shin422のブログ

反モダニズムの極右反動主義者による「便所の落書き」

刑事訴訟法321条1項2号の改訂を

 渡部昇一『萬犬虚に吠える』(小学館文庫)に収録されているロッキード裁判批判と立花隆ロッキード裁判批判を斬る』全三巻(朝日文庫)を通じて互いに罵り合っていた渡部・立花論争は雑誌『朝日ジャーナル』での紙上論戦が元になっているが、論争という論争を見ることのなくなった現代に生きる者からすると、水準云々は別として、まだこの時代には論壇というものが機能していたのだなという思いに駆られる。渡部のロッキード裁判批判は反対尋問権の侵害ばかりを言い募る内容に終始し、まるで刑事訴訟法上の伝聞例外規定の存在に不案内であるかのような書きぶりで、批判のポイントがずれていたし、さりとて立花隆の立論も我が国刑訴法に明文規定を欠く事実上の刑事免責を付与した上での嘱託証人尋問調書の証拠能力がなぜ認められるのかという肝心な面をぼかし、専ら検察側の理屈を押し通すばかりで説得力を欠くものだった。それにしても解せないのは、なぜ渡部昇一ロッキード裁判だけに拘ったかということである。普段から、我が国の刑事司法制度の問題点を告発する人物ならば、この裁判批判も理解できよう。例えば、日本共産党系の自由法曹団の弁護士である石島泰だとか新左翼系団体の犯罪を弁護したりもした九州大学名誉教授ね井上正治だとかが、日本の刑事司法制度の問題点をアピールする目的でロッキード裁判批判の隊列に参加するのは理解できるのだが、渡部昇一が殊更に刑事被告人の権利について問題意識を持っているとは思えなかったので、このことが今も謎になっている(渡部昇一だけでなく、その周辺の人物である小堀桂一郎小室直樹も隊列に加わっていたのだから、ますますキナ臭い感じを抱くのは僕だけではあるまい。立花の著作にも触れられていたエピソードに、小室直樹の「検事をぶっ殺しでやりたい」というテレビでの発言がある。ロッキード裁判丸紅ルートでの第一審で有罪判決が下された途端、折からテレビのワイドショーに生出演していた小室直樹が椅子から立ち上がり拳を振り上げて「検事をぶっ殺せ!」と絶叫したそうである。翌日に、先の発言の弁明をすると再び出演した小室は、「政治家に道徳を要求するのは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は奥さんをぶっ殺したって何もなかったではないか。田中角栄は他に代わる者がいない有能な政治家である。対して検事なんか1ダース2ダース殺したって代えはいくらでもある。だから、検事を殺したって構わないのである」と弁明になるどころか、今なら大炎上間違いなしの火に油を注ぐかのような発言をしていたらしい。さらに加えて「今時、そこらのおちゃーぴーでも一億や二億くらいすぐちょろまかす。もっとマシなおばはんともなると10億くらい掠めとる。角栄の五億がなんだ!そんなことで騒ぐような検事は殺したって構わないんだ」などと述べていた。以後しばらく小室はマスコミから干されることになったようだ)。

 

 田中角栄死後の最高裁決定において、結局この刑事免責を付与した上で得た嘱託証人尋問調書の証拠能力について、これを認めないと最高裁は判断を下したわけだが、このことは渡部昇一の主張が正しかったということを意味するわけではない。渡部の批判は反対尋問が認められないのは暗黒裁判だということの一点張りだった。伝聞証拠であっても、後に触れるように、伝聞例外の規定に当てはまれば、たとえ反対尋問がなされなくとも真実性が担保できる限りは許容されており、ロッキード裁判以前から無数の事例が存在している。渡部の主張を文字通り解するならば、渡部は伝聞例外規定全てが違憲であるということになってしまう。もっとも立花隆の立論にも問題があって、コーチャンやクラッターに対して事実上の刑事免責を付与した上での嘱託証人尋問調書の証拠能力は、先述の最高裁決定でも判示されている通り、我が国の刑事訴訟法には刑事免責制度を規定する明文を欠くので、これを認めることは反対尋問権を保障した憲法37条2項の趣旨を逸脱する。伝聞証拠であっても刑訴法321条以下の伝聞例外規定に該当すれば反対尋問がなされなくとも証拠能力が認められることもあるわけだが、厳格な要件を満たす限りで認められるはずの伝聞例外を明文規定なき刑事免責を事実上付与する形で得られた証人尋問調書にまで拡張適用するようなことは許されるはずはない(この点で、井上正仁の論文「刑事免責と嘱託証人尋問調書の証拠能力」が参考になる。なお、井上正仁『刑事訴訟における証拠排除』(弘文堂)は名著である。僕が「この人はオツムがきれるなあ」と思った数少ない法学者の一人。僕が尊敬する団藤重光の最後の弟子らしい)。しかし、我が国の刑事法においてより本質的な問題はそこではない。

 

 刑事訴訟法320条1項に規定される伝聞法則とは、公判期日外での供述や公判期日での供述に代わる書面で、要証事実との関係において、当該原供述の内容たる事実の認定に供される証拠の証拠能力を原則として排除すること意味する。このことは法学部で学んだ者なら誰でも知っている常識的な知識である。伝聞法則の意義をさらっと確認した上で、伝聞例外に触れて与件となる事案において326条の要件を満たさない場合、321条以下の規定に適合するか否かについて検討を加えて答案を作成していくという典型的な答案作法は、証拠法関連の試験を受けた者なら大抵は心得ているところであろう。知覚・記憶・表現・叙述の諸過程をたどる供述証拠にはその過程に誤りが入り込む類型的危険性が認められるがゆえに反対尋問によるテストにかけられることでその原供述内容にある事実が真実であるか否かの判断ができるわけだが、伝聞証拠にはかかる反対尋問によるテストが介されないために真実性の担保がなく原則としてその証拠能力が否定されねばならないという理由による。逆に、たとえ反対尋問によるテストがなされなくとも、必要性とそれに代わりうる信用性の情況的保障があれば伝聞証拠の証拠能力を認めることにともなう類型的危険性を緩和することができるのだから、326条の規定にある同意書面として認められない限りは、321条以下の要件を課すことにより例外的に伝聞証拠といえどもその証拠能力を認めることができるし、のみならず、かく解さねば刑訴法1条にある実体的真実主義の要請に応えることはできないとの理屈で以って、伝聞例外が認められていくという流れである。

 

 ところが、321条以下の伝聞例外規定の問題点はいろいろあって、例えば被告人の供述を内容とする書面について規定する322条の運用に関しても実際の裁判では実質的に被告人に不利に扱われていると思うが、さすがに322条を削除するというわけにはいかない事情もあろうから、この点は裁判官の公正な事実認定判断に期待するより他ないが、一番の問題点は321条1項2号だ。いわゆる検察官面前調書の証拠能力に関する規定である。同項2号は参考人等被告人以外の者が検察官の面前で供述した供述書ないし供述録取書の取扱いに関する規定であるが、注目すべきは、ここで課される要件が同項3号と比べて著しく緩和されていることの問題性である。供述の相反性と特信性を充足するか、あるいは供述が不能である場合に検面調書の証拠能力が認められるわけである。対して同項3号は、被告人以外の者の司法警察職員に対する供述書ないし供述録取書などを含む書面(要するに1号にも2号に該当しない書面)が認められる要件として、供述不能であること及びそれを証拠として採用することの必要不可欠性ならびに特信性を充足することを課しているのと比べると、いかに2号の要件が激甘であるかが理解されるだろう。しかも、2号と3号の特信性の内容は前者がいわゆる相対的特信情況で足りると解されているのに対し、後者は絶対的特信情況が認められることをも要求する点で、文言規定上のみならず解釈上においても2号は検察官にとって激甘で、憲法37条2項適合性が疑われるような条文である(他にも合憲性に疑義があるのは、接見交通権の制約として捜査の必要性を条件として認められる「接見指定」を規定する39条3項ではないだろうか)。

 

 同項1号は、供述不能であるかもしくは供述の相反性が認められることを要件とするだけで、2号に比べて要件がより緩和されている。しかしこれは、訴追する側の検察官にも訴追される側の被告人にも味方しない「公正中立」な第三者的判断者であることが一応の建前になっている裁判官の面前での調書の証拠能力に関する規定なので、百歩譲ってまだ認められもしよう。だが2号となれば話が違う。検察官は被告人の単なる一対立当事者ではなく公益の代表者としての側面を有するというのが緩和される理由の一つになっている。判例・通説は2号書面の違憲性を否定しているが、少数説ながら違憲説も存在する。ただその少数説だって、2号全文の違憲性を主張する説もあれば、2号前段と後段を分けて、前段につき特信状況を相対的でななく3号同様の絶対的特信状況を補って解釈しない限り違憲であると解する学説もあれば、その他諸々の学説が存在している。いずれにせよ僕としては、当事者主義的訴訟構造を形成しているのがわが国刑事訴訟法の大原則であると解されてきた以上、利害対立者である検察官の面前でなされた調書の証拠能力は司法警察職員に対するそれと同様の扱いを、すなわち3号書面として扱うのが妥当であると思われる。冤罪の温床にもなるこの321条1項2号を3号の要件に限りになく近づける内容に改正するべきだが、どうもそういう議論が巻き起こらないのである。「人質司法」の問題も当然批判されるべきだが、過剰に検察側に肩入れするこの刑訴法321条1項2号及び39条3項の改訂も目立たないかもしれないが実は大きな問題なのである。

男色・暴力・倫理

柳田国男と双璧をなす民俗学者であり国学者であった折口信夫は、弟子の加藤守男に肉体関係を迫りながら、堂々と次のように言ってのけたという。

 

森蘭丸織田信長の寵愛を受けたからこそ歴史的人物になったのであって、君も折口信夫に愛された男としてその名が歴史に残ればよいではないか」。

 

今なら差し詰めアカハラとして訴えられてもおかしくはないエピソードだが、それはそれとして、明治時代より前の時代においては、男色は特に武士階級の間で頻繁に見られた現象であり、醜聞になるほど異端視される振る舞いでは必ずしもなかったと言われている。男色がタブー視されたのは、キリスト教が本格的に我が国に入って以後のことだということもよく耳にする話である(真相はどうかは、知らない)。確かに各種の文献にあたってみると、とりわけ目立つのは中世から近世にかけての男色が頗る盛んであった時代。この頃流行った「若衆狂い」と呼ばれた現象は、とにもかくにも手や足など身体の部位という部位を丹念に磨き整え顔にも化粧を施すなどして身仕度に努めること怠らず、日々相手を求めてあちらこちらに出没・徘徊してまわり、例えば高い縁の下であるならばどこでも手枕を交わすといった行いが見られたそうだ。差し詰め「現代のハッテン場」がそこかしこに発生していたといった風情である。寛永年間に著されたとされる『田夫物語』には、想いを潜める男との逢瀬を神仏に祈り、願いが成就しなかったものならば腕を切り足の腿を突き破る者まで現れたと書かれている。何もそこまですることはないだろうと僕などは思ってしまうのだが、この『田夫物語』という本は、男が男色派と女色派に分かれて喧嘩を始めたので中立を自称する「第三者」の著者が間に入って双方の言い分を聞くという体裁をとっている。それぞれの言い分が面白いのだが、中でも興味をひくのは、男色派を華奢で風流な伊達者とし女色派を田夫者として表現していることである。だから著者はどうやら男色派なのかと思いきや、さにあらず。男性間の性交または性交類似行為の経験はなかったらしい。おそらく、そこまで踏み切れずにあくまで精神的に男色に憧れているだけの立場だったのかもしれない。この物語の最後には、女色派がついに伝家の宝刀を抜く。曰く、わが国は伊邪那岐伊邪那美天の浮橋にて交わりをされて以後、男女間の恋愛が連綿と続いてきたのであって、この男女間の恋仲から発展してきた男女関係のあり方や異性同性との違いに対する考え方が、子孫を持ち家を保ち夫婦のありようをなした人間の基本的な姿を築き支えてきたと言うのである。こうした人間の存在形態の変遷においてなおそこに一貫性を認めることのできる態様の維持に貢献してきたのは女色派である。それに比べて男色派は子孫を残せずまた家を保つこともままならぬではないか。大雑把に略すと、そういう反論である。この反論を滑稽であるとして一笑に付しておしまいにするのが、おそらく現代人であろうと想像するが、僕としてはそう馬鹿にはできない主張であると思われるのである(もっとも最終的には同意できないわけであるが)。というのも、今日の思想にも生殖の特権性を主張する言説が続いており、明示的黙示的を問わず、それが特に倫理問題の前提にもなっているほど根が深い問題だからである。

