国際政治学という学問の展開を分析する上で、日米両国における学術と現実政治(政策決定)の接続構造の違いを理解することはきわめて重要である。米国において、国際政治学は単なる大学の講義室に閉じ閉じこもった抽象的な概念論ではない。それは国家の大戦略(Grand Strategy)を策定し、グローバルな金融・産業リスクを予測し、安全保障上の実事求是な判断を下すための「実用知」として機能している。
この実用性を支えているのが、米国独特の政官学・財界をまたぐ人材の流動性と、充実したシンクタンク生態系である。ワシントンD.C.に拠点を置くCSIS(戦略国際問題研究所)、ブルッキングス研究所、ランド研究所、あるいは外交問題評議会(CFR)といったシンクタンクは、単なる研究機関にとどまらない。政権交代ごとに官民を行き来する「回転ドア(Revolving Door)」の役割を果たし、アカデミズムで培われた理論が直ちに国家安全保障会議(NSC)や国防総省、国務省の論理へと落とし込まれる構造が組み上げられている。
さらに、ウォール街をはじめとする米国の金融界やグローバル企業においても、地政学リスク分析は膨大な資金動員や投融資決定に直結する核心的な能力とみなされている。したがって、理論の現実適合性や実証性が厳しく問われる環境が自然発生的に形成されており、リアリズム現実主義やネオリアリズムの枠組みは、国家や市場が「どのように動くか」を冷静に予測するための不可欠なツールとして洗練されてきた。
これに対し、日本の学術環境における国際政治学の置かれた状況は対照的である。日本には米国のような巨大なシンクタンク生態系が存在せず、政治家や官僚、学者、民間アナリスト間の流動性も極めて乏しい。結果として、学術界で議論される「国際政治学」と、外務省や防衛省などの省庁が実務で行う政策立案との間には深い溝が刻まれたまま放置されてきた。この構造的断絶こそが、日本の国際政治学を現実の安全保障環境から遊離させ、特定の観念論へと傾斜させる要因となっている。
戦後日本の国際政治学と言論空間における最大の対立軸は、いわゆる「理想主義(平和主義)」と「現実主義」の対抗であった。しかし、この対立構造自体が、欧米の学術的文脈から見ればきわめて異質であり、日本固有の歴史的文脈によって歪められたものであった。日本の「理想主義」の象徴的知性としては、東京大学の坂本義和らが挙げられる。坂本らに代表される平和主義の論理は、日本国憲法第九条の精神を絶対的価値とし、「非武装中立」や「非暴力による平和」を理想として掲げた。この言論は、先の大戦への猛烈な反省と「二度と戦争を繰り返さない」という国民の心情に強く訴えかけ、戦後日本の言論界、とりわけ総合雑誌(『世界』など)や大手メディア、教育現場において強固な覇権を握った。一方、これに対抗する形で「現実主義」の立場を採ったのが、高坂正尭や永井陽之助らであった。高坂や永井は、国際社会が中央政府の存在しない「アナーキー(無政府状態)」であり、国家の安全保障は単なる善意や倫理観ではなく、パワー・バランス(勢力均衡)と外交的駆け引きによってのみ維持されるという冷徹な事実を直視しようと試みた。高坂の『国際政治』(1966年)や、永井の『平和の代償』(1967年)は、観念的な非武装論に陥っていた当時の言論空間に一石を投じ、日米安全保障条約の合理性や現実的な防衛力の必要性を主張した。
しかし、ここで見落としてはならないのは、日本のこの対立構造が、米国の学術的対立(例えばモーゲンソーらの古典的リアリズムと、イデオロギー的介入主義やリベラル国際主義との対立)とは全く異質の文脈で展開された点である。日本の「理想主義」は、国際学術界における「リベラリズム(制度論や相互依存論)」というよりは、冷戦下における「対米批判・ソ連/中国への親近感」を伴った非武装中立論であり、国内の政治闘争(55年体制下の自社対立)と密接に結びついていた。他方、日本の「現実主義者」と目された論者たちも、独立した国家としての「自主防衛」や「独自の核抑止」といったリアリズムの極論に踏み込むことは避け、あくまで「米国による拡大抑止(核の傘)の枠組みをいかに受け入れ、維持するか」という枠内での現実主義(=与えられた日米同盟構造の最適化)にとどまる傾向が強かった。
日本の戦後言論空間を長く支配した「非武装中立」という思想は、国際政治学の学術的知見から見れば、論理的な矛盾と飛躍に満ちたものであった。国際政治学におけるネオリアリズム(構造的現実主義)の開拓者であるケネス・ウォルツが明快に整理したように、国際社会の本質構造は「アナーキー」である。アナーキーとは「無秩序」を意味するのではなく、「諸国家の上に立つ高次の警察力や中央政府が存在しない状態」を指す。このようなシステムの下では、どの国家も最終的には自らの力によって身を守るほかないという「自助(Self-help)」の原則が強制される。もし一国が自ら武装を放棄し、「非武装」を宣言したならば、アナーキーな国際社会において発生するのは相手国の善意による平和の訪れではない。それは単に「力の空白」を生み出し、近隣の覇権主義国家に対して攻撃や威圧の強固なインセンティブ(誘因)を与えることに他ならない。これはゲーム理論における利害状況や、パワー・バランスの崩壊がもたらす悲劇的帰結として、国際政治理論上きわめて明瞭に説明される現象である。
しかし、戦後日本の「非武装中立」論者たちは、こうした冷徹な学術的・構造的ロジックを直視することを拒絶した。「日本が武装を放棄し、他国に脅威を与えなければ、他国もまた日本を攻撃しない」という前提は、相手国の意図に対する根拠のない希望的観測に依拠していた。この観念論が長期間にわたって日本社会で支持を集め得たのは、ひとえに日米安全保障条約と米国の圧倒的な軍事力(拡大抑止)という実質的な軍事力によって日本の安全が担保されていたからに他ならない。すなわち、非武装や憲法九条の平和主義を叫ぶ人々自身が、自らが否定・不信の対象としていた「米国の軍事力」によって守られているという巨大な自己矛盾(フリーライダー状態)の上に、日本の平和主義言論は成り立っていたのである。このように、学術的な理論(アナーキー下における自助と抑止の理論)と、国内の言論(感情的・倫理的な非武装論)とが何重にも乖離したまま定着したことこそが、戦後日本における国際政治学の最大の「構造的歪み」であった。
戦後日本の国際政治学と安全保障議論が抱えた歪みは、単に「左派の非武装中立論」だけに起因するものではない。左派の観念論と対峙する形で現れた保守・右派の側にも、もう一つの重大な歪みが存在していた。それが「従米派ニセ現実主義」と呼ぶべき言論体質である。
