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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

エーリッヒ・ベッヘルの形而上学-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察③

職場の同僚の話によると、エーリッヒ・ベッヘルは、ドイツでは優れた哲学者として知られているらしいが、現在の日本ではほとんど触れられることはない。ドイツ出身でカトリック教徒である知人から紹介されるまで僕も知らなかったわけだから、偉そうに言えないのだが、ミュンヘン大学などで教鞭をとりながら活躍したものの、若くして亡くなったこともあって、なおのこと日本で知る者は少ない。ちなみに、その知人に日本の神道について簡単に説明すると、「古代ゲルマンにも似たような原始的な宗教はあった」とか何とか抜かしやがったので、頭にきて「エリアーデか何かの読み過ぎじゃねえ?」と返してやったが、同時に「こいつには、我が惟神の道は永久にわかんねぇんだろなぁ」と思うより他なかった。調べてみると、エーリッヒ・ベッヘルの著作は、Einführung in die Philosophieが『哲学入門』(創元社)として訳されているだけのようである。

 

形而上学と自然科学との関係について深く思考したベッヘルの哲学は、その最終的な結論には同意できなくても、現代における形而上学の可能性を考える上で、示唆に富む思考を供してくれている。ベッヘルの哲学的営為は、19世紀半ばから20世紀初頭にかけてドイツで起きた形而上学復興運動の系譜に位置づけることができる。幸い、ベッヘルの書くドイツ語は比較的読みやすく、エルンスト・カッシーラーの読みやすいドイツ語の文章を読んでいる気分にさせられもする。カントやヘーゲルあるいはフッサールのような、少なくとも僕にとっては、読むのに苦痛を感じさせるようなドイツ語の文章とは違う。例えば、カントのこんな調子の文と比べてみるといいだろう。

Da die Zeit nur die Form der Anschauung, mithin der Gegenstände, als Erscheinungen, ist, so ist das, was an diesen der Empfingung entspricht, die transzendentale Materie aller Gegenstände, als Dinge an sich(die Sachheit, Realität). 

どう考えてもヘンテコな一文であり、読み手がその意味合いを思い切り斟酌しながら読んであげなければ直ちにはその文意がはっきりせず、それゆえ、ひどく読み手を疲労させてしまうに違いない。ざっと文意を掴むとすれば、時間は感覚の形式であり、物自体としての対象について実在性と語られてきたものが、現象としての対象においては、質料としての感覚に対応するものであるという感じに解しておけば一般読者としては済むのだろうけど、しかしこうした掴み方は、ある程度カントについての情報を予め持っているからこそ可能なものだとも言えよう。いずれにせよ、カッシーラー等の文章のようなスラスラ流して読める文ではないことは明らかだ。

 

19世紀半ばの形而上学復興は、カント主義に対する反動として、ドイツ観念論の衰退後に形而上学を改革して復活させようと、ヘーゲルの自然哲学の路線とは別に、形而上学と自然科学との関係を再定義することから始まった。既に、ヘーゲルの観念論的な自然哲学は、当時の自然科学者の目からも「失敗」と見なされるようになっていたのだ。そんな状況下で、形而上学復興運動の支持者は、形而上学のための異なる方法を提案したわけだが、そのプログラムは経験的諸科学にしたがって形而上学を構築するという考えに基づいていた。特に、経験的諸科学が行ってきたように、経験に定位しつつ帰納的推論を使用するという方法を選択した。

 

ベッヘルにとっては、経験的現象を超えるいかなるものの合理的肯定に対する道も閉ざすことを主張するカントの反実在論的・反形而上学的立場の認識論は容認できないものであった。「神の宇宙論的証明」に対するカントの批判はトマス・アクィナスによる論証の筋を誤解したものであって、Ens realissimumの観念から必然的存在を演繹するものではないにも関わらず、カントはそれを演繹と解して反駁しているところなどを見ると、カントが持っていた論証概念に首を傾げざるを得ない。あくまで素人としての感想でしかないだろうが、僕がトマスを読む限りでは、トマスの論証は、カントが反駁したと称する手順とは正に反対の順序で構成されている。すなわち、必然的存在の実在が因果論的論証から打ち立てられたのなら、そのような存在は同時に必然的かつ有限であることはできないという論証の順であるということだ。というのも、本性的に有限として存在の原因を求めるからであり、そうであればこそ必然的存在は無限であるに違いなく、単純に一なるものであると考えられるからである。そもそもカントが理解するように、完全性の観念からの演繹にはなっているわけではないのである。こうしたカント的立場に公然と対決するベッヘルの意気込みは理解できるし、そうであればこそ同僚に勧められて読むに至ったわけだが、とはいえ最終的には、ベッヘルの形而上学には無理があることを予め言っておかねばならない。

 

ベッヘルの出発点は、『形而上学と自然科学: 両者の関係についての認識論的研究Metaphysik und Naturwissenschaften. Eine wissenschaftstheoretische Untersuchung ihres Verhältnisses』である。その他にも、『自然哲学Naturphilosophie』や『人文科学と自然科学: 科学の理論と分類に関する研究Geisteswissenschaften und Naturwissenschaften. Untersuchungen zur Theorie und Einteilung der Realwissenschaften』を著している。ベッヘルは、形而上学と自然科学の関係の研究を体系的に比較することから始める。ベッヘルは、自然科学の知識の対象として、実在の物理的対象と見なす自然の対象と特性と関係及びそれらが関与する過程を特定する。しかし、個々の自然科学は常に物理世界の特定の部分または側面のみを扱う。例えば、植物学は地質学以外の自然の部分を研究する。そして、自然のすべての領域に影響を与えるように見える物理学でさえ、自然物の特定の側面のみを調べ、これらの側面は、例えば化学によって調べられるものとは異なる。それゆえベッヘルは、自然科学を「部分的諸学Partialrealwissenschaften」と呼ぶ一方で、形而上学を世界に対して包括的な視点をもたらす「全体的学Totalrealwissenschaft」と呼ぶ。もっとも、形而上学もまた実在の特定の部分や側面を考慮することがあるが、自然科学とは異なり、常に全体的な実在に関連している。例えば、生物学は有機生命に関係しているが、形而上学有機生命が全体的な実在の他の部分、例えば魂や意識にどのように関連しているかという問題を扱う。このように、形而上学と自然科学は、それらの対象に関して互いに接触している、あるいは重なり合っているとさえ言える。しかし形而上学は、全体的な実在の観点から、個々の科学の結果の単なる並置を超えた主張をしているとベッヘルは指摘する。

 

自然科学と形而上学の対象に関する関係をこのように位置づけることができるとしても、知識の基礎と方法の観点から、それらが互いにどのように関係しているかという問題が出てくるだろう。俄かには受け入れがたい主張であるが、ベッヘルによれば、形而上学の方法は自然科学の方法の分析から導き出すことができると言うのである。自然科学は特定の方法、すなわち彼が詳細に分析する経験的帰納的方法によって特徴づけられる。この方法では、自然科学は知識の究極の源泉として知覚から出発する。なぜならば、知覚のプロセスが我々が実在を直接把握できる唯一の方法であると言えるからである。もっともベッヘルは、我々が自身の現在の意識内容に直接アクセスすることしかできないと考えている。しかし、自然科学の経験的帰納法や日常生活において重要な役割を果たす特定の認識原理を利用することで、意識の領野を超越できると指摘している。

 

ベッヘルによると、自然科学にとって最も重要である3つの原則は、①「記憶の信頼推定要件Voraussetzung des Erinnerungvertrauens」、②「合法則性の推定要件Gesetzmäßigkeitsvoraussetzung」、③「因果原理Kausalprinzip」である。①の「記憶の信頼推定要件」は、我々が日常生活でも信頼している基本原則である。一方、②「合法則性の推定要件」と「因果原理」は、より基本的な推定である「規則性の推定要件Regelmäßigkeitsvoraussetzung」に基づいている。ベッヘルが指摘するように、規則性のより弱い推定は、我々の科学以前の日常の現実認識に関係している。合法則性のより強い推定と因果原理は規則性の推定の強化されたものであり、それらは自然科学の産物である。

 

「記憶の信頼推定要件」によれば、過去の記憶は少なくとも、原則として信頼できると推測される。記憶は現在の意識内容であり、過去の経験の複製として理解されている。とりあえず反論がない場合、我々は通常これらの表現を信頼する。しかし、ベッヘルが指摘しているように、我々の記憶が常に我々を欺く可能性を排除することはできない。記憶の信頼性を先験的に証明する方法はない。更に、記憶の信頼性も経験的に正当化することはできない。過去に頼ることなく、記憶の信頼性を経験的に検証することもできない。そうするためには、記憶の信頼性を前提としなければならず、その結果、記憶の信頼性のそのような経験的正当化は常に循環的な営為となってしまう。

 

超越論的または経験的な正当化がない場合、我々はそれを証明または正当化することができずに、我々の記憶の信頼性を信頼する以外に選択肢はない。我々が記憶の信頼性に依拠しなければならない理由は、それが知識の獲得に必要な(erkenntnisnotwendig)要件だからである。ベッヘルはNaturphilosophieにおいて、以下のように述べている。

それがなければ、我々は現在の意識の領域を超越することはできなかった。特に、過去の知識を得ることができなかった。つまり、それは我々の認識の対象として不可欠であるため、我々はそれを信頼しているのである。

 

更なる別の原則が含まれていなければ、しかし我々の知識は、我々の現在と過去の意識の領野に閉じ込められたままになる。この領野を超越するために、我々は別の原則すなわち「規則性の推定要件」に依拠する。第一に、この原則は我々自身の経験に関する「規則性の推定要件」である。過去の経験から未来の経験について何事かを推測する場合、我々は観察できる規則の原則に依存している。これまでの経験の領野は未来にも当てはまるというような要件がなければ、我々は現在と過去の意識の領野を超えることはできない。だからこそ、この要件は我々の日常生活と科学の営為における「理解Erkenntnis」にとって不可欠である。しかし、「記憶の信頼推定要件」の場合と同様、Geisteswissenschaften und Naturwissenschaftenにおいて、ベッヘルは「規則性の推定要件」は循環論法なしでは、超越論的にも経験的にも正当化することはできないとも述べている。未来についての知識を得たいのであれば、それを信頼しなければならない。もっとも、それが真理であることの理由を与えることができるという意味で、この原則が正当化できるとは言えない。にもかかわらず、それが経験的知識を得る唯一の方法であるため、この原則を適用することには一定の正当性があるというのである。

 

ベッヘルは、類推と帰納的一般化に関し、Naturphilosophieにおいて、それらを密接に関連した推論の形式であると位置づけている。類推は、例えば私が最初に私の意識の特定の状態を決定した時に働く。痛みは、私の体の特定の反応と相関している。叫んでいると、別の人が叫んでいるのを聞いた時、私は類推によって彼にも対応する痛みの感覚があると推測する。帰納的一般化は、例えば、水銀が加熱されると膨張するという観察から推測する時、これは将来水銀が加熱される時にも起こるだろうと推測する。推論は「規則性の推定要件」に依存している。ベッヘルは、規則性の要件が自然科学にとって特に重要であることを強調する。というのも、自然法則についての推論は帰納的一般化に基づいており、したがって規則性の要件に基づいているという他ないからである。

 

ベッヘルはまた、Geisteswissenschaften und Naturwissenschaftenにおいて、この「規則性の推定要件」により、過去への推論を引き出すことが可能になるとも述べている。例えば、夏と冬は思い出せなくても5歳のときに経験したと推測できる。しかし、これは記憶への信頼の要件に基づいて得た結果と、規則性の要件に基づいて得た結果が互いに矛盾する可能性があることを意味する。次に、この場合、関係する知識の原則のどれを優先すべきかを決定する必要がある。これは、知識を獲得するために必要なこれらの原則が、あらゆる場合に争うことのできない前提ではないことを意味する。特に、他の認識原理の結果との競合、または同じ原理に基づく他の結果との競合は、特定の使用に疑問を投げかける可能性がある。これらの原則は、我々が何をしようとしているのかという前提ではなく、反駁可能な推論を伴う規則である。

 

これまでのところ、厳密に言えば、我々は我々自身の意識の領野を超えていない。記憶の信頼要件は、我々自身の意識の過去の状態を推測することを可能にする。規則性の要件により、過去の経験から未来の経験まで推測することができる。これは現在の意識内容を超越することを可能にするが、我々はまだ外の世界に一歩踏み出していない。しかし、上で見たように、ベッヘルは、形而上学と同様に自然科学も知識の対象として物理的対象を持っていると考えている。ベッヘルは、我々が実在の知識を持つことができ、これは形而上学に限らず、自然科学や日常生活にもある程度見られる一種の知識であると明確に主張している。したがって、我々は外界の物体の知識を得ることができるように、我々自身の現在、過去、そして未来の意識の知識をどのように拡大することができるかを問う必要がある。

 

実在論の正当化において、ベッヘルはこの形式を明示的に反映させることなく、別の形式の帰納的推論すなわち最良の説明への推論に暗黙的に依拠している。実在論の正当化におけるこの推論形式の使用は、帰納的一般化や類推のように、最良の説明への推論が規則性の要件に基づいていることを示している。これは、推論形式の「最良の説明への推論」が形而上学にとってどれほど中心的な役割を担っているかを示唆する有益な例である。ベッヘルは、実在の物体の知識は、未来の知識のように規則性の要件に基づいていると指摘する。ベッヘルによる実在論の再定礎は、全体的な実在を次のように見ることができるように、実在の物体の存在の仮定を導入する。我々自身の意識だけが存在すると仮定した場合、生起することの多くは、我々自身の意識状態に限定されるだろうし、それはいかなる規則にも従わないことになるだろう。

 

私が意識の内容に集中する場合、例えば突然の大きな音は、いかなる規則に従っても私の意識の以前の内容とは関係のない出来事である。一方、外部の物体の存在を仮定して文脈を拡張し、それを知覚体験の原因として理解することができれば、それによって大きな音の体験を通常の全体的な文脈に組み込むことができる。大きな音は、木の板の荷降ろしなど定期的に大きな音を発生させる外部プロセスによって因果的に説明することができる。このことは、経験の多くについて等しくあてはまる。ベッヘルはまた、外部の物体が我々の知覚をどのように引き起こすかについての理論を構築するために、最初から始める必要はないことを指摘している。この外部対象の仮定は、最良の説明への推論によって支持されていると言えるだろう。

 

第一に、最良の説明への推論の方法は、説明を必要とする一連の観察された現象から始まる。第二に、様々な仮説が検討される。これらの仮説が真である場合、観察された現象を説明する。第三に、これらの仮説を比較して、どの仮説が現象を最もよく説明しているかを判断する。第四に、どの仮説が最良の説明を提供するかが決定されると、推論が導き出される。第五に、観察された現象の最良の説明であると考えられる仮説を推論する。このようなステップを辿るというのである。

 

ベッヘルは、世界全体を可能な限り規則的なものと見るために、我々の一連の知覚の因果的説明として、実在の外部対象があるという仮説を導入した。したがって説明は、規則性の要件に基づいていると言えるだろう。規則性の要件を背景に、この仮説は我々の知覚の(そうでなければ不規則な)系列の最良の説明である。つまり、規則性の推定に従って、世界全体(一連の知覚を含む)が非常に規則的であると表示される。

 

ベッヘルが対立する見解に対してどのような批判を向けているか。これら対立する見解は、我々の一連の知覚の出現を説明できない、あるいは少なくとも十分に説明できないとベッヘルは批判する。外界は起源と未来の認識を予測する手段として使用するフィクションであるとする見解を、ベッヘルは批判する。なぜなら、そのような立場の支持者は、我々の知覚が外部の物体があるかのように見えることを認めているからである。この立場は、実在論とは対照的に、満足のいく説明を提供しえないのである。

 

同様に、カントとフィヒテの観念論的な立場も排除する。Metaphysik und Naturwissenschaftenにおいて、観念論は子供が天文学の法則を知らないにもかかわらず天文学の計算に合った正確な位置で月を見ているという事実についての最良な説明を提供しえないと批判する。観念論では、子供たちの理解または私が月をどのように正確な位置に置くようにしているのか理解できない。したがって、観念論は実在論より劣っている。実在論では、子供でさえ月が正しい場所にあるという事実を簡単に説明できる。ベッヘルが述べているように、知覚された物体はそれ自体が実在であるという仮説は、観念論よりも「比類なき強力な仮説eine unvergleichliche leistungsfähigere Hypothese」である。つまり実在論は、我々の一連の知覚の最良の説明を提供するというわけである。

 

ベッヘルの形而上学の文脈では、そう簡単に却下できないバートランド・ラッセルによって提唱された理論を考えてみる(とはいえ、ベッヘルはラッセルについて言及していない)。対象は単なる知覚の可能性であるという考えを考慮し、ジョージ・バークレーにまで遡らせている。この理論によれば、実在の物体はないが、実在になり得るのは我々の知覚と特定の知覚の可能性だけである。例えば、今は気づいていない背中の後ろの壁は、振り返るとすぐに実在になる知覚の可能性である。この理論に対するベッヘルの異議は、それでは不十分であるとういうものである。実在ではなく、単に実現されていない可能性であるというだけでは因果関係を持つことができず、実在の因果関係に組み込むことはできない。それゆえ、そのような単なる知覚の可能性の仮定は、世界のあり方を実在の法則によって支配されるあり方と見なすことはできないのである。

 

ラッセルの理論は、この現象主義の一つのバージョンと見做せるだろう。Mysticism and logic and other essays所収の論文“The relation of sense-data to physics”で示されたラッセルの目的は、感覚与件から物理的対象を構築することであった。感覚与件とは、我々の感覚の直接の対象、例えば特定の色のパッチや特定のノイズを意味する。しかしラッセルは、実際に感知された感覚与件だけから物理的対象を構築することは不可能であることを理解していた。このためラッセルは、彼は「センシビリアsensibilia」と呼ぶ追加の実体を導入する。「センシビリアsensibilia」は感覚与件と若干異なり、必ずしも実際ーに感知されるとは限らない。対象の外観は、実際の外観(感覚与件)と可能な外観(未感知)に分けることができる。次に、常識的な対象は、それらの実際の外観と可能な外観のクラスとして定義される。

 

単なる知覚の可能性の理論との違いは、「センシビリアsensibilia」は実際に感知されることとは独立して存在するという主張にある。是は存在論的に言えば、対象の可能な外観は実際には存在する「センシビリアsensibilia」であり、実際には感知されないことを意味する。そうすると、ラッセルの主張は、ある種の実在論を含意するかに思える。ラッセルは、誰にも感知されることなく存在する「センシビリアsensibilia」の存在を仮定しているからである。ベッヘルとラッセルが、各々の理論を発展させる際の進め方には類似性がある。我々の知覚の範囲を特定の理解可能な規則に従う世界の全体像に拡大するために実在の物体を仮定するベッヘルのように、ラッセルは、我々の一連の知覚のギャップを埋めるために「センシビリアsensibilia」を仮定する。とはいえ、重要な問題は、同じ与件の様々な可能な説明をどのように決定するかである。