 

 和辻哲郎倫理学体系を打ち立てるにあたって、我々人間の日常的生の表現と了解の仕方を媒介として倫理の哲学的理解に向かう方法を選択したことはよく知られている。そして和辻にとってこの「生」とは、根源的に間柄において存在することを意味し、このような間柄とは自己・他者・世間の多義性を持つ「人間」の根本理法とされた。生の根源的な実践的行為連関は表現と了解において順次発展していく運動でもあり、このことは哲学的反省以前の人間存在の根本構造として駆動しているというのである。和辻倫理学の試みは、こうした人間存在の根本構造でありながらも同時にそれゆえに対自化されて理解されていないこの過程を解釈学的方法によって主題化するものである。そこで和辻の存在概念は、先ず「存在」という漢字表現が元来どのような意味を持っていたのかを明らかにするために、「存」と「在」の個々の意義を抽出することから始める。そのことによって、「存」という語の本来の意義は主体的自己把持、忘失に対する把持すなわち生存であり、「在」は主体がある場所に位置していることを指すことが確認される。すなわち「存在」とは、間柄としての主体の自己把持、端的に人間存在の本義たることが立論される。先の主体の位置する場とは、家族でもあれば村など世間であることもあり、このようないわば場所の階層的関係が人間存在の根本理法が実現されている諸段階に対応する結構をとるのが和辻倫理学の特徴の一つである。この場所の階層的関係が、二人結合としての夫婦にはじまり三人結合としての親子、そして順次その公共性の度合いが高まるという構成をとるので、家族、親族、地縁共同体、経済組織、文化共同体、国家といった人倫的組織の階層において全体が捉えられることになる。

 

 和辻において家族は、二人共同としての夫婦、三人共同としての親子、同胞共同としての兄弟姉妹から構成される。「家」については、屋根と壁により外部と画された内部空間であって、この内部空間は人々に休息をもたらす場でもある。また、竃をめぐる広い空間と睡眠のための狭い空間に仕切られ、竃をめぐる生活は食物を調理してそれをともに食うことにおいて生命と家政そして財の再生産を共同する場としての人倫的組織の最も基礎的単位を形成する存在にとって根本的な位置づけがなされるというわけである。生命と財の再生産を共同する場としての「家」。この発想に異性愛を当然の前提とし、また一夫一婦制を基礎とした近代的家族像と封建的家族像の残滓との野合としての家族主義的イデオロギーを嗅ぎ取り、それを家族制度解体の立場から糾弾する類の主張には興味は沸かない。喫緊の課題として、現在の家族制度が殊更悪い制度であるのだから改善すべき問題の一つをなしているとも思わない。小津安二郎ではないが、夫婦とは「お茶漬けの味」である、また同様に家族も「お茶漬けの味」であるという塩梅に思っておけばそれで済む話であって、何も角を生やした顰めっ面して口角泡を飛ばして絶叫するほどのことではない。それどころか、持論を絶対の立場におきつつ既存の秩序に波風立てて撹乱することや、「泥中の蓮」(小津安二郎野田高梧の言葉で、混濁した世の中において慎ましくも品を失わずに日々の暮らしを営んでいる者たちといった意味だろう)に泥を被せるが如き真似をしたところで、それが人々の幸福に繋がるとは必ずしも言えない。のみならず、より多くの不幸をこそ招き寄せることにしかならないということは、柳田国男の『木綿以前の事』がよく教えてくれるところでもある。

 

 ただ、日本社会において長くみられた男色を和辻倫理学の中に位置づけるとすればどういうものに仕上がるのか。ともすれば和辻倫理学体系を自壊させるだけのトロイの木馬となるのか。それとも、すんなりその体系の磁場に吸引されてしまうものなのか。 小堀桂一郎和辻哲郎と昭和の悲劇』(PHP新書)は、戦前・戦後を通じて時局に便乗して変節することなく日本の文化・伝統を固守せんとした知識人としての和辻哲郎を取り上げ、対照的に折口信夫鈴木大拙をまるで「マッカーサー草案」の内容を事前に聞きつけそれにあわせるかのごとく自説を変更したかつての憲法学者宮澤俊義のような変節漢であると言わんばかりに描き出している。本書の言わんとすることは、小堀桂一郎のいつもの主張なので一々強調するまでもない。小堀桂一郎の他の著作にも当てはまるように、知識人や政治家に仮託させて自身の政治的主張を展開するというもので、その硬質な文体とは逆にさして重要な内容が綴られているわけではなく、ごく普通の右派的な言説が羅列されるばかりである(もっとも、小堀桂一郎の若い頃の研究、例えば『若き日の森鴎外』(東京大学出版会)は、谷澤永一『雉も鳴かずば』(五月書房)による批判を是としてもなお、すぐれた比較文学の研究書である)。和辻哲郎のテクストを仔細に読み込み、その倫理学の思考について検討していくというような内容はほぼ皆無で、ひたすら日本文化の伝統の守護者としての描像が示されている。和辻哲郎が変節していないかは再検討してみなければならないことであって、小堀桂一郎がみるように現実の和辻が節を曲げていないといえるのかについては疑わしい点がある。子安宣邦が指摘しているように、和辻哲郎はその主著である『倫理学』(岩波書店)を戦後に改版する際、自身に都合の悪い文言のいくつかをこっそりとすり替えるなどしているからである。更には、和辻哲郎の日本の文化・伝統についての造詣は、その全ての点において必ずしも正解な理解に基づいていたとまでは言えない面もあり、一知半解のまま観念的に捏造された描像に仕立て上げられている側面も多々ある。そういった問題も抱えていた和辻哲郎であるが、その主著『倫理学』が畢生の大作であり、近代日本の哲学的思惟を代表するテクストの一つであることに異論を挟むものは、いたとしてもごく少数でしかないだろう。それほどまでに和辻哲郎は日本近代における倫理学の一つの系譜の起点ともなった日本を代表する倫理学者であった。そして、熊野純彦が『和辻哲郎文人哲学者の軌跡』(岩波新書)で描いているように、和辻の思考はあくまで日常の生活の襞に入りながらそこから倫理を昇華させていき、これまでの規範倫理やメタ倫理では触れられなかった一側面に光をあてる貴重な試みであることは確かで、ともすれば現状の肯定に終始し、それゆえに規範性が導けない構造になっている和辻倫理学の欠点があるとしてもなお、その魅力が色褪せることはない。しかしながら、和辻哲郎が前提にしている家族共同体から国家共同体への連続性はそう自明なことではなく、のみならず、そうした連続性の前提は、ある抑圧の上に成り立っている虚像でしかない可能性だってある。伝統的な家族共同体の描像は伝統的なそれとはズレがあって、明治後期から大正期に形成されてきたブルジョアのモデルファミリーを投影したものでしかない可能性だってある。その意味では、小堀桂一郎が批判する大正教養主義に典型的に現れる「大正的なもの」を小堀が称揚する和辻哲郎自身が体現していないとも限らないのである。この「大正的なもの」とは、『近代日本の批評Ⅲ』(講談社文芸文庫)に収録されている蓮實重彦の論文「『大正的』言説と批評」で述べられているように、言葉や概念に対する分析・記述を欠いた抽象的イメージが納得の風土の只中で流通し、にもかかわらず「標語」を交わすだけで人々が「わかったつもり」になっている状況において際立つ特徴であり、蓮實重彦生田長江らに現れる「大正的なもの」から辛うじて逃れているごく少数の者として柳田国男折口信夫の2人を取り上げていたはずである。蓮實重彦から言わせれば、むしろ和辻哲郎の言説の方が「大正的なもの」の圏域に収まっていることになるはずだが、小堀は蓮實と真逆の評価を下している。和辻が我が国の文化・伝統に精通しているのなら、『倫理学』の想定する家族共同体が一面的に過ぎることぐらいは承知していたはずである。日本には外国に比べても豊富な男色の歴史がある。古くは寺社や貴族の社会から武士道華やかなりし戦国の世は、男色が武士の中では当然の慣わしでもあった。織田信長森蘭丸武田信玄高坂弾正などの関係は恋文まで残されているほどである。伊達政宗が浮気を疑ったことを詫びる書簡すら残っている。江戸期の文治政治に移行してもなお若衆宿があって、吉原の女郎よりも高い銭を出さねば性行為できなかったほど人気を博した。奇抜な傾奇者の恰好をして街中を暴れまわった旗本奴や町奴などの不良が集まる愚連隊は、夜は互いの肉体を愛撫する関係が周知の事実となるに至り、風紀紊乱を諌めたい幕府上層部を悩ましていたし、幕末の若い志士達の間でも男色行為が散見された。山本常朝の『葉隠』も主君への愛を伴う忠義の道のみならず荒々しい若武者へのほとんど同性愛ともいえる愛の視線に満ち溢れた書物といえる。こうした事実を和辻が知らなかったわけあるまい。和辻倫理学の最大の特徴と思われることは、そのオンティッシュな記述がオントロギッシュな分析にほとんど地続きになっており、事実の記述が即規範の分析にとって代わっているように見受けられることである。これを規範倫理としてみた場合、まるで現状全面肯定の倫理学と見間違えてしまいそうになるわけである。和辻倫理学体系にとって、この男色の歴史は「獅子身中の虫」かもしれないのである。

 

「快楽の動作をつづけながら形而上学について考えること、精神の機能に熱中すること、それは決して下等なたのしみではないだろう。いくぶん滑稽ではあるが、それは大人むきのやりかたというものだろう。南靖男はかれの若わかしい筋肉となめらかな皮膚のすべてを快楽のあぶらにじっとりひたしながら、そして力をこめてかれの愛するものの柔かい体、脂肪にみたされた汗まみれの中年の女の体を愛撫しながら、孤独な思考に頭をゆだねていた」。

 

 上の文章は、大江健三郎『われらの時代』の冒頭の一節だ。大江健三郎の初期作品の中でも、『飼育』や『芽むしり仔撃ち』(『芽むしり仔撃ち』は大傑作であること言うまでもないけど)とは違って、あまり評判芳しくなかったらしい作品。キース・ヴィンセントが雑誌『批評空間』に寄稿した論文「大江健三郎三島由紀夫の作品におけるホモファシズムとその不満」でも触れていたが、この『われらの時代』や『セブンティーン』の中に見られる潜在的同性愛とファシズムの関係は、ヴィスコンティの映画『地獄に堕ちた勇者ども』での突撃隊内の同性愛行為の描写ほど直接的ではないにせよ、同性愛と暴力性との密な関係を眼前に浮上させる力を持つ。中上健次『異族』のタツヤ率いる右翼結社皇統会と彼を慕う暴走族の少年らが、方や街宣車で大音量の軍歌を流し方や単車のコールを鳴り響かせて公道を我が物顔で占拠する光景を思い浮かべながら興奮している様は、直接的な表現ではないにせよ、同性愛と暴力性との密な関係を暗示しもする。冒頭の靖男含む《不幸な若者たち》の暴力性にその仲間であり在日コリアンであるところの男が勃起する様子が描かれる。僕は、このファシストならぬ「ファシスト予備軍」ともいえる無軌道な集団が嫌いになれない。

 

