中共による香港市民に対する統制強化の動きに対する政治的反発ではあるが、その背景には、香港経済の相対的低下と大陸から流入してきた者との間の経済格差や大陸からの投機マネーの流入による不動産価格の高騰で、ただでさえ家賃が高い香港が更に価格が高騰して元からいた住民にとって住みにくい街に変貌しつつあることへの鬱積した不満がある。

 

 ともかく、香港もそうなのだろうが、貸主の天下であるニューヨークの家賃は異常に高い割には設備がよくない。僕の場合、乾燥機付洗濯機が備え付けられているからよいものの、大抵のところは必ずしも新しい洗濯機が備え付けられているわけではなく、あったとしてもオンボロ。だから金を払って洗濯しなければならないはずだが、毎日だとこれがバカにならない値段になる。食事の方はそこそこ美味しい料理を出すレストランがあるので、チップの面倒臭さを我慢すれば色んな世界の料理が楽しめるが、それもこれも金次第。自炊するにも若干割高だが日系スーパーもそこそこあるし、比較的メジャーな日本食の食材ならば日系スーパーでなくても手に入る。僕が前からよく利用していたフェアウェイではそういった食材も置かれている。米も日本で食べるものほど美味いとは言えなくても十分食べられるし、普通に美味しい米自体を味わいたいと思えば、僕はよくおにぎり権平を利用している。西海岸の代表的都市ロサンゼルスでは、確かにリトル・トーキョーがあるものの、ラーメン屋や定食屋メインで、レベルの高い日本料理を提供する店がほとんどないのと違って、さすがニューヨークだけあってロサンゼルスよりは遥かに食事はまともなものにありつける。地下鉄やバスなど公共交通機関に関してもロサンゼルスより遥かにニューヨークが充実している。ロサンゼルスでは地下鉄やバスもtapカード1枚あれば安い料金で結構遠くまで行くことができるが、地下鉄やその他鉄道は充実しているとは言えず、ターミナルのユニオン・ステーションですらかなりショボい。ロサンゼルスは基本的に車社会なので朝夕のハイウェイの混み方は尋常ではなく、首都高と肩を並べるか、それ以上かも知れない。地下鉄やバスの利用者も一見して低所得層とわかる黒人やヒスパニック系住人が目立つ。車内に自転車ごと乗り込んでくる者はいるわ、物乞いで車内をうろつき回る浮浪者はいるわ、改札を乗り越えてタダ乗りする悪ガキどもはいるわで、そのくせ駅構内は薄暗く駅員も少ない。だから、治安を気にする人が乗りたがらないきのもわからないではない。補修工事で不通になることも度々あり、使い勝手が悪い。代替バスがあるが、案内が不親切極まりない。しかも、駄々混み。もちろん、流しのタクシーがつかまることなどなく、タクシーは空港や大きなホテル以外にはいない。よってウーバーを利用することになるも、どこの誰だかわからない者だから、一々評判を頼りに選ぶほかない。

 

 ニューヨークでは事情が違って、ビスネスパーソンも地下鉄を利用しているし、利用者が極端に特定の層に偏っていることもない。便利だからロサンゼルスよりも公共交通機関の値段は若干高めに設定されており、ロサンゼルスで地下鉄やバスを利用した経験のある人なら感じるであろう安さを感じることは、ここニューヨークではないだろう。東西海岸を代表する都市ではあるが、両者は全く性格が異なる都市であって、いずれが好みかは分かれるところだろうが、ロサンゼルスは開放的な雰囲気が漂っている反面、変な犯罪も目立つし、何よりロサンゼルスのダウンタウンよりさほど離れていないサンタモニカやウェストハリウッドでは、通りすがりの人からマリファナのにおいがプンプンしてくることなど珍しいことではない。ニューヨークも地域によっては深夜出歩かない方がよい治安の悪い場所やスラム街っぽい所は確かに存在するものの、ロサンゼルスのようにダウンタウンの真横の一筋入ったところから急にスラム街になるようなことはない。ちょっとしたヘンテコなサンバカーニバルやゲイのパレードが土日なると路上で開催されていることも頻繁で、その場に飛び込むと昼間からマリファナパーティーでもしているのかと目を疑うような光景が繰り広げられている。ともかく、ビバリーヒルズ近くのウェストハリウッドではゲイがやたらと多く、日本人からすればかなりどぎつい身なりで闊歩している者もチラホラ。中には露骨に誘いをかけてくる者もいるので、誘いに乗るのは結構だが、衛生面には用心しておいた方がいい。とにかく誘いをかけてくるほどの者は誰彼無しにやりまくっているので、どんな病気を持っているかわからない。彼らから見れば、日本人をはじめとする東洋人は実年齢より若く見られるようだから、十代の男の子が大好きという連中から執拗に誘われることもまま見られる。逆に、そうした連中を相手にしたい日本人のゲイがウェストハリウッドをさ迷う光景もある。なにせ、黒人の性器は日本人のそれより一般に遥かに大きい。その大きな性器でアナルに挿入された時の快感に病みつきになって、黒人としかやれないという極端な日本人のゲイもいるのだから。

 

 今月発表された日銀短観は、10月からの消費税増税の影響で景気が悪化していることを示唆している。目に見える形で一般の国民に実感され始めるのは来年の五輪終了直後だろうと思われるが、おそらく前回の増税時よりも更に不況感が増し、それが一層の消費不況を加速させもするだろう。2020年代の日本経済は、特に地方の経済停滞が深刻さを増す中で、折からの「異次元の金融緩和」策によって収益が悪化している地方銀行の経営基盤が持ちこたえらなくなり、今ある100行程度の地銀は4分の1程度に大再編されていくであろうことが予測され、現在でもそれを先取りする動きが方々で見られる。日本経済は「失われた20年」どころか、30年、40年という道を歩み、ともすれば主要先進国の座から転がり落ちる顛末を迎えるかもしれない。有効な財政・金融政策を講じれずデフレの長期化を放置し、財務省主導の「健全財政」至上主義から抜け出せず、かといって生産性の向上を図るための施策も何一つ打てない。我が国の国力の要である科学技術研究への資金投入を抑える一方で、「クールジャパン」政策などといったほとんど意味のない事業への出資をしるという間抜けな政策に邁進している。日本という国そのものが徐々に解体され始めているわけだ。やはり、どう見ても安倍晋三内閣は「保守」の装いだけして、その実、日本の国力を弱体化させようと目論む左翼であることは明白だ。折からの日本社会の少子高齢化の流れは止まるところを知らず、生産人口だけでなく遂に総人口の減少によって日本経済の先行きに暗雲が立ち込めているとの危惧が、社会全体の概ねのコンセンサスとなって久しい。といっても、少子化が直ちに経済成長率の低下に結びつくかと言うと、必ずしもそうとばかりは言えないデータも存在するわけだから、この問題を先進国の宿痾と一概に片づけて済ませるわけにはいかない。

 

 少子化の原因は色々あるだろうが、巷間言われる女性の「社会進出」を要因にする主張は、女性が結婚後に専業主婦であることを嫌い職業生活を続けることで子を産み育て家事に専念することをしなくなったために、先進国に見られる少子化傾向に一層の拍車がかかったことが原因であると解する主張である。そして、そのことが同時に「父性の喪失」とともに語られることが多い。確かに、そういう側面がゼロであるとは言わないが、そうした主張は、現在の日本社会が抱える構造的特質を顧みない暴論になりかねない。フェミニズム(もちろん一口にフェミニズムといっても様々なバリエーションに富んでいるわけだが)という特定のイデオロギーを振りかざした専業主婦否定論の極端な主張に対する反発のあまり、過剰に専業主婦を本来の家族形態ととらえる主張に基づく擁護論も、そもそも事実誤認である上に問題の本質を捉え損ねている。劣化した左翼と同様に劣化した保守派という戯画的な対立構図は、この場面においても等しく見られる図式である。

 

 もちろん、真に知的な左翼は元から少なかったといえばその通りなのであるが、それでもかつては一定数の知性ある者が存在し、それが社会の健全な言論形成に寄与してきた。ところが、大部分の左翼言論人は旧ソ連中共あるいは北鮮の露骨な代弁者となり下がり、そうした珍妙な言説が大半の国民の信頼を失わせてしまった。東西冷戦構造が論壇の状況に直に反映されていた結果、今日の日本社会では、左翼といえばもはや「バカ」の代名詞として認識されており、そのことに気がつきもしない道化師に過ぎない自称「知識人」がネット上で怪気炎を上げている始末。共産主義の幻想がはっきりし、左翼知識人の言説がことごとく誤りであったことを率直に受け入れることができない意固地な態度が歪な形となって残存することになり、今や左翼の専売特許と化した感のある環境保護運動、反原発運動あるいは人権擁護運動、変わり種としては「歴史問題」の追及が登場してきたが、いずれにせよ、これらを一種の隠れ蓑にして勢力拡大を目論み始めるも、そんなことは大半の国民にはとうからバレているので、これまた本人だけがそのことに気がつきもしない滑稽な光景がここでも見られる。それと相即して、単なる「反左翼」というだけで保守であると考えてきた者たちの化けの皮も徐々に剥がれ落ち始め、結局は保守と称する者も左翼の反知性主義が感染し、バカであることを恥ともしなくなっていく。

 

 日本の大学のレベルが劣化し始めた時期は、ちょうど全共闘世代以降の連中が大学のポストにありつけた時と概ね一致している。学生運動という名の「革命ごっこ」にうつつを抜かすばかりでろくすっぽ勉強してこなかった基礎学力や教養に欠ける連中がアカデミズムに寄生することによって、我が国の大学のレベルは見るも無惨な有り様と化した。とりわけ人文社会系の研究は壊滅的な状況となり、まともな研究者は数えるほどしか存在しない。それもそのはず、この頃から優秀な学生はアカデミズムに何ら魅力を感じずそっぽを向き、就職活動でさえ相手にされない落ちこぼれがモラトリアムとして腰掛けで大学院に進学せざるを得ないという状況が出現した。その成れの果てが、今日の人文社会系アカデミズムの実態である。そうした学問研究の資質を欠いた無能教員は、学問研究自身で勝負できないものだから、反体制を気取って悦に入りつつも、自らは何らのリスクを背負うことのない安楽椅子に鎮座し、一端のインテリと思い込む自惚れ鏡にポーズを決め込んでいる(もちろん優れた研究者は一部に存在する)。こうしたアホしかいないものだから、安倍晋三としても今日の左翼を御しやすい相手と思っているに違いない。少なくとも、安倍晋三並みの否、安倍晋三以下の知性しかないことが一般の国民のみならず当の安倍晋三にも知られてしまったのである。

