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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

曖昧さについて

ケインズ『確率論』において提示された確率の論理説の見解を批判し、いわゆる主観説を主張したフランク・ラムジー「真理と確率」は、確率を個人の「部分的信念の度合い」という解釈の下で分析することで確率概念を位置づけ、人間の精神作用における論理性を形式論理に還元することの有用性の無視が合理性を捉え損なう恐れがあることを明らかにしている。

ラムジーは、個人の信念の度合いとしての確率を「オッズ」として定量的に表現されたある量と操作主義的に結びつける解釈を行い、効用関数概念に接続可能なものとして捉えるわけだが、補論として書かれた「確率と部分的信念」では、若干そのトーンが落ちている。

少なくとも、ケインズの確率の意味論に関する主張が、カルナップが整理したような「論理説」にきれいに収まりがつかないのと同様に、ラムジーの主張がサヴェッジらの「主観説」にスッポリ収まることはなさそうだ。

いずれにせよ、「偶然」もしくは「曖昧さ」との格闘でもあるゲームの賭けなり投資行動と確率論との密接不可分性は、確率論誕生の動機がカード・ゲームでの賭け行為から始まったというエピソードが如実に物語る。賭けをする時、賭金の額を計算する上で順列・組合せがその基礎となる。この初等的概念が理論として整序され発展され確率論となるわけだが、確率論が具体的に賭けに応用される際は、基本的には期待値という事象の確率とその事象で得られるペイオフの積の加重平均で表される値と結びつけられる。すなわち、より合理的な賭けとは、期待値の大きい方への賭けである。

ともあれ、確率論は期待値を元にして発展してきた。20世紀初頭までにコルモゴロフによる公理化によって確定した理論として完成を見たが、これをフルに活用した理論が統計力学量子力学である。ラムジーは「主観説」的解釈論の祖として位置づけられる傾向にあるものの、しかし同時に部分的信念と非決定的推論としての確率概念とは区別される物理学における統計的頻度としての確率概念を認めていたわけで、後者の確率概念に関わるのが統計力学量子力学である(もっとも、量子ベイズ主義のように客観的な統計的頻度と解さない立場も出てきてはいるが、それは別の機会に触れよう)。

統計力学におけるエントロピーとは、ある物理系のマクロ状態を実現するミクロ状態における個数の一測度と定義され、実際に状態数の対数であることはルートヴィヒ・ボルツマンの定式化によって明らかにされている。ミクロ状態の個数が最大の場合のマクロ状態つまりはエントロピー最大の場合のマクロな状態は、仮にどのマクロ状態にも等しいアプリオリな確率を付与するなら最大のアプリオリな確率を持っている。だから、ある系が特定の時点にエントロピーが最大でないマクロ状態にあるのなら、後のある時点に当該系がさらに高いエントロピー状態に移行する確率が高いというのが、熱力学第2法則に関する統計的説明である。

時間対称的立論からは、同じ理由で、当該系の「以前」のある時点にエントロピーがより高い状態で見出される確率が高いということになるはずである。しかし、そう推論することは第2法則の適用における経験的妥当性に反するように見える。我々は現実の経験に基づき第2法則を適用しているのは過去についてのみであり、その際、過去から未来へのエントロピーの増大についての知を持っているからである。そうすると、確率に関してそれを過去に適用することを排除すべきとなりそうであるが、一体いかなる理由でこの排除を正当化できるのかという難問が提起されるだろう。これは熱力学・統計力学と時間非対称性そして確率論の適用との哲学的難問に関わる。

エントロピーと情報の概念を接続するアイディアを示したのはボルツマン自身であり、本格的に研究したのがクロード・シャノンである。エントロピー概念が情報論的に解釈されることで、情報を「負のエントロピー=ネゲエントロピー」として捉え返されるが、エントロピー増大は情報の喪失を意味するので、ここに意味論的問題に遭遇することになる。

 

一見パラドクスにみえるこの意味論的問題に対して、シャノンは情報測度をプラスの符号を伴うエントロピーと定義しているところが注目されるだろう。エントロピーとは可能態的な知の一測度である一方で、ネゲエントロピーとは現実態的知の一測度である。そして、シャノンの言う情報とは、あるシグナルの新しさの値の期待値と定義できることになる。あるシグナルの新しさの値とは、このシグナルを他のすべての可能なシグナルから区別するために決定されねばならない単純なオールタナティヴの個数と定義でき、したがって熱力学的なマクロ状態の情報とは、あるシグナルの新しさの値の期待値であり、当該系のミクロ状態を知ることの中にあるはずのものと考えることができる。

他方で、量子力学には不確定性原理があり、現象は同一条件をおいたとしても、その条件の下で必ずしも同一の結果が生起するとは限らないが、多数の事象を観測すると、その中でどの値がよく得られるかという確率が得られる。この点で量子力学は、確率論を基本的論理として採り入れた。これがマックス・ボルンの功績である。しかしここでは、期待値の概念は別の意味で重要な役割を果たしていることに気がつく。古典物理学では、現象は起こるか起こらないか明確に確定しうるような現象、つまりは確率が0か1に決まるものだけを対象として扱っていたことが明らかにされ、一義的に決まらない物理現象を記述する量子力学を数学的に整理することができ、かつ明確に実験結果と合致するような理論が構築された。

しかし、量子力学における確率の持つ哲学的含意について明確にされたわけではなく、今も優れた哲学者や物理学者そして数学者たちが侃々諤々のケンカをしている。そもそもジョン・フォン・ノイマンの名著『量子力学の数学的基礎』(みすず書房)がきちんと読み込まれているとも言い難い。本書は、僕のような門外漢には一読して理解することは難しく、三度ほど線を引き引き冷や汗かきながらようやく理解に達したつもりになっていたが、それでもおそらく浅い読みに留まっているはずだ。この点で、小澤正直『量子と情報-量子の実在と不確定性原理』(青土社)は、一般読者を意識した書き物になっていて、僕のようなノイマンの定式化に不満を持つ者にとって大変勉強になるところがある。特に、第3章「フォン・ノイマン量子力学の数学的基礎」だけでもいいので読んでおいて損はない。

ノイマンとバーコフの新しいアプローチである量子論理は、ある属性が別の新しい属性を作る仕方の表現である。古典論における物体の属性は、ブール論理に従うパターンを見せる。しかし、量子論的属性はブール論理には従わない。量子論理は分配則が当てはまらないので、すべてにおいて分配則が妥当しなければならないブール束とは異なる非ブール束である。

古典論における物体の属性は全て同時に測定できるが、量子論ではそうはいかない。ある一定の両立属性の組だけが同時に測定できるに過ぎない。全量子論理束のブール型部分束は、同時に測定できる両立属性だけで構成される。全ての量子束は波動論理的非ブール的関係の中のブール的部分束の連合で構成されている。

高名な論理学者として日本の読者にとって馴染み深い竹内外史による、Proof Theoryよりは知名度はないが、『線形代数量子力学』(裳華房)がある。その付録に収録されている「量子論理への誘い」を取り上げよう。

もっとも、本書から量子力学を理解するということ自体を目的とするわけではない。量子力学の理解だけなら他に相応しい書物がある。本書を取り上げる理由は、数学基礎論の立場から量子力学に光を当てて見ると、線形代数の理解に量子力学は格好の素材を提供してくれているものとして捉え返されていること、そして、特に付録の量子論理についての考察は、量子論理と確率論との関係を反省する栞となるからである。

この両書にまたがる基本的立場は、徹底的に有限の立場に拘るというものであろう。このことは竹内が直観主義の立場にいたことからすれば当然と言えるものだ。一方は、ゲンツェンのLKの体系でのカット消去定理の証明を有限の立場から導出することに反映しているし、他方は天下り的に無限次元ヒルベルト空間を導入するのではなくして有限の立場から量子力学を再定礎する試みであるからだ。

数学基礎論における直観主義は、ヒルベルト形式主義ラッセルの論理主義と排中律の取り扱いで大きく異なる。「AならばBである」という命題に関して、形式主義ではAもBもその内容に関して問うことはなく、単に関係式を定義した上でそこから演算をしていけばよい。論理主義では、それが一つの論理として成立するかを見ればよいことになる。

対して直観主義では、「AならばBである」という場合、AはBであるということを確かめる手段を持っているということを意味する。したがって、AやBの内容が何でもよいということはない。「AならばBである」という時、それは単に形式的な論理のいう意味ではなく、確証の手段を持っていることが「AならばBである」ということの保証であるということになる。

そうすると、直観主義排中律を承認しないので、「AならばBである」という手段を持っていたとしても、「AならばBではない」という手段を持っているという保証は必ずしもないのだから、「AならばBである」という手段を持っているか、「AならばBではない」という手段を持っているかのいずれかであるということは必ずしも言えないことになる。

形式主義では、AはBであるかBでないかのいずれかであることをまず前提として措定し、そこから議論を始めるわけだが、直観主義論理は排中律が必ずしも成り立たないように論理を拡張することができるところに魅力がある。

魅力があれば、同時に犠牲にしなければならない要素も出てくる。例えば、排中律を承認しないとなると、自然数まではともかく実数を扱う際に厄介な問題を抱え込むことになる。実数や実数を使った関数あるいは微分積分などの扱いが面倒になるのではないかという問題が出てくるわけである。

竹内外史は、排中律の成り立たない際の集合論の取り扱いに「コンプリート・ハイティング・アルジェブラComplete Heyting algebra」と呼ぶ直観主義論理の体系を導入する。この「コンプリート・ハイティング・アルジェブラ」においては、自然数だけでなく実数の演算や微分積分まで自然な取り扱いが可能である。ハイティング代数で知られるハイティングは直観主義の提唱者ブラウアーの継承者である。

排中律が神の如き超越的視点を想定しているのに対し、ある種の人間的立場で論理を考えるのが直観主義の立場だと通俗的に捉えることも許されよう。例えば、∀x∃yA(x,y)すなわち「全てのxについてyが存在してA(x,y)を満たす」を、「どんなxをとってもそれからyを『構成的』に構成する方法が与えられていて、そうして作られたyはA(x,y)を満たす」というように解釈することによって合理化する方法を考え出した(この考え方をある意味で徹底させたものに内部観測論があり、郡司ペギオ幸夫『原生計算と存在論的観測-生命と時間、そして原生』(東京大学出版会)のハイティング代数の多用がどこまで正確なのか大いに疑問が残るが、この内部観測論の発想の根本は、直観主義の基本的な考えを下敷きにしているのだろう)。

だが直観主義には、先に見たように「→(ならば)」の演算の定義が面倒になるデメリットを抱える。竹内外史は論理学ないしは数学基礎論の立場から基礎づけを図ろうとする量子論理と直観主義の論理の関係性を見る。もちろん両者は出自を異にする。量子論理は確率論の論理的基礎づけに関連して提示された論理であるのに対して、直観主義の論理はそれとは違う。

