shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

物語的誤謬

ナシーム・ニコラス・タレブは、レバノン内戦時にフランスへ渡り、パリ大学において数理ファイナンスの研究にて博士号を、またペンシルバニア大学ウォートン・ビジネス・スクールでMBAを取得、ヘッジファンドクオンツ兼トレーダーになった人で、有り余るほどの大金を入手した30代で「半隠居」状態になった後、ニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジにあるニューヨーク大学クーラント数理科学研究所で不確実性の科学を教え、世界あちこちのカフェで瞑想に耽りながら読書に勤しむ「フラヌール(遊び人)」を自称する「懐疑的経験主義者」である(どうやら現在は、大学の職も辞している模様)。

 

タレブは、Fooled by Ramdomness(『まぐれ-投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』(ダイヤモンド社)として邦訳されている)において、「作り物の歴史」を考える際にどうしても触れないわけにはいかない「似非思想家」の始祖としてヘーゲルを取り上げている。

 

その攻撃の口調は、まるで、ルートヴィヒ・ボルツマンが1905年1月21日にウィーン哲学協会で行った「ショーペンハウアーが、頭空っぽの、愚かで、無知な、人々の脳を根本的かつ永遠に腐らせるナンセンスな言葉を書き散らかしている似非哲学者であることの証明」と題する講演を想起させるほどだ。

 

この題は、ショーペンハウアー自身がヘーゲルを攻撃した時に使った言葉を引用したものであり、ボルツマンからすれば三流の哲学者であったショーペンハウアーに対する最大の嫌味でもあった。ボルツマンは、ショーペンハウアーがいかに「アプリオリ」という言葉を誤用しているか、いかに質量保存の法則などに無知か、いかにショーペンハウアーの「意志」の概念が自己矛盾したものであるかについて、これでもかというくらいコテンパンに叩いており、ショーペンハウアー嫌いが読むと痛快この上ない。ボルツマンともあろう超一流の学者が雑魚を相手にしなくてもいいのにと思わないではないが、この年はボルツマンの自殺の一年前。何か切迫した感情が襲っていたのかもしれない。

 

カール・ポパーがそのナンセンスをあげつらったヘーゲルのある一文を引用しながら、タレブは、ヘーゲルの言を「戯言」とした上で、ユーモアを交えつつ、この類の「似非思想家」に対して、These "thinkers" should be given an undergraduate-level class on statistical sampling theory prior to their release into the open world. と、要は、「世に出す前に学部レベルの統計的標本抽出法のクラスにぶちこんでおくべき」と言うほど辛辣だ。

 

僕自身はヘーゲルを必ずしも「似非思想家」とは思わないが、しかしタレブならずとも、多くの人が指摘するように、ヘーゲルには難解さを装った不必要な表現が乱れているため、ほとんどナンセンスな文章になっているケースがまま見られる。だからこそ、ことあるごとに、ヘーゲルの文章は槍玉にあげらてきた。ハンス・ライヘンバッハ『科学哲学の成立』の冒頭でも取り上げられていて、そこではヘーゲルの文章を引用した上で、いかにヘーゲルが無意味な戯言を述べているかを例証しながら、その哲学を批判していた。

 

タレブによるヘーゲルの歴史主義的言説に対する主張は手厳しい。すべての似非思想家の父ヘーゲルは、パリのセーヌ川左岸のカフェや、現実世界から隔離された大学の人文学部門の外では無意味な専門用語を書き散らかしている。なのに、人々はそれを「哲学」と呼び、納税者が収めた税金からその研究のための資金を頻繁に調達しているのだ、と辛辣だ。

 

