shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

旭日旗を高く掲げよう

 9月13日といえば、明治天皇の御大葬の号砲とともに自刃した乃木希典将軍の御命日である。この殉死という出来事は、夏目漱石森鴎外にも大きな影響を与えた「思想的事件」であった。

 

 乃木将軍の人格や生き方がその人の行く末に爪痕を残した人は、もっとも漱石や鴎外に限られない。その一人は昭和天皇であり、もう一人は連合国軍総司令部GHQ)最高司令官として大東亜戦争終結後の占領政策を主導したダグラス・マッカーサーである。

 

 乃木は日露戦争後、孫の迪宮裕仁親王殿下の教育係として、明治天皇から学習院院長の職を拝命した。乃木は、まだ幼い迪宮親王殿下に対し、将来の君主として相応しい御人格を醸成するために厳しい帝王教育を行ったとされ、殿下もそういう乃木を「院長閣下」と呼び敬愛の対象とされていたという。

 

 明治天皇崩御の後、乃木は殿下に対して自ら朱字の注釈を書き入れた山鹿素行『中朝事実』を遺書代わりに託し、御大葬の日に静子夫人とともに明治天皇に殉じた。その後、昭和天皇は乃木の望む通りのあるべき君主の理想を常に意識に留めおきながら、激動する昭和の御世において、伝統的な天皇のあるべき御姿と同時に、それとは異質な要素を持つ近代国家における立憲君主としての御振舞を両立されるべく苦心され続けた。

 

 昭和天皇は、対政治との関係ではあくまで立憲君主として振舞われ、政務に直接介入されることはなかったが、例外的に直接御意向を表明された事例は二度あり、その一つが終戦の御聖断であり、もう一つが二・二六事件における反乱部隊の鎮圧の御下命である。両者とも内閣がその補弼機能を喪失した時であることが共通している。二・二六事件では自らの側近や閣僚が暗殺され内閣の補弼機能が麻痺してしまった時、昭和天皇は筋を通され「朕自ら近衛師団を率いてこれが鎮圧にあたらん」と仰せになった由。そもそも上御一人に対して弓引くことなどつゆだに考えていなかった反乱部隊は、陛下の御心を知るやたちまち降伏することになったわけだが、こういうところにも昭和天皇への乃木の教育の影響が現れていると言えよう。

 

 ダグラス・マッカーサーの父も同様に米国の軍人だったわけだが、この父親は日露戦争の際、従軍武官として乃木希典将軍の傍にいて乃木の高潔な人格と理想的な武人としての姿を目にして乃木を終生尊敬し、我が子にも乃木将軍のような理想的な軍人になって欲しいと願い続けたという。乃木の優れた人格は敵方のロシア人にも広く感銘を与え、乃木を慕う者も多いという。

 

 日本では、司馬遼太郎の影響もあって「愚将」のレッテルを貼られ、そのイメージを今も抱いている者も中にはいるが、事実は違う。この司馬遼太郎によって植え付けられたイメージに対して徹底反論した日本人の最初は福田恆存であろうが、米国やロシアでは端からそのようなイメージはない。

 

 乃木希典漢籍に通じ、時が違っていれば文人として名を馳せていただろうと言われるほど古典に明るい博覧強記の知識人でもあった。文人としての素養に恵まれながら動乱の時代にあって武人となり、その極限的な状況の中でギリギリの理想を貫こうとしたところに乃木希典を敬慕する人の多い理由が存しているのかもしれない。

 

 一般には、乃木希典の生真面目な面ばかりが強調される傾向にあるが、実は相当変わった面もあって、結婚式をすっぽかして泥酔して帰宅するわ、(石原慎太郎太陽の季節』ではあるまいに)勃起した性器で障子を破るななどといった奇妙な振舞いを見せる人でもあった。

 

 乃木の殉死の直接の理由はもちろん明治天皇崩御であったわけだが、そこに至るまで乃木の脳裏から離れなった過去の出来事への自責の念の対象は、西南戦争の時に敵側に連隊旗を一度奪われてしまったことだった。乃木にとって連隊旗を奪われることは自らの命を処決して責任をとるべき事態であり、その責任を果たすことと不名誉を恥じる意味からも、聖上からの「死ぬことまかりならぬ」との御下命から「解放」されたことで、遅蒔きながらの自裁を果たしたとも言える。軍旗とはそれほどまでの名誉と尊厳の象徴であった。

 

 2010年代に入ってから特に、韓国は日本の旭日旗に対して事あるごとに非難を繰り返し、その主張はますますエスカレートして「旭日旗を連想させる」という理由でほとんど関連性のないものにまでそのデザインに文句をつけ出してきた。それまでは旭日旗について表立った反応はなかったはずだ。

 

 旭日旗=戦犯旗という故のない主張は、ごく最近になって韓国が騒ぎだした問題でしかない。韓国の国定歴史教科書によって教育された韓国人が、自国の都合に合わせてほとんど「捏造」と言っても過言ではない反日思想に塗り固めらた虚偽の「歴史」を振り回して日本を糾弾する声が大きくなったのは、特に2010年代になってからのことである。

 

 韓国で教育を受けた者で米国に留学した折、これまで韓国内で学んだ歴史が誤りであったと気がつく者もいる。もっとも、日本の歴史教育でも国際的に通用しない記載もあることを公平を期すために断っておくべきだろう。例えば、日本国内の認識では、大東亜戦争終戦記念日ポツダム宣言受諾を表明した終戦の御詔勅が国民の前に発せられた8月15日であるが、世界的に見れば、日本政府代表重光葵ミズーリ号上にて降伏文書に調印した9月2日という認識が一般的である。教科書にはミズーリ号での降伏文書調印は記載されてはいるものの、終戦とは降伏文書に調印した9月2日であるという認識が日本国内では一般化されていないのである。

 

 ことさら韓国が嫌いなわけでもない日本国民や海外の人々の中には、こうした一連の「嫌がらせ行為」に呆れ果てる人々も増えてきているという。Korea Fatigueは徐々に蔓延していくことだろう。挙句は、扇をモデルにして作られた東京パラリンピックのメダルのデザインにも文句をつけるにまで至っている。更に要求はエスカレートして、IOCに対して「旭日旗での応援を禁止しろ」とまで言う始末だ。

 

 旭日旗とは、日章旗ほどではないにせよ、戦前の帝国陸海軍の軍旗でもあったことから、今日においても我が国を象徴する旗の一つとなっている。準国旗と位置づけている者もいることだろう。現在は自衛艦旗として国際的にも認知されている旗であり、自衛艦が航行の際には掲揚を法によって義務づられている旗でもある。また、陸上自衛隊連隊旗もこの旭日旗のデザインに範をとったものとなっている。

 

 この旭日旗を禁止しろと主張することは、近代国家を形成し祖国のために尽力した帝国陸海軍の歴史に唾を吐くような真似であって、延いては我が国の歴史への冒涜に繋がり、現在も我が国の防衛の任にある自衛隊の存在を否定するものである。

 

 こうした非常識で無礼な要求は、韓国と韓国の意向に従って行動しているごく一部の日本の左翼しかしていない。この人々の本音は、旭日旗のみならず日章旗までも全否定したいというものである。したがって、旭日旗への抗議で味をしめたら、次は日章旗に矛先を向けることだろう。