それはさておき、ザデーのファジー論理と確率論の関係が問われることになるが、その際に先ず問われるべきは、メンバーシップ関数の身分である。これが客観的な性格を持つのか主観的な性格を持つのかという点である。ザデーによると、メンバーシップ関数は0と1の間にある実数値を持つというわけだが、竹内外史によると、そうした捉え方は極めて制限的な主張である。なぜなら、数量的に実数の上に乗せることが可能な対象しか扱えないし、しかもそれはスカラー量でしかない。

竹内の提案は、このような制限を取り払い、0と1の間に様々な量を考え、メンバーシップ関数を0と1の間の実数のみならず広く半順序集合に拡張すべきというものである。数といってもスカラー量の他にもベクトル量やテンソル量など種々の量があるのだから、数量的といっても0と1の間の実数領域に乗せることだけが数量なのではない。竹内の提案は、「確率」や「曖昧さ」という概念を扱う広範な射程を持つ論理とは何か、そしてその論理と実在の関係に関わるメタ論理の意味を考える上で我々の思考を喚起させてくれるものである。

蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す

いわゆる「皇国史観」という言葉を聞くと、大東亜戦争での大敗という結果を招いた軍国主義体制を思想的・精神的に下支えしたイデオロギーであるとの条件反射を示す日本人は多いのではないだろうか。「皇国史観」という言葉が喚起するイメージは、まるで「悪」と同義であるかのようのである。だからこそ、本居宣長

 

敷島の 大和心を 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花

 

という歌に現れた国学の思想を「皇国史観」と結びつけて解する無知蒙昧を多く生み出しもしたのだろう。

 

予め結論を言うなら、平田篤胤国学(平田派国学)とならば格別、いわゆる皇国史観本居宣長国学とは無関係である。そもそも、本居宣長が「史観」などというものを宣揚するわけがないことくらい、その著作を読み込めば了解できる事柄である。宣長の著作と後の宣長解釈に由来するイメージとは分けて考えなければならない。

 

明治維新も、宣長とはほぼ無縁である。明治維新は神武建国の理念に立ち返ることが主張されたが、これはそもそも、岩倉具視の指南役である国学者玉松操の発案である。そして、玉松操の国学は、平田派国学と親和性はあれど、宣長国学とは全く質を異にする。だからこそ、政治的には一応「成功」させることができた。神武建国の理念に立ち返る明治維新は、大化の改新でも建武の中興でもなく、ほかならぬ神武建国をもってくることにより制度的守旧派の反対を抑えつけ、近代化を一層推し進めることに成功させた。すなわち、「ふるきよきもの、かくあるべきものを、ふたたびめぐりきたらせる」という、本来の意味での「革命」を成功せしめた秘密であるというわけである。

 

皇国史観」という言葉が政治の場にせり上がってきたのは、蘆溝橋事件に端を発する支那事変が勃発した昭和12年頃であると言われる。その元になる考えを遡っていけば、「大日本ハ神国也」という宣言で始まる北畠親房神皇正統記』に起源を求めることができないわけではない。もちろん、我が朝が神州であることの認識は南北朝時代より遥か前に遡ることができるわけだが、この書の特徴は、南朝方の正統なることを証明するために書かれた政治哲学の書であるという点で、それまでの神州思想と異なっている点である。

 

皇国史観の歴史家ないしは「歴史神学者」と言われ、大東亜戦終結後に東京帝国大学教授の職を辞して白山神社宮司の職に就きつつ、なお政界・思想界に隠然と力を及ぼし続けたと言われる平泉澄は、殊の外『神皇正統記』を愛し、いくつもの論考を残している。なお一言付け加えておくと、平泉の日本中世史研究の影響を受けた学者が、明らかに左翼的な思想の持主というか、日本共産党員として山村工作隊の一員という過去を持つ網野善彦であったということが面白い。網野の代表的な業績で、一般にもよく知られる名著『無縁・公界・楽』(平凡社)の「アジール論」は、ほとんど平泉の研究業績の上に立脚していることはあまり知られていない。

 

しかし、『神皇正統記』が皇国史観の起源に位置づけられるとしても、その内容を充実させる役割を果たしたのは、南北朝の時代から数百年下った江戸時代における後期水戸学である。というのも、『神皇正統記』は確かに政治道徳の書ではあるのだが、徳治主義の優越性及びそれを根拠にした南朝正統論を主として強調する書であるに過ぎず、直接的に後の皇国史観に繋がる思想が見られるわけではなく、あくまで間接的な関係が指摘しうるにとどまる。その意味において、『神皇正統記』に皇国史観の起源を求める見解は不正確である。

 

我が朝は、神武天皇による建国の御創業より一貫して皇祖天照大神の天壌無窮の御神勅を奉じ、三種の神器を継受してきた万世一系天皇が代々統治されてきた。改めて確認するまでもないことだろうが、ここにいう「統治」とは、政治権力を行使するという意味ではない。

 

天孫降臨に際して、天照大神瓊瓊杵尊に授けられた三種の神器、つまり天叢雲剣八咫鏡八尺瓊勾玉について、親房は「剣ハ剛利決断ヲ徳トス。知恵ノ本源ナリ」と言い、天叢雲剣を「知恵ノ本源」と位置づける。八咫鏡については「正直ノ本源」と、八尺瓊勾玉については「慈悲ノ本源」と述べている。

 

この点、福澤諭吉の「帝室論」や「尊王論」が参考になるだろう。政治権力の行使には「当る」の言葉があてがわれ、日本という国の統合に担うことには「統る」という言葉があてがわれているように、政治権力の行使と国家統合の象徴的権威であることは別物である。

 

福澤諭吉が「我大日本国の帝室は尊厳神聖なり」という時、絶対的政治権力の所在は天皇にあると主張しているのではなく、政治権力の行使を可能ならしめる国としての統合を担う、俗世を超越した聖的領域としての天皇の意義と、「懐旧の口碑」の源泉としての皇統の神聖について述べていたのである。Kaiserでもцарьでもimperatorでもemperorでもking of kingsでもない。

 

後期水戸学は、儒学ことに朱子学と古学の混淆の系統に位置づけられ、同時代の契沖や賀茂真淵そして本居宣長らの国学の系統とは直接の繋がりはない。明治維新を牽引する思想は、本居宣長国学ではなく後期水戸学であったことを既に小林秀雄は見抜いており、そのことについて、安岡章太郎との対談ではっきり述べている。

 

後期水戸学を代表する学者藤田東湖の『弘道館記述義』は、確かに『古事記』や『日本書紀』の記載に基づいていることに違いないが、それを本居宣長のようには解していない点が特徴である。むしろ、そこから政治道徳ないし政治哲学的含意を抽出するという、ある意味で正反対の行為に出るのである。

 

藤田東湖は「聖子神孫克く其の明徳を紹ぎ」と述べ、この「明徳」とは「蒼生安寧」のうちに存することを明確にする。我が日本国は、「宝祚無窮」・「国体尊厳」・「蛮夷戎狄率服」・「蒼生安寧」の4つを特色とする国柄であるというのである。曰く、

 

蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す

 

すなわち、万世一系の皇統が永遠であることは、日本国の政治が元来「蒼生安寧」を旨とし、それをこそ目的として進んできたことに実現される。それゆえ、我が国体は尊厳を保つことができ、諸外国も尊敬に値する我が日本国を従えることが不可能となるというのである。

 

ここに「国体」という表現が登場することに注目すべきだが、この「国体」という言葉はもちろん本居宣長の著作には登場せず、藤田東湖と同じ水戸藩重臣であった会沢正志斎の『新論』において登場した言葉である。

 

ここには、無理矢理にでも武力を以って諸外国を制圧し服従させようという思想はない。日本国が自己の尊厳を保ち自立した国として存在することで、外国からの不当な要求や侵略を撥ね除けることができるということが言われているだけである。大東亜戦争開戦詔書の、

 

列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル恂ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

 

の御言葉にも反映されている。万邦共栄の道を模索していたけれど、万策尽きて米英に宣戦を布告するこの開戦詔書の文言から聞こえてくるのは、悲痛としか言いようのない声である。

 

もちろん、戦前の我が国の行為に帝国主義的要素がなかったと言えば、それは嘘である。対米英戦争は「先発帝国主義国」と「後発帝国主義国」との覇権争いの末に生じた事態という側面があり、また対華二十一か条要求以降の我が国の対支関係を通覧すれば、そこに覇権主義的恫喝外交を背景とする傲慢な大陸政策の失策について、一片の「侵略性」もなかったとするには無理がある。したがって、大東亜戦争を「聖戦」の一語で全肯定することは無理筋の暴論ではあろう(と同時に、日本側からの一方的な侵略行為と見る左翼の主張も、乱暴な歴史の見方である)。

 

皇国史観の一部の要素が曲解され、他民族に対して居丈高な言動が存在したのは事実だとしても、そうした言動の責を皇国史観そのものに帰すわけにもいかない。ましてや、宣長国学とは無関係である(宣長の言う「大和魂」や「大和心」とは、紫式部赤染衛門が使った意味である)。

 

むしろ、皇国史観が俄かに宣揚され出した昭和12年以前、日本人以外のアジア人への蔑視感情が対華21か条要求や過激化した日貨排斥運動(現地の邦人が虐殺される事件も起こるほどだった)の頃から蔓延し始めていたことを見逃すべきではない(関東大震災による混乱の最中に、流言飛語によって多数の朝鮮半島出身者が虐殺の犠牲に遭ったのも、こうした蔑視感情と無縁ではないはず。心ある民間の日本人あるいは警察官が暴徒から朝鮮人を守ろうと匿った事例もあるが、折口信夫が憤激し悲嘆に暮れたというほど、多くの朝鮮人が犠牲になったものと思われる)。

 

蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服すということを思い返すべきである。

「新帝国主義」という視点

マルクス主義者ではないどころか、経済理論に関しては、一見相互に矛盾するかに見える、ポスト・ケインズ主義とオーストリア学派を足して二で割ったような立場を採る者なので、当然にその主張の全てに必ずしも同意できるわけではないのだが、1980年代半ばから現在に至る日本政治史の一側面を分析する道具として、「新しい帝国主義」論に部分的な説得力を認めることは可能かと問うてみたい。

 

特に、1990年代からの「改革」を連呼する政治が、一体どのような力学からそうなったのかを分析する際には、一定の有効性を持っていると言えるかもしれない。「反共の闘士」たる右翼を自認する僕でも、そう思うことが時々ある。

例えば、政治学渡辺治や哲学者後藤道夫らによる、戦後日本社会の構造の特徴を捉えた「企業社会論」からの流れを汲む「新帝国主義論」は、数年前にベストセラーとなったデイヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義-その歴史的展開と現在』(作品社)における「ネオ・リベラリズム」批判に先行しており、彼らとは真逆の、「歴史の灰の山にコミュニズムを葬り去ること」にこだわる僕のような者からしても、無視を決め込むわけには行かないものに思えたことも確かだ。

