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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

切断詞的「と」の意味とは?―千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)の今日的意義

蓮實重彦は、批評家としての処女作にあたる『批評あるいは仮死の祭典』(せりか書房)所収のドゥルーズに関する論考において、「と」論とでも言えるような見解を展開している。ドゥルーズは「足す人」であり「接続詞の人」であると述べ、二者択一や演繹と帰納あるいは弁証法的矛盾に回収されることのないドゥルーズの思考の特質の一つとして、この「と」の役割に注目する。このことは、改めて蓮實に指摘されるまでもなく、ドゥルーズ自身が『意味の論理学』で若干触れていたことなので、目新しさを感じさせる論考とは言えないわけだが、蓮實のこの拘りには注目してよさそうである。

 

ドゥルーズは、安定した知覚野を保証する<自己-他者>構造の手前にある多数多様体にまで遡行する。<私>の同一性や世界の同一性も解体して、すべてが粒子と流束の群れとしての多数多様体になっているので、ドゥルーズの哲学には自我もなければ他者もいないと浅田彰は言う。この言に対して蓮實重彦は、浅田の整理は正確ではあるが、とはいえ「自我もなければ」、「他者もない」という否定によるドゥルーズの世界の定義はドゥルーズ的とは言えないと疑問を呈する。映画の画面には否定が存在しないのと同様、ドゥルーズの思考には否定というものがないからだというわけである。しかも、顕在性と潜在性がともに肯定されるというよりも、そこにある「と」という接続詞が肯定されているのだと。

 

そこで蓮實は、『差異と反復』の<と>と、ローレルとハーディの<と>がどう違うかという問題を提起する。ドゥルーズの死後にテレビ放映された『アベセデール』という番組で、ドゥルーズは、ガタリとの共同作業をローレルとハーディにたとえ、ブヴァールとペキュシェみないなものであるという発言をしており、この「と」こそが、項同士の相互補完的関係を解体し、両者をともに単純素朴に肯定する強さの現れとなっている。この強い肯定の実践がないと、単に多様性などと言ったところで仕方がないと言う。

 

この蓮實の問題提起に対する浅田の応答によると、『差異と反復』の「と」は、ローレルとハーディの「と」ではない。というのも、『差異と反復』における「と」は、「差異と差異との累乗=ピュイサンス」、「生成と生成の累乗=ピュイサンス」という意味での「と」である。差異や生成のアナーキーはあっても、それが徹底されると内在的な一貫性を持つようになり、それが反復であり回帰となる。それに対して、ローレルとハーディの「と」は、「交通の人」ガタリが「政治」をもたらしたことによって成立する「と」であるというわけである。これは、哲学と哲学以外のものとを接続する「と」なのだと。

 

この接続詞<と>に関する思想的問題に関して、全く異なる視点から触れた言説が存在する。作家で元外務官僚の佐藤優が、『キリスト教神学で読みとく共産主義』(光文社新書)で面白い指摘をしている。本書は、『共産主義を読みとく-いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート』(世界書院)を改稿して上梓されたものだが、その中で佐藤は、カトリック神学は、「啓示と自然」や「信仰と行為」など「と」で結ばれていることが特徴であるのに対して、プロテスタント神学は基本的に「と」で結ばれた神学を嫌うと言う。こう言われると、プロテスタント神学に位置づけられる神学書でも「と」で結ばれる神学書はいくつか列挙できると反論したくもなるが、それはともかく、ここで佐藤が述べていることが興味深いのは、「と」で結ばれた神学には「安定」が前提され、「救済」に向けた秩序が保持されている。ところが、プロテスタント神学は、そうした「安定」や「秩序」をまやかしと考えるというのである。僕はキリスト教徒ではなく、日本の神道を崇敬する者だし、ましてやキリスト教神学に関して一般常識程度の知識しか持ち合わせていないので、この佐藤の見解の是非について判断することはできない。いずれにせよ、ここで佐藤が「と」の機能を、「安定」と「秩序」を保証するものとして捉えているところに、蓮實の言うドゥルーズにおける「と」の持つ意味との違いがうかがえる。

 

蓮實重彦は優れた批評家で、日本にドゥルーズを紹介した一人であるが、蓮實重彦ドゥルーズとの相性は意外とよくないのではないかと勘繰っている。というのも、先述の『批評あるいは仮死の祭典』所収のドゥルーズ論だけでなく、『フーコードゥルーズデリダ』(河出書房新社)所収のドゥルーズ論「怪物の主題による変奏」、そして『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)所収の「ジル・ドゥルーズと『恩寵』」を読めば、明らかになる。『フーコードゥルーズデリダ』にしても、フーコー論「肖像画家の黒い欲望」と比べると、どうしても見劣りしてしまうし、「ジル・ドゥルーズと『恩寵』」などは凡庸だ。『批評あるいは仮死の祭典』でも、ラストにある「批評あるいは仮死の祭典-ジャン・ピエール・リシャール論」はもちろんのこと、バルト論やバルトへのインタビューが断然面白く、ドゥルーズ論やドゥルーズとの手紙での質疑応答は月並みな域にとどまっていた。

 

おそらく蓮實は、フーコーやバルトと比べて、さほどドゥルーズを愛していなかったのではないかと疑われるほどである。『表象の奈落−フィクションと思考の動体視力』はバルトに始まりバルトで終わっていて、それがために中間に挟まれたドゥルーズ論が全く霞んで見えてしまう。ちなみに、この書は、前後のバルト論が秀逸であるわけだが、それ以外に、「エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン」が佳作の小品となっている。一見ふざけているとしか思われない題名だが、論じられていることは極めてまとも。後の『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房)で繰り返し問われるフィクションの「テクスト的現実」についての先駆的考察が見られる。その後に書かれた『「赤」の誘惑-フィクション論序説』(新潮社)は、さすが蓮實重彦というべき力業である。『「知」的放蕩論序説』(河出書房新社)において予告されており、三浦俊彦『虚構世界の存在論』(勁草書房)にも言及していた。来栖三郎『法とフィクション』(東京大学出版会)にも目を通しているわけだから、相当な力の入れようだ(来栖三郎『法とフィクション』は本文より注釈の方が圧倒的に多く、本文だけだと呆気ないほど短い。ちなみに来栖は、アポロ11号の月着陸船イーグルが月面に着陸したとのニュースが報道されるや、自然科学の圧倒的成果を前にしてショックのあまり、東京大学法学部での講義をしばらくやめてしまったというエピソードの持主でもある)。

 

千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)は、ドゥルーズ哲学に見られる接続的契機と対になる切断的契機をドゥルーズにおける「ベルクソン主義」と「ヒューム主義」に対応させるという仮説設定を措いて論を進めて行く。ドゥルーズの思考に見られる両極端の契機、すなわち「ベルグソン主義」と「ヒューム主義」の対立を際立たせ、後者の思考の存在論への拡張作業を試みる中で、この「と」をいわば「関係の内在性」に対する「関係の外在性」を指し示す「切断」的詞として見出す。

 

連続性に対する離散性の思考を取り出し、その積極的意義を論定する作業とも言いうる試みに対して、ヒューム解釈の観点から異論が差し挟まれることは想像できよう。ヒュームは、「世界には偶然は存在しない」と言っている通り、ヒュームの因果論は専ら認識論的な議論に限定されているわけであるから、その主張を存在論的に受け取ることは無理がある。ヒュームは、古典的確率論解釈として知られるピエール・ラプラスの『確率の哲学的試論』の立場とほぼ同一であり、存在論的には決定論的立場に立っていた。実際、“Though there be no such thing as Chance in the world; our ignorance of the real cause of any event has the same influence on the understanding, and begets a like species or belief or opinion. ”と明確に述べているからである。世界の偶然的在り方ではなく、その逆の必然性を認めていた。但し、本書はヒューム解釈を主題にしているわけではないし、ヒュームの主張が、ここで言われる「ヒューム主義」と同一視されているわけではない。むしろ、敢えて存在論的に「読み替える」作業を行っているので、「ヒューム解釈として誤りである」という批判があるとするなら、その批判は、本書に対する批判としては失当であろう。

 

本書は、実在の連続性において成立する全体主義と対比される、離散的な諸要素のアドホックな連合と解離の描像で捉えられる世界像を提示するために、クァンタン・メイヤスーに代表される「思弁的実在論」を、自説を補強するための参照準拠にして、存在論的に拡張された「ヒューム主義」としてのドゥルーズ像を前面に押し出すことを企図して書かれている。もちろん、この立論が宇宙全体をも包含する存在論として説得的かと言われれば、必ずしもそうとは言えない。何より、メイヤスー自身の立論は、後に一瞥するように、相当な粗が目立つというよりほかない。しかし、ヒューム解釈とは別の文脈で読み替えられたドゥルーズの「ヒューム主義」的側面は、我々の社会における存在の仕方について捉える興味深い視座を提供していることだけは言える。ヒューム解釈として正しいか正しくないか、ドゥルーズ解釈として正しいか正しくないか、などはここでは些末なことである。本書は、大胆な読み替え作業によって著書独自の哲学へと飛翔させようとする企てなのだから、狭い文献解釈にすっぽり収まってしまうものではそもそもない。その意味でも、本書は優れた著作だと言うべきである。 

 

「関係の外在性」というテーマは、バートランド・ラッセルが若い頃に英国で隆盛していた「新ヘーゲル主義」の影響を受けていたこととの関係で、『論理的原子論の哲学』や『ライプニッツ哲学の批判的解明』において格闘していた思考の中にも見出されるものである。ラッセル『論理的原子論の哲学』は、「主語-述語」形式の命題のみならず、関係命題をも扱う論理学の樹立や、真理関数的でない論理関係の形式化の問題に関して、概念の内包とその概念から構成される命題の真理条件との間の関係を主題化している。その背景に、「関係の外在性」の思考を忍ばせているという読みはありうる。この論点は、ライプニッツにまで遡及することができるものである。だとすれば、ライプニッツ『人間知性新論』に登場する「純粋に外的なデノミナシオンはない」という命題の意味に関わる論点に踏み込む記述があれば、尚のことよかったと贅沢を言ってみたくもなる。「関係の外在性」について思考するのに、避けて通れない論点を供しているからである。

 