 それはともかく、セックスしながら形而上学なり倫理学なりについて考えてみればいい。もちろん、その相手は異性であろうと同性であろうと無関係。例えばカントの『道徳形而上学原論』なり『実践理性批判』なりを、男とやるときでも女とやるときでも構わないが読んでみる。「知の快楽」だの何だのと御託を並べる前に、肉体の快楽に身を委ねつつ、行為の合間合間に読んでは思索を書き付けるのもよし。いかにカントがサディストであるかが理解できる。また読んでは思索を書き付けてみればいい。カントの義務論とトマス・アクイナスの幸福論を対比すると面白い。ちなみにカントはギスギスの痩せ男であったのに対して、トマスは真逆のデブ。あまりの巨体ゆえに仕事のために使用していた机や食卓用の机は、出っ張った腹がおさまるようにと一部が削り取られていたともいう。カントは、雨の日も風の日もであったのかは知らないが、ともかく律儀に日々の行動も制御して生真面目に義務の遂行として執筆に取り組んだ。他方トマスはエピファニーの瞬間を体験したことをきっかけに、大著『神学大全』の口述をバッタリやめてしまった。1273年のことだそうである。ミサ聖祭の最中に強烈な恍惚感を得たことがきっかけだったという。あの時感じた恍惚感に比べて俺の書いてることなんかとるに足らんことだと思ったそうだ。もちろんトマスの感じた恍惚感は、セックスの快感とは違うと言う人もいようが、僕はカトリック教徒ではないのでミサでの恍惚感など感じようがない。幸福感につつまれることに高い価値を置くカトリックからすれば、トマスの行為は喜ばしいことだ。対してカントからすれば、トマスの行為は義務からの逸脱としてあるべからざる行為となる。もっとも、カトリックが幸福感に包まれることに高い価値を措くといっても、そこには価値体系の序列が存在し、男同士の性行為全般はsinfulな行為として唾棄されるべき行為となる。前ローマ教皇である第265代ベネディクト16世は、「同性婚は人類の脅威」と述べたように、同性愛はあくまでもsinful=罪深いのである。ラッティンガーが枢機卿の頃から教皇庁教理省長官としてバチカンで異端審問官として引き締めに尽力した保守強硬派であることを差し引いても、カトリックは最も頑強な倫理的保守派であり、我が国本来の道徳風土から最もかけ離れている。

 

 乱交しながら思索もし、セックスに興じながら倫理について考え、ドラッグきめてテンションアゲアゲで哲学し、暴走しながら狂暴な思索を脳内に充満させる。何も落ち着き払った風情で机にかじりつきながら生真面目な態度でお行儀よく思考しなければならない理由などあるまい。アル中状態で『意味の論理学』を書いたと言われるドゥルーズ、コカインの使いすぎで鼻血垂らしながら『古代研究』を書いた折口信夫祇園向島で芸妓遊びして『「いき」の構造』を書いた九鬼周蔵。いずれも生真面目な講壇からは決して生まれなかったであろう思考の結晶だ。野蛮な暴力がむき出しのパンクな書物、快感に身体を震わせながら今にもイキそうなビンビンに勃起した状態で書かれた書物。ドラッグによる幻覚だろうが構いやしない。神の観想による恍惚感であろうと、性行為の絶頂感であろうと、ドラッグによる万能感であろうと、快楽であることに変わりない。そこに質の違いが全くないとは言わない。しかし現代はことさらそこに価値の序列を持ち込み過ぎている。その結果、忌み嫌われているものの持つ快楽の強度を正当に見る目が曇らされている。ちなみに僕はドラッグ解禁論者であるし、売買春合法化論者である。道徳主義的画一化によって快楽を否定する人間の隷従化に反対し、人の心の赴くに任せる惟神道を進むべし。制度化された自由でしかないリベラリズムの虚飾を否定し、やりたいようにやる自由があった神代の精神を取り戻すこと。吉田松陰ではないが、もっと人は狂わなければならないのだ。

京都という場と学知

 桜の季節も終わり花見客も消えたとはいえ、いまだ朝から夜半まで国内外からの観光客が絶えない様子の京都についてテレビで報じられていたが、桜の季節が終わっても次は大型連休や修学旅行の時期がやってくるから、京都の喧騒はしばらく止みそうにないだろう。東京に生まれ育った者であるからこそ抱いている京都への憧憬の中にあるイメージと齟齬が出始めている実態を、観光客の激増による経済的豊かさとのトレードオフとして半ば諦めねばならないのかと思うと残念でならない。ただでさえ混み入った街であるので、自家用車で行くのは明らかに愚かな選択だろう。さりとて、私鉄や地下鉄あるいはバスといった公共交通機関を利用しようにも限界がある。地下鉄にしても路線数の多い東京や大阪と違って、京都には南北に走る烏丸線と東西に走る東西線の二本だけしかない。市内を走る路面電車である嵐電叡電もあるが、前者は四条大宮から嵐山まで(北野白梅町から帷子ノ辻までの区間もあるが)、後者は出町柳から鞍馬や八瀬方面に走っているだけで、情趣ある電車ではあっても利便性の点では使えない。JRにしても阪急京都線にしても京阪本線鴨東線にしても京都と大阪を結ぶのがメインであって、市内めぐりには使えない。京都市営バスや京都バスなどが網の目のように市内に張り巡らされているが、車内は観光客で混雑し、また交通渋滞に巻き込まれるやほとんど身動きがとれず、一日で数か所周ろうと思うなら絶望的な状況となる。だからバスに頼るのも問題で、そんなときに重宝するのがレンタサイクルだ。幸い、京都は東山や北山の一部が坂道が多いくらいで(清水寺南禅寺などに行く際は上り坂が控えることになる)、残りは平地が多い。強いて言っても、北山方面に向かう際に緩やかな上り坂になっている程度だ。アップダウンの激しい東京の街に比べれば総じて平坦な道ばかりと言ってよい。しかも、京都市街地は、東京や大阪などの都市の市街地に比べて格段に狭い。

 

 そんな狭い市街地しかない京都市の人口の約1割は、大学生・大学院生・専門学校生などの学生で占められている。各キャンパスが町中に点在するオックスフォードのような大学町といった感じか。また学者や文化人も多く京都に住んでいるので、異分野の交流が東京に比べても盛んで、それが「共同研究」に結実したりもしている。そんな事情も伝ってかは知らないが、京都からは独創的な研究が出されているのだと何かの本で目にしたことがある。もちろん、実際のところはわからないし、現在もそうなのかもわからない。少なくともかつては京都から独創的な研究が出ているし、先端企業が京都に多いことから見ても、新しいものを生み出すことと、この京都の風土との間に何らかの関係が存するのではないかと想像することができる。京都に対して持つイメージは、長い歴史に培われた伝統と新しいものとが邂逅することで緊張を生み出され、そこから様々な独創的な文化が産出され、またそれが次第に堆積していくに連れて洗練度と成熟度を増していく文化伝統を形作ってきた町というものだ。人・モノ・カネそして情報ばかりがただ単に忙しなく集約され、各々が忙しなく流通しているだけでは、真に創造的なものは生み出されはしない。そこでは、人は生真面目になるのが唯一の取り柄となるからだ。「忙しなさ」・「生真面目さ」は何も生み出しやしないのである。

 

 かつての京都大学理学部の知的伝統・学風は東京大学のそれとは違う。最近は、京大の独自色はなくなってきつつあり「第二東京大学」化しているのかもしれないが、湯川秀樹朝永振一郎坂田昌一や林忠四郎などの独創的な理論的貢献をした理論物理学者や岡潔森重文、廣中平祐のような純粋数学者あるいは岡田節人や木村資生のような生物学者本庶佑利根川進山中伸弥といった生命科学者などなど輝かしい学者を生んできた大学だ。京都大学数理解析研究所は、東大出身の佐藤幹夫によって主導されて今日のような姿になったが、佐藤の弟子の柏原正樹をはじめとする「佐藤スクール」の面々やら望月新一などが集う名実ともに日本一の陣容を誇る研究機関になっている。そうそう、僕の仕事に直結する伊藤清も確かここのメンバーであったはず。戦前の西田幾多郎田辺元、九鬼周蔵に和辻哲郎、戸坂潤に三木清といった日本の哲学の代表者からなる「京都学派」や戦後の京都大学人文科学研究所を中心とした「新京都学派」にしても、それぞれ問題を抱えつつも、東大には為しがたい結果を残してきた。と言ってしまうと、学問すべてに関してと誤解されるかもしれないので、一言断りを入れておくと、理論物理学純粋数学あるいは哲学などの基礎学問をするには、京都という場所は最も相応しい場所ではないかということである。これら長いタイムスパンで「待つ」ことを要する基礎的な学問にとって、「忙しなさ」は最も忌むべき敵であるからだ。逆に、国家運営を間違いの少ないよう取り計らっていかねばならないとの要請から設けられた東京大学法学部は、政府中枢機関が集まる場所になければならないのかもしれない。明治期以来、官僚養成機関としての役割を担わされてきたのだから仕方がない。対して、京都大学法学部は東京大学法学部とは別の役割を担うべきだし、実際に京都帝国大学が設立された当初はそう意気込んでいたという(潮木守一『京都帝国大学の挑戦』(講談社学術文庫)には、東京帝国大学法科の授業風景を「湯呑」を抱えた学生に教授がお湯を注いでいくだけの風景に例える揶揄が紹介されている。戦後の体制も変わらない。現在は文科一類の入学定員を若干削減したから多少はマシにもなっているが、基本的には法文一号館25番教室での講義風景は相変わらずである。その中でもマシだったのが藤原帰一教授の講義だった。大講義室での講義ながらも創意工夫の甲斐あって人気していたことは確か。とはいえ、僕は藤原帰一の考えに同調はしないし、むしろ藤原帰一のような「リベラル」は僕にとっての敵である。しかし公平に言って藤原帰一の講義は上手かったのは確か)。しかしながら、今の京大法学部はどうかというと、正直言って「ミニ東大法学部」化してしまっているらしい。

 

 文化の成熟度合では逆立ちしても京都に敵いっこない東京であっても、逆に京都にはない特色を生かせばよいものを、どうも己の文化的貧困を自覚していそうにない。のみならず、文化的中心とばかりに居丈高になっている滑稽に気づきもしない。ファストフードしか食べたことのない者が食通を自称しているようなものだ(事実、本来の東京の食文化は貧しい。ほとんどはよそからの借り物なのだ。さしあたり現在のロンドンのようなものかもしれない。今でこそロンドンには美味い店があるけど、どうも一昔前はとても食えたものではなかったらしい)。しかしファスト・フードにはファスト・フードの、「にせもの」には「にせもの」の輝きとでもいうべきものが東京にはあって、逆に京都にはそうした「にせもの」の光学が欠けているとも言える。かつて市川崑監督によって映画化された谷崎潤一郎細雪』の蒔岡四姉妹の長女鶴子演じる岸恵子が言った「うちは、京都より東へは出たことあらしまへん」という台詞に現れた上方文化に対する強烈な自負に反対するわけではないが、「いや、そうはいっても東京には『にせもの』の持つ怪しい輝きもあるのですよ」と思わずつぶやいてしまう自分もいる。こういうと、「今はホンモノ/ニセモノの区別が無化された時代だ」などと、シミュラークルがどうのこうの、複製技術時代がうんたらかんたらと訳知り顔でそれらの理論を曲解して主張する者が出てきそうだが、よほどのバカでない限り区別ぐらいはつく。野々村仁清の京焼と二束三文の瀬戸物との違いぐらいは、いくら感性が磨滅した者であろうと見分けることはできるし、良寛様の残された書とそこらの落書も全く違う。問題は、区別が無化したなどというバカな話ではなく、ニセモノの方にもニセモノとしての輝きを示すこともあるのだということ。ニセモノだからといって無価値であるわけでは必ずしもないということだ。基礎学問をするには京都こそ相応しいという信念を持ちつつも、個人的には嵯峨野の奥やら大原あたりに庵を構え、思い立ったら気軽に市街地に出るというのがいいかもしれない。冬の京都は底冷えするらしいが、ニューヨークやシカゴの真冬だって更に底冷えする寒さだ。僕の勤務先のヘッドクオーターたちは、ニューヨークから鉄道で一時間ほど離れたところのコネチカット州グリニッジに居を構え、お気楽生活を営んでいるようだが、なるほどこの丘陵地帯は、ニューヨークの喧騒とは無縁の環境で時間もゆったりと流れているように思える。数学・物理学のPh.D持ちの密度にかけては異様に高いのである。

 