 

 日本の左翼というのは世界的に見ても特殊な存在で、ここまで露骨に自国の歴史を否定し先祖を罵り外国勢力に自国を売り渡そうとする左翼は世界広しといえども中々みられるものではない。たいていの国の左翼は、たとえ左翼であるといえども愛国者であるのが普通なのだが、こと日本の左翼はそうではない。

 

 韓国は、旭日旗は「日本の軍国主義の象徴である」だの「侵略の象徴」だのと言って「戦犯旗」などという奇妙な批判をするが、日韓併合時における我が国を象徴する旗といえば、旭日旗のみならず日章旗も当てはまることになってしまい、韓国側の無理な理屈を受け入れるとするならば、次は日章旗に関しても同様な理屈で攻撃してくる可能性は大いにある。

 

 「侵略」に軸足をおくならば、大韓民国ベトナムを侵略し多数の住民を虐殺し多くの女性を蹂躙した挙句、ライダイハンと呼ばれる子供たちを残した。その残忍さは米軍を遥かに上回るようで、今もベトナムでは韓国軍の所業に憎悪の念を抱く者も多いという。ベトナム戦争に敗北した韓国政府はベトナム侵略への謝罪も賠償もしていないし、ライダイハン問題に関しても無視を決め込んでいる。ベトナムから言わせれば大韓民国の国旗である太極旗は「侵略の象徴」であろう。大英帝国時代の全世界への侵略行為をユニオン・ジャックが象徴していると言えなくもないし、米国の星条旗やフランスのトリコロールも然り。ましてや五星紅旗チベットウイグルへの侵略とジェノサイドの象徴ということになろう。

 

 旭日旗ナチスのハーケン・クロイツに準える暴論もみられるが、旭日旗は再度言うように現在も自衛艦旗として国際的にも承認されている旗であり、海上自衛隊の艦船の航行の際、日本を象徴する旗として掲げられているものであって、ユダヤ人や精神障害者を根絶やしにしようと絶滅収容所を設けて実際にガス室にて虐殺したナチ党の旗のごとき象徴性は微塵もない。

 

 ハーケン・クロイツは国家社会主義ドイツ労働者党の旗であって、これに相当するものと言えば、中国共産党の党旗を極一部分変えた五星紅旗ということになろう。現に、中華人民共和国は1950年代にチベットウイグルに侵攻し、チベット人ウイグル人を大量虐殺し文化や言語を奪うことまでしており、国際的非難にさらされているではないか。

 

 もっとも、オリンピックにおける我が国選手の応援に日章旗ではなく敢えて旭日旗を使用するのが相応しいかと各人が個別に思うかは別の話である。今は海上自衛隊の旗でしかない旭日旗を日本選手の応援に用いることに対し些か奇異な感想を持つが、だからといって応援に持ち込むこと自体を禁止する措置まで講じるというのは、旭日旗を禁忌化する運動に呼応する措置と映じ、日本人として受け入れることはできない。

 

 日本の中にも旭日旗での応援はけしからんとするごく一部の左翼が存在する。彼ら彼女らは日本という国が嫌いで嫌いで仕方がない人々だから、韓国や北朝鮮に肩入れして日本批判に懸命になるあまり、この無茶苦茶な要求にまでも賛意を示すようになっている。だが、そうした無茶苦茶な意見に肩入れすればするほど、左翼に対する国民からの不信の念は増々広がっていくことだろう。いわば墓穴を掘っているわけである。

 

 日本の左翼は、旭日旗は一般には広まっておらず特殊な思想の持主だけが使用しているに過ぎないというが、百歩譲ってその主張を是としても、それが禁止されるべきとする理由になるわけがない。それを言うなら、赤旗などもっと流通していない特殊な思想の持主だけが使用している旗なのだから、理屈からすれば赤旗こそ禁止されるべきとなる。

 

 旭日旗にそれほどまでに文句をつけるなら、明らかに旭日旗デザインである朝日新聞社の社旗にも文句をつけてみてはいかがか。東京朝日と大阪朝日の社旗は左右真逆になっており、これらを並べるとちょうど旭日旗の上半分になるように作られている。抗議を受けた朝日新聞社が「左様でございますね」と言って伝統ある社旗のデザインを軽々に変えるだろうか。おそらく「社旗に関してかかる文句を言われる筋合いはない」として反応することだろう。

 

 旭日旗は日本の海上自衛隊の旗として国際的に認知されているというだけでなく、一般の国民の中にも一定程度浸透しており、少なくとも赤旗などよりはずっと流通している身近な存在になっている。また、単車を愛好する者の中にもタンクやコルク半を旭日カラーにしている人もいるし、暴走族や旧車會には旭日旗を掲げながら走るチームも多い。サッカーの応援に旭日旗も使用するサポーターもそれなりにいて、旭日旗は国民の中にも日本を象徴する旗の一つとして広範に認知されているのである。

 

 もちろん、愛国運動に邁進する政治結社の面々も日頃から旭日旗に親しんでいる。粋がった中学生なら、卒業式に旭日旗日章旗に寄せ書きして互いの卒業を祝福し合う者もかなりの数に上る。成人式でも、日章旗とともに旭日旗を振り回す新成人の姿をよく目にする。漁師の大漁旗旭日旗を掲げる者もいれば、神輿に日章旗旭日旗が飾られていることもしばしばだ。

 

 このように、旭日旗は相当国民に浸透し親しみをもって迎え入れられているのである。旭日旗の否定は、我々の存在をともすれば否定しかねない動きに呼応するも同然の行為である。旭日旗に対する言われなき非難中傷に対してどこかおかしいと感じるならば、逆にこの美しい旭日旗を高く掲げようではないか。

日本史上最大の政治家・藤原不比等

小林秀雄終戦後に著した文章の中に、「蘇我馬子の墓」という奇妙な随筆がある。この「蘇我馬子の墓」という文章は、読めば読むほど謎が膨らんでくるもので、その難解さは、戦前に書かれた「無常といふ事」の上を言っていると思われるのだが、いずれにせよ、「秋」と並んで小林秀雄独自の歴史哲学について考えようとする者にとって必読の文章であることだけは間違いなさそうである。小林秀雄歴史観と言えば、すぐさま『ドストエフスキーの生活』の序を思い浮かべる人が多いように思われるが、残念なことに、この「蘇我馬子の墓」は注目されていない。

 

小林秀雄は、この文章の冒頭において、(蘇我馬子の先祖とされる)武内宿禰について「私は予てから、『古事記』・『日本書紀』に記された人物で、こんなに気味の悪い人間は他に一人もいないと思っている」と綴っている。その理由は、常に国家の枢機を握る人物として現れていながら、国史の扱いからは何をやっていたのか、ほとんどわからないように書かれているからだというのである。ちなみに、武内宿禰は、景行帝の御代から続いて六朝に仕え、齢三百歳を超えた人物である。

 

