shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

裾野を広げる

 強豪南アフリカを日本が破るという番狂わせを演じた前回のラグビーW杯から4年後の今年、日本で初めて開催される今大会が今日、名誉総裁を務められる秋篠宮殿下及び妃殿下の御臨席を賜り無事開幕した。日本の対戦相手は世界ランクでは格下とされるもその実力は侮れないロシア。前半開始まもなくロシアのトライを許し後塵を拝する状況となったが、すぐにバックスの好プレーからWTBの松島幸太朗がトライを決めて反撃開始。前半終盤に再び松島がトライに成功して逆転。後半にはペナルティゴールのチャンスをものにし、さらに二本のトライでロシアを突き放し最終的は30対10で日本が勝利した。一試合に三本のトライを決めた松島も素晴らしいが、one for all, all for oneの精神で団結した日本チーム全体がなしえた勝利であったと言える。中でもバックスの活躍が見落とされてはならないだろう。今回のW杯を契機に増々日本のラグビー界の裾野が広がってくれば、なおのこと言うことはない。

 

 僕自身はラグビー経験はほとんどないと言って等しく、小学生のためのラグビー教室で軽く遊び程度にプレーした経験があるものの、部活動でやっていたサッカーほどは親しんでいるとは言えない。それでも、ラグビーアメリカン・フットボールはサッカー以上に戦略性が要求されるスポーツということでちょっとした畏敬の対象であった。中学入学当初は、部員の少なさからラグビー部に入ればすぐにでもレギュラーになれるかなという下心もあって入ることも考えたが、中学時代はやはりサッカー人気が強くてミーハーさながらにサッカー部を選択してしまった。幸い出身は中高一貫校であるがゆえに中学・高校と連続していたサッカー部の人数はそこそこあり、また局地的ではあるがそこそこ強かったということも影響していたかと今にして思う。

 

 日本でのサッカー人気はJリーグの設立に伴い劇的に高まった。Jリーグの成功の要因の一つが、これまでの企業スポーツの伝統とは違って地域密着に徹して、その地域でのサッカー人口を増やすべく子供のためのサッカー教室を設けたり、プロを養成するための接着剤として機能するその他諸々のシステムを作ったり、さらに平均引退年齢が26歳と言われるプロを早期に引退するものに対する第二の人生のための再教育制度や就職斡旋などのフォローを欠かさないようにしたためであろう。この辺が、日本のプロ野球と違っている点である。更には日本代表チームが立て続けにW杯本線に出場したり、日韓共催のW杯が開催された意義も大きい。

 

 サッカー人気の高さから、サッカーの裾野は相当広がったと言えるが、果たしてラグビーはどうだろうか。まだサッカーや野球ほどの裾野の広がりはないように見受けられる。確かに、大阪など伝統的にラグビーが盛んな地域は存在する。公立中学でもサッカー部や野球部はなくてもラグビー部は存在するという中学は大阪に多いと聞く。事実、その影響から花園ラグビー場で開催される全国高校ラグビーでは毎年のように大阪代表の強豪チームが複数校上位に来る。おそらく優勝回数も大阪代表チームが圧倒的に多いはずである。大阪は伝統的にサッカーに強い高校は少なく、ラグビーと野球が強い。甲子園の優勝回数も大阪がダントツの一位である。ラグビー人口が大阪や福岡並みに全国的な広がりを見せれば、層の厚さが増して将来の日本代表チームのレベルもさらに高まること間違いないだろう。

 

 何事も裾野が広がらないことにはその国を代表する者のレベルは向上しない。学問研究にしても例外ではないように思われる。日本の近代化が進んだ要因の一つは、江戸期での庶民レベルにまで行き届いた教育制度である。幕末期に開国した際に日本を訪れた外国人を驚かせたのは日本人全体の識字率の異様な高さであった。大半が読み書き算盤ができ、また外国語の能力にしても幕府の役人では複数の外国語を自在に操る者は別に珍しくなかった。米国に派遣された小栗上野介忠順の明晰な頭脳と博識ぶりに驚嘆した米国人が多くいたことはよく知られている。米国の黒船を内覧した日本人学者は、その圧倒的な科学技術力に恐れおののくどころか、この程度のものなら30年もあれば我が国は追いつくことができると感じたのも、西洋の学問を吸収していけるだけの学問的素地が既に形成されていたためである。事実、明治維新から約30年後の第1回のノーベル賞から日本人学者がノミネートされているほどである。

 

 こうしたエピソードから日本人は優秀だとか日本は凄いと礼賛論をぶちたいわけではない。学問研究が花開くためにはそれを可能にする素地が形成されている必要があり、そうした素地の形成に裾野の広がりが重要な役割を果たしているということなのである。国民レベルの教育水準の向上は、何もその人個人のためだけでなく、国力向上の観点からも重要なことである。貧困その他の理由で十分な教育を受ける機会が保障されない国家では、どこぞに埋もれているかも知れない優れた資質や才能が開花するための芽を予め摘んでしまうことになり、大きな国家的損失にもなってしまう。この「豊かな社会」であるはずの日本において、故あって十分な教育環境が行き届いていない児童が存在することは、長期的に見て国益の棄損であることに自覚的な政治家や役人がどこまでいるのか怪しくなってきているのが実情である。

 

 加えて、「科学技術立国」を宣言しておきながら基礎科学の研究費の対GDP比に占めるが割合がOECD加盟国の中で下位にある日本の文部科学行政は、ほとんど無知無能の人間の愚策のために最悪といっていいレベルである。まるで日本という国を科学研究や教育のレベルからぶっ壊しにかかっている有様である。悪名高い旧民主党政権下での事業仕分けが槍玉にあげられたことがあったが、その旧民主党政権の悪政を安倍政権が糾弾する資格があるのかと問われれば、こと文部科学行政を見る限り到底資格はないと言わざるを得ない。かつて安倍晋三OECDの会合の中で、これからは基礎研究ではなく応用研究に傾注するなどと愚かな言葉を吐いたことがあったが、これは安倍が、これまで少ない予算の下で研究者の創意工夫により何とか辛うじて維持してきた基礎科学の研究を長期的にじわじわとぶっ潰しにかかりますと公言しているようなものである。

 

 有名な話だが、米国には大統領直属の科学顧問が存在しており、ノーベル賞級の超一流の科学者が中長期的視点から合衆国の科学政策を進言している。合衆国の長期的国益を向上するには基礎科学が重要であることを事あるごとに強調している。トルーマンアイゼンハワーもそしてクリントンもその進言に耳を傾けてきた。東京大学宇宙線研究所の施設スーパー・カミオカンデニュートリノに質量があることを観測結果から明らかにしたニュースに一早く飛びついたは、残念ながら我が国の内閣総理大臣でもなければ文部科学大臣でもなかった。事の重大性を認識し、MITでの演説の場でこのビッグ・ニュースを称賛した米国大統領ビル・クリントンだった。

 

 理科系出身か文科系出身かということではない。文科系出身でも理科系の知に関心を持つ者もいるし理科系出身でも文科系の知に関心を持つ者もいる。とりわけゼネラリストとして大局的判断を強いられる者が両者の知をもたないとなれば歪な判断しかできないことぐらい考えてもみれば当然であって、要は何が重要なのかについての大局的・長期的視点からの適切な判断力の有無である。日本の教育行政や科学行政について、こうした視点を持つ政策担当者がほとんど存在せず、近視眼的な視野しかない門外漢であるはずのコンサルタントがでかい面をして引っ掻き回し、我が国の国益を棄損して状況が今の日本の惨憺たる文部科学行政の姿であり、まずはこうしたアホどもを駆除することから始めなければ、我が国は亡国の一途を突き進むだろう。

ケインズとケインズ経済学

 米国では侃々諤々の論争にまで発展して賑わいを見せている「現代貨幣理論(MMT)」が今年に入って日本でも紹介され、入門書まで出版されるにまでなっている。理論経済学の発展ぶりにもかかわらず、意外なことに貨幣論が本格的に論じられるケースは寧ろ稀であったというのが「経済学の七不思議」と常々思ってきた者からすれば、ポスト・ケインジアン左派から派生したMMTに賛同するか否かは別として、財政均衡主義が覆っている我が国の財政・金融政策に関わる議論状況に対するアンチ・テーゼが提起された意義は、貨幣概念の変更を迫るその特異な主張の面白さと合わせて大きいと、ひとまず言っておくべきかも知れない。

 

 もっとも、貨幣論といえばマルクスの価値論やケインズ貨幣論に遡ることができるわけだが、古典派の枠組みのなかで書かれたケインズの『貨幣論』は『雇用・利子及び貨幣の一般理論』(以下、『一般理論』)やその他の仕事に比して失敗作であったと言わざるを得ず、そのことはケインズ自身も自覚していたようである。前にも述べたように、新古典派経済学は貨幣に関して円滑な交換のための媒介物でしかないものと考え、資本から労働力に至るまで交換の対象とする前提を置いて、経済実体を貨幣を捨象した財と財との交換であるとみなした。貨幣についての考察を貯蓄と投資の関係や金融政策の効果等についての考察を専らとする金融論へとスライドさせて論じる立論に変質させていったのである。もちろん貨幣数量説にしても、貨幣とは何かを説明してはいない。

 

 元々、物価の変動は貨幣数量の変動に比例するという考え方は古くからあり、それを明確に定式化したフィッシャーの交換方程式は、貨幣の数量と貨幣の流通速度との積は物価と取引量との積に恒等的に等しいことを示したものにすぎない。これ自身は単純な恒等式であって、貨幣数量説はこの恒等的関係に更に流通速度の一定という想定が導入されることで得られる(仮に貨幣数量説を是とするならば、問題は今日の超高速取引において貨幣の流通速度が一定とする前提が成り立たなくなっているということである)。貨幣数量説とは違う先のケインズ貨幣需要流動性選好関数として論じるし、新貨幣数量説のフリードマンもマーシャリアンkの安定性の前提に貨幣数量が物価水準を決定するとだけ述べるにとどまり、結局は貨幣と物価との相対的関係を論じているだけである。いずれにせよ、貨幣とは何かという問題は未だ解決のつかない一大難問として残り続けている。この問題を考えるにあたってMMTの提起した議論に優れた経済学者が賛否両論様々な反応をするのも当然というべきだろう。