 

ラッセルは、Our knowledge of the external world as a field for scientific method in philosophyにおいて、自分の理論は単なる仮説であり、科学の仮説と同様、確実性を主張することはできず、未来の更なる証拠あるいはより良い代替案によって転覆される可能性があることを認めている。では、ラッセルがなぜ、他の競合する理論よりも自身の理論を選択すべきと考えたのか。ラッセルは、別の理論ではなく特定の理論を採用する基準として「オッカムの剃刀」を持ち出す。ラッセルによって仮定された「センシビリアsensibilia」は感覚与件と類似ではあるけれど、それ自体としては無意味である。他方、ベッヘルの実在論は、我々がすぐにアクセスできる知覚とは完全に異なる種類の対象つまりそれ自体のものを仮定している。したがってラッセルは、仮説がその一般的な存在論的コミットメントに関してより単純であるため、自分の仮説が一連の認識のより良い説明につながると主張しているのである。

 

しかし、ラッセルの理論は、仮定された実体のタイプに関しては単純だと言えても、「センシビリアsensibilia」から構築された特定の物理的対象は、ベッヘルによって仮定された対象よりも単純と言えるだろうか。ラッセルの理論によれば、各物理的対象は、無限に多くの「センシビリアsensibilia」で構成され、各々がその時点で構築された対象の潜在的な観察者の異なる潜在的な視点を表していることになろう。そうすると、ラッセルは、「センシビリアsensibilia」からの対象構築が実際にどのように機能するかを説明するために長い時間を費やす必要があり、それゆえ、ラッセルの理論がラッセルが考えているほど単純とは言えないのではないか。少なくとも、「オッカムの剃刀」の基準では、ラッセルとベッヘルいずれの理論のどちらが優れているかは明らかにはならない。

 

この議論は、ベッヘルが実在論的な存在論の議論の基本的な考え方について興味深い見通しを示している一方で、それが成功するためには多くの詳細を検討する必要があることを示している。現在の証拠に基づいてどの説明が最良であるかを判断できるようにするために、説明を評価するための具体的な基準を検討する必要がある。このための最初のステップは、説明が科学でどのように機能するかを調べ、競合する可能性のある説明が科学的実践でどのように評価されるかを分析することである。自然科学の経験的帰納的方法は、いくつかの異なる部分的なステップを組み込んだ複雑な方法である。それは知識の究極の基礎としての知覚に基づいているので、この点では経験的な方法である。様々な形式の帰納的推論(帰納的一般化、類推、および最良の説明への推論)が含まれているため、この点では帰納的方法である。

 

しかし、演繹的要素と先験的要素も含まれているという事実も見逃してはならないだろう。自然科学は、経験に基づかない数学的知識も活用している。ベッヘルは、帰納的推論に加えて演繹的推論が自然科学において重要な役割を果たしていると述べている。一方で、帰納的推論された一般法則からさらに具体的な法則が演繹的に導き出される。他方、未だ確認されていないと考えられている仮説は、それらから演繹的に結果を導き出すことによって検証でき、その後、経験に基づいて検証することができる。

 

我々自身の現在の意識内容の領野を超越することを可能にする帰納的推論は、経験的に正当化できない推論に基づいている。それらが超越論的に正当化できないとしても、ベッヘルはそれらを超越論的原則と呼んでいる。それが自然科学の方法である。では、形而上学の方法をどのように設計すべきか。これに関するベッヘルの見解は、経験的帰納的方法を形而上学にも適用する必要があるというものである。ベッヘルは古典的な形而上学の超越論的方法に批判的であった。形而上学は超越論的方法に従わなければならないという考えは、形而上学で言及される全体的な実在が我々の経験の限界を遥かに超えているという事実によって生み出される。しかし、形而上学的体系のどれもが批判に耐えられることが証明されていないのである。未確認の経験的要素が常にこれらの体系の構築に組み込まれている。ここで主張されている超越論的体系は、経験的要素が全くないわけではない。それゆえ、形而上学においても経験的根拠を求めるべきである。ベッヘルは、こう結論するのである。

 

ベッヘルに言わせると、自然科学で証明され、成功裏に使用されてきた経験的帰納法は、形而上学の分野にも適用できる。形而上学では、知識の究極の基礎としての知覚も不可欠である。形而上学が探求しようとしている実在と接触しているからである。経験的帰納的方法の枠組の中で経験の限界を超えることができないという恐れは、その根拠がないことが既に証明されているというわけである。自然科学はまた、特に認知に必要な超越論的推定の形で、経験的帰納的方法において超越論的要素と原理に依存していることが明らかになった。したがって、特に規則性の要件に基づく最良の説明への推論を使用することにより、経験の限界を超越することができ、即時の経験を超越する領域で洞察を得ることができる。これが、形而上学の枠組の中で同様に行うことができるということなのである。但し、形而上学であっても、それが完全であるとは決して保証されず、経験と証明できない認識の原則に基づいているため、決して確実であるとは考えられない。

 

こうしたベッヘルの形而上学の考えは、「形而上学」で意味されている内容が若干異なるように思われるので即断することは慎まれるものの、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる「形而上学」批判がそのまま妥当するようにも思える。もちろん、ウィトゲンシュタインによる「形而上学」批判は、時間・世界・存在といった形而上学的問いの重要性を否定したものと受け取るべきではない。但し、そうした形而上学的問いを、日常的な言語使用の延長により経験的事実に準えて考えることを否定したに過ぎないという点に注意するべきかもしれない。ウィトゲンシュタインによる「形而上学」批判とは、無時間的かつ非経験的事実である事柄について、特殊な時間的存在や持続的に存在する経験的対象のように考える愚を諫めたと理解すべきだろう。そう考えると、エーリッヒ・ベッヘルによる形而上学の試みに対して、少なくとも部分的に、このウィトゲンシュタインによる批判が妥当してしまうように思われるのであるが、だからといって、古典的な形而上学に可能性があるのかと問い返されたら、これまた心許ない返答しか用意できない。

「自己責任」論と「無料オプション」

去年の今頃は、アホほど高かったニューヨークのアパートメントの家賃相場は一旦下落傾向を示したけれど、そんな状況は長続きせず、いつの間にやら再び高騰に転じ、コロナ禍前の水準に戻ろうという勢いが見られるところがチラホラ出始めてきた。マンハッタン区でも、場所にはよるけれど、例えば比較的在留邦人が多く住むイーストヴィレッジなどでも家賃相場が高騰し、そこそこの部屋だと月7000ドル以上の支出を要する部屋も多い。1万ドルを超える部屋など山ほど存在し、その数は東京の比ではない。東京だと、7000ドルも出せば、かなり好立地の物件のそこそこの広さの部屋にありつける。

 

ニューヨークやサンフランシスコ、ロンドンやフランクフルトそして香港も、家賃相場は概ね東京より高い水準で推移している。世界の主要都市の中で、東京の不動産は割安と受け止められている。賃貸に回した時の利回りも他の主要都市に比べれば高いと受けられている。それゆえ、東京都心部の好立地の不動産を狙っている海外の不動産投資家やファンドは、条件さえ満たせば、利回りが低くなろうと買い漁る。一般庶民は一般庶民で、東京23区に、それが無理ならその近郊に狭小戸建住宅を建てようと必死になり、今では住宅用地が不足するような状況になっている。新庄耕の小説『狭小邸宅』(集英社)で描かれている不動産会社のモデルとなった某社の最近数年の大躍進は、こうした東京の不動産市況を反映したものと言える(日本の不動産業界の腐蝕は尋常ではなく、明白に消費者利益に相反する行為や慣習が横行している業界である。いつまで経っても、社会的ステータスは低く見られたままである。この小説を読めば、そこそこの学歴に恵まれ、人並みの幸せな生活を送りたいと望む以外の強欲はないという者ならば、率先して選択するような業界ではないことがわかろう)。住宅建設会社も用地仕入れに手こずっているとも聞く。

 

一時のニューヨークは、主として高級レジデンスなどが供給過剰気味で、専ら投資用として購入した買手が多いものだから、人が住まない空室がチラホラ目立ち始めて、価格も下落傾向に向かう兆候を見せてきていたが、元々空室率が2%を切るような人気のあるエリアなので、基本は貸主の天下である。しかも、日本のように借地借家法のような借主保護のための法制度が完備されていないので、なおさら借主の立場は弱い。賃料が払えなければ、即退去である。ニューヨーク在住者の大多数は、持ち家を持たない借家人である。米国人の平均所得並みの年収しかない者だと、サンフランシスコ市街地ほどではないにせよ、一段と住みにくい場所になりつつあるのかもしれない。憧れからマンハッタン区に転居したはいいが、再び家賃の上昇にともない、泣く泣くブルックリン区やら隣のニュージャージー州に出ていくことを余儀なくされる者もいる。ホームレスが数万人という異常な都市である理由もよくわかる。

 

ニューヨークの冬は糞寒い。それゆえ、冬を乗り越えることは、ホームレスにとって命賭けのこと。毎年凍死者が続出するわけだが、できるだけ凍死者を出さないため、一時的な「避難シェルター」が設けられている。そこに5万人ほどが押し掛けるというのだから、この国はどこか狂っていると言う他ない。東京はまだ、ニューヨークと比べると、表に出ている数字の上ではホームレスの人数は圧倒的に少ない。しかし、諸事情から友人や知人の家を転々とする者、24時間営業のマンガ喫茶やファスト・フード店で毎夜を過ごさざるを得ない状況に陥っている者など、「事実上のホームレス」が勘定に入れられいないので、(それでもニューヨークのホームレスの数よりは少ないとは思うが)、行政の視線も、目につきやすい路上生活者だけにしか向けられていない。「事実上のホームレス」を含めると、表に現れている数字の数倍のホームレスが存在していてもおかしくはない。今の日本という国も、相当に狂っていると言うべきだろう。

 

今年の東京は、例年比べて一段と冷え込んでいると聞く。しかも、(実はコロナ禍以前から見られたことだけど)コロナ禍が貧困層の増大に拍車をかけ、住居確保給付金等の補助が講じられたとはいっても、コロナ禍が長期化している状況で思うような職に就けずにいるうちに支給期間が満了となり、家賃が支払えずやむ無く退去せざるを得なくなった者もいるだろう。すなわち、路頭に迷い、極寒の冬を過ごせるのか不安に苛まれている者も相当数に上ることが容易に想像できる。中には、「ボロ雑巾」のように酷使された外国人技能実習生が放り出された例もあるかもしれない(この問題は、外国メディアでも取り上げられており、日本の恥というべき問題。どうして、日本社会はかくも醜くなってしまったのか)。

 

根本的解決には資さないが、とりあえず一時凌ぎのための暖房の効いた部屋と食料を提供する「避難シェルター」のような施設を各地に設けたり、あるいは空室になっているホテルを政府や自治体が一括して借りて部屋を用意するなど、凍死や餓死など含め衰弱して命を落とす者を極小化するために、政府や自治体のできる施策を早急に実行に移すことが肝要。現場の状況を把握できないのであれば、生活困窮者支援を日常的に行っているNPOやボランティア等から情報収集して、その意見を参考にするなり、場合によっては協力体制を整えて今すぐ打てる手を尽くす。ネット上での情報でしかないが、こうした日本社会の貧困問題を考え、住居を失った・失う可能性の濃厚な状態にある生活困窮者を大量に生み出す日本社会の現状を告発し、困窮者支援活動に乗り出す学生ボランティアの団体もいくつか現れているようだ。仮に、日本国の基本的なあり方や外交・安全保障などの面では意見を異にする、言うなれば「右」と「左」の違いがあろうと、日本社会の貧困問題がもはや放置できないレベルにまでに至っているとの問題意識は共有したい。

 

「棄民国家」になっては、何のための国民国家なのかわからない。ここまで社会問題化した貧困層の増大は、国民国家の存在理由そのものが問われかねない事態なのだという自覚を持たない為政者がいるとするならば、そうした天誅に値する売国奴は有害無益の存在なので、早々に政治の現場からご退場願いたい。牙を抜かれて久しい日本人の「大人しさ」をいいことに、やるべき施策を一向に講じず、ましてや問題を問題として自覚すらせず、権力の座に安穏しながら「床屋政談」のような他人事としてのおしゃべりに身を窶す連中だから、本来なら、そうした連中に対して暴動が連発していてもおかしくはない状況なのである。

 

前政権を担った菅義偉は、首相就任して早々に「自助・共助・公助」と、現況を正しく把握しない絵空事を述べ立てていたわけだが、形式的には一見常識的に思えるこの言葉が首相の口から飛び出すことが何を意味するか。それは、国家としての責任を放棄するとの無意識の表明だったわけである。貧困層貧困状態に陥ったのは当人の責任であるとでも言いたげなこの寝惚けた戯言が端的に誤りであることは、多少考えればわかろうもの。最近20年の間に貧困層が増加傾向にあり、そしてコロナ禍により更に深刻化したわけだが、では最近になって日本人が急に怠け者になったというのだろうか。突然、無能な人が急増したとでもいうだろうのか。高度成長期の日本人より、現在の日本人の方が格段に能力的に劣り、しかも努力をしなくなったというのか。社会におけるマスの現象を個々人の能力や努力などに還元して単純化する言説が愚かな主張であることくらい、そこらの中学生でもわかる話である。

 

ついでに言うなら、個々人の経済的成功に関しても、それを個々人の努力や能力の帰結に還元してしまう見方も誤りである。その要素が皆無とは言わないが、むしろ他の複数の要因が絡んだ上での結果というべきである。事実、「まぐれ」としか言いようがないケースもまま見られる。例えば、先の不動産業界を例に挙げるとすれば、同じ労働内容でも、取引される物件の価格によって得られる報酬は異なる。そして高額物件にありつけるか否かには必然性はなく、専ら偶然の賜物である。ところが、当人はその報酬があたかも己の努力と才能といった「実力」の結果なのだと勘違いする。投資家も似た面があろう。不動産業界よりは露骨ではないが、例えば、ナシーム・ニコラス・タレブのFooled by Randomnessは、投資家を含め、経済的成功を収めた者がいかに「まぐれ」によって左右されているか、にもかかわらず成功の原因を自分の実力の賜物と勘違いすることが往々にしてあるかを論じている。

 

こうした社会構造の歪みに対して「自己責任」の一語で片付けようとする者の頭の悪さもさることながら、何もかも全て資本主義が悪いと大風呂敷を広げて何かを言ったつもりになっている者もいる。両者は正反対に見えるが、目の前にある問題から目を背けて手前勝手のイデオロギーを振り回しているだけという点では同じ穴の貉である。確かに、現代の金融資本主義のあり方に強い違和感を持つこと自体は、当事者の一人でもある僕自身にも理解できる。というより、金融資本主義の「走狗」に成り下がっている当事者だからこそ寧ろ、理論的に論証することなどできないものの(投下労働価値説が正しいとするならば、マルクス剰余価値学説は正しいとの帰結に至り、いわゆる「搾取」の存在を論証することができるとする主張に説得力はあろうが、投下労働価値説が誤った前提に基づく見解であるだけに、マルクス剰余価値学説は必ずしも妥当な見解であるとの結論にはならない)、少なくとも直感としては、「資本主義は倫理として悪なのではないか」という思いをふと抱くこともないではない。

 

しかし、「資本主義を打倒せよ」だの、「これからは脱成長型の経済のあり方を模索すべき」だのと言った大上段に構えた言説は、こと目の前の社会問題の改善には何ら資さない、イデオロギーを振り回して悦に入ってる左翼の自己満足に終始する有害な言説でしかない。おそらく、増大する貧困層の大半は、何も「資本主義の打倒」だの「脱成長への経済構造の転換」だのといった抽象的お題目を唱えているわけではない。宙に浮いた絵空事を絶叫して何かを言ったつもりになっている左翼とは違い、贅沢な望みを抱いているのではなく、「普通に働き、普通の生活をしたい」、「人としてのディグニティを回復したい」という切実な望みを抱いているだけなのだと思われる。決して、イデオロギーを振り回したいわけではないのだ。

 

経済状況が悪化すると、非自発的失業が増えたり、失業を恐れて劣悪な待遇でも生きていくにはやむを得ないと低賃金労働に甘んじる他ない者も増える。使い捨てされて精神疾患を抱える者もいる。とりわけ、最近になって、事何か発生するとすぐさま生活困窮者に追いやられる貧困層が急増したのは、政策の結果である。何のことはない。いざ不況になれば、そのツケだけを背負わせる対象を意図的に作ってきたからである。利益が出れば自分たちに、不利益が出れば他人にツケだけを背負わせる。こうしたある種の「無料オプション」を掠め取ってきた者たちがいよいよ可視化されてきた。

 

そして、このオプションを掠め取っている者とは、必ずしもいわゆる「富裕層」であるとは限らない。「富裕層」といっても、どのようにして富を築いてきたのか人によって様々だし、「富裕層」とまでは言わずとも、その代弁者となって禄をもらっている者も、この種のオプションを享受してきた者に含まれる。要は、金持ちであるかそうでないかの違いではないということである。「富裕層」でも、真っ当な手段で富を得た者、努力と才能と運が上手くかみ合って富を得た者、あるいは全く偶然を自らの富の拡大に活かし得た者もいる。これは何ら咎められることではない。問題は、ここで言う「無料オプション」を掠め取ってきた者であるのか、そうでないのかという違いである。

 

正当に富を得た者ではなく、「無料オプション」を他人に生じる害悪を犠牲にして掠め取ってきた連中が自己の利益を防衛したいがために口にする好都合な言葉の一つが、「自己責任」という言葉である。「自己責任」とは、アンフェアな状況を作り上げた者が、自己利益を防衛するために社会に蔓延させたイデオロギーと化してしまったのである。「自己責任」という言葉は、相応のリスクを自らが背負う覚悟を持ち、現にリスクを背負って何事かに挑み、他人に対してツケを回さない者だけが口にすべき言葉である。そうすると、この言葉を正当な資格をもって口にしうる者は皆無に近いくらい少数だということがわかる。もちろん、皆無とは言わない。周りから冷ややかな視線に晒されながらも身銭を切り、失敗に次ぐ失敗を重ねながら発明や発見を成し遂げた極く僅かな者、あるいは残念ながら夢破れた者で、自らの決断に後悔をしていない者が口にする「自己責任」という言葉は、むしろ清々しさや高邁ささえ感じられよう。

 

しかし、そういう者はかえって、その具体的状況を何ら斟酌せずして他人に対して安易に「自己責任」という言葉をぶつけるような真似はしまい。自らのスネに傷がある者、あるいは、どこか後ろめたいものを薄々感じてはいるが、しかし同時にそれを認めたくはない者、さらには自分の成功や安定は実は自分の能力や努力の帰結ではなく「まぐれ」でしかないことを認めたくはない者が、自己防御の身振りとして使用しているケースが多いのではないだろうか。

 