 日本において「京都」という場は、とりわけ知的シーンにおいて、昔ほどではないにせよ、ある種の「特権的な場」であり続けている。ある意味、浅田彰も京大人文研の所員を中心に構成された緩やかなサークルの末席にいたとも言えるわけで、実際、共同研究である上山春平編『ルソー研究』の執筆者に含まれていたように記憶する。学者としてのコアな研究業績の面から見ると「業績ほぼ皆無」に近い浅田彰がある種の「ステータス」を確立できたのも、京都という土地の持つ「特権性」と無縁とは言いきれない。もちろん、学者としての「業績ほぼ皆無」ということで浅田を貶めたいという意図は微塵もない。むしろ博覧強記な知識人としての性格が際立つという点を指摘したいだけである。「余裕の人」としての知識人の存在が今やほとんどいなくなった中で、浅田彰の存在は、たとえその言説に同意できない点が多々あろうとも、貴重な存在であることに変わりないからだ。知識人は著作を多く残せばいいというものでもないし、学問に対する見識は必要であっても学究肌である必要まではない。研究者=知識人というわけでは必ずしもない。かつて博覧強記でならした「百科全書派」的知識人として知られた林達夫は、その圧倒的な教養に比して寡作であることで有名だった。インプットとアウトプットの異常なまでの非対称が顕著だった林達夫のような大教養人は林の他にも存在し、また世間もそんな「余裕の人」たる知識人の存在を受け入れ、更には敬意をもって遇してもいたのである。『思想のドラマトゥルギー』(平凡社)での対談相手である久野収も主著と呼べる著作は残さず、その活躍の場は主として対談であったり、谷沢永一『悪魔の思想-進歩的文化人という名の国賊12人』(クレスト社)が一章分割いた「『進歩的インテリ』を自称する道化・久野収への告発状」という箇所において雑誌『思想』の編集顧問について影響力を発揮した「左翼ジャーナリズムの奥の院」と揶揄した通り(谷沢永一のこの書は愚にもつかないクズ本の類なのだが、中川八洋『正統の哲学・異端の思想-「人権」「平等」「民主」の禍毒』(徳間書店)や『保守主義の哲学-知の巨星たちは何を語ったか』(PHP)などと同様、ある程度勉強した者がその記載の「間違い探し」に利用するなどしてみるとよいかもしれない。まあ間違いチェックの朱字だらけになるけど)、様々な媒体の編集に携わったりするばかりで、体系的な学問研究の業績を残したわけではなかった。しかし久野収は、そこらの研究者とは桁違いの正に博覧強記という言葉が相応しい教養人だった。その意味で浅田彰も、狭義の京都学派には属さないものの、林達夫久野収といった「余裕の人」としての京都系教養人の系譜に位置づけられるかもしれない。

 

 一時的に流行した「新京都学派」の代表的学者の梅棹忠夫による「文明の生態史観」は、今から見ると実証性に乏しい学説に思われるが、その発想は極めてユニークだった。梅棹生態史観は批判を受けつつその内容を変化させていったところもあるが、少なくともこれを好意的に読んだ人の中には、講座派マルクス主義史観が席巻していた当時の歴史学界を反映して特にアカデミズムにおいて広まっていた唯物史観への対抗理論を期待した人も多かったと聞く。実際、生態史観が提起された当初、「日本主義イデオロギーを喧伝する悪しき学説」と悪し様に罵る批判も現れ、マルクス主義陣営から寄せられる批判に対応するかたちで、生態史観は梅棹のみならず上山春平など周囲の者らの協力によって彫逐されていった過程が読み取れる。水準は相当落ちるが、例えば谷沢永一『人間通でなければ生きられない』(PHP文庫)が梅棹生態史観を紹介する際に「マルクス主義の誤りを的確に指摘した英傑」であるかのように嬉々として描いているわけである。そこに対マルクス主義理論を見た人々が多かった理由は、生態史観の持つ極めて特徴的な性格に起因している。梅棹生態史観の特徴は、多くの文明論に見られる「東洋と西洋」という区分とは異なる枠組みを持ち出している。西欧及び日本を「第一地域」とし、それ以外の領域を「第二地域」とに分け、この両地域が「第一地域」の内部同士あるいは「第二地域」の内部同士でそれぞれ並行的進化の過程を経てきたことを述べた上で、この相違と内部的関係における並行的進化を「遷移」という生態学的現象についての知見に帰着させて説明したという点である。これが何ゆえマルクス主義における唯物史観への対抗理論として受け取られたかといえば、マルクス主義は人類の発展過程は単系発展の過程であるとみなしているのに対して生態史観は多系発展過程を対置したという点、そして唯物史観では歴史的分析の視軸を経済的生産関係に基づかしめるのに対して、生態史観は生物学的主体環境関係に基づいて歴史を分析する視点を対置した点に由来していた。

 

 生態史観は、その理論的不備も目立つことを差し引いても、当時流布していた唯物史観への対抗言説としては十分魅力的に写ったであろうことは想像に難くないことだし、旧ソ連の公認学説とさしてたがわぬ理論を科学的社会主義と奉じている集団による哲学的著作が存在している状況の「毒消し」として、その理論的価値は失われていない。もちろん、梅棹生態史観が現在の理論水準において何ら修正なしに維持できるものではないことは言うまでもない。旧ソ連公認のマルクス主義(「正統派」マルクス主義ないしはマルクス・レーニン主義)によると、マルクス主義哲学は弁証法唯物論に帰するのであり、この弁証法唯物論を自然現象に適用したところの「自然弁証法」と、社会現象に適用したところの「史的唯物論」とに分けることができるという。史的唯物論は、弁証法唯物論の見地から人間社会の構造と発展を歴史的に把握する哲学上の立場であり、それは社会現象を物質的なものと観念的なものとに分け、前者を経済現象に後者をイデオロギー現象に見た上で、観念的なるものとしてのイデオロギー現象は物質的なものたる経済的土台に規定される上部構造と位置づける。そして物質的なるものと観念的なるものとは作用と反作用の唯物弁証法的関係を有するとし、物質的なるものは生成・変化・発展(量的発展・質的発展・新たな生成)・死滅の自律的かつ唯物弁証法的運動を歴史的に展開するという論理を持つ一方で、観念的なるものは物質的なるものの自律的かつ唯物弁証法的運動への規定性を孕みつつ生成・変化・発展・死滅の相対的独立的な唯物弁証法的運動を歴史的に展開するものと把握する。この史的唯物論による社会現象の弁証法的把握は、したがって、当該社会現象を一定の構成要素の相互必然関係に基づく構成体として認識することになるわけだが、社会現象を固定的なものとして認識するのではなくして、対立物の統一と闘争の法則、量から質への転化の法則、否定の否定の法則という弁証法3原則を適用して、客観的運動過程として把握する。このような観点から、歴史は客観的実在の発展過程として把握されることになるので、人間の歴史は人類の客観的発展過程として認識されるというわけである。人類社会の発展過程は、経済的土台とそれに規定される上部構造との統一体としての社会構成体(Gesellschaftsformation)の発展的順次交代過程を形作ることになる。すなわち原始共産制的社会構成体から奴隷制的社会構成体へ、そこから封建制的社会構成体を経て資本制的社会構成体へと順次移行発展していくものと把握し、さらに資本制的社会構成体から社会主義的社会構成体に、最終的な発展形態としての共産主義的社会構成体に至るというストーリーである。もちろん、これがマルクスのテクストから直接帰結するのかどうかは怪しい。ただ少なくともエンゲルスレーニンのテクストから得られる内容を基にして、いわば多くのマルクス主義者の公式見解として世上に流布されていた唯物史観なるものは上記のような単純な図式にすっぽりおさまるものであった。

 

 生態史観は、このような単純な歴史理解に対するアンチテーゼとして受容された。これが実証に裏づけられた現実的妥当性を持つ理論であるか否かというよりも、こうした大胆な学説が生い立つ知的土壌が京都という場と無関係ではないだろうというのが、僕の仮説なのである。

 

偶然性の倫理Ⅱ

 ヒュームが因果的相関を時間に関係させて捉えていたことは、よく知られている。ヒュームは、「原因」について『人性論Treatise』で次のように特徴づけている。

 

...an object precedent and contiguous to another, and where all the objects resembling the former are placed in like relations of precedence and contiguity to those objects that resemble the latter...C causes E if and only if every event like C immediately precedes an event like E.

 

原因と結果の区別における規約主義的解釈に基づくこの主張は、伝統的には以下のような批判に晒されてきた。一つは、原因と結果が必ずしも近接することは要しないこと。二つは、異なるタイプの出来事の偶然的相関を排除しきれていないこと。三つは、何かの結果の原因であるために、ある結果が恒常的に連接することまでは含意しないこと。そこで、このヒュームの「原因」についての説明はポパーやヘンペルによって修正が加えられてきた。ここではそれが主題ではないのでこれ以上触れないが、いずれにせよヒュームは、因果相関は恒常的連接に基づくものであってそれ以上の根拠に支えられたものではないので、因果的法則の一般的定立はなお懐疑に晒されたままであるという、後の科学哲学における「帰納の問題」を提起もした。

 

 そういう事情もあって、ヒュームは因果関係の必然性を否定したかのような俗説が現在もなお流通している。中には知覚連合の恒常的連接や帰納的証明への懐疑の議論に基づく認識論的懐疑主義を飛躍させて、世界の出来事の間の関係には必然性はなく偶然的なものであるとして存在論的議論にまで拡張する解釈もあるが、こういった解釈はヒュームが世界について決定論者であったという事実の等閑視に基づくものである。例えば、平倉圭ゴダール的方法』(インスクリプト)における「世界のヒューム化」という表現は、それが存在論のレヴェルで用いられるとするならば、ことヒューム解釈としては誤りだろう。同じく千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)の「ヒューム主義」の存在論的拡張も、ヒューム哲学の解釈として牽強付会の感なきにしも非ずだ。もっとも、両者の優れた論考はヒューム哲学の厳密な解釈を展開する趣旨ではないのだから、そのことで両者の論考の価値が棄損されるわけではない。ただ、多分に誤解を招きかねない表現なので、それに相応しい表現が他になかったのか若干疑問が残るというのが率直な感想だ。もっとも千葉のドゥルーズ論は、ドゥルーズの思考の持つ二つの両極端に見える契機を取り出し、一方のベルグソン主義という連続性の思考と他方のヒューム主義という離散性の思考との緊張を際立たせた上で後者の側に戦略的に肩入れする方法論を選択したので、(ヒューム論も残しているドゥルーズであっただけに)そのような命名をしたのもやむを得ないのかもしれない。Philosophical Essays Concerning Human Understandingには以下のような記述がある。

 

Though there be no such thing as Chance in the world; our ignorance of real cause of any event has the same influence on the understanding, and begets a like spicies of belief or opinion. 

 

ヒュームが世界の中には偶然というものはないと言うとき、そこでヒュームが否定したことは、自然ないしは世界の根本のレヴェルにおいて確率あるいは偶然が介入しているとする主張である。そうすると、ヒュームがラプラス決定論を採っていたということがはっきりする。主観的な信念の度合いに絡むcredenceは認めても世界の客観的な様相に絡むchanceは認めないというのが、ヒュームが採った見解だ。偶然や確率が入り込むのは無知からくる我々の信念の不確実性ゆえであり、この点でヒュームはドナルド・ギリースが確率概念をいくつかに分類したものの一つである古典的確率論の立場にあるラプラス『確率の哲学的試論』(岩波文庫)の立場と同じである。決して世界の側に偶然性を認める議論ではないのだから、ヒュームの認識論的議論を安易に存在論的議論に拡張適用することができないのは明らかである。

 

 哲学者もまた物理学者も、世界の側に偶然が介入することを恐れてきた。だからこそ、古典論的世界観の劇的な転換を要求することになった量子力学の登場が存在論に動揺を走らせもしたのたのである。波動関数の「波動」とは、三次元空間を満たす媒質の振動の伝播という意味での実在の波動を指すものではなく、対象の状態を表す物理量の測定値がどのような確率で得られるかを表現する「確率波」を意味する。確率計算の公式が振幅と位相を持つ「波動」によって表現されることが量子論の統計的解釈の基礎にあり、シュレーディンガー波動力学にある波動関数とハイゼンベルグ行列力学の遷移確率の計算アルゴリズム間の数学的同等性に物理的意味を付与したのがボルンが提示した「確率波」の概念であり、これが量子力学の標準的解釈として定着してきた。この解釈は、ハイゼンベルグが述べる通り、粒子性と波動性の相補性を現実態と可能態の様相的区別として表現する。ミクロな物理の対象の観測は、可能態から現実態への不可逆的移行であるが、この移行は、同一の波動関数によって表示されるミクロな物理的対象の測定が同一の測定値を与えるとは限らないという意味で非因果的過程である。多くの可能性の中でなぜ特定のこの可能性が現実化したかについては理由を与えることができず偶然というよりほかない。この点で充足理由律の制限が起こっている。エヴェレット流の多世界解釈が生まれた背景の一つとして、世界に偶然が介入することへの疑念があったわけだし、アインシュタインがあれほどまでに量子力学は間違ってはいないが未だ不完全な理論にとどまると頑固なまでに拘ったのも、世界がいかに存在するかは我々の観測行為に依存することなどなく客観的に確定しており、物理学の目的は我々と独立な実在を言語(数学的言語を含む)によって正しくかつ完全に表現することであるという古典的な実在論的立場からすれば(『シェイキーゲーム』のアーサー、ファインからは異論もありそうかな?)、量子論の記述は不完全であって同一の波動関数には異なる実在が対応しているにのに量子論はそれを十分に記述していないのではないかという疑問に基づくものであった。ちなみに門外漢としての感想を言うならば、たとえエヴェレット流の多世界解釈に依ったとしても、確率を理論体系から排除することはできないだろう。コペンハーゲン解釈における可能性の現実化という意味での波束の収縮は量子論の数学的定式を観測によって得られた統計的データと結合するとき使用されるメタ言語の中で言及されるに過ぎず、対象言語としての数学的定式においては語らないという不都合があるわけだが、そうした不都合を避けられる古典論の延長として量子論を捉える路線をとるにせよ、確率を排除することはできない。もちろん、その際の確率の意味は、古典的確率論でもなければ頻度主義的確率論でもなければ論理的確率論でもない。さらには主観的確率論でも傾向的確率論でもなく、エヴェレット的確率論という以外の言葉が見つからないような別の概念となろうが。科学哲学者、物理学者、数学者が積み上げてきた膨大な蓄積を誇る量子力学の解釈問題という泥沼に嵌るつもりもなく、門外漢が出るようなジャンルでもないので、これ以上の言及は控えたい。