 

 今日の日本社会の問題の多くは経済状況に起因しており、中でも1990年代から続く長期にわたるデフレの常態化が、その最も大きな要因である。社会問題の全てとは言わないが、そのほとんどは陰に陽に経済的問題によって規定されている。この点については、マルクス史的唯物論の持つ一つの側面の決定的な正しさを認めないわけには行かないだろう。すなわち、エンゲルス以降の自然弁証法やその上位概念たるロゴスとしての弁証法唯物論といった抽象化された原理は到底認められないが、こと人間社会における生産関係に力点を置きつつ社会分析の基礎とする史的唯物論は、ことに「物質的なもの」の範疇を広く捉える限り、概ねその正しさが見て取れるということである(マルクス主義に立脚するフレドリック・ジェイムソンは、自然弁証法は認めないが他方の史的唯物論の正しさを切り離す見解を述べていたかと思うが、そういうまともなマルクス主義者もいるということだ)。

 

 それはともかく、戦後、これほどまでにデフレが長期化した国は我が国以外に存在せず、この責任は日本銀行だけでなく、財務省や政府の経済財政諮問会議や規制改革会議の面々、それに日本経団連経済同友会をはじめとする財界の面々、さらにはこの連中に追従するだけしか能のないマスメディア全体にも及ぶ。不況に対する処方箋が何事にしても中途半端に終始し、あろうことか、デフレ脱却を叫びつつもデフレを結果的に促進させてしまう手法を講じるという間抜けぶりは、もはや世界の物笑いの種となっている。本来なら、こうした政府の愚策を追及すべき野党が全うな政策批判を展開して政権を奪取してもよさそうなのに、野党や野党を支持する左翼は愚にもつかぬイデオロギー闘争に明け暮れるか、つまらぬ政界スキャンダルの追及にかまけてまともな政策論議を怠り、政党政治における議会の野党として役割を担いきれなくなっている。我が国の議会制の危機的状況は、政府与党が真に国民の政治意思を代表しているか疑わしい点と、野党が与党に対する健全な批判機能を果たし得ていない点に現れている。

 

 自然科学についてはもとより、経済学的知にすら疎い左翼は、その主戦場を「文化的」領域に後退させるだけの引きこもりに陥り、何ら現実的な力を持たない自慰的言説を捏ね回して満足するばかりで、遂に対抗言説を組織することができなくなっている。もはや、「歴史問題」という根拠不確かな口実を以って日本叩きに精出すごく一部の国々の片棒を担いで自国を誹謗中傷することくらいしかできない知的貧困に陥っているのである。当然、こうした左翼の知的貧困やそこに源を持つ偽善と欺瞞に愛想を尽かした大部分の国民からの信頼は、とうに失われている。日本経済の全体的パイが縮小するに連れ、経済的に困窮する層が増えてくるのは必然であって、しかも将来の不確実性が高まれば高まるほど、そういう層は自らの生活を維持するだけで精一杯で、家族を形成して子を産み育てる余裕すらなくなる。将来に対するある程度の見通しが立たない状況において、リスクを抱える選択をなるだけ回避しようとする若年層が増えてくるのも当然の帰結だ。

 

 政府主催の「桜を見る会」とその前日に行われた安倍晋三後援会主催の「前夜祭」をめぐる最近の政争を見るにつけ、本来議会がやるべき仕事がなおざりにされている感が国民の中に増えてきている。この体たらくぶりに憤る山本太郎が、この騒動のみに傾注するあまり日米間の貿易協定の不平等性を問題視せずに承認案の衆議院通過を容認した野党に対して「とんだ売国野郎」と罵倒する気持ちもわからぬではない。日米貿易協定の国会承認の是非は、「桜を見る会」等の問題よりも遥かに重要な案件である。野党は倒閣のチャンスとばかりに重要案件を犠牲にして、冷静に見ればとても退陣の理由にはなり得ないような些末な事に拘り、国民生活や日本経済にとって重要な事案の審議を放棄するという本末転倒なことをやっている。スキャンダル政治に愛想を尽かした国民は、「いいかげんにしろ!」と薄々思っているものの、マスメディアも煽るだけ煽っている。もちろん、この騒動の責任を全て野党に帰すことは不公平であって、十分な説明責任を果たず、文書の隠蔽工作に精出す安倍晋三にも相当な責任があることは言うまでもない。但し、「桜を見る会」は政府主催であるとはいえ、議院内閣制をとっている以上、内閣の構成員と議員としての地位は自ずと重なり、そうなると一定数の「推薦枠」が議員に宛がわれることが慣例化するのは、ある程度やむを得ない面もあるだろう。内閣総理大臣という行政府の長と国会議員という立場はもちろん異なるわけだが、同時に完全に両者を分離することは不可能であって、憲法も我が国の統治機構に関して議院内閣制を採用しているところを見れば、完全な分離を要求しているとまでは読み取れない。それゆえに、歴代の内閣は一定の枠内でそれぞれに縁のある者を招待することを半ば慣例として容認してきたわけだし、大騒ぎするメディアも関係者として呼ばれていたわけであるから、当然に承知していたことでもあろう。問題は、その程度が相当な程度を超えた過度な混同がなされているかどうかである。この過度な混同か否かを判断する一義的な規準は存在しないので、あくまで社会通念に基づく判断が要求されるわけだが、参加者が18000人のうち850人が安倍晋三後援会の関係者であるのは社会通念上さすがに相当な程度を超えた数であって、内閣総理大臣という地位と選挙区の有権者団から選出された衆議院議員の立場を過度に混同していると言われても仕方がない。必ずしも違法にはなるわけではないが、妥当性が疑われるケースであり、この点で安倍晋三は国民に対して、この人選が著しく不相当なものであったことを率直に認め、以後は襟を糺していく旨を宣言するなりすればよい。

 

 前日に行われた安倍晋三後援会主催の立食パーティーについて、野党はパーティー参加費が安すぎ、安倍晋三事務所からいくらかなりとも補填がなされているのではないかという疑惑を追及している。都内の一流ホテルで、ホテルオークラと並んで昔から様々な政治家のパーティー与野党の会合等でも盛んに利用されているニューオータニの立食パーティーの一人当たりの参加費が5000円であるのは不自然だというのである。ある野党議員の問い合わせにニューオータニ側は一人当たり最低11000円を要すると返答したとの報道がなされているが、仮に800人が参加したパーティーであっても、実際に800人分の食事を用意することなど考えにくい。立食パーティーに参加経験があればわかろうはずで、人数分の食事を用意する方が寧ろ稀である。ある程度少な目の人数分の食事を用意するように手配しつつ、当日に人数が増えても構わないように調整できるようにしておくのは十分あり得ることであり、昔から政治家のパーティー開催に手慣れているニューオータニからすれば、当然にどの政治家に対してもそうしているはず。ニューオータニに入っている高級寿司店である銀座久兵衛の寿司が振る舞われたかのような報道がなされたが、久兵衛の主人はそれを否定しているというし、出された食事は本格的な握り寿司ではなく簡単な巻き寿司程度だったとも伝えられている。仮に、それが事実だとするならば、確かに一般には安過ぎると思われる費用であっても、必ずしも安倍晋三事務所からの補填を確信させるような不相当な額とまでは言えない。

 

 米国ではどのニュースもウクライナ疑惑につき権力濫用と議会妨害の二件でトランプ大統領に対する弾劾裁判手続のニュースで持ちきりで、民主党が多数を占める下院本会議で弾劾案が可決される見込みだが、共和党が多数を占める上院の共和党上院院内総務は全力をあげて弾劾を阻止する旨を早々に表明。議会陪審の立場と共和党の議員としての立場のあからさまな混同が叩かれてはいるが、ほとんど政治闘争の色彩が全面に出るばかりで、訴追に足る明確な証拠が提示されているとは言い難い状況で、下院本会議で可決されても、上院で罷免される可能性は少ない。ニューヨークではトランプ大統領に抗議する市民集会が開かれるなど、若干物々しい状況ではあるが、米国経済は概ね好調で、ダウ平均でも最高値を更新したばかりだ。米国民の不満もさほど高まっているとは言えず、大統領の支持率も回復傾向にある。そのような中で、血眼になっている民主党や反トランプを鮮明にするメディアが騒ごうと、反トランプのうねりが俄に起こるとも思えない。経済の好調ぶりが結局は現政権の支持率の下支えになっているのだ。もっとも、下院本会議での可決の報が流れるや、一時的に相場が変動するだろうが、米国経済の底固さから結果的には大きく下振れすることもなさそうだ。してみると、我が国の政治状況はどうなるのか。日本経済は好調とは決して言えない。確かに日経平均は悪くはないが、米国経済の好調につられているだけのことで、足元は極めて脆弱なままだ。実質賃金は低下する中で消費増税で消費不況の入り口に足を突っ込み始めるも、そのことに薄々気がつき始めた国民はそろそろ声をあげても良さそうなのに、相当なお人好しというか我慢強いというのか、大規模な反政権の声は出てこない。声をあげているのは、従来の安倍嫌いの旧態依然とした左翼だけだ。この人々は、安倍のやることなら何でも気に入らないという人々だから、いくら声をあげようとも国民的な運動には広がらない。反安倍の論者がTwitter上に安倍の悪口を書いて、そのお友達がリツイートしあって互いに頷きあっている「集団オナニー」に満足しあい、その主張が先鋭化していく様に一般の国民がドン引きするといった現象が見られるばかりだ。しかし、来年の五輪後に目に見える形で不況が襲ってくるやも知れず、その際もまだ安倍政権を支持し続けるのだろうか。後々の世に、この長期政権がどれほどおかしな政権であったが回顧されることがほとんど予想されるだろうに。

 

関西への「亡命」

 令和元年、皇紀2679年の10月22日、新帝践祚を改めて内外に宣明する即位礼正殿の儀が東京の皇居正殿において執り行われ、来月には御即位に関連する行事の中でも最も重要な儀式である大嘗祭が皇居内に設営された大嘗宮にて挙行される予定になっている。即位礼正殿の儀は無事滞りなく行われたことは幸いだが、続いて予定されていた祝賀御列の儀は、台風19号等の災害を憂慮される陛下の御意向に従って延期の運びとなった。

 