本来、国際政治学におけるリアリズム(現実主義)とは、自国の国家利益(National Interest)を冷徹に定義し、同盟国であっても利害が一致しない局面が存在することを当然の前提とする思想である。ハンス・モーゲンソーやハルフォード・マッキンダー、あるいは冷戦期のリアリストたちが示してきたように、「同盟」とは不変の友愛関係ではなく、共通の脅威に対抗するための過渡的かつ戦略的な計算の産物にすぎない。
しかし、日本の保守派や外務省を中心とする主流派「現実主義者」たちの多くは、米国に対する絶対的な従属と順応を「現実主義」と錯覚していった。彼らは「自主防衛能力の構築」や「独立した国家としての戦略的選択肢の拡大」といった、真のリアリストであれば直視すべき課題から目を背け、いかに米国に嫌われないか、いかに「日米同盟の維持」そのものを自己目的化するかという思考停止に陥った。ここにおいて、戦後日本の安全保障言論は二つの極に分裂し、固定化されることとなった。一つは、左派の「理想主義(観念的平和主義)」で、国際秩序のアナーキー性とパワーの役割を無視し、憲法九条の理念のみで平和が保たれると信じる現実逃避。もう一つは、右派・与党の「従米ニセ現実主義」で、自国の防衛を全面的に米国に依存し、米国の世界戦略(時には無謀な軍事介入)に無批判に追従することを「現実的判断」と称する思考停止。この双方は、一見すると激しく対立しているように見えながら、「自国が主体的な防衛能力と戦略的意思を持ち、冷徹なパワー・ポリティクスの当事者として立ち上がることを回避する」という一点において、構造的に補完し合っていたと言える。米国の国際政治学が、国家の生存と覇権の維持という苛烈な要求に応えるための「牙を持った実用知」として発達したのに対し、日本の国際政治学と関連言論は、米国の庇護(または押し付けられた構造)という温室の中で、観念的な空論と対米従属の言い訳に終始してきた。この構造的歪みと学術的格差こそが、冷戦が終結し、東アジアのミリタリーバランスが劇的に変化した現代においてもなお、日本が適切な大戦略を描き得ず、漂流を続ける根本原因となっているのである。
米国外交を分析する際、日本の言論空間でしばしば用いられる「民主党=平和主義のリベラル」「共和党=好戦的なタカ派」という単純な二元論は、現実の外交史と戦略思想を大きく見誤らせる原因となる。米国の外交政策を真に理解するためには、政党のラベルではなく、「リベラル覇権主義(Liberal Hegemony)」「リアリズム(現実主義)」「ネオコン(新保守主義)」といった思想的枠組みの錯綜と歴史的脈絡を解き明かさなければならない。
米国外交の基層には、建国以来の「丘の上の町(City upon a Hill)」に象徴される例外主義(Exceptionalism)が存在する。これは、米国という国家が普遍的な民主主義や人権、自由市場経済という価値観を体現しており、その価値観を世界に広める責任を負っているという強い理念的確信である。この例外主義を世界展開の原動力とするのが「リベラリズム」の外交路線である。ここで特に注目すべきは、一見すると保守派の象徴のように扱われる「ネオコン(新保守主義)」の思想的出自である。ネオコンの思想的ルーツは、共和党の伝統的保守主義ではなく、1960年代から70年代にかけて民主党の過激な左傾化や反戦運動に失望した介入主義的な「元・民主党最左派」や「トロツキスト(新左翼反スターリン主義者)」たちの論客空間(『ノーマン・ポドレツの『コメンタリー』誌や『パブリック・インタレスト』誌など)に由来する。彼らは「世界に民主主義を革命的に輸出・伝播させる」という、旧トロツキスト的な「永久革命論」の構造をそのまま保持したまま、その手段を自らの信奉する米国型民主主義と軍事力に置き換えたのである。即ち、ネオコンの本質とは「軍事力行使を辞さない好戦的リベラリズム」の極限形態に他ならない。したがって、民主党の「リベラル国際主義者」と共和党内の「ネオコン」は、使う言葉(人権や民主主義対テロとの戦いや国家安全保障)こそ異なれ、いずれも「米国の価値観を世界に適用し、必要であれば武力介入をもって異質な体制を変革(Regime Change)してよい」という普遍主義的・介入主義的な世界観を共有している。
日本の平和主義者やメディアは、民主党政権やリベラル派の外交姿勢を「人権重視で平和的」と好意的に解釈しがちである。しかし、近代・現代の外交史を冷徹に振り返るならば、国際社会において最も壊滅的で血生臭い大戦や軍事介入を決断し、推進してきたのは、他ならぬ「リベラリスト」たちであったという歴史的事実に行き着く。
第1次世界大戦に参戦し、理想主義的な国際連盟構想を唱えたウッドロウ・ウィルソン以降、米国を世界的規模の大戦へと引き込んだのは、ことごとく民主党のリベラル政権であった。第2次世界大戦において、開戦前から過酷な経済制裁(対日石油禁輸など)をもって日本を追い詰め、最終的に対日戦・対独戦へと足を踏み入れさせたのは、フランクリン・ルーズベルト政権である。そして、その戦争を絶滅戦へと変貌させ、広島・長崎への原子爆弾投下という人類史上の惨劇を決断したのは、同じく民主党のハリー・トルーマンであった。彼らは「民主主義の防衛」や「ファシズム打倒」という倫理的正当性を掲げることで、無制限の力(トータル・ウォー)を行使することを自己正当化した。戦後の冷戦期においても同様である。ベトナム戦争という泥沼の介入を本格化させたのは、リベラリズムの寵児であったジョン・F・ケネディと、その意を汲んだリンデン・ジョンソン政権であった。彼らの周りを固めたのは「ベスト・アンド・ブライテスト」と呼ばれたハーバード出身のエリート政治学者や官僚たちであり、彼らは「共産主義の拡大を防ぎ、東南アジアに自由と民主主義を守る」という至高のミッションを確信して介入を拡大させ、結果として泥沼の空爆(ラインバッカー作戦等)と膨大な犠牲を生み出した。さらに冷戦終結後、ソ連という対抗軸が消失したことで、米国の「リベラル覇権主義」はその歯止めを完全に失った。ビル・クリントン政権は「人道主義的介入」の名のもとにソマリアやバルカン半島(コソボ紛争)へ空爆を行い、主権国家の概念を骨抜きにした。また、バラク・オバマ政権下では「アラブの春」に乗じたリビアのカダフィ政権崩壊への軍事介入やシリア内戦への介入が行われ、その結果として中東全域に巨大な「力の空白」が生み出され、「イスラム国(IS)」の台頭や欧州を揺るがす深刻な難民危機が惹起された。
