shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

反地球市民的人間の遊撃

自分自身のことを「日本人」であると自覚することは度々あれど、「地球市民」と思ったことなど一度たりともなかったし、なりたいと思ったこともない。加えて、「地球市民」なる人種に生まれてこの方一度として出会ったためしなどないし、おそらくこれからもないのだろうが、そう思う理由の一つは、おそらく「地球市民」という言葉の持つ胡散臭さないしはアホっぽさにあるのではないか。

 

もちろん、公共哲学的主題として真面目に検討されてしかるべき問題がそこに含まれていることを認めるに吝かではないが、そうであるにしても、どうしても馴染めない理由を更に探ってみると、究極的には、特に近代以降の社会思想において中心的主題の一つとして陰に陽に繰り返し問われ続けてきた「公共性」・「公共世界」を言祝ぐかのような言説に対して違和感を抱いてきたからではないか。例えば、ユルゲン・ハーバーマス丸山眞男といった哲学者や思想史家の著作に理屈以前に肌が合わないと感じるのも似たようなものかもしれない。

 

丸山眞男『(増補版)現代政治の思想と行動』(未来社)の追記と補注において、「無法者(アウトロー)」の類型として8つの特徴が挙げられている。この類型に当てはまる存在こそが、市民社会の敵たる「無法者」らしいのである。この「無法者」どもは、市民的公共性の担い手足りえない、「日本版ファシズム」の温床にもなりうる「野蛮ベティーズ」とでも言いたいのだろうか。精神科医斎藤環が侮蔑の眼差しを向ける「ヤンキー」も、程度の差こそあれ、この類型に属する者たちかもしれない。

丸山が「無法者」の類型の特徴として挙げた8つの要素とは、
(1)一定の職業に持続的に従事する意思と能力の欠如(市民生活のルーティンに堪える力の著しい不足)。
(2)「もの(Sache)」への没入よりも人的関係への関心。ゆえに専門家の適性の欠如。せいぜいハロルド・ラズウェルの言う「暴力のエキスパート」。
(3)不断に非日常的な冒険、破天荒の「仕事」を追い求める傾向。
(4)「仕事」の目的や意味よりも、その過程で惹起される紛争や波瀾それ自体に興奮と興味を感じる。
(5)私生活と公生活の区別がない。とくに公的な責任意識が欠け、その代わりに特定の人的義務感(仁義)が異常に発達している。
(6)規則的な労働により定期的な収入をうることへの無関心または軽蔑。その反面、生計を献金、たかり、ピンはねなど経済外的ルートからの不定期の収入もしくは麻薬密輸などの正常ではない経済取引によって維持する習慣。
(7)非常もしくは異常事態における思考様式やモラルがものごとを判断する日常的な規準になっている。ここから善悪正邪の瞬間的断定や「止めを刺す」表現法が好まれる。
(8)性生活の放縦。

丸山眞男のいう「無法者」とは、彼が理想とする「市民社会」の成員の類型とは真逆の類型にして、「公共性」の担い手足りえない存在である。ここから逆照射して、そもそも「公共性とは如何にして可能となるのか?」という問いを捉え直してみる試みがあってもおかしくはないはずなのに、なぜかそうした思想史研究が見られない点が、これまでの「公共性」論に対する不満なところである。「公共哲学」にしても、「反−公共」と見られがちなこれら「無法者」の視点から「公共性」を再定礎する試みがあってもよいはず。

丸山と同様、「進歩的文化人」と自ら称していた哲学者久野収の対話形式の論考「市民主義の成立-一つの対話」にも、職業を持った者の、パートタイマー的アンガージュマンを心がける自立的市民の連帯こそが、市民的公共性の土台を形作ると述べている通り、丸山の言う「無法者」は、久野の言う「市民」には含まれないと考えられるだろう。

市民的公共性」の担い手たる自立的市民は、公共的規範の内面化と同時にリゴリスティックな二分論における一方の私的領域との分離を前提にしているところも、「無法者」ないしは「ヤンキー」とは別種の存在類型であり、そうであるからこそ、時には畏怖の対象に、時には侮蔑の眼差しを向ける対象に彼ら彼女らを位置づけ排除する。

 

西洋近代の倫理学において大きな潮流を形作っている義務論は言うに及ばず、功利主義も広くは私的価値と公共的価値をどう接続させるかという問題意識の上に立脚している点からみて、極めて近代的というべき倫理学の姿である。

 

他方で、ごくわずかに、この「無法者」や「ヤンキー」あるいは広く「世間から、厄介者ないしどうでもいい存在としてぞんざいにあつかわれているアワやアブクのような存在」、を社会学的分析でもなく、政治的包摂のための言説でもなく、哲学的ないし思想的に肯定的な眼差しをもって描こうする(あるいは、描こうと意図しているかに見受けられる)言説が存在する。折口信夫『古代研究』所収の「ごろつきの話」で肯定される「美的な乱暴」としての「ごろつき」や「かぶきもの」、千葉雅也『意味がない無意味』所収の「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない――クール・ジャパノロジーと倒錯の強い定義」における「ギャル男」も、「公共性」を言祝ぐ言説で称揚される「市民」の類型には収まりようのない「厄介者」であろう。

 

それを意図したのかどうかはわからないが、この『意味がない無意味』所収のいくつかの文章は、「善良な市民」ならば眉を顰めかねないような、ある意味でかぶき者を称揚しているかに読める婆娑羅な「乱交的存在論」は、「好きなことさせろや!」とぶつ「反-公共」の哲学宣言でもあるのだ。

 

「善良な市民」が顔を背け、軽蔑の眼差しを向け、そして最終的には視界から排除するそれら存在の肯定が「公共性」論への対抗言論にまで展開するのは、ほとんど必然的であろう。規格化された行為の範疇に収まらないある種の過剰性が、距離や方向感覚を失って散乱する「暴力性」の持つ「性的」側面を肯定的に捉えたものでもある思って読むと、また違った意味をまとった言説としてその魅力を放つのではないか(折口信夫なら「ごろつき」や「かぶき者」に、千葉雅也なら「ギャル男」や場合によっては「ヤンキー」に、それぞれ欲情しているのだ。こうした言説の持つ清々しさは、例えばヤンキーへの侮蔑と恐怖に支えられた斎藤環の言説の持つ陰湿さと対照的ではないか。しかし、「善良な市民」の神経を逆撫でしてしまうという副反応がついてまわるだろうけど、そんな副反応は無視すればよい)。

 

そしてそれは、近代以降における社会思想を支える「公共性」を再考させる「反地球市民的人間の遊撃」として、「哲学のヤンキー的段階」へと展開させる言説を組織するはずである。