shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

議院内閣制について

カール・シュミットの思想は、民主制の危機および議会制の危機に乗じて形成されてきた。西欧各国における国民国家形成の原動力の一つとなったリベラル・デモクラシーは、市民社会の成立とともに確立されていった法治国家体制の政治理論として機能した。市民社会の「自律性」を標榜し、国家権力による市民社会に対する干渉を極力排斥したリベラル・デモクラシーの政治理論への批判者としてシュミットが登場したことも、耳にタコができるほど聞かされてきた。Democracy in Crisisである。

1932年の『現代議会主義の精神史的位置』と1931年の『憲法の番人』において、シュミットのリベラル・デモクラシーに対する正面切っての批判が展開されている。シュミットによれば、議会制はリベラリズムの産物であり、デモクラシーからの必然的帰結ではない。議会制の理解においてデモクラシーを持ち出す必要はないのであって、デモクラシーの本質を規定するものは「同一性」の観念、すなわち「治者と被治者の同一性(自同性)」である。

議会の議員は国民から選出され、立法権限を受託された者であり、議会を通じて行われる決定が国民自身の決定と等置される。技術的理由から国民の代表者としての議会におけるその受託者が決定権限を行使することを正当化する理屈は、唯一の者が国民の名において決定権限を行使することを正当化する理屈にもなりうる。そのことを示すことによって、反議会主義はデモクラシーと矛盾するものではない。そう言うのである。

真のデモクラシーは、等しいものが等しく取り扱われるばかりではなく、その必然的結果として、等しくないものは等しく取り扱われないことによって成立する。従って、デモクラシーには同質性が必要なのであり、異質なものの排除をその内在的論理として包含している。場合によっては、その異質な者が絶滅されるべき「敵」として排除されることすらある。

デモクラシーの原理とリベラリズムの原理は究極において相対立する契機を内包すると考えるシュミットの思考と同様の思考を見せるのは、我が国の憲法学者清宮四郎である(現在存命の憲法学者の超大物の名をあげるとすれば、たいていの者はおそらく樋口陽一佐藤幸治を思い浮かべるに違いないが、その樋口の師が清宮四郎である)。対して、リベラリズムとデモクラシーとは調和すると考えるのが芦部信喜。デモクラシーの本質に関する理解において、僕は清宮の見解に同意し、芦部のような折衷案を採らない。

 

内閣の解散権の性格と絡む議院内閣制の本質に関する芦部信喜の見解は、「責任本質説」である。この通説 に対して、権力作用の分立性を重視する佐藤幸治は、「均衡本質説」を主張する。佐藤幸治の主張する均衡本質説の背景にある思想は、もちろん権力分立作用の重要性を強調する考えに基づくわけだが、その究極的な理由は、デモクラシーの原理とリベラリズムの原理との相克にあるのではないかと思われる。デモクラシーの原理の抑制の仕組みとして組み込まれたリベラリズムの原理から要請される権力分立作用を重視する視点から、解散権の性格が捉え返されるわけだ。他方、芦部信喜の主張する責任本質説は、内閣は議会の信任に基づいて成立し、議会に対して連帯して責任を負う点こそが議院内閣制の本質である点を強調する。

 

ところが日本国憲法は、議院内閣制を採用しながら、国家権力の一定程度の分立作用(三権分立)を組み込んだ建付けになっているので、「厳格な三権分立」とは異なる「緩やかな三権分立」となっており、強いて言うならば、内閣制と大統領制の部分的なつまみ食いのような格好になっている。

デモクラシーとリベラリズムが究極的には相矛盾する契機を内包すると考えるのか、必ずしもそう考えるわけではない立場であるかを問わず、権力分立原理はデモクラシーから帰結する原理ではなく、むしろデモクラシーの暴走を抑制する原理として制度的に取り込まれている点が近代立憲主義の要諦であるという考えは共通している。

モンテスキューが国家権力の作用として立法権・執行権・司法権の三つを区別したことぐらいは誰でも知っていることだが、このうちの立法権と執行権(ここでは行政権と考えてもいいことにしておく)の二つの権力作用の関係に基づいて政体を分類する議論が論じられることは極端に少ない。大統領型政治と内閣型政治の二分類である。