渡辺治日本共産党に極めて近い関係に立つ政治学者であり(おそらく党員だろう)、共産党系の全労連や民医連の集会等にも登壇し、『前衛』(日本共産党中央委員会)や『経済』(新日本出版社)といった機関紙・雑誌の常連執筆者であるだけでなく、『しんぶん赤旗』紙上の「新春対談」において、日本共産党中央委員会委員長を長年務める志位和夫の対談相手になり、更には、不破哲三スターリン秘史-巨悪の成立と展開』(新日本出版社)が世に出るや、不破の対談者として担ぎ出され、『現代史とスターリン-『スターリン秘史-巨悪の成立と展開』が問いかけたもの』(新日本出版社)という共著まで出していることから、党幹部の覚えめでたい研究者であることは間違いない。したがって、その言説も勢い「党派性バイアス」がかかってしまうことは否めない。

 

かつての渡辺は、日本における「新自由主義」の萌芽が1980年代の中曽根康弘政権によってなされた一連の「行政改革(第二臨調)」にあると位置づけ、この動きが、1993年の、細川護熙を首班とする非自民連立政権以降に本格化したと診断していた。その見方は、概ね正しいだろう。細川政権を事実上仕切っていた小沢一郎こそ、正面切って新自由主義的政策を掲げた初期の代議士であり、読売新聞記者とともに執筆したその著書『日本改造計画』(講談社)は、ある種の「新自由主義宣言」でもあった。

 

今でこそ様相を異にしているが、そもそも、自由民主党は伝統的に、農村を強固な基盤とし、日本医師会など各種業界団体といった圧力団体の支持をも取り付けつつ、都市ホワイトカラー層全般にまで徐々にウイングを広げた「国民政党」である。ただ、こうした「国民政党」では、主として財界等の要求が直接通りにくい状況になるのも必至。そこで、財界や都市ホワイトカラー層の要求が直に反映する政策実現のために、自民党に代わって政権を担いうる政治勢力が求められた。この要求に応えて、(表向きは「政治改革」を掲げて)小沢一郎ら当時の竹下派経世会の一部が党を割る形で「新生党」を結成。先に自民党を離党していた武村正義率いる「新党さきがけ」や、元自民党参院議員で熊本県知事を経験した細川護熙が設立した「日本新党」などと連立して、細川護熙を首相に担いで、非自民連立政権を実現させた。

 

もっとも、その後の渡辺は、日本における「新自由主義」の萌芽をいつに求めるかに関して、立場を微妙に変えているかに見える。先のハーヴェイの著書『新自由主義』の監訳者解説として書かれた「日本の新自由主義」という文章では、「戦後政治の総決算」を掲げて1982年に誕生した中曽根康弘政権下で行われた第二臨調を中心とした「行政改革」路線こそが、我が国の「新自由主義」の萌芽となった旨のこれまでの主張を変えている。

 

中曽根政権時に設けられた「臨教審」の場で繰り広げられた「教育改革」に潜むイデオロギー分析を起点として、そこから「資本-労働」関係の再編過程を検証していく『現代日本の支配構造分析-基軸と周辺』(花伝社)や、高度成長から「バブル経済」を迎える前までに形成されていった日本社会の特殊な構造を「企業社会」化の視点から、特に日本に特徴的な企業別労働組合と連合の動向に注視しつつ、「豊かな社会」を支える権威主義的支配秩序の形成と構造を取り上げた『「豊かな社会」日本の構造』(労働旬報社)、日本において新自由主義を正面きって掲げた細川護熙連立政権を支えた小沢一郎の政策の、中曽根路線との親和性を分析した『「政治改革」と「憲法改正」-中曽根康弘から小沢一郎へ』(青木書店)を読めば明らかだ。

 

渡辺治がこれまでの見解を捨てたのは、「新自由主義」が要請される背景には資本蓄積の危機が顕在化されたことがあげられるところ、中曽根政権時においては、そうした資本蓄積の危機が顕在化するような状況は見られなかったので、日本において「新自由主義」が導入される必然性はなかったというのがその理由にあるのではないか(この点については、おそらく異論を持つ読者も多かろうと思われる)。

90年代末から徐々に胚胎し始めたネオナショナリズムの性格と日本の多国籍化の関係を論定したのが、『日本の大国化とネオナショナリズムの形成-天皇ナショナリズムの隘路と模索』(桜井書店)である。この著作は、90年代後半に、藤岡信勝西尾幹二を中心とする「自由主義史観」を標榜する「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、歴史教科書改正運動が起こり、西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞ニュースサービス)や藤岡信勝編著『教科書が教えない歴史』(同)が出され、更には、「薬害エイズ問題」を通して特に一定の若者の支持を得ていた漫画家小林よしのりによる『新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論』(小学館)がベストセラーとなって、歴史認識をめぐる議論が盛んに戦わされていた時期に照応するもので、かつての『戦後政治のなかの天皇制』の見解を若干修正するものとなっているのが面白い。

先へ進む。資本のグローバル化とともに連動してきた日本企業の「多国籍化」と「自立帝国主義化」を、レーニン帝国主義論を下敷きにしつつ、それを大幅に改良した上で分析を試みた『講座 現代日本(全四巻)』(大月書店)のシリーズの序巻を飾った『現代日本帝国主義化-構造と形成』もよく書けた著作である。冷戦終焉後に世界を覆い尽くした経済グローバリズムに基づく米国の帝国主義的行動や、テロに走るイスラム原理主義の発生との関係を分析し、ネグリやハートの『帝国』(以文社)や藤原帰一『デモクラシーの帝国』(岩波書店)の帝国論いずれをも批判した共著『講座 戦争と現代1「新しい戦争」の時代と日本』(大月書店)所収の論文も、詳細な分析・記述がなされており、特に、藤原帰一『デモクラシーの帝国』に対する批判の冴えは光っていた。

この見解は、主として後藤道夫に影響されてのことだろうが、日本共産党の主張と完全に同一であるわけではない。渡辺・後藤の議論は、戦後日本経済の復活過程をどう見るかという点に関して、日本共産党の「公式見解」であった「従属帝国主義論」とは異なる、「自立帝国主義論」に軸足を置いた傾けた議論を展開している。あからさまに「反体制」の旗印を掲げ、そのために書くものは勢い、「社会運動家の書き物か」と見紛う一面もある。この点を欠点と見るかそうでないか、意見の分かれるところだろう。

研究の一端を見ると、元々は、憲法学者の奥平康弘の下で治安維持法の研究から出発したわけだが、東京大学社会科学研究所在籍時には、名著との定評のある『日本国憲法「改正」史』(日本評論社)を皮切りに、戦後の象徴天皇制が、その時々の政治過程により役割と機能を変質させられていった次第を批判的に分析した『戦後政治史のなかの天皇制』(青木書店)を著し、本格的に憲法学から現代日本政治史の方に軸足を移し始め、遂には現代帝国主義論へと発展した。

但し、小泉純一郎政権の性質を一連の「構造改革」政治の延長として捉える『構造改革政治の時代-小泉政権論』(花伝社)や、安倍政権の分析に関する『安倍政権論-新自由主義から新保守主義へ』(旬報社)以降の著作は、これまでの主張に時事的課題を付加した食傷気味の感あるものに劣化しており、以前のような分析の冴えは見られなくなっていった。講演録が多くなったというせいもあるだろうが、かつてのような研究者としての論文というより、政治活動家としての文章という側面が目立つ。


第二次世界大戦後の世界経済をマルクス主義的視点から整理すると、巨大株式会社の形態で、主として重化学工業を発達させてきた列強資本が、過剰資本の投資領域を拡張しようと世界分割戦争を繰り広げたのが、20世紀前半の資本主義の特徴であった。この要因は、過剰資本を吸収する内部的有効需要を創出しきれなかったことにある。

 

1950年代以降は、金融と産業をつなぐ金融資本の組織性が耐久消費財を中心とする重厚長大型設備投資を実現していく経済システムへと転化していった。米国を中心とする資本主義世界の協調路線・通商拡大路線が安定的な国際通貨体制とともに冷戦構造を支える政治経済秩序とされ、これにより先進諸国の安定的な高度成長がもたらされた。

 

冷戦下での巨大な軍事費支出は、生産能力の過剰を吸収する有効需要を創出し、派生的産業技術によって、耐久消費財の多様化・高度化がもたらされ、その結果として、他の先進諸国の回復成長を助長しもした。他方で、先進諸国の耐久消費財中心の高度成長過程において、「第三世界」諸国の経済はモノカルチャー化による単一の一次産品輸出に特化され、不利な交易条件を押し付けられたために停滞を極め、政治経済的混乱が反復される状況が常態化した。

先進資本主義諸国はというと、ケインズ主義的政策によって完全雇用の維持と福祉の充実が第一義的課題として認識されてくるようになった。しかし、ケインズ政策では慢性的なインフレを抑えることが困難であるとの非難がなされるにつれて、「反ケインズ革命」が経済学の世界で巻き起こり、米英では、1980年代の「レーガノミクス」や「サッチャリズム」に見られるように、緊縮的財政金融政策によるインフレ沈静化、公営企業の民営化と、それに伴う労働運動への攻勢、情報技術の進展ならびにそれを利用したオートメーション化による非正規労働者の増大、企業の多国籍化による途上国低賃金労働者の利用拡大、労働力商品の供給制限、労働者の所得上昇の抑制ための法制度再編(日本でも労働法制の改訂、商法改正やその帰結としての会社法制定などに典型的に見られる)が、「資本の論理」のもとに推し進められた。

 

労賃コストを大幅に圧縮して自己金融化傾向を強め、過剰設備を抱えがちになったことが金融の投機的バブルに動員されやすい累積資本を生む土壌が形成されてもいった。そんな中、米国はドルの国際基軸通貨特権のために、国際収支赤字を積み重ねても経済が維持できる地位を享受しつつ、他方で主要諸国は、ドル債権を外貨準備として蓄積していった。こうした大きな枠組みの下、金融の「中心」とその「周辺」との非対称的関係が固定化され恒常化され拡大化されていったというのである。 

この点、日本は内需中心の経済体制であり続けたので、米国と比べて、資本のグローバル化はむしろ遅れていた。日本企業の多国籍化の流れが本格化するのは、むろん円高の影響も大きいが、1990年代に入ってからである。但し、そのための準備が敷かれたのは、やはり中曽根政権であったと見るのが妥当ではないか。この時期、イラン・イラク戦争の際に、ペルシャ湾自衛隊の掃海艇派遣の打診が米国からなされ、中曽根政権はこの要請に応えるべく自衛隊派遣に踏み切る一歩手前だった。時の官房長官後藤田正晴閣議にかけられた際には断固署名はしない意思を中曽根に伝え、結局実現しなかったが、その自衛隊の海外派遣が「国際貢献」という名の下に実行されたのは、1990年の湾岸戦争後のことであり、この動きは、日本企業の多国籍化の流れに無縁とは言えない。

 

時折冴えた分析を見せる渡辺治の著作に共通している欠点は、「敵」としての「支配層」なるものを対立者に据え、その「支配層」が一個の主体として現代日本の「新たな帝国主義化」に好都合な国内体制の再編を企図するという構図を描き、この動きへの対抗主体として過剰な期待を担わされている「市民運動」・「労働運動」を称揚し、対抗戦略として「新福祉国家」を打ち出すというストーリーが陳腐に過ぎるという点であろう。しかも、始めに結論ありきで、予め素描した構図を上手く裏づけできるに相応しい好都合な事実関係を拾い集めて自説の補強とする方法が露骨に現れ、定量的データに支えられた「社会科学」的言説にはなりえていないという粗も目立つ。

 

ともあれ、1980年代から90年代の再編過程を経て今日に至る日本社会に対する一つの視点として、渡辺治の「現代帝国主義論」を参照するのは無駄ではないだろう。

ヘッジファンドへの誤解?