 

 ケインズの高名な弟子で、おそらくローザ・ルクセンブルクと並んで最も優れた女性の経済学者であったと思われるジョーン・ロビンソンが「経済学の第一の危機」と呼んだ出来事は、周知の通り1930年代の資本主義諸国を襲った大恐慌であった。完全競争市場をモデルとした市場経済制度の下で予定調和的経済体制が形成されると考える新古典派経済理論に対する信頼が失墜し、ケインズ経済学が新たな経済理論として登場し、経済循環のメカニズムを解明して完全雇用やインフレーションの安定化の実現のための経済政策の特性を明らかにした時期である。ローレンス・クラインが「ケインズ革命」と名づけた「ケインズ経済学」の興隆である。経済学史では常に触れられているように、60年代末から70年代にかけて慢性的スタグフレーションに効果的でない「ケインズ経済学」に対する批判が巻き起こり、「反ケインズ革命」によりミルトン・フリードマンマネタリズムやロバート・ルーカスの合理的期待形成理論などが主流を占めるに至ったが、2008年のリーマン・ショックを期に再びケインズ再評価の流れが起こり、鳴りを潜めていたポスト・ケインジアンが復活し始める。

 

 ところが、所謂「ケインズ経済学」として理解されているものとケインズ自身の理論とが同じものとは言えないのではないかとの疑問が次々と供されている。このことは、ケインズの主著『一般理論』があまりに難解なので、直接ケインズのテクストが読まれることなくケインズの理論的エッセンスとして換骨奪胎された知識のみが独り歩きしていたことを示すものである。やはり、古典とされる名著は適当な要約本で済ませるのではなく、直にそのテクストと格闘する努力を怠らないことがいかに重要なことなのかを物語る事例とも言えよう。アメリカン・ケインジアンケインズ理解は、ジョン・ヒックス「ケインズと古典派」という書評論文において提示したIS・LM分析として単純化されたモデルに基づくものだった。今日でも経済学の教科書で必ず掲載されているこのモデルの影響は甚大で、それこそ我が国の公務員試験においても必須の知識として頻繁に試験問題に出題されているほどである。このモデルはさらに精緻化されて、計量経済モデルとして実証統計分析の重要な役割を果たしている。

 

 ヒックスのIS・LM分析は、『一般理論』を均衡分析の枠組みに落とし込んで整理するものである。財・サービスに対する総需要額がその総供給額に等しいという財市場の均衡を表すIS曲線と、貨幣保有に対する需要がその供給に等しいという金融資産市場の均衡条件を表すLM曲線との二つの市場均衡を表現する曲線の交点が、実現される市場の状態に対応すると考える。均衡点における財・サービスの総供給額=総需要額が有効需要である。この有効需要は、常に完全雇用の水準ではなく非自発的失業が発生するというのが一般的な状態であって、古典派及び新古典派の想定する完全雇用均衡はあくまで特殊な状態でしかない。したがって、市場の自律的調節機能によっては実現できない状態であり、政府による財政・金融政策の効果的作動を通じて有効需要を増加させることにより非自発的失業の解消が可能になるというのが、「整理された」ケインズ経済学の主張である。ここまでは教科書的知識で、多少経済学の理論を学んだ者ならば誰でも知るところであろう。

 

 しかし、『一般理論』は資本主義に内在する不均衡過程を生む要因を対象にし、非自発的失業など様々な不均衡現象を解明することを目的に執筆されたはずである。資本主義制度における経済循環メカニズムは本質的に不安定な要素が内在しており、この不安定性は市場メカニズムの効率的運用によって解決されるものではなく、かえって不安定性が増大する場合もありうることを示したのがケインズ自身の思考である。ところが、IS・LM分析によって換骨奪胎された「ケインズ主義」は、この内在的不安定性についてのケインズの卓見を軽視するようになり、それがポール・サミュエルソン新古典派総合に取り込まれることによって全く均衡論的な「ケインズ経済学」になり果ててしまった。このことに関して、世界的な日本人経済学者の一人であった森嶋通夫は辛辣に批判していた。サミュエルソンの45度線分析にしても、それは幾何学であって経済学にはならないとまで言い、徹底的な批判を加える。

 

 合理的期待形成仮説のマクロ経済への適用を主張する反ケインズ経済学の立場にある側から、ケインズ経済学には期待の果たす役割への正当な評価に欠けるとする批判が展開されたが、ケインズ自身の残したテクストを読めば明らかなように、この批判はことケインズに対する批判としては完全に的外れであるように思う人が多かろうと想像する。というのも、ケインズほど経済における人々の期待の役割が大きいかを考えてきた経済学者はほとんどいないというのが事実だからである。『一般理論』では、雇用量や国民所得の水準が人々の持つ期待により大きく左右されることが述べられているし、不確実性の下での意思決定の問題について触れられている。そもそもケインズの初期の思考をまとめた『確率論』では命題間の論理的関係としての確率(論理的確率)の概念を提示するほど、不確実性の下での合理的認識の可能性と期待の問題に拘っていた。「数値化されない確率」という概念をも提起することによって計量化可能なリスクと不可能な不確実性の概念の区別を説くなど意思決定の基礎となる長期期待の状態の問題にもその思考の射程を広げていたほどである。

 

 こうした誤解に基づくケインズ経済学批判を展開した「ルーカス批判」として知られるルーカスの合理的期待形成仮説は、ケインズ経済学のモデルが予測に失敗した理由は、個人の期待が経済に及ぼす作用や期待変化について考慮していなかったことを指弾するという、ケインズ自身のテクストを読めば犯さないような誤解に基づいている。その内容は、いわば「回帰したヒューム主義」とでも言えるもので、通貨量が増えたとしても、国内の実際の富の量が一定のままであれば経済には何ら変化をもたらさない。というのも、人々がそのことを知れば政府は何の刺激も与えることができず政府の経済政策は無効になるからである。

 

 合理的期待形成仮説は大雑把に整理すると、①人々の将来の市場の諸条件についての正確な知識、②各経済変量の客観的確率分布に関する正確な知識、③各自の立場から最も有利になる行動選択の計算能力を前提にして立論している。①~③が前提されているのなら、そもそも期待概念が成立する余地があるのだろうかという疑問が出てこよう。というのも、将来の事象について不確実性を持つからこそ期待概念が形成されるはずだからである。もちろん、ルーカスが問題提起した内容の認識論的問題を抽出することも可能だ。というより、ルーカスの問題提起で最も面白いと感じる箇所はまさにそこにこそあるというべきと思われることは、一定の市場のパターンに注視する行為そのものが当該市場のパターンを変化させてしまう効果があるという点である。ある意味で量子力学的認識論と親和的なこの認識論上の主張は、現在の内部観測論とも接続可能な内容を持っているとも言える。また、投機家ジョージ・ソロスの「再帰性理論」にも符号するようにも読める。このソロスの「再帰性理論」がトポス理論に親和的な構造を持つことを世界的な量子重力理論の研究者リー・スモーリンが示唆しているのが興味深い。スモーリンは物理学者ではあるが、一時的に経済学の研究にも取り組み経済学についての論文を数編執筆するなど単なるディレッタント以上に経済学への造詣があるので、この言はただの思い付きというわけではないだろう。

憎悪の連鎖

 いわゆる「嫌韓」を主張する勢力に対する警戒の声が、「ヘイトスピーチ」規制の実施を求める声となって表れている。かつての「在日特権を許さない市民の会在特会)」の活動など「行動する保守運動」を称する一連の排外主義的主張する集団の言動を「ヘイトスピーチ」として罰則付きの取締対象にしろとの声である。また、国際機関の「お墨付き」を得ようと各種団体が国連でのロビー活動を展開して、国連の機関からこの種の主張に対する取り締まりの勧告を取りつけ、それを以って国内での取締り論の強化に利用としている節も見られる。この構図は、ちょうど日本国内の左翼団体がいわゆる「従軍慰安婦」問題において、国連人権委員会でのロビー活動を通じて日本政府に対する勧告を出さしめ、以って自らの主張を実現しようとする構図に類似している。要するに、「外圧」に弱い政府の性格を見越して、自らの主張を通そうとする算段と言えよう。

 

 「行動する保守運動」という排外主義的グループによるデモに対して反発するカウンター抗議も活発となり、その過激な抗議行動により各地で逮捕者を出すまでに至っている。排外主義的グループのデモは一応道路使用許可の下になされた合法的活動であり、日本国憲法21条1項において保障される「言論・表現の自由」の範囲内での政治活動に見える。対してカウンターデモの側は、おそらく道路使用許可を取らずにデモ行進により政治的主張を展開する者たちに対する沿道からの妨害活動と映ってしまう。対抗言論をぶつけるのならまだしも、「レイシスト帰れ!」だのと大声で連呼するだけならば単なる妨害工作と感じる者も多かろうと想像するし、余計な反発を呼ぶだけだろう。よもやそういうことはあるまいとは思うが、排外主義的グループとの「共犯」関係にもとれる協働行為を疑う者が出てきても不思議ではない程だ。

 

 左翼の中には、この排外主義的グループとそのカウンター勢力との直接衝突によって不測の事態が発生することを予防しようとして警備体制を敷いている警察に対して、排外主義的グループを擁護していると非難しているようだが、もし本気でそう思っているのなら完全に狂っているとしか言い様がない。警察が警備体制を敷くのは、排外主義的グループとカウンターの左翼との衝突による不測の事態発生を回避することが目的であって、排外主義的グループを擁護する目的など持ってはいないことくらい、我々民族派右翼として活動する者にとっても容易に理解できることである。実際に、警察は「反天連」という我々からして最も許しがたい集団がデモ行進する際にも、我々右翼の側からの襲撃を防ごうとして過剰なまでの警備体制を敷いており、我々も時には警察に対して過剰警備を批判し、「反天連」など守る必要はない旨の抗議を行う。しかし警察が「反天連」を擁護するために警備体制を敷いているわけではないことくらいは理解している。時には自身の信条に反する任務につかざるを得ない立場であることも理解した上で抗議する。左翼にはそうした立場にある個々の警察官の境遇に対する想像力が欠けている。