景行帝の御代において、相次ぐ内乱鎮圧にあたった中心人物が、ヤマトタケルノミコト(『古事記』表記では倭建命、『日本書紀』表記では日本武尊。漢字表記が各々異なるので、ここではカタカタ表記とした)であったことは、日本人であれば誰もが知るところだろう。九州の熊襲征伐に続き、次は東国の蝦夷征伐にも功を成したまではよかったものの、継続する征戦に疲れ果て、伊勢の能褒野にて「独り曠野に臥して誰にも語ること無し」と言い残し、白鳥となって天に飛翔していかれたと国史は語る。

 

このエピソードは、僕が愛読する保田輿重郎『戴冠詩人の御一人者』にも描かれている。『古事記』中巻の約五分の一は、倭建命に関する記載で占められているほど多くの分量を語る物語であるが、その背後に控えているはずの武内宿禰が何をしていたのか、さっぱりわからないのである。

 

ヤマトタケルノミコトは双生児の御一人である。この双生児とは、当初、大碓命(オオウスノミコト)と小碓命(コウスノミコト)と称され、ヤマトタケルノミコト小碓命の方であられる。この命名は、景行帝が同じ日に同じ胞衾から二人の男子が誕生したことに驚かれ、碓に向かって嘆声をあげられたことに由来する。ところが、記紀の記載では、この双生児の性格も体格も全く対照的に描いているところが面白い。それはともかく、景行帝は小碓命熊襲征伐を命じて出立させたまう。ところが、この辺の記載もまた『古事記』・『日本書紀』とでは描写が異なっている。『日本書紀』によれば、九州に遠征なされたのは景行帝御自身であり、小碓命は一度平定された熊襲が再び背いたので撃ちに行かれたことになっている。対して、『古事記』によれば、景行帝の勅命により小碓命熊襲征伐に向かわれたとなっている。

 

この時期に武内宿禰が何をしたかが不明な点を、小林秀雄は訝しる。神功皇后の寵愛を得て三韓征伐に先立ったのはわかっても、具体的な行動事跡は何らわかっていない。その武内宿禰は、応神天皇の御代の九年、監察使として筑紫に派遣されていたところ、筑紫国を分裂させ、その隙に三韓の軍勢を招いて天下を取ろうとした廉で殺されることになる。現在では、さしあたり外患誘致の未遂罪に該当するだろう行為で処罰されたというわけだ。このエピソードに関して小林秀雄は、ただの政治権力や謀略の姿を見ただけでなく、日本文明の黎明期に現れた不気味な大陸の影響を物語るエピソードとして理解する。その流れは、その子孫にあたる稲目・馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏代々を中心とする、血で血を洗う我が国の古代史を彩っていったというのである。

 
吉本隆明は、人間が個体としてではなく何らかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方としての「共同幻想」が経済的諸関係によって規定される二次的な領域としての上部構造ではなく、それ自体独自の歴史を有することを主張する『共同幻想論』を、原則として『古事記』と『遠野物語』の二書に基づいて書ききった。もちろん、他のテクストにも言及しはするものの、それらはあくまで補助的に参照されるか、議題の導入役にされているにすぎない。とりあえず説得力を無視するとして、その意味で、かなりの力業だと言うことができるだろう。その最終章の「起源論」には、次のように書かれている。

<国家>とよびうるプリミティブな形態は、村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされるとき村落社会の<共同幻想>ははじめて親族体系の共同性から分離してあらわれる。そのとき<共同幻想>は家族形態と親族形態の地平を離脱してそれ自体で独自な水準を確定するようになる。<国家>の本質は<共同幻想>であり、どんな物的な構成体でもないからである。

但し、その内容の正確さ及び立論の厳密さについては問題含みの書であるので、結論としてみた場合、明らかに失敗作であろうし、「イデオロギーはそれ自身の歴史を持たない」と考えるマルクスに対する異論がどこまで説得力ある立論になっているかは甚だ怪しいが、その方法論については必ずしも誤ってはいなかったのではないかと思われる。もっとも、依拠するテクストが『古事記』と『遠野物語』では見えてこない面、すなわち後の『続日本紀』との断絶と連続を考えることにより浮かび上がる「政治的なるもの」の次元がごっそり削ぎ落とされてしまっている結果、国家論としては致命的な欠陥を帯びることになった。というのも、記紀二書及び『日本書紀』と『続日本紀』を各々読み比べてみればわかるように、両者の記述は各々同じ出来事の描写にしても、単なる表現方法の違いなどに還元しつくされない差異が存し、この一方の差異を意識しつつ他方を読まなければ見えてこない重要な点があるからだ。

 

さて、その『続日本紀』の話に持っていくと、神代との決定的な断絶を踏まえつつ、なお『日本書紀』と『続日本紀』を一本の流れとして捉えると、『続日本紀』の対象となった時代は、わが国に千年以上にもわたって続いた律令国家体制確立期であり、この時代が後の日本の政治・社会体制のあり方あるいは人々の考え方のある種の「型」をも決定づけた時期に相当する。仮にもう一つ、社会経済体制にとって決定的なメルクマールとなる「時代」に該当すると思われるのは、織豊政権の頃であろう。中でも、いわゆる「太閤検地」と「刀狩」が行われた豊臣秀吉の政権の時期ではないかと思われる。蝦夷琉球を除いて、全国隈無く統治が行き渡ったのも、豊臣政権の頃である。いわば名実ともに「天下統一」を成し遂げたのは、豊臣秀吉が初めてということになろうか。政治権力を掌握した時代はごく短い期間なれど、豊臣政権下でなされた諸施策が後世に及ぼした影響を考えると、秀吉の果たした歴史的役割の重要度は、織田信長は言うに及ばず、徳川家康をも凌駕しているのではないだろうか。

 

しかし、この豊臣秀吉をも遥かに超える存在が、藤原不比等なのである。草壁皇子を基本軸とした天武天皇から持統天皇への皇位継承、そして最終的に文武・聖武天皇へと継承された一連の出来事は、律令制度に基づく統治体制が確立した時期に相当する。『続日本紀』は、先述の通りこの時期を描く。藤原不比等は、中臣鎌足藤原鎌足)の子息として律令制度に基づく統治体制を確立した上、唐の長安に範をとった本格的な都城制を敷き、かつ史書編纂の実質的な制定主体としても辣腕を振るったことで知られる存在である。と同時に、明治維新まで千年以上も続いた律令国家体制の「総設計士」といっても過言ではない役割を果たした。

 

ところが、自らは決して表舞台に立とうとはしなかったことでも知られる。それどころか、敢えて自らの功績をできるだけ目立たないように隠蔽したとしか思えないほど、表舞台から自らの足跡を消そうとしていた形跡すらあるのだ。今日の「日本」という国の型を作ったという意味で決定的な影響を後々にまで及ぼしながら、その実態が未だに謎のままである「日本史上最大の政治家」。それが藤原不比等なのである。皇室の存在が今も連綿と続いているのも、おそらく藤原不比等なしにはあり得なかったであろう。皇室を中心としつつ、自らの一族はあくまでその側近として権力を掌中に収めつつ、しかし藤原氏自身はその権威の座にはつかない「藤原ダイナスティ」(上山春平の表現)という特殊な統治形態が、武家の時代になっても維持された。

 