金融工学といっても、とてもじゃないが「科学」と呼べる域には達しておらず、その胡散臭さは身内からも指摘されて久しい。数学や物理学の研究者からすれば、「似非科学ではないか」との疑念を抱かれるだろうと想像される。確率論をその定量的側面だけではなく定性的な側面まで含めて学べば学ぶほど、そういう疑念が増してくるのも無理はない。

 

とはいえ、ある程度役には立つのも確か。例えば、ヨーロピアン・コールオプションプットオプションの拡張に当初から数値解析手法が用いられてきたわけだが、これらが更に応用され、オプション評価の簡易化や複製ポートフォリオの構築に必要な数値計算が可能になった。この点で、ブラック、ショールズ、マートンによる確率偏微分方程式のモデル(BSM)の貢献は大きい。もちろん欠陥もあるし、科学的理論であるかは大いに怪しい。

 

BSMは、我が国を代表する数学者の一人である伊藤清による確率微分方程式の応用例でしかないが、伊藤の確率解析そのものは難解な代物であって、正確に理解できている者がどこまでいるのか怪しいというのが、僕の率直な感想である。計算自体はさほど難しいものではないが、それすらできない者もいる。酷いのになると、単純化されたリニアな数値解析手法としての二項モデルの段階でギブアップというのが日系企業にはウヨウヨいる。これじゃあ、点でお話にならない。

 

BSMの基本的発想は、至極単純。無茶苦茶乱暴に簡略化すると、連続的な分布を単純な離散分布に近似させるというアイディアである。すなわち、時間を離散的に複数の期間に分割して、同一期間内において資産価格の上昇と下降の二者択一がなされると仮定する。任意の分岐点では資産上昇か下降しかありえないわけだから、各期間の資産上昇率及び下降率双方を固定する。デリバティブ価格と等しいポートフォリオを原資産と安全資産と合わせて各期間ごとにデリバティブ価格を複製するポートフォリオを構築するので、結果としてデリバティブの現在価格を無裁定原則により求めることができるというもの。

 

BSMの基本的アイディアは、任意の株式の期待収益率と市場の株式からなるポートフォリオの期待収益率との関係を明らかにしたウイリアム・シャープの資本資産評価モデル(CAPM)の発見にその基礎をおく。しかし、CAPMというのが実は怪しいのだが、とりあえず脇に置いておこう。このCAPMを使って、オプション価格と時間変化および資産価格の変化に対するオプション価格の変化を表す関係を示す偏微分方程式が導出される。

 

導き出されたBSM方程式は、現在の資産価格、オプションの行使価格、資産収益率のボラティリティ、満期までの時間、安全利子率という5つの変数からなる標準的ヨーロピアン・コールオプションの価格を導出する方程式だ。このBSMが「世界を変えた公式」と大仰な表現でもって喧伝されたが、ロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)社破綻と「ウォール街の借款団」による約36億ドル投入による救済という事後処理並びにその後の「リーマン・ショック(米国では「リーマン・ショック」という表現はあまり用いられない)」のせいもあって、ヘッジファンドとそれが駆使する金融工学が、日本では特に槍玉に挙げられた。

 

しかし、批判者たちの批判のポイントはほとんど全て的外れなもので、致命的な核心部分を突くような批判は、特に日本ではなされなかった。中でも、「過度の数理化が誤りだ」いう類のイチャモンはピンボケもいいところ。こういう酷い難癖は、数学がロクにできない者による戯言であるのが大半だ。

 

何より、ヘッジファンドは世界の金融システム全体にとって危険をもたらす要因だとして「悪魔視」する声すらも沸き起こったことが驚きだった。そうした批判は、ヘッジファンドが金融システムを安定化させる特徴を併せ持つという側面を無視しており、冷静な分析に基づく批判ではない。確かに、モデルを使用する場合、その可能性と同時にその限界をも認識すべきであり、この点の意識が、投資銀行ヘッジファンドなどで勤務する者の一部に足りてなかったという指摘は正しい。とはいえ、その程度の認識はたいていの者は素人に言われなくとも持っていた。

 

ヘッジファンドとは、ざっくり言うと、元々割高の株式を空売りしてその資金を利用し割安と考えられる株式を購入するというごく当たり前の簡単な戦略をとることから始まった。一方の株式から生まれた損失を他方の株式から生まれる利益で相殺する、つまりはポートフォリオがヘッジされるよう、リスクマネジメントの機能を有している。

 

本来、ヘッジファンドとはリスクを請け負うビジネスであって、その存在は、市場の効率化と流動性の向上をもたらしつつ、同時に市場のアノマリーを解消するのにも寄与している。そうした側面を正当に評価せず、貧しいイメージに基づく偏見を巻き散らかした自称「インテリ」による非難が幾度となく繰り返されたことを思い出しておこう。そうした非難は、主として人文系の大学教員や評論家の類からなされたわけだが、経済にも金融にも疎い者たちによる総じて低レベルな「居酒屋漫談」の域を出るものではなかった。

 

現代金融理論の世界では、ポートフォリオ構築は伝統的に2つの中心的な仮定の少なくとも1つの下で動いてきたと言える。

 

制約は効用関数から派生したものであり、原資産のリターンの多変量確率分布は完全に既知のものとされる。実際には、パフォーマンス基準と情報構造の両方が著しく異なるわけだが、リスクを取るエージェントは、ポートフォリオのリターンのテールを制約して、VaR、ストレステスト、あるいはCVaRの条件を満たすようポートフォリオを構築することが半ば義務づけられている。確率分布の残りの特性については、ほとんど無知のままである。

 

これとは別の方法もある。制約や期待に応じてエントロピーが最大になるポートフォリオ分布の形状を導くというもの。確率分布の左側の制約は、従来の理論の他の考慮事項を無効にするほど強力であり、関連性の限られた個々のポートフォリオ成分を表す。そうすると、一方の側で最大の確実性、もう一方の側で最大の不確実性が見出せる構造を利用しようというものだ。日本でもベストセラーになった『ブラックスワン』の著者、元クオンツ系トレーダーで数学者・哲学者・作家で、テールヘッジ戦略で知られるヘッジファンド「ユニバーサ・インベストメンツ」科学顧問のレバノン系米国人ナシーム・ニコラス・タレブの採っていた「ダイナミック・ヘッジング」という投資戦略は、基本的にこの路線に乗っている。

 

バーゼル規制以降、ある制度的枠組みで作業する場合、オペレーターとリスクテイカーは、規制により義務づけられたテールロス制限を使用してポートフォリオにリスクレベルを設定している。それらは実用性を無視して、ストレステスト、ストップロス、VaR、CVaR及び同様の損失削減方法に依存している。

 

制約の選択に組み込まれている情報は、控えめに言っても、リスクに対する欲求と望ましい分布の形についての意味のある統計でしかない。一方オペレーターは、あるタイムストラクチャーで直面する可能性のあるドローダウンよりも、ポートフォリオの変動にあまり関心がない。更に、ポートフォリオ内の成分の同時確率分布を認識しないで最大リスクに基づいた配分方法で損失を制御できると考えていたりする。

 

しかし、効用と分散の従来の概念を使用できるが、それらに関する情報がテールロスの制約に埋め込まれているため、直接使用することはできない。ストップロス、VaR、CVaR及びその他のリスク管理方法は、損失領域のマイナス側である分布の1つの断片のみに関係していたりする。

 

歴史的に見ると、ファイナンス理論はパラメトリックで堅牢性の低い方法を優先してきた。意思決定者が将来の見返りの分布について明確で不可謬な知識を持っているという考えは、実用的・理論的有効性が欠如しているにも関わらず存続してきた。例えば、相関は不安定すぎて正確な測定を行うことができない。これは、分布とパラメトリックな確実性に基づいている。これはこれで研究には資するかもしれないが、責任あるリスクテイクには対応していない。

 

この点に関して、およそ2つの考えがある。1つは、経済学の理論にも見られるような高度にパラメトリックな意思決定に基づいた考え(その典型がマーコビッツ)。もう1つは、「ケリー基準」として知られている考え。但し、ケリー基準は、平均値などの将来の収益に関する正確な知識を必要とする。この欠陥を克服するには、リターンに関する不確実性に対応できるようでなければならない。オペレーターはデリバティブやその他の形態の保険、またはストップロスに基づく動的ポートフォリオ構築によってのみテールを制御できる。収益に関する最大の不確実性を仮定し、リターン分布を制約の最大エントロピー拡張と等置する。これは、非テール・ゾーンでのリターンまたはログリターンの期待だけでなく、テールの動作に対する統計的期待として表される。

 

数理ファイナンスの文献でエントロピーを扱っているほとんどの論文は、最適化基準としてエントロピーの最小化を使用している。例えば、最小エントロピーマルチンゲール基準の単一性を示し、エントロピーの最小化が、期待される最終益の指数関数の最大化に等しいことを示すという具合に。要は、資産配分の不確実性の認識としてエントロピー最大化が捉えられている。

 

このように、次から次へと新規な論文が量産され、しかも「玉石混交」といった有様。その内9割はゴミ同然だけど、これは全ての知的生産活動に当てはまりそうだ(笑)。

You’ve got to hate to make money!