 

 日本の左翼の特筆の一つとしてご都合主義的な二枚舌を弄する点が挙げられるが、こうした警察に対する対応一つとっても同じ二枚舌を弄することは相変わらず。左翼系デモに対する右翼側からの襲撃がなされたとすれば、左翼は警備が手薄な旨攻撃することだろう。仮に排外主義的グループとカウンターとの直接衝突を回避すべく適切な措置を講じないことにより死傷者が出た場合、左翼は警察にその責めを帰す文句を吐くのではあるまいか。実際に衝突による負傷者や逮捕者が発生している事案が存在する中で、警察がこれを放置することはできないと判断するのは、ある意味当然と言えるだろう。そういう想像力に欠けているのも、独善的な左翼にみられる傾向である。

 

 我々民族派右翼も頻繁に警察当局と衝突し、強い口調で警察を批判することもあることは先述した。しかし、そうであっても警察には警察としての立場があって行動していること、そのことにも理があることを承知して行動している。相手の立場に立つことは中々難しいことではあるけれど、多少は想像力を働かせて相手を理解しようという寛容を持とうと少なくとも努力はしている。それは、義理や人情への細やかな配慮にも現れている。民族派右翼による直接行動における最も過激な形態である要人暗殺にしても、「一人一殺」を旨として対象者以外の者に直接害が及ばないように配慮してきた。たとえ国賊売国奴であろうとその者にも愛する家族や知人がいるであろうからと、一滴の涙をもってできる限り犠牲者が少なくなるように、また家族に現場を見せまいと配慮しつつ、やむに已まれぬ直接行動に出た者がほとんどである。女や子供には手を出してはならないことが不文律としてあるのは、あの陸軍皇道派青年将校によるクーデタ未遂事件「二・二六事件」の精神にすら貫徹されていた。

 

 ところが、左翼によるテロリズムは対象者が誰であろうと家族や一般市民をも巻き込む無差別テロが多い。そこには人間の細かな機微に対する感覚もなければ想像力もない。もちろん「一滴の涙」もない。ただひたすら自分の独善的な世界観に合わせて他人をそのための道具とみなすばかりである。一人の人間を政治的カテゴリーだけでしか見れないというのが、これまでの左翼全体主義に例外なく見られる特徴である。この左翼全体主義が世を覆うことによってどのような地獄絵が展開されるか、それは歴史が証明するところである。東西冷戦は世界的にみれば終焉したが、北東アジアでは今もなお形を変えて存在している。共産主義体制の実情と左翼政権による残忍な行為が白日の下にさらされたことによって左翼勢力はかつての勢いを失ったとはいえ、様々な社会運動を隠れ蓑にして生き残りを図ろうと躍起になっている。反核運動を基軸とした環境保護運動もその一つだし、人権擁護運動も然り。一見、誰もが反論しにくい耳触りのよいスローガンを掲げ、さして左翼思想を持つわけでもない一般の国民を取り込み、最終的にオルグを成功させて左翼運動の先兵となさしめること。こうした戦略によって、一般国民の間に浸透を図ろうとするが、本音のところは隠しているのが実態だ。このところ左翼の偽善・欺瞞があからさまに目立つのも、表向きのスローガンと本音との齟齬が際立つ場面が臨界状況に達してもはや隠しきれない程に広がってきたからに他ならない。

 

 左翼が主張する「ヘイトスピーチ」なるものを批判し糾弾する内容は、それ自体としては大いに首肯できるところがあり、本心からそれ自体を目的に主張するならば理解もできる。しかし、素直に左翼の主張に同調しかねるのは、左翼の本音が別のところにあることが透けて見えてしまうからだ。日本の左翼は世界的にも珍しく、自国の尊厳を貶め、自国民を足ざまに罵り蔑み見下す活動に精を出し、いわば「日本呪詛」の怨念に突き動かされるあまり、他国とりわけ中華人民共和国や南・北朝鮮の利益に資するような行動を繰り返している。共産主義の世界的敗北という惨めな結果を率直に受け入れられないことから来る歪な感情が、ルサンチマンとなって日本呪詛の言動へと転化した成れの果てが日本の左翼という世界的に見ても奇特な連中の実相なのである。

 

 だからといって、排外主義的グループの極端な主張が許容されるわけではない。少なくとも、「不逞鮮人は日本から出ていけ!」や「ゴキブリ朝鮮人」あるいは「朝鮮人、息するように嘘をつく」、「朝鮮人、顔面の捏造するように歴史を捏造することをやめろ」などという表現は、言論・表現の自由の保障をうたう憲法21条1項が予定している自由の範疇を超えているように思われるし、このような言動が日本社会に広がっているのが仮に事実であるとするならば、かかる事態は日本国及び日本人並びにこの国に住む住民全体にとっての恥であり、一刻も早く是正されるべきとも思う。ましてや、このグループが矛先を在日コリアンに向けるのは論外であろう。東京の新大久保や大阪の鶴橋あるいは名古屋の大須など在日コリアンが多数住む街で韓国糾弾を叫ぶのは、彼ら彼女らの平穏な生活を侵害する行為である。

 

 我々民族派右翼は、民族派ゆえにこそ、一つの民族を全てまとめて否定するような民族憎悪・人種憎悪には断固として反対する。我々が日本民族の尊厳を守りたいと思っているのと同様、朝鮮民族朝鮮民族としての誇りと尊厳と矜持を持っているはずである。だからこそ、朝鮮民族全体を否定するような行為に対しては断固として反対するし、民族派団体の中にはこのような排外主義的グループに対して直接抗議街宣活動を展開している団体もある。かつて、石原慎太郎の選挙事務所が同じ選挙区から出馬した新井将敬の選挙ポスターに「北朝鮮から帰化」などと書いたシールを貼りつけて回った選挙妨害事件があったが、その際、石原慎太郎の事務所に猛抗議したのは野村秋介である。野村烈士は大悲会会長として知られる民族派右翼の重鎮で葦津珍彦の薫陶を受けた思想家であり活動家であり、朝鮮民族を差別する行為を断じて許さなかった人物である。かつて獄中で出会った在日コリアンの収監者で刑務官から不当な扱いを受けていた者を守るべく、刑務所の所長に直談判したのも野村先生であった。また民族派右翼の中には、数としては極く少数ながらも、故あって在日コリアンの人も在籍している。犯罪歴などの理由から日本に帰化したくても難しい事情があって在日という立場のままという人が多いのだが、彼らは心底生まれ育ったこの日本という国や文化を愛し、その思いが強くて敢えて民族派にまでなった人々である。それ故、まっとうな民族派右翼は、「ヘイトスピーチ」に代表される排外主義的主張に反対することこそあれ、これを容認するような真似はしない。

 

 しかし、排外主義的な主張を容認しないことと韓国批判を容認しないこととは全く別異のことである。この点を左翼は意図的に混同し、自らの政治的主張に沿わない言論に対して「ヘイト」だの「嫌韓」だのといって全否定した上で、これら一連の批判を封じ込めようとする。ここにも左翼全体主義が現れていると言えよう。あからさまな反日言動を展開する現在の韓国政府や韓国人に対して、これはおかしいと思うことがあれば率直に批判を展開するというのが健全な関係ではないのか。韓国批判はすべて悪であるかのごとき物言いは、むしろ言論・表現の自由を萎縮させ自らの首を絞めているようなものである。ところが、独善体質の左翼は自らの「正義」に対する懐疑の態度を欠落させ、自分と異なる意見は容認しないという不寛容な態度を貫き続ける。ちょうど共産党独裁政権が政権批判を一切許すまじとして弾圧してきた歴史を彷彿とさせる。日本共産党の独善体質を一目見ても、彼らが間違って政権を取ろうものなら、次にどのような暗黒の世の中が出来するか想像が容易につくだろう。

 

 再度言うように、一つの民族全体を十羽一絡げにして否定するかのごとき主張は端的に言って「レイシズム」であり、こうした「レイシズム」に対して日本社会の声としてこれを断じて許さないという土壌が形成されていく必要があろう。但し、その土壌は「レイシスト帰れ!」と怒鳴っているようでは醸成されにくいだろうことも、また確かなように思われる。それどころか、かえって反発から「レイシズム」を増長させていくことに結果としてつながるだろうことも容易に想像される。いかなる民族も、その民族の祖先から受け継いできた歴史・伝統・文化に対する誇りとそれを守り継いでいくとの矜持を持っている。日本民族であろうと朝鮮民族であろうとアイヌ民族であろうと漢民族であろうと満洲民族であろうと皆等しく変わらぬところである。その誇りと尊厳を傷つけるかごとき主張は許されないことであって、この一事を以って排外主義的グループの言動は肯定できない。批判は正々堂々と個別の問題ごとに批判すべき点を明確にして理路整然とした批判活動を展開していくのが筋である。韓国批判は許すまじとする左翼のように、表向きでは韓国擁護の論陣を張りつつも実は心底では朝鮮民族を見下している潜在的差別主義者の言に惑わされず、日本国民は一人の立場からでも韓国がおかしいと思うことがあれば、批判すべきを批判するという態度で臨めばよいのであって、何も韓国に阿る必要など些かもない。それこそ相手を対等な存在として遇することであって、「ごまめ」扱いすることが相手を尊重することであるわけではない。

 