この「藤原ダイナスティ」の在り方は、記紀の構造からも読み解ける。記紀は、藤原不比等主導の下で編纂された。その記紀によれば、皇室の祖先は、周知のとおり天照大神である。藤原氏つまり中臣氏の先祖は天児屋命であり、これは天照大神が弟である須佐之男命の乱暴に業を煮やして天岩戸に籠られた際、どうか出てくださいとばかりに祝詞をあげた存在である。そのおかげで天照大神が天岩戸から出てこられて世は再び光に照らされることになったわけだが、このことは、藤原氏はあくまで天皇の臣でありながら同時に天皇の最側近として常に天皇の親政を支える存在であることを証明する宣言でもあり、日本における「政事(まつりごと)」の構造を端的に物語るものでもあるのだ。

 

この「政事の構造」について、かつて丸山真男が講演で語ったことがあったが、確かに日本政治の統治権の行使の中心は、「名と実の分離」という奇妙な構造の下にあった。端的な例は、鎌倉幕府であろう。鎌倉幕府は1333年の滅亡まで将軍は存在したが、我々が習う歴史では源氏三代までで途切れてしまったかの印象を受ける。事実はそうでなく、四代以降は九条頼経などの「摂家将軍」が担ぎ出されたわけだし、六代以降は宗尊親王などの「皇族将軍」が担ぎ出された。将軍権力は名ばかりで、事実上は執権の北条家が権力者として君臨することになるが、その執権すらもが後々には名ばかりとなり、北条得宗の家臣筆頭の内管領でしかなかった長崎高綱や高資が幕府の最高実力者として権勢を振るうことになった。徳川政権でもしかり。四代将軍家綱の継嗣を巡っては、徳川家からではなく、摂関家か皇族から将軍を迎え入れる案まで持ち出されたというのだから、既にこのころから老中や側用人による権力行使に移っていたことがわかる。

 

小林秀雄が『日本書紀』において最も不気味な存在としていたのが武内宿禰ならば、『続日本紀』において最も不気味な存在として挙げられるのは、この藤原不比等ではあるまいか。千年以上にもわたり継続した律令国家体制の総設計士でありながら、具体的に不比等が何をしていたのかが必ずぼやけるような仕方で記述されているからである。いかにして藤原不比等が絶対的ともいうべき権力を手中にいれたのか、その権力奪取の過程が全く記述されていないのである。そのことがわからなければ、日本国家成立の謎も未解明に終わってしまうだろう。

 

天皇が一貫して統してきた日本政治の権力構造は、実際には天皇が自ら政治権力を行使された例が驚くほどなかったほど特殊な構造を持ってきた。絶対的権力ともいえる権力を行使したことは皆無といってよい。しかし、誰も直接自らが天皇になろうとはしなかった。道鏡や自分の子息を天皇につけようと画策した足利義満という例外はあれど、どのような権力者も天皇にはならなかったし、なろうともしなかったし、更にはなろうとしてもなれなかったのである。あの絶対権力を手にした豊臣秀吉ですら、京の御所に黄金の茶室を持ち込み正親町天皇に茶を献上した時、あまりの緊張のために手が震えたと言われる。徳川家康禁中並公家諸法度を定めたとはいえ、天皇に対して楯突くような真似はできなかった。徳川幕府も一応律令制度を前提とし、官位を授かる形で統治していたからである。大政奉還とは、天皇から託された執政権を朝廷に奉還するというものであって、徳川将軍家といえども、天皇の臣たるに過ぎなかった。藤原摂関家の権力の源泉は、神話において皇祖天照大神の側にいた天児屋命を先祖に持つことである。つまり、皇位からの「距離」により権力が正当化される仕組みは一貫して連続しており、武家政権に権力の所在が移ろと、あくまで藤原不比等が敷いたレールの上を行く存在でしかなかったのである。

 

「日本史上最大の政治家」は、同時に「日本」という国家の最大の「黒幕」でもあった。そして不比等の子孫は、現代の日本においても五摂家筆頭近衛家に代表される通り、今も我が国の上流階級に位置し続けているのである。

Westphalian World and China's military buildup

 No truly global world order has ever existed. What passes for order in our time was devised in Western Europe nearly four centuries ago, at a pease conference in the German region of Westophalia, conducted without the involvement or even the awareness of most other continents or civilizations.

 

 The Westphalian pease reflected a practical accomodation to reality, not a unique moral insight. It relied oin a system of independent states refraining from interference in each other's domestic affairs and checking each other's ambitions through a general equilibrium of power. No single claim to truth or universal rule had prevailed in Europe's contests. Instead, each state was assigned the attribute of sovereign power over its territory. International politics shifts, basically affected by changes in the balance of power. Of all factors for the changes of balance of power, what is unique to modern international society since the 19th century is the economic growth of a single country that can bring change to the balance of power.

 

 With the Treaty of Westphalia, the papacy had been confined to ecclesiastical functions, and the doctorine of sovereign equality reigned. What political theory could then explain the origine and justify the functions of secular political order? In his Leviathan, published in 1651, three years after the peace of Westphalia, Thomas Hobbes provided such a theory. He imagined a "state of nature" in the past when the absence of authority produced a "war of all against all". To escape such intolerable insecururity, he theorized, people delivered their rights to a sovereign power in return for the sovereign's provision of security for all within the state's borders. The sovereign state's monopoly on power was established as the only way to overcome the perpetual fear of violent death and war.

 

 The internatinal arena remained in the state of nature and was anarchical because there was no world sovereign available to make it secure and none could be practically constituted. Thus each state would have to place its own natinal interest above all in a world where power was the paramount factor. The peace of Westphalia in its early practice implemented a Hobbesian world. A distinction must be made beween the balance of power as a fact and the balance of power as a system. Any international order must sooner or later reach an equilibrium, or else it will be in a constant state of warfare. 


 Unlike classical examples, such as annexation of other territories or the formation of alliances, this kind of change is invisible for the outside world, and it is hard to determine the point of time when a country has begun presenting a growing threat. China was the center of its own hierarchical and theoretically universal concept of order. This system had operated for millennia basing itself not on the sovereign equality of states but on the presumed boundlessness of Emperor's reach.

 

 In this concept, sovereignty in the European sense did not exist, because the Emperor held sway over "All Under Heaven". He was the pinnacle of a political and cultural hierachy, distinct and universal, radiating from the center of the world in the Chinese capital outward to all the rest of humankind. The latter were classified as various degrees of barbarians depending in part on their mastery of Chinese writing and cultural institutions.

 

 Meanwhile, China has had a bitter experience in Asia. The Ching dynasty, which had its eyes opened following the Opium War, reorganized the nation and proudly built a formidable North Sea Fleet. Of all of Asia's historic political an cultural entities, Japan reacted the earliest and by far the most decisively to the Western irruption acoross the world. Situated on an archipelago some one hundred miles off the Asian mainland at closest crossing, Japan long cultivated its traditions and distinctive culture in isolation.