僕自身の専門分野に関わる内容について直に触れることは職業柄できれば避けたいことなのだが、あまりに面白く、しかも当該分野に携わっていない一般読者にとっても気軽に読める好著があるので、この場を借りて紹介したい。

 

我々が普段書店で目にする投資助言についての従来の通俗本とは一線を画した、マーク・スピッツナーゲルの著書The Dao of Capital(『ブラックスワン回避法』として邦訳されている模様)は、投資助言本のイメージとは真逆の方向を歩んでいる一点で読む価値がある著書である。事実、スピッツナーゲルのこの著書は全300頁ほどの分量だけれど、投資に関する事柄が書かれているのは終盤の1割~2割ほどの部分しかなく、それよりも前は、投資についてほとんど触れられていない。

 

数年前に出版されたSafe Haven: Investing for Financial Storm(これは残念がら邦訳がない)にも言えることだが、お手軽なハウツー本を期待していた読者を幻滅させるものだから、始めから安易に模倣可能なノウハウを得る目的に本書を手に取る読者にとっては得られるものは皆無であろう。

 

マーク・スピッツナーゲルは、この分野に関わっている者ならば誰でもその名を聞いたことのあるヘッジファンド業界の変わり種ユニバーサ・インベストメンツの代表で最高投資責任者で、ユニバーサ・インベストメンツの科学顧問を引き受けている、世界的ベストセラー『ブラックスワン』の著者で現在は数学者・哲学者・作家でもあるナシーム・ニコラス・タレブが若くしてクオンツ系トレーダーを引退してニューヨーク大学クーラント数理科学研究所の教授を務めていた頃の教え子でもある。

 

スピッツナーゲルの目的は、読者に「迂回することの重要性、忍耐強く迂回路に沿っていくことによって最終手に手にしうる戦略的利点」についての考え方を提供することである。スピッツナーゲルが本書でかなりの分量を割いているのは、彼が支持するオーストリア経済学派とその主唱者から学ぶべき教訓である。つまり、本書は、市場を現実の複雑性と不確実性を備えた市場の動的プロセスとして認識する思考の重要性を強調するものとなっている。

 

本書を紐解くと、読者はいきなり、「あなたはお金を失うことを愛し、お金を稼ぐことを嫌い、お金を失うことを愛し、お金を稼ぐことを嫌う...」という文言から始めっていることに面食らうことだろう。スピッツナーゲル自身はシカゴの先物市場の若いトレーダーとしてこれらの言葉を暗記しました。彼はシカゴ貿易委員会で有名なエベレット・クリップのために働いていたピットトレーダーだったことが関係している。そう、先の呪文はクリップの口癖だったのである。これは、投資への具体的なアプローチであり、「即時的利益の直接的なルートを追求するのではなく、即時的損失が発生しても、困難な迂回路すなわちより大きな潜在的利益のための利点を生み出す中間ステップを追求せよ」という教訓だった。

 

スピッツナーゲルは、その投資戦略の根底にある理論を「ラウンドアバウトアプローチ」と呼んでいる。オーストリア学派の主な教義を単に繰り返すのではなく、スピッツナーゲルは新たな意味を付加する。

 

迂回アプローチは理解するのがなかなか難しいが、これは、投資家が本質的に時間の不一致の問題などを克服する必要があることを意味する。スピッツナーゲルに言わせると、彼の「時間間投資アプローチ」に従う投資家は、市場で他の投資家をアウトパフォームすることができ、したがって、目標を達成するのに非常に効果的であるというのだ。この考え方の元は古代シナに根ざした理論の洞察から恩恵を受けている。

 

迂回アプローチは、道教が人生と戦争について考えてきたことに端を発しているようである。道教の「道」という考えは紀元前500年頃に出現した。その主な主張は、何かへの最良の道は反対の道を通っていると指摘している。スピッツナーゲルは、

 

負けることによって利益を得て、得ることによって失う。勝利は1つの決定的な戦いを行うことからではなく、後でより大きなアドバンテージを得るために今は待って準備するという回りくどいアプローチから生まれる。

 

と言う。スピッツナーゲルは、彼の迂回アプローチを説明するために、武術のアナロジーを使用している。すなわち、相手を空虚に誘い込み、それによってバランスを破壊してアドバンテージを獲得し、最終的に決定的反撃に戻る必要がある。戦いは、『老子』に書かれているように、風圧の下で屈服しないと折れてしまう木のようなものである。

 

ラウンドアバウト投資」のもう一つの比喩は「針葉樹効果」である。針葉樹は松ぼっくりを運び、過酷な気候条件で種子を保護し広げることができる。それにもかかわらず、初期段階における針葉樹の成長率は、森林内の競合するものと比較して遥かに遅い。しかし、これは進化の「意図的な」結果である。実際、針葉樹は、資源の使用が非常に効率的になり、競合する植物と比較して生きながらえるため、つまり強い根と厚い樹皮を発達させていることを意味する「資産」を組み立てているため、早い段階で遅れをとる。ここでも、時間間要素は針葉樹の成功にとって決定的となる。スピッツナーゲルは、この2段階プロセスの重要性を強調する。そう、

 

究極の目標を達成するための中間ステップを追求すること

 

プロイセンの将軍クラウゼヴィッツやシナの孫子のような軍事戦略家も、最終的な戦闘目標を達成するために迂回アプローチを展開した。この戦略的利点は、「守」で説明されている。『孫子』の言葉を借りれば、

100回の戦いで100回の勝利を収めることは、最高の卓越性ではない。最高の卓越性とは、全く戦わずに敵の軍隊を征服することである。

 

指揮官または起業家ないし投資家は、行動に移る前に、全ての外部要素を考慮に入れ、最適な位置を積極的に模索する必要がある。したがって、「守」は最初にセットアップの位置的利点を求めることである。時間的および目的論的な手段-エンドフレームワークは、何世紀も後にオーストリア学派の経済理論の中心となる。

 

現実世界の経済現象をどう考えるか。純粋に経験的発見または普遍的原則に頼るのか。これは、19世紀の終わりにオーストリア学派の創設者であるカール・メンガーにとって基本的な問であった。メンガーの『経済学原理』は、現在もなお、経済学の「古典」の1つである。歴史的発見は未来予測に役立たないが、観察に基づく論理的推論は、人間の行動の影響についての説明を「改善」することができる。オーストリア学派の「方法論的個人主義」は、特にメンガーを、実証主義的な意味での歴史的出来事のみに基づいて経済的「理論」を構築したベルリンを拠点とする歴史学者と、特定の普遍的な経済法則に基づくカール・メンガーの演繹的アプローチとの間の有名なMethodenstreit(方法論論争)に導いた。

 

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの言葉を借りれば、オーストリア学派の目的は「経済理論を健全な基盤に置くこと」だった。これは、経済プロセスに関する確固たる知識をもたらす。簡単に言えば、経済学者は、研究でどの事実を考慮するべきかを最初に知り、それらの事実をどのように解釈するかを知るために、先行理論を必要とする。したがって、既存の健全な経済理論なしに事実を解釈することは不可能である。オーストリア学派は、根本的な方法での経験的観察に反対してはいないが、その支持者は、人間の行動と個人の選好、及び原因と結果の法則、目的論的な「手段-目的フレームワーク」から導き出された、特定の先験的な真の仮定(公理)があり、それによって科学における反証可能性についてのポパー的アプローチに挑戦することを示唆している。

 

メンガー、ジェヴォンス、ワルラスのもたらした発見は、「限界革命」と「主観的価値の理論」(その後、オーストリア学派第二世代の経済学者であるオイゲン・フォン・ベーム・バヴェルクによって支持された)にも繋がり、それによってカール・マルクス資本論』の労働価値説などの客観的価値論に疑問を投げかけた(もっとも、マルクスは必ずしも投下労働価値説を採っていたわけではないと主張する廣松渉の見解もあろうが、ここではその問題は本質的ではない)。それ以来、経済理論は、その財の市場価格を決定するのは、個人の選好または需要、つまり財の効用に関する誰かの主観的な知識(特定の財に対するすべての市場参加者の需要への移行)であることを「知っている」。西欧の水と比較してダイヤモンドの不可解なほど高い価値(または価格)に関する長年の議論はすべて、新たに獲得した知識によって解決された。新古典派経済学の非建設的なenvy for physicsに反して、経済学の研究を真の社会科学にするのは、消費者と生産者のこれらの主観的な期待と選好である。

 

オーストリア学派の基本は、時間の役割を強調することである。結果として、そして後で見るように、スピッツナーゲルの投資アプローチにおいて、時間は大きな役割を果たす。19世紀の反保護主義のフランス人であるクロード・フレデリックバスティアは、経済を一連の時間間の交流として理解していた。政府の政策は、簡単に認識できる即時的影響(「目に見える」)だけでなく、意図しない悪影響をもたらす可能性のある一連の効果(「見えない」)をもたらす。ヘンリー・ハズリットの『経済学の一つの教訓』の言葉で、経済学が実際に何であるかを説明する文を見つけることができる。

経済学の技術は、単に直接的なものだけでなく、あらゆる行為や政策のより長い影響を見ることにある。

 

ベームバヴェルクは、経済学は時間と密接に関連していると考えていた。1930年に包括的な資本理論を確立したのは、ベームバヴェルクである。彼は資本の生産を、先見の明のある起業家によって変化する状況に動的に調整されなければならない時間的プロセスと見なした。Produktionsumwegは、後の消費を増やすための資本と時間の犠牲を意味する。「守」は、我々が今日の生活を送ることを可能にする繁栄を生み出す。しかし、直接的な方法は、富への小さな貢献しか許さない。生産のより迂回的プロセスは、より高い生活水準を意味する。行動ファイナンスにおける双曲割引の今日的概念である「現在への偏見」を既に考慮に入れていたのもベームバヴェルクだった。したがって、時間は極めて主観的な要因である。これは、スピッツナーゲルが読者に「資本の道」に従うことによって克服する、または「進化的適応」することを望んでいる固有の「人間性」である。

 

スピッツナーゲルは、我々が通常犯す間違いを指摘しながら、ウォール街の焦点は完全に現在に焦点を当てていると批判している。実際、「時間の不一致は、モメンタム投資から金融政策のメリットまで、ウォール街の多くの従来の知恵の源である」。さらに、トレーダーは、ウォール街に未来がないかのように行動しながら、ラウンドアバウト投資を無視することで報酬を受け取ります。ナシム・タレブは、それらを「身銭を切る」ことに欠けていると批判している。

 

オーストリア学派が我々に伝えたもう一つの重要な洞察は、ラウンドアバウト生産の増加の結果として、より多くの高次の商品(例えば、より良いツール、より効率的な製造施設)に繋がる節約は、持続可能な成長の真の推進力であり、最終的には文明の原因であるということである。真の貯蓄は、需要と供給の側面の結果である市場金利によって操縦される。ベームバヴェルクは、利子を、人間がお金や資本を好む自然な傾向を説明する時間のコストとして見た。利息はまた、「投資を行うことのリターンと慎重さ」を決定する価格を表している。言い換えれば、自然市場金利をアウトパフォームした場合にのみ、投資決定に成功する。したがって、オーストリア学派のフリードリッヒ・フォン・ヴィーザーの別の概念である機会費用は、それぞれお金の投資の資本生産の真の経済的コストを決定する客観的な方法である。

 

市場金利が低いということは、消費者の時間選好が低いため、貯蓄率が高いことを示している。このような状況下では、起業家は借入率の低下に後押しされるため、よりラウンドアバウトな生産プロセスに投資する。このオーストリア学派のコンセプトの縮図は、後の生産段階で膨大な時間を節約するために膨大な時間を展開したヘンリー・フォードだった。ラウンドアバウト生産は経済を助けるだけでなく、展開された資本の所有者にとっても有益である。成功した起業家は、市場で「誤った価格」を求めることに熱心である。その後、市場プロセスは、このプロセス中に静的なポイントに達することなく、最も収益性の低い起業家から最も収益性の高い起業家へのリソースのリバランスを提供する。したがって、イスラエル・キルズナーによれば、誤った価格は成功した資本家の「警戒心」によって排除される。