 しかし、一連の排外主義的グループの活動を法的に取り締まることは行き過ぎであって、あくまでも対抗言論をぶつけることで戦うのが筋である。もちろん、その対抗言論とは、良識派知識人が言いそうなきれいごとではなく、必ずしも暴力否定論者ではない僕からすれば、場合によってはそこに「肉体言語」も含まれて構わない。逮捕されることも厭わずという覚悟を持って抗議したいならそうすればいい。「ヘイトスピーチ」とは、一定の集団とりわけマイノリティに対する侮辱、名誉棄損、憎悪排斥、差別などを内容とする表現行為であって、内容いかんによっては必ずしもマイノリティとはいえない特定の集団に対するその存在を否定する誹謗中傷・皮肉表現も包含される。だから、何を「ヘイトスピーチ」と認定するかはあからさま極端な事例は別として困難を極める。それを法的に規制することは、憲法上「表現の自由」が重要な権利として認められている以上、慎重を期さねばならない。まず何をもって具体的に「ヘイトスピーチ」として定義された行為の範疇に包含されるのかについての合意がなされず、それゆえに規制立法の法技術的困難と具体的適用場面における解釈上の困難がつきまとう。ある行為を犯罪とするからには、構成要件該当性判断を容易ならしめるだけの明確性が要求されるところ、これほど人々の意見が複雑化・多様化した現在において概ねの一致をみることが期待されるだけの明確性をどう確保するのだろうか。蓋し、言論・表現活動の萎縮効果をもたらすだけにしかつながらないことだろう。現在の左翼の言動を見る限り、左翼全体主義的な主張に合わせて他国を批判すること自体が許されないとまで濫用されるに至りかねない。

 

 最近の下品な「週刊ポスト」の韓国関連の特集記事に対する一部の人々の発狂ぶりをみると、こういう連中によって十中八九立法が悪用されかねないという危惧を一層募らせもする。この事件は、別の角度から見ると、左翼全体主義の一端を垣間見させてくれたとも評価できよう(メディアの問題を言うならば、例えば東海大学金慶珠教授が出演するテレビ番組のあり様の方だろう。もちろん、金教授を出演させるなと言っているのではない。その逆である。金教授を出演させて議論させるなら、きちんと一対一で冷静な議論ができる状況を設定するべきであって、四面楚歌のような状態であたかも彼女だけを袋叩きするかのような演出は卑怯なことなので、やめた方がいいと言っているのである。僕は決して金慶珠教授の主張には同意できないが、日本のテレビ番組における多勢に無勢の状況での彼女の孤軍奮闘ぶりに対しては寧ろある種の同情を覚えるのが正直な気持ちである)。またそうなると、かえって日本人の極端な反発を招き寄せるおそれだってある。極端はその正反対の極端を生み出す。強制によって差別が解消されることはないのである。

 

 そもそも最近十年ほどの間に排外主義的グループの活動が活発化し、これに共鳴する日本人が多くなったのも、彼ら彼女らからすると、これまで日本は中華人民共和国や南・北朝鮮から言われたい放題やられたい放題であり、そうした日本に対する誹謗中傷に対して政府やメディアは適宜反論してくればよかったのに、そうした反論をしていくことが何とはなしに慎まれるべきであるとの「暗黙の強制」的雰囲気、あるいは「臭いものには蓋をしておけ」といった空気に対する不満が溜まりに溜まったことに起因する。確かに、中華人民共和国や韓国・北朝鮮に対しては、他国への批判と違って何か奥歯に物が挟まった物言いしかなされない遠慮が働いていた。特に日韓関係は、両国の国力の差があり、韓国側の無理難題の要求に対して日本は「大人の態度」とばかりに大目にみてきた歴史がある。対北朝鮮の関係からも韓国も西側陣営の一員だからということで、日本の保守派政治家も韓国に対して過剰とも言えるサービスを供してきたことも手伝っていよう。左翼は何かにつけて「歴史」を持ち出し、韓国に対するまっとうな批判ですら封殺しようとしてきた。

 

 左翼全盛の「知識人」の世界においてはなおさらだった。まだ「論壇」が機能していた時代に不幸にも左翼全盛時代を迎え、「戦争加害者」の側面が殊更に強調され、道徳的に劣位の立場であることを押しつける言説が幅を利かせてきたこともあって、適切な批判がともすれば「差別」として糾弾されかねない雰囲気のために正面切った批判がなされてこなった。拉致問題が長年放置されてきたのも、北朝鮮に融和的な左翼が拉致を全否定する言論活動を展開してきたことが一因である。その意味で、とりわけ北朝鮮の体制を礼賛し拉致問題を封印してきた旧日本社会党岩波書店(特に社長だった安江良介は露骨な金日成崇拝者で、雑誌「世界」を中心に北朝鮮の体制を礼賛し続け、拉致問題を否定してきた人物である。しかし、とうとう責任もとらないままに亡くなったしまった)の責任は重大である。北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝しまくっていた者が「知識人」として偉そうに君臨していた戯画のような光景が繰り広げられていた戦後日本の一定の言説の偽善・欺瞞に辟易する声が方々から聞こえてくるのも無理ないことであった。もっとも、左翼的な立場であった東京大学の小川晴久のように早くから北朝鮮による日本人拉致の問題や北朝鮮帰国事業で向こうへ渡った人々の人権状況を批判する活動を展開してきた識者もいた。ところが大部分の左翼は、こうした活動を無視するか逆に暴力的な介入によって妨害活動に勤しむなど朝鮮労働党統一戦線部の指揮下にある朝鮮総連の人間らと組んできたのである。そうした妨害活動を率先していた人間が慰安婦問題を声高に叫んできたということを記憶にとどめておくべきだろう。

 

 ネット社会がそうさせたなどと安易なことを言うつもりはないが、少なくともネット社会になって、人々が本音のところで「薄々感じていたこと」をお互いが知る術ができたことで、自分のみが特殊な考えを抱いているのではないかとの疑心が晴れ、同じことを皆が思っていたことの気づきから来るある種の開き直りが、本音を暴力的にまで表に出してしまう大衆を生み出しもしたのだろう。こうした表に出てきた「本音」を無理やり弾圧して活動を停止させたとしても、それは、これまで醸成されてきた憎悪をますます増幅させることになる。

 

 考えてもみれば、元から嫌韓ムードが日本社会を覆っていたわけではない。むしろ、サッカー「日韓W杯」の頃には、マスメディアによる友好ムードの煽情とあたかも「日韓新時代」を迎えたかのような脚色が施された報道がなされていたことを差し引いても、日本社会で露骨に韓国を嫌う人びとはさほど多くはなかった。これほどまでに韓国を嫌悪する声が高まったのは、専ら韓国側の姿勢による。実際、極端な嫌韓を主張する声なり韓国嫌いを公言する人々が増えたのは、韓国の元大統領李明博竹島への密入国と、その直後に発せられた現上皇陛下に対する不敬発言が契機となっている。わが国の象徴であられる天皇に対しかくも侮辱的な罵詈雑言を浴びせかけた政治指導者の存在は前代未聞であって、日本国民に与えた驚きと怒りは極めて大きかった。右は産経から左は朝日まで、この点に関しては韓国の無礼に対する批判を一致して展開していたほどである。国交を断絶するもやむなき事態ともいうべきほどに、外交上ありえない所業であって、日本国民の嫌韓の思いはこのとき最高潮に達したといってよい。

 

 その後にも、「従軍慰安婦」問題を声高に叫び、諸外国での反日言動が日本国内の人々にも伝えられるたびに韓国への疑心は高まっていった。この状態で韓国を好きになれという方が無理筋の主張であって、国民感情の機微に触れずに単に仲良くしなければならないというだけでは何ら問題は解決しない。日韓関係を悪化させた要因は、韓国政府や陰に陽に日本に対する執拗な嫌がらせ行為を続ける韓国人たち含め総じて韓国側の言動であった。韓国の反日的言動を列挙すればきりがないほどである。しかし、日本人は概ねその怒りを表に出さず耐えてきたという側面もある。これ以上の我慢はできないという日本国民が増えてきた。これが極端な主張をする排外主義的グループの躍進の背景にあるのだろう。日本だけに我慢をしろとせがむのは、もはや無理がきているのである。

 

 そこに加えて、露骨な親北反日ムン・ジェイン政権の誕生と来た。ムン政権は慰安婦合意によって設立された財団を解散させ事実上合意を一方的に破棄するわ、元募集工判決にみられる国際法上の違法状態の放置はするわ、日本に対する罵詈雑言を並べ立て、地方議会では「戦犯企業」と名指しして日本企業をヘイトする条例を制定するわでやりたい放題の有様である。自衛隊の哨戒機に対する火器管制レーダー照射行為など、いつ不測の事態の発生に至ってもおかしくはない韓国軍の行動に怒りを覚えた日本人も多い。さらに、逆切れして日本が悪いと無理筋の理屈を弄して日本批判をする。非があれば認めればようものを認めようともしない。解釈は両国で相違がでても明らかな事実に対してすらも否定する厚顔無恥ぶりに怒りを通り越して呆れ返った日本人も多かろう。さすがに「これはおかしいだろう」と思う日本人が批判の声を上げ始めるや、左翼は嫌韓を煽るなと韓国批判を封じ込めようと躍起になる。そうすると逆に、これに反発する日本人がさらに過激さを増した韓国批判を展開する。この連鎖が今日の状況である。

 

 なぜ、かくのごとき「嫌韓」の人々が増えてきたのか。それは何も差別を煽動する言説が出てきたためではない。むしろ、そうした主張に呼応する人々が大勢で出てくるほどに韓国・北朝鮮に対する鬱積した感情が醸成されるだけの土壌が存在していたと考えた方がいい。その土壌は、韓国・北朝鮮に対する面と向かった批判すらも許されないとする暗黙の雰囲気がこれまでにあったことへの反動である。いずれにせよ、「嫌韓」がかなりの数増えてきてきている要因を分析し、言説レベルでも左翼的言説が跳梁跋扈してきたことの反省も踏まえて事に当たらないと、暴力的威圧による差別糾弾の運動や、逆に「差別はやめよう」「仲良くしよう」と融和的言辞を弄したりしても、問題の本質的な解決には何らつながらないということである。