 

 Possessed of ethnic and linguistic near homogeneity and an official ideology that stressed the Japanese people's divine ancestry, Japan turned convinction of its unique identity into a kind of near-religious commitment. Japan set out, with studious attention to detail and subtle analysis of the balance of material and psychological forces, to enter the international order based on Western concepts of sovereignty, free trade, international law, technology, and military power-albeit for the purpose of expelling the foreign domination. After a new faction came to power in 1868 promising to "revere the Emperor, expel the barbarians," they announced that they would do so by mastering the barbarians' concepts and technologies and joining the Westphalian world order as an equal member.

 

 China, however, failing to realize Japan’s rapid rise since the Meiji Restoration of 1868, did not change its perception of Japan as a miniscule state until the year before the war. That resulted in its defeat in the war 1894-5, invited interventions of western imperialistic powers, and its semi-colonization over the next several decades. With the exception of Japan, Asia was a victim of the international order imposed by colonialism, not an actor in it. China's size prevented it from full colonization, but it lost control over key aspects of its domestic affairs. 

 

 Anti-Japanese demonstrations in China have a history that dates back to the 1919 May Fourth Movement, which was a popular campaign against the warlord-led government of that time.  Meanwhile, anti-Japanese campaigns following the May Fourth Movement stoked anti-Chinese feelings in Japan. Before that, Japanese intellectuals who supported Sun Wen and other leaders of the Republican Revolution (1911) cherished a sense of camaraderie in the Chinese revolution. Those campaigns, however, revived Japanese nationalism. An anti-Japanese campaign in China stimulates the Japanese sense of patriotism. That’s how popular sentiment on both sides plays out. Recent anti-Japanese protests are likely to cause a similar backlash in Japan.

 

 We know that nationalistic outbursts on both sides led eventually to war. In the meantime, the Kuomintang (Nationalist Party) carried out an overt campaign of “offense and contempt” against Japanese residents in China. Prior to the Manchurian Incident (1931), Chinese mounted their version of an intifada against Japanese for example, refusing to sell food, stoning women and children, and abusing them. As a result, many Japanese left China, putting in jeopardy Japanese interests gained after the Russo-Japanese war. That situation continued, more or less, until the outbreak of the Lukow-Kiao (Marco Polo Bridge) Incident of 1937, although some Chinese politicians were determined to avert a clash with Japan, such as Wang Chao-ming, who tried to defuse the bomb. The experience in this period, however, does not, and should not, offer much of a lesson for today’s China.

 

 China today is a great power in its own right. There is no reason whatsoever why the country should use such mean methods to assert itself. The Boxer Rebellion (1900) marked the first time that Chinese had demonstrated against foreigners and foreign powers. The Chinese were angry that their country had become half-colonized. But, to my knowledge, such xenophobia was a rarity in the four millennia that China ruled the world. To be blunt, antiforeign demonstrations seem to mirror an inferiority complex, a sense of powerlessness.

 

 China shifted direction to military buildup in 1997. China’s economy has been growing rapidly since it launched the reform and open-door policy in 1978. Under Deng Xiaoping, China proclaimed a nonideological foreign policy and a policy of economic reforms that, continued and accelerated under his successor, have had a profound transformative effect on China and the world. The country began making serious efforts toward military buildup in 1997, the year after tensions rose over the Taiwan Strait. China’s military budget has shown a double-digit increase for almost two decades. However, it has accomplished true double-digit growth excluding inflation only since 1997. Also, a large portion of China’s military budget was explained as requirement for supporting the enormous army in the country. It is assumed, however, that the country has reduced the number of troops by 500,000 since 1997 and that the resources for the 500,000 troops have been used instead for modernizing the military.

 

 In this vein a top Chines military official, the Chinese People's Liberation Army Deputy Chief of General Staff Qi Jianguo, wrote in a major January 2013 policy review that one of the primary challenges of the contemporary era to uphold "the basic principle of modern international relations firmly established in the 1648 'Treaty of Westphalia,' especially the principles of sovereignty and equality."  At the same time, an element of implicit threat is ever present. China affirms explicitly, and all other key players implicitly, the option of military force in the pursuit of core national interests. Military budgets are rising. China’s military threat is an everyday topic in the world. China is challenging Westphalian order as an outdated imperialistic country. HongKongers are about to be  victims of China as well as Tibetan, Uhigurs, and South Mongolian.

 

動機と効果意思

 平成29(2017)年5月26日に民法の一部を改正する法律が成立したわけだが、民法のうち債権関係規定は,明治29年(1896)年に民法が制定されて以降約120年間ほとんど改正がされていなかったところ、今回の改正は,民法のうち債権関係規定につき、取引社会を支える最も基本的な法的基礎である契約に関する規定を中心に社会・経済の変化への対応を図るための見直しを行うとともに,民法を国民一般に分かりやすいものとする観点から判例として通用している解釈を条文に組み込むなど実務で通用している基本的なルールを適切に明文化することとしたものである。そしてこの改正民法は令和2(2020)年4月1日から施行されることになっている。

 

 さて民法解釈学のおさらいになるが、民法95条によると、錯誤無効の主張が可能となる条件は、「法律行為の要素に錯誤があること」が認められることである。すなわち、民法95条の錯誤無効主張の成立要件である「要素の錯誤」とは、法律行為の重要な部分に錯誤がある場合、通常当該錯誤に陥っていなければ法律行為(契約等)をしなかったであろう錯誤を意味する。これに対して「動機の錯誤」とは、意思表示形成過程における動機のレヴェルで錯誤があったために意思表示をしてしまった場合に問題となる錯誤である。そして、目的物の性質ないし性状等についての錯誤は、この意思表示形成過程上の「動機の錯誤」とみなされている。目的物の性質ないし性状等についての錯誤つまり「動機の錯誤」があるからといっても、動機は直ちに法律行為の内容をなす効果意思(ゆえに給付義務の内容)を形成するものでない以上、当該目的物の性質ないし性状等についての認識ないし判断は何ら効果意思にならない。すなわち契約目的物の瑕疵についての錯誤は「動機の錯誤」を形成するにとどまり、それのみで直ちに法律行為の要素に錯誤があるとはみなされないということになる。

 

 効果意思とは、その意思の表示によって最終的に認められる法律行為に対応する意思であり、したがってそれは法律効果を欲する意思であることにより、この「意思」の中に権利義務の変動の対象となる目的物が入っていなければならない。特定物の場合、「この物」が指示ないし名称されさえすれば足りる。性質は「この物」の属性にすぎず「意思」の内容足りえない。ゆえに性質錯誤は法律行為の内容の錯誤ではなく、動機の錯誤のレヴェルにとどまると考えられている。

 

 ところが「動機の錯誤」であっても、それが法律行為の要素に錯誤があると認められるために付加されるべき条件は、当該動機が「表示」されることであるとするのが、これまで積み重ねられてきた判例の立場であろうと思われる。つまり動機が「表示」されることにより、はじめて法律行為の要素に錯誤ありと認められる可能性が生じることになる(いわゆる「動機表示構成」)。動機は法律行為の不可欠の要素たる意思表示に包含されないことを原則としつつ、同時に表示されることを付加的条件として、その場合例外的に法律行為の内容に包含されうるという論理構成をとるわけである。つまるところ、錯誤主張が認められる最低限の条件は当該錯誤の対象が法律行為の構成要素たる意思表示(効果意思をそのうちに含む)に包含される必要がある、ということを意味するはずである。