但し、ラッセルの『ライプニッツ哲学の批判的解明』は、門外漢の僕に言わせても、ライプニッツに対する甚だしい誤読に基づく主張が多く、同時期のルイ・クーチュラ『ライプニッツの論理』と比べると見劣りする。例えば、命題を「主語-述語」形式による命題に還元できるとする言明と、不可識別者同一の原理を合わせるならば、ライプニッツにとって関係的属性は存在しなくなる、というラッセルの主張は、全くの誤りであって、ライプニックのテクストのどこを読んでも、このような解釈にはなり様がない。その他にも、多くの問題を抱えた書であることを承知の上で読まないことには、ライプニッツ哲学の画期性が見えなくなってしまう。この点、クーチュラのライプニッツ研究は、非常に狭い範囲しか対象にしていないが、これを読むことによって、ライプニッツが論理学や論理の哲学に果たした先駆的役割が見えてくる。

 

クーチュラ『ライプニッツの論理』は未邦訳だが、昔オルムスから出された非常に紙質の悪い分厚い著作を神保町の古書店で見つけて衝動買いして読んだことを思い出す。ニューヨークには、グリニッジ・ビレッジにあるストランドという大きな老舗書店が存在するし、4番街には、ブック・ローと呼ばれる古書店街があるのだが、東京の神田神保町古書店街には劣る。古書好きにはたまらない街で、丸一日過ごしても飽きないのは、世界広しと言えども神保町だけである。僕の好きな欧風カレーの名店もあるし、節約したい時は、「キッチン南海」で腹いっぱいにできる。東京という街は、大阪や京都より文化的成熟度のない街だと思うけれど、神保町の古書店街だけは、これらの都市にはない自慢の点なのである。

 

閑話休題。いずれにせよ千葉の著作は、『差異と反復』に代表されるようなベルクソンの系譜の、言わば「連続性」の思考として読まれがちなドゥルーズの思考のもう一つの側面、言うなれば、「離散性」の思考の可能性を強調する研究になっており、その研究史的意義は、冒頭の「切断論」で強調されているほどだ。贅沢を言うならば、『差異と反復』における微分法の位置づけに関する分析があれば、なおのこと、この「切断論」の意味がはっきりしたことだろう。もちろん、本書の第5章では、微分法とベクトル場に関する記載がなされているものの、そこにおいて記述されていることは、平均変化率としての微分係数の説明でしかなく、ベクトル場に関する説明としては若干疑問符がつく記述もあり、しかも、これ以上の立論がなされているわけではない。ドゥルーズ『差異と反復』における微分法の意義について論じるドゥルーズ研究者の数は、ドゥルーズに関する著作が量産されている現状にも関わらず、極端に少ない。小泉義之ドゥルーズ霊性』(河出書房新社)所収の「ドゥルーズにおける普遍数学-『差異と反復』を読む」と、小泉義之・鈴木泉・檜垣立哉編『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社)所収の近藤和敬「『差異と反復』における微分法の位置と役割」くらいしか思い浮かばない。しかし、こうした点は、本書にとっては枝葉末節のことだし、当のドゥルーズ自身が解析学を大して理解していなかったわけだから、ごく一部に疑問符がつく記載があるからといって、本書の価値が損なわれる理由にはならない。

 

この書は、狭義の存在論形而上学の書ではなく、倫理学もしくは社会存在論として読まれるべきだというのが僕の率直な感想である。というのも、我々の社会的活動の範囲を踰越する領域に対して、無媒介に日常言語を用いて論じることは、そもそも困難であり、日常言語では表現し難い概念を表す特殊な言語がどうしても必要だと考えるからである。この点で、僕はウィトゲンシュタインの見解に同意する。ウィトゲンシュタインによる形而上学批判は、時間や世界や存在といった形而上学的問いの重要性を否定したものではない。そうした形而上学的問いについて、日常的な経験言語によって経験的事実に準えて考えることを否定したに過ぎない。特に、非時間的で経験的事実ではない事柄について、特殊な時間的存在や持続的に存在する経験的対象のように考える愚を諫めていたのである。形而上学的な存在論の大半が愚にもつかぬ戯言に終わってしまうのも、それらを思考するための概念とその概念を表現する言語に関してひどく鈍感であることに起因しているとも言えるのだ。

 

自身の守備範囲を遥かに超えた領域まで徒に論じようとする一部の現象学存在論に僕が点が辛いのも、現象学が超越論的還元を遂行する際に、その当の言語に対して何ら意識的でないことに基づく。我々の日常的な経験に対して一歩引いた地点から反省し、その細かな経験の襞を丁寧に見つめるまではよくても、その範囲を超えたところにまで手を伸ばそうとするや、たちまち胡散臭い話になっていく(もちろん、「領域侵犯」が一概に悪いわけではない)。「現象学的言語」なるものがあればよいが、日常の使用文脈からその語の意味内容が決定するはずの日常言語自身で以って現象学的分析を遂行したところで何が得られるのだろうか、という素人からの素朴な疑問に現象学は何ら応えていないと思われるのである。

 

先述の通り、本書ではクァンタン・メイヤスーらの「思弁的実在論」が度々参照されてはいるが、「思弁的実在論」の主張そのものに対して、僕は全く同意することができないというのが正直な感想である。しかし、「思弁的実在論」の主張に賛同しなくとも、そこから別の問題を考えるにあたってのヒントをもらうことは十分あり得ることである。それは「思弁的実在論」の「読み替え」作業を通じてなされるものであり、そうすることによってこそ、千葉の著書は、「思弁的実在論」にはない妖しい魅力を放つだろう。メイヤスーに関してだけ言うならば、あくまで流し読み程度でしか付き合っていないのだが、なぜこれが一時的・局地的にせよ持て囃されたのか理解できないのである。

 

「思弁的実在論」の主張の背景にある近代哲学の軛からの解放という目論見自体は、ある程度理解できるものの、そこでの批判対象となる「相関主義」の範疇が広範に過ぎ、焦点がボヤけてしまっていることが、立論の粗雑さとなって跳ね返っている。だから、カントには当てはまっても、ウィトゲンシュタインには当てはまらない点や、その逆のケースもある。そもそも、カント批判として単純な議論が目立つ。必然性と不可能性といった様相概念間の関係についての主張にも、誤りが多く含まれている。総じて、批判対象を極端に矮小化した上での批判に終始しているという立論全体の欠陥もある。僕に言わせれば、「詐話師」としか思われないアラン・バディウ『存在と出来事』における「全体化不可能性」の議論を持ち出して確率について論じる箇所も、せいぜい頻度主義的確率解釈しか扱っていない粗が目立つ。

 

クァンタン・メイヤスー『有限性の後で-偶然性の必然性についての試論』(人文書院)でいう「相関主義」とは、我々は思惟と存在を相関関係においてしか捉えることができず、切り離して捉えられたこれらの項の一つに決して接近することはできない「壁」が存在することを、直接的ないしは間接的に主張する哲学・思想の潮流全体を指す。我々の認識能力には限界があり、現象を超えた「物自体Ding an sich」の理解には及ばないと解するカントの立場がその典型とされる。カント以後の、特に20世紀の哲学において大きな潮流となった現象学分析哲学も、この「相関主義」に当てはまるという。20世紀の相関の主要な二つの境界は「意識」と「言語」であり、これらが各々現象学分析哲学を支えたと言える。この「相関主義」には二種類あり、一方が「弱い相関主義」で他方が「強い相関主義」である。前者は一旦「物自体Ding an sich」の存在を認めた上で、「物自体」は認識できはしないが一応思考の射程に入っているとするカント主義である。後者は、フッサール現象学ハイデガーあるいはウィトゲンシュタインに代表される現代の分析哲学一般に見られる特徴であるとメイヤスーは言う。この立場は「物自体」の存在を認めず、したがって、それは認識されないだけではなく思考すら不可能であるという立場である。

 

メイヤスーは、科学の諸法則は無条件的な必然性を持たないと言う。すべての自然法則や論理法則は、なぜそれであって他でないのかの理由はなく、単なる事実性があるばかりの偶然的なものに過ぎない。自然法則は、偶然にその法則が安定的な仕方で維持されているに過ぎず、その安定性に理由はない。絶対的な「ハイパーカオス」によって如何様にも変化可能なのだというのである。この「事実論性」とは、事物の存在の特性つまり我々が考えようと考えまいとそうであり続ける特性である。世界の諸事物は、それが従う法則とともにそのすべてが理由無しに存在している。このことに対して、メイヤスーは「無理由の原理le principe d’irraison」あるいは「事実論性の原理principe de factualité」と名づける。この原理は、思惟に相関することはない絶対的な思弁的真理であるとメイヤスーは主張する。

 

カントにおいては、法則が必然性を持たず偶然的であるならば理由なく頻繁に変化するはずであるところ、現実には法則の安定性が観察され理由なく突然変化するようなことはないので、法則は必然性を持つということになる。この必然性を基礎づけるために、カテゴリーの超越論的演繹論が導入されている。これに対してメイヤスーは、法則の安定性が観察されようとも、そこから直ちに法則が必然性を持つことは帰結せず、法則が偶然的であったとしても、法則の安定性を説明することは十分可能であると応ずる。この際に持ち出されるのが、「サイコロゲーム」である。「サイコロゲーム」において安定して同じ目しか出ないなら、我々はそのサイコロに何らかの細工が施されていることを疑う(つまり何らかの必然的理由があるのではないかと疑う)。それと同様に、自然法則が安定して同一原因から同一結果が生起することを観察すると、そこに必然性を認める者は、その安定性を説明するための必然性を想定してしまう。

 

この想定に誤謬があるのだとメイヤスーは批判する。その時に持ち出される理由が、自然法則の「偶然性contingence」は「サイコロゲーム」のような確率論的「偶然hasard」と異なる次元に立つというものである。すなわち、「サイコロゲーム」の偶然は、全体の目の数が決まっており、各々の目の出る確率が計算可能であるのに対し、自然法則の偶然は、「宇宙サイコロ」の目の数が無限であることから確率計算が不可能だからである(ある意味で、経済学者フランク・ナイトが主張する「リスク」と「不確実性」の二分論に近いとも言えるだろう)。確率計算には、可能な選択肢が数的な全体を構成する必要があるのに対して、メイヤスーはアラン・バディウ『存在と出来事』で展開されるカントル集合論の超限数(transfini)の議論に依拠する形で、「宇宙サイコロ」の可能的宇宙の集合全体を思考することはできないと主張するのである。集合aの再グループ化された集合bは、aが無限であろうとaより濃度が大きいことを示したカントルの定理から、超限数の濃度の系列を構成することが幾らでも可能なのだから、当該系列の全体化は決して可能にならず、このような可能なものの全体化が不可能であるのならば、カントのように自然法則の偶然性から頻繁な変化を主張したり、逆に法則の安定性の観察から必然性を基礎づけることはそもそもできないというわけである。

 