 

 韓国では、親北の左翼系市民団体を中心に反日運動を展開し日韓離反のための策動を継続している。GSOMIA破棄もその成果なのである。日本の左翼もそれに呼応して日韓GSOMIA破棄を主張してきた。日韓友好を表向きではうたいつつ、両国の国益にとって害となるはずの日韓GSOMIA破棄の主張は、隠していた本音がつい零れ落ちて表面化した典型である。次なる目標は、韓国側の無理筋な主張を強引な屁理屈でもって肯定し、日本人のフラストレーションを募らせることで最終的に日韓離反へと持っていくことである。この点で、実は日本の左翼と排外主義的グループは共通の目的に向かって進む共犯関係を取り結んでいる。

Crisis between the United states and Iran

 Yemen’s Houthi rebels launched drone attacks on the world’s largest oil processing facility in Saudi Arabia and a major oil field Saturday, sparking huge fires at a vulnerable chokepoint for global energy supplies. It remained unclear hours later whether anyone was injured at the Abqaiq oil processing facility and the Khurais oil field or what effect the assault would have on oil production. The attack by the Iranian-backed Houthis in the war against a Saudi-led coalition comes after weeks of similar drone assaults on the kingdom’s oil infrastructure, but none of the earlier strikes appeared to have caused the same amount of damage. The attack likely will heighten tensions further across the Persian Gulf amid an escalating crisis between the U.S. and Iran over its unraveling nuclear deal with world powers.

 

 Iran denied that it was involved in Yemen rebel drone attacks the previous day that hit the world’s biggest oil processing facility and an oil field in Saudi Arabia, just hours after America’s top diplomat alleged that Tehran was behind the “unprecedented attack on the world’s energy supply.” The attacks  claimed by Yemen’s Houthi rebels resulted in “the temporary suspension of production operations” at the Abqaiq processing facility and the Khurais oil field, Riyadh said. The amount Saudi Arabia is cutting back is equivalent to over 5% of the world’s daily production. While markets remained closed Sunday, the attack could shock world energy prices. They also increased overall tensions in the region amid an escalating crisis between the U.S. and Iran over Tehran’s unraveling nuclear deal with world powers.

 

 The U.S. officials previously alleged at least one recent drone attack on Saudi Arabia came from Iraq, where Iran backs Shiite militias. Those militias in recent weeks have been targeted themselves by mysterious airstrikes, with at least one believed to have been carried out by Israel. Iranian Foreign Ministry spokesman Abbas Mousavi  dismissed Pompeo’s remarks as “blind and futile comments.”


 President Donald Trump called Saudi Arabia’s Crown Prince Mohammed bin Salman to offer his support for the kingdom’s defense, the White House said. The crown prince assured Trump that Saudi Arabia is “willing and able to confront and deal with this terrorist aggression,” according to a news release from the Saudi Embassy in Washington.

 

 Among the states in the Middle East, Iran has perhaps the most coherent experience of national greatness and longest and subtlest strategic tradition. It has preserved its essential culture for three thousand years, sometimes as an expanding empire, for many centuries by the skilled manipulation of surrounding elements. Before the ayatollahs' revolution, the West's interaction with Iran had been cordial and cooperative on both sides, based on a perceived parallelism of national interests.

 

 The United States and the Western democracies should be open to fostering cooperative relations with Iran. What they must not do is base such a policy on projecting their own domestic experience as inevitably or automatically relevant to other societies', especially Iran's. They must allow for the possibility that the unchanged rhetoric of a generation is based on convinction rather than posturing and will have had an impact on a significant number of the Iranian people. A change of tone is not necessarily a return to normalcy, especially where definitions of normalcy differ so fundamentally. It includes as well-and more likely- the possibility of a change in tactics to reach essentially unchanged goals. The United States should be open to a genuin reaconciliation and make substantial efforts to facilitate it. Yet for such an effort succeed, a clear sense of direction is essential, especially on the key issue of Iran's nuclear program.

 

 The future of Iranian-American relation will depend on the resolution of ostensibly technical military issue. As these pages are being written , potentially epochal shift in the region's military balance andits psychological equilibrium may be taking place. It has been ushered in by Iran's rapid progress toward the status of a nuclear weapons state amidst a negotiation between it  and the permanent members of the UN Security Council plus Germany (the P5+1). Though couched in terms of technical and scientific capabilities, the issue is at heart about international order-about ability of the international community to enforce its demands against sophisticated forms of rejection, the permeability of the global nonproliferation regime, and the prospects for a nuclear arms race in the world's most volatile region.

 

 The traditional balance of power emphasized military and industrical capacity. A change in it could be achieved only gradually or by conquest. The modern balance of power reflects the level of a society's scientific development and can be threatened dramatically by developments entirely within the territory of a state. No conquest could have increased Soviet military capacity as much as the breaking of the American nuclear monopoly in 1949. Similarly, the spread of deliverable nuclear weapon is bound to affect regional balances-and the international order-dramatically and to evoke a series of escalating counteraction.

 

 All Cold War American administration were obliged to design their international strategies in the context of the awe-inspiring calculus of deterrence: the knowledge that nuclear war would involve casual-ties of a scale capable of threatening civilized life. They were haunted as well by the awareness that a demonstrated willingness to run the risk- at least up to a point- was essential if the world was not to be turned over to ruthless totalitarians. Deterrence held in the face of these paralel nightmares because only two nuclear superpowers existed. Each made comparable assessments of the perils to it from the use of nuclear weapons. But as nuclear weapons spread into more and more hands, the calculus of deterrence grows increasingly ephemeral and deterrence less and less reliable. In a widely proliferated world, it becomes ever more difficult to decide who is deterring whom and by what calculations.

 

 The complexity of protecting nuclear arsenals and instalations and bulding the sophisticated warming systems possessed by the advanced nuclear states may increase the risk of preemption by tilting incentives toward a suroprise attack. They can also be used as a shield to deter retaliation against the militant actions of non-state group. Nor could nuclear powers ignore nuclear war on their doorsteps. Finally, the experience with the "private" proliferation network of technically friendly Pakistan with North Korea, Libya, and Iran demonstrates the vast consequences to international order of the spread of nuclear weapons, even when the proliferating country does not meet the formal criteria of a rouge state.

 

 The United States and the other permanent members of the UN Security Council have been negotiating for over ten years through two administrations of both parties to prevent the emergence of such a capability in Iran.Six UN Security Council resolutions since 2006 have insisted that Iran suspend its nuclear-enrichment program.Three American presidents of both parties, every permanent member of UN Securuty Council plus Germany, and multiple International Atomic Energy Agency reports and resolutions have all declared an Iranian nuclear weapon unacceptable and demanded an unconditional halft to Iranian enrichment. No option was to be off the table in pursuit of the goal.

 

 The record shows steadily advancing Iranian nuclear capabilities taking place while the Western position has been progressively softened. As Iran has ignored UN resolutiona and built centrifuges, the West has put forward a series of proposals of increasing permissiveness-from insisting that Iran terminate its uranium enrichment permanently(2004); to allowing that Iran might continue some enrichment at low-enriched uranium levels, less than 20 percent(2005); to proposing that Iran ship the majority of its low-enriched uranium out of the country so that France and Russia could turn it into fuel rods with 20 percent enriched uranium(2009); to a proposal allowing Iran to keep enough of its own 20 percent enriched uranium to run a research reactor while suspending operations at its Fordow facility of centrifuges capable of making more(2013). Fordow itself was once a secret site; when discovered, it became the subject of Western demands that it close entirely.

 

In the spring of 2013, Ayatollah Ali Khamenei, the Supreme Leader of the Islamic Republic of Iran- the figure then and now outranking all Iranian government ministers, including Iran's President and Foreign Minister- delivered a speech to an international conference of Muslim clerics, lauding the onset of a new global revolution. What elsewhere was called the "Arab Spring", he declared, was in fact an "Islamic Awakening" of world-spanning consequence. The West erred in assessing that the croweds of demonstrators represented the triumph of liberal democracy, Khamenei explained. The demonstrators would reject the "bitter and horrifying experience of following the West in politics, behavior and lifestyle "because they embodied the "miraculous fulfillment of divine promises".

 

 In Khamenei's analysis, this reawakening of Islamic consciousness was opening the door to a global religious revolution that would finally vanquish the overbearing influence of the United States and its allies and bring an end to three centuries of Western primacy. Following "the failure of communism and liberalism" and with the power and confidence of the West crumbling, the Islamic Awakening would reverberate across the world, Khamenei pledged, unifying the global Muslim ummah(the traditional community of believers) and restoring it to world centrality. Khamenei had explained upon this topic previously. As he remarked to an audience of Iranian paramilitary force 2011, popular protests in the West spoke to a global hunger for spirituality and legitimacy as exemplified by Iran's theocracy. In any other region, such declaration would have been treated as a major revolutionary challenge: a theocratic figure wielding supreme spiritual and temporal power was, in a significant country, publicly embracing a project of constructing an alternative world order in opposition to the one being practiced by the world community.

 

 The Supreme Leader of contemporary Iran was declaring that universal religious principles, not national interests or liberal internationalism, would dominate the new world he prophesied. Had such sentiments been voiced by an Asian or a European leader, they would have been interpreted as a shocking global challenge. Yet thirty-five years of repetition had all but inured the world to the radicalism of these sentiments and the actions backing them. On this part, Iran combined its challenge to modernity with a millennial tradition of a statecraft of exceptional subtlety.  