その典型が、多くの経営者である。インセンティブベースのストックオプションの形で業績好調の際には不釣り合いな高額の報酬を得たり、お手盛り同然の役員報酬につり上げたりする一方、従業員に対しては適正な分配をせず出し渋りする。それどころか、人件費を削るため安易に雇用責任を放棄し、「備品」調達のノリで派遣従業員で人員を調達し始める。酷い会社となると、雇用契約から業務委託契約に切り替える。やりたい放題である。事何か起これば整理解雇するしか能のない経営者が「自己責任」と口にする時には、必ず「但書」が添えられている。すなわち、「自分はこの限りに非ず」という但書だ。解雇が一概に悪いというのではない。解雇規制が実態にそぐわないケースもあろう。だが、他人に多大な不利益を強いるのであれば、自らも応分のリスクを背負うべきだということである。整理解雇が状況によって必要な場面は、もちろん存在する。したがって、やむを得ない場合もあろう。但し、雇用責任を全うできず整理解雇せざるをえないような事態を招いた経営陣も経営責任をとって会社を去るべきであろう。

 

経営が傾くも、職位と報酬に相応な責任をとることはなく、せいぜい役員報酬の数%をカットする程度でお茶を濁す。これまで支払われてきた高額報酬が没収されるというような当然課されるべきペナルティもない。仮に、今辞めたとしても、逃げ切れるだけの蓄財をしているわけだ。明日から路頭に迷う心配はもちろんない。そういう「逃げ得」を許さないために様々なペナルティ条項を委任契約に明記したとしても、雇用契約の場合と違って労働基準法24条等に抵触することはないのだから、「自己責任」を他人に向けて吐く経営者は、率先して委任契約の条項に、その職位と報酬に見合った責任を負わせる旨の条項を加えるなどしてはいかがか。少なくとも、公的資金を注入して救済された銀行の経営陣らの個人資産を全て没収するくらいのペナルティを与えなければ、リスクとリターンの著しい不均衡は解消されない。高額報酬が背負うリスクと責任に見合うものであるならば、誰も文句は言わない。問題は、そうなっていないということなのだ。自らの経営判断の誤りによって他人を路頭に迷わせ、ともすればその生命すら事実上殺めてしまいかねない可能性を常に抱えている経営者に対しては、いざとなればその財産と生命を差し出させるくらいの負担を強いて然るべきなのである。それが嫌なら、経営者にならないことだ。

 

他方で、使い捨てられる従業員は、その職位と対価に見合う責任を担わされるという多大なリスクを抱えている。タレブに言わせれば、ダウンサイドだけ負わされて、アップサイドが与えられていないというわけだ。こうした状況は、決してフェアな状況とは言えない。自らが背負い込める以上のリスクを他人に背負わされる一方、自分が抱えるリスク以上のリターンを掠め取る連中に、「自己責任」の一語を他人にぶつける資格はないのである。

 

ウォール街の元オプション・トレーダー兼クオンツで、確率論や不確実性の科学や認識論の研究者でも知られる作家ナシーム・ニコラス・タレブが倫理について興味深い視点を提供している。タレブは、誰かがアップサイドを手に入れることにより、もう一方が知らない間にダウンサイドを負わされ損を蒙っているという事態をアンフェアであると言う。こうしたアンフェアな状況を利用して何ら責任のない者にダウンサイドを負わされる事態は、倫理として許されないことだとタレブは言うのである。

 

ある種の「罪刑法定主義」や「比例原則」の考えの元になったとも言うべき「ハンムラビ法典」を評価するタレブの主張によると、世界には3種類の人々がいる。一つ目は、リスクを取らずに他人から利益を貪り傷つける人々、二つ目は、他人から利益を奪うこともないし、また他人を傷つけることもない人々、三つ目は、他人のために自己を犠牲にして率先して害を引き受ける人々である。伝統的な社会では三つ目の人々こそが「英雄的」とされ称賛され、価値ある生き方とされてきた。他人のためにどれだけダウンサイドを背負う覚悟があるかで、その人の価値や評価が決まった。タレブが挙げる例では、騎士や将軍や聖人などである。逆に現代では一つ目の人々が増え、明らかに利益と不利益の非対称性が大きくなっている。いわゆる「エージェンシー問題」がその典型である。タレブが挙げる例は、銀行家や企業幹部や政治家や評論家など、社会から「無料オプション」を掠め取っている連中がデカい面をしている。

 

タレブは、もちろん「富裕層」ないしブルジョアを糾弾しているわけではない。また、資本主義を批判し社会主義を礼賛しているわけではない。したがって、資本家や経営者を糾弾し、労働条件の待遇改善を主張したいというわけでもない。労働者が一方的に搾取されていると非難しているわけでもなければ、福祉国家を望んでいるわけでもない。僕から言わせれば、むしろタレブは社会主義とは真逆のリバタリアンである。しかし、リバタリアンであればこそ、アンフェアな事態は倫理的に容認できないという立場なのだろうと思われる。

 

タレブの倫理的主張を一言でまとめるならば、(潜在的)リスクとリターンの著しい不均衡によって他人に害を及ぼすことは倫理的に悪であるというものである。タレブの提案は、成功したか失敗したかに関係なく、起業家やリスク・テイカーなどをピラミッドの頂上に置くべきであり、反対に、他人をリスクに晒すくせに自分ではリスクは負わない非倫理的な人々をピラミッドの底辺に置くべきというものだ。それなのに、現代社会ではその逆を行っていると言うのである。

このタレブの主張には賛同できる点とそうでない点もあろう。はっきりしていることは、「金持ち」は「貧乏人」から搾取しているというような乱暴な議論には与していないということである。「金持ち」がフェアな状況で(つまり「無料オプション」を掠め取っているわけではない状況で)、しかも他人を傷つけずに「金持ち」になることは、何ら咎められることではない。「金持ち」であろうが、そうでなかろうが、リスクとリターンの著しい不均衡をおいて、自分は利益を得つつ、不利益については他人に負わせるだけのアンフェアな行動をとることが、倫理的非難に値する行為なのだということである。

解除の法的性質について

法学部(厳密に言うと、教養学部文科Ⅰ類在籍の者は2年時の後期から民法の一部分に関して履修が始まるが)で民法の講義を受講した者ならば必ず触れたことのある解除の効果についての法的性質に関し、学修したばかりの者からすれば、判例及び通説の見解に納得が行かず、あれこれイチャモンをつけていたことを思い出す。令和2年4月1日施行改正民法では、債権法分野が主として大規模に改正され、解除が認められる要件も変更されたが、判例・通説に対する当時の違和感の所在をはっきりさせるため、改正前民法施行時で下記の状況が与えられていたと仮定して、この問題を再考するとしよう(久しく日本法には触れていないので、当時の記憶も学説の理解もあやふやになっているだろうが)。

 

AとBとの間でA所有の土地につき売買契約が成立し、本件土地の引渡し及び所有権移転登記手続が完了してBの所有に帰した。ところが、代金支払債務が履行されず、数度の催促にも関わらず不履行状態が続いたために、Aが当該売買契約を債務不履行を理由に解除したという状況を想定しよう。

 

解除の効果について、判例・通説は直接効果説を採用するので、解除によって売買契約の遡及的無効という債権的効果のみならず、物権行為の独自性を認めないがゆえに、所有権も当初からBに移転しなかったものとみなされることになる。ところが、Bから第三者であるCに土地所有権が譲渡されていた場合、第三者Cが現れる時期が解除前であるか解除後であるかによって理論構成が異なる。

 

解除前にCが現れた場合、民法545条1項但書により第三者の利益を害することはできないので、AはCに対して解除の遡及効を主張することができない。もっとも判例は、Aが失う重大な利益との考量から、Cが保護されるには登記を要するとしていた。この登記の性格について、これを対抗要件と解するか、それとも権利保護要件と解するかについて争いがあるが、第三者との関係を対抗関係と見るのは妙であるという考えは今も変わらない。解除後にCが現れた場合、民法545条1項但書の問題ではなく、専ら民法177条の対抗問題として処理される。すなわち、Cが背信的悪意者でない限り、登記の具備により解決する方法が採られる。

 

この点につき、この理論的処理に違和感が残るとした文章を書き殴ったわけだが、何せ10年ほど前のことなので、もっと乱暴に記したような気がする。ともかく、解除の効果として直接効果説を採りつつ、解除後の第三者の扱いに関して復帰的物権変動論で処理することに何ら実務上の問題はないし、理論的にも不整合な解釈とは思われないという、おそらく法曹もしくは研究者と思しき方からの反論が寄せられたことを記憶している。もちろん、僕も実務上ほとんど問題が生じない処理であることは理解できることは認めるものの、やはり、どこか気色の悪さが拭えずにいたのである。

 

解除の効果として直接効果説を採用する以上、解除により当該契約の遡及的消滅が前提になるわけだから、当該土地所有権は当初から移転しなかったものとみなされる。そうすると、AとCは対抗関係に立つとする構成がなぜとれるのかという疑問が生じる。登記を「対抗要件」と解することはできないからこそ、「権利保護要件」と解する学説が出てくるのではないか。そう思われたのである。もちろん、「対抗要件」と解そうと、「権利保護要件」と解そうと、結論においては相違はない。

 

解除後の第三者が登場した場合の処理を考えてみよう。我妻栄が提起した復帰的物権変動論は、解除後の第三者が現れた場合、545条1項但書ではなく、177条の問題として処理する見解の根拠として持ち出される解釈論である。つまり、解除後のAは物権復帰の登記を具備できる状態であることを捉えて、Bを基点とした復帰的物権変動が生じるとする二重譲渡類似の関係としてAとCは対抗関係に立つ。そこで登記を具備しているかによって所有権の帰属が決せられる。しかし、そもそも契約が遡及的に消滅しているわけだから、Bを基点とした復帰的物権変動を観念すること自体が当初の前提と整合するのか疑問が生じる。今もその疑問は残ったままである。

 

この疑問を呈したことに対して寄せられた反論の一つは、論理的整合性を追求するならば、民法545条1項本文と同項但書の関係すらも矛盾の関係ということになってしまわないかというものであった。しかし、同条同項の本文と但書とでは矛盾の関係には立たないことは明白である。というのも、但書は本文の原則に対して制限を加えて適用領域を限定、もしくは原則の制限を一部解除するといった機能を果たすものなので、制限を加えられた領域もしくは制限を解除された領域とそうでない領域の内包が異なるわけだから、競合する関係にそもそも立たず、それゆえ矛盾は生じようがない。

 

次に、契約の遡及的消滅はあくまで法律上の擬制にすぎず、事実上の関係がなかったことまで含意しないので問題ないという反論もある。もちろん、解除による遡及的消滅はある種の法的擬制であるが、問題の本質はこの点にあるのではなく、理論内部の論理的整合性の問題こそが本質的な疑問点なのである。例えば、契約が最初から存在しなかったものと擬制しておきながら、他方で債権者に履行利益賠償を認めて契約目的の利益状態を損害賠償の形で許容することは、「契約が最初から存在しなかったものとみなす」という前提をとりつつ、「契約は最初から存在しなかったものみなすわけではない」という相反する前提を同時にとることを含意するということである。履行利益賠償は、契約の存在を当然に含意するものだからである。遡及的構成をとりつつ損害賠償を許容するには、履行利益賠償ではなく信頼利益賠償しか許容されないとの帰結に至らないのだろうか。

 

当時、拙いオツムを使って下した結論は、こと解除の性質について遡及的構成は採れないのではないかというものだった。では、間接効果説に立つのかと問われれば、答えは否。なぜならば、間接効果説において、解除は既履行給付についての返還請求権を発生させる制度であって、この返還請求権の行使を通じて既履行給付分の返還がされた結果として、間接的に契約が効力を失うのと同様の結果がもたらされるとする。すなわち解除は、返還請求権を通じて契約の失効へと間接的に作用するに過ぎないと解する見解である。

 

ところが間接効果説だと、未履行給付について厄介な問題を抱えてしまう。すなわち、未履行給付については、解除をしたからといって契約が消滅するのではないから、履行請求権は依然として消滅しはしないという帰結に至る。なるほど、間接効果説からの説明として、未履行給付については履行拒絶の抗弁権が発生するという仕方でこの不都合を回避できるかに見える。しかし、抗弁権不行使時に生じる不都合を回避できないという点で、依然として問題が残るだろう。折衷説もあるが、既履行給付については新たな原状回復義務を生じさせる一方、未履行給付については将来に向かってのみ契約を消滅させる制度と捉えており、結果の妥当性のみに合わせたアドホックなつじつま合わせで、とてもじゃないが賛同できない。

 

原契約が変容すると解する方が整合的な理論になるだろう。すなわち。解除により、原契約関係は契約からの離脱を実効たらしめるために本来履行すべきであった債務内容を含めて原状回復へと向けた内容の清算過程へとむかう債権関係に転換されると解するのである。既履行給付に関する原状回復は清算関係であり、未履行債務からの解放という効果は、原契約変容による清算関係の一環として位置づけられるというわけである。解除されても、原因となった契約が遡及的に消滅しないため、遡及的構成と違って「法律上の原因」に基づいた給付として位置づけられる。したがって、民法545条1項本文に規定された原状回復請求権は、不当利得返還請求権とは位置づけられない。あくまで、解除の意思表示の結果として、「法律上の原因」に基づいた既履行給付を含めて清算過程に取り込むことを明記した規定として解釈される。

 

そうすると、545条3項の損害賠償については、以下のように捉えることができることになる。すなわち、解除は債務不履行の結果として契約の拘束力を維持する利益が脱落することを理由として解除権者に契約からの離脱を認めるものである、と。債務不履行による契約解除および契約関係の清算債務不履行による履行利益賠償は論理的に併存可能になり、545条1項と同条3項を整合的に理解することができるというわけだ。なお、545条1項但書の趣旨をそこから捉え返すと、同条にいう「第三者」を原状回復関係に取り込まず、この者との関係では契約に基づく権利変動が存続している状態を仮定して、その法的地位を確保するものと解する。

 

例えば、AとBとの契約が解除される前に、BからCが目的物の所有権を譲り受けたという場合、Cから見てA、B、Cの関係は相次譲渡として構成され、Cとの関係では、BからAへの復帰的物権変動を考慮する必要はなくなる。よって、二重物権変動の対抗関係ないしは二重物権変動対抗関係類似の関係と構成する必要はない。545条1項本文の解除の法的性質が、「契約の解除」及び「契約関係の清算」という二つの意味を持っていると考えるということである。このように二つの意味を持つと解することは許容されている解釈論の方法の一つである。

 

例えば、民法424条の詐害行為取消権の法的性質をめぐる解釈論において、多数説である相対的取消権説が(僕自身は、「歩く通説」こと我妻栄より、「歩く反対説」こと四宮和夫の方が好みということもあって、多数説である「相対的取消権説」にも反対という立場だ)、請求権としての性質と取消権としての性質を併有するものとして捉えているように、多少技巧的すぎるきらいはあるものの、解釈論として許容されるレベルだろう。この立場からすると、契約の解除により契約は終了するが、遡及的消滅と解する必要はない。

 

契約の終了後の原状回復関係については以下の処理となるだろう。既履行給付については原状回復義務の発生が、未履行給付については、原状回復義務の発生は抽象的に観念できるものの履行がそもそも不要だから消滅する。原状回復義務は損害賠償義務とは直接関係しない。一旦有効に成立した契約及び当該契約によって保証されている債権者の契約利益まで否定するのではなく、契約に基づく個別債務だけを消滅させる。すなわち、既履行給付であれば返還させるだけであり、それでもなお償われずに残ることのありうる債権者の利益については、債務不履行を理由とする損害賠償請求の可能性を残していると捉えれば済む。

 

問題は、その範囲である。原物については返還、給付物の利用利益については、金銭の場合は解除により金銭を返還する時はその金銭を受領した時から利息を付して返還することが義務となる(545条2項)。金銭受領者が善意であっても、金銭の利用可能性を取得したのだから、その価値をも返還しなければ原状を回復したことにはならないので、利息返還義務が生じる。この点、遡及的構成を採って、不当利得返還請求権として理論構成した場合、民法703条、同704条では、善意・悪意によって処理が異なることになってしまうだろう。

 

他方、金銭以外の場合は、目的物から生じた法定果実を取得した場合、金銭の場合と同じく、相手方に返還しなければ原状を回復したことにはならない。現実に果実を収受しなくとも、目的物の利用可能性を取得したのであれば、その価値を返還しなければならないことは当然である。なお、545条3項は、あくまで損害賠償することを妨げるものではないと明記しているだけであって、履行利益賠償まで認められると一義的には捉えられない。遡及的構成だと契約が最初からなかったこととみなされるので、論理的には、履行利益賠償を請求できると解せず、せいぜい信頼利益賠償が導けるのみと解するのが素直な読みであろうと思われる。この点も10年前の考えと全く変わっていない。したがって、545条3項があるから、遡及的構成を採っても、履行利益賠償まで認められるのだとの主張は説得力に欠けるように思われる。

 

では、損害賠償と原状回復義務との関係について、どう考えるべきか。解除の効果は原状回復に限られ、損害賠償責任とは無関係である。したがって、損害賠償責任は債務不履行における損害賠償の原則規定たる民法415条により認められ、545条3項は原状回復義務を認めることが債務不履行による損害賠償請求の妨げになるものではない、つまりは原状回復義務と損害賠償責任との併存可能性を許容する規定と解されることになる。事実、545条3項の文言は、「解除は損害賠償請求を妨げない」との規定となっており、文意に沿う。

 

解除の効果については、そもそも契約の遡及的消滅まで認める必要ない。未履行の義務についてはそれ以上履行の必要がないとし、かつ既履行給付については、返還を認めさえすれば解除の目的は達成できるのに、わざわざ契約を遡及的に消滅させるまでの必要はないはず。むしろ、損害賠償責任を基礎づける際に難点を抱え込むおそれがある。そもそも遡及的消滅構成をとる見解が登場したのは、ドイツ法では直接効果説の遡及的構成を採る見解が通説だったからである。しかし、ドイツにおいて直接効果説が主張された理由は、解除を選択した場合、同時に損害賠償を請求することができない旨の規定が存在したからである。解除を選択しても、それが損害賠償請求することを妨げることにはならないとする545条3項を持つ我が国の民法とは事情が異なるのである。

 

解除後の第三者の扱いについては、以下のように考える方がいいだろう。この第三者は、545条1項但書の「第三者」には該当しない。この点は判例・通説と共通している。しかし、不遡及的構成を採るならば、177条によって処理する法的構成は可能であると考えるが、遡及的構成を採りつつ復帰的物権変動論を採ることは整合しないと考える者からすれば、177条の問題として処理する判例・通説の立場には首肯できず、94条2項の類推適用によって処理が図られるべきであるというのが僕の結論であったわけである。

 

(再度、断りを入れておくが、改正前民法施行時とする)