 令和の大嘗祭は、大嘗宮の屋根が伝統の様式である茅葺き屋根から板葺き屋根に変更され、しかも一部がプレハブ様式で設営されるなど、安倍政権の不敬極まる態様が批判にされているが、職人の話だと二週間もあれば茅葺に変更できるそうだから、大至急茅葺方式で設営されることを祈るばかりである。菅義偉内閣官房長官は、職人の不足や予算の関係上板葺きにせざるをえないことをを弁明しているようだが、実際には職人は確保できるそうだし、予算にしても実は半分以上の節減が可能であるとの実情が判明している。上皇陛下の御心を蔑ろにするかのような言動に始まり、御代替わりの一連の儀式等に関する伝統解体の不敬行為からも、安倍晋三内閣の正体が左翼革命政権であることが明らかにされ、もはや朝敵という言葉が相応しいほどの反日売国政権と化した安倍晋三政権の一刻も早い退陣を改めて求めたい。

 

 ともかく、平成の御代替わりの際もそうだったが、今回も即位礼が東京で行われたことは、つくづく残念でならない。そもそも、高御座および御帳台は京都御所紫宸殿に安置されており、昭和の御代まで即位礼は京都の御所にて行われてきた。国内外からの参列者のための都合や警備上の問題もあって、東京において挙行された理由もわからぬではないが、我が国の国体の中枢に関わる事柄については先ず何が最も大事であるかを考えた上での判断でなければ本末転倒ということになってしまう。遷都の御詔勅がない状態では、天皇玉座は京都の御所にあるのが相応しいのであって、東京にある千代田城は、あくまで長い行幸の過程において一時的におられる御在所であるに過ぎない。そもそも、朝廷から征夷大将軍という官位を代々授かっていた武家の棟梁たる徳川宗家の当主が住む場所であって、石垣に覆われ武装された江戸城は、聖上の御所の在所として相応しい場所ではない。本来、聖上の御身近くに刃物すら近づけてはならないわけだから、武家の棟梁の居城に御所が存すること自身が問題含みなのである(その意味で、明治以降大東亜戦争終戦までの帝国陸海軍大元帥としての天皇というあり方は、伝統から著しく乖離したあり方であり、この時代は寧ろ皇室伝統の危機だったのである。天皇武家ではない。武家天皇を護ることが役割の存在であり、両者を混同してはいけない)。遷都の御詔勅のない限り、帝都は東京にあらず、今も京都である。今ではどうなっているかは知らないが、少し前までは宮中で交わされる言葉は京言葉なかでも公家言葉であって、女官の中には今もこの伝統を踏襲している者も多いはず。

 

 明治の御一新と聞こえはよいが、近代国家建設の目的に邁進するため、版籍奉還やその後の廃藩置県によって中央集権化が急激に進行される必要性があったとはいえ、今から考えると、この中央集権化は行き過ぎてしまったように思われる。版籍奉還まではまだしも、廃藩置県までやる必要があったのか、と思わずにはいられない。中央集権化の過程で、資本や物質並びに人材までもが国策として東京に集めらる一方で、それぞれ独自の相対的自立性を持った経済圏と文化を有していた地方の経済的文化的基盤が根こそぎにされ、日本全体が平板化され、言葉も統一化されて無個性になって言ったのが明治以降の我が国の姿であった。明治国家体制は、欧米列強の帝国主義的膨張から我が国の生存を守るために生まれたやむを得ない体制だったとしても、だからと言って、それを手放しで礼賛する姿勢は問題があろう。逆に、明治以降の近代化の過程を批判したいあまり、以前の幕藩体制が素晴らしかったとの極端な議論もまた同時に誤りである。

 

 大東亜戦争敗北後の日本は、その憲法によって地方自治の重要性をうたいつつも、現実としては真逆の方向へと突き進み、地方自治の重要性など歯牙にもかけなかった明治憲法体制下の状況よりも一層中央集権化が加速度的に進行し、政治のみならず経済も文化も各々程度の差こそあれ、東京一極集中が極限にまで達している。憲法92条の「地方自治の本旨」の意義が住民自治と団体自治の内容に限定される解釈が流通し、せいぜい地方自治体の住民投票による直接民主制的契機を強調することが地方自治の実現であると矮小化されるばかりである。問題は、人とモノとカネと情報が極端なまでに東京に集中することにより、東京に隷従せざるを得なくなり、その副次的効果として、東京の基準や考え方さらには言葉まで全国的に画一化・平板化されており、この副次的効果については、ほとんどの者がそれを当然のことと考えている無神経ぶりなのである。

 

 身近な例は、言葉をめぐる問題だろう。東京のキー局を中心とする放送ネットワークが全国的に張り巡らされ、東京の言葉が放送を通じて流通し、全国の誰もが東京の言葉を使うことが当然で、また使うべきだと考える盲念にとりつかれている者まで出てくる始末だ。そうすると、地元の方言を東京に来ておきながら使用するのはけしからんというバカが生まれてくる。地方から東京にやってきた者が、そのまま地の言葉を使用し続けることに感情的反発を覚えてしまう者は、自分が無意識の「帝国主義者」であるかも知れぬことを考え直すべきではあるまいか。そういう感情的反発を覚える者の多くは、あくまで想像の域を出ないが、文化的素地のない地方の出身者ではないかと思われる。その地方の独自な文化的環境が長い間にわたって培われてきた地方ではない場所から東京にやってきた者の中には、かえって地方から東京にやって来たけど地の言葉を使い続ける者に対して憎悪に近い感情を覚えている者すらいるようだ。それはちょうど、禁煙に成功した者が極端なまでの嫌煙家に変貌するのに類似していよう。

 

 とりわけ、我が国の歴史において圧倒的に長い間にわたって中心であり続けてきた京阪神地域の者が東京にやって来ても地の言葉を使い続けることへの反発を覚える者は、たいていが文化的環境が貧困であった地方の出身者である(一口に関西弁と言っても、地域ごとに全く違うことは、東京都心部で生まれ育った僕ですら理解できる。京都と言っても、家元衆や門跡寺院などの人々が使用する言葉は公家言葉で、これは現在の宮中でも使用されている。町衆が使用する町人言葉とは違う。大阪でも、船場言葉を使用する人は減りはしたが、まだ存在するし、河内弁や泉州弁とは全く異なる。神戸ともなると、これまた違う。祖父母の家は、大阪と神戸の中間にある西宮の苦楽園なのでよくわかるが、御影から夙川にかけて山手一帯は戦前に大阪の船場の豪商や財閥の当主が移り住んだ地域であるので、住民の言葉は船場言葉の名残が反映された言葉である)。関西や福岡の者が比較的地元の言葉を使い続けるのは、東京の言葉に敢えて合わせる必要を感じないからであり、そこにはちょっとしたプライドを感じてもいるのかもしれない。逆に言えば、その他の地方出身者の嫉妬が入り混じった卑屈な姿勢である。

 

 しかし、全国一律に同じ言葉を使用しなければならない理由などないし、ましてや東京弁に合わせる必要など微塵もないはずで、寧ろ東京に生まれ育った者は、異なる言葉が入り乱れる状況は個性的で面白いと感じるし、時に「お国自慢」する姿にはある種の羨望の念を覚える(少なくとも僕はそうである)。地方出身者は、何も東京弁に合わせることなく堂々と地元の言葉を使い続ければよい(年配の京都人は、東京こそが「地方」であると考え、実際、高度成長より前の時代には東京を含め関東を「あずま」と呼び、洛中から遠く隔たった鄙であり「化外の地」でしかないと思っていた者もいたようだ)。卑屈な姿勢こそ東京一極集中に加担していることに気がつくべきではあるまいか。

 

 戦前、特に関東大震災以降の昭和初期において最大の人口を誇った都市は、東京市ではなく大阪市であったし、戦後の高度成長期までは経済の中心は紛れもなく大阪市を中心とする京阪神地域であった(阪神間になぜ名だたる財閥の当主や旧華族の邸宅が集中しているのかの謎もわかろう)。文化ともなれば尚更で、上方文化は江戸文化よりもその歴史の長さに比例して奥行きがあったし、それは食文化にまで反映されていた。誇張を恐れず言えば、関東には、最近までまともに出汁の取り方すらままならぬほど単調な味付けの料理が大半で、上方に勝るものと言えば、江戸前寿司か天ぷらか蕎麦くらいしかなかった。東京における日本料理の料亭は、今もなお京料理の料亭であり、宮中での御膳も京風の味付けの料理である。

 

 関西に比べて、歴史に裏打ちされた文化的土壌に欠ける関東は、各々の土地の風土や「匂い」がない。良きにしろ悪しきにしろ、関西ではその土地独特の風土や「匂い」がある。JR西日本の「三都物語」のCMではないが、京都・大阪・神戸という至近距離にあるこの三都市は、全く異なる文化風土があり、それは住む人の気質にも関係している。歴史が長いために、当然に社会問題も多く抱える。根強い差別意識も関東に比べて強い。いわゆる「同和問題」などもその一例だろう。政治権力の中枢であった期間が圧倒的に長く、かつ特殊技能を持った非農業民の比率が他地域に比べて高いこともあって、関西にはいわゆる「同和地区」に指定されている地域も多い。悲惨で愚かな差別の歴史への反省と理解を進める教育も盛んな地域も関西である。他方で、関東では資本主義発達期において、ついぞまともなブルジョア文化は華開かなかったのに対して、我が国の近代において唯一のブルジョア文化と呼べるだろう文化が生まれたのは関西である。谷崎潤一郎の関西移住は、文化的不毛な関東から逃げ出すためのある種の「亡命」だったのである。

靖國神社秋季例大祭をお迎えして

思ひみる人の はるけさ
海の波 高くあがりて
たゝなはる山も そゝれり。
かそけくもなりにしかなや。
海山のはたてに 浄く
天つ虹 橋立ちわたる。
現し世の数の苦しみ
たゝかひにますものあらめや。
あはれ其も 夢と過ぎつゝ
かそけくも なりにしかなや。
今し 君安らぎたまふ。
とこしへの ゆたのいこひに
あはれ そこよしや。
あはれ はれ さやけさや。
神生まれたまへり。
この国を やす国なすと
あはれ そこよしや
神こゝに 生まれたまへり

折口信夫「鎮魂頌」より)

選挙制度の抜本的改正に向けて

 今年7月に行われた参議院議員選挙における所謂「1票の格差」が最大3倍であったことに関して、この選挙が投票価値の平等に反し違憲だとして四国の有権者が選挙無効を求めた訴訟の判決で、一審にあたる高松高裁は「違憲状態」との判断を示した。かつて最高裁大法廷は、参議院選挙における各選挙区の投票価値の最大格差が5倍に達していた事態につき、「参議院選挙の選挙区の1票の格差違憲の問題が生じる程度の著しい不平等状態だった」と判示していた。また衆議院議員総選挙における2.3倍の格差も違憲状態にあると判断していることから、昔と違って投票価値の平等を至上視する司法の姿勢は一段と明らかにされる形となっており、今日の高松高裁の一審判決もその方向性に位置づけられる判決と見ることができよう。