旭日旗を高く掲げよう

 9月13日といえば、明治天皇の御大葬の号砲とともに自宅にて自刃した乃木希典将軍の御命日である。この殉死という出来事は、夏目漱石森鴎外にも大きな影響を与えた「思想的大事件」であったのだが、乃木将軍の人格や生き方がその人の行く末に爪痕を残した人は彼らだけではなかった。その一人は昭和天皇であり、もう一人は連合国軍総司令部GHQ)最高司令官として大東亜戦争終結後の占領政策を主導したとされるダグラス・マッカーサーである。

 

 日露戦争後、明治天皇は後の昭和天皇であるまだ若い孫の迪宮裕仁親王殿下の教育係として学習院院長に乃木を指名された。乃木は、まだ幼い迪宮殿下に対して将来の君主として相応しい御人格を醸成するために厳しい帝王教育を行ったとされ、迪宮殿下もそういう乃木を「院長閣下」と呼ばれて敬愛の対象とされていた。明治天皇崩御の後、乃木は迪宮殿下に対して自ら朱字の注釈を書き入れた山鹿素行の『中朝事実』を遺書代わりに託し、御大葬の日に静子夫人とともに明治天皇に殉じた。その後、昭和天皇は乃木の望む通りのあるべき君主の理想を常に意識に留めおきながら、激動する昭和の御代を伝統的な天皇のあるべき御姿とともに近代国家における立憲君主としての御振舞を両立されるべく苦心され続けた。

 

 昭和天皇は対政治との関係では、あくまで立憲君主として振舞われ政務に直接介入されることはなかったが、直接御意向を表明された事例は二度あり、その一つが終戦の御聖断であり、もう一つが二・二六事件における反乱部隊の鎮圧の御命令である。両者とも内閣がその補弼機能を喪失した時である。二・二六事件では自らの側近や内閣の閣僚が暗殺され内閣の補弼機能が麻痺してしまった時、昭和天皇は筋を通され「朕自ら近衛師団を率いてこれが鎮圧にあたらん」と仰せになった由。そもそも上御一人に対して弓引くことなどつゆだに考えていなかった反乱部隊は、陛下の御意向を知るやたちまち降伏することになったわけだが、こういうところにも昭和天皇への乃木の教育の影響が現れていると言えなくもない。

 

 ダグラス・マッカーサーの父も同様に米国の軍人だったわけだが、この父親は日露戦争の際、従軍武官として乃木希典将軍の傍にいて乃木の高潔な人格と理想的な武人としての姿を目にして乃木を終生尊敬し、我が子にも乃木希典将軍のような理想的な軍人になって欲しいと願い続けた。乃木の優れた人格は敵方のロシア人にも広く感銘を与え、乃木を慕う者も多いという。日本では司馬遼太郎の影響もあって「愚将」のレッテルを貼られ、そのイメージを今も抱いている者も中にはいるが、事実はそんなことはない。この司馬遼太郎によって植え付けられたイメージに対して徹底反論した日本人の最初は福田恆存であろうが、米国やロシアでは端からそのようなイメージはない。乃木希典は漢文の素養があり、時が違っていれば文人として名を馳せていただろうと言われるほど古典の知識にも通じた博覧強記の知識人でもあった。文人としての素養に恵まれながら、動乱の時代にあって武人となりつつその極限的な状況の中でギリギリの理想を貫こうとしたところに乃木希典の人格に感銘を受けた人が多い理由であるのかもしれない。

 

 もっとも、乃木希典の生真面目な面ばかりが強調されるきらいがあるが、実は相当変わった面もあって、結婚式をすっぽかして泥酔して帰宅するわなんだで無頼な面も併せ持った人物であることがその人生を紐解けば理解されてくる。乃木の殉死の直接の理由はもちろん明治天皇崩御であったわけだが、そこに至るまで乃木の脳裏から離れなった過去の出来事への自責の念の対象は、西南戦争の時に敵側に連隊旗を一度奪われてしまったことだった。乃木にとって連隊旗を奪われることは自らの命を処決すべきと思うほど不名誉なことであった。逆に言うなら、軍旗とはそれほどまでの名誉と尊厳の象徴であったということである。

 

 2010年代に入ってから特に、韓国は日本の旭日旗に対して事あるごとに日本や国際社会に対して非難を繰り返し、その主張はますますエスカレートとして「旭日旗を連想させる」という理由でほとんど関連性のないものにまでそのデザインに文句をつけ出してきた。それまでは旭日旗について表立った反応はなかったはず。いわゆる「旭日旗問題」は、実のところごく最近になって韓国が騒ぎだした問題でしかない。韓国の国定歴史教科書によって教育された韓国人が、自国の都合に合わせてほとんど「捏造」と言っても過言ではない反日思想に塗り固めらた虚偽の「歴史」を振り回して日本を糾弾する声が大きくなったのは、特にこの時期からエスカレートしていく(韓国で教育を受けた者で米国に留学した折、これまで韓国内で学んだ歴史が誤りであったと気がつく者もいる。もっとも、日本の歴史教育でも国際的に通用しない記載もあることを公平を期すために断っておくべきだろう。例えば、日本国内の認識では、大東亜戦争終戦記念日ポツダム宣言受諾を表明した終戦の御詔勅が国民の前に発せられた8月15日であるが、世界的に見れば日本政府代表重光葵ミズーリ号上にて降伏文書に調印した9月2日という認識が一般的である。教科書にはミズーリ号での降伏文書調印は記載されてはいるものの、終戦とは降伏文書に調印した9月2日であるという認識が日本国内では一般化されていないのである)。ことさら韓国が嫌いなわけでもない日本国民や海外の人々もこうした一連の「嫌がらせ行為」に呆れ果てる人々も増えてきているという。Korea Fatigueは徐々に蔓延していくことだろう。挙句は、扇をモデルにして作られた東京パラリンピックのメダルのデザインにも文句をつけるにまで至っている。更に要求はエスカレートして、IOCに対して「旭日旗での応援を禁止しろ」とまで言う始末。

 

 旭日旗とは日章旗ほどではないにせよ、戦前の帝国陸海軍の軍旗でもあったことから、今日においても我が国を象徴する旗の一つとなっている(人によっては準国旗と位置づけている者もいることだろう)。現在は自衛艦旗として国際的にも認知されている旗であり、自衛艦が航行の際には掲揚を法によって義務づられている旗でもある。また陸上自衛隊の旗もこの旭日旗のデザインに範をとったものとなっている。この旭日旗を禁止しろと主張することは、我々の先祖が歯を食いしばって近代国家を形成し祖国のために尽力した帝国陸海軍の栄光に唾を吐くような真似であって、正も負も併せ持つ我々の歴史への冒涜でもあり、現在も我が国の国防の任にある自衛隊の存在を否定するものである。こうした非常識で無礼な要求は韓国と韓国の意向に従って行動しているごく一部の日本の左翼しかしていない(この人々の本音は旭日旗のみならず日章旗までも全否定したいというものであることは、これまでの言動から容易に想像される。したがって、旭日旗への抗議で味をしめたら次は日章旗に矛先を向けることだろう。日本の左翼というのは、世界的に見ても特殊な存在で、ここまで露骨に自国の歴史を否定し、先祖を罵り、外国勢力に自国を売り渡そうとする左翼は、世界広しといえども中々みられるものではない。たいていの国の左翼は、たとえ左翼であるといえども愛国者であるのが普通なのだが、こと日本の左翼はそうではないらしい)。

 

 韓国は、旭日旗は「日本の軍国主義の象徴である」だの「侵略の象徴」だのと言って批判するが、日韓併合時における我が国を象徴する旗といえば、旭日旗のみならず日章旗も当てはまることになってしまい、韓国側の無理な理屈を受け入れるとするならば次は日章旗に関しても同様な理屈で攻撃してくる可能性は大いにある。「侵略」に軸足をおくならば、大韓民国ベトナムを侵略し、多数の住民を虐殺し、多くの女性を蹂躙した挙句、ライダイハンと呼ばれる子供たちを残した。その残忍さは米軍を遥かに上回るようで、今もベトナムでは韓国軍の所業に憎悪の念を抱く者も多いという。ベトナム戦争に敗北した韓国政府はベトナム侵略への謝罪も賠償もしていないし、ライダイハン問題に関しても無視を決め込んでいる。ベトナムから言わせれば大韓民国の国旗である太極旗は「侵略の象徴」であろう(もちろんベトナムは誇り高い国なので、韓国政府のようにいつまでも「歴史」を持ち出して政治的交渉の道具としてユスリ・タカリの行いはしていない)。

 

 大英帝国時代の全世界への侵略行為をユニオン・ジャックが象徴していると言えなくもないし、米国の星条旗やフランスのトリコロールも然り。ましてや五星紅旗チベットウイグルへの侵略とジェノサイドの象徴ということになろう。旭日旗ナチスのハーケン・クロイツに準える暴論もみられるが、旭日旗は再度言うように現在も自衛艦旗として国際的にも承認されている旗であり、海上自衛隊の艦船の航行の際、日本を象徴する旗として掲げられているものであって、ユダヤ人や精神障害者を根絶やしにしようと絶滅収容所を設けて実際にガス室にて虐殺したナチ党の旗のごとき象徴性は微塵もない。ハーケン・クロイツは国家社会主義ドイツ労働者党の旗であって、これに相当するものと言えば、中国共産党の党旗を極一部分変えた五星紅旗ということになろう。現に、中華人民共和国は1950年代にチベットウイグルに侵攻し、チベット人ウイグル人を大量虐殺し文化や言語を奪うことまでしており、国際的非難にさらされているではないか。

 

 もっとも、オリンピックにおける我が国選手の応援に日章旗ではなく敢えて旭日旗を使用するのが相応しいかと各人が個別に思うかは別の話である。今はあくまで海上自衛隊の旗でしかない旭日旗を日本の選手の応援に用いるのは些か変な感想を持つことまでは理解できよう。しかし、だからといって応援に持ち込むことを禁止する措置まで講じるというのは、旭日旗を禁忌化する運動に呼応する措置であって許されるはずもなかろう。日本の中にも旭日旗での応援はけしからんとするごく一部の人々もいるようだが、彼ら彼女らは日本という国が嫌いで嫌いで仕方がない人々だから、韓国や北朝鮮に肩入れして日本批判に懸命になるあまり、この無茶苦茶な要求にまでも賛意を示すようになっているわけだが、そうした無茶苦茶な意見に肩入れすればするほど、左翼に対する国民からの不信の念は増々広がっていくことだろう。いわば墓穴を掘っているわけである。