 

消費される代わりに、資本は再投資され、新たに蓄積され、それによって経済全体が進歩する。オーストリア学派の理論における「起業家精神」の重要な役割は、この点で顕著である。起業家は、ミーゼスの言葉を借りれば、「利益を約束する事業運営のための市場の将来の構造についての彼の意見を利用することに熱心である」投機家である。起業家は、市場の「壮大な恒常性プロセス」の主人公である。彼または彼女は、市場のエンジンを動かしながら、検索し、発見し、試行し、失敗する人である。

 

更に、スピッツナーゲルはサイバネティックスの観点から市場プロセスを調べる。サイバネティックスは、針葉樹の森や資本市場などのシステム内の制御と通信の科学である。サイバネティックシステムは、「様々なプレーヤーの相互作用により変化する状況に内部的に通信し、対応するシステム自身の能力に依存する内部ガバナンスとガイダンスによるバランス」を実現する。市場は完璧なプロセスではない(オーストリア学派の誰も反対を主張していない)。実際、市場価格は、効率的資本市場に関する調査結果から予想されるものと矛盾することがよくある。エラーが発生し、リソースが非効率的に割り当てられる。しかし、サイバネティックシステムに介入しようとする試みは、介入の理論的根拠を超えた逆説的で有害な影響で終わる可能性がある。「秩序とバランスの代わりに、最終的には破壊につながる歪みがあります」とスピッツナーゲルは言う。フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクが言ったように、市場は「自生的秩序」である。最初は、まとまりがなく、恣意的に見えるものは、完全に意図的で機能する実体である。秩序は知覚された無秩序の逆説的な結果である。消費者の選好、供給不足、富に関するローカルに分散した知識は、普遍的な価格システムを通じて市場参加者に届く。価格にはバスティアの「目に見えない」情報が含まれているのだ。

 

中央計画経済とは異なり、生産者と消費者がそもそも市場経済の一部となり、市場経済から利益を得ることを可能にする情報。情報、特に負のフィードバック(会社の損失、破産、支払いの不履行など)がなければ、市場経済のようなシステムは適切に機能しない。市場参加者は、負のフィードバックループが介入主義によって抑制された場合、新しい状況に適応することはなく(また、その必要もなくなる)、それによってシステムの先行するエラーを修正する。市場の「進化」プロセスは最終的に停止するだろう。

 

ここでも、互いに競争しながら価格と商品の「ジャングル」に侵入するのは起業家である。しかし、ハイエクが述べたように、介入は、せいぜい負のフィードバックメカニズムを延期するのに役立ち、最終的にはすべての中で最も否定的なフィードバック、つまりクラッシュに終わるだけである。

 

即時性に対する我々の強い生来的欲求に加えて、スピッツナーゲルが強調するように、投資家に本当の資本主義的アプローチを追求しないように促すのは現代の金融政策である。中央銀行の金融政策は、特に金利の引き下げ(ゼロ下限を下回る場合でも)を通じて、市中銀行の信用拡大を刺激し、したがって、投資不良や人為的な資産価格の上昇など、市場の大きな歪みを引き起こす。

 

スピッツナーゲルは、投資決定を行うための中心的なツールとして、「ミーゼス定常指数(MS指数)」を使用している。発散するMS指数は、「定常性」から離れた歪みの準証拠と見なすことができる。定常経済では、「総利益または損失はない」、言い換えれば、全体として、資本収益と取引コストはバランスが取れている。MS指数1は、歪みのない市場の兆候であるという。したがって、MS指数は、株式市場の合計値を企業の純資産合計で割った有名なトービンのQ比率に似ている。

 

中央銀行は自由市場経済の敵対者である。市場が弱さの兆候を示した場合、消費者の時間選好の低下の結果としての貯蓄による金利の低下と最終的には矛盾するにもかかわらず、金利を引き下げるために命令されるのだ。

 

ここで、ミーゼスのオーストリア景気循環理論(ABCT)が登場する。中央銀行流動性供給拡大政策は、全ての市場参加者の一時的かつ幻想的な繁栄に繋がる。市場金利を上回るリターンを生み出せなかった起業家でさえ、今では利益を上げてビジネスを行っているように見えるかもしれない(MS指数>1)。以前は明らかに不採算に見えた一部のプロジェクトは、基礎となる計算メカニズムが変更されたため、収益性が高く実現可能に見える場合がある。マネタリーベースの拡大の結果として、物価上昇が生じる可能性がある。この発展は通常、特に失業率が高い時期には政治的に日和見主義的だが、長期的には経済の資本ストックを低下させる。したがって、それは持続可能な雇用基盤の助けにはならない。更に、介入は、人工的ブームの前と同じように、(デフレによって)出発点に戻った後の富さえ破壊してしまう。ミーゼスはこの現象を「資本消費」と呼んだ。スピッツナーゲルは、最近の不況と危機の間に受け入れられた金融対策を分析している。

 

スピッツナーゲルは更に一歩進んで、双曲割引(Hyperbolic discounting)の概念をミーゼスの資本消費理論に統合させる。これによると、投資家はますます近い将来に焦点を合わせている。これは、世界金融危機後にG20の政治家が望んでいた結果ではない。人工的ブームが資本ストックを劣化させたため、資本ストックが回りくどまりが少なくなったと強調している。

 

対照的に、オーストリア学派の分析は通常、真の貯蓄の額が少ないことと比較して遠回り過ぎず、むしろ「回り道すぎる」プロジェクトの「誤投資」を指摘している。この点で、スピッツナーゲルは、多くのオーストリア学派とは僅かに異なる見解を提供している。これは、金融政策の悪影響を理解することに関心のある人々だけでなく、最近の危機に関する決定的なポイントとなるだろう。

 

そのような人工的ブームの後には、必然的にクラッシュが続く。経済は、全体として、純資本消費のために後退する。景気後退は破壊的であるだけでなく、「カタルシス、浄化プロセス、創造的破壊のエージェントと見なされなければならない」。

 

同様の話は、公園の3分の1近くが焼失または火災被害を受けた1988年のイエローストーン国立公園でも見られる。逆説的だが、大火事の根本的な原因は、実際には消火活動だった。1988年以前は、洗浄プロセス、つまりイエローストーンの場合は小さな炎が発生することもなかった。つまり、森林や牧草地がより自然な状態に戻る前に、歪んだ状態が維持されていた。同じことが基本的に経済にも当てはまる。

投資は、森林への播種が土地、栄養素、水、日光を超えることができる以上に貯蓄を超えることはできない。

 

政府と中央銀行は、「適応目的論的プロセスを短絡させる」ことによって、市場のサイバネティックプロセス、ホメオスタシスを弱体化させる。それによって多くの誤った価格が維持され、資源を解放し、より警戒心の強い起業家によってより効率的かつ適切に使用されることは許されない。但し、政府機関は、金利をお金の価格、そして最終的には時間の価格など、価格を操作する権利を合法的に持っている。このような状況下では、特にラウンドアバウト生産の分野では、起業家の会計と先見性は絶えず歪んでいる。最終的にシグナリング機能を失うことになる。これらの操作は、ハイエクが「知ったかぶり」と呼んでいるものの現れとして起こる。それは、我々の「中央計画局」の人々に全ての市場参加者の「均一な」時間選好が何であるかを知っていると偽って信じさせる社会現象である。経験的観点からであれ、規範論的観点からであれ、これが絶対に馬鹿げていることを確認するのに多くの知恵は必要ないだろう。

 

オーストリア学派は、市場ベースの金本位制などの健全なお金に固執することにより、前のブームを回避しようとする。したがって、より大きな次元のクラッシュが続く必要はない。しかし、現実がこの理想主義的なイメージとは異なることはわかっている。市場の歪みは単に経済成長の負の副産物ではなく、もっぱら金銭的な現象であるという知識を武器に、スピッツナーゲルは我々に投資助言を提供している。

 

本書の中心的な教訓は、市場は完璧ではないが、永続的に修正されており、それが純粋に人工的な休息状態を達成することは決してない理由であるということである。実際、すべての投資家がすべてを知っていれば、市場に流動性はなく(したがって、完全な合理性の仮定は現代経済学の支持者によって非常に誇張されている)、不確実性は単なる危機現象であった。さらに、市場が介入主義的体制によって歪められていなければ、いかなる市場取引も「両当事者にとって相互に有益であると認識されなければならない」。それにもかかわらず、事実は、我々は非常に歪んだ市場環境に住んでいるということである。また、歪みは一時的な混乱に限定されていることもわかっている。

 

この威圧的な環境にもかかわらず、スピッツナーゲルは読者に有利な戦略的位置を占め、「これらの予期しないブームとバーストを利用する」ように助言している。では、ラウンドアバウト投資家のエントリーポイントは何か。

 

緩和的金融政策を通じて、株式市場は確実に影響を受ける。資産価格を金銭的に吹き飛ばすことによる投資は、中央銀行の意図に反して、滅多に起こらない。したがって、オーストリア学派景気循環論は株式市場の変動に適切に反映され、インフレによる定常的な逸脱を永続的に修正する。スピッツナーゲルがデータに基づいて示すように、歪みの各期間で、深刻な株式市場の暴落が続く。さて、ここで投資家は何をすべきか。最も単純な戦略は、MSインデックスが低い時(<1)に買い、高い時(>1)に売ることである。スピッツナーゲルはこれを「基本的なミーゼス流投資戦略」と呼んでいる。専門家の間での一般的な(逆張りの)投資戦略である。データを見ると、ミーゼス流投資戦略は株式市場を年間2%以上アウトパフォームしていた。

 

しかし、それは誰かのお金を投資するための非常に回りくどい道である。アウトパフォーマンスを達成するには、平均して数年のアンダーパフォーマンスが必要。株式市場が再び活況を呈し始めると、当面の利益が痛々しいほど犠牲になる。心理的および経済的に、他の人がすぐに利益を上げている時に戦略を厳密に追求し続けることができる投資家はごくわずか。基本的には、「歪みが高まっている時に長期間市場から離れる」ことを意味し、後でより良い投資機会を得るために現金(または債券)を保持することを意味する。即時性に対する我々の時間選好は、金銭的な水門が大きく開かれ、ピアグループとビジネスの圧力が高い時にさらに拡大する。これは、「守」のアプローチを追求するのではなく、何度も直接的な道を辿ることに誤誘導させる。

 

ラウンドアバウトアプローチから生じる実際的な問題は、1980年代以来のMS指数(>1)のほぼ継続的な高値である。言い換えれば、過去35年間、基本的なミーゼス流投資戦略に従いたいラウンドアバウト投資家のエントリーポイントはあまりなかった。

 