 

 これまで長きにわたる衆議院議員定数不均衡訴訟最高裁判決の判例に形式的に照らしてみるならば、1対3を超えない場合は、その程度の格差が生じるのも国会の合理的な裁量権の範囲内として問題なしとの判断がなされてきたし、参議院議員選挙の場合には概ね1対6に収まっていれば合憲との判断が下されきたが、ここ数年の裁判所は原則として1対2を下回ることを求める姿勢が顕著になってきた。

 

 選挙権の平等と言う時の「平等」が、人格平等の原則に基づき、実質的平等というよりもむしろ人間1人を単位とした形式的平等を意味し、かつ各人の投票結果に及ぼす影響の度合いすなわち「投票価値の平等」を志向するものであるという通説・判例の理解に立脚するならば、違憲判断をした高松高裁判決は解釈論としては一見筋が通っているように思われる。少なくとも、一人が二人以上の投票価値を有するという事態は、形式的平等を貫く限り正当化するのは難しい。事実、芦部信喜をはじめとし、憲法学の多数説は、格差が許容されるのは概ね1対2までであると主張してきた。

 

 対して最高裁は、長きにわたり、衆議院参議院とを区別し、衆議院に関しては概ね1対3の範囲に収まるようにとの判断をしてきた。しかも、仮に違憲状態の認定を超えて違憲であることが確認されたとしても(違憲判決と違憲状態を認める判決とは異なる)、その効力は、無効にした場合の著しい公益上の損害を理由として、(公職選挙法上、行政事件訴訟法31条を直接適用することが許容されていないにもかかわらず)同条の背後にある「事情判決の法理」なる理屈を持ち出し、違憲であることを宣言するにとどめ、請求棄却判決をするというアクロバティックな解釈を展開してきた。

 

 選挙権の平等とは「投票価値の平等」であって、それが形式的に平等化されているかをみるべきであるとする解釈は、先述の通り解釈論としては妥当である。また半数改選の参議院とは異なり、衆議院は総選挙の制度になっていることに加え、必ずしも都道府県代表的性格を色濃く持っているというわけでもないから(この参議院の特色も最高裁判決から出てきたわけだが)、専ら「投票価値の平等」を形式的に見るほかないとする考えは、特に衆議院の場合に言えることも理解できる。しかしながら、それは選挙権の平等を一人一票というにとどまらず、当該一票が選挙に及ぼす影響の度合すなわち「投票価値の平等」をも志向するものであるとの最高裁の解釈を至上のものとする限りでのことである。


 なるほど、「投票価値の平等」が図られなければ、実質的に選挙権が平等であるとまでは言えないという主張はもっともなことである。しかし、いかなる利益にもまして「投票価値の平等」を最優先にしなければならないとの解釈は、現行憲法14条1項及び15条3項の解釈論としては非常に筋が通っていても、直ちに帰結する解釈でもなければ、政策論としても妥当なものとは思えない。これは、大都市の選挙人の理屈ではないかとも思われるのである。最高裁もかつて判示していたように、「国会は、都道府県という単位や人口密度、人口の集中化と過疎化の現象などの要素をも」考慮することができるはずだ。

 

 今日、著しい過疎化に苦悶している地域の意見を国会に反映させる機会として、衆参両議院の議員選挙の持つ意味は色褪せてはないのであって、もし専ら形式的な「投票価値の平等」だけを志向するならば、大都市住民の意向のみが国会に反映され、過疎地住民の声はこれまでよりもなお一層届かなくなる恐れがある。ただでさえ、マスメディアを中心として、在京大手マスコミが中央の視点のみで全国の諸現象を切り分け、訳知り顔で地方の「問題」を語っている状況である。そして、そうしたことがほとんど自覚されずに、中央視点の報道が垂れ流され続けている。

 

 全国ニュースであるにもかかわらず、単なる関東ローカルの内容をさも全国的なニュースであるかのように報道したり、地方により悲惨な被害をもたらしている災害報道ですら東京中心の視点でやっているのが現状。質が悪いのは、そのことを東京の住民の多くが自覚していないということである。東京に降りかかったさしたることもない気象変化には、全国的一大事であるかのごとく騒ぎ立てる。逆に、「無駄な公共事業」として槍玉に上がるのは地方。それも比較にならぬほど多額の公共投資が東京になされ、しかも比較にならぬほどの赤字を垂れ流している東京の事業には見てみぬ振り。しかも、公共事業を受注するのは、東京に本社をおく大手商社やらゼネコンであって、地元業者におちるのは下請け孫請けの仕事ばかり。東日本大震災の主要な被災地である東北の復興をスローガンに掲げるだけで、実際にやっていることと言えば、東京五輪のためのインフラ整備のために東北の復興の足を引っ張り続けている。この国は東北を見捨て、それをよしとしている国民によって覆い尽くされている。なんと「美しい国」であることよ!かく言う僕自身も、知らず知らずのうちに東京目線でおしゃべりを続けているかも知れないのである。

 

 橋本龍太郎政権下での「行革」路線の延長で、一層の新自由主義政策を講じた小泉純一郎内閣の方針によって、地方は特に医療分野において悲惨な状況に追い込まれている。そのうえ、経済が疲弊し雇用の場も喪失、若年人口が減少する全国的な傾向の中で、さらに若年層の職場が消え、過疎化に拍車をかけている状況であることも散々知られているところである。これらは全て自然現象ではなく、明治期以来の中央集権化の国策の結果であり、極めて人為的な現象である。

 

 日本の人口の3分の1は、いわゆる首都圏に集中し過密状態となっている。もし人口比例配分が徹底されたとすれば、過疎地から議員を出すことなどできず、首都圏から出馬した議員が3分の1を占めることになり、さらなる東京中心の政治が営まれる恐れが生じる。こうした状況の中で、過疎地の意向を国政に反映させる一定の必要性が認められるとする政治判断が、公職選挙法上の選挙区割りに反映しても、それが相当なレベルにとどまるものであるならば、立法府に認められた裁量権の行使において著しい不合理性があるとまでは言えないだろう。

 

 確かに、国会議員は「全国民の代表」であって、特定の地域の代表ではない。この43条の規定を以って、最高裁が示した「地域代表的性格」なるものを斟酌するのは矛盾した判断であると糾弾する渋谷秀樹など多数の憲法学者の考えもあるだろう。しかし、本当に矛盾した判断であるといえるのか。というのも、「全国民の代表」としての性格を持つとする43条の規定は、国会議員が特定の有権者団の意思に拘束されることなく、自由に国会の表決や意見表明などを行うことを旨とする自由委任の原則を規定した条文であって、そのことが直接、選挙区割りに関して地域代表的性格を斟酌することを不当ならしめる理屈を供するわけではない。自由委任原則の大前提を持ちつつ、実質は各地域や各業界の利益代表的性格を帯びた各議員が各々の利害を衝突させ、議論を尽くしつつ国家意思を形成する場が議会なのであって、そうした「自由な議論の遊動域としての議会」が制度上確保されるか否かが、議会制民主主義の本質にとっての重要事であるのだから、渋谷らの批判は的を外しているものと思われる。カール・シュミットが『現代議会主義の精神史的地位』においてこうした遊動域である議会を国家意思の決定を常に遅延ないし不能にさせるものとして批判の槍玉にあげたことを再度想起したい。それに賛同するしないに関わりなく、議会とは、そもそも各地域や各業界等の諸利害が一堂にもたらされ、衝突し、そこから交渉や闘争等を通じて譲歩や妥協を導きいれつつ国家意思を形成していく場であるのだから。

 

 最高裁は、衆議院との比較において、参議院都道府県代表的性格をもあわせ持っていること、並びに、半数改選であること等の理由から、衆議院よりも投票価値の格差が大きくなったとしても、合理的な範囲で許されてしかるべきとの判断をしてきた。ところが、最近の傾向では、どうも地方代表的性格という特殊性が軽視されつつある。立法論として、本当に「投票価値の平等」を至上の価値としていいのかどうかという議論がそろそろなされてもよい時期なのではないか。参考になるのは、米国の連邦議会選挙である。米国の連邦議会上院は、州ごとの人口に関わりなく各州2名ずつの議員が選出され、人口比例配分によって選挙区割りされている下院とは異なる選出システムを採っている。選出システムを異なるものにすることによって上院下院の各々の独自性を確保しているわけだ。ここに二院制を採用する意義がある。ところが、衆参両議院が類似した選出システムを採用していれば、選出される議員が同種の構成になってしまうのは必定で、これでは参議院衆議院のチェック機関としての機能を果たしうるか大いに疑問符がつこう。

 

 そこで我が国の選挙制度においても、例えば参議院議員選挙に関しては都道府県代表的性格を重視して人口に関係なく各都道府県から数名ずつ選出する制度に改め、その代わりとして、参議院より優越することがいくつかの面で認められている衆議院の総選挙に関しては人口比例配分の選挙区割りを徹底する制度にするという案が考えられる。もちろん、こうした選挙制度に改めても、最高裁憲法解釈が変更されない限りは違憲の判断が下される恐れがあるので、抜本的な憲法改正作業が求められるだろう。具体的な選挙制度に関しては現行憲法上では法律事項とされているが、それでは憲法14条適合性が問われる事態を招く恐れがあるので、これを憲法事項として個別の修正事項に関して法律事項にするという方法が考えられる。

 

 なるほど合衆国は連邦国家であって、日本のような中央集権国家ではない。歴史的沿革から上院の各州2名ずつの選出という制度になっていることからも、わが国の選挙制度に持ち込むことへの疑問が供されよう。しかし何度も強調するが、憲法の文言から直ちに「投票価値の平等」を至上のものとし、それより他の要素を優先することを違憲ならしめる解釈が必然となるのかと問われれば、これも同じく疑問なしとしない。また、特定の選挙区から選出されたとしても、つまりは都市部の選挙区から選出されようと「全国民の代表」であるとの前提があり、この「全国民の代表」という時の「全国民」とは、畢竟観念上の主体であり、このような観念上の主体という発想は「国民主権」という際の「国民」と同じ謂いであるという解釈も成り立つ。いかに「国民」という観念上の主体を立ち上げるかは、具体的な有権者団の各々の存在とは別に考えられているのであって、この考えを押し進めるならば、たとえ都道府県各数名ずつとする選挙制度を設けたとしても、「投票価値の平等」を犠牲にすることこそあれ、「全国民の代表」を選出することを不可能ならしめることには結びつかない。たとえ圧倒的多数の有権者団が都市部に集中し、都市部から圧倒的多数の議員が選出されようとも、「全国民の代表」とみなされる、つまりは「全国民」が代表を選んだということになるという理屈は、具体的な有権者団と「全国民」とを等値させる一種の擬制が施されているわけであって、それを肯定する理屈は同じく、仮に都道府県各数名ずつというアメリカ合衆国連邦議会上院の選挙方式を採ったとしても当てはまるということなのである。