 

 他方、改正前民法570条の瑕疵担保責任の法的性質をめぐる主要学説である「法定責任説」に立脚すると、特定物売買契約の目的物の瑕疵についての認識は当該契約の法律行為を構成する効果意思を形成する要素足りえず、したがって当該契約においては目的物の占有移転義務が尽くされたことで完全な履行つまりは瑕疵なき履行として評価される。こうした主張の前提は、契約責任説から寄せられる批判的言辞により形容されてもいる「特定物ドグマ」である(もうひとつ「原始的不能ドグマ」もある)。「特定物ドグマ」からは、いかに目的物に瑕疵があろうとも当該売買契約の効果意思をなすものは「この物を引き渡すこと」でしかない。そうすると、目的物の性質等は一切意思表示の内容に包含されないことが含意されているはずである。

 

 以上から、錯誤と瑕疵担保責任との制度間競合を考えてみると、一方が成立すると他方が成立し得ない関係に立つことが理解されるだろう。というのも、錯誤主張が認められるのは、たとえそれ自身では「動機の錯誤」にとどまるものであっても「表示」されることが付加されることを条件として意思表示の内容になりうるとされた目的物の性質ないし性状等は、瑕疵担保責任が適用される場面では法律行為の内容たる効果意思を形成するものでさえないからである。つまり同一事実関係について、一方では法律行為の構成要素たる意思表示に包含されることを前提とする主張をし、他方でその内容に包含されないことを前提とする主張を同時に展開するという結果をもたらすことになる。これはある肯定命題Pの主張とその否定命題¬Pの主張(P∧¬P)が両立するといった論理矛盾と言わねばならない。

 

 具体例を挙げて、以上の主張を敷衍しよう。例えば、甲と乙との間で中古車Aの売買契約が締結されたとする。ところがAには契約当初からフロントガラスがなかったとしよう。この場合「法定責任説」によると、中古車Aは特定物であるから当該売買契約の効果意思にはフロントガラスがある/ない中古車という目的物の性質は含まれず、中古車Aを引き渡すことのみが効果意思を形成する要素となる。だから中古車Aを乙に引き渡すことだけで甲の履行は尽くされているわけであり契約責任は生じない。このような場合、有償契約の対価的均衡を失することになることから法が特別に認めた責任が瑕疵担保責任であるというのが「法定責任説」からの説明となる。

 

 ところで、フロントガラスがなかったことについての錯誤は原則動機の錯誤にとどまる。ただ当該動機が表示されている限りで法律行為の要素に錯誤があったと認められる余地があるというわけだから「フロントガラスのある中古車を買おう」という動機が「表示」されているという条件付でフロントガラスがない中古車だったら当該契約を交わしていなかっただろうとされる場合、法律行為の要素に錯誤ありと認められるわけである。この点で、フロントガラスの有無という当該契約目的物の性質は法律行為の不可欠の構成要素たる意思表示の内容に含まれることになる(含まれなければ原則通り錯誤主張は認められない)。

 

 ここまできて、錯誤と瑕疵担保責任の制度間競合の問題は同一事実関係において相矛盾する前提に立脚する虚偽の問題であると言わなければならないということに合点がいくであろう。両主張が同時に成り立つとする議論であるとするならば、不可能を求める議論である。この点につき、京都大学法学部の民法学者である潮見佳男は、動機錯誤をいわゆる「動機表示構成」を採用することで法律行為の内容錯誤になりうるとする立論をしつつ同時に瑕疵担保責任における「法定責任説」に立脚するならば、錯誤と瑕疵担保責任との制度間競合の場面で奇妙な問題が生じうることを、詳細を論じることまではしていないまでも、ともかくも示唆している。そして同僚の民法学者である山本敬三も指摘している通り、動機錯誤に関して「動機表示構成」を採用するならば、その拠って立つ前提のために瑕疵担保責任の場面では「法定責任説」に立脚せざる得なくなる。

 

 ところが自らの首を真綿で絞めるが如く、錯誤と瑕疵担保責任との関係では両者は相矛盾する関係に入り込むので、畢竟これら両者を捨て去らねば整合的な法解釈ができないジレンマに陥る。優れた民法解釈学者であるならば、かかる陥穽の原因の核心をなす部分について指摘できるはずである。

Proust on the concept of time(Reprint)

 In his ‘Time and Free Will’, Bergson states that the general conception of time is that of a medium in which impressions are arranged in the same kind of order as is found in space: one impression directly follows another. With the exception of one or two innovating concepts, Bergson is basically conventional in his theories about time. His greatest contribution to the contemporary writer was to free him from the artificial distinctions of clock time by suggesting a sense of time which is meaningful in terms of man’s innermost experiences.

 

 To Bergson, the difference between a time patterned upon space and time patterned upon duration. He based his whole philosophy on the idea that chronological or clock time is unreal and that reality can be found only in man’s inner sense of duration duree. Duree is a state of constant flow existing within the mind in which the present, past, future are not separate. All states of time flow together, ignoring the unnatural succession which clock time attempts to impose. Internal time is pure duration, which may, in a single moment, contain the experience that gives significance to a lifetime.

 

 Marcel Proust was strongly influenced by Bergson in his youth; Bergson was then more popular than any other French philosopher before or since his time. Proust agreed with Bergson that real time is not that which is imposed upon man by space, but that which lives within his mind.

 

 Proust’s writing puts emphasis on instants of recall, the central theme of all his novels; the past is rediscovered by interrupting Bergson’s duree. Thus, in Proust’s novels can be found a restatement of Bergson’s theory of duration as well as Bergson’s theory of the unity of the self achieved through the act of memory. Proust has been called a novelist of multiple time, dwelling on involuntary memory, which gives past persons and scenes a symbolic depth they never had before. A section from Remembrance of Things Past shows Proust’s emphasis on memory as a method of interrupting time flux.

 

 By the way, Heidegger concentrates on existential or historical time: time as the span of my life, rather than the indefinitely stretching medium measurable by clocks or planetary motions. The span of an individual’s life follows a personal time; he is aware of the end of his time, time death and also its beginning. A great responsibility is implied because the individual is made aware of his potentialities during his allotment of time.

Probability, Economics, and Rational Choice

 Probabilities permeate our lives: they show up in weather reports, science, popular reports of science, predictions about election results, chances for surviving diseases, prices on futures market, and of course, in casinos. Probability plays such an important role in modern life that it is no surprise that philosophers are interested in them.  

 

 Evolution is principally a probabilistic concept. There is a plevelent strain of Darwinism, called naive Darwinism, that believes that any species or member of a species that dominates at any point has been selected by evolution because they have an advantage over others. This results from a common misunderstanding of logical and global optima, mixed with an inability to get rid of the belief in the law of small numbers. Just put two people in a random environment, say a gambling casino, for a weekend. One of them will fare better than the other. To a naive observer the one who fares better will have a survival advantage over the other. If he is taller or has some trait that distinguishes him from the other, such trait will be identified by the naive observer as the explanation of the difference in fitness.