日本におけるポストモダニズムと批評

柄谷行人(編)『近代日本の批評』シリーズ全3巻(講談社)は、Ⅰ-昭和篇(上)、Ⅱ-昭和篇(下)、Ⅲ-明治・大正篇から成る。各巻前半後半に分かれ、柄谷行人三浦雅士浅田彰蓮實重彦野口武彦が執筆した論文を叩き台にして、共同討議を展開するというものである(野口はⅢのみに参加)。触れられている批評については概ね有名どころで、批評を通史的に読み通したことのある者なら誰でも一読したことがあるだろうものが多く、そこに物足りなさを覚える者もいるかも知れない。例えば、谷沢永一『紙つぶて-自作自注最終版』(文藝春秋)や『明治期の文芸評論』(八木書店)、そして名著『大正期の文芸評論』(塙書房)(この書は、『近代日本の批評Ⅲ-明治・大正篇』にも触れられていたはずだが、なぜか浅田彰はそのことを認めたくはないようだった)に掲載されているものまでは網羅されていない。とはいえ、読後約10年ほどの歳月を経た今でも、その内容を思い起こすことがあるほど、楽しんで読めた書物であった。

 

もっとも、柄谷行人が「批評は文芸批評に範疇に収まるものではない」と言いながら、結局は文芸批評に偏ったものに終わっていて、社会科学方面の言説についての言及が少ないのが欠点である。だから、「日本資本主義発達史論争」についてほとんど触れられていないし、ましてや「主体性論争」についても然り。疎外論と物象化論との論争については軽く触れられているにとどまり、この論争において廣松渉が果たした役割が正当に評価されていないという不満も残る。これら論争は、社会科学のみならず文学や哲学ないし思想に深く影響していたわけだし、テーマがテーマだけあって、近代化論そのものを問うている論争なのだから、マルクス主義を取り上げるならば、相当程度突っ込んだ分析が不可欠であるはず。でなければ、戦後の丸山真男の言説についてもまともなことは一言も言えないし(丸山自身は講座派でも労農派でもないが、講座派的な史観が色濃く反映されているとも言えるし、そう見なければ、丸山の言説における「転回」の理解も困難になろう)、戦後の日本史学に深い影を落としていた講座派的な史観やそれに影響された知的言説一般についての分析・記述も覚束なくなってしまう。

 

こうしたことを無視して語られる批評史は、それこそ蓮實重彦が「『大正的』言説と批評」と題する論文で問題視していた、標語による抽象的イメージの交換だけで具体的な分析・記述を欠いた「大正的言説」とさして代わらないものと堕してしまうだろう。小林秀雄マルクス主義との関係を見るのは悪くはない。事実、小林秀雄の批評は当初、マルクス主義的批評との対決により開始されたわけであるし、小林秀雄が、戸坂潤とのいわば「共同戦線」を企図していたと思われる節を嗅ぎ取るのは、とかく共産党サイドから「戦争協力者」として糾弾されがちな小林秀雄に対する一面的見方を相対化する上でも必要なことであろう。しかし、「27年テーゼ」や「32年テーゼ」を出し、「福本イズム」の隆盛とその失墜を紹介するならば、講座派的な見方がマルクス主義陣営での覇権を握ったことの内実を丁寧に分析の対象にしなければ、共産党をめぐる評価について目が曇らされてしまうだろう。

 

戦後の言説が当初、社会科学者によって先導された事実には言及するものの、ほとんど分析の対象から外されている。丸山真男の名は出すものの、大塚久雄の経済史学や藤田省三天皇制国家論については皆無。丸山真男の政治思想史学上の「転回」についても極めて重要なことなのに、これについても言及なしである。これまた蓮實重彦が、『現代日本文化論1-私とは何か』(岩波書店)所収の「『読みやすさ』という虚構:丸山真男『日本の思想』を読む」と題する論文にて、丸山の分析の然るべきところは今なお、現代日本社会の分析として有効性を失っていないとしているにもかかわらずにである。蓮實の丸山評については、この他にも山内昌之との共著『20世紀との訣別―歴史を読む』(岩波書店)でも見られる。例えば「タコ壺型」と「ササラ型」として取り出されたり思考は、ともすればジル・ドゥルーズの言う「リゾーム」の思考と通低するものと見ることができるものの、丸山には「比喩に賭ける意志」が欠けており、その分析が一定の有効性を持っていたとしても、引用しようという気を起こさせないものになってしまっていると述べていたと記憶する。

 

様々な欠陥を抱えつつも、それでも興味が持てたのは、Ⅰの昭和篇(上)である。このⅠは、時局との緊張関係の中で書かれた昭和前期の批評を対象とするだけあって、討議自体もいきおい緊迫感を伴うものになっていた。論者たちが言うところの「大正的なもの」との切断において紡ぎ出されていった昭和初期の批評の強度すら感じられるものであった。蓮實重彦があれほどまでに福本和夫を評価していたとは意外だったし(確かに、福本和夫の知的水準は、当時の日本のマルクス主義者はおろか、モスクワの連中をも凌駕していたわけだけど)、保田輿重郎にもしかるべき分量があてがわれていたことには好感が持てる。

 

この昭和篇(上)は、扱う時期が関東大震災から終戦までの約20年と短いながらも、その内容がある意味濃すぎるので、柄谷の論文も2本に分けられている。ただ、文学界グループや日本浪漫派への言及が多いのに比べて、京都学派への言及が少な過ぎたように記憶している。特に、西田は単純化されすぎているし、田辺元の西田批判や数理哲学の分野での貢献も無視されている。悪名高い「歴史的現実」だけを取り上げるのはあまりに酷だろう。三木清を貶めたいためか、それとも戸坂を持ち上げたいためか、三木清が「噛ませ犬」に仕立てられる一方、戸坂潤への過剰評価は如何なものかと首を傾げないわけにはいかない点など問題は多々ある。さすがに、マルクスレーニン主義の「模写説」を無理くり擁護する戸坂の論説まで肯定するとなると着いていけないわけ。熊野純彦が指摘する通り、和辻哲郎マルクス理解の水準は高かったというべきなのに、和辻評価が著しく低いのは不当と言うべきだろう。また、高山岩男ヘーゲル研究や高坂正顕のカント研究は世界的な水準であったという廣松渉の評価を踏まえるならば、京都学派第二世代に対する正当な評価がない偏向ぶりも気になる。

 

しかも、戸坂潤を評価する割には、戸坂の主著たる『空間論』にはあまり触れず、『日本イデオロギー論』(岩波書店)所収の「反動期における文学と哲学」をやたらと持ち上げるなど、極端な見方で染め上げられているものだから、この辺りは異論を持つ読者も多かろうと思われる。蓮實重彦中井正一の「委員会の論理」を持ち上げるのは、中井と蓮實の父蓮實重康が知り合いだからということが関係しているのかも知れないが(確か『齟齬の誘惑』(東京大学出版会)にも、「名コックス、中井正一」という、おそらく七帝戦での来賓挨拶として読み上げられた原稿にも触れられてあったような)、いずれにせよ中井正一の難解と言われる「委員会の論理」は、実際に読んでみると、主張自体は最終節にほんの少し申し訳程度に触れるにとどまり、それまではだらだらとした内容が綴られているだけだ。それだけに、蓮實の中井評価のポイントがいまいち理解できないものになっている。中井正一の思考は、むしろ経営学的思考と親和的であって、下手な経営学のテキストを読むよりは中井のテキストを読んだ方がよほどためになるはずだ。なぜ、日本の経営学者で中井正一を取り上げないのか不思議だ。まあ、単に知らないだけかもしれないが。

 

検討の対象になっている批評は限られているし、また偏りも目立つ。最もつまらないのが、Ⅱの昭和篇(下)である。戦後日本の批評を総ざらいし、三浦雅士の論文を叩き台にして論じている前半はまだましで、後半は浅田彰の略年表で誤魔化した短い文章の手抜きが目立ち、「こりゃ、ちょい酷いな」という感想しか漏れて来ない。確かに、短い期間の担当であるだけに、読むべき批評が極端に少ないということもわかるが(自分たちの営為を間接的に批判しているとでも言うのだろうか)、それもあって柄谷行人は「わが道を行く」という感じで我田引水にすぎる発言が多く、蓮實重彦といえば、「オイルショックには興味がなく、むしろ同じ年にジョン・フォードが死んだことに執着している」だのといった人を食ったような発言してるし、浅田による80年代の批評シーンの整理は教科書をまとめた淡泊なものでしかない。もちろん、戦後に活躍した社会科学者からなる批評は考慮されていない。Ⅲの明治・大正篇は、この四人に野口武彦を加えた五人によって討議され、野口による明治篇の論文も、蓮實による大正篇の論文も非常に面白い。それだけに、Ⅱの浅田のレポートの手抜きぶりが際立つ。

 

日本の批評シーンにおいて、「ポストモダニズム」が盛んに論じられるようになったのは1980年代である。1970年代から徐々に、日本にもその言説が導入されるようになり、80年代に全盛期を迎え、それが90年代後半になると下火になっていった。1990年代末には、批評の世界は完全にかつての勢いは見られず、社会のニーズも様変わりして「論壇」そのものが死滅に近い状態になった。世界的には冷戦終結、我が国ではそれに加えてバブル経済崩壊以降の長期低迷期に突入したことに相即しているのかもしれない。象徴的な意味で、蓮實重彦が第26代東京大学総長に就任した平成9(1997)年に、我が国における「ポストモダニズム」批評は終わりを告げたと乱暴に言っておこう。また、潜在していた「ポストモダニズム」的言説に対する反発が、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『「知」の欺瞞-ポストモダン思想と科学の濫用』(岩波書店)の紹介を機に一気に噴き出したことも追い討ちとなり、我が国における「ポストモダニズム」的言説は急速に萎んで行ったように思われる。

 

話を元に戻して、1970年代から80年代の批評シーンを顧みると、主としてフーコードゥルーズデリダの思考が、雑誌「エピステーメー」などを介して紹介された。例えば、蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』(朝日出版社)は、この「エピステーメー」に連載されていた文章を纏めたものである。この著書が昭和53(1978)年の出版であり、同じ年に柄谷行人マルクスその可能性の中心』(講談社)が出された(雑誌「群像」に連載開始されたのは、その5年前)。遡ること昭和48(1973)年には、ジル・ドゥルーズのPrésentation de Sacher-Masoch : le froid et le cruelが『マゾッホとサド』として蓮實重彦訳によって紹介されていた。ドゥルーズによるフーコー論「新たなるアルシヴィスト」と、フーコーによるドゥルーズ論「哲学としての劇場」を収録した『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』として蓮實重彦の訳で出版された。昭和49(1974)年に出た蓮實の『批評あるいは仮死の祭典』では、ラストに収録されている「批評あるいは仮死の祭典-ジャン・ピエール・リシャール論」と併せて、フーコードゥルーズやバルトへのインタビューなどが収録されている。

 

また、フランス現代思想ほどではないが、米国のヘーゲリアン・マルクス主義フレドリック・ジェイムソンによるポストモダニズム批判も紹介され、『弁証法的批評の冒険-マルクス主義と形式』(晶文社)や『のちに生まれる者へ-ポストモダニズム批判への途1971-1986』(紀伊國屋書店)などが早速紹介されていたし、度々訪日していたジェイムソンは、湾岸戦争直後の雑誌「批評空間」の共同討議にも呼ばれているし、浅田彰柄谷行人磯崎新などが中心となって企画されたAny会議にも参加していた。

 

ポストモダニズム」の日本への紹介とともに、『朝日ジャーナル』などのメディアが、「若者たちの神様」として、当時京都大学助手で、『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房)で一躍脚光を浴びた浅田彰が取り上げられたり、山口昌男の下で東京外国語大学助手を務めていた中沢新一の『チベットモーツアルト』(せりか書房)がサントリー学芸賞を受賞してベストセラーとなるなど、両者ともメディアから「ニューアカデミズムの旗手」と持て囃されたわけだが、想像するに、当時は左翼学生運動が急速に下火になっていった後、旧態依然としたマルクス主義に代わる新たな思想の風が吹くことが漠然と期待されていた状況だったのだろう。

 

とはいえ、反発ももちろんあって、例えば、浅田彰『逃走論』所収の「マルクス主義ディコンストラクション」に対しては富山太佳夫から批判がなされたし、中沢新一に関しては、東京大学教養学部の教員同士の「権力抗争」とが絡んだ「東大駒場騒動」の渦中に巻き込まれ、東京大学教養学部助教授採用案が教授会において否決され、刑事法学者渥美東洋が仕切る中央大学総合政策学部に拾われる。中沢の採用案に物言いがついたのは、「科学や数学の概念を理解せずに、それらを見せかけのファッションとして利用するばかりで、学問的にナンセンスな戯言を弄しているペテンではないか」という疑念が持たれたからである。正に、後の「知」の欺瞞の告発に先駆ける騒動でもあったのである。

 

その頃、蓮實重彦柄谷行人も急接近し、雑誌「現代思想」において、例えば「マルクス漱石」などの対談を繰り返し行われるようになり、昭和63(1988)年にはそのクライマックスとして両者の対談『闘争のエチカ』(河出書房新社)が出されたと言ってもよいだろう。「形式化の問題」に憑りつかれ、同時にオカルトに嵌っていた柄谷が、『批評とポストモダン』(福武書店)、『内省と遡行』(講談社)、『探究Ⅰ』(同)、『探究Ⅱ』(同)と立て続けに出版したのも80年代であり、こうした柄谷の営為に対して蓮實が「闘争の光景―『探究Ⅰ』を読む」というエールを送るなど、蓮實・柄谷の蜜月時代が続いた。日本におけるポストモダニズム擁護の「共同戦線」が張られていた時代とも言えようか。

 

蓮實重彦『帝国の陰謀』(日本文芸社)が出版されたのは、平成3(1991)年である。3年前に出された『凡庸な芸術家の肖像-マクシム・デュ・カン論』(青土社)の「副産物」として生まれたこの短い書物には、ベンヤミンの「複製技術」の問題系、デリダの「署名」や「散種」といった問題系、はたまたドゥルーズの「反復」と「シミュラークル」の問題系といった主題で編まれた織物となっており、「フランス現代思想」のちょっとした応用問題を解いている側面もある。さらに、この書物の一部をコンパクトにまとめた形になっている、「署名と空間」と題された発表原稿が『Anywhere』(NTT出版)に掲載された。「近代」と呼ばれる特殊な一時期において、ド・モルニーというナポレオン三世の異父弟である「私生児」によってなされた署名が、どのような空間において機能したのかという関心の下、1851年12月2日に起こったクーデタと、そこから始まった「第二帝政」が、ことによると、20世紀後半に可視化されてきたポストモダンな状況を先駆ける意味を持っていたのではないかと、蓮實は提起する。このクーデタは、マルクスをして、『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』で「反復された笑劇(ファルス)」と書かしめたあの事件である。蓮實は本書で、マルクスですら掴み損ねていた「第二帝政期」に現出した、モダンとポストモダンの並行関係を読み取ろうとする。蓮實によると、マルクスのこの断定は、政変によって開示された政治的空間を支えもする複製技術時代における「シミュラークル」の「祝祭」ともいうべき事態について意識的ではないというのである。オリジナルの「正統性」を欠いたいかがわしいイメージが無限に反復されることで、かえって「現実味」を帯びてしまう空間が、フランス第二帝政期に出現したというわけだ。

 

蓮實重彦などによって紹介されていたドゥルーズだが(小林秀雄は、その前からドゥルーズを読んでおり、そのベルグソン解釈に興味を持っていた。その小林秀雄が亡くなるのは、昭和58(1983)年である)、1980年代に、「ニューアカデミズムの旗手」浅田彰の『構造と力-記号論を超えて』が火付け役となってドゥルーズのブームが沸き起こり、大して読まれもしない単なるファッションとして世間に広まっていった。この時期はまだ、「知」らしく見えるものが意匠として一定の機能を持っていたのだろうか。倉橋由美子『聖少女』で登場する、ポントリャーギン『連続群論』を携帯する少女の如く、『構造と力』を片手に持ち歩く変な学生もいたというのだから、後世の者からすれば俄には想像し難い時代だったわけだ。

 

蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』や中沢新一チベットモーツアルト』や宇野邦一『意味の果てへの旅-境界の批評』(青土社)などが矢継ぎ早に刊行された時期があった。面白いのは、浅田彰に対する批判は、旧来の左翼から起こったということである。特に、マルクス主義者からの浅田批判が多かったことがわかる。何せ、日本共産党系の言論人も浅田彰批判を展開していたのだから、日本に「ポストモダニズム」がブームになった頃は、「ポストモダニズム」はマルクス主義批判の一つとして受容された側面がある。旧来の左翼が「ニューアカデミズム」や「ポストモダニズム」に対する反発を強くしていったのである。90年代になると、ドゥルーズのブームは収束したかに見え、90年代後半のドゥルーズ自死の際は、雑誌「現代思想」や「批評空間」で特集は組まれたようだが、ブーム再来というわけには行かなった。一旦終息した後、2010年代に入ると、再び活況を呈してきたかのように、ドゥルーズ関連の書籍が刊行され続けた。

 

2010年代のドゥルーズ関連本の相次ぐ出版状況と、80年代のそれと異なる点は、80年代のブームが社会思想史(経済学部に講座が開設されていることが多いだろう)やフランス文学または表象文化論の領域といった、哲学以外の領域の研究者に支えられていたのに対し、2010年代のそれは、もちろん東大駒場表象文化論系の者によるものもあるとはいえ、主として哲学を専攻してきた若手研究者によりなる書籍が目立つようになってきたという点である。但し、そうは言っても、哲学専攻者の中でドゥルーズを学位論文の対象に選ぶ者はごく少数であるというのが現状であり、まだまだ「壁」の存在を思わせもする。

 

しかし間違いなく、ドゥルーズやその他「フランス現代思想」の研究が、決して主流には到底及ばないものの、哲学アカデミズムでの「市民権」を徐々に得つつあることの証しとも言える。以前なら、研究テーマとして認められ辛かったドゥルーズやその他「フランス現代思想」の文献が、いわば哲学の「古典」として認められつつあるということかもしれない。こうした流れの中で、ドゥルーズその他「フランス現代思想」を学位論文などの主題にすることが憚られてきた暗黙の軛が徐々に取り外されて行った。

 

英米の哲学アカデミズムでは、いわゆる分析系の哲学や科学哲学ないしは従来の古典研究が主流を占めているので(もっとも、カーネギーメロン大学のような極端な傾向を持つところもあるが。ここは、数学専攻か計算機科学専攻かと見紛うような研究のラインナップであり、イスラエルの哲学にも見られる傾向であろう)、「フランス現代思想」が狭義の哲学の中核に据えられて研究されることはほとんどなかった。否、それのみならず、「フランス現代思想」への反発を強く表明してきたのは、哲学アカデミズムの中枢だったとも言える。ウィラード・クワインやデイヴィッド・アームストロング、トマス・ネーゲル、アドルフ・グリュンバウム、バーナード・ウィリアムズなど英米錚々たる哲学者が、また御当地フランスでもジャック・ブーブレスが公然と批判を展開していた。もっとも、たいていは不干渉を決め込んでいたが、いずれにせよ、「フランス現代思想」は、哲学アカデミズムの中枢からは閉め出されていたというのが実態である。