必然性について、メイヤスーは論理的・数学的必然性と無矛盾律を認めはしても、それ以外の必然性を承認しない。自然は論理的・数学的必然性を承認したとしても、物理学的必然性までは認められない。この宇宙は非因果的な宇宙であり、因果的宇宙のように安定性ないし斉一性が保持されていようと、そこから直ちに安定性ないし斉一性の必然性までは帰結しない。自然の斉一性の原理の不在を主張し、法則の必然性の放棄を主張し、逆に唯一の即自的なものとしての「カオス」が絶対化された「ハイパーカオス」こそが目に見える世界の安定性を可能にするというアクロバティックな議論を展開するのである。ところがメイヤスーは、「ハイパーカオス」の絶対性を主張する「事実論性」の原理から、形成素として「物自体」である実在世界の存在とその無矛盾性ないし整合性を導くものの、数学に関する真理の思弁的導出には何ら考えが至らないのである。

 

しかも、世界の安定性を認め、自然科学の成立を承認するにもかかわらず、安定性の根拠を必然性ないしは何らかの理由の原理に基づかせずに「ハイパーカオス」としての偶然性や非全体化された無限の可能性によって説明するメイヤスーの議論の仕方にも問題がある。ちょっと考えてみればわかろう。サイコロにおいて特定の目が常に出るのは、何らかの必然的要因に拠るけれど、「宇宙サイコロ」の場合には常に安定した目が出続けたとしても、必然性はなく偶然によると言えるとする推論には、そもそも合理性がない。可能性の目が非全体化された無限であるとして、それが有限の数しかない中で特定の目が常に出るサイコロよりも一層の必然性が要求されると考えることは誤謬ではない。

 

自然法則や論理法則(自然法則と論理法則とは全く性質が異なるものだと思われるが、ここではそういう突っ込みはなしとして)の究極的な理由を説明できないことは、直ちに「どうにでも変様しうる」ことを帰結しはしない。そもそも、ここでいう「究極的な理由」が何を意味しているのか、つまり、どう答えれば「究極的な理由」を説明しえたことになるのかということもはっきりしない。「究極的な理由」を含む命題があるとして、その時の真理条件があるのかないのかさえ不明である。とすれば、その命題で何を意味しているのか、メイヤスー自身もわかっていないのだろう。そうすると、この「問い」は、一見有意味な問いのように思えても、実は「問い」として意味をなさないのではあるまいか。そういうイチャモンをつけてみたくもなる。要するに、「あなたは御自分の言っていることが何なのかわかって言っているのですか?」ということである。しかも、ここでいう「自然法則」には、単なる現象論的な法則もあれば、数学的理由から要請される深いレベルでの法則もあるだろうに、それもゴタマゼにしている乱暴さがある。「無理由の原理」も、単に「理由がない」というだけにとどまらず、そこには暗に「無差別の原理」をも含意させている。この問題は、確率論を扱う場合に避け難く生じる問題なのだが、こういう点に関して、メイヤスーは至って無自覚なのである。

 

「相関主義」に対する批判として、「祖先以前的言明」の解釈が取り上げられる。 ここで「祖先以前的ancestral」な出来事と挙げられている例は、ビッグバンであったり地球の形成や地球上の生命の誕生、あるいは放射性物質の崩壊速度が知られた同位元素の存在などである。しかし、「祖先以前的」であろうがなかろうが、認識主観の存在以前についての言明を以ってカント批判になりうると考えるのは、あまりに杜撰な批判であるし、そもそもカントの立場を採ったとしても、「祖先以前的」出来事について有意味に語ることはできる。ここでのカント主義に対する批判は、あたかもレーニン唯物論と経験批判論』に見られる杜撰さと瓜二つというべきだろう。

 

このレーニンに見られる杜撰さが、マルクスに由来するものなのかというと、決してそうではない。確かに、俗流マルクス主義にかぶれた者たちの自然観といえば、19世紀の自然科学的世界像を適当な変更を加えて追認したものにすぎず、内実的には古典物理学的自然像の一変種という印象を与える。廣松渉の言う通り、マルクスエンゲルスの場合、俗流唯物論との厳しい対決を通して理論的構築がおこなわれており、近代哲学的世界了解の超克と新しい哲学的世界観の模索を標榜したフォイエルバッハの提言を承け、「科学主義的Objektivismus」な世界像と、これと双対をなす「人間主義Subjektivismus」の地平を先駆的に踰越すべき問題状況下におかれていた。「自然と人間との真の統一」という問題意識をヘーゲル左派のフォイエルバッハやブルーノ・バウアーから継承しつつ、新たな自然観・人間観ひいては新しい世界観の地平を開かんとしてして書かれた共著『ドイツ・イデオロギー』において、マルクスエンゲルスフォイエルバッハの不十分さを批判する中で、フォイエルバッハは自身をとりまいている感性的世界は決して永遠の昔から直接無媒介的に存在している恒常的に自己同一的な事物なのではなく、産業と社会状態の所産であるということをみないと批判している。

 

マルクスエンゲルスならば、「祖先以前的」出来事についての言明の解釈に関して、廣松渉の表現を借りると、次のように応答したであろう。すなわち「物質そのものals solche」というのは純粋な思惟の創造物であり純粋な抽象であって、物質そのものは感性的に実在するものではない。自然科学が単元的物質そのものを探求する時、そこで企図していることは、サクランやリンゴの代わりに果物そのものを見出そうと努めるのと同じことある。「われわれにとっての事物」というのは、単なる「認識された事物」という次元においてではなく、人間の歴史的実践つまりは「生産活動」によって開示されたDa-und Soseinの意味である。人間が間主体的な「協働的対象活動zusammenwirkkende gegenstaendliche Taetigkeit」において「内・存在」する「自然」である。廣松渉の結論によると、マルクスエンゲルスは社会的・文化的な形象が物象化versachlichenされて現前するかぎりで「自然の歴史化」と併せて「歴史の自然化」をも問題にしていくが、総じてこの世界は、ハイデガー流のZuhandenseinそのものではないにしても、歴史的に被媒介的な共同的生世界Mit-lebensweltなのだと。

 

「思弁的実在論」に対する酩酊者のボヤキの如き無責任な放言となったが、千葉の著作は「思弁的実在論」を、主として「関係の外在性」を論じ、ドゥルーズの「ヒューム主義」的側面を存在論的に拡張して論じる文脈において(補強する言説として用いられている点が否定できないが)一つの参照項として利用しているだけであって、「思弁的実在論」に全面的に依拠しているわけではないし、全面的に賛同しているわけでもないので、メイヤスーに対する批判が直接当てはまるわけではない。したがって、「思弁的実在論」が意図している広範な形而上学の書として本書を読んでしまうと、本書の持つ真価を見誤ることになる。そういう読み方をすると、「思弁的実在論」の致命的誤りがそのまま本書の誤りに直結してしまうからである。しかし、そう読むのは誤りであって、本書は、メイヤスーらの思考を参照こそするが、決してその引き写しではない。本書の魅力は、「ヒューム主義」の存在論的読み替えと同時に、メイヤスーの「思弁的実在論」の読み替えという二重の読み替え作業によって提示された(形而上学的な存在論とは異なる)存在論なのである。だから本書で語られる存在論は、社会存在論及び倫理学として読まれることによってこそ、その真価が発揮されるというべきなのである。

 

『意味がない無意味』(河出書房新社)所収の論考「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない-倒錯の強い定義」にある「存在論的ハッテン場」という概念が、何よりもそのことを物語っている。ギャルとギャル男、ギャルとギャル、ギャル男とギャル男の、分離しつつ互いの分身に生成変化することを互いの欠如を相互補完する関係としてでなく、ズレや重なりとして捉える千葉雅也が参照するのは、クィア理論の研究者としても知られるレオ・ベルサーニの「社交性とクルージング」である。この論文は、ゲイたちが外面的な判断のみによって相手を選び適当に性行為を楽しんで去っていく「ハッテン場」を、ゲオルグジンメルの「社交性」の概念を使って分析する。この「ハッテン場」では、自分の実存すべてを賭けた交流はなされない。あくまでも自分の一部ないし表面だけが曝されるという意味での「以下性lessness」において付き合うことが指摘されている。

 

千葉は、この存在の仕方を、社会における個人の存在の仕方へと発展させる(存在論化する)。つまり、この社会は銘々の存在者が銘々の「以下性」によって多角的に分離し多角的にズレている「ハッテン場」であるかのように考えるわけである。この文脈で、ギャルとギャル男(のみならず、ギャルとギャルとの、ギャル男とギャル男との同性同士のセックスをも含む)の「チャラ打ち」を肯定的に捉える。この社会存在論は、「虚実の狭間をどうでもよくたむろしているギャル男のギザギザでスカスカの『盛り』」がアレゴリカルな意味を持つところの「互いの無関係なるthingsの社交性、あるいは、各々が自らにおいて多面的に絶滅を経ているかのような『頭空っぽ性』に即して構想される」多孔化された共同性の場の提示であり、それは同じく『意味のない無意味』所収の「美術史にブラックライトを当てること-クリスチャン・ラッセンのブルー」にある「珊瑚礁のごとくに、あるいは、ホストたちの鬣のごとくに盛り-並べられた、生息地を異にする表象の部分から部分へ、見ずに見る視線をジャンプさせる乱交」の場としての社会への希求であり、「匿名的な者たちによる刹那のセックス」の持つ「愛の制度を共有しない、半-無関心的に平和であるばかりの、かつ、それゆえに一触即発でもあるのだろう、ヒットしないヒットの戯れ」が反復されていくことの、倫理学的肯定をも含意する哲学でもあるのだ。

 

こうした社会哲学を打ち出したのは、千葉雅也以外の他に存在しない。これまでの社会存在論倫理学は、特に日本において、暗に「健全な市民」のみを想定した「健全な市民」の典型でしかない大学の講壇哲学研究者による「御行儀のよい」ものでしかなかったところ、千葉雅也は逆に「アウトロー」までをも包含した「凶暴な思考」にまで及んでいる。「世間の良識」に縛られることから遊離していく思考は、時には「御行儀のよい」者たちの「良識」を逆撫でするかも知れない。しかし、そうした危うさを持った哲学だからこそ、妖しい魅力を放つ。それは、「御行儀のよい」者たちの偽善欺瞞に満ちた腐臭とは対照的な、派手に盛られたギャル男の髪やド派手に改造された暴走族のブチ上げ単車や攻撃的な文句が刺繍された特攻服が見せる異常な美しさにも重なる。時に「読みやすさ」を犠牲にしもする著者の文章が、官僚が作文した国会の答弁書のような文章から遠く離れていくのは、ある意味で当然のことなのである。

 