 

 自民党改憲草案には、選挙制度に関する条文改正は一切なされていない。二院制の意義を強調したければ、両院の選出システムそのものを抜本的に改正することが必須であり、しかもこれまでの最高裁の判断を踏まえるならば、この改正は法律事項ではなく憲法事項でなければならないということである。

君側の奸

 狩野直喜『御進講録』(みすず書房)所収の「尚書尭典首節講義」は、当時京都帝国大学であった狩野直喜が、「御講書始の儀」において昭和天皇の御前で行った御進講の一部である。聖上からの御下問の内容までは収録されていないが、聞くところ、英明であられた帝の鋭い御下問に対し、碩学でなる狩野もたじたじだったというのだから、御専門の生物学のみならず和漢洋の知にも明るい昭和天皇の博識に改めて驚嘆せずにはいられない。古来、有徳の君が身につけておられた徳とともに、それを裏づける識見をも兼ね備えられておられた英君の御存在により、我が日本国及び日本国民は、危機の時代にありながらも、その生存と繁栄を維持してきたとも言えよう。正に、上御一人は現御神であらせられることを証するかのようである。

 

 日本における儒学需要は、とりわけ朱子学、中でも林派の奉じる朱子学が幕府正学の座を射止めたのと相即して、四書五経、中でも特に四書が重んじらてきた傾向がある。四書中心といっても、講書としては『孟子』は革命を肯定すると読まれたためか、敬遠されてきたとも言われる。もちろん一切触れられなかったというわけでもなく、幕府御用学者林羅山が、豊臣から徳川への政権移行を正当化する文脈において孟子易姓革命の思想を使用したことはある。ここで言う御用学者というのは、本来の意味での幕府御用の学者と言う意味であって、「政府の御用学者」だとか「共産党の御用学者」というような、今日の意味で言う「御用学者」という意味ではない。今日の大学に巣食う数多の似非学者とは、その学識といいその影響力といい雲泥の差があるのだ。

 

 朱子学は、その静寂主義的側面や現状肯定の思想から、今日では徳川政権下の停滞した社会を象徴する学問と見做されがちだが、実際のところは違う。確かに、林羅山の思想は、「上下定分の理」に現れている通り、徳川幕藩体制の屋台骨を支える身分制度をあたかもアプリオリな秩序であるかのように捉え、そこに甘んじることを人倫道徳の基本に据えている。「三徳抄」は、以下のように述べている。

「若シ生レツカヌ富貴ヲネガヒ、生レツカヌ寿命ヲネガヒナンドスルハ、ネガフベキ理ニアラズ。ナラヌネガヒヲクワダテ、カナハヌノゾミヲナスハ、悪人愚人ノワザナルユエニ、アラヌ事ヲモイカケテ僻事ヲシ罪ヲツクリテ、ソノハテハ身ヲホロボスナリ。是ネガフマジキ道理ナル故ナリ」。

 しかし、朱子学の説く「修身斉家治国平天下」の思想が、私事と公事の二分法をもたらし、武士階級の責任意識を強くさせたことは事実だし、それが特に後期水戸学に結実するや、体制維持の思想から体制変革の思想に転化し、明治維新とその後の近代化に貢献したことを見ないといけない。また、その「大義名分論」が律令制度の下での幕藩体制の構造を維持させつつも、後の「尊王攘夷論」に結びついて「維新」の思想を準備した点も見なければならない。そして何より、朱子学の合理主義の思想が、「物に在る理」を究明する自然科学的思考を受容させる準備をした点に注目するべきだろう。貝原益軒本草学や宮崎安貞の農学の確立、そして山片蟠桃佐久間象山の洋学受容をもたらしたのは、朱子学の合理主義であったと言っても過言ではない。朱子学とは、宇宙生成論・人間本性論・人倫道徳論・社会秩序論まで包含した一大形而上学体系であり、西洋にこれに匹敵する思想を求めるとすれば、カトリシズムくらいしかないのではないか。

 

 明治近代の礎を築いた佐久間象山は、元々は昌平坂学問所学頭佐藤一斎の下で朱子学を中心に学び、山田方谷と並んで二大弟子と称された学者であったが、同時に西洋語と洋学を江川太郎左衛門の下で学び、自然科学や軍事関係の原書から西洋学問の知識を貪欲に吸収していったと言われる。佐久間象山の下には勝海舟吉田松陰坂本龍馬小林虎三郎山本覚馬橋本左内、河合継之助、津田真道西村茂樹加藤弘之といった錚々たる面々が集った。

「宇宙の実理は二つなし。斯の理の在る所は異ること能はず。近年西洋発明する所許多の学術は要するに実理にして、ただ以て吾が聖学を資くるに足る」。

 閑話休題。ここで四書ではなく五経の中の『書経』を狩野が選択したのは、シナの歴代皇帝への「講書の制」における慣例に倣い、帝王の学として相応しいと判断したことや、狩野自身が清朝考証学に好意的で朱子学を敬遠していたためであろう。もっとも、「寛政異学の禁」のイメージに影響されて、朱子学が我が国においてシナや朝鮮のように支配体制のイデオロギーとして機能していたとの見解は、現在の日本政治思想史研究の到達点から見ると、かなり怪しい見解ということになっている。この点については、渡辺浩東京大学名誉教授による『日本政治思想史[十七~十九世紀]』(東京大学出版会)に詳しい。

 

 ともかく、昌平黌における正統学問としては林派の朱子学が学ばれたが、同じ朱子学でも山崎闇斎らの系統も別にあったわけで、新井白石もこの流れに位置する朱子学者であった。おそらく、この時期の誰よりも西洋の学問に知悉していたのは白石だと言われるほどその学識は際立っていたが、そうした受容が可能だったのも、白石が朱子学者であったことと無縁ではない。また、そうした堅固な形而上学体系であった朱子学があったればこそ、それに対抗する伊藤仁斎の古学や荻生徂徠古文辞学が興り、はたまたそれが賀茂真淵本居宣長国学をもたらしもしたのである。そして仁斎の古学は、清朝に逆輸入されて考証学に多大な影響を与えたことをも想起しておこう。

 

 最近、儒学をさして知りもしないで、ただシナや朝鮮の歴史を貶めるだけの目的で、殊更に儒学全体を否定するかのような駄本が流通しているが、このような暴論は天に唾吐く行為なので、やめていただきたいものである。僕は、本居宣長国学に心酔する徒ゆえ、最終的には朱子学を含め儒学を批判する者ではあるが、もし宣長国学が古学・古文辞学から多くの影響を受けている事実を正視しない態度の者がいるとすれば、その者は知的不誠実と言われても仕方がない。

 

 ちなみに、新しい元号「令和」は、直接には我が国の『万葉集』を出典とするということにされている。これは、漢籍だけでなく広く国書をも含めた中から選ぶべしとの安倍内閣の方針に則り選ばれたものだ。その中身はともかくとして、古来の慣例を破る行為は厳に慎まれるべきことであり、漢籍に出典を求めるべきだった。理由は、古来の慣例であったからであり、特段の理由がないにも関わらず古来の慣例を破る行為は、天子様の元号制定権の伝統の破壊に荷担する不敬の極みである。

 

 思えば安倍晋三は、ことあるごとに不敬行為を働いている。新元号に関して漢籍に出典を求めてきた慣例を踏みにじる暴挙に出るだけでなく、勅定なき新帝践祚前での元号前倒し発表や、大嘗祭における大嘗宮の屋根の茅葺きをやめて低予算で済む板葺きに変更するといった伝統破壊を次々にやっている(元号については事後的に新帝の御名御璽をたまわったが)。これだけ見ても、安倍晋三は決して保守ではなく、日本の伝統文化を破壊しつくすことを策謀してきた左翼そのものである。

 

 安倍晋三が君側の奸であることに気がつかない自称保守の安倍支持派が存在することが理解できない。安倍晋三及び安倍晋三を支持する櫻井よしこを始めとする日本会議の面々の多くは、紛れもなく保守を擬装した左翼である(先日、BSフジのプライムニュースを見る機会があり、中華人民共和国の国家副主席で新帝の即位礼に参列予定の王岐山トクヴィルの愛読者である旨を紹介した時、櫻井は何とトクヴィルの存在を始めて知って読んだということを語っていて、驚愕したものである。仮にも「保守」を自認する者が、それに賛同するか否かは別として、トクヴィルをつい最近まで知らなかったというのは驚くべきことではないだろうか)。

 

 思い返せば、この面々は、先帝陛下の平和への切実な御心や戦没者追悼のための行幸そして災害の被災者や障害者やハンセン氏病患など社会的に弱い立場に追い込まれた人々に対する眼差し、さらには日本の本土の犠牲になってきた沖縄への思いを全く顧みず、むしろ大御心を蔑ろしてきた。この大罪は、何度強調してもしすぎることはないだろう。先帝が沖縄に対してどのようなお気持ちを持たれていたのかは、御自らが島津の血をもひく者であることを断った上で、沖縄の人々が日本に帰属して良かったと思えるような状態になっているかということを常に自問自答されておられる御言葉から拝察することができよう。

 

 陛下は制度的には立憲君主の身であられ、また現憲法下では一切の政治的権能をお持ちにならないが、その制限においてギリギリ許される範囲で、お気持ちを吐露されてこられた。宰相たる者は、憲法上の制限を了解しつつ、陛下の大御心を斟酌して、その大御心に適う方向で政事にあたるべきところ、そうした尊皇の心を安倍晋三は持ち合わせていないのであり、この点、石原慎太郎と同罪である。

 

 狩野直喜は、自らを「臣」と認めつつ次のように始める。

「御講書始めに、臣直喜浅学非才の身を以ちまして、漢書進講の大命を拝し、誠に恐懼感激に任へませぬ次第で御座ります。さて臣今日謹みて進講し奉りまするは、尚書尭典の起首の第一節、及び第二節で御座ります。尭典は漢土聖人の第一位に置かれて居りまする・・・」。

延々とこの調子で書かれた御進講録は、何より帝王が学ぶべき天の思想、徳による統治徳治主義、「天下」という考え、そして民意の尊重が順に説き起こされる。

その中にある「儒学の政治原理」の一節はこうある。

「世の中には、不正の行為と承知致しながら、之を犯し行ふものが御座りまするが、此れは論外と致しまして、これは君国の為めと相考へ、本人は其の行為を正しき事、少くとも道徳的には正しき事と、確信し行ひましたる事にても、第三者より見ますれば、甚だ正道をかけ離れまして、其の結果国家の大罪人となりまする例も、決して少くない事と考えます」。

大正13年1月16日の御進講である。まだ昭和帝が摂政宮であられた頃である。その後の日本がどうなるかを知る者からすれば、結構不気味な言葉といえなくもない。君側の奸どもは、この言葉を戒めとして心得ろ!