 

日本においても似たようなもので、あたかも東大系の研究者が「フランス現代思想」の研究者で席巻されてしまったかのように言う主張やら、「フランス現代思想」が哲学アカデミズムの中で権威を帯びるに至ったという主張やらが時折ネット上で散見されるが、端的に言って事実誤認である。東大であろうと京大であろうと、哲学アカデミズムの中で「フランス現代思想」が広まった事実などないし、ましてやアカデミズムにおいて権威を身に纏うに至った事実などない。伝統的な本郷の哲学研究室においても居場所を持たなかったし(神戸大学から母校に戻った鈴木泉も、別に「現代思想」の研究者ではなく、元はと言えば、デカルトスピノザなど西洋近世哲学の研究を主戦場とする研究者であって、ドゥルーズの思考をその系譜に位置づけて解釈する立場から、現代フランス哲学に接近しているに過ぎないだろう)、駒場科学史科学哲学研究室でも同様。様々な分野が混交する表象文化論だとか比較文学比較文化のスタッフに「現代思想」を中心に研究する者が少数存在するという程度で、東大系哲学アカデミズムが「フランス現代思想」に偏っているという事実など見られない。

 

京都大学にしても、哲学の研究者は文学部と総合人間学部に散らばっているが、文学部の哲学専修や西洋哲学史専修、あるいは日本思想史専修や倫理学専修や科学哲学科学史専修を見渡しても、「フランス現代思想」の研究者は見当たらないし、総合人間学部の哲学系研究者にも存在しない。大阪大学でも、例えばドゥルーズフーコーを論じる檜垣立哉が所属するのは、豊中キャンパスにある伝統的な文学部ではなく、医学部などが移転した際に作られた吹田キャンパス内の人間科学部であり、しかも元はと言えば、ベルグソンの研究者だったわけで、多少軛がとれてきたと言える今でもなお、「フランス現代思想」の研究を専らとする研究者がアカデミズムの中で主要な位置を占めているなどという事実はないのである。再度確認するように、若手研究者が研究テーマとして「フランス現代思想」を選択することを躊躇わせるほどに、隅に追いやられていたのが実態であり、その中で、西洋近世哲学や中世哲学を研究してきた層がドゥルーズなどを取り上げ、アカデミックな論文として認められる論攷を積み重ねてきたおかげで、漸く最近になって「現代思想」を学位論文のテーマにする者が出てきたというのが純然たる事実であろう。スタッフの変遷なり、学術誌のバックナンバーを隈なく調べればわかる話である。

 

最近までは、哲学アカデミズムから批判されたり黙殺されるという形で遇されてきた「フランス現代思想」であるが、一般的にも知られるようになった目立った批判としては、やはり物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる批判が大きな役割を果たした。しかし、ソーカルとブリクモンによる批判の内実が決定的な批判になったと言いたいわけではない。それなら、ブーブレスによる批判や、ある意味ではロジャー・スクルートンによる批判も既に存在したわけであって、ソーカルやブリクモンの批判は、単に数学や自然科学の用語を出鱈目に使用してナンセンスな戯言を抜かすのはやめろという主張が主で、この主張自体は至極真っ当なものであるが、それを超えた決定的な批判までには至っていなかった。

 

のみならず、ソーカルとブリクモンが特定の哲学的立場を忍ばした上で批判しているのではないかと思わせる内容も含むだけに、完全に同意できるわけでもない。大きく分けて三つの異なる主張がごちゃごちゃに混ざった批判になっており、その内説得力がある批判としては一つしかないこともあり、実はソーカル批判の射程は思われているものよりも射程は短い。しかも、ソーカルとブリクモンの著作すら読みもしないで、「フランス現代思想」と耳にするだけで条件反射のように否定する知的不誠実な者を大量に生むという「負の副産物」を残したことも指摘しておかねばならないだろう。「フランス現代思想」の一部の論者に見られた知的不誠実を告発する真っ当な声が、知的不誠実な者が群がる蜜になっちまい、ドゥルーズすらも全否定するような酷い偏見も罷り通っている。

 

英米の哲学アカデミズムに居場所を持たなかった「フランス現代思想」ではあるが、しかし、その関連分野においては「フレンチ・セオリー」として、デリダ研究やフーコー研究とともに、ドゥルーズ研究も旺盛に取り上げられてきた。ところが、英国のエディンバラ大学を中心にドゥルーズスタディーズが盛んに行われ、研究叢書も刊行され始めていることからすると、徐々にではあれ、いわゆる「ポストモダニストドゥルーズという見方とは異なる、これまでの哲学者・哲学史家の系譜に位置づけられたドゥルーズという見方が時間の経過とともに浸透していくのだろう。

 

日本の哲学アカデミズムにおけるドゥルーズ研究「解禁」に先鞭をつけたのは、おそらく平成12(2000)年に刊行された小泉義之ドゥルーズの哲学-生命・自然・未来のために』(講談社)だろう。これを機に、江川隆男『存在と差異-ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館)といった本格的な研究書が出され、雑誌「思想」に連載された論文をまとめた檜垣立哉『瞬間と永遠-ジル・ドゥルーズの時間論』(岩波書店)も世に出た。まとまった著作こそないが、鈴木泉もドゥルーズに関する論文を数篇執筆している。興味深いのは、小泉も鈴木も、そして早くから『差異と反復』などの翻訳を手掛けていた財津理も西洋近世哲学の研究者であるということである(檜垣は確か元はベルグソンの研究者だったか)。ドゥルーズについて論じる山内志朗は、西洋中世哲学の研究者だ。なお、山内の『「誤読」の哲学: ドゥルーズフーコーから中世哲学へ』(青土社)は滅法面白い。ドゥンス・スコトゥスに関する学術論文を読みこなすまでの力量には欠ける僕にすら(西洋中世哲学の高峰は敷居が高く、何となく近寄り難いものを感じているけど、クザーヌスやライプニッツといった中世と近代の狭間の「近世」的思考に強く惹かれる者としては、本当は避けて通ることはできないのだろう。意外なことに、先端の確率論や確率の哲学に関心のある僕の周囲の者は、古代のヘレニズム哲学や中世の哲学が好きと言うのが多いのだ)、雑誌「現代思想」のバックナンバーを繰ってみればいいが、山内が若い時分に寄稿した論文や岡本賢吾との対談だけからでも、山内が優れた研究者であることは一目瞭然であった。

 

ここから見えてくるのは、やはり伝統的な哲学者の系譜に位置づけられるドゥルーズという像であろう。しかも、中世スコラ哲学、そしてスコラ哲学と近代哲学の狭間で思考を紡いできた17世紀近世哲学の研究者からも着目されるドゥルーズという像は、これまで「ポストモダニズムの旗手」ないしは流行の「フランス現代思想」の代表としてのドゥルーズという像が一面的に過ぎたことを告げ知らせてもいる(もちろん、どちらが正しくて、誤っているというものではないだろう)。ドゥルーズ自身、自らをスピノザライプニッツの研究者であることを自認していたわけだから、当然と言えば当然なのだろう。フッサール現象学に元々関心があった研究者が、その延長線上でジャック・デリダやエマニエル・レヴィナスへと論域を拡大させていったのも、例えば、フッサールの『幾何学の起源』と、それに対するデリダによる本文より長い序説を読めば理解できる。この文章がフッサール現象学についての入門にもなること、そして特に「歴史的アプリオリ」の概念の理解をめぐってモーリス・メルロー=ポンティと対立する解釈を供するデリダの見解の方に分があること、そしてフッサールの思考には、デリダが指摘する「現前の形而上学」が色濃く反映されていること、この問題意識から「差延」や「散種」の思考が紡ぎだされて行ったこと等々なども容易に理解でき、デリダも元はと言えば、優れた現象学の研究者であったことがわかるはず。だから、「フランス現代思想」の一部論者に見られるナンセンスな戯言を批判する指摘が全うな内容を持つものであったとしても、そのことから直ちに「フランス現代思想」を総まとめにして葬り去ろうとする主張に首肯するわけには到底行かないし(中には、「ポモ」だのと揶揄して済ませようとする者もいるが、これは論外である)、逆に味噌も糞も一緒くたにする乱暴な言動こそ、知的不誠実の謗りを受けることだろう。

 

広義の「哲学畑」の比較的若手の研究者によるものだと(どこまでを若手と呼ぶかは、はっきりしないけど)、全ては網羅できないものの、少なくとも僕自身が目にしたものでは、國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)、山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学-超越論的経験論の生成と構造』(人文書院)、渡辺洋平『ドゥルーズ多様体の哲学-20世紀のエピステモロジーにむけて』(人文書院)、小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)、近藤和敬『ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』を精読する <内在>の哲学試論』(講談社)、鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)などで、これからしばらく「哲学畑」の研究者によるドゥルーズ研究書が量産されていくことだろう(どこまで長続きするかは疑問だけれど)。

 

そのこと自体は悪くはないものの、ちとやりすぎの感なきにしもあらず。哲学者は何もドゥルーズばかりではあるまい。ドゥルーズは確かに哲学アカデミズムにおいて研究対象として認知されてきはじめたこともあって、抑えられていたものが一気に噴き出るかのように量産され気味になるもの無理はない。さらに言うなら、ドゥルーズよりも冴えた哲学者は他にいるのだから、哲学研究の全体の動向と出版業界の方向性に些かのギャップを感じてしまう人もいるだろう。哲学アカデミズムにおいて、ドゥルーズ研究はもちろんメインストリームを形成しているわけではない。あまりに偏りが生じれば、それはそれで研究環境も否応なく歪なものになっていく。もちろん、この責任は当のドゥルーズ研究者に帰されるべきことではないわけではない。

 

ドゥルーズ研究は、哲学アカデミズムでの「市民権」を得つつある。それはそれで、まことに結構なことなのだろうが、しかし同時に、ドゥルーズなり「フランス現代思想」の持っていた凶暴な思考が講壇哲学に取り込まれてしまうことで、その毒牙が抜かれてしまってはつまらない。「哲学のヤンキー的段階」理解を追求したい僕としては、毒牙が抜かれるくらいなら、講壇哲学化されない方がいいと思っているが、とはいえ、出鱈目になってはどうしようもないので、なるほど、この塩梅が難しい。

「美的な乱暴」の系譜-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察②

1990年代後半から2000年代にかけて、東京の繁華街、中でも渋谷センター街を中心に遊んでいる、概ね15歳から22歳までの若者の中で目立った存在であった「ギャル」とその男性形の「ギャル男」といったある種の「トライブ」を対象に、比較的長期にわたる参与観察とインタビューに基づいて、その生態や価値観などを分析・記述した著書として注目を浴びたのが、荒井悠介『ギャルとギャル男の文化人類学』(新潮社)である。本書は、一種のエスノグラフィーとして社会学に分類される一般向け書物であるが、10年ほど前に出版されたかと思う。当時は大学生で、雑誌「men' egg」はまだ存在していた。方向性は全く異なるが、「有害図書」としてPTAなどから攻撃を受けた影響で、一時は「VIPカー雑誌に様変わりしてしまったのか」と思えたほど牙が抜かれていた「低迷期」を脱して元の姿に戻りつつあった雑誌「チャンプロード」も辛うじて存在していた。

 

独特の、時にはエキセントリックに見えもするファッション、濃いアイメイク、明るく染めた髪、不自然なまでに日焼けした肌の露出、キャバクラ嬢のような格好でデコレートした「ギャル」。同じく、明るい髪色に日焼けした肌、仁侠界の若い衆のような不良っぽい格好の「ギャル男」。彼ら彼女らは、様々なメディアに取り上げられたが、中には、「コギャル」、「ガングロ」、「ヤマンバ」、「マンバ」、「センターGUY」など、昔の傾奇者を彷彿とされるような素っ頓狂なファッションで注目される者も多くいた。とはいえ、社会の視線は、まるで「珍獣」を見るかのようなものでもあった。荒井の著書が対象としたのは、そうした「ギャル」や「ギャル男」の中でも、さしたる目的もない妙なイベントを企画・運営する「イベサー」と呼ばれる集団に属する若者たち、すなわち「サー人」と呼ばれる連中である。

 

「イベサー」は「イベント・サークル」の略に由来するので、若者版「お達者倶楽部」か、多摩川の河川敷でゲートボールに興じている爺さん婆さんの集まりの如きものと思われるかも知れないが、さにあらず。この集団は、クラブイベントを行う「インカレ」と、「チーマー」と呼ばれる繁華街の愚連隊擬きの文化が混ざり合って形成された、若者たちの「逸脱集団」の要素も持っていた。「イベサー」は、学生たちの集まりにしては多額の金が動くことや、場合によっては犯罪ともなりうる行為など合法・違法の境界線での「ビジネス」にも関わっている者も含まれていたこと、あるいは繁華街での大規模な集団が目立って活動することなどから様々なトラブルに遭遇することが頻繁で、それに対応するため、渋谷を「シマ」にしている地元ヤクザと交渉できる「ケツモチ」と呼ばれる管理者が置かれていた。

 

「ケツモチ」という言葉は暴走族にもあり、時代や場所によって意味合いが違ってくるのだが、概ね二つの意味で使用されている。一つは、暴走集団の最後尾を担当し、追跡する警察や、暴走族の行為に業を煮やして自動車で集団に突っ込んでくる「ツブシ」などから仲間を守るために、最後方で楯となる役割を担う者を指す。もう一つは、暴走族の「後見人的な」役割を担う暴走族OBもしくは、OBが所属する右翼団体ないしヤクザを指す。それはともかく、この「イベサー」は、主として高校1年生から大学3年生あたりまでの若者を構成員とし、22歳くらいになると、「引退式」という「儀式」を経て「イベサー」から去って行く。この点、暴走族にも「引退暴走」という「儀式」があり、それを機に引退することになるが、「高齢化」している状況では、引退したはずの20代のOBでも集会に参加してともに暴走行為に興じていることがごく普通に見られる(但し、「特攻服」は着ていないはずである)。著者である荒井悠介自身も、学生時代に大所帯の有名「イベサー」に入り、後にその代表格になったという経歴を持つ元「当事者」でもある。

社会学には、こうした規範逸脱的な若者の行動態様や価値観などを調査した先行研究は、古くは佐藤郁哉『暴走族のエスグラフィー』(新曜社)があるし、打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房)など結構存在する。最近では、米国のオハイオ州コロンバスのゲイのギャング集団などへの参与観察を通してゲイやバイのギャング構成員の行為態様や内面等に迫った、犯罪社会学者バネッサ・パンフィルのThe Gang's All Queer: The Lives of Gay Gang Members. New York UP.などもある。荒井の著書は、暴走族など地域社会に生きるヤンキーたちを扱ったエスノグラフィーとは違って、地域社会とは切断された「渋谷」に集う、かつ必ずしも貧困家庭の子女とは言えない階層の若者たちの逸脱行動を扱っている点で、特徴ある研究であった。

 

.但し、僕が興味深いと感じるのは、この点ではない。社会学の研究は、それとして重要なのかもしれないが、荒井の研究目的や意図とは違って、これを社会学研究とは別の光のあて方をすることで、様々な読み方が可能であろう。例えば、『知の技法』(東京大学出版会)所収の松浦寿輝「レトリック-Madonnaの発見、そしてその彼方」のような表象文化論としての読み方もできるかもしれない。哲学的解釈学的に読むと、九鬼周造『「いき」の構造』のような思考が開けるかもしれないとの密かな期待が持てるという点でも興味深い。例えば、「サー人」のメンタリティにおいて高い価値が付与された「悪徳性」の徴表として、①非常識で煽情的な方法で注目を集めたり、脱社会的な発想や行動をするという「ツヨメ(脱社会的逸脱行動)」・②異性愛を利用するという「チャライ(性愛の活用)」・③逮捕されない範囲で反社会的行動をとるという「オラオラ(反社会的暴力性)」が抽出されるわけだが、それを社会学的に分析・記述するという範囲を超えて、それこそ九鬼が行ったような哲学的な分析によって、九鬼の言葉でいう「大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つ」を顕揚する仕事になれば、それは現代における『「いき」の構造』の再来となるやもしれないと。新たな社会的存在論倫理学を思考する契機にもなり得るだろう。

 

九鬼周造の哲学的営みは、戦前日本の哲学研究の世界で決して主流ではなく、傍流の中の傍流である。京都帝国大学で教鞭をとり西田幾多郎からも高く評価されていたことから九鬼周造を「京都学派」に含める者もいるようだが、「京都学派」はやはり西田幾多郎の後継の田辺元であるとか高山岩男高坂正顕あるいは戸坂潤や三木清中井正一久野収あたりまでを指し、和辻哲郎九鬼周造を含めると、「京都学派」の意味がインフレ化してしまって何が何だかわからなくなる。いずれにせよ、「ハグレ者」としての九鬼周造が選んだ最大のテーマは、「偶然性の問題」であった。

 

『「いき」の構造』において、相対立する要素の二元性を弁証法的に止揚してしまうのではなく、個々の異質な要素を緊張関係において捉える思考を顕著に見せる九鬼周造だが、主著『偶然性の問題』では、偶然性を「偶々然かあるの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないこと」であり、「有と無の接触面に介在する極限的存在」と位置づける。九鬼は、偶然性が必然性の対概念であることに着目し、必然性の三様態に応じた偶然性の三様態を「定言的偶然」・「仮説的偶然」・「離接的偶然」と振り分けて、それぞれについて思弁的な「偶然性」論を展開していた。あのままでは、「確率の哲学」で世界的に見て主流の議論に直ちに接続可能とは行かないが、九鬼が考えていたことを考えている者は、少なくとも僕の知る限り、英米にもイスラエルにもいる。「定言的」・「仮説的」・「離接的」という表現では若干わかりにくいが、要するに九鬼自身も言い換えているように「論理的」・「経験的」・「形而上学的」と理解しておけばよい。一つ目が単なる現実としての一つの実存がこの偶然性を実践的内面化するときに、無数の個同士の「間柄」の自覚に至るというのである。この『偶然性の問題』が、『「いき」の構造』とがどのように関係しているかについての論考はおそらく存在するのだろう。

 

九鬼周造は、「いき」という我が民族独特の概念の意味を明らかにするために、西洋哲学の流儀に合わせて、『「いき」の構造』を著した。但し、九鬼自身が予め断っている通り、「類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によつて何らか共通点を見出す」方法は、民族の存在様態としての文化存在の理解にとって適切な方法論的態度ではない。なぜなら、民族的、歴史的存在規定をもった現象を自由に変更して可能の領域において理念化したところで、それは単にその現象を包含する抽象的類概念を得るに過ぎないからであり、文化存在の理解の要諦にとっては、「事実としての具体性を害うことなくありのままの生ける形態において把握すること」が肝要だからである。さらに、「いき」を単に種概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を求めてはならないとも言う。

意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問ふ前に、まず「いき」の existentia を問ふべきである。一言にしていへば「いき」の研究は「形相的」であつてはならない。「解釈的」であるべきはずである。

 