もっとも、この分類は立法権と執行権の関係に基づく政体の分類であるので、大統領の存在があるからだとか内閣があるからだとかいう点だけで大統領型政治形態と内閣型政治形態になるというわけでは必ずしもない。立法権を有する国家機関は立法部すなわち議会であり、執行権については執行権を有する執行部として大統領と内閣がある。この執行部は通常は行政部と同義に用いられることが多く、行政部の長である大統領あるいは行政部である内閣に執行権が帰属すると考えられている。

アメリカ合衆国憲法第2条1項には、「行政権はアメリカ合衆国大統領に付与される」と規定されており、日本国憲法第65条で「行政権は内閣に属する」と規定されている。立法権と執行権の関係は、先ずは執行権の帰属が確定され、その次に執行権が帰属する機関と立法部との関係が問われることになるという構成をとっている(もっとも、執行権の帰属を明文において規定していない英国のような例外もあるが)。

執行権と立法権の関係は、基本的にはこの二つの権力作用が独立的であるか否かということ、すなわち、権力分立の理論に基づいて議論される。権力分立論を徹底化させた形態が大統領制であり、権力分立が厳格でなく執行部と立法部が密接な融合関係にあるかもしくは執行部が立法部の信任に立脚している形態が内閣制であり、我が国の現行憲法は後者のそれも「議院内閣制」を採用している。

米国では、執行権は大統領に帰属し、議会(Congress)に対立する関係にあるから大統領型政治に分類され、英国の内閣は立法部の「執行委員会」であるから内閣型政治である。大統領と内閣をともに有するフランスでは、執行権は大臣会議議長(首相)に帰属し、首相は議会(Parlement)の信任に基づいてこれを行使するので、内閣型政治と考えられる。

つまり、名称として大統領あるいは内閣という存在があろうと、それとは直接に関わらず、権力分立論の援用によって大統領型政治か内閣型政治とに分類されるのであって、立法権と執行権が互いにどの程度独立的であるのかの程度に応じて、大統領型政治か内閣型政治か、はたまたその中間的な形態なのかに分かれる。

Presidential Governmentの典型は米国と言われる。しかし、これでも純粋な大統領型政治ではない。執行権は大統領に帰属し、大統領の任期は4年で、間接選挙で国民により選出されることは誰でも知っている。この権限は強大で、任期中は、死亡するか弾劾されるかしない限り失職することはなく、国家元首であるとともに執行部の長でもある。フランスの大統領と首相とを一緒にしたようなポストであるから、むしろ「総統」という呼称が相応しいかもしれない。軍の統帥権を持ち、行政権を統轄し、高級官僚の任免権をも独占する。権力分立が徹底しているとは言いながら、司法長官の任命権をも有する。

フランクリン・ルーズベルトは、ニューディール政策について連邦最高裁での違憲判決を出させないために連邦最高裁の判事を入れ替えてしまったエピソードがよく知られている。大統領は、憲法と法律に規定する権力の行使にあたり、長官(Secretary)という一つの国家機関を介することになっているが、長官は立法部に対して責任を負わず大統領に対してのみ責任を負うことになっているので、大統領は自由に長官を任免できるといっても、議会に議席を有する者を任命することはできない。Cabinetという言葉が慣用されてはいるが、これは大統領と各行政部門の長官との会合を意味するに過ぎず、執行権が帰属する本来の内閣(Cabinet)とは異なる。

こうした大統領型政治の根本的欠陥は、よく言われているように、立法部と執行部との間の過度な独立性に向けられる。両者の間の溝が調整不可能な程のデッドロックに陥った場合の対処をどう図るかという問題である。打開策として常設委員会(Standing Committee)が設けられているとはいえ、かえって非効率を招いてしまう。更に、議会に対する法律案の発議権が認められていないので、せいぜい「教書」の形で願い出るほかなくなる。立法部と執行部が徹底的な牽制関係にあるという建付けのため、執行部は立法部に対して責任を負わないばかりか、大統領は任期中において国民に対してすら責任を負わないのである。行政各部を所掌する長官は大統領に対してのみ責任を負うので、ある意味で「究極の無責任体系」としての大統領型政治が出現するわけである。

日本では時折、大統領型政治を望む声が聞こえるが、地方自治体の行政ならばともかく、こと国政においては、議院内閣制の弊害よりも大統領制の弊害の方が遥かに大きい。また、我が国憲法の第一章との兼ね合いからも(天皇国家元首と解するかどうか学説上争いがあるが、そもそも共和政体とは言い難い)、議院内閣制の方が優れているし、また危険度も小さい。