リベラリストたちは「正義」「人権」「自由」という善意のイデオロギーを絶対化するがゆえに、相手国の歴史的・文化的文脈や地政学的リアリティを無視して体制転換を試みる。そして、自らの正義を絶対視するがゆえに、戦争の目的が自制されず、無制限な破壊と地域の永続的混乱を引き起こすのである。
こうしたリベラリズムの「レトリック(理想主義的表象)」と「リアリティ(冷徹な戦略行動)」の解離を最も鮮やかに象徴しているのが、バラク・オバマ政権の安全保障政策である。2009年、オバマ大統領はプラハにおいて「核兵器のない世界(A world without nuclear weapons)」を目指すと宣言し、この演説一つでノーベル平和賞を受賞した。日本のメディアや「反核・平和運動」団体はこのパフォーマンスを熱狂的に歓迎し、米国が理想主義的な核軍縮へ舵を切ったかのように喧伝した。
しかし、そのパフォーマンスの裏側で実行された冷徹な現実的施策を検証すれば、リベラリズムの言説がいかに欺瞞的であったかが露呈する。オバマ政権は、プラハ演説の陰で、米国の核戦力を今後30年間にわたり維持・近代化するための巨額の予算計画(1兆ドル規模)を議会に要求し、承認させた。B61-12などの精密誘導が可能な戦術核兵器の開発や、核弾頭の信頼性維持・更新のための研究投資は、むしろオバマ政権下で強固に進められたのである。また、「平和の使者」と謳われたオバマは、従来の正規軍による大規模地上介入の世論リスクを避けるため、無人攻撃機(ドローン)による殺害作戦(Targeted Killing)を前政権(ブッシュ政権)の数倍以上の規模で激増させた。パキスタン、イエメン、ソマリアなどにおいて、裁判の手続きを経ることなく「テロリストの疑いがある者」をドローン攻撃で即決処刑し、その過程で多数の民間人巻き添え(コラテラル・ダメージ)を生み出した。正当な手続きを無視したこのドローン作戦こそ、リベラリズムが孕む「法の支配の無視」と「非人道性」の露出であった。さらに、オバマの「核なき世界」のレトリックには、東アジアにおける対日戦略上の明確な計算、すなわち、米国のreassurance strategy(再保証・安心化戦略)と日本の核武装封じ込めが組み込まれていた。北朝鮮が核実験とミサイル開発を加速させ、中国が急速な軍拡と海洋進出を進める中で、日本国内において「自主防衛」や「独自の核抑止論」が台頭することは、米国にとって自国のコントロールを離れる最大の地政学的リスク(不確定要素)であった。オバマは「核なき世界」という甘美な理念を提示し、被爆地・広島を訪問して「感動的な」パフォーマンスを演じることで、日本人の「反核感情(核アレルギー)」と「平和主義的テーゼ」を強く再固定化した。日本国民に「核の持ち込みや保有の議論自体が邪悪である」という観念を植え付け続けることによって、日本が自主防衛や独自の抑止選択肢へ向かう芽を未然に摘み取り、米国への安全保障上の従属関係を永続化させようとしたのである。
このように、米国のリベラリズム(リベラル国際主義)とは、決して「平和を愛し、戦争を回避する温和な思想」などではない。それは、自国の価値観を絶対的な正義と信じ、他国の主権や伝統、パワーの均衡を無視して介入を繰り返し、世界を自己のイメージ通りに再構成しようとする、きわめて過激で好戦的なイデオロギーなのである。ジョン・ミアシャイマー(John Mearsheimer)がその著書The Great Delusionで痛烈に批判したように、米国の外交政策がリアリズムを捨て、リベラル覇権主義に狂奔した冷戦後の30年間は、世界に自由と民主主義をもたらすどころか、中東の崩壊、ロシアとの決定的な対立(ウクライナ危機の伏線)、そして中国の巨大化という未曽有の不安定化をもたらした。
しかし、日本の言論界や政治家たちの多くは、この「リベラリズムの正体」を理解する知性を欠いていた。日本の保守派・従米派は、米国のリベラル政権が掲げる「民主主義の擁護」や「人道支援」というお題目を無批判に受け入れ、イラク戦争や中東の混乱を招いた米国の無謀な体制転換作戦に盲目的に関与・支持を表明してきた。一方で、日本の左派・リベラル派は、オバマらに代表される民主党政権の理念的パフォーマンスにまんまと騙され、「米国も核なき世界を目指している」という幻影に溺れることで、自国の過酷な安全保障環境(中露朝の核・軍事脅威)から目を背け続けた。米国のアカデミズムや実務空間において、リベラリズムの自己破綻に対する猛烈な反省と批判が巻き起こり、リアリズムへの回帰(抑制主義の再評価)が議論されている現代においてもなお、日本社会だけが「米国のリベラリズム」という化石化したフィクションを信じ込んでいる。日本が自国の国家主権と平和を本気で守ろうとするならば、まず米国の外交言説の裏にある「正義の仮面をかぶった介入主義」の欺瞞を打ち破り、国際社会を動かしている真の力学、すなわち冷徹なパワー・ポリティクスとリアリズムの理論構造を直視しなければならない。
国際政治学において、「リアリスト(現実主義者)」という言葉は、しばしば「軍事力を礼賛し、力による威嚇や戦争を肯定する武闘派・好戦家」という著しい誤解をもって受け取られてきた。しかし、思想的史実を検証するならば、この認識は決定的に間違っている。真のリアリストたちこそが、不必要な戦争や無謀な軍事介入に対して最も激しく反対し、軍事力の行使に対して極めて慎重かつ抑制的な姿勢を保ち続けてきたからである。
現代リアリズムの祖であるハンス・モーゲンソー(Hans Morgenthau)は、1960年代、米国が泥沼のベトナム戦争へ足を踏み入れる際、いち早くその危険性を予見し、明確に反対の声を上げた。モーゲンソーは、ベトナムにおける戦争が米国の核心的国家利益になんら寄与せず、かえって米国の国力と国際的威信を浪費させる「理念の暴走」であると見抜いていた。同様の姿勢は、構造的現実主義(ネオリアリズム)を確立したケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)や、ジョン・ミアシャイマー(John Mearsheimer)、スティーヴン・ウォルト(Stephen Walt)らにも一貫している。彼らは2003年のブッシュ政権によるイラク戦争に対して、開戦前の段階でニューヨーク・タイムズ紙に共同広告を出し、「イラク侵攻は米国の国益に反し、中東全体を未曽有の混乱に陥れる」と激しく警告した。また、軍人出身の第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが退任演説で「軍産複合体(Military-Industrial Complex)」の不当な影響力拡大に警告を発したように、軍事力の本質を知り尽くしたリアリストほど、武力という手段が持つ予測不可能性と破壊的リスクを熟知している。