そこで、まず意識現象の名の下に成立する存在様態としての「いき」を会得し、その次に客観的表現を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならないことを主張する。決して、前者を無視したり、または前者と後者との考察の順序を逆にしては、「いき」の把握は覚束ないのである。

既にいつたやうに、この種の現象と「いき」との共通点を形式化的抽象によつて見出すことは必ずしも困難ではない。しかしながら、形相的方法を採ることはこの種の文化存在の把握に適した方法論的態度ではない。しかるに客観的表現を出発点として「いき」の闡明を計る者は多くみなかやうな形相的方法に陥るのである。要するに、「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づひて自然形式および芸術形式に現はれたる客観的表現を妥当に理解することができるのである。一言にしていへば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。

 

九鬼によると、「いき」とは三つの徴表をその契機とするいう。第一の徴表は、異性に対する「媚態」である。第二の徴表は「意気地」である。第三の徴表は「諦め」である。但し、注意しなければならないことは、これら三つの徴表は、それらが構成要素となって集まることによって「いき」となると考えてはならないということである。この徴表は、あくまで三つの「契機」として分析的に見出される徴表であって、各々を分離可能な構成要素として捉えるならば、「いき」を捉えそこなうことになる。

 

第一の徴表の「媚態」、すなわちの異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかると九鬼は主張する。異性間の尋常ならざる交渉は媚態の皆無を前提としては成立を想像することができない。そして、この「媚態」とは、「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」である。「いき」のうちに見られる、「なまめかしさ」や「つやつぽさ」あるいは「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする「緊張」だという。にほかならない。いわゆる「上品」と違う。「上品」だと何かが足りない。媚態とは、「その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたもの」でなければならないからこそ、「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者、「無窮に」追跡して倒れないアキレスといった人間だけが本当の「媚態」を知っていると九鬼は説明する。

しからば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。さうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いはゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示してゐる。さうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であつて、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失ふ場合には媚態はおのづから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもつたものである。

 

第二の徴表は、「意気」すなわち「意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されており、「江戸児の気概」が契機として含まれていると言うのである。九鬼は言う。

意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されてゐる。江戸児の気概が契機として含まれてゐる。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」を尚だ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ」といふやうに、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもつた意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋なゆかり」を象徴する助六は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といつて喧嘩を売る助六であつた。「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌はれた三浦屋の揚巻も髭の意休に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思ひ切つた気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、気立が粋で」とはこの事である。かくして高尾も小紫も出た。「いき」のうちには溌剌として武士道の理想が生きてゐる。

 

第三の徴表は「諦め」である。「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」であるので、「いき」は垢抜けがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。

運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしてゐなくてはならぬ。あつさり、すつきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。この解脱は何によつて生じたのであらうか。異性間の通路として設けられてゐる特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与へやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿にあり乍ら、お前は鬼か清心様」といふ歎きは十六夜ひとりの歎きではないであらう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴な信頼を失つてさつぱりと諦むる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情ないは唯うつり気な、どうでも男は悪性者」といふ煩悩の体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻びて」といふ万法の運命とを蔵してゐる。さうしてその上で「人の心は飛鳥川、変るは勤めのならひぢやもの」といふ懐疑的な帰趨と、「わしらがやうな勤めの身で、可愛と思ふ人もなし、思うて呉れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」といふ厭世的な結論とを掲げてゐるのである。

 

以上から、九鬼は「いき」を次のように概括している。

「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示してゐる。さうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定してゐる。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一相容れないやうであるが、はたして真に相容れないであらうか。さきに述べたやうに、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめやうとする。すなはち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によつて限定することは、畢竟、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かへつて媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依が運命によつて強要され、可能性の措定が必然性によつて規定されたことを意味してゐる。すなはち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」といふ存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによつて、存在完成にまで限定されるのである。

 

九鬼は、具体的には化政期における京の島原、江戸における吉原の遊女の姿を念頭においているのかも知れない。「いき」を示す身体の例として、冬であろうと素足で通そうとする遊女が挙げられているが、こうしたことは、実は、時代を下った現代でも見られたと言えそうえある。

素足もまた「いき」の表現となる場合がある。「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といひながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を履かない者も多かつたといふ。着物に包んだ全身に対して足だけを露出させるのは、確かに媚態の二元性を表はしてゐる。しかし、この着物と素足との関係は、全身を裸にして足だけに靴下または靴を履く西洋風の露骨さと反対の方向を採つてゐる。そこにまた素足の「いき」たる所以がある。

 

花街の遊女ではないが、例えば、特にヤンキーには、冬でもサンダルに素足というスタイルを通そうとする者をちらほら散見する。一昔前では、ボンタンのようにダボダボな感じに着流したスウェット姿あるいはジャージに、足元はハローキティの健康サンダルという格好の者が多くいたし、それがクロックスやナイキのベナッシに変遷しても、この点は変わらなかった。あるいは、僕の父親の世代のヤンキーの写真なり映像なりを見ると、確かに素足にサンダルかスリッポン姿の者が目立つ。米国にもギャングその他不良集団は存在するが、そのようなスタイルの一貫性はない。明らか、他国の文化にはない「いなせ」な気風が現在も続いているのではないか。

 

あるいは、今ではめっきり姿を見なくなった東京都内や千葉県や茨城県南部の「老舗」の硬派の暴走族チームは、日章旗旭日旗のワッペンや刺繍を施した右翼スタイルの「特攻服」に雪駄履きというスタイルのところが多かった(これが、群馬や栃木といった北関東になると、「特攻服」自体がロングにびっちり刺繍を施したスタイルが多くなり、また足元はビニールテープを巻いたブーツというのが多くなる。関西になると、雪駄はもとより、ブーツも少なくなり、白の地下足袋が多くなる傾向が見られたように思われる。あくまで、僕自身の経験や、休刊した暴走族雑誌「チャンプロード」を見た印象に基づくので、必ずしもそうではないのかもしれないが)。

 

こうした若者の文化は、何も現代だけに見られるものではなく、相当古くから存在した。江戸時代には、傾奇者と呼ばれた若者の不良集団が暴れ回って、幕府は手をこまねいていたわけで、旗本奴やそれに影響を受けた町奴がその典型である。いずれも、人が思わず目を背けるような派手な衣装を身にまとい、男でも華美な化粧を施して、秩序を逸脱する行為それ自体に快楽を見出していたわけだし、女であるか男であるか関係なく放縦な性行為に耽り合っていた。暴走族の「特攻服」も、様々な古風な文言(民族派右翼が街宣車に掲げている文句など)を始めとして、銘々の誌めいた文言が刺繍されている。優に十万円くらい費やしたと思われる立派な衣装に仕上げている者もいるくらいだ。以前、存在した「センターGUY」も、奇抜なメイクと派手な髪型、アルバローザの華美な衣装を纏ったその姿は、乱暴・狼藉こそ働かないまでも、かつての旗本奴の華美な装いを思い起こさせてくれよう(元暴走族のGUYが、知る限り一人は存在したが)。

 

折口信夫によると、規範逸脱行動著しい「ごろつき」と呼ばれた連中は、鎌倉期から存在したというのである。『古代研究Ⅱ-祝詞の発生』(中央公論新社)所収の「ごろつきの話」という文章がある。そこで、折口は次のように言う。

無頼漢などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。・・・ごろつきが発生したには長い歴史があるが、其は略する。此が追々に目立つて来たのは、まづ、鎌倉の中期と思ふ。そして、其末頃になると、此やり方をまねる者も現れて来た。かくて、室町を経て、戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつきから出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。

 

先の旗本奴や町奴の「奴」とは、この「ごろつき」のことである。折口は、この「奴」について、以下のように表現している。

「奴」といつた。奴の名は髪の格好から出たものと思はれる。鬢を薄く、深く剃り込んだ其形が、当時ははいから風であつたのだ。そして、其が江戸で流行を極める様になつた。町奴の称が出来たのは、旗本奴が出来たからであつて、もとは、かぶきものと言うた。旗本奴もかぶきもの・かぶき衆などいはれたのであつた。併し、後には、此二者が交錯して、かぶきの中に奴が出る様なことにもなつたのであつた。・・・かぶかんとは「あばれよう」と言ふ事である。即、舞ひに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、此が六法となつて残つてゐる。尚、六法は、前に言うたかぶき者の別名ともなり、其一分派には、丹前など言ふものも出来た。共に、あばれ者であり、伊達な風をして、市中を練つて歩いたのであつた。「六法はむほふとも訓むべし」など言ふやうになつたのは、恐らく、彼等の、さうした行動から出たものであつたらう。併し、六法は、其以前からもあつた。室町の中期頃に、六法々師と言ふものがあつて、祭礼に練つて歩いた。京の街では、早くから、祇園祭に異風の行列が流行つた。これのはつきりして来たのは、室町からであつたが、既に、其以前、平安朝に於ても、其風はあつたのだ。さうして、これの愈発達して来たものが、風流であり、六法である。彼等は、仮装をして、盛んに暴れ廻つた。当時としては、其がはいからであり、さうして人目を驚かすことに、社会一般の興味があつたのだと思ふ。彼等は、好んで外国渡来の品などを身に著けた。かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じたのである。

 

こうして見ると、今も昔も「ヤンキー」と呼べるであろうような連中は存在している点で、何ら変わらないことが理解できる。しかも、そのメンタリティまで現代の者ですら想像できるくらいである。「かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じた」とあるように、イケイケな状態で逸脱行動に踏み切った際の興奮に伴う快楽には、単に「心地よい」というのではなく、ある種の「性的興奮」によってもたらされる「性的快楽」が付随する。公道を暴走しながら興奮状態が高じて雄たけびをあげタコ踊りする暴走族の脳内は快楽物質が大量に分泌し、中には、性行為をしているわけでもなく勃起してしてしまう者もいる。「異風と荒っぽいことに性欲を感じた」というのは、この文脈においても想像できるだろう。

 

人生行路の上では、単にメリットがないというだけでなく、警察に逮捕される危険性や暴走中の事故による死傷の可能性あるいは対立チームとの抗争による負傷の危険性という大きなデメリットを抱えながら、それでも敢えて危険を冒し、彼女とのデートなどにも目もくれずに暴走行為に向かうのは、それだけの「見返り」となる「快楽」が伴ってのことであると考えれば、その行為を理解することができよう。荒井悠介が研究対象にした「サー人」の特徴の一つである③「オラオラ」は、反社会的逸脱行動に喜びを見出す面が含まれている点で共通性があるが、「オラオラ」は「サー人」の持つ打算性のために自制がかかっているという点では、暴走族その他「ごろつき」の系譜とズレる面もあるようだ。しかも、ここには、我が民族独特の特質もあることを忘れてはならないだろう。この点についても、折口は次のように述べている。

 

此二者が相寄つて、美的な乱暴を創始した。美的とは言うても、其は美学的見地からのものではない。尤、中には「助六」の様な美しくて、力のあるものもある。殊に、当時の、さうした風潮を念頭に置いて此を見るならば、団十郎の此を作つた気持ちは、容易に訣ると思ふのである。かやうに、かぶき・かぶくと言ふ語の、元の意味は、乱暴する・狼藉するといふことであつたので、歌舞妓芝居はそれから生れたのである。

 

美学的意味とは異なる「美的な乱暴」、これも一つの我が国の伝統を形づくる「ごろつき」のもたらした文化の徴表の一つとなっているのではないか。折口信夫国学者民俗学者であったので、この点について哲学的に概念化するような思考はしていない。しかし、間違いなく、我が国の社会の伝統には、和辻哲郎的な伝統や社会の捉え方では削ぎ落されてしまう「美的な乱暴」の系譜が存在する。飛躍を承知で言うならば、この系譜に視線を注ぐことから構想される新たな社会哲学、ないしは和辻哲郎的営為として遂行される倫理学を考えることができそうである。それは、和辻倫理学とは全く異なるものになるだろうし、さらには「近代的市民」を理想化して、その人間類型にそぐわない存在を「アウトロー」として排除することによって得られた、「公-私」のリゴリスティックな分離を言祝ぐ「リベラル」の思想に激しい違和感を持つ者が待望する哲学・倫理学になるに違いない。哲学にとって、「レーニン的段階」理解など、取るにたらない。重要なのは「哲学のヤンキー的段階」理解なのである。

空間論・時間論に対して共同主観性論及び物象化論はどの程度寄与しうるのか

世界観総体の革命を企図する壮大な哲学体系樹立を目指した廣松渉にとって、世界認識の範疇的枠組たる空間や時間の概念がその検討さるべき主題となるのは必然的であろうと思われるところ、その膨大な業績を見渡しても、廣松哲学に固有の空間論・時間論と呼べるものを見出すことは難しい。『廣松渉著作集』(岩波書店)第2巻に収録されている短い論文「時間論のためのメモランダ」で、廣松は以下のように述べている(なお、この論文は、元はと言えば、『事的世界観の前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』所収の論文であったが、著作集では、各章がテーマごとに分解されて収録されている)。

時間というものをいかなるものとして了解するかは「世界観」の総体と相即的に関わっている。それゆえ“近代的”世界観の全般的超克が課題となっている今日、時間概念の抜本的再検討が要件をなすことは更めて言を俟たない。

しかしこの論文は、廣松曰く「覚書風に書留め」たものに過ぎず、本格的な時間論と呼べるものとは言い難い。何より論域が狭く、その内容も、見田宗介『時間の比較社会学』(岩波書店)のような、地理的・歴史的な時間観念ないしは時間意識の相違の記述と分析が大半を占める。結論を先取りして言えば、廣松哲学固有の時間論として、現代の科学の知見から導かれた主要な時間論などと建設的対話が可能と言えるほどの内容は、残念ながら展開されていない。空間論についても、同様のことが指摘できるだろう。この空間論・時間論を欠いている点が、壮大な哲学体系を展望していた廣松哲学の「弱点」の一つとなっているものと思われる。

 

「主観-客観」図式の排却と四肢的構造論、「対自的-対他的」認識とその共同主観的存立構造の議論は、現代物理学の認識論的問題提起に触発された一面を持つと断っている通り、空間論・時間論の動向に対して無視を決め込む態度をとらない。実際、『著作集』第3巻に収録されている『相対性理論の哲学』や『科学の危機と認識論』において、ニュートン力学からマッハ主義の再検討を経由して、アインシュタイン相対性理論に対する論述へと至り、最終的には量子論までをも論域に収めた考察を残している。『科学の危機と認識論』では、以下のように述べている。

認識論はもとより自然科学の“後追い”を宗とするものではない。しかし、嘗て物理学の専攻を志していた著者が「哲学専攻」へと進路を転じた機縁からいっても、著者の個人的な事情に即するかぎり、現代物理学の当面している認識論的問題状況を慮外に措いては、認識論的構案について語ることができない。

 

ここでの廣松の主要目的は、近代以降の自然科学の代表的な学問である物理学の進展に配視して、相対性理論量子力学の提起した深刻な認識論的=存在論的な問題次元を照射することで、「物的世界像」の最大の堡塁たる物理学的実在概念の本拠を突き、以って「事的世界観」への推転を諭すことである。『相対性理論の哲学』には、次のような記述がある。

相対性理論は、ヨーロッパ思想の宿痾となっている実体主義的な存在観を「実体主義の第一拠点たる物理学」の内部から震盪させ「関係の第一次性」を顕揚したこと、存在論的な視角ではとりわけこの件に留目させられる。筆者の謂う「事的世界観」にとってこれが一つのインパクトをなしていることは言うまでもない。認識論的な視角では、方法論的全構制を支える間主観的(相互主観的=共同主観的)な観測における「観測結果の間主観的同型化による対象的所知措定」の構制に着目したい。これは筆者流にいえば、「対自-対他」的な「共同主観的四肢構造」の構制にほかならない。

 

ここで注目すべきは、他の主題における論じ方とは若干異なっている点である。その異なる点とは、ニュートンにおける絶対時間・絶対空間の概念がアインシュタインの相対論によりもはや維持しえなくなっている事態を、近代において支配的であった空間・時間概念の破綻として論じるだけでなく、相対論と量子論が「近代的パラダイム」に収まりきれないことを強調して、自説の共同主観性や関係の第一次性の主張に引き付けて論じることに終始し、空間論・時間論の核心については触れられていないという点である。換言すれば、あくまで近代的世界観の崩壊の萌芽を自然科学の理論的進展によって論じることに止まっており、空間や時間の「真実態」の探究がなされているとは言い難い。

 

確かに、時間論における真の問題構制として、「過去」・「未来」の世界と「現在」の世界との相関性の構造を問うてはいる。ところが、時間概念の歴史的・文化的変遷を確認した上で、認識の四肢的構造連関に時間概念の成立機序を帰着させることで以って、相関性の構造の解明とされてしまっている。これでは、「過去」・「未来」・「現在」の観念の形成に関する仮説の提示であっても、「過去」の世界・「未来」の世界とこの「現在」の世界の相関性の構造を解明したことにはならないだろう。

 

『存在と意味』第1巻では、第三篇第一章「事物的世界の分節態勢と空間・時間」及び第三節「時間的規定の形象化」において論じられている。ここでは、所謂“近代人”の代表的時間表象として、ニュートン力学において前提される絶対時間に見られる線型時間が取り上げられている。この時間表象が、歴史的・文化的に特異な時間表象である旨が確認され、「狩猟民族型」・「農耕民族型」・「遊牧民族型」・「旅商人型」という時間表象の4類型が抽出される。時間表象の類型としては、狩猟民族や農耕民族に見られる循環的時間表象が多数派であり、線型的時間表象は、元来は遊牧民の行路が時間経過の形象化として具現化されたものであって、一般的な時間表象ではないことが論じられている。

 

廣松は更に、この4類型を身体的自我とその移動的変様形態に定位して、以下のように説明している。①身体的自我そのものは止住しつつ世界が移動的に変様する場合には「狩猟民型」に該当する。②身体的自我そのものは止住し世界も非移動的に変様する場合に、表象的世界と知覚的世界とのうち、一者から他者への変様がもっぱら変様的変化として了解されているとき、これが「農耕民型」に該当する。③身体的自我そのものが移動するとはいえ世界もまた一緒に移動的に変様する場合、これが「遊牧民型」に該当する。④身体的自我は移動的に運動するが、世界そのものは移動しない場合、これが「旅商人型」に該当する。

 

体験的時間の分析に即して、知覚的現在は抑々が、物理学で論じられる瞬間的同時位相ではなく、一定の持続が体験される時間帯とでもいうべきものであって、旧来の哲学的・物理学的時間論の理論閉塞は、こうした瞬間的同時位相としての「今」を前提にすることから立論していることに起因するとされ、この前提は体験的時間の実情に沿わないとして退けられる。そして、時間なるものが瞬間的現在の継起的持続であるかのように観念される傾向こそが、瞬間的現在としての「今」の遷移としての「過去」・「現在」・「未来」の時間の措定とその物象化的錯視をもたらす要因になっている。さらに、時間の自体的存在性を前提とする運動に先行する条件としての時間概念を転倒した考えであると論じ、運動の先行性とそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間概念を説明している。