信用貨幣

 BS-TBS「報道1930」で放映された「れいわ新撰組」代表の山本太郎朝日新聞編集委員の原真人との間の「れいわ新撰組」の経済政策について討論を視聴したが、少なくともこの討論を見る限り、山本太郎の方に分があり、原真人の主張はものの見事に論駁されるという惨憺たる有様だった。この期に及んでデフレ経済の深刻さを理解しないどころか、デフレ状況下であるとの現状認識すら持っていない能天気な主張は、様々な経済学者からも見識を疑われるほど酷いもので、朝日新聞にはこの程度の人材しかいないのかと愕然とする。朝日新聞記者ですらこのレベルなら、あとの新聞は推して知るべし。見るも無惨な実態だろう。

 

 そういえば、「公共事業悪玉論」をぶちあげ、必要な道路や堤防などのインフラ整備にまで文句をつけていたのが朝日であったことを思い出す。東北の災害用道路を無駄と言い続けていたのも朝日だった。しかし、あの道路がなければ事態は一層深刻なものになっていただろうことを考えると、朝日新聞の罪は重いと言わねばならない。日本国をぶっ壊すことを社是としている新聞社だから、さもありなんというところか。無駄というなら、朝日新聞社への国有地払い下げの方がよほど無駄であろう。記者クラブの部屋のショバ代も請求してやればよい。

 

 ところが安倍内閣は、この朝日の主張に歩調を合わせるかのように、公共投資を大幅に削減し、地方交付税交付金を減らし、文教・科学予算を減らし、防衛予算をけちり、増えた税収分を国債の償還に回して必要な予算措置を講じない緊縮路線に突き進んでいる。アベノミクスとは名ばかりで、やったことは第一の矢の大規模な金融緩和策だけで、第二の矢の機動的な財政出動や国土強靭化は全くなされていないのが実情である。国内の余剰資本は海外に投じられ、国内にもたらされることはなく、日本経済全体のパイの縮小の動きはとどまる気配はない。

 

 この日本貧困化政策を後押しするのが安倍内閣であり、朝日新聞その他マスメディアの本音である。そこに消費税増税ときた。意図的に内需の縮小させてゼロ成長にしてデフレ状況を常態化させようとしているとしか思われない。この点で、安倍と朝日は表向き対立しているように見せかけて、実は裏でつかながっているのではないかと疑ってみたくもなるというものである。これまでもバラマキだと公共投資を槍玉に上げてきた左翼と同様の政策を追求する安倍内閣の本性は、実は左翼政権だという僕の主張を証明しつつある。

 

 もしくは、こうも考えられよう。現在、既に小金を貯め込んでいる者、例えば日本企業の中では平均給与額が世間一般よりかなり高額な朝日新聞社に勤務する原真人だとか、現代の貧困問題を云々しているくせに「経済成長する必要はない」などとデフレ容認を主張する大学教授だとかにとっては、経済成長せずにデフレであり続けた方が有難いわけで、要は自分のおかれたポジションを死守するために本音がつい出てしまったということが考えられる。自分のポジションの維持のために日本国民全体の貧困化を促進させようという魂胆である。いずれにせよ、この連中の言説が有害であることに変わりない。少なくとも、格差社会の矛盾を糾弾したいだろう左翼からすれば、こういった連中こそ「獅子身中の虫」ということにそろそろ気づいたら如何か。

 

 原真人の主張は、山本太郎の経済政策がMMT(現代貨幣理論)に立脚する政策であり、そのMMTはトンでも学説であるので間違いだという程度のものだ。まず番組を視聴している限りの情報しかないが、あの場で山本太郎が主張していた政策は、別にとりたててMMTに基づいた新規な政策であるとまでは言えず、これまでの経済理論から導出できる、極く普通に考え得る金融・財政政策であることがまず一点目。次に、MMTに対する理論的な批判が全くなされておらず、既に論駁済の理屈を阿呆陀羅経の読経の如く繰り返しているだけというのが二点目(もっとも僕自身、MMTの元の原論文を読んだわけではないので、正直賛否を明確にできる立場にはない)。

 

 とまぁ、朝日の悪口を散々書いたわけだが、財務省日本経団連あるいは経済同友会の小判鮫のような記事を書いているのは何も朝日新聞ばかりではなく、産経新聞だって似たようなことを書き散らかしているわけだ(中には、違うことを書いている田村秀男のような論説委員もいるが、これは少数派だ)。ただ、特に酷い論説が目立つのが朝日新聞であるというわけで、仮にも日本のクオリティ・ペーパーを自認し、他社に比べて相対的に優秀な人材が集まる傾向にあると言われた朝日までが、この体たらくでは全くお話にならないのである(どうでもいいことだが、「正論大賞」は全く欲しくないけど、「朝日賞」は欲しい!)。

 

 山本太郎の政策全般についてよく知る者ではないので、もちろん彼の支持者でも何でもないが、意外なことに、前回の参院選に反安倍を意思表示しようと、敢えて山本太郎に投票した民族派同志が数人いたということを付け加えておきたい。ともあれ、山本太郎は原真人よりも、現代資本主義における信用貨幣の概念を理解していることは確かだった。そこで信用貨幣論の要諦がどこにあるか、貨幣循環と信用創造にスポットを当てながら確認しておきたい。MMTに対する賛否を決める遥か以前のレベルで、信用貨幣論や利子率決定論としての「流動性選好論」について理解しておくことが肝要だと思われるからだ。

 

 学説史の基本的知識のおさらいになるが、ケインジアンマネタリストとの論争の中心的問題に、「貨幣数量説」に対する評価がある。これは各経済理論の基礎理論を学んだ者なら誰もが知っていることである。元々、物価変動は貨幣数量変動に比例するという考え方はあった。これを明確に定式化したフィッシャーの交換方程式は、貨幣数量と貨幣の流通速度との積は物価と取引量との積に恒等的に等しいことを示すものだが、貨幣数量説は、この恒等的関係に流通速度の一定という前提が措定される。新貨幣数量説のフリードマンもマーシャリアンkの安定性という前提に貨幣数量が物価水準を決定すると主張する。

 

 フィッシャーによって定式化された交換方程式は、MV=pXの形をとる(Mは貨幣量、Vは貨幣の流通速度、pは物価水準、Xは実質生産量とする)。pX=YのYは名目国民総生産にあたり、Xは実質国民総生産で、pはGNPデフレーターに対応する。そうすると、MVは総需要と、pXは総供給と読むことができる。ここに因果関係を読み込んだ解釈をしなければ、上記式は単なる恒等式である。だから貨幣数量説は、この式に特定の因果関係を読み込む解釈において成立する。すなわち、貨幣量Mの増減が実物的関係とは無関係に一意的に物価水準pの変化を規定するというわけである。もしこれが事実ならば、貨幣は実物的関係を覆うベールに過ぎず、貨幣量の変化は物価水準を変化させるだけで実物的関係に何の影響も与えないことになる。「貨幣の中立性」のテーゼは、この貨幣と実物との二分法を言うわけである。

 

 この貨幣数量説の問題点は、以下のように整理できる。①方程式の諸変数間の因果関係の問題がある。これは、貨幣量の外生的付与の可能性に対する疑問である。②仮に一時的な貨幣量を規定しえても、貨幣による購買量の変化は企業の生産決定や投資決定に影響を与え、実質生産量Xを変化させる点が重要である。商品を購買するためには、それに先立って貨幣の保有が必要だということから帰結する。このため、実質生産量Xは貨幣量Mから独立ではないので、貨幣量の変化が長期利子率や投資需要に影響を与え、それが実質生産量に影響を与える。そうすると、貨幣と実物との間の相互作用があると言えることになってしまう。③流通速度Vは、利子率やストックとしての貨幣に関わる金融市場の制度的編成の変化によっても影響を受けて変化しうる。そうすると、貨幣量の変化は、財・サービスの取引に使用される貨幣と金融資産の取引に使用される貨幣との比率を変化させる。とりわけ、今日の金融取引における超高速度取引は、貨幣の流通速度を高めている(フィシャーはこの流通速度を一定とする仮定をおいて立論しているのである)。以上のような理由から、貨幣と実物の二分法である貨幣中立性のテーゼに対する原理的批判の内容は、概ね以上のように整理されるだろう。

 

 こうした貨幣数量説を批判するケインズは、貨幣需要流動性選好関数に乗せて説明するわけであるが、その前にこの「貨幣」という概念は、従前の商品貨幣論に立脚した概念ではなく、それとは異質な信用貨幣論に立脚する概念であることを押さえておかなければならない。世間一般の貨幣イメージが商品貨幣論を前提とする貨幣概念を前提とするものだから、財務省やメディアそして財務省御用イデオローグや反体制を気取るだけしか能のない左翼のデマゴギーにコロリと騙されてしまうわけだ。「信用貨幣論」でいう「信用」とは一種の債権債務関係であり、「信用貨幣」とは銀行債務が貨幣化したものである。信用創造は、銀行から企業への貸付が行われることによって発生するもので、その信用が結果として貯蓄をもたらす。その逆ではないのである。一般の人々が素朴にイメージするような描像すなわち、貯蓄が預金され、それが貸付られるわけではないということである。

 

 信用の供与の基礎となるのは、企業の投資計画が生み出す収益性に関する期待であって、それが信用の返済可能性の基礎を与える。貨幣の創造と消滅のプロセスとしての貨幣循環においては、経済主体による貨幣の支出は必ず他の経済主体の貨幣的な所得となっている。つまり、支出こそが所得を生み出すというわけである。この認識は、別にMMTの特質でもなんでもなく、それ以前の理論に見られた信用貨幣論の主張の一部でしかない。言うならば、ごく当たり前の常識である。

 