現代の倫理学の主流は、カント主義的義務論の系譜に位置づけられるジョン・ロールズの正義論と、ジェレミーベンサムジョン・スチュアート・ミルやヘンリー・シジウィックの目的論の系譜に位置づけられる功利主義倫理学に偏っており、倫理学の対象は、専ら「行為の倫理学」であると言わんばかりの偏向ぶりは、たとえアリストテレス倫理学の復興としての徳倫理学が出てきたとはいえ、物足りなさが否めない。主流のメタ倫理学や規範倫理学とは離れた場所で、レヴィナスフーコーが研究されてはいるが、ドゥルーズ哲学を倫理学や社会哲学として読むことの方が実りのあるものとなるに違いない。フーコードゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』に関して「倫理の書」と正しく評していたように、千葉のドゥルーズ論は、本人の意図がどうであるのかは別として、社会存在論であり「倫理の書」でもある。

 

倫理学は、何も今主流になっているメタ倫理学や正義論と功利主義に二分される規範倫理学だけではない。哲学アカデミズム主流の論文とは違ったスタイル(制度的には、東大駒場表象文化論コースに提出されたという事情もあるのだろうが)は、アカデミズムの不自由さの軛から離れたところで伸び伸びとした思考を許容し、哲学の研究書というより批評に近い内容と文体が、アカデミズムの極く狭い領域でのみ細々と読まれるに過ぎない書物に終わることなく、多くの一般読者に迎え入れられた理由の一つになっているのではないか。哲学専攻の学位論文では通常引用されることがない柄谷行人蓮實重彦浅田彰東浩紀松浦寿輝など批評家の文章が参照テクストとして遠慮なく使われているところを見ても、そう思う人は多いのではなかろうか。

 

そこで、冒頭の「と」論の持つ意味が明らかになるはずである。蓮實重彦が、先述の『アベセデール』の中でのドゥルーズの発言、すなわちドゥルーズの「哲学によって哲学を出る」という発言を取り上げ、『襞-ライプニッツバロック』を執筆した後のエピソードを紹介している。ドゥルーズによると、その著書に反応があり、紙折職人からの「襞とは我々だ」という反応や、サーファーからの「襞とは俺たちのことだ」という手紙を貰ったという。俺たちは波と波が折り重なる襞の中に日々生きているというわけである(僕もサーフィンを長くやっているが、日々襞の中に生きているなどと思ったことは残念ながらない。『差異と反復』や『襞』を読んでいたから、後で意識化することはあっても)。ドゥルーズは、「襞」という哲学的概念として昇華された概念が紙折職人やサーファーの日常になっていることを喜んでいるのだ、と蓮實は言うのである。ドゥルーズにとって、それが哲学によって哲学を出ることを意味する。

 

つまり、この「と」とは、諸存在者の併存をある一定の秩序の下に並置させる安定の基盤としての共同体の保証機能を意味するわけではなく、異なる諸存在者がアワやアブクのようにボコボコ隆起しては沈滞し、重なりもすれば微妙なズレを演じながら狂喜乱舞する場を示すものであり、「珊瑚礁のごとくに、あるいは、ホストたちの鬣のごとくに盛り-並べられた、生息地を異にする表象の部分から部分へ、見ずに見る視線をジャンプさせる乱交」の場、もしくは「虚実の狭間をどうでもよくたむろしているギャル男のギザギザでスカスカの『盛り』」がアレゴリカルな意味を持つところの「互いの無関係なるthingsの社交性、あるいは、各々が自らにおいて多面的に絶滅を経ているかのような『頭空っぽ性』に即して構想される」多孔化された共同性の場を肯定する接続「詞」的でもあり同時に切断「詞」的でもあるのだ。

ソフトなファシズムの到来?

 改正特措法に基づき安倍首相の判断で先月に発出された緊急事態宣言は期間満了を迎える6日より先も解除されることなく、一月ほど延長される見込みだという。外出や休業の自粛要請(パチンコ店のみを狙い撃ちしたかのような「自粛」とは名ばかりの「強制」もあったようだが)に応じてきた国民だが、これ以上「自粛」期間が継続すると、日々の生活を維持することが困難になる国民の数が急激に増加し、売上激減に伴う企業の連鎖倒産が起こってくることが予想される。内国の法人企業の圧倒的多数を占める中小企業の連鎖倒産は、いずれ大企業の首を締めつけていく。既に、大手航空会社の財務状況は危機的水準にまで悪化している。JR各社ですら安穏としていられない状況だ。経済活動を下支えしている生産ラインがストップするような事態にまで至れば、日本経済は壊滅的痛手を被る。その他のサービス業の記録的落ち込みも酷くなる一方だ。いくら「コロナ収束後のV字回復」を叫んでみたところで、肝心の生産現場が壊滅していれば供給確保がままならないのだから、「V字回復」など到底期待できなくなるのは誰が見ても明らかである。

 

 事態が一層深刻になれば財務基盤が脆弱な企業はもとより優良企業すらもが潰れ、大量の失業者が街に溢れることすら想定しておかねばならない状況との認識がどこまで共有されているか極めて怪しい。中には、この際に不採算企業を潰してしまえと言う国会議員がいるようだが、この発言は、今回の事態は周期的に訪れる単なる不況ではなく事態が相当に悪化すれば日本経済を支える屋台骨すら折れてしまいかねない危機的状況であることを全く理解していない暴言である。国家と国民の生命・財産を守る意思も能力もないこのクズ議員に「天誅」が下されることを願わずにはいられない。経済が崩壊すれば、当然に犯罪も増え社会の治安は乱れる一方となる。「弱者」が食い物にされるだけでは収まらず、「強者」としてふんぞり返っていた者たちも憎悪の対象となって襲撃されることも起こりうる。これが杞憂であることを望むが、少なくとも近い将来、生活苦による自殺者数や餓死者数が新型ウイルスによる死亡者数を上回ることがあっても不思議ではないとの考えが政策決定権者に共有されているかが問われている。

 

 事態に慌てふためいた政府は近いうちに経済活動の再開を言い出さざるを得なくなり、遂には緩和策に舵を切るだろう。それでも何とか持ちこたえられればよいが、政策決定権者は常に最悪の事態をも念頭に入れた上での決断に迫られる。ともすれば再び感染拡大を招いてしまい、辛うじて急場を凌いでいた医療現場がパンクして事態が泥沼化することも想定しておかねばならない。PCR検査体制の拡大が必要なことくらいは誰でもわかっているが、同時にキャパシティが現実的にあるのかという問題も考慮に入れた上での実行可能性ある施策が求められているわけであって、そうした現場の準備体制について考えずに無暗に検査数を増やしたとすれば医療現場は大混乱を強いられるだけに終わり、そうすると最悪の事態として医療崩壊の悲劇を見ることになる。

 

 中には、安倍政権を批判することだけを目的に言論活動したいあまり、「医療崩壊など起きる危険はない」と強弁する者(医師会を目の敵にしている左翼に多く見られるが)もいるが、その者の周囲には実際の医療現場に立っている者が一人もいないのだろうかと疑いたくもなる。これ以上感染者が増加するようなことになれば、現場は持ちこたえられないと悲鳴を上げている医療従事者は数多く存在するのである。検査数を増やすにしても対応可能な体制になっているのかを念頭におきつつ、臨時の専門病棟を感染者数の特に多い地域から建設すると同時に、人員確保のための臨時の医行為要件の緩和を講じるなり、やるべきことは山ほどあるはずだ。この点に関して門外漢であるのでこれぞという名案は思い浮かばないが、それでも布マスクを各二枚ずつ配布するのに要する費用があるのなら、そうした医療体制の充実に向けた予算に回す方がよほど賢明であることぐらいは素人でも理解できることである。この政権は何か国民が動揺すると、場当たり的な「火消し」をすることで対処してきた。今回の事態は、もはやそうしたアドホックな対処が通用しないことを示してもいるのである。

 

 ここ二十年の間の緊縮財政の下で病床数が大幅に減らされ、特に地方の病院は統廃合を余儀なくされていった。感染病床数となると、5分の1ほどに激減された。最近でも、昨年末に地方の病院の病床数を約13万床削減する方針がとられたばかりである。地域の保健所も統廃合され、非常時に対応できるだけの能力を意図的に削いでいったのである。狂ったことに、今年度予算には病床数削減のための予算が数百億円も計上されている。橋本龍太郎から安倍晋三に至るまで、この国の政権担当者(自民党公明党ばかりではない。旧民主党の連中も基本はこの路線を追求してきたのであり、その意味で野党が偉そうに言えた立場ではないのである)は日本社会を根本から破壊する政策に邁進してきたし、朝日新聞をはじめとする主要メディアも、そうした生活破壊のための政策を財政難を理由に肯定してきた。なんのことはない。既に安定した立場を得た者が自らの地位を保持するために、その他の国民を貧困化させることで相対的優位な状況を維持し続けたいと意図しているためである。そのツケを国民が払わされているという事実を見なければならないだろう。現在の日本社会の混乱は決して天から降ってきた災いなのではなく、相当部分は人災なのだ。自民党から共産党まで等しく、この国を破壊しつくそうと邁進してきた結果なのである。

 

 仮に事態がなおのこと深刻化するならば、社会全体に不安が覆うことで荒廃した様相を呈してくるかもしれない。そうしたことも最悪の事態として想定しておかなければならない。もしかかる事態に至れば、それに伴って世論も「敵」と「友」に分かれての応酬合戦が繰り広げられるだろう。既に米国では経済活動再開の是非をめぐって意見が真っ二つに分かれ、双方が角突き合わせて罵倒しあう光景が見られ始めている。もともとニューヨークは多様な背景を持つ幾つかの政治信条の衝突の場なので、意見対立に際して全うな議論の場が成立しうるならば、むしろその方が健全な姿と言えようが、その範疇にとどまらず徒な罵倒合戦となるだけでは互いに憎悪の感情を膨らませることになり、延いては国民国家の基盤となる市民社会に深刻な分断をもたらすことになるだろう。それが恐ろしいのは、それこそがファシズムの温床になるからだ。

 