アインシュタイン相対性理論をまつまでもなく、時間・空間・質量等々は相互制約的な有機的聯関態をなしており、現代物理学的に言っても、時間は空間や質量から独立に存在するものではない。しかるに、時間・空間・質量が聯関態においてのみ存在するということは、視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している。-時間や空間といった規定性は、この原基的存在たる運動態のモメンテを悟性的に抽象し、それを運動なるものの先行的存在条件とみなしつつ宛かも自存的な存在であるかのように扱ったものにすぎない。-翻って思うに、われわれの体験的時空間は、まさにそのような聯関態において存在する。・・・過現未にわたって既在する時間なるものがあるからこそ、運動・変化(の知覚)もはじめて存在しうるというがごときは、悟性的抽象に立脚した物象化的倒錯にほかならない。

 

体験的時間の先後関係を持った持続性及び運動の一貫性を以って時間表象を組み立てることによって、時間の自体存立性と線型性を否定し、そうした体験から来る先後関係を持った持続性が理念化された形象として、時間が観念されるというのである。『存在と意味』には、以下の記述がある。

時間なるものの流過的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界はそれぞれ「時間」の一部分を分有するという表象になるし、時間なるものの路線的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界がさながらモノ・レールのように「時間」に跨っているという表象になる。・・・世界の内実をなす変化的現相は「先後的布置をもった持続」という存在様式を現示するが、この「先後的布置をもった持続」という存在様式をイデアジーレンしたもの、それが「時間」にほかならない。

この時間論における特徴は、体験的時間の持続の一貫性と「原基的存在」の運動態のモメントを並列させて、①時間の先行性、②自体的存立性、③「点」として表象される「今」の抽象化を否定していることである。しかし、理念化された抽象概念の自立的展開とその経験的基底となる「生活世界Lewenswelt」の忘却という、お馴染みの批判と同種の批判を並列させて論じられるのかが、そもそも怪しい。

 

アインシュタイン相対性理論は、ミンコフスキー由来の、時間と空間を分離不可能な「時=空」概念の描像に基づく「事象の存在論」を示している点から、確かに時間・空間・質量が「有機的聯関態」を形成していると論じることは可能だとしても、しかし、そこから直ちに「原基的存在」としての運動態のモメントとそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間という理解が肯定されているわけではない。相対性理論が証したのは、時間と空間の非独立的存在性格なのであって、運動態の先行性と時間の抽象化という廣松の主張は、相対論からは帰結しはしない。また、物体の配置の変化を基底とする時間の再構成と、運動態を基底とする時間の抽象化に結びつけことにも慎重でなければならないだろう。

 

だから、「視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している」との廣松の主張は、必ずしも言えないのである。しかも、体験的時間の持続の一貫性を強調する文脈でアインシュタインが持ち出されているが、「過去」・「現在」・「未来」の存在論的位置づけの差異を認めず、時空多様体として捉えたアインシュタインの立場と明らかに齟齬を来す点が無視されている。線型的絶対時間及び絶対空間からなる描像を批判したいがあまり、体験的時間の持続の一貫性と相対性理論が同一次元に並列されて論じられているところは、明らかに議論が錯綜している。

 

廣松の空間論・時間論の立論は、歴史的・文化的な時間概念の概観を踏まえつつ、知覚的現認対象たる自己と予期的世界に表象される自己との二重性、言うなれば身体的自我の「自己分裂的自己統一」という覚識を媒介環とする時間意識の発生機制及び時間の形象化の可能性条件についての論述としては示唆に富む考察であるが、あくまで「主観的」な時間の形象化に関する立論にとどまっており、「客観的」時間を、各共同体の歴史的・社会的・文化的生活世界における、相互の自己分裂的自己統一を媒介とする世界の変容態として共同主観的に形象化されたものと見るその論理には、明らかな飛躍が見られる。

 

相対性理論における異なる「観測系」の相互関係に基づき、同一事態を交換可能な双方当事者の両視座に立って定式化可能な事態を以って、共同主観性の理論的補強を試みる廣松の『相対性理論の哲学』での立論は、以下の通りである。

相異なる運動・観測系に所属する二人の観測者にとって、所与の物理現象の直接的現相は合致しない。一者にとっての対自的現相と対他的現相(すなわちもう一人の観測者たる他者にとっての現相)とは、直接的な所与性においては相貌が異なる。こうして、対自的現相と対他的現相は相違するにもかかわらず、観測者たちは所与現相の観測的定式化(自己の属する観測系に即しての描写的定式化)に所定の変換を施すことによって、対他的見地を“脱自的”観念的に扮技することができ、当の事象を共同主観的に同一の相で認識・定式化することができる。

すなわち、相対性理論の異なる「観測系」の“互換性”を以って、個別的主観性と共同主観性の相互関連性の理由づけとなしている。なるほど、相対性理論はその理論内部に「観測者」概念を取り込んでいるかに一見したところ思われるかもしれない。だが、相互に相対運動する「観測者」同士では質量や長さや時間についての測定結果が一致しないことはあるが、とはいえ、質量や長さや時間の集合間の関係を支配する法則については一致するし、相対運動していない際の特定の質量や長さや時間の記述については完全に一致するのだから、理論内部から「観測者」概念をいわば“消去”したとしても問題は生じない。相対性理論量子論と異なり、「観測者」概念を理論内部に包含している体系とは必ずしも言えないのである。個別的主観性と共同主観性との二重化された相互関係性を根拠づけるのに際して、相対性理論を「観測者」を取り込んだ理論体系とみなした上で利用する方法は、明らかに失敗しているという他ない。

 

のみならず、この立論内容では、科学哲学者や物理学者の世界で論じられている時間の実在性や方向性等の問題に代表される時間論に対応させることは難しい。確かに、アインシュタイン相対性理論の成果を取り上げ、空間と時間が各々単独で独立して存在するものとして扱うことの非を主張し、運動の先行性と空間・時間の自体存在性の否定を主張する立論は、マッハの主張、あるいは更に遡るとライプニッツの主張と一部重複する。しかし、アインシュタイン相対性理論が空間と時間の非分離的規定態として時空概念を提起したといっても、「時空」概念が実体的な「ブロック宇宙」として理解されるべきか否かという問題は、未だ決着つかない問題であり、認識論的側面における四肢的構造連関に基づく共同主観性論による実体主義的解釈への批判の射程が、こうした論争に対して積極的な寄与を果たすかと問われれば、些か心許ないと言わざるを得ない。

 

仮に、廣松渉の空間論・時間論が、徹底した関係主義を採る「ライプニッツーマッハ」路線の踏襲として自らを位置づけるのならば、少なくとも物理学理論における関係主義的理論構成が未だ成功していない現実に配視すべきところ、この点に関する問題意識が希薄であると言うべきである。また、ニュートン的絶対時間の概念が、アインシュタイン相対性理論が含意する時間概念からすると背理の関係に立つことを論じはしても、この点に定位して論を進めるならば、相対性理論量子力学の時間概念も同じく齟齬を来すはずである。

 

一般相対性理論の「時間」と量子力学の「時間」は、相互に互換性のない概念である。この非互換性は、ブラックホールや初期宇宙など双方の条件が適用される状況において、両者を単一の枠組に置換する際に多くの問題を生じさせる。量子力学ニュートン的絶対時間に基づいており、ここでは、時間は固定された背景となるパラメータである。時間にユニタリーな発展があり(つまり、確率は常に1になる)。この発展は、時間依存的な波動方程式(時間依存的シュレーディンガー方程式)と一致し、ヒルベルト空間のスカラー積は、保存された確率流束につながる。

 

ニュートンの外部的絶対時間とは対照的に、相対論では時空の別の座標としての時間という意味が与えたれている。従来の一般相対論的時空は、<M, g>すなわち、Mを時空位多様体とし、gをアインシュタイン重力場方程式に従うメトリックにより定式化される。座標の一般的な選択としての時間は、一般相対性理論的時空が、その時間の定数値に対応する一連の空間のような超曲面にスライスされる方法で幾何学的に具体化される。相対論と量子論が統合される閉じた量子宇宙論のような真に閉じた系を記述することと、外部的絶対時間の概念は両立しない。特定の時間に行われる測定は、従来のコペンハーゲン解釈(特権的な時間の存在に固定されている)の基本的な要素である。観測可能量は、所与の時間値を測定できる量である。一方、「履歴」は、一連の時系列測定の結果を参照する場合を除いて、直接的な物理的意味はない。その「履歴」は、経路積分形式では量子力学に似ているが、一般相対性理論に似た機能を保持することもでき、一般相対性理論量子力学の調整(の一部)の前兆となる可能性もあるが、いずれにせよ、宇宙全体で量子力学をどのように解釈すべきかは、今もなお謎に満ちた問題である。

 

両者の統一を試みる量子重力理論の抱える最大級の難問が、この”The Problem of Time”であり、有力な理論として考えられる超弦理論とループ量子重力理論は、相対論に軸足を置くのか、それとも量子論に軸足を置いて考えるかの違いを反映していると見ることもできないわけではない(あくまで素人しての印象でしかないが、超弦理論は相対論に、ループ量子重力理論は量子論にそれぞれ軸足を置いて思考しているように見受けられる)。それゆえ再び、両者における時間概念の不一致がどうしても現れ出てくるように思える。それほどの難問中の難問であり、いまなお解決を見ていないが、その中から、様々な時間論が思いもよらぬ副産物として生み出されている。米国ではピッツバーグ大学、英国ではケンブリッジ大学やオックスフォード大学などが、世界的な研究拠点になっているが、この連中の議論と比べて、やはりどうしても見劣りしてしまう。あるいは、イスラエルヘブライ大学で哲学の教授を務めていて、最近亡くなったイタマール・ピトフスキーのようなピカ一の頭脳を持った者が我が日本から登場することは期待できそうもない(ピトフスキーは、主として確率の哲学で著名だが)。

 

ともかく、相対論や量子論にまで論域を広げて空間論・時間論を展開するのであれば、この齟齬に対して踏み込んだ考察がない限り、さして実りある成果は期待できないだろうし、さすがの廣松も自分の手に負えることではないとの直感が働いたのか、新たな世界観の宣揚を打ち出す割には、空間論・時間論に触れる論考が著しく少ない理由になっているものと思われる。

真理についてのquid factiとquid juris-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察①

廣松渉は、広く実践哲学・価値哲学・社会哲学・歴史哲学・文化哲学をも論域に収めた哲学体系を打ち立てることにより、「近代的世界観」の地平を超克し、新たな世界観の定礎を目論んだ哲学者であった。この目論見は、哲学の理論的な動機からというより、「資本主義時代に照応するイデオロギー」たる「近代的世界観」の超克は、「現体制の批判者たり、革命的変革の志向者」(廣松渉『新哲学入門』(岩波書店)の最後の一文)としての実践的理由に急かされてのことであったように思われる。『廣松渉著作集(全16巻)』(岩波書店)の巻頭を飾る第1巻に収録されている若き日の代表作『世界の共同主観的存在構造』の冒頭の文章だけでなく、ことあるごとに、廣松はこの点を強調している。『廣松渉コレクション(第5巻)-哲学体系の新視軸』(情況出版)所収の「私にとって哲学とは-既成的世界観への体系的批判」で、以下のように、廣松は述べている。

私にとって“哲学”、それは「近代的世界観」という現体制に照応するイデオロギーの地平に対する“体系的批判”でなければならないと考える次第です。体制内的思想の準位に堕した“既成マルクス主義”の批判をも試みつつ、より広くは「物的世界像」に対する「事的世界観」の体系的論述を私なりに志向してきました。

 

理論的哲学の課題に関して、世界の被媒介的存在構造の究明を第一義と位置づける廣松の思考の根幹は、第1巻「認識的世界の存在構造」、第2巻「実践的世界の存在構造」、第3巻「文化的世界の存在構造」の三部構成として構想された主著『存在と意味-事的世界観の定礎-』という題にも反映されている通り、「近代的世界観」を支える「物的世界像」を批判し、「事的世界観」にとって代わられるべきとの意図を背景にした議論になっている(第3巻は、廣松の若すぎた死によって日の目を見なかったことは、我が国の哲学・思想にとって残念なことである)。『著作集』15巻に収録されている『存在と意味-事的世界観の定礎-(第1巻)』には、次のような記述が見られる。

管見によれば、人類文明はかなりの以前から世界観的次元でのパラダイムの推転局面-十七世紀におけるいわゆる近代的世界観への転換期に次ぐ新たな現代的世界観への転換期-を即自的に径行しつつある。茲に胚胎している新しい世界観的パラダイムを対自化し可及的に定式化すること、これが哲学の今日的一大課題であり、この課題に対して著者なりに応える拙い構案が謂うところの「事的世界観」である。

 

世界の認識論的=存在論的「真実態」を対自化することを目指す廣松は、近代的思考の特徴の一つである「主観-客観」の二元論的図式を批判するため、その前提となる「認識対象-心的内容-認識作用」の三項図式を批判することから始める。この図式においては、対象的事物から認識主体へのと刺激が到来し、当該刺激が知覚心象という形で結像するという仕組みで知覚が成立するという考え方が基底にある。先方に対象が存在し、こちら側の知覚機構内部に写像が形成されるという形で理解される知覚観・意識観を、写真機の構造に例えて「カメラモデルの知覚観」と命名した上で、この図式が成立し得ないことを廣松は論じる。代わって、主観的契機における「能知的誰某-能識的或者」と、客観的契機における「質料的所与-形相的所識」という主客両側の二肢的二重性として把捉される「四肢的構造連関」に基礎を措く「共同主観的」認識構造の定礎を試みる(初期の『世界の共同主観的存在構造』と後期の『存在と意味』とでは、用語が若干異なっている)。

 

この共同主観性論に加え、その斬新なマルクス主義哲学に関する解釈により再定式化された「物象化」概念を活かした「物象化論」及び「物象化理論」の射程を極限にまで拡大させることによって、「実体主義」から「関係の第一次性」に視座を据えた「関係主義」への転換を図る。「近代的世界観」が概ね「実体主義」として特徴づけられる「物的世界像」に彩られるものであるならば、廣松渉が新たな「パラダイム」として措定する「事的世界観」は、「関係の第一次性」の認識による「関係主義」に基礎を置くものでなければならない。かくして、廣松渉独自の哲学体系として定礎される「事的世界観」を構成する「太い幹」を三つにまとめるとするならば、①共同主観性、②関係の第一次性、③物象化というこの3つになるだろう。

 

廣松渉は、特に1845年以降のマルクスエンゲルスこそが、この「近代的世界観」を超克する地平を切り開いたと評価する。マルクスエンゲルスは、その「近代的世界観」を超克する地平を開いたと言えるほどの体系的哲学のテキストを残しはしなかったので、この見解はやや我田引水、牽強付会な感もしないでもないが、何故そう考えるのかが明確に表明されたテキストに、『著作集』第10巻に収録されている『マルクス主義の地平』を挙げることができるだろう。この書は、ロシア・マルクス主義に代表される「客観主義的」解釈及び西欧マルクス主義に代表される「主観主義的」解釈のいずれをも退ける廣松のマルクス解釈の本領が発揮されている。

 

マルクスエンゲルスは、自然と人間を乖離させて考えるフォイエルバッハに対し、『ドイツ・イデオロギー』で、次のように批判している。

フォイエルバッハは、彼をとりまいている感性的世界は決して永遠の昔から直接無媒介的に存在している恒常的に自己同一的な事物なのではなく、産業と社会状態の生産物であるということを理解しない。

フォイエルバッハの哲学には、物理学者や化学者の眼にしか開示されない客観的存在としての自然、あるいは人間とは無関係に永遠の昔から存在している自然という描像が根底にあるが、そういう自然なるものは、人間から切り離して悟性的に抽象化されたフィクションに過ぎない。現実の感性的自然は産業と社会状態の生産物であり、しかも、それが歴史的な生産物であるという意味で、諸世代の全系列の活動の成果である。感性的な労働と創造、この生産こそが現に存在している全感性界の基礎である。自然と言えども、決して生の自然ではない。里山や森林云々と言えども、それは耕作や栽培を通じて「文化」化された人工の所産である。住居、調度、衣服、食品、われわれをとりまく物的世界は、人間の抱く観念の物象化された定在である。人間の歴史に先行するこの自然なるものは、フォイエルバッハが現に生活している自然ではない。

 

対して、マルクスエンゲルスは、「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」を原理とする「客観主義」も、「自然から切り離して形而上学的に改作した精神」を原理とする「主観主義」も批判した上で、両者を止揚統一しようとした。人間は、歴史的に送られてくる世界geschichtlich-geschickt-werdende Weltに対して、その関わり方をすら共同主観的・社会的に「存在によって決定」されており、用在的な歴史的世界に被投的に内・存在しつつ対象的活動を営むという「歴史・内・存在」と言うべき存在である。この「歴史・内・存在」の根本的な構えの地平に展らかれる世界は、科学主義的な物在、つまり「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」ではなく、歴史的自然=自然的歴史である。人々が、そこにおいて、本源的に共同主観的な在り方で自然を歴史化していく対象的な営みは、歴史的存在被拘束性においてある。このように、廣松はマルクスエンゲルスにおける自然観を捉える。『マルクス主義の地平』において、廣松は以下のように論じる。

マルクス主義唯物論においては、われわれの意識と存在は、いわば函数的連関の項としての構造的契機であって、文字通り弁証法的な動力学において把捉される。そのご登場したいくつかの哲学思想が、フェノメナルな問題場面から出発しつつも、マッハ主義その他において現にみられる通り、フェノメノンの被媒介性を説く段になると、所詮は近世的な主客図式Subject-Objekt-Schemaないし、身心図式Leib-Seele-Schemaを復元してしまうのに対して、マルクス主義唯物論は、人間の在り方を対象的活動として、しかも歴史的・社会的に共同主観化された“被投的な”対象的活動としてとらえ返し、この対象的活動の動力学に即し、そのObjektion-Objektivationに即してフェノメノンの被媒介性を定礎する。その際、「自然のプリオリテートは残るが」、有史以前の歴史化されざる自然というがごときものは「君の頭蓋骨は、かつてたしかに存在はしたが、もはやどこにも存在せぬ」のと同様、もはやどこにも存在せず、即自的な自然Natur an sichとわれわれにとっての自然Natur für sichとの区別だては「人間と自然とを区々別々のものとして考察する限りにおいてしか意味をなさぬ」ことが向自化されている。向自的な自然Natur für sichの被媒介性の解明を志向するに当って、旧来の諸哲学、わけても「近世哲学」は、認識論的に截断した媒介項と被媒介項とを存在的な截断と二重写しにしてしまい、即自的な自然そのもの(科学はこれを究明するものと私念される)を要請するが、マルクス主義唯物論の哲学的世界了解の次元でいえば、如上の悟性的抽象的な截断を固定化しない限りで、天体界のごときも、その実、歴史的・社会的・共同主観的に展らけるNatur für unsである。

 