リアリズムにおいて、軍事力とは「自己目的」でも「イデオロギーを広めるための道具」でもない。それはあくまで、アナーキー(無政府状態)な国際社会において自国の生存を確保し、他国からの侵略を未然に防ぐための「最終的な抑止力(Deterrence)」に過ぎない。リアリストにとって、戦争とは外交と抑止の失敗を意味するのであり、軽々しく行使すべき玩具では断じてないのである。
冷戦終結後、米国が「リベラル覇権主義」に傾倒し、世界各地で体制転換(Regime Change)や国家建設(Nation-building)という無謀な介入を繰り返す中で、この暴走に対する強烈なアンチテーゼとして提示されたのが、マサチューセッツ工科大学(MIT)のバリー・ポーゼン(Barry Posen)が提唱した「抑制(Restraint)」の大戦略である。ポーゼンは著書Restraint: A New Foundation for U.S. Grand Strategyにおいて、冷戦後の米外交が採用してきたリベラル覇権主義を「高コストで不毛、かつ逆効果を生む失敗の戦略」と一向に切り捨てた。米国が自らの価値観を世界に押し付け、他国の内政に介入すればするほど、現地でのナショナリズムの反発を招き、テロリズムを誘発し、ロシアや中国といった潜在的対抗勢力の結束を促してしまうからである。
ポーゼンが対案として提示した「抑制」の戦略の根幹は、以下の通りである。一つは、核心的国益の厳格な絞り込み、すなわち米国の生き残りと繁栄にとって不可欠な領域(西欧・東アジア・ペルシャ湾)のパワーバランス維持に集中し、周辺地域の微細な政情変化には関与しないこと。もう一つは、過剰な前方展開の縮小、すなわち他国に恒常的に膨大な地上軍を駐留させることをやめ、海洋国家としての強みを生かした「オフショア・バランシング(海上からの遠隔平衡)」へ移行すること。さらに、同盟国へのフリーライダー許容の廃止、すなわち米国の過保護な「安全保障の傘」が、同盟国(欧州や日本)の自立心を奪い、自国の防衛努力を怠らせる「モラル・ハザード」を生んでいると指摘し、同盟国に対して自国の防衛責任を自ら果たすよう強く要求すること。
この「抑制主義」は、単なる孤立主義(Isolationism)への逃避ではない。自らの力を無駄遣いせず、真の脅威(中国などの巨大覇権国の台頭)に対して余力を温存し、自国の生存を確実にするための冷徹な計算に基づいた戦略的自制である。リベラルな「理想」で世界を改造しようとする野望を捨て、国家の能力の限界を弁え、相手国のバランシング行動を正しく予測する。このポーゼンらの「抑制主義」こそが、冷戦後の混乱を経て再評価されている真のリアリズムの姿である。
翻って、日本の安全保障言論や政策決定の場を支配してきた「自称・現実主義者」たちの姿は、真のリアリズムからいかに遠く離れたものであったか。日本の外務省官僚、保守系政治家、そしてメディアや大学に蠢く「現実主義」を自称する学者たちの多くは、実のところリアリズムの哲学を体現していたのではなく、単なる「対米従属の技術者」に過ぎなかった。彼らの「現実主義」の真骨頂は、2003年のイラク戦争において露呈した。米国のブッシュ政権が「大量破壊兵器の存在」という(後に虚偽と判明する)大義名分を掲げてイラクへ侵攻した際、米国の本物のアカデミック・リアリストたち(ミアシャイマーやウォルト)が命がけで開戦反対の理論を展開していたのとは対照的に、日本の自称・現実主義者たちは揃ってこの無謀な戦争を支持・容認した。彼らが主張した理由は、「国際法上の正当性」や「中東の安定」ではなく、「米国との信頼関係を維持するため」「米国に貸しを作るため」という、徹底して主客が転倒したものであった。自国の独立した地政学的分析や国益の計算に基づく判断ではなく、「親分(米国)がやるのだから子分として従う」こと自体を「現実的判断」と取り違えたのである。
このような思考停止の従米派は、ワシントンの知日派(ジャパン・ハンドラーズ)や国務省の官僚たちから、どのように見られていたか。米国の戦略家たちにとって、自国の提示する方針に二言目には従い、独自の明確な大戦略も持たず、金と基地だけを提供し続ける日本の従米派は、「きわめて扱いやすい都合の良い存在」であると同時に、「戦略的知性を欠いた軽蔑の対象」でもあった。同盟とは、本来「国益が一致する範囲内において協力する過渡的な協定」である。リアリズムの観点に立てば、同盟国の行動が自国の国益を著しく損なう(あるいは世界を不安定化させる)と判断した場合には、距離を置き、独自行動をとる「フリーハンド(戦略的柔軟性)」を確保することこそが国家生存の鉄則である。
しかし、日本のニセ現実主義者たちは、「日米同盟の維持」そのものを最上位の絶対神聖不可侵な目的(自己目的化)へと昇華させてしまった。その結果、米国がリベラル覇権主義の狂騒に酔いしれて中東で失敗を重ね、中国の台頭を許す過程において、日本は自ら戦略的思考を停止させ、自国を「米国の前線基地」へと転落させ続けたのである。
米国の「抑制主義(Restraint)」に代表される真のリアリズムと、日本の「従米ニセ現実主義」との間には、埋めがたい深淵が存在する。真のリアリズムとは、国際社会のアナーキー性を前提に、自国の力(Self-help)を基盤として最悪の事態に備えつつ、パワーの行使に対しては厳格なコスト・ビネフィット計算を行い、軍事行動を徹底して自制・抑制する。対する日本のニセ現実主義とは、自国の安全保障の根本を米国に丸投げ(フリーライド)し、米国の世界戦略に盲従することを「現実主義」と称し、自国の主体的な防衛能力の構築や戦略的自立というリアリズムの根本原理から逃避する。日本の左派が「平和主義」という観念的な理想郷に逃避していたとすれば、日本の保守派は「日米同盟」という米国の庇護の下の安全地帯に逃避していたに過ぎない。双方は表現こそ異なれ、「自国が自らの手で血を流し、国家の生存を賭けて冷徹なパワー・ポリティクスを推し進める責任から逃げる」という一点において、完全に同罪であった。