 その兆候となる言説は、自分と異なる信条を持つ者に対する「悪魔視」や「病気化」の言説である。特に米国は元々北部マサチューセッツ州プリマスロック辺りに辿り着いた極端なピューリタニズムを信奉する集団がヘゲモニーを持ってきたこともあって、自分たちと異なるグループをディーモナイズしたり精神疾患に準えたりしてきた歴史を持つ。これは左右に関係なく見られる言説であって、今回のコロナ禍でもそうした言説が左右双方から聞こえてくる。リビアカダフィが集団リンチに遭って惨殺されたシーンを目にしたヒラリー・クリントンが目を輝かせて、We came, We saw, He died!と言って狂喜乱舞したクレージーな人間であることを思いだそう(彼女は国家安全保障会議での議事においても、他にもイラクやシリアそしれイランに対してWe will obliterate Iran!と言い、これらを地上から跡形もなく殲滅してしまえ!と吠えまくっていたし、同じく民主党ソマリア移民でドナルド・トランプと舌戦を繰り広げたイルハン・オマルはヘイトスピーチ規制を訴えるくせに舌の根乾かぬうちに「イスラエルを地上から抹殺せよ!」と絶叫している議員である)。大事なことは、そうした相手をディーモナイズしたり病気と罵倒する人間がいたとしたら(日本にも数多く存在することだろう)、たとえ政治信条を共有する者であってもそういう者を信用してはならないということである。

 

 かつて欧米の帝国主義者たちは、植民地諸国を安定的に支配するために「分断統治」の方針を採ってきた。中東やアフリカ諸国の国境線が不自然なのは、そこで部族間の紛争が起こりやすくするために恣意的に国境線を敷いた結果であり、それが今もなお中東地域やアフリカ地域の不安定要因の一つとなっていることはよく知られているところだろう。現在のイスラエルも専ら自国の安全保障を考え、中東諸国が反イスラエル共闘で団結しないよう中東諸国同士で紛争が長期化する「分断戦略」を採ってきた。イラン・イラク戦争の際、米国はサダム・フセイン率いるイラクを支援したにも関わらず、米国の同盟国イスラエルはイランを支援していた事実が端的に物語る。ヒラリー・クリントンとともに将来には「殺人狂」との評価が定着するだろうバラク・オバマは、シリアのアサド政権を潰すために、ISILよりも過激なスンニ派サラフィー・ジハード主義者のテロリストを支援してきたという事実を記憶にとどめておくべきだろう。

 

 分断されつつある社会では、事態悪化の真の要因を考えずにわかりやすい「敵」を見つけて攻撃する現象が発生する。その「敵」が真の「敵」であるならともかく、たいてい「敵」とされた者たちは人々の鬱屈した感情のカタルシスのために「生け贄」とされた偽の「敵」である。その「生け贄」は概して、マスメディアによって煽動される形で作り上げられる。例えば、最近の日本社会のパチンコ店バッシングは、ほとんど「集団リンチ」の狂気と化しており、マスメディアが報道機関として冷静な言論空間を整える務めを怠り、逆に偽の「敵」のバッシングに火をつけまくっている。このバッシングにより助かるのは、本来やるべき施策を講じていない政権担当者たちであり御用マスコミである。報道機関の体をなしていないマスコミは、他人に休業を強制する暇があるなら、不要な自分たちこそ早々に休業してはいかがかと言いたくもなろう。自分たちの属する業界の中だけで通用する理屈が世の中全体に通じる理屈と勘違いする姿勢が社会を徒に分断させ、人々の憎悪を掻き立てることになってことに気がつくべきではあるまいか。Celui qui regarde du dehors à travers une fenêtre ouverte, ne voit jamais autant de choses que celui qui regarde une fenêtre fermée!

 

 政府が国民の生命と財産を守るための必要な対策を講じず「自粛要請」という「丸投げ」方針を採ったことにより、社会に大きな分断が発生しつつある。いずれ自警団擬きと化した者たちが現れ、わざわざ自らが不要不急の外出をしていることに気づきもせず、営業を続けている店舗にまで赴いて「自粛せよ!」と迫る歪んだ正義感に基づいた行動をする者も出始めるだろう。確かに、感染拡大を防止するために休業が望ましいことは当然のことだが、しかし同時に、にもかかわらず営業を続けざるを得ない状況に追い込まれている事情も勘案しないと、その行動は単なる業務妨害と変わらない。歪んだ正義感に満ちた一部の国民が暴発して「欲しがりません、勝つまでは!」とばかりに隣人を監視または密告しあう異常な社会の出来を見ることになるだろう。こうした悍ましい光景を見たくなければ、政府が最終的な責任を取ることを明確にした上で、やむにやまれぬ強制処分であることを国民に理解してもらい、休業命令を出せる立法措置を講じるなどしなければならない。「公共の福祉」に基づく営業の自由及び財産権上の制約に伴う損失部分について「正当な補償」を行う。もっとも、大規模な損失の実質的補償となるので「正当な補償」を「完全補償」とするか「相当の補償」とするかにつき争いが生じうるだろうが、いずれにせよ感染拡大に伴う医療崩壊リスクを回避し、同時に国民経済の崩壊をも防ぐためにやらねばならないことは、この「パニック」を好機としてどさくさ紛れの制度改変にリソースを割くことではなく、国民の生命と財産を可能な限り守るための機動的財政出動なのである。これ以上の財政赤字は国家財政の破綻に近づくだのハイパーインフレーションを招きかねないだのといった虚偽を吹聴する者たちが後を絶たないが、現在の日本政府には国民経済崩壊を回避するための大規模な国債発行する十分な余力があるのだ。

 

 こうした「ショック」が発生した時、ナオミ・クラインの言う「ショック・ドクトリン」がまたぞろ顔を出すことになる。どさくさ紛れに制度改変を図ろうとする動きが好例である。例えば、「脱ハンコ・脱書類社会への転換」だの「テレワークの推進」だの「遠隔医療の推進」だの「学校の9月入学への変更」だのといったことが案の定主張され始めている。しかし、こうした制度改変を声高に叫んできた者たちが今日の疲弊した日本の医療現場を間接的に用意してきたという事実を認識しておかねばなるまい。一見、耳障りのよいこれらの主張が実現した後に何が待っているかを警戒する声が聞こえても良さそうなのに、それが全く聞こえてこない。おそらく今後、過度な「合理化」によって大量の労働者が解雇されていくことだろう。セイフティ・ネットが完備され、再雇用を支援するためのスキルアップ教育が整い、実際に再雇用が比較的容易な環境があるのなら、それも一つの選択肢かもしれない。しかし、そうした条件をことごとく欠く状況で、専ら雇用側の都合だけで改変されてしまうと、たやすく労働者は「奴隷化」される運命に陥る。

 

 日本型雇用のあり方は、確かに問題を抱えている。また、ビジネス慣行にも欧米から見たら多くの「非合理・非効率」な面がないわけではない。ただ、そうした制度改変が緊急になさねばならないことなのかと立ち止まって考えなおす必要があろう。ある制度を改変するためには概して他の制度と関連で膨大な人的ないし資金的なリソースを割かねばならない。制度改変は喫緊の課題ではない限り平時における慎重な議論の末になされるべきであって、有事のどさくさに紛れた形で、しかもさしたる議論なしになされるべきものではない。これまでの制度改悪も、有事であったり大衆が熱狂にかられている状況につけこんで「今がチャンス!」とばかりに一気に改変を推し進めようとする勢力によってなされてきた。「ショック・ドクトリン」とは、正にこうした事態を指す言葉である。概して、潰れかけている組織は末期症状であるかのようにやたらと組織をいじくり回す傾向に走るものであるという教訓を忘れてはいけない。

 

 「9月入学」の問題もさも容易になされるかのような幻想がまかり通っているが、他の制度を放置したまま入学時期をずらしても混乱を招くだけにしかならないだろう。我が国は単年度会計の原則があって、年度初めは4月である。9月入学とすれば年度を跨ぐことになる。そうすると、通常国会で来年度予算案が成立しなければ次年度の予算執行はストップしてしまい、とりあえず予備費を使って急場を凌ぐほかなくなる。一見、単なる入学時期の問題に見えても、他の制度との整合性を確保するためには結局のところ他の制度の改変も要求されることになる。日本社会の慣行から、学生は新卒一括採用の下で4月から一斉に始業し出す。「9月入学」となれば就職活動のあり方も改める必要に迫られる。何よりも、学校現場が大混乱するのではあるまいか。俄に出てきた「9月入学」改変論に対して今のところ現場からの声が聞こえてこず、直接教育に関与する立場にない者たちだけの主張が独り歩きしているように思われてならないのである。

 

 僕は日本企業の新卒一括採用のあり方は異常であり通年採用に改めるべきと思っているし、大学・大学院の「4月入学」のあり方にも疑問を持ってきた者だから、「9月入学」の利点は理解できなくない。特に大学・大学院に関しては中・長期的に「9月入学」へ移行していくことに特に反対という立場ではない。しかし、初等・中等教育に関して「グローバル・スタンダード」という美名の下に喫緊に「9月入学」へ方針転換することは慎重であるべきである(もっとも、入試時期が雪国の受験生にとって過酷な条件を課している現状は問題であることを認めるけれど。しかし、それは現行の入試制度自体の問題であって、一回限りのペーパー試験での選抜を止めにすれば済む話である。僕は基本的に「受験廃止」を主張している論者でもある)。そもそも初等・中等教育に関して「9月入学」が「グローバル・スタンダード」となってはいない。米国の小中高の入学時期は州によって若干の違いはあるものの、ことニューヨーク州においては7月である。初等・中等教育に関して必ずしも「9月入学」が世界のスタンダードになっているわけではないのである。この緊急時において、人的・資金的なリソースを割かねばならない制度改変は時期尚早と言わざるを得ない。仮に夏辺りに感染者数が減少していたとしても、秋から一斉に行動範囲が拡大して第二、第三の波が襲ってきたところで冬場に通常のインフルエンザの感染爆発がちょうど重なることになれば、それこそ目も当てられぬ事態になるかもしれないのだ。

 

 もちろん、どの案が最適解であるかは、今のところ誰にも判断できていない。だからこそ、侃々諤々の議論が巻き起こるわけだが、そういう時に、なかなか政策が決められない政治に嫌気がさした選挙民に対して、一見わかりやすい「処方箋」を提示することで喝采を浴びる者が出てくる。よくよく考えてみれば、優れた解決案であるどころか現状をより悪化させることにしか繋がらない「処方箋」だというケースがほとんどだ。ところが、その「処方箋」に対する批判に対して「代案を出せ!」と息巻いた反論が押し寄せてくる(とにかく何でも「改革」せずにはいられない「改革バカ」にこの類の主張をする者が多い)。確かに、専ら批判だけを繰り返すだけで自らは何ら積極的な提言をしない言論人に対してその批判は当てはまることがしばしばだろうが、同時に「余計なことはするな!」という批判に代案がないと決めつけるのも誤りである。明らかに事態の悪化を招くだけに終わる案に対して「それだけはとりあえずやめておけ!」と主張することは、積極的な改善案を出しているわけではないにせよ、消極的主張による「否定の道 via negativa」という立派な方法でもあるのだ。