世界的なベストセラーとなったThe Black Swan;The Impact of the Highly Improbableは『ブラック・スワン-不確実性とリスクの本質』(ダイヤモンド社)として邦訳されたが、邦訳は上下2冊本になっているので、1冊に収まっているペンギン・ブックスのペーパーバック版の方が断然お得だろう(しかも安い)。できれば原書で読んだ方がよいと思われる理由は、いくつも誤訳が目立つからだけでなく、タレブの随筆は、膨大な古典からの引用がちりばめられ(この人のおかげで、ボエティウス『哲学の慰め』に出会えた)、日本語ではそのニュアンスが伝わりにくい独特の毒舌で読む者を退屈させない文章だかである。

 

タレブは、『ブラック・スワン』において、低確率だが影響が大きい「ブラック・スワン」的事象が人間に持つ重要性を考えている。タレブは、歴史家の言う因果関係は主に多くの理由で無効であるが、特に「ブラック・スワン」的事象の予測不可能性は、その後の事象を繋ぎ合わせる「物語」が単に「聞き心地の良い響きの物語」でしかないことを示していると言う。

 

タレブは、ありそうもない事象を「ブラック・スワン」と呼ぶ。この「ブラック・スワン」には3つの属性がある。まず、①希少性、「外れ値」、つまり通常の範囲外の何かである。②人間の事象に及ぼす影響の点で「極端な影響」がある。③「外れ値」の状態にもかかわらず、人間の性質は、事後の事象についての説明をでっち上げ、あたかも「予測可能」なものであったかのように捏造する。タレブの見解では、そのような事象を予測しようとするのは、あまりにナイーブすぎるのだ。

 

タレブの「ランダム性」の概念は、不確実性つまり予測できないものの質である。「真」のランダム性と不十分な知識の違いは、実用的な認識論を目論むタレブのプロジェクトに接続される。知識が不十分であるということとランダム性と区別できないという考えは、歴史家によっても議論されてきた話題である。

 

注意すべきは、タレブはカオス理論と結びつけてはいないという点である。タレブにとって、カオス、決定論的な系からの予測不可能な結果は、実際には他の種類のランダム性と区別できない。特に、微小な効果がカオス系に大きな影響を与える可能性がある「バタフライ効果」は特に関係がない。

 

タレブは、「月並みの国」と「果ての国」と2つの基本的なモデルを識別する。「月並みの国」は、ベルカーブが適用される領域を指す。例えば、非常に背の高い人もいるが、それが平均を大きく変えるわけではない。だが「果ての国」は、例えば『ハリー・ポッター』の売り上げなど、単一のケースが総計に影響を与える可能性のある分野を指す。

 

タレブによると、大規模な経済的、政治的生活の多くは、「ブラック・スワン」が住む「果ての国」に属し、「月並みの国」に基づいてそれを予測またはモデル化しようとする試みは、危険な誤解を招くことになる。普通の生活の多くは「月並みの国」であるように見えるが、タレブは我々自身の人生の歴史を振り返れば、多くのことが「ブラック・スワン」によって決定されたことを示唆している。

 

タレブの見解によると、歴史は「物語のディスシプリン」の一つであり、世界を説明する物語を作成する、自然だが誤解を招く人間の傾向性の帰結である。因果関係の説明は、過去の事象の系列に有意義な物語や構造を課すため、懐疑的にならざるを得ない。タレブは、これを「物語的誤謬」と呼んでいる。

 

タレブの歴史的因果関係に対する批判は、4つである。第一に、「確証バイアス」と「隠れた証拠」の問題。第二に、タレブは一般的に、歴史的因果関係の説明は、単に「物語的誤謬」であることを主張している。第三に、歴史的原因を見つけようとすることは、「後方処理」の不可能性に関連すると主張する。第四に、タレブは因果関係における「事象」の概念を問題にしている。

 

タレブの「歴史」には、過去に対する個人の認識が含まれている。したがってタレブは、記憶の歪曲効果を示す心理学その他の研究を参照し、因果関係の物語が作成される要因と見ている。

 