今、東アジアの地政学リスクは未曾有の危険水域に入っている。米国が過剰伸長の末に「抑制」や内向きの姿勢を強め、アジアにおける圧倒的覇権を維持し得なくなりつつある現代において、いつまでも「米国が守ってくれる」というニセ現実主義にすがリ続けることは、国家の自殺行為に他ならない。日本が真に過酷な国際政治を生き抜くために必要なのは、米国の顔色を窺う「従米の技術」ではなく、自国の国家利益を定義し、自前の防衛力と抑止力を構築し、必要であれば同盟国に対しても「ノー」と言える、「自主防衛と自立に基づいた本物のリアリズム」への転換である。
日本における核兵器をめぐる議論は、長らく極めて強い倫理的タブーと感情的拒絶反応、いわゆる「核アレルギー」によって支配されてきた。世界唯一の戦争被爆国としての惨禍の記憶、および広島・長崎の悲劇は、日本人の精神に深刻な反核感情を刻み込んだ。この体験的・感情的記憶自体は極めて重いものであり、尊重されるべき歴史的真実である。
しかし、国家の生存を左右する安全保障や国際政治の領域において、感情や道徳的願望を分析の前提に持ち込むことは致命的なエラーを引き起こす。国家が直視しなければならないのは、「核兵器が邪悪であるか否か」という道徳的問いではなく、「核兵器という破壊的威力を具現化した技術が存在する世界において、いかにして自国の破滅(被侵略や核脅迫)を回避するか」という構造的現実である。国際政治理論の観点から見れば、核兵器に対する感情的な忌避感を優先し、核抑止のメカニズムや戦略的選択肢の分析そのものを放棄することは、かえって自国を最も危険な無防備状態に晒す結果を招く。感情的な「反核」の叫びは、核を保有する近隣の覇権主義国家(中国・ロシア・北朝鮮)の軍事計算を何一つ変更させないからである。国家の主権と国民の命を守るためには、倫理的観念論を排し、核兵器という「絶対的兵器」が引き起こす安全保障上のダイナミズムを、ロジックに基づいて客観的に解剖する知性が不可欠となる。
国際政治構造が国家の行動や戦争の確率にどのような影響を与えるかを解明したのが、ケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)に代表されるネオリアリズム(構造的現実主義)である。ウォルツはその著作『国際政治の理論(Theory of International Politics)』において、国際システムの安定性が極性(Polarity)、すなわちシステム内の大国(主要アクター)の数によって決定されることを論証した。冷戦期のような「二極構造」においては、国際社会の勢力均衡は米ソという二大超大国間の抗争に集約される。二極構造における安定性の要因は、構造的明確さにある。つまり、誤算(Miscalculation)の低減。これは、主要な脅威が誰であるかが明白であり、相手の行動に対する警戒と計算が単純化される。もう一つは内部的バランシング(Internal Balancing)の重視。これは他国との複雑な同盟関係(外部的バランシング)に依存するよりも、自国の経済力・軍事力の増強によってパワーの均衡を保つ傾向が強まる。これにより、同盟国の暴走に巻き込まれる「連座(Chain-ganging)」のリスクが著しく低下する。
これに対し、複数の大国が拮抗する「多極構造」は、戦略的に極めて不安定である。その理由の一つは、同盟の流動性と過度の依存、すなわち、自国の力だけでは優位を保てないため、国家は同盟形成に汲々とする。これにより、同盟国を見捨てる「見捨てられ(Abandonment)」の恐怖と、同盟国の紛争に引きずり込まれる「巻き込まれ(Enmeshment)」のジレンマが同時に増大する。もう一つは誤算の増大、すなわち誰が真の脅威であり、誰がどの程度の力を持っているかの計算が極めて複雑化し、第1次世界大戦前夜のように、小さな偶発的危機が大国間の破滅的な全面戦争へと連鎖する確率が飛躍的に高まる。無政府状態(アナーキー)という不変のシステムの下では、国家は自らの安全を自力で確保せざるを得ない。核兵器の存在は、このアナーキーなシステム下において、特に構造的均衡をもたらす「イコライザー(均等化装置)」として機能してきた。
武力やパワーの軍事的作用について、トーマス・シェリング(Thomas Schelling)やロバート・アート(Robert Art)らの戦略論者は、その機能を明確に4つに分類した。安全保障議論の混乱の多くは、この4つの概念の混同から生じている。1つ目は攻撃(Offense)、すなわち相手の領土や軍事力を破壊・征服・奪取するために自ら打って出る力の行使。2つ目は防御(Defense)、すなわち敵の攻撃を直接跳ね返し、損害を最小限に抑えて自国を守る実力行使(「盾」としての力)。3つ目は強制(Compellence)、すなわち相手に特定の行動を行わせる、または現在の行動をやめさせるために、武力の行使を不気味にちらつかせて脅迫する力の行使。4つ目は抑止(Deterrence)、すなわち相手に「攻撃を行えば、それを上回る致命的な報復を受け、得られる利益よりも損害の方が遥かに大きくなる」と予見させることで、相手の攻撃行動そのものを断念・断念させる(何もしないことを強いる)軍事的作用。
ここで極めて重要なのは、「抑止(Deterrence)」と「勝利を目指す戦争(Offense/Defense)」との違いである。抑止の成否は、物理的な軍事力の優劣だけで決まるのではなく、「確信(Credibility)」と「相手の合理的なコスト計算」によって決まる。相手が「報復によって自国が壊滅的打撃を受ける」と確信したとき、いかに自軍の戦力が勝っていようとも、攻撃という選択肢は合理性を失う。
核抑止論の核心をなすのが、「第一撃能力(First-strike capability)」と「第二撃能力(Second-strike capability)」の区別である。第一撃能力とは、先制攻撃によって、相手の核戦力・指揮統制システムを完全に破壊し、相手からの反撃を不能にする能力。第二撃能力とは、敵の大規模な先制核攻撃を浴びて耐え抜いた後でも、生き残った核戦力(例えばSLBM=潜水艦発射弾道ミサイルなど)を用いて、相手の主要都市や核心的拠点を確実に壊滅させられる報復能力。核抑止が真に安定するのは、交戦可能性のある双方の国家が「揺るぎない第二撃能力」を相互に保持した状態、すなわち相互確証破壊(MAD: Mutually Assured Destruction)が成立した瞬間である。この状態の下では、「どちらが先に攻撃を仕掛けても、確実に自国も壊滅する」という帰結が確定するため、先制攻撃を仕掛ける動機(Incentive to strike first)が消失する。ここに、核兵器がもたらす古典的兵器とは根本的に異なる戦略的パラドックスが存在する。核抑止とは、「勝利するための兵器」ではなく、「悲劇的コストを事前に予測させることで、相手の行動を凍結させ、戦争そのものを発生させないための兵器」なのである。