 現代資本主義において、貨幣とは銀行システムによって創造される信用貨幣である。貨幣供給に関する因果関係の出発点は、企業が投資計画を決定する時の「期待」である。企業の投資計画に基づいて、民間銀行に対する資金需要が発生し、民間銀行から企業への貸付が行われる。貨幣フローの発生の起点である。それによって生じる貨幣の循環を経て銀行のもとに預金が形成され、さらなる準備金の必要を発生させる。中央銀行は未決済通貨残高に対応した貨幣を供給する。これが大雑把に整理した内生的貨幣供給論の要諦である。森嶋通夫『思想としての近代経済学』(岩波新書)が、レオン・ワルラスの業績を然るべく評価しつつも、ワルラスの理論体系に欠けている重要な要素が、この銀行システムに対する視点の欠如だと指摘していることを想起させる。その意味で森嶋は、シュンペーターの主著『経済発展の理論』を評価するのである。

 

 ちなみにシュンペーターの業績は、この『経済発展の理論』の他にも『経済学説と方法』、『景気循環論』、『資本主義・社会主義・民主主義』、『経済分析の歴史』とあるが、『景気循環論』は『経済発展の理論』の着想を統計的・歴史的に確認したものに過ぎないから、前者は後者の拡大版とみなすことができる。『経済発展の理論』での主題は「イノベーション」であるけれど、そこでは企業者の役割を強調するとともに、ワルラスが無視した銀行家の機能を明確にした上で、経済の動態と発展の理論を構築したことが功績である。森嶋のシュンペーター評価の最大のポイントは、銀行家の機能を論じた点を強調していることであり、すなわち先の表現でいうと「銀行システム」の重要性の強調という点に尽きるわけだ。貨幣供給が経済システムの内部の期待形成・需要条件・生産条件・価格形成などの諸条件によって決定されることを指すのであって、重要なポイントは、銀行から企業に貸付が行われた時点で既に貨幣は創出されていると考えるのが、カルドアなど優れたポスト・ケインジアンによって主張されていることである。

 

 ここでも、中央銀行が貨幣供給をコントロールできるので、あくまで外生的であると考えるマネタリストと対立する。内生的貨幣供給論の特徴は、銀行が企業に対して貸付を行う際に、貸付量が利子率とは独立であると解する点である。企業は投資計画に基づいて銀行に借入の要求を行う。これに対して、銀行による信用の供与は所与の利子率のもとで企業により個々の借入要求に対する可否として決定される。すなわち貨幣供給は信用によって誘発され需要によって決定されるわけである(もっとも、貨幣需要に関しては利子率の水準が投資決定に影響を与えることがあり得るので、貨幣需要が利子率によって影響を受けないとは言い切れないだろうが)。

 

 利子率の決定においては、①中央銀行の割引利子率、②短期貸付利子率、③長期利子率を区別する必要がある。ケインズの利子率決定論である「流動性選好論」における「流動性」とは資産の転売可能性であり、この可能性の最も大きなものが貨幣である。資産の保有形態としては金融資産を債券として保有するか貨幣として保有するかが問題となるが、流動性選好は、不確実性が存在する場合に、現金や現金転換性の高い流動資産へと金融資産を転換しようとする選好である。したがって流動性選好論では、貨幣に利子が発生するのは、資産を流動性が最も高い貨幣の形態で持たないで貨幣を手放すことに対する「報酬」と説明されることになるわけだ。貨幣は購買力を行使できるが、債券はそれを保持している限り貨幣に変えることができないし、転売して貨幣に転換しようとしても不確実性が残る。ケインズは、金融資産のなかで転売可能性が最も高い貨幣は、「現在と将来とを結ぶ連鎖」となる。不確実性が存在する中で、人々は将来の時点で支払いの必要が発生に備えて貨幣を保持しようとするというわけである。

 

 金融資産の転売行為は、不可逆的時間において行われるものだから不確実性が付きまとう。こうした不確実性を伴う過程では、貨幣を含む金融資産が将来においてどの程度のキャッシュフローを生むのかが問われ、それゆえこの可能性に対する期待が各経済主体に形成される。制度派経済学は、貨幣と貨幣代替的金融資産との間に流動性の大きさに関して階層的構造が存在するが、それは金融資産市場という場の構造と状態の中での反復的転売行為を通じて形成される経済主体の共有期待に基づいて生み出されるものだから、各経済主体が金融資産の転売可能性に付与する確信の度合いは、金融資産の転売行為が行われる場の性質と状態またはその他制度的諸要因によって規定されると考えるわけである。特に、現代の株式会社制度の下で、株式市場の組織化が進むと、こうした期待形成に大きな影響を与えるわけで、株式市場における取引のルールや企業業績の情報伝達経路などの制度的編成が株式価格の期待形成に際して重要な役割を果たす。そこでは株式取引を行っている経済主体間で株価の長期的な傾向に対して共通に保有される期待が形成され、それが各経済主体の行動に影響を与えるということである。

 

 短期利子率と長期利子率の関係は、もし現在のベース・レートすなわち中央銀行から借入れによって資金調達している民間銀行の貸付利子率の基礎となる利子率や短期貸付利子率が一時的なもので長期的には別の水準に落ち着くという期待を不確実性下の金融市場で金融資産を取引する企業や家計が持った場合、短期利子率と長期利子率との間に乖離が発生する。ここで重要なことは、ベース・レートに関する中央銀行の政策的慣習は、長期利子率から独立しているという点である。もっとも、これは理論的な想定であって、実際は必ずしもそうではない。中央銀行が金融資産の意見を市場の意見として聞くことは往々にしてあるからだ。ともあれ、これは市場メカニズムの作用ではない。

 

 重要なことは、利子率は貨幣的現象であって、その決定因を単一の要因に帰することには無理があるということである。複数の利子率が存在して、フローとしての貨幣とストックとしての貨幣が金融システムを規定する様々な制度的要因や期待がそれぞれの利子率の水準を規定するという側面を見なければならない。

科研費の選別を!

 今週は2019年のノーベル賞受賞者が立て続けに発表される「ノーベル・ウィーク」として一部のマスコミを賑わしているが、昨日の医学生理学賞に続いて本日発表された物理学賞も有力候補とされていた日本人学者の受賞はなかった。本来は、何人であろうと偉大な研究成果に対して与えられる賞なのだから、受賞者の国籍よりも受賞対象となった内容に注目されるべきだろうが、その分野に特に関心がない者が大半なので、メディアや国民がどうしても国籍に注目してしまうのも仕方のないことかもしれない。しかも同胞の受賞を喜ぶという心性は、特に不健全ということでもないだろう。願わくば、そのことを通じて、研究対象そのものに関心が向いていって欲しいというだけのことである。

 

 問題なのは、研究対象の内容など無関係で単に国籍のみに拘る姿勢だろう。蓮實重彦『随想』(新潮社)所収の「文学の国籍をめぐるはしたない議論のあれこれ」において、「自分がいくらでもすげ替えのきく便利な人材の一人であることを隠そうともしない」ブログの書き手である内田樹(蓮實は名指しを避けているが)が、蓮實に軽くあしらわれたことを思い出す。村上春樹ノーベル文学賞を願うらしい内田は、村上春樹を評価しない蓮實重彦に対して、もし村上春樹ノーベル文学賞受賞が現実のものとなれば、蓮實は選考委員会の判断は間違っていると堂々と批判を展開すべきだろうと述べていたが、賢明な蓮實重彦はこういうアホな主張をまともに相手にすることなく、搦め手からこの男をおちょくることに終始した皮肉たっぷりの批判で応じる。そのことが、上記文章に残されている(僕としては、村上春樹なんかより古井由吉多和田葉子、生きていたら大庭みな子の方が、断然ノーベル文学賞に相応しいと思うけどねえ・・・)。

 

 仏文科出身というけど、どれだけ小説を読んでいるのか正直怪しいと思うのは僕だけだろうか。内田の文章は、特に政治・経済に関する無知が酷くて、とてもまともに読めたものではないから、今更批判してもどうしようもないけれど、文学の批評眼にしても、信用のおけない人物だと思われる(もっとも、これは個々人の感性の問題だから、白黒つけられる類の問題ではないけれど)。僕の政治的立場は民族派右翼で、その点で三島由紀夫の思想に近い面を持ち合わせ、逆に大江健三郎の表向きの政治的主張には全く同意できない者だが、三島由紀夫の小説よりも大江健三郎の小説の方が文学的達成度からすれば断然優れていることくらいは理解している。

 

 村上春樹に対する僕の評価は、蓮實重彦ほど辛くはないが、たとえ村上春樹の小説が世界的に多く読まれているという事実があるとしても、それがノーベル文学賞に相応しい世界文学の水準に達しているとは到底思われない。西村京太郎のトラベル・ミステリーがベストセラーだからといって、それら作品群を上質なミステリーと評価するだろうか。なお、このブログの書き手は、ところかまわず適当な文章を、その分野について大して知りもしないで知識人面して書き散らかすものだから(特に経済分野についての文章は酷すぎる。ヘタレ左翼の「ポエマー」の典型)、多少見識を持つ者からは、もはやまともに相手にされていないのが実態だろうと思われる。

 

 これまでの医学生理学賞の受賞対象となっている研究内容については知らないが、多少は興味を持って接している物理学賞においては、量子テレポーテーションを含む量子情報科学の実験的研究で大きな成果をあげている東京大学の古澤明教授がいずれかの時点で受賞されることを心から念願してやまない。量子情報科学は新しい分野なので、その全体像は今も明らかになったとは言えないが、世界中の優れた研究者がこぞって研究に取り組みはじめ、量子テレポーテーションや量子暗号など比較的単純な過程ついては理解が進んでいる。しかし、「量子誤り訂正」やショアによる素因数分解アルゴリズムなどの複雑な量子過程については未解明な部分が残されている。この量子情報科学の進展は、人類の科学技術の飛躍的な進歩をもたらすとともに、「量子もつれ」に関する法則をはじめとする量子系の普遍的な理論を探ることに寄与することだろう。

 

 情報科学の前提は、情報とは単純に数学的なものとは言えず、それを具体的に表現する物理的実体を随伴しているという認識だ。従来の情報科学では、情報を表現する物理的実体は古典物理学の法則に従うが、量子情報科学では量子力学の法則に従う物理的実体が情報を担う。古典的情報の基礎資源がビットで、0か1の値をとる。量子情報科学ではキュービットで、0と1を含むような重ね合わせ状態をとり、複数のキュービットが「量子もつれ」状態を示すことがある。門外漢であることを承知の上で、情報科学の基本的な考えのステップはこうだろう。すなわち、①情報を表現する物理的資源の特定。古典的にはビット列がこれに該当する。いかなる情報も0と1が物理的対象に符号化されることにより表現される。②実行可能な情報処理の仕事の特定。情報源からの出力をビット列に圧縮して、それを復元する仕事がその典型である。③仕事の判定基準の特定。復元したビット列が圧縮前の状態と完全に一致することである。情報源からの情報保存に必要な最小のビット数の問題は、エントロピーと情報の概念とを結びつけて通信の概念を一変させたクロード・シャノンによって解決された。この「シャノン・エントロピー」と呼ばれる情報量に関する表現は、金融市場の分析にも応用されているので、俄然興味が尽きないのだ。