この廣松の言は、若干言葉を変えながら、様々なテキストで繰り返し説かれている。廣松の重要な著作として、おそらく5本の指に入るであろう『物象化論の構図』(『著作集』第13巻に収録)には、次のように表現されている。

歴史においてはどの段階にあっても、或る物質的な成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見い出される。これは、各世代に先行世代から伝授されるものであるが、このものはなるほど一面では新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもするということ、こうして人間が環況を作るのと同様、環況が人間を作るわけである」ということ、人間存在の斯くの如き「歴史的」な在り方に視座を据えて、マルクスエンゲルスは世界を捉え返す。この“歴史・内・存在”ともいうべき在り方にあっては、自然的与件に対する人間の関係は、第一次的には、対象認識というテオレーティッシュな関係ではなく、物質的生活の関心に根差したプラグマティッシュ・プラクティッシュな関与である、そこではまた、汝をはじめ他者との関係は、第一次的には他我としての認知といったスタティックなAnerkennungではなく、物質的生活の場での分業的協働という役割的に編制されたぺルソナ的な関係である。-この対自然的かつ間個人的な関係行為は、即自的には動物においてすら存立しうるにしても、「動物にとっては他のものと関わる彼の関係は関係として存在しない」「動物は対自的には何ものとも“関係”せず、そもそも関係しない」のであって、当の対自然的・間主体的な関係が対自的に存在するのは人間においてのみである。-唯物史観が、上部構造としていわゆる精神文化的次元を視野に配しつつも、さしあたり、物質的な生産と交通の場面に基礎的視座を構えるというのは、人間の対自然的かつ間主体的な関係の基底を如上の視角で観ずることの謂いにほかならない。マルクスエンゲルスは、この視座に構えを執ることによって、先行哲学において初めから抽象態で論件とされていた対自然的関係ならびに間人間的関係を現実的・具体的な相で見据え、人間と自然とを二元的に截断することなく、まさしく動態的な編制の構造に即して捉え返す次第なのである。

 

なお、廣松がマルクスから取り出し、廣松哲学の枢要を占める概念にまで祭り上げられた「物象化」概念の使用の仕方には、若干注意を要することを付言しておくべきだろう。というのも、マルクスが『資本論』で僅かにしか用いていなかった「物象化Versachlichung」に対して、廣松は、あまりに多くの意味を含ませて論じているからである。この「物象化Versachlichung」とは、「物化Verdinglichung」や「物神崇拝Fetischismus」あるいは「物神的性格Fetischcharakter」と密接な関連があるわけだが、廣松のマルクス主義解釈にとっては、後期マルクスと前期マルクスを分かつ一つのメルクマールになっていることから、廣松固有の哲学体系にとっても、「物象化」概念は決定的重要性を担っているはずである。廣松は、『ドイツ・イデオロギー』編輯問題を巡る議論の中で、マルクスが1845年において、それまでのヘーゲル左派の影響下で形成された疎外論の立場を脱却して物象化論の立場を鮮明に打ち立て、既存の世界観とは異なる世界観を宣揚したという意味において、ここに決定的な思想的切断線を入れている。この点は、同じく1845年において認識論的切断を見るルイ・アルチュセールと共通していた。

 

「物象化論」と「物象化理論」とは若干異なり、後者はマルクスの「物象化論」にとどまらず、拡張された一般理論として定立された内容を指す。その関係は、『物象化論の構図』のⅡ「物象化論の構制と射程」と跋文「物象化理論の拡張」を比べてみれば理解されるだろう。同書で廣松は、次のように述べている。

「物象化論の構制」ということは、著者にとって、マルクスの後期思想を理解するうえでの重大な鍵鑰を成すものであり、また、著者自身の構想する社会哲学・歴史哲学・文化哲学の方法論的を成すものである。

 

廣松によると、「物象化」とは、「人と人との社会的関係が、“物と物との関係”ないし“物の具えている性質”ないしは“自立的な物象”の相で現象する事態」である。また、廣松哲学のテーゼの一つ「疎外論から物象化論へ」というテーゼは、「マルクスの物象化論」として以下のように説明されている。『マルクス主義の地平』は、以下のように記している。

マルクスのいう抽象的人間労働は「労働」から諸々の具体的特殊的規定を捨象した「残りかす」ではありえない。抽象的人間労働とは、実は、或る社会的関係-後にふれる通り、それは労働価値説の根本的大前提をなすかの労働配分にかかわるのだが-の物象化的表現なのである。従ってまた、人間労働の物化・凝結・対象化という言い方も、ヘーゲル学派的な意味での「人間の類的本質力としての労働の外化」「疎外」ではなく、社会関係が倒錯視的に物神化された世界了解に即しての、便宜的な言い方にすぎない。『資本論』における物象化論は-これについては立返って論ずべき数々の論点を残しているが、さしあたり本章で着目したコンテクストでいえば-ヘーゲル学派的な、従ってまた、初期マルクス的な疎外論の発想とは異質の地平に立っている。

 

廣松哲学の主眼である「事的世界観」の定礎につき、『廣松渉著作集』第3巻に収録されている『事的世界観への前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』の序文は、以下の通り述べる(但し、この書は、まとまった形で『著作集』に収録されてはおらず、各章がバラバラにされて収録されている。おそらく編集委員会は、限られた予算と制約の中で、どう本書を収めるかに相当苦心したのではないかと想像される)。

著者が先学の正負の遺産に定位して摸索を続けてきたのは「事的世界観」とでも呼びうる観方に照応する新しい世界了解の構図と枠組である。それは、認識論的な射影においては従前の「主観-客観」図式に代えて四肢的構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。

 

廣松渉の認識論の要諦をなす共同主観性論を基礎づける認識における四肢的構造連関とは、対象的側面に定位すれば、主語的指示対象たる与件を述語的表明対象たる「別のあるものetwas Anderes」、「以上のあるものetwas Mehr」として覚識し、主体的側面に定位すれば、自己分裂的自己統一おいてある限りでの主体(単なる私以上のあるもの)に「対して」展かれる認識のあり方である。単刀直入に言うならば、単なる私ではない何者かとしての私に対して、現象がそれ以上・それ以外のものとして覚識されるという在り方を意味する。『世界の共同主観的存在構造』(『廣松渉著作集』(岩波書店)第1巻に収録)には、以下のように説明されている。

フェノメナルな世界は“所与がそれ以上の或るものとして「誰」かとしての或る者に対してある(Gegebenes als etwas Mehr gilt einem als jemandem)というべき、四肢的な構造聯関において存立していること

このフェノメノンが「~に対してある」“主体”が、かれとして登場する「或る者jemand」が不特定多数として現れる場合の判断主観一般は、「所与-所識」構制のもとで成立する限り、既に間主観的=共同主観的に存立していると廣松は指摘する。

 

真理性ないし虚偽性は、「SはPである」または「SはPでない」という判断成態、つまりは「命題」の特徴であるところ、命題的事態が単なる個々人の心理的意識態以上の相として自存化されて認識される所以は、「所与-所識」成態における「所識」的契機が「表象記号-所識」と関連づけられており、かつそのこと故に間主観的=共同主観的に形成されて存立していることに負う。そして、認識の客観的真理性は間主観的=共同主観的に妥当とみなされることに還元される。すなわち<ヒト>一般を自らに内在化させた二重相として存立する個別的主観の判断における正当性は、その内在化された<ヒト>一般の承認が「判断主観一般」の承認として肯定されることによって得られる。『存在と意味-事的世界観の定礎-(第1巻)』(『著作集』第15巻に収録)は、こう指摘する。

判断の現実的当事者である個別的主観は、・・・間主観的に同調的・同型的な相に共同主観的な自己形成を遂げて(遂げさせられて)いる。・・・現実の認識主観たる能知は特個的な「能知的誰某」と普遍的な“同型的”な「能識的或者」との二肢的“成態”であり謂うなれば「ヒト」を“内在化”せしめている。

 

廣松は、判断的認識の真理性・虚偽性を、判断と客観的事象または客観的事態との一致・不一致によって区別する伝統的な真理論の枠組を踏襲し、個別的認識主観が肯定あるいは否定を問わず措定する判断は、客観的な事象や事態と合致する場合を真とし、合致しない場合を偽とみなす判断図式を承認する。しかしながら、この「客観的事象」ないしは「客観的事態」の意味を、別の事態に還元することにおいて承認するという組み換えを行うのである。端的に言うと、客観的真理性を間主観的=共同主観的妥当性判断の一致に還元するという組み換えである。つまり、伝統的な真理論の議論だと、認識の真理性は端的に客観的妥当性を指すと了解されており、意識対象と照合的に合致する意識内容が真なる認識と見なされるところ、廣松はその構図を受け入れたとしても、その受け入れは判断の形式のみの受容に徹している。すなわち廣松の表現では、「判断的成態」と対象となる事態・事象との照合的一致ないし不一致が、真理性・虚偽性の判別基準という考えを受け入れるけれど、実質的には、認識の客観的妥当性とは、意識対象と意識内容の照合的合致ではなく、対象となる事態・事象そのものが、間主観的=共同主観的に形成され、認識論的主観ないしは判断主観一般に妥当する命題的事態なのであるから、認識の客観的妥当性は、判断的成態の対象となる事態に即した共同主観的妥当性に還元されることになる。

さしあたり「事実問題quid facti」の次元で言えば、当の価値判断、遡っては当該の判断が、人々(当人の属する一定の時代の一定の共同世界)によって“公認”されるかどうか、人々との同調性が事実問題として成立しているかどうか、これによって真理性・虚偽性が決まるのである。・・・ここにおいて、判断的認識の真理性・虚偽性は、人々の共同主観性と相対的であり、従って、歴史的・社会的・文化的に相対的であることになる。

 

客観的真理性が間主観的=共同主観的一致に還元され、かつ間主観的=共同主観的妥当性判断が歴史的・社会的・文化的に相対的であるとするならば、廣松自身の理論的営為の真理性を保証するものは何かという疑問が生じるだろう。既存の「真理体系」が、歴史的・社会的・文化的に相対化された共同主観的妥当性判断の一致の所産とみなされるならば、これら体系に対する現在の我々の認識は、「事実問題」としての「真理体系」の認識として考えられる。つまり、ある時代・ある社会・ある文化において「真理」と見なされた体系は、歴史的・社会的・文化的な理由から共同主観的にその妥当性が承認されていたものであるという認識である。

 

しかしながら、これら「真理体系」の誤りを指摘し、あるべき立論を行う場合、少なくとも当事者からすれば、「権利上」の問題としてその真理性を主張しているはずである。そうでなければ、「真理」を探究する際の当為言明は端的に無意味と化すだろう。すなわち、廣松の認識「前」と「後」によって、言明の性質が「事実問題」としての真理に関する言明と、「権利問題quid juris」としての真理に関する当為言明に区別されているわけだ。そのことに関して廣松は自覚的であり、前者のような「事実問題」として「真理」性が承認されている「真理」を「通用的geltend」な真理とし、後者のような「権利問題」として「真理」性が主張されている「真理」を「妥当的gültig」な真理と区別する。

 

だが、この区別によって問題は解決するどころか、なお一層、問題は錯綜するだろう。というのも、この「妥当的gültig」な真理は、現時点より時間的に後の将来において事実性に支えられうることによって初めて、「妥当的gültig」な真理たりうるとの立論であり、「権利性」が将来の「事実性」により根拠づけられるとするなら、任意の時点における「真理」性の主張は、共同体の大多数の承認が得られる時期の到来いかんによって妥当性・不妥当性の区別がされてしまう。

妥当する真理”なるものは、われわれの見地では、それが現実に間主観的同調性を有つかどうかという“事実性”によって“権利づけ”られるのであって、認識(真なる認識)の“権利根拠”なるものは終局的には共同主観性以外のところに求められるべきもない。・・・真理をして真理として成立せしめる間主観的な共同世界は、現実的には歴史的・社会的・文化的に多層的である。・・・“妥当する真理”は“通用”しうる真理としての実を示し、“通用する真理”に成らなければならない。

 

認識の客観的妥当性ないし真理性は、判断的成態の対象となる事態に即した共同主観的妥当性・不妥当性に還元されるとはいっても、廣松は認識における「真理性」に関する言明の、単なる歴史的・社会的・文化的相対性を主張しているわけでも、認識論を事実学に解消しているわけでもない。事実、認識論的議論は、「権利問題」と「事実問題」を分かつことができることを前提とした、前者に関する問題の主題化であるとするというカント的了解を廣松は受け入れている。廣松がカントの影響を多分に受けてその哲学的営為を遂行してきたという事実だけからではなく、当の廣松の哲学観すなわち眼前に開かれる現相的世界がいかにして成立しているかという可能性の条件を問う、世界の被媒介的構造の認識論的究明という理論哲学に課せられた主題を論じてきた事実からも、一先ずそう指摘できそうである。廣松渉東京大学文学部卒業時に提出した論文「認識論的主観に関する一論攷」(『著作集』第16巻に収録)や大学院人文社会系研究科(廣松在籍時には、確か名称が異なっていたように思われるが)に提出した修士論文「カントの『先験的演繹論』」(世界書院)は、カントの問題意識に貫かれた論文であったし、廣松が学生時代に、夏季休暇中に何度もカントの三批判書を読み直す習慣を自らに課していたというエピソードからも、うかがえる。但し、前者と後者の分離は“一応”のものにとどまり、いかなる場面においても明確に区分できるかについて疑問なしとしないというのが、廣松の立場である。

 

では、当為的言明を含む、判断の正当化の可能性の条件をめぐる廣松の議論そのものを正当化する根拠をどこに求めればよいか。廣松の場合、認識の妥当性を保証する審級であるはずの認識論的主観(もちろん、この表現は、あくまで物象化された相において措定されたものであるとの前提である)は、経験的自我と身体を通しての自己分裂的自己統一としての二重性のもとに捉えられ、かつ当該主観すら歴史的・社会的・文化的に共同主観的同型化を経て形成されたものであるので、「真理性」の主張は、事実としての共同的な承認に支えられるわけだが、そう主張する廣松の判断の「真理性」を保証する審級がなければ、現状において、少なくとも廣松の主張を「妥当である」とする共同主観的一致は事実として存在するとは未だ言えないわけだから、何故かかる言明が正しいと言えるのかが不明となろう。

 

この点廣松は、自らの言説に、ある種の認識論的“階梯”を設ける。ある一定の階梯での主張と別の階梯での主張を弁証法止揚の概念を用いて、「学知的反省にとってfür uns」と「当事者意識にとってfür es」の区別を設け、この二層構造が螺旋を描いて上向していく論理を持っていくことで、この問いに応答しようとする。この区別は、例えば、

物象化と呼ばれる事態は、それ自体としては、とりたてて特異なことがらではない。それは日常的意識にとって物象的な存在に思えるものが学理的に反省してみれば、単なる客体的な存在ではなく、いわゆる主観の側の働きをも巻き込んだ関係態の「仮現相(quid pro quo=錯視されたもの)」である事態を指す。

のように用いられ、その論理は、弁証法的展開におけるan sich-für sich-für es-für unsの構制である。ところが同時に、この学知的反省の立脚点たるfür unsすらも相対化にさらされるところに、認識を可能ならしめる条件の歴史的相対化がなされていることが了解される。すなわち、

世界観の地平は歴史的・社会的に相対的であり、学問的な世界観といえども当代の「日常的生活体験」に根ざした「民衆的先入見」(マルクス)の大枠を端的に超出することは不可能であって、結局のところ“世人の日常的な世界了解の構図”を準拠枠frame of referenceにせざるをえない。

学知的反省の立場すなわちfür unsのWirといっても、歴史の中から抜け出ることは不可能であり、歴史的“パラダイム”の変遷の<外>に立脚点を持ちえず、その意味で歴史的相対化の力から自由ではない。「権利」として主張される「妥当的なgültig」真理は、歴史の過程において後の「通用的なgeltend」真理と承認される事実性を持ち得ると考える限りでの「真理性」であるので、逆に言うならば、自ら「妥当的なgültig」真理と呼称することは、歴史を俯瞰した上でこれが将来的に「通用的なgeltend」真理としての事実性を持ち得ることを予見している(少なくとも、予見できたかのように振る舞う)のでなければならないだろう。なぜならば、廣松からすれば「“妥当する真理”なるもの」は、現実に共同主観的同調性を有つかどうかという“事実性”によって“権利づけ”られるのだから。

 

歴史の中に拘束されるとしつつも、歴史の過程の上で、かくあるべき真理が将来的に「真理」として承認されうる事実性を持つことになるとの俯瞰的視点を同時に持たねば、この言明自身無意味と化す。だとするならば、認識の可能性の条件の歴史的相対性は、いかなる真理言明もアプリオリに無意味と化さしめるか、あるいは、あらゆるものを相対化する者の暗黙に前提されている特権的絶対性を、換言すれば、あらゆるものを歴史的相対化にさらし得る者の暗黙に確保された絶対的視点を含み持つと言えないだろうか。標準労働日を巡る問題を論じるマルクス資本論』第1部第3篇第8章では、

どちらも等しく商品交換の法則に保障された同等の権利と権利との数世紀にわたる闘争を決するのはGewalt(暴力)である。

と述べられている。なお、このGewaltを「暴力」ではなく「強力」という訳語を当てるのが日本共産党である。「マルクスレーニン主義」を「科学的社会主義」に、「プロレタリアート独裁」を「プロレタリアート執権」に、「暴力」を「強力」にという風に言葉を誤魔化し、マルクスエンゲルスレーニンのテキストの翻訳を一斉に差し替えることで、何をしたいというのだろうか。「ソフト路線」の甘い仮面を被って無知な大衆をオルグしようとでも言うのだろうか。しかし、こうした態度からイメージされることは、これまでのマルクスレーニン主義者が、自分たちの都合に合わせて「歴史改竄」を厭わなかったという事実である。一早くスターリン批判を展開してきたと言うが、これも歴史的事実に反するし、ソ連崩壊時に「諸手を挙げて歓迎する」と強がっていたものの、直前までは、ゴルバチョフの「新思考外交」を批判していた張本人が日本共産党だったはずだ。スターリンレーニンを切り離して、スターリンだけを断罪し、レーニンを美化して救おうとしているが、果たして、そのような無理筋な理屈をいつまで通し続けられるだろうか、見ものである。今後、レーニンの行いがますます暴露されるようなことにでもなれば、その時は、またどうにかごまかしを図るに違いない。世界で初めて国家規模の「強制収容所」を設けた人物こそ、その人である。宮本顕治チャウシェスクとの懇ろな関係も、いつの間にか消えた。

 

いずれにせよ、正しさと正しさが二律背反の状態に立ち至った時、対立するものの高いレベルの同一性においてVersöhnungもされなければ、Vermittlungもされず、事を決するのは究極的にはGewaltであるということは、「真理」主張の闘争においても等しく当てはまるというのが、geltendとgültigとの闘争として描写する廣松渉の結論なのではないだろうか。仮に、そうだとするならば、廣松哲学は、「革命の哲学」になりうるという主張は、同時に「保守の哲学」にもなりうるという主張をも含意するはずである。