 

 というよりも、趣旨はそこに非ず(ウイスキーを飲みながら酔いに任せて書いているものだから、めちゃくちゃになっているかもしんないが)。偶然性の問題を存在論形而上学のレヴェルで論じるのは、以前も述べた通り、かなり困難な道だということだ。利用可能な概念装置が整っていないからだ。前々から言っているように、社会存在論や倫理の土俵に移して、しかも厄介な形而上学抜きの倫理、形而上学抜きの社会存在論を語る方途を探る方が今のところ建設的な議論ができる。というのも、世界内のもののイメージを分析・理解の補助手段として用いることが容易だからである。一時期、爆発的な勢いで世界各国を動揺させたISILは「カリフ制を再興する」という目的を掲げて誕生し、スンニ派の中のサラウィー主義に立脚するバグダーディーは、自らを「カリフ」と称し強権的な支配体制を勢力下の地域に敷いていた。もっとも、イスラーム「国」と言ってもバグダーディ―が目指していたのはウェストファリア体制下の領域国家としての国ではなかった。それどころか、ウェストファリア体制そのものに否を突き付ける運動体という性格が顕著であったとさえ言える。その意味でISILは、他のムスリム国家をも含めた全世界の領域国家を敵に回していた。すなわち、一定の空間的領域を囲い込み、その領域内に属する者と属しない者とを選別し、領域内の者のみが利益を享受する体制そのものに異議申し立てしたわけである。全領域国家を敵に回したISILは、それゆえに全領域国家の逆鱗に触れた廉で早番叩き潰される運命にあった。

 

 イスラームは、そもそも人種や文化あるいは国籍に関係なく、唯一神アッラーに服属する「奴隷」の共同体なのであって、中田考『カリフ制再興』が述べている通り、空間的領域での絶対者たる主権者などという観念とは本質的に相容れない。いかなる空間も唯一神アッラーのものであって、主権者などいう西欧由来の人定法に基づく観念が入る余地などない。「人権」にしても「民主主義」にしても、西欧の市民革命由来の観念であって、その内実は普遍主義の装いだけを整えるだけで実際は特殊性の域にとどまっている。一定の領域に囲い込まれた者だけがその恩恵を享受し、排除された民には国家の保護はない。近代国民国家は、集権化による多元的秩序の解体によって生み出された均質化された個人を「国民」に編入させることで新たな社会秩序を構築した。ISILの闘争は、イスラーム的普遍主義と領域国民国家の特殊性との対立という側面を持っていた(だからといってISILを肯定するわけにはいかないのは当たり前である)。 

 

 本来イスラームが持つある種の普遍主義的思想は、井筒俊彦『神秘哲学』によると、イスラーム哲学に由来するらしい。中でもスーフィズムにつながる哲学の特質は、「存在一元論」ともいうべき独特の存在論にあるという。イブン・アラビーは、宇宙の森羅万象は「存在」の創造物でありかつ「存在」そのものであって、超越的絶対者は「存在」以外にはありえないとする。逆にいえば、森羅万象において「超越」はありえずすべては「存在」に「内在」する。或物が存在するのではなく、「存在」が或物と化するのである。ここに勝手な妄想を広げると、ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性や『エチカ』(岩波文庫)におけるスピノザの実体についての考え方あるいは拡張された後期ハイデガーの思想に類似性を見ることもできるかもしれない。あるいは、アラン・バディウがGille Deleuze:la clameur de l'etreにおいてかつてファシズムと関連させて揶揄した『差異と反復』(河出書房新社)におけるドゥルーズに通じる面もあろう。なおバディウに関して、彼のよき読者でないことを断りつつ一言しておくと、率直に言って「この人、本当に集合論を理解した上で使っているのだろうか」という疑問が残る。ドゥルーズについての先の著書において、ドゥルーズが使用した数学の概念はあくまでメタファーでしかないと断固主張したいとするバディウその人もまた、仮に好意的に解釈しても、集合論をメタファーとして使用しているに過ぎず、しかもメタファーにしては、本旨が伝わりにくくなっている点において、バディウも失敗しているのではないか。超限集合論を現実的無限として捉えたカントル自身が集合論の発展と重ね合わせるように形而上学的意味をも含意させようと試みていたぐらいだから、集合論存在論に利用するということ自体が誤りであるとはまでは言わないが、結局カントルも果たせなかった集合概念と伝統的形而上学的実体論との間の関係についての厳密な考察がなされぬまま、バディウは聞き齧り程度の知識しかない集合論に勝手な意味を読み込んでいるだけにしか見えないのだ。これでは「数理神学」と称する人と変わらなくなってしまうだろう。だから、まともな数学者や数学に通じた科学哲学者から全く相手にされていないのである。

 

 しかし同時に、この「存在一元論」は、「存在の一義性」のもとで捉えられる連続した実体としての存在観とは異なる側面つまりは非連続的ないしは離散的な存在観の側面を持っている点である。といっても、古典論において連続量として扱われてきたエネルギーや角運動量といった物理量が正準量子化されて扱われる量子力学から連想された世界観をイスラーム哲学が先駆けていたなどという無茶苦茶な暴論を言うつもりはない。そんなことを言いだせば、例えば「刹那滅」の考えに見られるような一部の仏教学の教説の方が量子力的世界観に「世界観的イメージ」という点において親和的とも言える。もちろん、ここで仏教と量子論の親和性を言いたいのではない。全く由来が異なる知識体系について、その極く一部に見られる表面的類似点だけを取り出して、その他の各々の理論の構築過程やどの対象について論じる場合にどういった概念が登場することになったのかという全体の知の体系における文脈を無視して比較することは愚の骨頂である。例えば、アインシュタイン弘法大師は同様の思想的位境に立っていたなどとする言説は、科学についても仏教思想についても深く考えていない言説でしかない。当然のことながら、仏教は宗教思想であり量子力学は物理学であって、全く出自を異にする知識体系であり、そこに登場する諸概念が意味する対象も全く異なるわけだから、そもそも比較のために最低限必要な共通の土俵すらないのである。どうしても比較したければ余程慎重にならなければならず、先ずは比較するにあたって設定されるべき土俵をどう構築するのかの議論から始めるなど踏むべきステップは膨大な数に上ろう。もちろん、その基底的な概念が持つ様々な前提となる発想なり思考は、世界に対する根本的な見方が影響していないとは言えないわけだから、その根となる「世界に対する構え」の部分について比較すること自体は有益な場合も希にあるかもしれない。

 

 ここでいうイメージとは、むしろ遥かに単純なことである。この点で、渥美堅持『イスラーム基礎講座』(東京堂出版)が面白い指摘をしているので参考になる。乾燥しきった砂漠の砂は、湿り気のある土とは異なるイメージを喚起する。砂漠の砂は、他の砂粒と連続しているように見えて連続せず独立している(もっとも、土だって水だって原子・分子レベルでは独立しているけど)。言うならば「関係性なき関係」といもいうべきこの事態は互いに独立しているがゆえに、それらを直接連続させる契機はみられない。統合されることのなき本質的なアナーキーな世界。そうした砂漠の世界で互いに関係することを可能ならしめるものは、唯一神アッラーの媒介である。本来関係づけられないものが、神によって媒介されることを通じて間接的に関係づけられるという関係。これはちょうど、商品同士の関係と貨幣との関係とのアナロジーを想起させもする。ムスリムの共同体とは、我々が想起する共同体とはその性格を根本的に異にしているのかもしれない。環境や言語や風習や文化あるいは人種や振る舞いの仕方のパターン等による紐帯つまりは和辻哲郎的=廣松渉的共同主観性の成り立つ場における紐帯が根こそぎにされた後に残る離散的な存在の、神による媒介を通じた共同体の創造としての存在-神論といえるかもしれない。こうしたスーフィズムは、ある種社会的不公正に対する良心の反逆の帰結とも言え、罪に対する自省の念から自己の内面的浄化を熱望し、たとえいかなる犠牲があろうとも神を切望する。そこで、クルアーン対する沈思黙想と礼拝によって神に近づくことを希求して浮世の欲望を捨て去り、進んで貧しい生活を選択することになる。存在するのは神のみであり、神の他は何も存在しない。いかなるものもその本源に還る。人間は神に帰一することによって真の「存在」に吸収される。いかなる罪悪、欲望、苦痛は須らく自我に根源を有するものであり、この自我こそが幻影であるので、真に実在するものではないというのである。しかし、この考えを推し進めていくと、果ては唯一神アッラーと人間との「主人ー奴隷関係」すなわち絶対的な非対称性が崩れかねなくなる。「存在一元論」はこの絶対的な非対称性が無化し、ともすれば無神論にすらつながることすらありうる。「超越なき内在」ばかりが強調されると、それは神との関係においてもアナーキーを招来させる。これは本居宣長の皇国思想にも言えることで、宣長アナーキーにつながる側面でもある。

 

 『無の自覚的限定』に収録されている論文「私と汝」において、西田幾多郎は、いかなる具体的な場ではない開かれた普遍性の極限にあるという意味でとりあえず「無」という他ない「場所」が自己限定していく分節作用によって私と汝が何者でもない「裸の存在」として邂逅する論理を述べているが、この論文と「場所」という論文を重ねて読んでいくと、後の「物となって」世界に内在する私と他者の共存する原基的場面を思考していたことがわかる。田辺元にとって西田幾多郎の思考パターンはプロティノスの流出論と違いがないと映ったのもわからないではない。いずれにせよ、この原基的場所は、明らかに和辻哲郎が考えた共同体とは異質なものであるし、廣松渉が『世界の共同主観的存在構造』で描いた社会的協働連関とも異なる更に手前の事態である。檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』(講談社学術文庫)の最後に収録されている小泉義之檜垣立哉との対談の中で、小泉は西田幾多郎が当時の量子論の動向をチェックしてハイゼンベルグディラックの論文をも読み込んでいただろうと推測した上で、西田幾多郎の「場所」や「自覚」の概念を無限次元ヒルベルト空間や演算子に準えて理解するというかなり強引ではあるが面白い読み方を提示していたかと記憶しているが、西田が当時の量子論の動向に格別の注意を払っていたというのはどうやら事実のようなので、ひょっとしたら西田はそこから思考の源泉となるアイディアを掴み、それを西田哲学の思考に合うように概念化していたのかもしれない。そういう強引な読みによって西田幾多郎の思考からどのような思想的可能性を引き出すことができるかは未知数である。

 