しかし、スピッツナーゲルは、2つのアプローチを採用している。

 

1つ目は、原株価指数(S&P総合指数など)にアウト・オブ・ザ・マネー・プット・オプションを使用して、株式ポートフォリオのテールヘッジすること。したがって、歪みの大きい環境では、「株式と現金のどちらを所有するかの第三の選択肢」がある。さらに、「手段」であるテールヘッジは、MSインデックスが再び低くなった時に必要な「ポケットマネー」を提供する。金融政策との明らかな関係から、スピッツナーゲルはテールヘッジ戦略を「中央銀行ヘッジ」、または「オーストリア学派的投資法I」と呼んでいる。

 

2つ目の「オーストリア学派的投資法II」は、歪みの仮定に直接基づいておらず、生産性の高い資本に焦点を当てている。最も生産的な資本は最も迂回する道でもあり、スピッツナーゲルが言うように、「最も収益性の高い資本構造も非常に回りくどい傾向がある」。したがって、適切な株を選ぶことは、ラウンドアバウト投資家の主な仕事となる。スピッツナーゲルは、この特定の目的のために、2つの計算方法を使用する。すなわち、企業のEBITを投資資本(そのリターンを生み出すために必要)で割った投下資本利益率(ROIC)を計算する。この計算タスクは、非常に回り道で生産性の高い企業、つまり、見送られた利益の再投資から生じるROICの高い企業を見つけることである。スピッツナーゲルはここで止まらず、2つ目の式である「ファウストマン比率」(時価総額を表す)を適用する。これは、割安な企業株を生み出すために低くなければならない。両方のアプローチを組み合わせて使用することで、スピッツナーゲルは良い結果を達成する。「株式は収益に従う」という一般的なことわざに反して、提案されたアプローチに注意を払っている投資は、EBITが一時的に悪化しても結局は高いリターンをもたらすのを見ることになるというのである。 最後に、ポジションの優位性を改善するために、スピッツナーゲルは「オーストリア学派的投資法I」と「オーストリア学派的投資法II」を同時に実践に適用させる。

 

その他にも、本書を通じて、スピッツナーゲルは、著名な経済学者や投資家の議論との対決を試みている。ジョン・メイナード・ケインズやハイマン・ミンスキーやロバート・シラー、更には師でありスピッツナーゲルのヘッジファンドの顧問でもあるナシーム・タレブをも批判している。

 

マーク・スピッツナーゲルの本書は、金融的歪みに満ちた世界でその迂回的投資アプローチを使用することを熱望している投資家に有用なツールを提供することななるだろう。僕自身のアプローチとは相当異なる点が多いけれども、しかし、より大きな利益を得たければ、以下の一文を肝に銘じなければならないという一点において共通していることは確かだ。

 

You’ve got to hate to make money!

(さあ、これからお仕事、お仕事(笑))

チュチェ思想再考

チュチェ思想として知られる政治哲学は、1972年に朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)公式の「唯一思想体系」としての国家的イデオロギーに確立された。日本語では「チュチェ」を「主体」と訳し、「チュチェ思想」を「主体思想」と訳されているが、この用語の意味は実のところ微妙であると言わなければならないだろう。

 

故キム・イルソン主席は、チュチェ思想について、次のような説明をしている。

 

チュチェの確立とは、一言で言えば、自国の革命と復興の主人になることを意味する。これは、自立した立場を堅持し、他者への依存を拒否し、自分の頭脳を使い、自分の力を信じ、自立的な革命精神を示し、それによって自己の問題をあらゆる状況下で己の責任において解決することなのである。

 

朝鮮民主主義人民共和国は、「チュチェ思想とは、故キム・イルソン主席がマルクス・レーニン主義の原則を共和国の現代の政治的現実に創造的に適用したものである」と主張している。

 

キム・イルソンは、チュチェ思想の3つの具体的適用を説明する。特に、ソビエト社会主義共和国連邦中華人民共和国からの政治的独立(自主)、経済的自立(自立)と実行可能な国防システムの構想(自衛)からなるわけだが、チュチェ思想を再考するにあたっては、チュチェ思想の思想的起源とその哲学的基礎に関する考察、政治思想としてのチュチェ思想の検討、チュチェ思想に基づく政策が北朝鮮の政治的・経済的現実に応えた評価を分けて考える必要がある。

 

チュチェの統治原則は、キム・イルソンが1967年12月16日に最高人民会議で行った「国家活動のあらゆる分野において、自主、自立、自衛の革命精神をより徹底的に守ろう」と題する演説で明確に表明された。その中では、次のように宣言されている。

 

共和国政府は、国の政治的独立を強化し、わが国の完全な統一、独立、繁栄を保証し、国の防衛能力を高めることができる独立した国民経済の基盤をより強固に構築するために、祖国の安全を自力で確実に守り、党のチュチェ思想をあらゆる分野で見事に具現化することによって、自主、自立、自衛の路線を一貫して実施する。

 

国内外の自主、政治的独立の原則は、チュチェ思想の中心的な教義の一つである。国際関係に関しては、チュチェの原則は国家間の完全な平等と相互尊重を強調している。更に、チュチェ思想は、すべての国家が人民の幸福と繁栄を最も適当と考えるように確保するために、自決権を有すると主張している。これらの政治的信条つまり平等な主権と相互不干渉の原則は、北朝鮮のような小さくて弱い国民国家の生存と繁栄に対する要求に叶うものであった。

 

朝鮮労働党の解釈によると、外国の圧力に屈したり外国の介入を容認したりすることは、自主つまり国家の独立と主権の防衛を維持することを不可能にする。これは、政治的独立が経済的自立と軍事的自衛にとって絶対に重要であると見なされているため、国益を守る力を脅かすことになる。

 

キム・ジョンイル総書記は、外国勢力への依存が朝鮮社会主義革命の失敗に繋がると予測していた。一方、キム・イルソンは、中国、ソ連キューバ、いくつかのアフリカ諸国など、社会主義友邦と見なした国々で協力を促し、相互支援と限られた依存の必要性を強調していた。とはいえ、キム・イルソンは、他の社会主義国の例から学ぶことが重要であることを認めながら、モスクワと北京に対する事大主義の問題と、抗日ゲリラ闘争期に忌み嫌ったマルクス・レーニン主義の独断主義に敏感だった。

 

北朝鮮社会主義革命を構築するにあたり、キム・イルソンは、北朝鮮人民が「他人のものを未消化で飲み込んだり、機械的に模倣したりする傾向を断固として拒否する」と主張する。更に、キム・イルソン政権の「成功」は、マルクス・レーニン主義の原則を北朝鮮の特定の条件に適合させ、その基本的な内容を変えることなく、すべての問題が解決された独立した方法によるものであると主張した。

 

国内では、自主を確保するために内部の政治力を構築することが不可欠であると主張され、自主の成功の極めて重要な要素は、人々が党と指導者、そして後にキム・ジョンイル自身の周りに凝集する度合である。おそらく、朝鮮戦争前の内部の派閥主義に対するキム・イルソンの嫌悪感から生じた、内部の支持統一に対するこの主張は、個人的な権力の統合を正当化するのに都合よく使われた。

 

政治的完全性を確保し、国家の繁栄を達成するためには、独立した自給自足の国民経済が必要である。経済的自立は、自主または政治的独立の重要な基盤と見なされているからだ。キム・イルソンは、対外援助への経済的依存が国家を他国の政治的衛星国にせしめることを恐れた。キム・イルソンは、自立した国民経済に由来する物質的・技術的基盤なしに社会主義の共和国を首尾よく構築することは不可能であると信じていた。

 

キム・ジョンイルによれば、朝鮮が独立した国民経済を構築するということは、他国への依存から解放され、自立した経済、自国民への奉仕、自国の資源の力と人民の努力によって発展する経済の構築を意味した。国民経済の存続と独立にとって同様に重要なのは、信頼できる独立した資源・資材の供給源の確立である。経済の広範な近代化と技術者幹部の訓練は、独立した国民経済の構築にも不可欠であると考えられていた。

 

但し、キム・イルソンは、チュチェの「自立の原則」に基づいて独立した国民経済を構築することは、孤立した経済を構築することと同義ではないことを同時に主張していた。戦後すぐの新興国経済の国内総生産に匹敵する韓国への米国の援助の規模を見て、キム・イルソンは、北朝鮮ソ連共産党というスポンサーからの多大な援助なしでは生き残れないことを認識していた。それゆえ、キム・イルソンは、経済発展とイデオロギーの統一の支援として、社会主義国新興国との間の緊密な経済的および技術的協力を奨励した。

 

独立主権国家へのチュチェ思想の特徴的な基本である防衛における自立(自衛)について、キム・イルソンは次のように主張していた。

 

我々は戦争を望んでいないが、同時に我々は戦争を恐れない。我々は帝国主義者に平和を懇願しない。

 

帝国主義の侵略と戦争の動き」に暴力で対抗するという政策は、国家の独立を守り、革命の大義を勝ち取るための最良の方法と見なされていた。この自立した防衛システムの実施には、人民全体の動員と軍隊へのイデオロギーの完全な浸透が含まれる。直接武器を取っていない人々は、国内の防衛産業の建設と維持に貢献し、イデオロギー的に準備された銃後の戦線が社会政治的優越感によって団結することになっていた。キム・イルソンは、外国の支援が外国の「帝国主義者」と「侵略者」に対する全面戦争において二次的な役割を果たしたことを認めたが、同時に、決定的な要因は国内目的の準備であると強調していた。したがってキム・イルソンは、朝鮮人民軍が戦争に対処するためにイデオロギー的にも武装し、独立した国民経済に頼って国を守るための完全な物質的準備をすることを要求したのである。

 

そのチュチュ思想であるが、この思想の起源については今も学術的にも争いがあるようで、ざっくり整理すると、三つの視点がある。第1の視点は、国内及び国際関係の要因を強調する道具主義的視点である。第2の視点は、朝鮮の伝統的な政治事情からの影響に焦点を当てる視点である。第3の視点は、チュチェ思想をキム・イルソンの人生経験に直接起因させる、独創的な政治思想であると考える視点である。

 

第1の道具主義的視点は、チュチェ思想の起源として国内外の政治的要因に焦点を当てている。一部の者は、朝鮮戦争中および直後の不安定な権力基盤により、民族連帯のチュチェ原則を個人的な教義構築の手段として利用し、キム・イルソンの政治的立場を強化するためにイデオロギー上での粛清を展開したと論じている。この目的のために、キム・イルソンは、他のイデオロギー北朝鮮で議論されたり教えられたりすることを禁じた。チュチェ思想の内容とその適用は1960年代後半まで非常に曖昧だったため、キム・イルソンはチュチェ思想を上手く利用することができた唯一の人物だった。

 