「核兵器の保有国が増えれば増えるほど、世界は不安定になり、核戦争のリスクが高まる」という言説は、一見すると直感的な常識のように思われる。しかし、ケネス・ウォルツは、1981年の名著『核兵器の拡散:より多くの国が保有すればどうなるか(The Spread of Nuclear Weapons: More May Be Better)』において、この常識に対して真っ向から反論を展開した。ウォルツの論理は極めて一貫している。軍事計算の極度な容易化、すなわち通常兵器による戦争においては、「勝てるかもしれない」という不確実性や過信(例:第1次世界大戦における各国の短期決戦の誤算)が先制攻撃を誘発する。しかし、核兵器が存在する場合、計算は「自国が壊滅するか否か」という極めて単純かつ絶対的なものとなる。不確実性は消失し、どのような狂気の指導者であっても、確実な自国の破滅を賭けてまで攻撃を仕掛ける合理的インセンティブは持ち得ない。国家の慎重さの強制、すなわち新たに核兵器を保持した国家は、自らが壊滅的なリスクの当事者になったことを即座に理解する。ウォルツは、極論や過激なイデオロギーを掲げる国家であっても、核兵器を手にした瞬間にその戦略行動は極めて慎重かつ現実主義的なものに変容すると指摘した(歴史的にも、中国や北朝鮮が核保有後に体制の生き残りを最優先し、大国との全面衝突を慎重に回避してきた事実がこれを裏付ける)。地域的パワーバランスの平準化、すなわち通常戦力において圧倒的な格差が存在する地域において、弱い側の国家が最小限の核抑止力(Minimal Nuclear Deterrence)を保持することは、強い側の国家による軽易な侵略や軍事介入を阻止し、地域に強力な「力による均衡(冷たい平和)」をもたらす。
ウォルツの提示した視点は、核拡散を無条件に奨励するものではない。しかし、「核兵器=世界を即座に滅ぼす悪」という一元的な見方を排し、アナーキーな国際秩序において核抑止力が持つ戦争抑止効果と戦略的安定性を数理的・力学的に証証したという点において、国際政治学に決定的な視座を提供した。核抑止とは単なる武力の誇示でも倫理的暴挙でもなく、アナーキーな国際システムにおいて国家の生き残りを担保するための、極めてロジカルで冷徹なゲーム理論・数理モデルの産物である。この国際システムの戦略的リアリティに照らし合わせたとき、現在の日本が置かれた安全保障環境の異常さが浮き彫りとなる。
日本は、核兵器を大量保持し、かつ軍事拡大と領域侵犯を続ける3つの権威主義国家(ロシア・中国・北朝鮮)に直接包囲されている世界唯一の国家である。それにもかかわらず、日本はその抑止力を自前で保持せず、全面的に米国の「拡大抑止(核の傘)」に依存し続けている。しかし、米国の核の傘が真に機能するか否かは、常に「ワシントン(あるいはニュー・ヨーク)をリスクに晒してまで、東京を守るために米国が大統領の核ボタンを押すか」という、信頼性(Credibility)の根本的問いにぶつかる。かつて、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が米国の拡大抑止を不信とし、自国の独自の核戦力(Force de frappe)の構築へと舵を切ったのは、まさにこの限界を見抜いていたからに他ならない。
核アレルギーという感情的タブーに足をとられ、核抑止の戦略的メカニズムやリアリティの議論から逃避し続けることは、平和を守ることとは何の関係もない。それは単に、自国の生存を他国の親切心や不確実なコミットメントに委ねるという、不条理なギャンブルを続けていることに過ぎない。日本が真の自立を果たし、東アジアの巨大な地政学的激変を生き抜くためには、核抑止が持つ冷徹な力学を冷静に理解し、自主防衛と現実的な抑止戦略の構築に向けた論理的な検討を始めなければならないだろう。
現代の東アジアにおける最大の地政学的リスクは、習近平体制下の中華人民共和国(中国共産党)による膨張主義と、伝統的な「中華帝国」としての覇権的野望の露骨な顕現である。中共の目指す国家戦略の本質は、近代西欧が作り上げた主権平等や国際法に基づく秩序(ウェストファリア体制)への順応ではなく、自国を頂点とし周辺国を従属的な朝貢体制下に組み込もうとする「華夷秩序」の現代的復元に他ならない。この中共による覇権獲得の爪痕が最も端的に現れたのが、香港における「一国二制度」の破綻である。1997年の香港返還に際し、中国は中英共同宣言において「50年間は高度な自治と自由な社会体制を維持する」と国際社会に約した。しかし、2020年の「香港国家安全維持法(国安法)」の強行成立と、その後の民主派勢力・自由言論の完全な鎮圧によって、この国際的公約はあからさまに踏みにじられた。この史実が突きつけた冷徹な教訓は、「中共が交わす条約や政治的約束は、自国のパワーが優勢となった瞬間、いつでも反故にされる」というリアリズムの冷酷な原則である。
そして現在、この「一国二制度」という欺瞞の次にターゲットとされているのが台湾である。中共にとって、台湾の併呑(いわゆる「中台統一」)は単なる領土的野心にとどまらない。それは習近平の掲げる「中華民族の偉大な復興(中国の夢)」の達成における不可欠のピースであり、同時に米国の「第一列島線(九州—沖縄—台湾—フィリピンを結ぶライン)」による海洋封鎖網を破砕するための戦略的至上命令である。もし台湾が中共の軍事支配下に降れば、東シナ海と南海を結ぶシーレーン(海上交通路)は完全に中共の制海権・制空権下に置かれる。日本のエネルギー輸送や貿易の大部分が通過する海上生命線は彼らの「手中に握られる」こととなり、日本は即座に経済的・安全保障上の喉元を締め上げられる状態に陥る。台湾有事とは、遠い異国の紛争などではなく、まさに日本の国家としての死活がかかった「日本有事」そのものなのである。