ヤンキー研究

 打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房)と知念渉『<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー』(青弓社)と立て続けに社会学的な「ヤンキー研究」本が出版された。社会学の中のエスノメソドロジーに分類される研究に関する書籍だが、この方面の先駆的研究書は言わずと知れた佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー-モードの叛乱』(新曜社)で、当然この2つの書も本書を意識したものだろう。佐藤の著作は、主として京都の暴走族「右京連合」(すでに消滅しているだろうけど)という複数のチームからなる連合体にスポットを当て、これを単に外部から観察するのでなく、彼らの中に入り込み寄り添いながら彼らの生態を観察記述していくとう日本では画期的な研究だった(といっても当事者ではなく、あくまで研究者としての視点は維持されたままだが)。打越の書は、広島と沖縄の暴走族の中に入って、時には警察沙汰を起こしながら、長い時間をかけて彼らからの信頼を得るにまで食い込んだレポートになっているだけでなく、当事者と観察者の二重の視点を併せ持つ貴重な体験記録といいうる。他方、知念の書は暴走族というわけではないが大阪のいわゆる「底辺校」にいるヤンキーに焦点を当てる。両者に共通する点は、「ヤンキー」の多くがおかれる社会経済的条件へのこだわりである。もちろん、このことは何も特異なことではなく、社会学の研究である以上、生活の行動パターンがそれ自身だけで説明されるわけもなく、マルクス主義的な立場によるものでなくとも、下部構造への意識は必要不可欠である。ただ残念なのは、既存の理論を事例に当てはめるだけでなく、当該理論とは別の理解の枠組みがありうることや、社会学的分析には収まらない別の積極的側面からの見方も提示して欲しかったという不満がやや残るものことだ。理論的分析の深度がやや浅いのではないかという不満もある。そういう不満があるが、ともかく彼らの懐の中に飛び込んで長い時間をかけて粘り強い研究をやり遂げた著者の労を考えると、力作であるとの評価は動かないだろう。

 

 研究対象の内部に入って観察した結果を報告するような著作は米国では結構存在し、例えばヴァネッサ・パンフィルという女性の犯罪社会学やクイア理論を専門とする研究者によって書かれたThe Gang's All Queer-The Lives of Gay Gang Members(ニューヨーク大学出版会)は、単なる犯罪社会学の研究書でも単なる「犯罪集団」のエスノグラフィックな著作でもなく、犯罪社会学なる学問そのものに対する反省をも含めた批評的視点にも彩られた好著である。パンフィルは、オハイオ州コロンバスのギャングの集団の中に入って行き、50人ほどのゲイのギャングたちの生態をインタビューを交えながら描写していく。ゲイのギャングやヘテロセクシャルのギャングあるいはバイセクシャルなギャングとそれぞれのディスポジションの違いにも触れながら、これまでの犯罪社会学におけるステレオタイプ化されてきた言説を覆していく。

 

 「暴走族御用達」の雑誌『チャンプロード』が数年前に廃刊の憂き目に遭ったが、これには、少子化による若年人口減少に加えて「ヤンキー文化」自体が廃れ、リスクを恐れる打算的な思考を持つ者が増えてきたことからくる暴走族構成員数の激減から需要がなくなってきたこと、『チャンプロード』が各都道府県で有害図書指定を受け販売が難しくなってきたことなどが影響している。昔は、『チャンプロード』だけでなく、『ライダーコミック』や『ティーンズロード』あるいは『ヤングオート』など暴走族に入っている青少年や暴走族に興味を抱く人々を対象にした雑誌があったが、数年前からは『チャンプロード』のみが暴走族やヤンキーを扱った唯一の雑誌となり、これすらもが廃刊となって、この手の雑誌は絶滅した。とはいえ、「ヤンキー」が絶滅したかとなると事態はそうではなく、例えば茨城・栃木・群馬といった「中途半端な田舎」の代名詞となっている北関東にはまだ多く生息する。だが、こと暴走族となると、ここ数年でほぼ壊滅状態になり、ごくたまにゲリラ暴走がある程度となり、主体は一応交通ルールを遵守する旧車會に変わった。

 

 打越の書は、本土では壊滅状態になった暴走族がまだ存在する沖縄(那覇市街地から浦添方面へつながる国道58号線では、暴走族に出くわすことがよくある)の暴走族に何年もかかわる。そこでわかるのは、沖縄のおかれた経済的構造の矛盾である。暴走族やヤンキーという「非行少年」は、この企業社会日本における政治的経済的諸矛盾の周辺領域に現れた象徴的な現象であって、その意味では一つの「社会病理」としての現れであるという診断は、ある程度理解できる。かつて校内暴力が吹き荒れた時期があったが、これも日本社会における企業社会化ともいうべき権威主義的支配体制の矛盾の周辺部分に現れた現象として理解することもできる。僕は右翼団体とかかわっているので、かつて暴走族に属していた者で右翼の構成員になった者は相当数に上ることを知っているし、昔ともなればなおさらである。中には暴走族のチームごと政治結社になったケースもある。打越が、沖縄のヤンキーが置かれた現状を分析して得た結論は、予想の範囲内であることは確かながらも、それを実地に検証したことに意義がある。沖縄には地域ごとの密な共同体があって、その共同体に支えられている者は多少所得が低かろうと十分生活していく余裕はあるが、その共同体から外れてしまった者にとってはそうしたセーフティネットは機能しない。別の人的紐帯に結びつけられ、その中での上下の身分秩序が搾取構造にまで発展する時、彼らは経済的に収奪される身に転落する恐れを抱えながら沖縄の地で生きることを余儀なくされる。中にはそれに耐えかねて沖縄の地から本土に逃げて行く者もいればヤクザになる者もいる。間接的な知り合いでしかないが、沖縄の右翼団体に所属しつつ同時に沖縄のヤクザになっている者がいるが、彼は最近まで沖縄市のミュージックタウン前の交差点、ちょうど嘉手納基地のゲートの程近くの場所で暴走行為に明け暮れていた。その彼が、辺野古基地反対を叫ぶ市民団体のテントに抗議街宣に出向く時には、やはり胸中複雑な思いが交錯している。ヤクザとして那覇市の風俗街からショバ代を回収する際もまた然り。暴力は下へ下へと流れていく。知念の書は、ヤンキーの意識に焦点をあて、いわばヤンキーの「社会化」の過程を追う感じになっている。もちろん、彼らの大半が置かれた現実の描写も怠らない。

 

 そういう社会学的対象として見ると、逆に理解できない側面も出てくる。というのも、東京のヤンキー文化に関しては必ずしも彼らの分析が妥当しないケースが多いからである。東京のヤンキーは、確かに下町を拠点とするチームに関しては妥当する面もあろうが、比較的裕福な層の子弟もかなりの数に上る。中高一貫校でヤンキー文化に親しんでいた者もおり、例えば関東連合などは、裕福な家庭で育った者もかなりの数いる。そういう棲み分け構造が見られる東京都心のヤンキーシーンからすると、両者の著書で描かれているヤンキー像は、従来のそれとあまり変化はない。

 

 それよりも、別の積極的側面をも取り出してもらいたい気もしないではない。つまり、社会学的分析からは漏れてしまう文化的ないしは批評的な積極的意味を見出したいという思いがある。例えば、婆沙羅な文化の継承という面からみると、彼ら彼女らはわが国に連綿と続いてきた日本文化の一側面の嫡子でもある。わが国の神々は和魂と同時に荒魂をも持ち合わせてきた。アブラハムの宗教における超自然の絶対者としての神ではなく、人間と同じく喜び、泣き、笑い、怒り、快楽をも愉しむ神々であって、スサノオノミコトの荒ぶる魂はディオニソスの灯であるかの如く継承され、規律を撹乱する狂喜乱舞を演じてきたのである。江戸の平穏の最中に間欠泉のように湧き出た旗本奴や町奴のような奇抜な格好をした傾奇者たちの系譜にヤンキーやある意味ではギャル男の最も先鋭化された形ともいうべきセンターGUYも位置づけられよう。ともに市民社会からは煙たがれる存在である。

 

 彼ら彼女らは、時には性規範をも撹乱する存在であった。わが国に本格的にキリスト教が入ってきた明治期より前では、例えば男色の優越性が議論された『田夫物語』にあるように、男色は特に傾奇者とされた連中の間で盛んであって、傍若無人に暴れまわる荒くれ者同士での性行為は日常茶飯事でもあった。戦国の世の武士の間でもそうだったし、荒くれ者の集団であった新選組でも男色行為が見られた。明治期でも郷中教育で結束が固かった薩摩武士の若者の間でも男色の風習は残っていたのでという。ヤンキーは先輩ヤンキーへの憧れもあって自ら進んでヤンキー化していく。そこに何らの性的関心がないというわけはない。現在の暴走族は上下関係がさほど厳しくないが、一昔前の暴走族では、先輩に掘られたり逆に掘ってくれとせがまりたりした例もあったようだし、少年院では同性愛行為はさほど珍しいものではないとも聞く。もちろん、表向きにはそういった面は隠されているが、規範の逸脱者たちの過剰な暴力性が同性愛への志向へと転化する現象は、ある種のわが国の伝統の一面を形作っているともいえる。かつて存在したセンターGUYの中でも様々な分身を生き、GUY同士で見境のないチャラ打ちの快楽に身を委ねる者だって存在した。実際、センターGUYであった名古屋に住む年上の知人は、単に「マンバ」と称していたが(彼にとっては、男性も含めて「マンバ」と総称していた。センターGUYは2000年代前半から半ばまでが全盛期であったが名古屋への伝播は時期が多少ずれていて、その知人も2010年過ぎても大学に通いつつ名古屋で「マンバ」の格好をしていたという)、男同士のセックスはあったと言っており、自身も「ゲイ寄りのバイ」と認めていた。当初は隠していたものの、気心知れると男同士でのセックスへの欲望が抑えきれずに最初は軽いノリとして互いの性器を見せ合いつつ性行為への誘いをかけ、最終的にはセックスに至るケースもあったのだそうである。社会学的な分析対象として「ヤンキー」を取り上げるのも結構だが、やるならセクシャリティについてももう少し突っ込んだ踏み込みをしたものがあってもいいのではないか。

学問研究の誠実性

 毎年同様、4月12日に東京大学の入学式が行われたが、そこでの上野千鶴子東京大学名誉教授の祝辞が一部で話題になっているようだ。その内容に賛同する者もいれば反発を覚える者もいて、入学式での話題をさらったという意味では上野千鶴子の狙いは半分以上果たせたと言えるのかもしれない。東大入学式をフェミニズム運動のパフォーマンスの場としてよいのかという疑問を差し挟む者もいようが、僕としては程度の問題という留保を伴いものの、多少のパフォーマンスは構わないと考える。伝統の継承というような特別な意義を持つわけでもない儀式でしかない単なる東大入学式という場を特別視する必要などない。むしろメディアの態様に見られるように、いまだに東京大学の入学式を特別扱いする真似は馬鹿馬鹿しいのでやめるべきであろう(おそらく関西のメディアならば、京都大学の入学式を取り上げているだろうと想像するが、これもアホらしいことなので京都大学を特別視するような真似はやめるべきである)。東京大学京都大学の所属研究者の個別の研究成果について人類史における知の発展として取り上げることは結構だが、単に入試に合格しただけに過ぎない者たちを殊更取り上げることは、中身がないのに根拠のない自尊心だけを逞しくする鼻持ちならない勘違い野郎を生むだけにしかつながらない。上野千鶴子も若干触れていることだが、世界的に見て東京大学はさして有名な大学とは思われていない。僕の所属する職場には米国のアイビーリーグの大学や英国のオックスブリッジやLSEの出身者が大量にいるが、東京大学の存在すら認知していない者などざらに存在する。一部の理科系分野の研究者は個人として知られているが、その所属先の東京大学まで知っている人となると多いとは言えない。会社に在籍しながら通ってMBAを取得したコロンビア大学大学院(コロンビア・ビジネススクール)の学生の中でも認知度は低く、アジアの大学ではシンガポール国立大学清華大学あるいは香港大学の方が知られているとさえ言える有様で、しかもそこ出身の留学生も多い。文科系となると東京大学の「ブランド」など世界では全く通用しない。東大生は、ともすればメディアに躍らされているうちに、ただ東京大学に在籍しているというだけで己が一端の知性を有したエリートだと勘違いするようになって「井の中の蛙」と化してしまわぬように、よほど注意しなければならない。かつて蓮實重彦は「東大生の3割程度は世界的にも通用する人材」だと述べていたが、残念ながらこの評価は甘過ぎであり、実態は1割もいないものと思われる。東大の事務方の上層部は薄々そのことに気がついているものだから、今更ながら「グローバル人材」がどうのこうのと言い出しているが、これがまた完全に的外れである。東京大学を真に優れた大学にしたければ、まず入試段階での抜本的な改正が求められるだろうし(そもそも共通一次試験を導入した時点から間違っていたわけだし、さらに言うならば、福田恆存が述べていた通り、明治期以来の教育システムが失敗していたと率直に認めて、立身出世主義からくる学校歴社会を破壊しなければ、つまらない人材を大量に産み落とすことにしかならないだろう。だから、事の本質は東大だけにあるのではなく、教育システム全体にある)、大学院に世界中の優秀な学生が押し寄せてくるような環境づくりが必要であろう。最近では外国人教員も増えてはきているが、やはり日本人教員が多すぎる。女性研究者も層が薄い。大した業績もない教員が山のようにいて、しかも経歴からして画一的である。世界から一流の研究業績を持った研究者を大金払ってでも来てもらえるような研究環境を整えることもやってみるべきだろう。清華大学から米国のMITに進んだ職場の同僚が言っていたことだが、清華大学の学事顧問には大量の外国人がいるらしい。中には、米国の金融資本も絡んでいるから、それが一概に良いとまでは言わないが、世界的な研究業績を誇る学者たちによるアドバイザリーにより、重要な基礎研究費用もどんどん積み増ししており、また彼ら彼女らが米国のアイビーリーグをはじめスタンフォード大学シカゴ大学といった大学の大学院との橋渡し役をも努め、研究者の人的交流も盛んに行われている。ところが東大となると常に内向きで、諸外国の優秀な連中は、日本研究者を除き、誰も見向きもしない。身内だけで自画自賛してことさら東大を特別視する状況をみるにつけ、ますます日本の大学の地盤沈下は進行していくだろうと憂国の情にかられる。