 

 日本の左翼は、旭日旗は一般には広まっておらず、特殊な思想の持主だけが使用しているに過ぎないというが、だからそれが禁止する理由になるわけがないだろう。それを言うなら、赤旗などもっと流通していないわけだから彼らの理屈からすれば赤旗こそ禁止されるべきだろう。旭日旗にそれほどまでに文句をつけるなら、明らかに旭日旗デザインである朝日新聞社の社旗にも文句をつけてみてはいかがか。東京朝日と大阪朝日の社旗は左右真逆になっており、これらを並べるとちょうど旭日旗の上半分になる。仮に抗議を受けた朝日が左様でございますねと言って伝統ある社旗のデザインを軽々に変えるだろうか。おそらく社旗に関してかかる文句を言われる筋合いはないとして反応することだろう。

 

 少なくとも旭日旗は日本の海上自衛隊の旗として国際的に認知されているというだけでなく、一般の国民の中にも一定程度浸透しており、少なくとも赤旗などよりはずっと浸透し身近な存在になっている。僕に関して言うならば、大きな日章旗旭日旗が神棚と御真影を安置している部屋にも掲げられているし、いつもではないが、日章旗旭日旗を車の前方につけて走ることもある。また単車を愛好する者のなかにもタンクやコルク半を旭日カラーにしている人もいるし、暴走族や旧車會には旭日旗を掲げながら走るチームも数多く存在する。サッカーの応援に旭日旗も使用するサポーターもそれなりにいて、旭日旗は国民の中にも日本を象徴する旗の一つとして広範に認知されているのである。もちろん愛国運動に邁進する志ある政治結社の面々も日頃から旭日旗に親しんでいる。少々粋がった中学生なら、卒業式に旭日旗日章旗に寄せ書きして互いの卒業を祝福し合う者もかなりの数に上る。成人式でも日章旗とともに旭日旗を振り回す新成人の姿もよく目にする。漁師の大漁旗旭日旗を掲げる者もいれば、神輿に日章旗旭日旗が飾られていることもざらではない。このように旭日旗は相当国民に浸透し親しみをもって迎え入れられているのである。旭日旗の否定は、我々の存在をともすれば否定しかねない動きに呼応するも同然の行為である。旭日旗に対する言われなき非難中傷に対してどこかおかしいと感じるならば、逆にこの美しい旭日旗を高く掲げようではないか。

藤原不比等

 小林秀雄は「蘇我馬子の墓」(この随筆は、よくよく読めば読むほど不可思議な謎が秘められている文章である。その難解さは「秋」と並んで、戦前に書かれた「無常といふ事」の上を言っていると僕には思われるのだが、いずれにせよ小林秀雄の歴史哲学について考えようとする者にとって必読の文章であるに違いない)において、蘇我馬子の先祖とされる武内宿禰について「私は予てから、『古事記』・『日本書紀』に記された人物で、こんなに気味の悪い人間は他に一人もいないと思っている」と綴っている。その理由は、常に国家の枢機を握る人物として現れていながら、国史の扱いからは何をやっていたのかほとんどわからないように書かれているからである。武内宿禰は景行帝の御代から続いて六朝に仕え、齢三百歳を超えた人物である。

 

 景行天皇の御代において、相次ぐ内乱鎮圧にあたった中心人物はヤマトタケルノミコト(『古事記』表記では倭建命、『日本書紀』表記では日本武尊。漢字表記が異なるのでカタカタ表記とした)であったことは日本人であれば誰もが知るところだろう。九州の熊襲征伐に続き次は東国の蝦夷征伐にも功を成したはいいが継続する征戦に疲れ果て伊勢の能褒野にて「独り曠野に臥して誰にも語ること無し」と言い残して白鳥になり天に飛翔していかれたと国史は語る。このエピソードは、僕が愛読する保田輿重郎『戴冠詩人の御一人者』にも描かれている。『古事記』中巻の約五分の一は倭建命に関する記載で占められているほど多くの分量を語る物語であるが、その背後に控える武内宿禰が何をしていたのか皆目不明なのである。

 

 ヤマトタケルノミコトは双生児の一人である。この双生児とは当初、大碓命(オオウスノミコト)と小碓命(コウスノミコト)と称し、ヤマトタケルノミコト小碓命の方である。この命名は、景行帝が同じ日に同じ胞衾から二人の男子が誕生したことに驚き、碓に向かって嘆声をあげられたことに由来する。記紀の記載は、この双生児が性格も体格も対照的に描かれているところが面白い。それはともかく帝は、小碓命熊襲征伐を命じて出立させたまう。もっとも、この辺の記載が『古事記』・『日本書紀』とでは描写が異なっており、『日本書紀』によれば九州に遠征なされたのは景行帝御自身であり、小碓命は一度平定された熊襲が再び背いたので撃ちに行かれたことになっている。九州に熊襲征伐に赴いた小碓命は16歳であった。

 

 ところが、この時期に武内宿禰が何をしたか不明な点を小林秀雄は訝しる。神功皇后の寵愛を得て三韓征伐に先立ったのはわかっても具体的な行動は何らわかっていない。その武内宿禰は、応神天皇の御代の九年、監察使として筑紫に派遣されていたところ、筑紫国を分裂させ、その隙に三韓の軍勢を招いて天下を取ろうといういわば外患誘致の未遂の廉で殺されることになる。このエピソードに関して小林秀雄は、ただの政治権力や謀略の姿を描いただけでなく、日本文明の黎明期に現れた不気味な大陸の影響を物語るものとして理解し、その流れは増々稲目・馬子・蝦夷・入鹿と続いて、血で血を洗う我が国の古代史を彩っていったというのである。

 
 吉本隆明は、人間が個体としてではなく何らかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方としての「共同幻想」が経済的諸関係によって規定される二次的な領域としての上部構造ではなくそれ自体独自の歴史を有することを主張する『共同幻想論』を、原則として『古事記』と『遠野物語』の二書に基づいて書ききった。もちろん、他のテクストにも言及されているのだが、それらはあくまで補助的に参照されるか、議題の導入役にされているにすぎない。その最終章の「起源論」には次のようにある。

「<国家>とよびうるプリミティブな形態は、村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされるとき村落社会の<共同幻想>ははじめて親族体系の共同性から分離してあらわれる。そのとき<共同幻想>は家族形態と親族形態の地平を離脱してそれ自体で独自な水準を確定するようになる。<国家>の本質は<共同幻想>であり、どんな物的な構成体でもないからである」。

 但し、その内容の正確さ及び立論の厳密さについては問題含みの書であるので、結論としてみた場合、明らかに失敗作であろうし、イデオロギーはそれ自身の歴史を持たないと考えるマルクスに対する異論がどこまで説得力ある立論になっているかは甚だ怪しいが、その方法論については必ずしも誤っていなかったのではないだろうか。

 

 もっとも、依拠するテクストが『古事記』と『遠野物語』では見えてこない面、すなわち後の『続日本紀』との断絶と連続を考えることにより浮かび上がる「政治的なるもの」の次元がごっそり削ぎ落とされてしまっている結果、国家論としては致命的な欠陥を帯びることになったと思われるのである。というのも、記紀二書及び『日本書紀』と『続日本紀』を各々読み比べてみればわかるように、両者の記述は各々同じ出来事の描写にしても、単なる表現方法の違いなどに還元しつくされない差異が存し、この一方の差異を意識しつつ他方を読まなければ見えてこない重要な点があるからだ。

 

 翻って『続日本紀』の話に戻ると、神代との決定的な断絶を踏まえつつ、なお『日本書紀』と『続日本紀』を一本の流れとして読みきると、とりわけ『続日本紀』の対象となった時代は、わが国に千年以上にもわたって続いた律令国家体制確立期であり、この時代が後の日本の政治・社会体制のあり方あるいは人々の考え方のある種の「型」をも決定づけた時期に相当することがわかってくる。仮にもう一つ、社会経済体制にとって決定的なメルクマールとなる「時代」に該当すると思われるのは織豊政権の頃であろう。中でも、いわゆる「太閤検地」と「刀狩」が行われた豊臣秀吉の政権の時期ではないかと思われる。蝦夷琉球を除いて、全国隈無く統治が行き渡ったのも豊臣政権の頃である。いわば名実ともに「天下統一」を成し遂げたのは豊臣秀吉が初めてということになろうか。政治権力を掌握した時代はごく短い期間なれど、豊臣政権下でなされた諸施策が後世に及ぼした影響を考えると、豊臣秀吉の果たした歴史的役割の重要度は織田信長は言うに及ばず、徳川家康をも遥かに凌駕している。

 

 しかし、この豊臣秀吉をも遥かに超える存在が藤原不比等である。草壁皇子を基本軸とした天武天皇から持統天皇への皇位継承、そして最終的に文武・聖武天皇へと継承された一連の出来事は、律令制度に基づく統治体制が確立した時期に相当する。『続日本紀』は先述の通りこの時期を描く。藤原不比等は、中臣鎌足藤原鎌足)の子息として律令制度に基づく統治体制を確立した上、長安に範をとった本格的な都城制を敷き、かつ史書編纂の実質的な制定主体としても辣腕を振るったことで知られる存在である。と同時に、明治維新まで千年以上も続いた律令国家体制の総設計士といっても過言ではない役割を果たしつつも、決して表舞台に立とうとはしなかったことでも知られる。今日の「日本」という国の型を作ったという意味で決定的な影響を後々までも及ぼしながらも、その実態が未だに謎のままである「日本史上最大の政治家」。それが藤原不比等である。

 