 

 そこで、「決められない政治」に対して「決断する政治」を掲げたデマゴーグが登場し、大衆の喝采によって迎え入れられる事態が何度なく繰り返されてきたことを想起しておくのも無駄ではない。中身なき「決断主義」への淡い期待を背景に、ファシズムの温床となる基盤が進捗されていく。「小泉ブーム」や旧民主党政権交代劇もそうだし、第二次安倍政権の誕生にもそうした危険性を感じとることもできるだろう。昨今の地方自治体の首長のポピュリズム型政治にも若干その兆候を見ないわけにはいかない。徐々に胚胎し始めていた「決断主義」が露骨なまでに日本政治の表舞台に現れてきて、それをメディアが煽動する。このメカニズムが事態をさらに先鋭化させてくる。こうしたメディアの動きと軌を一にする批評・評論の類も量産され、その者たちがイデオローグを率先してつとめることになる。

 

 カール・シュミットの一世紀近くにわたる生涯は元々ナチス共産党といった「無神論者」に対する批判から始まり、次いでナチスによる国家秩序形成に短期間であれ積極的に加担してナチスの代表的イデオローグとして担ぎ出されて絶頂期を迎えたかに見えるや、やがてローゼンベルクなどにその地位を奪われ、敗戦後においては「ナチの御用学者」の烙印を押されたまま消えていった悲劇的なものであった。所謂「友ー敵」図式の中で行為する人間という存在の危険性を直ちに「政治の宿命」と見なさざるを得なかったシュミットの思考にはカトリシズムの影響が見られるわけだが、「世界の終末」すなわち「千年王国」が始まる手前において「反キリスト」が現れて民衆に対して「虚妄の楽園」を保障することで「滅びの道」に誘うという筋書きが見られる。これに対する「アルマゲドン」により、「反キリスト」という「敵」を駆逐する道が決断されるというわけである。

 

 国内の政治的「敵」を排除することばかりが前面に躍り出すばかりで、政治における「忍耐」を忘却せんとしたところに「政治的決断主義」の陥穽を見る僕のような立場にとって、寧ろこの種の「決断主義」につきまとう「非政治性」が気になって仕方がないのである。政治に決断は必要ながらも、政治における決断がいつのまにやら「政治とは決断すること」だと歪曲され、挙げ句は「決断」が「決断主義」に等置されていくというある種の倒錯現象。政治において警戒しなければならないものこそ、この種の「決断主義」に他ならない。中身など問われることなき「決断主義」に選挙民が誑かされるとき、歴史は如何なる審判を下すのだろうか。その顛末は前世紀の経験が示しているはずなのに同様に悲劇/喜劇を人類は繰り返す。マキャベリの言う通り、「相もかわらず人間は同じ醜態を繰り返す」のだ。

 

 単なる折衷とは違い、それら相互に様々な矛盾を抱える複数のヴィルトゥスの間に存する緊張を自らに引き受けながら進む「平衡」感覚を欠如させた大衆の選択はこれまで総じて誤ってきたし、今後も誤り続けるに違いない。ショーペンハウアーの言う通り、「総じて賢者というものは、いつの時代でも、結局同じことをいってきたのであり、愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にもひとつこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変わ」らないのかも知れない。

Physics, Mathematics and Finance

The problems with derivatives stem from the fact that we price them using models that are based on assumptions and simplifications, and not everyone in the industry pays close enough attention to the details of those assumptions.

 

 On the other hand, I do think there are mathematical problems connected to the social sciences that are just as difficult as any that arise in physics. Didier Sornette told that he was drawn to economics because the problems were so much more difficult than in physics. But these problems aren’t really connected to derivatives contracts.

 

 Jim Simons, one of the co-founders of Renaissance Technologies, whose Medallion Fund is the most successful hedge fund ever, made very important early contributions to string theory. So perhaps Medallion has drawn on some of his early work, though Simons isn’t very forthcoming about Medallion’s strategies.

 

 One of the ideas due to Eric Weinstein and Pia Malaney, is connected to high energy particle physics—specifically to Yang-Mills gauge theory, which is the basis for the Standard Model of Particle Physics. Weinstein and Malaney, and some others such as Lee Smolin from the Perimeter Institute, have explored how the notion of “path dependence” in Yang-Mills theory might be used to construct a better measure of how cost of living changes over time.

 

 There are a lot of fascinating historical connections between physics and economics. For instance, the first American to win a Nobel Prize in economics, Paul Samuelson, was deeply influenced by the work of J. Willard Gibbs, a 19th century physicist who helped invent thermodynamics—and turn chemistry into a rigorous mathematical theory. Building on Gibbs, Samuelson used notions like “equilibrium” and “entropy” to explain economic phenomena. Meanwhile, the first Nobel laureate in economics, Jan Tinbergen, had a PhD in physics, and introduced the term “model” into economics, in analogy to its use in physics.

 

 But I don’t really think it’s right to say that physics can help economics, so much as to say that there has been a rich exchange of ideas between physics and economics over the last century, and that financial professionals could benefit from learning to think about the relationship between mathematical theories and the world.

 

 But there’s another issue that comes up in this question, concerning rigor. If anything economics is more rigorous than nuclear physics. But rigor isn’t what you need if we want to come up with useful solutions to the problems we care about. If the mathematics is right, the theories must be true. But the relationship between mathematical theories and the world is more complicated than that.

 

 NassIm Nicholas Taleb is absolutely right about the importance of black swans—events that are completely unforeseeable, and which change everything when they occur—and of so-called “fat-tailed” probability distributions, which help us account for the likelihood of extreme events. But I think the considerations he raises, many of which should make us cautious and modest in our attempts to understand complex systems such as financial markets. I do not think they show that we should give up on mathematical modeling altogether.

 

  No model is perfect, but surely thinking about how black swans can affect us will help us make our modeling better—not because we can ever account for every unforeseen possibility, but because the recognition that there are unforeseen possibilities can guide us in how to build extra caution into our practices. On the one hand, there’s Ed Thorp, who proved mathematically that card counting can be used to beat blackjack, and then went on to start the first modern quantitative hedge fund. He has an utterly unique way of applying mathematical reasoning to the real world.

 

 Mathematics is an extraordinarily powerful tool. Physicists and mathematicians have made concrete contributions to our understanding of economic problems. And of course, leaving physicists aside, there are lots of economists out there who are using mathematics to understand the world’s economic problems. If tools from mathematics and mathematical modeling can’t help us understand the world’s economic problems, what else do we need? Or is the idea that economics is simply beyond the ken of human understanding?

 

 Economics is too varied a field for the paradigm language to apply very effectively: economics has long been characterized by competing “schools”, such as New Keynesianism, Post-Keynsianism, New Classicism, Austrian economics, etc. And, especially since these tend to have political associations, it is hard to imagine a new idea coming in and leading to a complete revolution. That said, there have been a few dramatic innovations in the last 60 or 70 years that have changed wide swaths of economics.

 

 One is game theory, which was developed in the 1940s and 1950s by mathematical physicist John von Neumann, economist Oskar Morgenstern, mathematician John Nash, and others. Game theory provided new mathematical tools for analyzing strategic scenarios, which proved extremely useful to economists. Another is the introduction of ideas and methods from the behavioral sciences, spearheaded by people such as psychologist Daniel Kahneman. This movement, known as “behavioral economics,” has successfully questioned many basic economic assumptions about rational action. I think developments such as these are the closest we will come to paradigm shifts in economics—and yes, I think they are still possible.

 

Thinking the “Depression”

 The Bank of Japan is set to boost funding support for companies, but it will avoid cutting interest rates, as it could encourage people to step out of their homes to splurge and undermine government efforts to curb the coronavirus outbreak. The dilemma for the BOJ underlines the difficulties of managing Japan's approach to controlling the spread of the virus, which lacks punitive measures applied in lockdowns of many Western countries.

 

 More radical monetary easing steps to spur demand - such as interest rate cuts - are off the table as they could hamper government efforts to keep households home and businesses shut. There's no doubt the economy is in a pretty bad shape. But taking steps to boost demand now would stimulate consumption and risk spreading the virus

 

 The BOJ may need to take bolder easing steps to prevent bankruptcies and job losses from triggering a banking crisis, but such discussions will likely have to wait until the latter half of this year. The BOJ eased policy last month by pledging to increase buying of risky assets and create a new loan program to assist funding of small firms hit by the health crisis.

 

 Among the measures taken in March included a pledge for the BOJ to spend up to 2 trillion yen ($18.56 billion) by September to increase its holdings of corporate bonds and CP. The BOJ may double or triple the amount of such assets it pledges to buy. Companies big enough to issue corporate bonds and CP probably have other means to procure funds, so it will be more a symbolic gesture to ease corporate jitters. At the two-day rate review ending on Tuesday, the BOJ is set to maintain its short-term interest rate target at -0.1% and a pledge to guide 10-year government bond yields around 0%.

 

 Major central banks have responded to the pandemic with aggressive monetary measures to cushion the broad hit to their economies. Many of the steps have been largely focused on calming market nerves and pumping ample liquidity into the financial system - rather than giving a direct boost to growth.

 

 Japan's government last week expanded a state of emergency to include all of the nation. But it has struggled to contain the pandemic, as a lack of enforcement measures still keep many businesses open and trains running with commuters. The number of infections reached 12, 863 as of Saturday with 345 deaths, according to public broadcaster NHK.

 

 Japan's struggle to contain the pandemic is distracting the BOJ from its efforts to achieve its 2% inflation target. Up till now, the central bank has said it was ready to act if the economy loses momentum to achieve the elusive price goal. That pledge is now out the window as the pandemic forces the BOJ to focus on immediate damage control, rather than achieving what has already become an obsolete target.

 

 As the health crisis pushes the economy closer to recession, the BOJ is likely to sharply cut its growth and price projections in a quarterly review of its forecasts to be issued at next week's policy meeting. The new projections will show inflation will remain distant from the BOJ's 2% target for the remaining three years of Governor Haruhiko Kuroda's tenure - marking the final nail in the coffin for his radical monetary experiment to pull Japan sustainably out of economic stagnation. Given the hit from the pandemic, the economy no longer has the momentum to achieve the BOJ's price target.

 

 Unprecedented situations require unprecedented actions. That’s why the U.S. Federal Reserve should fight a rapidly deepening recession by taking interest rates below zero for the first time ever. When FED officials hold their regular policy-making meeting next week, all the lights on their dashboard will be flashing red. The unemployment rate is expected to reach double digits by June.