 

 Some people do it with traders-make them compete in a formal competetion. Consider also the naive evolutionary thinking positing the "opitimality" of selection-the founder of sociobiology does not agree with such optimality when it comes to rare event. Wilson writes:

The human brain evidently evolved to commit itself emotionally only to a small piece of geography, limited band of kinsmen, and two or three generations into the future. To look neither far ahead nor far afield is elemental in a Darwinian sense. We are innately inclined to ignore any distant possibility not yet requiring examination. It is, people say. just good common sense. Why do they think in this shortsighted way? "The reason is simple: It is a hardwired part  of our Paleolithic heritage. For hundreds of millennia, those who worked for short-term gain within a small circle of relatives and friends lived longer and left more offspring- even when their collective striving caused their chiefdoms and empires to crumble around them. The long view that might have saved their distant descendants required a vision and extended altruism instinctively difficult to marshal.

 

Miller says:

Evolution has no foresight. It lacks the longterm vision of drug company management. A species can't raise venture capital to pay its bills while its reseach team. Each species has to stay biologically profitable every generation, or else it goes extinct. Species always have cashflow problems that prohibit speculative investments in their future. More to the point, every gene underlying every potential inovation has to yield higher evolutionary payoffs than competing genes, or it will disappear before the innovation evolves any future. This makes it hard to explain innovations.

 

 The concept of rationality is not so easy to handle. As the concept has been investigated in plently of fields, it has been developed the most by economists as a normative theory of choice. Why did the economists develop such an interest in it? The basis of economic analysis is a concept of human nature and rationality embodied in the notion of homo-economicus. The characteristics and behavior of such homo-economicus are built into the postulates of cunsumer choice and include nonsatiation and transitivity. For instance, Arrow writes,

It is noteworthy that the everyday usage of the term 'ratinality' does not correspond to the economist's definition as transitivity and completeness, that is maximization of something. The common understanding is instead the complete exploitation of information, sound reasoning, and so forth.

 

 Perhaps the best way to see it for an economist is the maximization leading to a unique solution.Even then, it is not easy. Who is maximizing what? To begin, there is a conflict between collective and individual rationality. "Tragedy of the common" seen by Keynes in his parable of the stadium where one's optimal strategy is to stand up, but collectively the optimal strategy is for everyone to remain seated. Another problem is seen in Arrow's voter's impossibility theorem. Consider also the following voter problem: People vote but the probability adjusted gains from voting can be less than the effort explained in going to the polling place.

 

 Note that the literature on rational choice under uncertainty is very extensive, cutting across fields, from evolutionary game theory to political science. But as John Harsanyi put  it bluntly, it is normative, and meant to be so. This is a heroic statement: Saying that economics has abandoned its scientific pretentions and accepted that it does not describe how people do act but rather how they should act. It means that it has entered the realm of something else: philosophy though not quite ethics. As such, an indivisual can accept it fully and should aim to act like the neoclassical man.

 

 Most of the conventional discussion on probabilistic thought, especially in the philosophical literature, present minor variants of the same paradigm with the succession of the following historical contributions: Pascal, Cardano, De Moivre, Gauss, Bernouilli, Laplace, Bayes, von Mises, Carnap, Kolmogorov, Borel, De Finetti, Ramsey, etc. However, these concern the problems of calculus of probability, perhaps fraught with technical problems, but ones that are hair-splitting and, to be derogatory, academic. They are not much concern in this essay, because, they do not seem to provide any remote usefulness for practical matters. For a review of these, I refer the reader to Gillies, Von Plato, Hacking ,or the more popular and immensely readable 'Against the Gods' by Bernstein, itself drawing heavily on Florence Nighttingale David. I recommend Bernstein's 'Against the Gods' as a readable presentation of the history of probabilistic thought in engneering and the applied hard sciences but completely disagree with its message on the measurability of risks in the social science.

 

 To philosophers operating in probability per se, the problem seems one of calculus. The problem of probability is largely a matter of knowledge, not one of computation. The real problem is: Where do we get the probability from? How do we change our belief? It is far more important to figure out what dice we are using when gambling than to develop sophisticated computations of outcomes and run the risk of having, say, dice with nothing but 6s. In economics, for instance, we have very large models of risk calculations sitting on very rickety assumptions. They smoke us with math, but everything else is wrong. Getting the right assumptions may matter more than having a sophisticated model.

 

 An interesting problem is the "value at risk" issue where people imagine that they have a way to understand the risk using "complicated mathematics" and running predictions on rare events-thinking that they were able from past data to observe the probability distributions. The most interesting bahavioral aspect is that those who advocate it do not  seem to have tested their past predicting record, another Meehl type of problem.

 

 Perhaps the most insightful book ever written on the subject remains the great John Maynard Keynes's Treatise on Probability, which surprisingly has not collected dust- somehow everything we seem to discover appears to have been said in it. In the usual supplied lists of thinkers of probability, Shackle, who refined subjective probability, is often undeservedly absent. Most authors also omit the relevant contributions of Issac Levi on subjective probability and its links to belief, which should be required reading in that area.

徂徠と丸山

 大石内蔵助良雄率いる赤穂旧浅野藩浪士が江戸本所松坂町吉良上野介義央邸に押し入り、吉良の首を討ち取ったいわゆる赤穂事件と称される騒動が起きたのは元禄15年12月14日である。この12月14日には播州赤穂や京都山科では赤穂浪士を偲ぶ義士祭が執り行われ、東京の泉岳寺でも行事が行われているという。もっとも、この12月14日とは旧暦でいう12月14日だから、新暦に直せば1月30日になるので何とも奇妙な感覚に襲われる。初代天皇であられる神武帝橿原宮で即位あらせられた辛酉正月一日はあくまで旧暦の1月1日なので、新暦に直した2月11日が紀元節とされ現在も建国記念の日として橿原神宮紀元祭が挙行されていることとの対比からである。


 『仮名手本忠臣蔵』をはじめ多くの忠臣蔵に関わる話が創られ、また書物の形で方々に流通し、歌舞伎その他の舞台や映画あるいはドラマとして何度も繰り返し語り伝えられているこの事件は、既に「国民的」事件といっても過言ではない。昔は12月14日になると必ずといってよいほど忠臣蔵の映画やドラマがテレビ放映され、「お茶の間」もそれを期待していたらしいが、現在は12月14日が何の日かとんと検討もつかぬといった手合いが圧倒的多数なのではあるまいか。少なくとも僕が物心ついた頃からは、12月14日に地上波で忠臣蔵の映画やドラマが放映されるようなことはなかった。以前、東映で撮影された片岡千恵蔵主演の『忠臣蔵』をDVDで鑑賞したことを年老いた居酒屋の主人に話した際、どのバージョンかという返答が来たので、なぜかと思いきや、片岡千恵蔵主演の『忠臣蔵』といっても数本のバージョンが存在するというのだから驚きだ。そのくらい忠臣蔵は幾度も制作され、人気を博した娯楽作品という域を超えてほとんど「国民道徳の教科書」とでも言ってよいほど日本人の精神形成に寄与していたというのである。