中共の軍事・防衛戦略の核心は、「A2/AD(アンチ・アクセス/エリア・ディナイアル:接近阻止・領域拒否)」戦略と、段階的な海洋進出のライン(第一列島線・第二列島線)の設定に集約される。中共は南シナ海のほぼ全域を自国の管轄海域と主張する勝手な境界線「九段線(あるいは十段線)」を独自に設定し、ハーグの常設仲裁裁判所が2016年に「国際法上の根拠なし」とする全面的な不法判決を下したにもかかわらず、これを完全に無視した。そればかりか、南沙(スプラトリー)諸島や西沙(パラセル)諸島の岩礁を急速に埋め立てて巨大な軍事基地・滑走路・ミサイル基地へと変貌させ、事実上の「内海化」を既成事実化した。この南シナ海における強引な海洋進出と全く同じパターンが、東シナ海、とりわけ日本の領土である尖閣諸島(沖縄県石垣市)および沖縄周辺海域に対して連日実行されている。中国海警局の武装公船が連日のように尖閣諸島周辺の接続水域や領海へ侵入を繰り返し、日本の漁船を追尾し、領有権主張のパフォーマンスを継続しているのは、単なる偶発的挑発ではない。これは、現状維持を力によって変更し、日本側の実効支配を段階的に形骸化させる「グレーゾーン事態」を用いた「サラミタミ作戦(薄く切り取るように少しずつ既成事実を積み重ねる手法)」である。彼らの見据える最終目標は明確である。第一列島線を完全に突破して太平洋へ向けて出撃する自由を確保し、米海軍の機動部隊を第二列島線(伊豆諸島—グアム—サイパン)の西側へ追い払うこと(A2/ADの完成)である。この戦略が達成されたとき、沖縄本島を含む南西諸島全体が中共の強大な軍事的射程と威圧の下に屈することとなる。
さらに近年、中共は「一帯一路」構想を通じた経済的支援を罠として利用する「債務の罠(Debt Trap)」を展開し、スリランカのハンバントタ港のように発展途上国の重要インフラの港湾使用権を長期間手中に収める戦略を進めてきた。経済力を武器としたハイブリッドな地政学戦略によって、彼らはインド洋から太平洋にいたる広大な海域で着々と拠点網(「真珠の首飾り」戦略)を拡大し続けているのである。
このように東アジアのミリタリーバランスが崩壊し、中共の露骨な覇権主義と人権弾圧の脅威が目前に迫っているにもかかわらず、戦後日本を支配してきた左翼市民運動や「観念的平和主義」の言論勢力は、歴史的な機能不全と見苦しい二重基準を露呈し続けている。彼らは、日米安全保障条約や自衛隊の装備導入、防衛費の増額、改憲議論といった自国の防衛努力に対しては、狂乱したかのように「軍国主義の復活」「戦争法案」といった苛烈な言葉で批判・反対の声を上げる。しかし、その一方で、中共のもたらしている過酷な現実に対しては驚くべき冷淡さと沈黙を保ち続けている。例えば、新疆ウイグル自治区におけるジェノサイドと弾圧。これは100万人規模の人々が強制収容所に送られ、言語・文化・宗教を奪われ、強制不妊や強制労働に晒されている国際人道上の悲劇だ。チベット・内モンゴルにおける民族固有の文化と人権の破壊もそうだろう。これに、香港の民主派活動家やジャーナリストへの弾圧・投獄や、中国共産党による過去数十年の著しい軍拡と、透明性を欠いた核戦力の急速な拡充も加えていいだろう。この極端なダブルスタンダードは、彼らの掲げる「平和」や「人権」という言葉がいかに欺瞞に満ちたものであったかを自ら証明している。彼らの主張の底底に流れているのは、客観的な人権の擁護や平和の実現ではなく、戦後言論空間において形成された「反日・反米・対中宥和」という固定化したイデオロギー的偏向に過ぎない。
国際政治学におけるパワー・バランシング(勢力均衡)の理論が教えるように、一国が急速な軍拡を進めている局面において、対峙する側が「軍縮」や「憲法九条」を唱えて自ら防衛力を抑制することは、平和をもたらすどころか、相手に対して「攻撃のインセンティブ」を与える破滅的な行為(力の空白の提供)である。日本の観念的平和主義者たちが主張してきた「丸腰の平和」論は、結果として中共の東シナ海・南シナ海における膨張主義を補完し、武力による現状変更を招き寄せる「最大の誘因(Enabler)」として機能してきたのである。
東アジアの現実は、かつて日本のリベラル派や財界、官僚層が抱いていた「経済的に豊かになれば、中国もいずれ国際秩序の責任あるステークホルダーとなり、民主化・自由化へ向かうだろう」という「関与政策(Engagement Policy)」の甘い希望的観測(Wishful Thinking)が完全に破綻したことを示している。中国共産党は、グローバル経済の恩恵と西側諸国からの技術・資本の提供を最大限に利用して経済的・軍事的に巨大化しながら、その力を民主化への舵切りではなく、強権的な監視社会の構築と対外的覇権の追求へと傾注させた。米国が「リベラル覇権主義」の失敗によって内政の分裂と疲弊を深め、世界警察としての絶対的な威信を低下させている現代において、東アジアは冷戦期以上の極めて危険な「力の真空地帯」を生み出しつつある。
中共という巨大な覇権国家に隣接する日本に遺された時間は、もはや極めて限られている。「平和を祈っていれば脅威は去る」「米国が際限なく守ってくれる」「中国と対話さえすれば解決する」という幻想を完全に捨て去らなければならない。自国周辺で進行しているのは、優雅な理想論の交わされる議論の場ではなく、剥き出しの力と国益がぶつかり合う凄惨なパワー・ポリティクスの現場である。
戦後日本の安全保障議論は、あまりにも長きにわたり二つの極端な逃避行動に苛まれてきた。第一は、自国の防衛責任と主権の真の全うから目を背け、米国の庇護の下に漫然と安住し続ける「従米ニセ現実主義(対米従属)」であり、第二は、国際政治のアナーキーな現実に背を向け、憲法9条のお題目を唱えていれば平和が維持できると信じ込む「観念的平和主義」である。この二つは一見すると対立する陣営のように見えながら、その本質においては「自国が主体となって血と泥を流し、国家生存の責任を全面的に引き受ける覚悟を放棄している」という一点において完全に共通した「双子の病」であった。
しかし、米国がリベラル覇権主義の過剰伸長によって疲弊し、国内政治の分断と「抑制(Restraint)」への転換を強める現代において、米国のコミットメントに100%頼り切る従米路線は崩壊の危機に瀕している。一方で、中国・ロシア・北朝鮮という核を保持する強権的な覇権国家群に直接包囲されている東アジアの現状において、観念的平和主義が何一つ防衛的機能を果たさないことはもはや自明の理である。日本が国家としての独立と繁栄を21世紀後半に向けて維持するためには、この「双子の病」を同時に破砕し、自国の足で立つ「自立したリアリズム(自主防衛)」への構造転換を図らねばならない。同盟は重要であるが、それは「自前の強大な打撃力と拒否力」を保持した独立国同士が結ぶ対等な戦略的提携であって初めて機能する。自力で自国を守る意思も能力も欠いた国家は、同盟国からも軽蔑され、最終的には切り捨てられるのが国際政治の冷酷な鉄則である。