 

 入学式での上野千鶴子の祝辞の内容に関して、個別にコメントすることは控えるが、半分賛成半分反対というのが正直な感想。どうしても付きまとう違和感は、統計的データの恣意的解釈が目立つという点である。統計的有意な差とまでは言えないデータをさも女性差別があるかのようにほのめかす言説は、この人の学問に対する誠実性への疑念を招き寄せてしまいかねないので、おやめになった方がいいかと思うし、論文に求められる首尾一貫性は必要ないものの、明らかな矛盾を矛盾と考えずに述べてしまう軽薄さには首を傾げざるを得ない。また、自己の業績を自画自賛したい気持ちもわからぬではないが、ともすれば独り善がりの滑稽とも映るので、これもやめた方がいい。上野の学問に対する姿勢に関して疑念を表明している堀茂樹慶應義塾大学名誉教授の発言を目にすることがあったが、その批判の趣旨は、社会運動家としての立場と学者としての立場を峻別しないことを是とするかに見える上野千鶴子の学問に携わる者としての「知的誠実性」の欠如に対する批判と言えるだろう。ちなみに堀茂樹はフランス語の熟達者で、アゴタ・クリストフ悪童日記』の翻訳者としても知られている。またアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる『「知」の欺瞞-ポストモダン思想における科学の濫用』を日本に一早く紹介した一人であり、この書の翻訳の協力者でもある人物である。大学の語学の授業では到底物足りないと感じた僕は、東京日仏学院に一時期通ったことがあり、そこの日本人やフランス人の講師陣の中に堀茂樹がいたことを覚えている。どうしても発音が下手糞な日本人学者の話すフランス語が多い中(フランス留学経験のある研究者ですら、残念ながら会話も発音も下手糞なのが多い。実は、東京大学法学部の教員も英仏独語は一応読めはするものの、まともに書けない話せないというがごまんと存在する。名前は差し控えるが、英語でさえヤバいのがいる。国際学会では用意したスピーチ原稿は読めるが、質疑応答になるとアワアワ言っているだけで何言ってるかわかんないという感じ)、堀茂樹のフランス語は見事で感心させられたりしたものである(但し最近、ちょっと小沢一郎を買いかぶり過ぎてる感がしないでもないが)。

 

 堀茂樹上野千鶴子への批判は、僕が上野の祝辞や上野のこれまでの研究姿勢に対して抱いた違和感と重なるものがある。研究者が一個人として社会運動に参画すること自体は自由だし、学問研究に入った動機が社会の諸矛盾を改善したいというものでも構わない。しかし、社会運動の都合に合わせて学問を捻じ曲げることは、絶対やってはいけない不文律であろう。最低限の知的誠実性を持って研究しているとの信頼があるからこそ、学者が専門にしている学問分野について述べる見解に対して、一般の者は一応の敬意を持って尊重するという態度で遇するわけだ。しかし、統計的有意さがない誤差でしかないデータのみを取り出して自説に都合よく利用したり、逆に自説に不利なデータを意図的に無視するといったことを仮に肯定しているとするなら、それは学問研究とは言わず単なるデマゴギーと化する。かつて江藤淳が、上野千鶴子のことを学者にしては文学がよくわかっている珍しい学者であると褒めていたが、そうした優れた資質を持った人物が、よもやそんなことまではしていないと信じたい。真実追求義務を持つ検事が、被告人の罪を立証するために被告人にとって有利な証拠を隠しても構わないとする態度を肯定するのと同じ過ちを犯していることになる。社会運動家としての立場と研究者としての立場の最低限の峻別が求められる所以である。社会学の研究には中立的位置などありえないと開き直るならば、社会学の研究は単なるイデオロギーであって、学問的な議論の建設など不可能となり、極論すればゲバルトによる正当化しか残されないだろう。もちろん、中立を装いながらも実は特定の政治的経済的利害に絡めとられた言説は確かに存在する。そこで、その言説のイデオロギーを暴露する知的営為も学問への反省的姿勢として意味は持つだろう。しかしその意義から、極端に中立などありえないと開き直って学問上の知的誠実性を失って自身のイデオロギーを喧伝することを肯定してしまっては、それはもはや学問としての資格はない。イデオロギー批判を展開したマルクスは、しかし全てがイデオロギーで科学的認識は成り立たないなどという暴論は吐いていない。イデオロギー批判の自家撞着に関する議論を今更反復するまでもなかろう。学問として可能な限りイデオロギーを払拭した姿勢を理念としつつ、しかし同時に自らの営為が何によって可能となっているか、あるいはともすれば特定利害に絡めとられ誘導されているやも知れぬという懐疑的反省意識を伴いながら遂行する意志がなければ、学問は自らの場を喪失してしまうことだろう。

毛沢東のマキャベリズム:遠藤誉『毛沢東-日本軍と共謀した男』(新潮新書)を読む

 毛沢東は、大日本帝国による大陸進出によって追い込まれた自国の窮状を打開せんがために「抗日救国」を掲げて日本軍との戦闘を勇敢に戦い抜き、大日本帝国敗戦後において蒋介石率いる国民党との革命戦争に勝利して中華人民共和国を建国した英雄的革命家であり、建国後は大躍進政策プロレタリア文化大革命といった幾つかの過ちがありつつも総体としては中華人民共和国を世界有数の大国たらしめた偉大な政治指導者である。このような評価が今も尚、中華人民共和国の少なくとも表向きの評価として続いている。しかし実際のところ、かかる毛沢東像は事実に基づかない虚偽であり、毛沢東は自己の権力欲を実現するために自国の民を平気で裏切り、あろうことか日本軍と共謀して抗日戦争の足を引っ張ることすらやっていた「中華民族の裏切者」であった実像を歴史資料の詳細な分析の上に描き出したのが、2015年11月に上梓された遠藤誉『毛沢東-日本軍と共謀した男』(新潮新書)である。毛沢東率いる中国共産党こそが日本軍による侵攻を撃ち破り、蒋介石率いる国民党軍を台湾にまで追い込むことによって革命を成し遂げたという「神話」を国家統治の正統性の源泉にしている中華人民共和国の、正にそのレジティマシーの源泉に対する疑義を呈する点において、本書は中国共産党から見て「危険な書」と映るに違いない。かつて毛沢東の私生活の一面を暴露した著作を書いた著者が謎の不審死を遂げたことがあったが、本書も、中国共産党の統治の正統性に関わる著作だけに、危険を顧みず本書を世に提起した著者の勇気にまず敬意を表したい。

 

 著者は、その学究生活を理論物理学の研究から始めたという。東京都立大学大学院で理学博士号を取得して以後、千葉大学筑波大学の教授を歴任する一方、中国社会科学院客員教授上海交通大学客員教授をも務めた理論物理学者で、現在は筑波大学名誉教授、東京福祉大学国際交流センター長、特任教授におさまっている。生い立ちにもあるように、幼い頃に中華人民共和国で過ごした経験から、特に80年代からはシナ人留学生受け入れに関わることとなり、そうした状況も手伝って、シナでの体験記や現代シナ社会論についての著作もある。最近の著書は『「中国製造2025」の衝撃-習近平は今何を考えているのか』(PHP研究所)で、この書では中国共産党が世界覇権を目指して量子暗号技術や宇宙開発技術に傾注する姿が描かれている。最近の米中衝突は単なる貿易摩擦ではなく、次世代の科学技術の基幹を担う分野のスタンダードを米中どちらが担うかという経済的覇権及び軍事的覇権と結びついた国家安全保障全般に関わる覇権争いであることがよく理解できる著作になっている。著者は旧満洲国新京で生まれ、中国共産党による長春包囲網で数十万人もの餓死者を出した死線から命からがら生き延び、昭和28年に帰国するまでシナ大陸で育ったという経歴を有している。

 

 まず断っておくべきは、本書は最近書店に平積みされている数多の反中韓本のような自称「保守」による単純なプロパガンダ本ではなく、日本側の資料や中共側の資料そして米国へ逃げ延びた元中共の者の残した資料を突き合わせて、そこから合理的に推論される毛沢東の実像を描き出そうとしており、反共イデオロギーに基づいて事実を捻じ曲げて論じるような真似はしていない。その意味で著者の姿勢はどこぞの国のメディアに盛んに登場し、政権の覚えめでたく嬉々として審議会などのメンバーになっている類の御用イデオローグのような恥ずべき人物とは異なり、知的に誠実であって、本書は特定のイデオロギーから立論した書物にはなっていないことを、著者の姿勢を信じて明確にしておかねばならない。また毛沢東の言動をあげつらって、これに対して道徳的に断罪するようなこともしていない。それどころか、むしろ毛沢東という男のスケールの大きさが際立つような記述ぶりであることに特徴がある。それと同時に、幼い頃、毛沢東の言葉に胸を熱くさせた経験のある著者の毛沢東への想いと毛沢東の実像を知った時の複雑な感情との葛藤に苦しんできた著者自身の毛沢東への訣別の言葉として個人的意味合いをも併せ持つところが、本書を更に面白くさせている。

 

 毛沢東の権力欲や残虐性については国内外の数多の書物が伝えているし、左翼系の知識人による毛沢東に好意的な書物からでさえ、そのことが伝えられてきた。例えば竹内実『毛沢東』(岩波新書)は、毛沢東に肯定的評価を抱きながらも、毛沢東にあったであろう学歴コンプレックスから来る知識人への憎悪や秦の始皇帝を憧憬し皇帝権力を掌中に収めつつ個人崇拝をも要求する権力欲の強さを、『中国の赤い星』の著者であり毛沢東崇拝者であったエドガー・スノーに対して述べた彼自身の言葉を紹介することを通じて表現しているし、秦の始皇帝の行った焚書坑儒に倣って大量の自国民を弾圧・殺害しても始皇帝の数十倍、数百倍のことをやったと自慢するなどの残虐性も描いている。『毛沢東の私生活』を読めば、毛沢東が他人には禁欲的な質素倹約の生活スタイルを求めておきながら自分だけは贅の限りを尽くし、ロリコン趣味が高じて多くの少女との奔放な性生活を弄んでいたこともわかる。遠藤の本書は、そういう意味での毛沢東の悪人的性格の暴露本という性格のものではない。支那事変の最中、毛沢東は何をやってきたのかという点にスポットを当てた極めて貴重な研究の記録であり、その意味するところとは、「抗日救国」を掲げて革命戦争を戦い抜いたという「神話」が実際のところ虚像であって、むしろ日本軍に国民党軍の情報を密かに売り渡すことで日本軍と戦っていた国民党軍の足を引っ張り、自らは日本軍のシナからの撤退後にひかえる国民党軍との戦闘のための組織の温存を人民の命を犠牲にかけることで図り、あくまで日本軍とは戦う振りをしていたに過ぎなかったことを、日本の特務機関と中共のスパイとの共謀関係に焦点を絞って詳細に描写していくことを通じて明らかにしていくところが本書の真骨頂なのである。手軽に一般読者が手にしやすい新書というかたちで世に出されたことを喜びたい。

 