このように、チュチェ思想に基づく政策の実行は、キム・イルソンの絶対的な政治権力を効果的に強化し、間接的に北朝鮮における独裁政権イデオロギー的正当化を提供することになった。北朝鮮の内政への中ソの関与に対するキム・イルソンの警戒心は、ソ連に対する個人的な嫌悪感と大国に対する劣等感によってより悪化した。キム・イルソンキムは、1960年代にソ連が米国との平和共存に向けて徐々に動き始めていることに不安を感じていた。しかし、ピョンヤンがモスクワから受けていた経済的および軍事的援助と、帝国主義に対するマルクス・レーニン主義の闘争における団結に対するキム・イルソンキムの宣言を公にしていた手前、北朝鮮はほとんどの問題でソ連の立場を支持し続けた。

 

次第に、北朝鮮は、モスクワと北京からのコントロールを封殺するためのイデオロギー的弁明として、外国の不介入と民族自決のチュチェの信条を使用し始めた。最終的に、北朝鮮ソビエト社会主義共和国連邦中華人民共和国の双方を「社会帝国主義国家」として批判し、指導者が資本主義的利益を追求するためにマルクス・レーニン主義の原則を放棄したと非難した。

 

 第2の視点はより歴史的スパンが長く、朝鮮の伝統的な政治文化の影響に焦点を当てている。この視点によると、チュチェ思想は、何世紀にもわたる外国勢力からの独立の伝統を反映していると主張される。地政学上東アジアの半島端に戦略的位置にある朝鮮は、長い間、2つの強力な隣国であるシナ大陸と日本の間の争いの駹だった。

 

朝鮮の人々は、蒙古族満州族、漢族、そして日本の倭寇豊臣秀吉による侵攻に直面して、独立を維持するために衝突してきた。更に、1392年から1910年の日韓併合までの期間、朝鮮半島を統治してきた李王朝の下で、朝鮮は外国に対して孤立した外交政策をとった防御的な国家になった。キム・イルソンが1945年の日本の大東亜戦争敗北の後に朝鮮半島北部で権力を握ろうとしていた時、前近代の朝鮮の孤立主義的な政策に戻った。

 

更に、この視点は、「朝鮮的レーニン主義ナショナリズム」のブランドとしてのチュチェ思想を、朝鮮の政治情勢に適した「マルクス・レーニン主義の創造的採用」として包含し、「日本帝国主義」を標的として、反帝国主義、民族解放革命の任務に対処しなければならない困難で複雑な革命として説明する。キム・イルソンは、朝鮮のおかれた状況においては、マルクス主義レーニン主義の創造的な採用、そしてナショナリズム社会主義の独特の統合が必要であったとしている。キム・イルソンは言う。

 

チュチェを樹立することは、わが国の地理的状況と環境、歴史的発展の特殊性、革命の複雑で困難な性質に照らして、我々にとって特に重要な問題である。

 

 第3の視点は、最高指導者の栄光と独創性の例としてチュチェ思想を見なす視点である。この視点によると、チュチェ思想は、1930年代に抗日ゲリラ闘争を展開していたキム・イルソンの、誇張された経験の帰結と主張している。チュチェ思想が、キム・イルソンの個人史に帰着されることは、息子であり後継者となったキム・ジョンイルが、その著書『チュチェ思想について』において強調している。

 

キム・ジョンイルは、キム・イルソンが「朝鮮革命のためにチュチェ指向の路線を提唱した」と主張し、

 

これは、チュチェ思想の創造とチュチェ思想革命路線の誕生を告げる歴史的出来事だった。キム・イルソン主席は、チュチェ思想は抗日革命闘争中で感じた2つの大きな不満から生まれたと主張していた。その不満とは第一に、革命的前衛がプロレタリア大衆との接触を失い、大衆の支持なしに理論的闘争に終始していたこと。第二に、モスクワの顔色を伺う事大主義と派閥主義が革命を内部から堕落させていた。

 

チュチェ思想によれば、人間だけが創造性と意識を持っているので、人間は世界と自分の運命を究極的に支配することができる。チュチェ思想の信奉者は、「世界を支配し、再構築するという人間」というこの見方は、哲学的知に対するチュチェ思想の独自の貢献であると主張しているが、実際は、チュチェ思想の教義に特に革命的で斬新と呼べるものはない。階級闘争、大衆路線の思想、歴史における唯一の偉大な指導者の役割、自分の能力を信じることの重要性などの主題に関する金日成の政策スタンスはすべて、主に毛沢東の思想や日本の京都学派左派の哲学から引き出された。キム・イルソンの才は、これらの要素を「融合」させて朝鮮独立運動に利用する能力にあった。

 

キム・イルソンの共産主義に関する最初の知識は、1935年から1941年まで訓練を受けた中共ゲリラから、中でも、このゲリラグループの政治将校である魏正民から指導を受け、影響を受けた。キム・イルソン自身は、中共への従属と所属の程度をなかなか認めようとはしなかったが、多くの研究者は、キム・イルソンが中共のメンバーであったと見ている。朝鮮戦争の終わり頃には、北朝鮮における中華人民共和国の影響力はソビエト連邦の影響力を抜いていた。キム・イルソンは、1940年代後半から1950年代にかけて北朝鮮の政治制度の発展に大きな影響を与えた毛沢東の政治思想と行動に厳密に従っていた。その模倣の一例は、1958年から1960年にかけての毛沢東が主導した「大躍進運動」に触発された、北朝鮮の「千里馬運動」だった。

 

キム・イルソンの思想の主な信条は毛沢東にまで辿ることができる。しかし、様々な証拠にもかかわらず、キム・イルソンは、特に1960年代初頭に北朝鮮チュチェ思想北朝鮮の「唯一思想体系」として制度化した後、毛沢東に負っていることを公に認めることは決してなかった。チュチェ思想北朝鮮ナショナリズムとのこの正式な結びつきに続いて、外国の指導者に対するそのような大きな負債を認めることの劣等感は、独立したチュチェ思想の一貫性とキム・イルソンの個人的な誇りの両方にとっておそらく克服できなかったのだろう。

 

北朝鮮がキム・イルソンの独創的で独創的な政治哲学への貢献として吹聴しているチュチェ思想は、実際には、朝鮮の政治思想の伝統からの影響も見られる。キム・イルソン自身は、20世紀初頭に日本の京都学派左派の哲学者から「チュチェ(主体)」の用語と考えを拝借し、朝鮮の歴代支配者によって支持された儒教的思考からインスピレーションを得ていた。

 

チュチェ思想の教化は、国家の尊厳と革命的な誇りの醸成にとって特に重要な意味を持ち、キム・ジョンイルの下で、音楽や娯楽などの北朝鮮の生活の文化的側面が党によって独占され、指示されていたわけだが、キム・イルソンは、解剖学から引き出されたアナロジーを用いてチュチェ思想を指導した。「偉大な首領」は決定を下し命令を出す「頭脳」であり、党は情報伝達する「神経系」であり、人民は命令を物理的に実行する「骨と筋肉」である。チュチェ思想北朝鮮人民の間で支持されたのは、社会主義革命の成功は、人民大衆がどの程度結集し、指導部を支持するかにかかっているという教義のためである。

 

キム・イルソンが一方的にチュチェ思想北朝鮮の生活のあらゆる側面の統治原理であり、すべての国家政策のイデオロギー的基盤であると宣言した時、その哲学はキム・イルソンを「神」のような地位を持つ権威を与えることになった。チュチェ哲学の不可謬性を確立し、自らの政治権力を強化したキム・イルソンとキム・ジョンイルは、飢饉が人民大衆を苦しめていようと、国民所得の大部分を軍事費に向けるなどの政策の正当化として、チュチェの「自立」と政治的および軍事的独立の原理(「自主」・「自衛」)を利用することができた。かくして、「偉大な首領」である一人の男の力とその影響力により、チュチェ思想は、北朝鮮の生活の経済的、政治的、軍事的、文化的側面に密接に組み込まれるようになる。

 

マルクス・レーニン主義の原則に対するチュチェ思想の忠実性が繰り返し強調されているにもかかわらず、哲学思想としてのチュチェ思想は、北朝鮮が主張するマルクス・レーニン主義の原則を厳格に遵守していないことは明白であろう。第一に、チュチェ思想の基本的な教義、つまり「人間は万物の主人であり、すべてを決定し、思想的意識が歴史的発展における人間の行動を決定する」という教義は、カール・マルクスの主張した命題と矛盾する。マルクスは、個々の人物は所与の歴史的発展の一般的な傾向を制御できないとしており、重要な歴史の決定要因の諸階層において、「人間」に高い地位を与えなかった。対照的に、キム・イルソンは、抑圧的なブルジョア階級に対する労働者大衆の闘争において絶対に不可欠な人物であるとされていた。

 

チュチェ思想はまた、「革命的前衛」の教育と組織機能に対するレーニンの思考から逸脱している。権威主義チュチェ思想に内在しているのは、「極めて優秀で傑出した領導者」の指導が労働者階級の動員に不可欠であると考えられているからである。レーニンとは異なり、キム・イルソンは、革命闘争を指導する傑出した献身的な指導者の中核ではなく、単一の指導者主導の革命的階層を提唱していた。

 

北朝鮮孤立主義は、米国との瀬戸際政策の危険なゲームに国を巻き込んでいる。何年にもわたって、世界で最も重武装した陸地である朝鮮半島の「非武装地帯」に沿って軍事的緊張が維持されている。朝鮮民主主義人民共和国は、半島統一の問題に関して特に強硬な姿勢を取っており、キム・イルソンは、外国の調停や干渉の試みとの協力は、チュチェ民族の民族自決の原則に真っ向から反して、朝鮮の運命を事実上外国人の手に委ねることになるため、考えられないと宣言していた。実際は、国は飢饉の苦しみにあり、慢性的なエネルギー危機に悩まされて、自国のエネルギー源と農業生産に頼るどころか、以前は「帝国主義侵略者」として軽蔑していた国際社会の他の国々からの食糧援助を受領するほかなく、依然として兵器と技術をモスクワと北京に依存しているにもかかわらず。

 

国内的には、チュチェ思想は、キム・イルソンによるマルクス・レーニン主義の朝鮮化と、キム・イルソンの個人的権力の下でのスターリン主義体制の強化を正当化するために利用されてきたが、同時に、チュチェ思想は、韓国との政治経済競争に直面して、北朝鮮の国家の誇りを強化するのにも貢献してきた。キム・イルソンは、チュチェ思想と最高位に置かれた「人間」を強調して、北朝鮮人民のナショナリズムと革命的エネルギーを搔き立て来た。

 

他方、国際的には、キム・イルソンはチュチェ思想ソビエト連邦中華人民共和国の影響力を排除するための正当化として使用しました。より大きな隣国からの政治的独立は、もとより朝鮮の歴史において常に重要な希求でもあったところ、キム・イルソンは、北朝鮮が一方的にソビエト連邦または中華人民共和国のいずれか一方に味方することを避けている限り、北朝鮮は国内および外交政策において比較的自律的であり続けることができることを理解していた。この慎重なバランスをとる行為は、チュチェ思想の形で表現されていたのである。