日本が真の自主防衛体制を再構築する上で目指すべきは、他国へ侵略して占領するための大規模な遠征軍の保持ではない。目指すべきは、中国などの大国であっても「日本への侵攻・威圧には天文学的なコストとリスクが伴い、割に合わない」と判断せざるを得ない強力な「拒否的抑止(Deterrence by Denial)」の確立である。そのためには、従来の陸・海・空という伝統的な防衛領域の拡張にとどまらず、新次元の戦闘領域であるサイバー・宇宙・電磁波、そして無人兵器(ドローン)領域における圧倒的な優位性を確立しなければならない。抑止の前提として、インフラや指揮統制線を防衛する「能動的サイバー防衛」の法制化と能力構築が不可欠である。敵のサイバー攻撃の兆候を検知した段階で相手のサーバーに侵入し、無力化する権限を自衛隊に付与しなければ、現代戦における「第一撃」によって日本の都市機能と防衛システムは戦わずして麻痺する。
ウクライナ戦争や中東の紛争が実証したように、数千万円単位の安価な攻撃型ドローンや水上無人艇(USV)が、数億円から数千億円の主力戦車やイージス艦を破壊する「非対称戦」の時代が到来している。少子高齢化によって自衛官の人員確保が急速に厳しさを増す日本において、AIと連携した大量の無人兵器網を南西諸島全域に高密度で展開することは、海洋からの敵の接近を物理的に遮断(A2/ADの日本版構築)するための切り札となる。敵のミサイル発射拠点や指揮枢軸を直接叩く「反撃能力」の保持は、抑止の真実性を担保する絶対的要件である。国産の12式地対艦誘導弾能力向上型や極超音速誘導弾の大量配備を急速に進めると同時に、開戦初期の飽和攻撃に耐えうる分散型弾薬庫と防空シェルターの整備を全国規模で急ぐ必要がある。
リアリズムの観点において、国家のパワーとは単なる兵力数や防衛予算の規模だけで定まるものではない。現代の地政学的争闘において最も重要な要素の一つが、「経済安全保障」および「技術覇権」である。日本が軍事的大国(超大国)と対等以上に渡り合い、国際社会における不可欠の地位を占めるための鍵は、世界が日本に依存せざるを得ない構造——すなわち「日本の技術的不可欠性(Chokepoint Technology)」の確保にある。
戦後日本のアカデミズムや防衛産業は、「軍事研究の拒絶」という観念的ドグマによって、最先端のデュアルユース技術開発から自らを遠ざけてきた。しかし、量子力学、AI、半導体、先端素材(カーボンファイバーやパワー半導体)、合成バイオロジーなどの最先端分野において、軍事と民生の境界線は既に完全に消滅している。国家主導でこれらの先端技術に巨大な研究開発投資を行い、防衛産業とスタートアップ、大学研究機関のイノベーション・エコシステムを再構築しなければならない。半導体製造装置の核心部材、超高精度工作機械、特殊材料分野などにおいて、日本が圧倒的な世界シェアと技術的優位(ボトルネック)を握り続けることは、いかなる軍事威圧に対しても強烈な「経済的牽制力」として機能する。「日本を敵に回せば、相手国の最先端産業も止まる」という相互依存の不均衡を作り出すことこそが、最もコストパフォーマンスの高いインテリジェンス防衛となる。
そして、日本の安全保障論議において最大のタブーとされながら、最も逃避してはならない核心的テーマが「核選択」のリアルである。核抑止とは情緒や倫理の議論ではなく、数理的・ゲーム理論的なコスト計算の現実である。ロシアによるウクライナ侵攻が決定的に証明したのは、「核を放棄した国家は核保有国からの侵略に晒され、核を保持する強権国家に対して西側諸国は直接の軍事介入を躊躇する」という地政学の残酷な真実であった。日本が中国・ロシア・北朝鮮という「3つの核強国」に取り囲まれる中で、自国の主権を守り抜くためには、潜在的核抑止力(技術的ブレイクスルー能力)の強固な維持が必要である。日本は現在、非核保有国でありながら世界最高水準の原子力技術と約40トンにおよぶ分離プルトニウムを保有し、高性能な固体燃料ロケット(イプシロン等)の技術を有している。これは国際社会に対し、「日本は決断すれば極めて短期間で実用的な核戦力と配送手段を構築できる」という強烈な「潜在的核抑止力(Technical Deterrence)」を発揮している。この技術的基盤と原子力リサイクル政策の堅持は、日本の安全保障の絶対的底線である。
さらに、独自の核選択肢をテーブルの上に置く「戦略的曖昧性」である。日本は「非核三原則」やNPT(核不拡散条約)体制を即座に破棄すべきと軽率に主張する必要はない。しかし、「事態が著しく悪化し、自国の存在が脅かされた場合には、NPT第10条(最高利益を脅かされた場合の脱退権)を行使し、独自の核抑止力保持へ舵を切る選択肢(Option)を排除しない」という戦略的曖昧性(Strategic Ambiguity)を言論空間や外交の裏舞台において保持し続けることが重要である。「日本はいかなる状況でも絶対に核を持たない」と宣言し切ることは、相手に対して無限の安心感を与え、自らの交渉カードを自ら捨て去る愚行に他ならない。「持つか持たないか」のカードを手元に握り続けること自体が、過酷な国際政治における強大な外交的・軍事的レバレッジとなる。
自主防衛の再構築、技術覇権の奪還、そして現実的な核選択の議論は、いずれも従来の日本の「事象から逃避する安全保障観」からすれば極論に聞こえるかもしれない。しかし、歴史の歯車が大きく軋みを上げて回り出し、第二次世界大戦後の国際秩序(パックス・アメリカーナ)が終わりを告げようとしている現代において、過去の成功体験にしがみつき続けることこそが、最も現実離れした妄想である。国際政治の根本法則は、千年前から何一つ変わっていない。自分の身を自分で守る意思と能力を欠いた共同体は、他国の慈悲に縋った挙句、歴史の表舞台から容赦なく淘汰されていく。日本が独立国としての誇りと主権を保ち、次世代に平和で豊かな国土を引き継ぐために必要なのは、他国への依存や観念的理想論を捨て去る知性と、過酷なパワー・ポリティクスの渦中へと自らの足で立ち向かう国家としての強靭な意思である。従米と観念論の呪縛を解き放ち、真のリアリズムに基づいた国家戦略へと踏み出すことである。