 

 With global demand cratering, the FED’s preferred measure of inflation will likely fall to 1% or even lower by the end of the year — well below its target of 2%. And in the absence of a Covid-19 vaccine, the malaise will likely persist well into 2021.

 

 Any intellectual knows that in such a dire situation, the central bank should cut interest rates to stimulate growth and job creation. But as Chair Jerome Powell reiterated last month, the FED doesn’t plan to do so in the foreseeable future, because a further quarter-percentage-point cut would drive the interest rate it pays on banks’ reserve deposits into negative territory.

 

 A decade ago, the answer would have been that it was impossible to go below zero: Banks would simply avoid the charges by withdrawing their reserve deposits and holding the funds in paper currency, which pays zero interest. But economists now recognize that doesn’t happen, because it’s costly to store billions (or trillions) of dollars of paper currency safely. Several European central banks, as well as the BOJ, have successfully taken interest rates below zero.

 

 This stimulates consumer demand in the usual ways: by incentivizing banks to make loans at lower interest rates, to bid up the prices of financial assets, and to charge higher fees for deposits. Another of the FED’s concerns about negative rates has to do with financial stability — a relatively new (and completely made up) responsibility of central banks. Sure, negative interest rates would help lower the unemployment rate from what is likely to be its highest level since World War II.

 

 But officials worry that they will also weigh on banks’ profitability, pushing down share prices and making the financial system more vulnerable to distress. Put crudely, the FED is giving up on unemployment reductions to help keep banks and their shareholders safer. The FED is inventing a trade-off where none exists. If the central bank really cares about financial stability, it has many tools to ensure it. Right now, for example, it could block large banks from paying dividends, a practice that erodes the capital they need to absorb losses. None of this precludes a monetary policy focused on the FED’s congressional mandate of maximizing employment and keeping inflation near target. 

 

 So, the FED is left no good argument against going negative. Terrifyingly high unemployment and potentially rapid disinflation are powerful arguments in favor. Next week, the FED should take interest rates at least a quarter percentage point below zero.

京都の志村

 数学者ジョン・コンウェイがCOVID-19の発症後、間もなくして肺炎で亡くなったという報がプリンストン大学から流された。コンウェイの専攻は数論であるが、学生の頃にウィリアム・パウンドストーン『ライフゲイムの宇宙』を読んでその名を知り、計算機科学の基礎論に若干興味を持った関係で、その元となるジョン・フォン・ノイマンアラン・チューリングそしてクルト・ゲーデルの業績を集中的に読むのにはまっていた時期に、関連していくつかの論文を目にすることがあった。もっとも、今では仕事で用いる関係上、確率解析論関連の学術論文を読むことはさほど困難を感じなくなったが、専門外の数論関係の論文となると、更に抽象度が増すために至難を極める。しかし、「数学の女王」といえば数論に決まってるという素人なりの思い込みがあり、また強い憧れを抱き続けてきただけあって、何とか追えるように勉強してきているつもりではあった。

 

 数論といえば、本ブログでも昔から度々言及してきた望月新一京都大学数理解析研究所教授のABC予想についての論文が証明に成功との報が流されたようで、世界中の数論幾何学の専門家による8年がかりの査読の結果、数理解析研究所が発刊する国際的に定評のある学術誌に掲載される運びとなった(もっとも、疑問を呈する声もあると耳にしているが)。京都大学数理解析研究所は名実ともに我が国最高峰の研究機関であり、そのスタッフの陣容といい積み上げらてきた業績といい他を圧倒するものであって、我が国が世界に胸をはれる極く少数しかいない学者集団でもある。大学教員のポストを得ているだけで世間からは「学者」・「研究者」との体裁を保ってはいるものの実態はさしたる業績も残せないエセが蔓延っている我が国のアカデミズムの現状を思う時、真の学者とはどういう者かということを我々に告げ知らせてくれているかのようだ。

 

 文科系に関しては昔からそうだったが、理科系ですら最近では優秀な層も学究生活を目指さなくなり、国際金融やIT関連の職を志望する傾向が著しくなったことをマイケル・ルイスが嘆いていたが、欧米では特にその勢いに拍車がかかって久しい。数学科でも昔は数論や代数幾何学の専攻を志望する者が多かったのが、今では確率論・確率解析など金融方面にも直接役立つ分野を志望する者が多くなっていると聞く。純粋数学理論物理学といった成果を出すには飛びきり上等なオツムが要求される分野に資質の恵まれた最優秀層が目指さなくなるのは人類の知の発展にとって大きな損失なので、是非ともその資質を存分に数学研究や物理学研究に傾注してもらいたいものである(金儲けは僕のような凡人にお任せあれ!)。

 

 こうなってしまったのも、純粋数学理論物理学のアカデミズムでのポストに就くのが至難の技で、単に才能に恵まれるだけでなく運の要素にも左右されるので、その道を選択するのはプロスポーツ選手の第一線で活躍することを目指すのと同様、相当なリスクテイクを強いられ、またそのリスクテイクに見合うような報われ方がされないからである。文科系の場合は就職市場からはなから相手にされない者が行き着く先として大学院があるわけだが、数学や物理学においてそうであっては困るわけである。もちろん、理科系の大学院は文科系の大学院より遥かにマシであろうが、研究職が刺激も魅力もなくしてしまっては国家の一大事である。

 

 ちょうど8年前にABC予想証明発表のニュースを耳にした時も、その衝撃のあまりブログで適当なことを書き散らかしたかと記憶している。論文の逐一を追えるほど頭の出来がよくない僕のようなチンピラがとやかく言える資格などないが、その数学の極めて洗練された「格好よさ」だけは肌で感じとることができ、専門外の法学徒の若造ながらも「この人は、正真正銘の天才に違いない!」という確信を抱いてきただけに、現実に証明が成功したらしいとの報を耳にすればその喜びも一入である。フィールズ賞受賞者ではないものの、かなり前から望月新一の名声は轟いていたわけで、事実、その業績の一端でも早期に発表してフィールズ賞受賞の年齢制限に間に合うようにと助言する声もあったようだ。しかし望月新一教授は賞などにまるで関心がなかったようで、黙々と自分の研究に邁進してきたという。学会活動にも消極的で、名誉欲にまみれたどす黒いアカデミズムの住人にありがちな臭いとも無縁である。途中経過の成果を惜し気もなくウェブ上にアップし(確か、お弟子さんにあたる院生の修士論文もアップされていたが、修士論文にしては相当出来の良い論文だったと記憶している。それには僕のようなアホでも何とか最後までついて行くことができた)、万人に公開するという太っ腹な姿勢も注目された。我々凡人とは遥か高いレベルの世界に住んでいるのだろう。

 

 優れた数学者だからといってその人がフィールズ賞受賞者となるかと言えば、必ずしもそうではない。受賞者でなくとも、そこらの受賞者より遥かに優れた業績を残した数学者もいるということを忘れてはならない。ノーベル賞にもその傾向があろうが、どうしても西洋人を優遇しているとの疑念を払拭できないわけで、仮に「ノーベル数学賞」があって年齢に関係なく授与されるとするならば、日本人数学者の受賞者は少なく見積もっても両手では足りないものと思われるほどだ。「ノーベル経済学賞」という名の「アルフレッド・ノーベルを記念するスウェーデン国立銀行賞」など不要なので、これを廃止して「ノーベル数学賞」を創設する方がよほど良いのではあるまいか。今では、「アーベル賞」が創設されているとはいえ、ノーベル賞知名度とは雲泥の差であるので、人類最高級の知性を讃えるには最も相応しい扱いなのではないかと思われるのである。とはいえ、ともすればフェルマーの定理の証明に成功したプリンストン大学教授アンドリュー・ワイルズに対してフィールズ賞特別賞が例外的に授与されたように、望月新一に対しても授与されることも考えられる。今回の証明はそのくらいの偉業なのだそうである。こうした慶事に続くことだったからこそ、同じプリンストン大学繋がりのコンウェイが亡くなったという悲報はつらい(そういえば、望月教授もプリンストン大学出身だったはずだ)。

 

 昨年のこの時期、同じくプリンストン大学教授であった数学者志村五郎が亡くなったはず。志村五郎といえば、多少数学にコミットした者ならば、たとえ専門の数論の専攻者でなくとも誰もが知るところの日本を代表する世界的な数学者であり、その圧倒的な業績を前にすれば、極端な表現になろうが、大部分の研究者の業績がほとんどゴミ同然に思えてしまうほどだ。一般には、ワイルズが証明したフェルマーの定理の証明に貢献した日本人数学者の数々の業績の一つとして、「岩澤主予想」と並んであげられる「谷山・志村予想(証明されたので谷山・志村定理というべきか)」で知られているが、それのみならず虚数乗法論や志村多様体などの業績を残し、アーベル賞を受賞する可能性の最も高い日本人数学者だったといってよい。仮に、今も現役で活躍している日本人数学者で受賞の可能性があるのは、先ほどの望月新一京都大学数理解析研究所特任教授の柏原正樹ではないだろうか(あくまでド素人の感想だけど)。

 

 僕は、一度だけ志村五郎に直接会ったことがある。それは、ちょうど法学部に進学した大学三年の頃の夏期休暇の時期だったと記憶している。祖父母のいる西宮に泊まっていたから確かだと思う。なぜか知らないが夏期の特別講義が京都大学理学部で催されていて、その中に志村五郎プリンストン大学教授による特別講義があり、ミーハーな僕は「あの志村五郎が一時帰国してるんだ。こりゃ見に行かねば」と、まるでスーパースター見たさに馳せ参じたわけである。さほど大きな教室ではなかったが、聴講者には京大の教授陣も何人かいて、その中には当時理学部の教授であり今はシカゴ大学教授に就いている加藤和也もいたかと思う。ちょっとした興奮状態であったところに、町工場のじいさんみたいな人が教室に入るや無言で黒板に書き始めるではないか。黒板を掃除する用務員のおじさんが何を血迷ったか訳のわからないことを書きなぐり出したのかなと一瞬疑いはしたものの、書かれた内容をよく見るとディリクレのL関数だったので、「このじいさんが志村五郎なのか!」とぶったまげたものである。

 

 勝手なイメージながら数学者は板書のスピードがやたらと速い人が多いと思っていたが、志村五郎は年のせいもあるのかひじょうにゆっくりしたスピードでしかも丁寧な書きっぷりであった。とはいえ、筆圧が弱いために字が薄くて読みづらくもあった。神保町の明倫館書店で買った志村五郎の大阪大学助教授時代に書いた虚数乗法論に関する書籍を持っていたから持参してサインでももらっておけばよかったと思ったと後悔したものの、講義終わりに話をすることができたのは幸せな経験だった。講義内容は大学院生向けのものだったからディレッタントの域を出ない僕でさえ何とかついて行くことができたわけだが、その時のノートは今も大切に保管している。