 本書は、「はじめに-中華民族を裏切ったのは誰なのか?」から「おわりに-毛沢東は何人の中国人民を殺したのか?」までの間に7章からなる文章を挟む形で構成されている。まず「はじめに」の箇所で、本書の趣旨が一瞥できるようになっている。中華人民共和国の人民は、シナ事変において毛沢東率いる中国共産党軍こそが大日本帝国軍と勇猛果敢な戦いを行い日本を敗戦に追いやり、反対に蒋介石率いる国民党軍はまともに戦おうとしてこなかった売国奴だと教育で教え込まれており、現在の北京政府も、2015年9月3日に開催された「中国人民抗日戦争勝利と世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に見られる通り、その「神話」を大々的に喧伝している。しかし実際は、中共軍はほとんど日本と戦わず山奥の延安に籠り、それどころか日本軍と戦う国民党軍を敗退させるべく日本側の特務機関と内通して国民党軍の情報を流し続けた事実について、その概要を述べている。その目的は、国民党軍の力を消耗させて機が熟せばその国民党軍を叩くことで自分がシナの覇者になるというものだった。毛沢東と日本の特務機関との関係を、特に潘漢年という中共のスパイと日本の特務機関「岩井公館」との関係を中心に描いていく。1939年に毛沢東は、潘漢年を「岩井公館」に潜入させ、外務省の岩井英一と懇意にさせ、日本側からの高額の情報提供料の見返りに国民党軍の軍事情報を提供するとともに、岩井英一に中共軍と日本軍との停戦案すら打診していた事実を述べる。また潘漢年は、毛沢東の密命を受けて大日本帝国陸軍参謀影佐禎昭大佐と密会し、日本の傀儡と言われた汪兆銘政権の特務機関「76号」とも内通し、中共軍との和議を申し込んでいることまで描いている。ところが、1949年の中華人民共和国建国の直後、毛沢東の個人的な意思決定により潘漢年は逮捕投獄され、1977年に獄死する。死後5年後に潘漢年を知る者らの努力によって「名誉回復」されることになったが、その際、中共側は潘漢年や袁殊といったスパイを、日本軍の情報を引き出して中共軍が日本軍と戦うのに有利なスパイ活動を行った英雄と転倒したかたちで祭り上げる。著者は、資料に基づきこの中共側の主張が全くの虚偽であったことを示していくことを、この場で予告する。さらに、中華人民共和国元帝国陸軍軍人を招聘した際も、「日本は謝罪する必要はなく、むしろ我々は日本軍の進攻に感謝しているぐらいだ」と述べた件を紹介し、また南京事件についても毛沢東は一生涯ただの一度も触れたこともなく、また教科書にも書かせなかったことも、『毛沢東年譜』という中共中央が編集した資料から示していく。

 

 もっとも、著者は南京事件が事実としてあったかなかったについては言及していない。ここで重要なのは、毛沢東自身が南京事件について触れたことがないという事実なのである。よって著者が南京事件否定説を主張していると早とちりして誤解するようなことがないよう注意しておくべきであろう。ちなみに僕の南京事件についての見解は、事件の直接証拠の存否は専門家ではない僕は知る由もないので断言は慎むべきだろうが、様々な伝聞証拠という間接証拠を積み重ねていくならば、中共側の主張は大いなる誇張に満ちてはいるものの、少なくとも1937年12月13日からの数週間の間に、陸軍中央に動揺が走った程の何らかの虐殺行為があったのだろうと推認する立場である。したがって、いわゆる南京事件否定派ではない。もちろん犠牲者数が中共が主張する30万人あるいは40万人という規模の大虐殺が起きたとは信じられず、また犠牲者が無辜の市民だったのか、それとも無辜の市民を装った便衣兵なのかはわからない。ただ、支那派遣軍総司令官を務めた岡村寧次大将の残した日誌など諸々の間接証拠から推察するに、本土の陸軍中央に動揺が起こるほど軍紀が乱れあってはならぬ事態が発生するといった緊迫した状況があったと考えるのが合理的ではないかと思われる。「大虐殺派」の主張は誇張に過ぎるし、さりとて渡部昇一のような「まぼろし派」の主張は無理筋の説だろう。秦郁彦南京事件』(中公新書)のような「中間派(数百人~数万人)」が当たらずとも遠からずといったところかもしれない。

 

 さて第一章「屈辱感が生んだ帝王学」では、毛沢東の生い立ちと後の知識人憎悪のきっかけとなったエピソードが描かれている。毛沢東1893年12月26日に湖南省長沙府湘潭県韶山の富農の5人兄弟の三男として生まれたが、兄たちは早世したので実質的には長男として育てられた。貧乏人からのし上がって富農になった父親は、教育の重要性を認めず、毛沢東に対しても勉強しても何の得にもならないとして勉強好きな毛沢東をしかりつけるも、無類の読書好きだった毛沢東は父親に隠れながらもの凄い勢いで貪欲に勉強するという生活を送った。清朝時代の禁書扱いだった書物にも手を出すほどの少年だったという。14歳の頃に『支那瓜分之命運』という本に出会い、国家というものかを意識し始めることになり、明治維新関係の書物を読み漁り、西郷隆盛に憧れて実家の元を離れる。授業料が無料だった湖南第四師範学校入学して楊昌済という倫理学者と運命的な出会いを果たす。楊昌済は1902年から6年間日本留学しており、東京高等師範学校(後の筑波大学)で学んだ後、英国、ドイツ、スイスと留学して1913年に湖南省に戻ってきていた。毛沢東の先生というわけだ。楊昌済は毛沢東を気に入り、毛沢東も楊の講義を欠かさず聴講するという関係だったが、この講義に使用した教科書がドイツ人哲学者フリードリヒ・パウルゼンが著した『倫理学講義』で、毛沢東は空白部分にびっしり書き込みするなどこの書物を熟読した跡が残っているらしい。著者は、ここから毛沢東が「現実主義」という論理を引き出したことを指摘し、後の『矛盾論』や『実践論』の基礎を形成する柱を作り上げていったと推理している。北京大学に異動になった楊昌済は、当時知識青年の流行であったフランス留学(周恩来や鄧小平もフランス留学組だ)に毛沢東を誘い、そのためにも北京大学受験を進めている。ところが受験資格を充たす学歴がなかったので、例外的に一年間北京大学の図書館の雑用を務めることを条件に受験を許可する提案がなされ、毛沢東はその雑用係に就くが、エリートが集まる北京大学の教員や学生たちに邪険に扱われるなど屈辱的な経験を味わい、そのプライドが傷つけられた毛沢東は、北京大学の学生を中心に起こった「五・四運動」の直前にもかかわらず北京を去って長沙の小学校の教員に戻っていく。著者は、この北京大学図書館での屈辱感が復讐心となって後の知識人憎悪の言動につながったのではないかと推察している。確かに、後に権力を手に入れた毛沢東は、この時期に出くわした人間のことを一々記憶していて、その時の怒りの感情を罵詈雑言を浴びせかけることで表現している。その執念たるや、すさまじいものがある。劉少奇の失脚と再び権力の表舞台に立つ目的のためにプロレタリア文化大革命を発動したときも、大学を閉鎖し大学院を撤廃し、北京大学清華大学を頂点とする学校教育制度を破壊し、普通高校以上の学歴を持つ者を「知識人」として辺境の地に下放し肉体労働に従事させ、その者に対して民衆に暴力をふるわせ屈辱を与え、息絶えたときにはじめて毛沢東は爽快感を味わうというほど、この時の屈辱に対する復讐の怨念は凄まじかった。

 

 第二章、第三章は、満洲事変から支那事変そして西安事件と第二次国共合作までの歴史を辿り、中共が日本軍のおかげで窮地を乗り切り、日本軍と戦っていた国民党軍の力を削ぐための活動に従事していた事実が描かれる。ここでは、革命の根拠地延安において毛沢東共産党内での権力を確立するために数多くの同志たちを虐殺していた事実が描かれている。目的達成のためには手段を選ばず、権謀術数によって同志を罠にはめ粛清を連続していくことで恐怖による支配を達成していく過程が描かれる。建国後の反右派闘争やプロレタリア文化大革命の時にも見られた手法だ。第五章がメインの章にあたり、ここでは潘漢年や袁殊という中共スパイを日本の特務機関「岩井公館」や汪兆銘政権の特務機関「76号」に派遣して国民党軍の情報を高額な情報提供料と引き換えに売り渡し、中共自身はその力を国民党軍を打倒するために温存するという戦略をとって、日本軍とはほんとんど戦わなかったという事実が具体的な資料に基づいて立論していく。後の中共側の理屈が辻褄の合わない詭弁であるかを一つ一つ暴いていく手捌きは見事というほかない。第六章は、毛沢東の政敵であった王明の手記と照らし合わせながら自説を補強していく役割を果たしている。第七章は、毛沢東が戦後に元帝国軍人を台湾から切り離し自らの味方につけようと画策したこと、また本音のところで日本軍に感謝していることが、元帝国軍人を中南海の自らの執務室に招いたときの話とともに語られる。特に遠藤三郎との会見での発言も面白いし、毛沢東支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将を極めて高く評価し、岡村を自陣に招き入れたいと工作した箇所も見物だ。「おわりに」では、毛沢東が一体何人のシナ人民を殺したのかの推計も書かれており、稀代の殺人鬼としての毛沢東の実像をまとめている。

 

 というように本書は、自己の権力欲の実現のために権謀術数を張り巡らし、人民の生命などつゆほどにも感じずに目的達成に手段を選ばず邁進していったマキャベリストとしての毛沢東という男の人並外れたスケールを描いている。だが著者は、だから毛沢東は稀代の大悪人であったと告発しているわけではない。あの広大なシナ大陸において「天下を獲る」ということが日本では想像もつかないほど困難を極め、またそのぐらいのスケールを持った男であったからこそ、あのような皇帝型権力を掌握することができたのだということがよくわかる書物になっている。天安門広場に群がる人民を睥睨しつつ毛沢東エドガー・スノーに語った言葉が思い出される。「シナには皇帝が必要であり、個人崇拝も必要なのだ」と。

 

 もっとも、若干の違和感は残る。それは、毛沢東が日本軍との戦いをサボタージュしていた事実をクローズアップするあまり、他方の蒋介石がともすれば日本軍と勇猛果敢に戦った中華民国の英雄であるかのように映ってしまう効果を持ってしまうという点である。蒋介石毛沢東ほどではないにせよ胡散臭い男で、清朝王室の墓を荒らして宝物を分取って妻の宋美齢へのプレゼントにするなどの行為を働き、満洲族と漢族との相互不振を助長して中華民国の人民として「国民化」する契機を流産させてしまった点や、故宮博物院の宝物を強奪して台湾に持っていった点などを考えるならば、蒋介石こそ中華民族のために日本軍と勇猛果敢に戦った者だとする評価を与えるのは、甘すぎるような気もしないではない。加えて贅沢を言えば、共産党と国民党との間を多重スパイとして暗躍していた野坂参三にも多少はスポットを当ててもらいたかった。それはともかくとして、本書が浮かび上がらせた問題は、こうした毛沢東及び中共のたどってきた歴史的事実を捻じ曲げて美談の「革命神話」で国民統合を図りつつ、日本に対して「歴史カード」をちらつかせて外交的恫喝をしかけてくる現在の中華人民共和国政府の欺瞞であり、その欺瞞に呼応して嘘を真実と受け止め恭しく傅く外務省をはじめ日本の左翼やその同調者に見られる媚中姿勢である。そのことを明確にしてくれたことが本書の優れた点である。残念ながら、左翼系知識人が多い状況やシナ大陸での誤った日本の行動に対して過剰なまでの贖罪意識を持つ者が多い状況のため、事実を事実として指摘する行為ですら、ともすれば反中プロパガンダの右翼的行為であると糾弾されかねない。レッテル貼りが横行する日本の知的風土の中で、本書を上梓した著者の勇気に改めて敬意を表したい。かつて、その死が第二次天安門事件のきっかけとなった胡耀邦は、1979年2月の中共中央での講演において次のような発言をしている。胡耀邦には一分の良心があったのである。それがまた、鄧小平や楊尚昆江沢民らにつけこまれる余地を与えてしまったのが残念というほかない。

 

「もし、中国人民が我々中国共産党の歴史の真相を知ったなら、彼らは必ず立ち上がり、我々の政府を倒すであろう」。

 

胡耀邦追悼のために天安門広場を埋め尽くした民衆に対して銃口を向けて鎮圧し、今なお、海外に逃げた活動家を国家安全部が追いかけまわしている現状がある。国内において、この事実がなかったことにして言論封殺している北京政府が「反日愛国教育」に本格的に乗り出すのは、この第二次天安門事件から数年後の90年代初めである。