 

 エントロピーとは、ある物理系のマクロ状態を実現するミクロ状態における個数の一測度と定義され、実際には状態数の対数として表現されていることは、ルートヴィヒ・ボルツマンによる定式化(いわゆるボルツマンの公式)によって明らかにされている。ミクロ状態の個数が最大の場合のマクロ状態つまりはエントロピー最大の場合のマクロな状態は、仮にどのマクロ状態にも等しいアプリオリな確率を付与するなら最大のアプリオリな確率を持っている(いわゆる等重率の原理)。だから、ある系が特定の時点にエントロピーが最大でないマクロ状態にあるのなら、後のある時点に当該系がさらに高いエントロピー状態に移行する確率が高いというのが、熱力学第2法則に関する統計的説明である。時間対称的立論に徹するのなら、同じ理由が当該系の「以前」のある時点にエントロピーがより高い状態で見い出される確率が高いということになるはずである。

 

 しかし、そう推論することは第2法則の適用における経験的妥当性に反するように見えてしまう。我々が、現実の経験に基づき第2法則を適用しているのは過去についてのみであり、そうするのは、過去から未来へのエントロピーの増大についての知識を既に持っているからである。そうすると、確率に関してそれを過去に適用することを排除すべきとなりそうであるが、一体いかなる理由でこの排除を正当化できるのかという難問が提起されるだろう。エントロピーと情報の概念を接続するアイディアを示したのは、当のボルツマン自身であり、本格的に研究したのがクロード・シャノンのThe Mathematic Theory of Communication(『通信の数学的理論』)である。エントロピーとは情報であり、それゆえ情報は、第2法則に従って時間的に増大していく。情報を「負のエントロピー=ネゲエントロピー」といい、したがってエントロピー増大は情報の喪失を意味するので、ここに意味論的問題に遭遇することになるわけだ。

 

 一見パラドクスに見えるこの意味論的問題に対して、シャノンは情報測度をプラスの符号を伴うエントロピーと定義しているところが注目される。エントロピーとは可能態的な知の一測度であり、他方ネゲエントロピーとは現実態的知の一測度である。そうすると、シャノンの言う情報とは、あるシグナルの新しさの値の期待値と定義できるだろう。あるシグナルの新しさの値とは、このシグナルを他のすべての可能なシグナルから区別するために決定されねばらない単純なオールタナティヴの個数と定義でき、熱力学的なマクロ状態の情報とは、あるシグナルの新しさの値の期待値であり、当該系のミクロ状態を知ることの中にあるはずのものである。その大前提を踏まえ、量子情報科学では、先述の通り、ビットがキュービットに一般化される。この複数のキュービットが集まると、2つ以上の量子的対象が示す「量子もつれ」状態を示すことがあるというのが、決定的に面白い違いとなる。量子論という基礎中の基礎の理論に絡む研究が世界各国で進められている中、我が国は基礎科学に対する資金を減額していっている。旧民主党政権下で進められた基礎研究への破壊行為は、安倍政権下において改善されるどころか、ますます酷くなっていっている。旧民主党政権の財政・金融政策を批判しておきながら、旧民主党政権と同様の緊縮財政によって基礎研究の破壊や実質賃金の低下、対GDP比で0.9%を切ってしまった防衛費の実質的削減(先進諸国なら対GDP比で2%程度国防に割くのが通常で、ましてやシナやロシアあるいは北朝鮮といった核保有国に囲まれた安全保障環境では、対GDP比2%でも足りない。隣国の韓国の急激な軍拡は、特に対北朝鮮向きとは言えない海軍力強化に軸足が置かれている現状を見るにつけ、韓国軍は我が国を仮想敵国と見なし、あわよくば対馬に軍事侵攻しようと虎視眈々と狙いを定めている)など外患を誘致させようと破壊工作に勤しんでいるのが安倍政権である。憂国烈士諸兄、安倍政権打倒に立ち上がれ!

 

 通常イメージされていることとは違って、基礎研究におけるイノベーションが民間からではなかなか起きにくいことは歴史が示す通りで、基幹となる知や技術は、国家による潤沢な資金と環境の提供の下になされる取り組みの中から生まれてきた。大学や研究機関がその典型だ。米国やシナの例を見ても明らかだろう。風上の基礎研究が強くなければ、風下の応用技術も発展しない。日本が誘致を進めていた国際リニアコライダー計画の予算もつかずじまい。そうこうしているうちに、シナはCERNの規模を超える大型ハドロン衝突型加速器LHC)を建設する計画を立てている最中だ。以前、深圳のファーウェイ本社の視察に同行した際、「こりゃマジで日本はヤバい!」と恐怖にかられたものだ。誠実な科学者の悲痛な叫びや英国の科学雑誌Natureからの警告への感度の低い政治家や官僚など政策担当者の盆暗は、事態が極めて深刻であることに気づきもしない。逆に、シナは今にも崩壊するかのような「希望的観測」を前面に出した通俗本が大量に書店に溢れている始末。

 

 もちろん、科学振興費や文化事業への補助金にかまけてロクな予算の使われ方がされていない側面もあるにはある。企画展「表現の不自由展・その後」を含む「あいちトリエンナーレ」への補助金交付など、無駄の最たるものだろう。さらには、いわゆる「クール・ジャパン機構」という当初から失敗が目に見えていた事業を担う無駄の典型に数百億円もの公金が拠出されている件を数えてもよい。アート作品を公開したければ、したい者だけで自腹で掘っ立て小屋でも建てて展示すれば済む話だ。わざわざ「芸術利権」にたかる連中の懐を増やすために公金が拠出されること自体がおかしい。国や地方自治体は、今後こういう公金の無駄遣いでしかない事業から手を引くべきであり、そうすることこそ、芸術の自立性を守ることに資するだろう。これまでの国や地方自治体が主催ないしは共催してきた文化事業は、アートという名のもとに、公金に群がる者たちを肥え太らせるだけに終わった。芸術のためにも、こうした状況はよろしくない。

 

 今回の騒動は、津田大介が認めていた通り、芸術に名を借りた政治的パフォーマンスという性格も加わり、結果的に反日左翼と保守派との政治抗争の観を呈している。芸術は、国家の庇護のもとに営まれるものではなく、それとは独立にやりたいようにやるという環境で醸成されてくるものだ。だから、芸術活動を全うしたければ、公金に依存するような体質は唾棄されねばならない。公金が絡むと、必ずそこに利権が生まれてしまい、芸術にとってこれほど不健全なことはなかろう。公金によるイベントに関しては政治的中立性に努めることが義務であり、公金を使った政治活動をしようと企図する者や文化事業という名の下での公金が入ったイベントに集る利権屋を生まないためにも、今後は国や自治体は一切手を引き、残った公金は納税者のための別の目的に使用すべきだろう。

 

 科研費についても類似の問題がある。研究者に対する科研費の重要性は認めるが、それが正当に使われ、科研費拠出の趣旨と目的に見合う成果を出しているかの厳密な検証が不可欠だ。もっとも、ここでいう成果とは、必ずしも短期的な目に見えやすい成果だけを言っているわけではない。世紀の大研究とは、長期にわたる研究の末、しかも思わぬ副産物としてもたらされることが往々にしてあるからだ。だから、国家としても半分は溝に捨てても構わないくらいの構えでいなければならないだろう。

 

 しかし同時に、特に文科系の研究の場合、その予算が適切に使われているのか怪しいものが多いように見受けられるのも確かなのだ。文科系の研究には大して金がかからない研究が多い。だから、科研費のほとんどが書籍代であったり学会出張費に費消されてしまう。文献学の研究者が貴重書を入手するために科研費を拠出することは理解できるが、たいていの書籍代は、どこでも入手可能な、通常なら自腹を切って購入できるような書籍にまで科研費をあてがっている。しかも、その書籍を自己の所有物として領得する者が圧倒的だ。事実、退職後に研究に利用していた書籍を大学や図書館等に返還している者がどれほどいるだろうか。酷い者になると科研費で購入した図書を勝手に古書店に売却して換金し、自己の所有とする「横領行為」がまかり通っている。文科省は、こういう手合いに対しては購入図書費の返還を請求すべきだろう。

 

 文科系は不要であるというのではない。直接社会の利益に資さなくとも、長く広い視野から見て必要で重要な研究もある。但し、そう言えるような研究が少ないのも確かだし、そういう研究であればあるほど、逆に「趣味」に近づいていく。「趣味」というのは悪い意味ではない。何かの役に立つ道具であるよりも、それ自体が目的であるような研究は崇高なもので、この域に達すれば、ほとんど学者の「趣味」と同義になってくるというわけだ。そもそも学問とは「暇人」の「暇つぶし」のための「趣味」として始まった。だからこそ、どこからも干渉を受けずに純粋に真理探究の活動に勤しめた。修道院の僧がただひたすら神を崇め、社会の利害とは関わりのない場所で学問研究に集中できた時にこそ、浮世離れしつつも、同時に浮世への反射的効果を及ぼしえた。

 

 巷間言われる「文科系不要論」には与しないが、むしろ純粋な研究として「趣味」に生きたい学者は、中途半端な講壇学者になるのではなく、利害関係にとらわれない在野の研究者として生きるのが健全な姿である。その意味で、大部分の文科系の研究費は不要である。特に研究者の装いをしながら単に政治活動にかまけているような活動家が混在していることが往々にして見られる。そういう者の「研究」は研究の名に値しない政治活動なので、明らかに予算の無駄だ。大学も700校も不要で、せいぜい50校程度あれば済む。特に私大文系が多すぎる現状は異常で、これらをカットできれば、必要な研究に効果的に資金を集中させることができる。

 

 科研費は給料ではないのだ。これだけでも過去に遡れば相当な金額にのぼると思われるが、文科省は真剣に考えた方がよい。そして浮いた金で例えば若手研究者のための補助金を増額するなり、貧困家庭の子弟に対する給付金等に充当すればよいだろう。無駄金を徹底的に削減して、思い切って出すべきところに出すという選別が必要である所以である。