 皇室の存在が今も連綿と続いているのも、おそらく藤原不比等なしにはあり得なかったであろう。皇室を中心としつつ自らの一族はあくまでその側近として権力を掌中に収めるも藤原氏自身はその権力=権威の座にはつかない藤原ダイナスティという特殊な統治形態が、武家の時代になっても維持された。この「藤原ダイナスティ」の在り方は、記紀の構造からも読み解ける。記紀藤原不比等の主導の下で編纂された。その記紀によれば、皇室の祖先は周知のとおり天照大神である。藤原氏つまり中臣氏の先祖はというと天児屋命であり、これは天照大神が弟である須佐之男命の乱暴に業を煮やして天岩戸に籠られた際、どうか出てくださいとばかりに祝詞をあげた存在である。そのおかげで天照大神が天岩戸から出てこられて世は再び光に照らされることになったわけだが、これは藤原氏はあくまで天皇の臣でありながら同時に天皇の最側近として常に天皇の親政を支える存在であることを証明する宣言でもあり、日本における「政事(まつりごと)」の構造を端的に物語る書でもあるのだ。

 

 小林秀雄が『日本書紀』において最も不気味な存在としていたのが武内宿禰ならば、『続日本紀』において最も不気味な存在として挙げられるのは、この藤原不比等ではあるまいか。千年以上にもわたり継続した律令国家体制の総設計士でありながら、具体的に不比等が何をしていたのかが必ずぼやけるような仕方で記述されているからである。いかにして藤原不比等が絶対的ともいうべき権力を手中にいれたのか、その権力奪取の過程が全く記述されていないのである。そのことがわからなければ、日本国家成立の謎も未解明に終わってしまうだろう。

 

 天皇が一貫して統してきた日本政治の権力構造は、実際には天皇が自ら政治権力を行使した例というのは驚くほど短いほど特殊な構造を持ってきた。例外なのは嵯峨天皇醍醐天皇の御代そして後醍醐天皇による建武中興くらいではあるまいか。ましてや絶対的権力ともいえる権力を行使した時代となると皆無である。しかし誰も直接自らが天皇になろうとはしなかった。道鏡そして自分の子息を天皇につけようと画策した足利義満という例外はあれど、どのような権力者も天皇にはならなかったし、なろうともしなかったし、更にはなろうとしてもなれなかったのである。あの絶対権力を手にした豊臣秀吉ですら、京の聚楽第正親町天皇行幸を仰いで黄金の茶室にて茶を献納した時、あまりの緊張のために手が震えたと言われる。徳川家康禁中並公家諸法度を定めたとはいえ、天皇に対して楯突くような真似はできなかった。徳川幕府も一応律令制度を前提とし官位を授かる形で統治していたのであって、あくまでこの「日本史上最大の政治家」藤原不比等が敷いたレールの上を行く存在でしかなかったのである。

 

 「日本史上最大の政治家」は同時に「日本」という国家の最大の「黒幕」でもあったのである。そして不比等の子孫は、現代の日本においても五摂家筆頭近衛家に代表される通り、今も我が国の上流階級に位置し続けているのである。

Westphalian World and China's military buildup

 No truly global world order has ever existed. What passes for order in our time was devised in Western Europe nearly four centuries ago, at a pease conference in the German region of Westophalia, conducted without the involvement or even the awareness of most other continents or civilizations.

 

 The Westphalian pease reflected a practical accomodation to reality, not a unique moral insight. It relied oin a system of independent states refraining from interference in each other's domestic affairs and checking each other's ambitions through a general equilibrium of power. No single claim to truth or universal rule had prevailed in Europe's contests. Instead, each state was assigned the attribute of sovereign power over its territory. International politics shifts, basically affected by changes in the balance of power. Of all factors for the changes of balance of power, what is unique to modern international society since the 19th century is the economic growth of a single country that can bring change to the balance of power.

 

 With the Treaty of Westphalia, the papacy had been confined to ecclesiastical functions, and the doctorine of sovereign equality reigned. What political theory could then explain the origine and justify the functions of secular political order? In his Leviathan, published in 1651, three years after the peace of Westphalia, Thomas Hobbes provided such a theory. He imagined a "state of nature" in the past when the absence of authority produced a "war of all against all". To escape such intolerable insecururity, he theorized, people delivered their rights to a sovereign power in return for the sovereign's provision of security for all within the state's borders. The sovereign state's monopoly on power was established as the only way to overcome the perpetual fear of violent death and war.

 

 The internatinal arena remained in the state of nature and was anarchical because there was no world sovereign available to make it secure and none could be practically constituted. Thus each state would have to place its own natinal interest above all in a world where power was the paramount factor. The peace of Westphalia in its early practice implemented a Hobbesian world. A distinction must be made beween the balance of power as a fact and the balance of power as a system. Any international order must sooner or later reach an equilibrium, or else it will be in a constant state of warfare. 


 Unlike classical examples, such as annexation of other territories or the formation of alliances, this kind of change is invisible for the outside world, and it is hard to determine the point of time when a country has begun presenting a growing threat. China was the center of its own hierarchical and theoretically universal concept of order. This system had operated for millennia basing itself not on the sovereign equality of states but on the presumed boundlessness of Emperor's reach.

 

 In this concept, sovereignty in the European sense did not exist, because the Emperor held sway over "All Under Heaven". He was the pinnacle of a political and cultural hierachy, distinct and universal, radiating from the center of the world in the Chinese capital outward to all the rest of humankind. The latter were classified as various degrees of barbarians depending in part on their mastery of Chinese writing and cultural institutions.

 

 Meanwhile, China has had a bitter experience in Asia. The Ching dynasty, which had its eyes opened following the Opium War, reorganized the nation and proudly built a formidable North Sea Fleet. Of all of Asia's historic political an cultural entities, Japan reacted the earliest and by far the most decisively to the Western irruption acoross the world. Situated on an archipelago some one hundred miles off the Asian mainland at closest crossing, Japan long cultivated its traditions and distinctive culture in isolation.

 

 Possessed of ethnic and linguistic near homogeneity and an official ideology that stressed the Japanese people's divine ancestry, Japan turned convinction of its unique identity into a kind of near-religious commitment. Japan set out, with studious attention to detail and subtle analysis of the balance of material and psychological forces, to enter the international order based on Western concepts of sovereignty, free trade, international law, technology, and military power-albeit for the purpose of expelling the foreign domination. After a new faction came to power in 1868 promising to "revere the Emperor, expel the barbarians," they announced that they would do so by mastering the barbarians' concepts and technologies and joining the Westphalian world order as an equal member.

 

 China, however, failing to realize Japan’s rapid rise since the Meiji Restoration of 1868, did not change its perception of Japan as a miniscule state until the year before the war. That resulted in its defeat in the war 1894-5, invited interventions of western imperialistic powers, and its semi-colonization over the next several decades. With the exception of Japan, Asia was a victim of the international order imposed by colonialism, not an actor in it. China's size prevented it from full colonization, but it lost control over key aspects of its domestic affairs. 

 

 Anti-Japanese demonstrations in China have a history that dates back to the 1919 May Fourth Movement, which was a popular campaign against the warlord-led government of that time.  Meanwhile, anti-Japanese campaigns following the May Fourth Movement stoked anti-Chinese feelings in Japan. Before that, Japanese intellectuals who supported Sun Wen and other leaders of the Republican Revolution (1911) cherished a sense of camaraderie in the Chinese revolution. Those campaigns, however, revived Japanese nationalism. An anti-Japanese campaign in China stimulates the Japanese sense of patriotism. That’s how popular sentiment on both sides plays out. Recent anti-Japanese protests are likely to cause a similar backlash in Japan.

 

 We know that nationalistic outbursts on both sides led eventually to war. In the meantime, the Kuomintang (Nationalist Party) carried out an overt campaign of “offense and contempt” against Japanese residents in China. Prior to the Manchurian Incident (1931), Chinese mounted their version of an intifada against Japanese for example, refusing to sell food, stoning women and children, and abusing them. As a result, many Japanese left China, putting in jeopardy Japanese interests gained after the Russo-Japanese war. That situation continued, more or less, until the outbreak of the Lukow-Kiao (Marco Polo Bridge) Incident of 1937, although some Chinese politicians were determined to avert a clash with Japan, such as Wang Chao-ming, who tried to defuse the bomb. The experience in this period, however, does not, and should not, offer much of a lesson for today’s China.

 

 China today is a great power in its own right. There is no reason whatsoever why the country should use such mean methods to assert itself. The Boxer Rebellion (1900) marked the first time that Chinese had demonstrated against foreigners and foreign powers. The Chinese were angry that their country had become half-colonized. But, to my knowledge, such xenophobia was a rarity in the four millennia that China ruled the world. To be blunt, antiforeign demonstrations seem to mirror an inferiority complex, a sense of powerlessness.

 

 China shifted direction to military buildup in 1997. China’s economy has been growing rapidly since it launched the reform and open-door policy in 1978. Under Deng Xiaoping, China proclaimed a nonideological foreign policy and a policy of economic reforms that, continued and accelerated under his successor, have had a profound transformative effect on China and the world. The country began making serious efforts toward military buildup in 1997, the year after tensions rose over the Taiwan Strait. China’s military budget has shown a double-digit increase for almost two decades. However, it has accomplished true double-digit growth excluding inflation only since 1997. Also, a large portion of China’s military budget was explained as requirement for supporting the enormous army in the country. It is assumed, however, that the country has reduced the number of troops by 500,000 since 1997 and that the resources for the 500,000 troops have been used instead for modernizing the military.

 

 In this vein a top Chines military official, the Chinese People's Liberation Army Deputy Chief of General Staff Qi Jianguo, wrote in a major January 2013 policy review that one of the primary challenges of the contemporary era to uphold "the basic principle of modern international relations firmly established in the 1648 'Treaty of Westphalia,' especially the principles of sovereignty and equality."  At the same time, an element of implicit threat is ever present. China affirms explicitly, and all other key players implicitly, the option of military force in the pursuit of core national interests. Military budgets are rising. China’s military threat is an everyday topic in the world. China is challenging Westphalian order as an outdated imperialistic country. HongKongers are about to be  victims of China as well as Tibetan, Uhigurs, and South Mongolian.