もっとも、この点に関して、タレブは、記憶が必ずしも適切なカテゴリーではない学術史における説明や物語の構築と混同しているきらいがある。情報源からの分析、または実際に物語の構築は、記憶におけるその形成とは大きく異なる。それに、マルクスヘーゲルのような理論的仕事と実際の歴史家の仕事が地続きで捉えられている点も問題である。また、タレブが証言に反する証拠の問題として、コリングウッドが説明したことにどこまで精通しているかは明らかではない。

 

そういう問題点はあるものの、とりあえず歴史的因果関係についてのタレブの批判、すなわち、①確証バイアス、②予測と「物語の誤り」、③後方プロセス、④事象の問題を見ていこう。

 

①の「確証バイアス」とは、既存のアイデアを確認する証拠を求めたり、より大きな価値を与えたりする傾向である。この用語は認知心理学に由来する。「ブラック・スワン」の「無言の証拠」とも関連しており、これは他の証拠を無視しながら、それ自体を提示する証拠(特に成功の証拠)を見る誤りである。成功した人々が、彼ら彼女らの習慣や性質を説明することによって、彼ら彼女らの成功の秘密を示していると思われる本のジャンルによく見られる。ビジネスに参入するが失敗する人、少なくとも金持ちにはならない人は多くいるが、その人について伝記は書かれない。では、本の説明が真実であるかどうかをどのように知るのか?

 

同様にタレブは、歴史が勝者によって書かれている、または勝者について書かれていると主張しているので、我々は敗者について十分に知らされた場合、根拠がないと見なされるかもしれない彼ら彼女らの成功に因果関係の物語を帰属してしまう。

 

②についていうと、タレブの歴史的因果関係の研究の拒絶は、タレブの予測の拒絶と密接に関連している。タレブは、人間の現実の複雑な世界では予測は不可能であると主張し、予測は過去にうまくいかなかったことを知っているが、にもかかわらず、それを続けていると。タレブは、複数の物語が同じ事実に適合する可能性があるため、因果関係の物語は疑わしいと主張している。

 

この視点は、既にヘイドン・ホワイトによって指摘されており、タレブは客観的な「事実」が存在することに異議を唱えるのではなく、それらについての物語を「エンプロトメント」と考えているのである。注意すべきポイントは、この問題は、歴史や「物語のディスシプリン」に特有のものではないということである。科学では、同じデータの多くの可能な説明を考える際、1つを最良として選択する方法を議論するために「最良の説明への推論」の概念が使用されているはずだ。

 

③について言うと、タレブの因果関係に対する批判は、歴史家が「前方プロセス」と「後方プロセス」の区別を把握できず、後者を分析することは非常に困難であるということである。タレブが挙げる例によると、氷の立体を見れば、それがどのように溶けるかを予測することができるが、水たまりが見えたらからといって氷の立体がどのようなものであったかを調べることはほとんど不可能である。この点は、「物語的誤謬」に関連しているだろう。

 

コリングウッドは、過去は現在に理念的に存在し、つまり過去は現在の暗示的な想像上、だが任意の状態ではないと述べていた。すなわち、「過去は、現在の状況によって課せられた限界内で、批判的に再構築される可能性がある」と。

 

後方プロセスに関するタレブの批判は、現在を説明する複数の可能な過去があるという点である。つまり、現在では、理想的には暗示的な過去が複数存在する。しかし、前述のように、科学でも同等の問題が生じる。複数の説明は可能であるが、少なくとも1つがより可能性が高いと推測することは可能であると。

 

④は、何を以って歴史的「事象」として特定するのかという、因果関係における「事象」の概念を問題にしている。

 

「懐疑的経験主義者」を自認するタレブによる「ブラック・スワン」的事象に対する見方を、歴史理論や歴史哲学に接する際に、頭の片隅に置いておくだけでも、例えば、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』のような似非理論にやられないバリアにはなるものと思われる。タレブの随筆は、彼の学術論文とは全く趣の異なる、読むことの楽しみを思い出させてくれる読み物であることは確かである。