 ところが、この忠臣蔵の物語について触れている教科書となると、ホンの脚注部分に触れられているくらいで詳しい記載はない。大部分の進学校が採用しているはずの山川出版社の歴史教科書『日本史B』も確かに欄外表記だったような気がする(もちろん、おぼろげながらの記憶であるが)。この扱いに関して、かつて小林秀雄は憤慨する言葉を残していた。書かれているとしても申し訳程度に触れられるぐらいにとどまり、その知名度との乖離はあまりに著しいのである。大学受験における日本史の問題で忠臣蔵が扱われた例などないのではないかと思われるほどである。特に東京大学の日本史の問題はいくつかの短い論述問題で構成されており、僕の印象では社会経済史に絡む論点が多かったと記憶している(社会経済史中心に出題される方針が必ずしも悪いわけではないが、この傾向は戦後の日本史学マルクス主義の影響を多分に受けたものであることと無縁ではないのだろう)。


 この忠臣蔵の物語が史実を伝えているとか言われれば、必ずしもそうではなかったとの見方が有力らしい。なるほど、実証史学の洗礼を受ける以前から我が国では異聞や外伝の類も著されているところを見ると、どうやら一般に定型化している忠臣蔵のストーリーは必ずしも史実に従っているわけでもないことに薄々気づかれていたようである。但し、こうした異聞や外伝の類はあれど、それらはみな吉良上野介を悪役にしたストーリーである点に違いはなかった。だが、見ようによっては死にかけの爺さん一人を若い者が寄ってたかってぶっ殺したとも見えてしまうこの事件の真相は今も藪の中である。地元吉良藩での評判通り、吉良上野介義央が天下に並ぶ者なき名君であったかどうかはさておき、一応この評判等から推察される通りの「名君」と呼ばれた知性・教養・人格ともに将たる器にある者との前提に立つならば、主君の敵を討つという構図そのものが崩れてしまいかねないからだ。

 

 徐々に吉良の在りし日の姿が明らかにされてきているところによれば、吉良は「高家肝煎」という名家の中の名家の家柄という事情も手伝って、領民に尊敬されまた慕われてもいたとされ、領民のための政事を行った善政の主君であったという。のみならず、勅旨饗応役指南役として認められていたほどに有職故実にも精通した当時第一級の知識人でもあったらしいのである。対して浅野内匠頭は世事に疎い青二才の上に、有名な癇癪持ちだったという。世間知らずの短気な「バカ殿」とも見られかねないのも、こうした性格に加えてその物覚えの悪さも手伝っている。確か、勅使饗応役を任されたのはこれが初めてではなく二度目であったはず。昔の封建領主は、一般に思われているような「バカ殿」とされるような無能の藩主はほとんどいなかったと言われる。補佐役がしっかりしていたことと幼少時から相応の「帝王学」を教育されてきているからだ。むしろ良き領主であろうと思うあまり、そのプレッシャーに押しつぶされそうになった者の方が多かった。

 

 この赤穂浪士に対する処分の在り方をめぐり荻生徂徠、室鳩巣、林鳳岡との間で戦わされた処分裁定論議において、荻生徂徠は後に「私擬切腹論」と称される持論を展開したことは知られている。丸山真男が近世封建社会の生んだ最初の最も偉大なる「危機の思想家」として賞賛したのが(もっとも、丸山の戦中と戦後の徂徠論には明らかなズレが指摘できるのだが、ここではその点については拘らないとしよう)、この荻生徂徠なのであった。丸山真男が徂徠を評価する基本的な理由として挙げた点は二つである。一つは、丸山が徂徠学をして金線のように貫く特質とせしめたところの「政治の優位性」を主張したという点である。天理と人性、気と人欲、法則と規範、物と人、人と聖人、知と徳、徳と政治を直線的に連続させ、かかる連鎖を道徳性の優位の下に配列し、静的・観照的に世界を把握する「合理性」の体系としての朱子学に対抗して、徂徠は個人の道徳と政治的決定との連続性を否定し、修身斎家から治国平天下を分離し、加えて前者の核心を後者において捉えたことによって、それまで「修身の学」に納まっていた儒学の改変を試みたと丸山は解釈する。いわく、そこに見出されたものは「政治的なるもの」の次元であった。二つ目に指摘されるのは、「公」と「私」との分離すなわち「公的・政治的なもの」までの規範の昇華と、私的・内面的生活の一切のリゴリズムからの解放をカテゴリー的に分離し、その上で両者の両立可能性を論定するというものである。

 

 もちろん、このような丸山の徂徠学解釈の妥当性が今日の徳川期政治思想史研究の水準からみて維持しうるものかどうか怪しい。少なとも、丸山の研究上の後継者である渡辺浩の研究から見れば維持しえなくなった面が存すること否めない。そもそも丸山の研究形成史を紐解いて見ても、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)でのそれと、後に刊行された東京大学法学部での徳川期の政治思想史の講義録(『丸山真男講義録』(東京大学出版会))のそれとでは評価が異なっている面も散見される。それゆえ、上記の通りの丸山の見解を固定的なものとして見る訳にはもちろんいかない。ここ数年では、政治思想史や経済思想史に関する著作を出している経済産業省官僚の中野剛志『日本思想史新論』(ちくま新書)が丸山の徂徠論に対する異論を申し立てており、その主張には批判すべき点が多々あるものの、徂徠の思想に近代合理主義の萌芽を読み込む丸山の徂徠論が牽強付会に過ぎる点に対する批判については概ね同意できるものとなっており面白く読める(この中野の書で最も共感できたのは、「あとがき」である。中野の東大教養学部時代の恩師である佐藤誠三郎の言に中野が共感しているところである。共感の共感である。佐藤の「丸山真男論」の中での中野好夫と丸山の論争について触れている部分である)。

 

 とはいえ徂徠は、この頃の儒学者に多かれ少なかれ見られた二元論的思考の圏域に収まっていたことは事実である。にもかかわらず、例えば伊藤仁斎のそれとはその線引きが違っていたことだけは確かであって、仁斎の思考にはむしろ「政治の優位性」の思想を見出すことは困難であろう。仁斎と徂徠の関係を見れば、徂徠の人物像が「徂徠豆腐」で描かれたような徂徠像とは全く異なる、どうみても嫌な奴という印象しか持てないのであるが(仁斎の学問を批判する徂徠は当初、伊藤仁斎を慕い、仁斎に熱烈な書状まで送っていたほどなのだが、仁斎が体調不良のために返答ができなかった事情を知らず仁斎に無視されたと早合点してしまい、後にそのことが仁斎を批判する立場に転じたといった経過をみると、天下の大学者といえどもその狭量な人格にげんなりしてしまう)、丸山真男が近代政治学の祖とされる『君主論』のマキャベリに比したいと思いを顰めていた点は理解できなくもない。少なくとも『日本政治思想史研究』所収の徂徠論を執筆した当初は、本人も認めるように戦中という刻印が刻まれたものであった。

 

 以後の徂徠論では、なぜか打って変わって徂徠の思考の封建的限界性をあざとく指摘する方向へと向かったのはなぜなのか?この点、丸山のテクストを内在的に読みきったものが僕の知る限り残念ながら存在しない。その頃に既に後に「歴史意識の『古層』」に結実するその思考の萌芽が既に胚胎しはじめていたのかどうか、周辺の講義録を読んでも未だ掴めないでいる。