亡国への道

 春の陽気に恵まれたイースター・サンデーを迎えたニューヨーク。ここ数日横ばい状態だった新たな死者数が再び増加して1日あたり約800人の死者が出ており、今にも1万人に達する勢いである。例年だと、マンハッタン区5番街ではセント・パトリック大聖堂前が歩行者天国となり、イースターを祝う盛大なパレードが催されるはずのニューヨークだが、今年はCOVID-19のために全く様相が違っている。「ウイルスとの戦い」という困難な状況下で、命懸けで職務に従事する医療従事者の献身を讃えるニューヨーク市民の定期的な歓声が鳴り響く瞬間がちょっとした癒しにもなっている。

 

 もっとも、この「ウイルスとの戦い」という表現は、よほど注意して用いなければならないだろう。かつてスーザン・ソンタグが指摘していたように、「ウイルスとの戦い」という表現がともすれば「感染者の敵視」へと転化してしまいかねないからだ。感染者は「敵」ではない。あくまで「犠牲者」であるというのが原則であって、ごく一部の者が「加害者」と言われても仕方のない振る舞いを見せているに過ぎないのだから。とはいえ、スーザン・ソンタグが優れた知性であるというわけではない。いかにも「清貧」を気取り、左翼知識人であるかのようなポーズをとりながら、実際は金に汚い強欲女である偽善者の典型であり(左翼によくいるタイプ)、「シャンパ社会主義者」ないしは「キャビア左翼」そのものであった姿は、正しく我が国にも数多く生息する自称「インテリ」の姿と重なる。

 

 公衆衛生上の危機であると同時に経済的な危機という、その一方の対策が他方の悪化を招きかねない極めて困難な課題に人類は直面している。舵取りを少しでも誤れば、世界恐慌と最悪の場合それを着火点とした紛争の拡大に至りつくやも知れぬという緊張感を持続させるのは、日々この困難な状況で医療現場で懸命に仕事に従事する者や経済活動の最前線にいる者あるいは国際金融の主戦場に立っている者などを除くと想像し難いことなのかもしれないが、実態は相当切迫しており世界全体の医療崩壊世界恐慌が起きても不思議ではない状況であることを先ずは認識してもらいたい。最悪のケースとして2008年のリーマン・ショックどころではない大恐慌に用心しておかねば、世界中で多くの人々が路頭に迷い、ともすれば大量の餓死者すら出ることだろう。GDP対前年比-5%どころで済むような話ではない。金融システムの機能不全からきたリーマン・ショックとは全く事情が違い、生産活動そのものが麻痺して実体経済を直撃しているわけで、サプライチェーンに大ダメージが加えられてもいる。下手をすれば、世界的な食糧難の発生の可能性すら危惧されるのだ。

 

 経済情勢に疎い市井の人々でも薄々気がつきはじめているようだが、よほど頭が悪いのか想像力の貧困のせいなのか、極東の一角にある島国に生息するごく一部の自称「インテリ」どもの鈍感さはどうしようもない。「ジャーナリスト」や「評論家」を名乗る連中、そして学校の教師といった一群の連中は往々にして高みの見物とばかりに偉そうな講釈を垂れ流すだけで自らはリスクを取ることもせず、またリスクを取ろうとする覚悟すらない。ナシーム・タレブ流の表現で言う「身銭を切らない連中」の主張はたいていが戯言や世迷言の類いと思っておけばよい。なぜなら、連中こそが「身銭を切らず」に「ツケを他人に押しつける」ような人種だからだ。「身銭を切らない」連中がいかにうわべだけ御立派な御託宣を垂れようが信用してはならないということを、我々は経験からも我々の先祖から受け継いできた知恵からも学んでいるはずである。

 

 こうした連中にみられる鈍感さは、たとえその連中の表面的な政治的主張が一見反対に思える者であれ、今の安倍晋三政権中枢の人間と同じ類の鈍感さと共通している。すなわち、総じて広義の安全保障に疎いという点である。こうした現象は、日々安全保障を真剣に考えてこず、己の妄想と都合よく拵えられた観念をいじくりまわして出来上がった「お花畑」のイメージを現実の世界と勘違いしてきた戦後日本の成れの果ての姿とも言える。「知性」とは程遠い存在が「知性」を自称しているという悲喜劇が、今の日本で繰り広げられているのである。今月7日、安倍晋三首相がいわゆる新型コロナ特措法に基づく「緊急事態宣言」を出し、その対象と指定された7つの都府県において翌日施行されたが、米国メディアは軒並み日本の対応が遅きに失することを指弾する声で溢れていた。何かにつけて日本叩きが大好きなニューヨーク・タイムズならいつものことかということになるが、ワシントン・ポストにしろUSAトゥデイにしろウォール・ストリート・ジャーナルにしろ、少なくとも1ヵ月以上の遅れを指摘していた。海外メディアに一々言われるまでもなく、日本国民の大多数も同様に考えていたはずだ。

 

 緊急事態宣言を出すのは当然だが、同時に致命的な誤りを犯してしまった。緊急事態宣言を出し不要不急の外出や営業の自粛を呼び掛けるのはやむを得ないことだとしても、休業に伴う損失の実質的な「補償」がなされないのは極めて問題であることは方々から指摘されている通り、道理に合わないどころか公衆衛生上も経済的にも事態の更なる悪化をもたらす恐れがある。残念ながら、感染拡大による医療崩壊を回避するために経済活動を収縮せざるを得ない反面、同時に経済活動縮小に伴う経済全体への打撃と困窮者の発生も出来る限り最小化しなければならないという相反する要求に応える最適解を誰もが提示できていない。政権担当者にとって極めて難しい課題に直面しているので、政権にただ文句をひたすら並べ立てたところで無意味なことくらいは理解できる。元から「安倍晋三憎し」という一念で安倍晋三のすることは何でもかんでも気にくわないとして揚げ足をとることしか考えない左翼がいつものように支離滅裂な批判をしているというだけのことであれば、政権中枢の者はそんな批判に耳を傾ける必要はないのだろうが、事は非常に深刻で、そういった特定政治党派の偏向した意見に荷担するわけではない大多数の国民が明らかに政府の方針の緊張感の無さと無為無策ぶりに対して怒りを覚え始めていることにどこまで政権が自覚的であるかが問われている。さすがに一連の政策を見るにつけ、あまりの酷さに怒り心頭のあまり、自衛隊青年将校民族派有志が決起してもおかしくはないと思えるほどだ。

 

 休業自粛を強く要請するのであれば、名称は何であれ、またその対象を各営業主体にするか個人にするかはともかく、損失の実質的補償とセットでなされるのが当然であって、そうしなければ実効性に乏しい中途半端な制約となり、感染拡大の抑止もかなわず、経済活動も収縮したまま企業の連鎖倒産を招き大量の失業者が量産されるだけでなく、事態が収束した後の「反転攻勢」時に必要となる供給能力そのものが毀損されてしまう。各営業主体に対して営業の自由の制約を伴う休業要請は、外形上強制でない形態をとろうとも、また特措法にある要請ないし指示に従わない者を「公表」することが直ちに「処分性」ありとする解釈を仮に採れないとしても、従わない者に対する事実上の不利益の発生が予定されているのだから、制約が「公共の福祉」を理由として許容されるのであれ、当該制約に伴う財産権上の損失に対する「正当な補償」が要求されて然るべきであろう。「正当な補償」がなされないままでの実質的な営業の自由の制約は、重要な権利利益の著しい侵害になりかねない。中途半端な「自粛」で済ますことは政府の責任放棄であって、休業にともなう損害を一部の者だけに負わせるアンフェアな事態をうむ。最近のパチンコ店だけを狙い撃ちした日本社会の世論は、マスメディアによる煽動に踊らされる形で過激化しているが、ほとんど「イジメ」とも言うべき有り様に異議を表明する声は極端に少ない。高性能の空気清浄器を完備して換気に神経を使い、頻繁に消毒に努めるパチンコホールが、他の娯楽施設や飲食店と比較して感染リスクが大きいと判断するに足る科学的根拠が示されているとは言えない。もちろん、少なくとも不特定多数の者が参集し、しかも滞在時間も長くなる傾向にあるパチンコホールの営業休止は、感染リスクを低めるに資することは確かだろうし、本来は営業を一時的に休止することが望ましいし、強い表現をすれば、感染拡大防止のために休業すべきだろう。

 

 但しこれはパチンコ店に限らず、最低限のライフラインを維持するために必要不可欠とまでは言えない業種に等しく当てはまることである。風俗業や飲食業あるいは他の娯楽産業もそうだし、大部分のサービス業にも当てはまる。さらには、学校や塾などを含めた教育産業も然り。当然、感染拡大防止のための医学や薬学関係の研究以外の大学の活動にも当てはまるだろう。パチンコ店バッシングを煽動するメディア自身も例外ではない。NHKがあればとりあえずは最低限の情報を得ることができるのだから、民放各局や各新聞社の報道が緊急時の生活維持に是非とも必要不可欠とまでは言えないからだ。パチンコホールでの感染拡大を過剰に心配してバッシングを煽動する前に、自分たちの報道局ないしは編集局の部屋に多数が集う環境を心配して自身が身をもって休業する決断を示せばよいではないか。

 

 パチンコ店は1日の売上金も多く、定期的に入れ替える必要のある新台の購入費用や義務づけられた喫煙所設置のための新たな出費も強いられ、店を稼働するための電気代などの諸費用もバカにならない。しかも、規制が強化されてスロットでは5号機から6号機への転換に伴う大規模な入れ替え作業に莫大な出費が強いられる。その上、土地を借り入れて経営しているところは、月に莫大な賃料が請求されもする。その他人件費や設備の維持管理費用などを含めた固定費は相当な金額に上る。ある種の職業差別もあって、金融機関からの融資もつきにくい現状なので、マルハンのような資本力を持つパチンコ店ならばともかく、家族経営で細々とやっているパチンコ店からすれば相当な日数にわたる休業が続けば、莫大な費用の損失が発生し、廃業につながりかねない状況に陥る。そうした事業者に対して、自らはさしたるリスクを背負わない者がよってたかって集団リンチを加えるのは、極めておぞましい光景である。自分は死ぬ覚悟もないくせに他人にのみ死ねと叫んでいる欺瞞に気がついていないこうした態度も、先述の自称「インテリ」と同様の「身銭を切らない」人種に見られる態度そのものなのだ。休業要請は、確かにやむを得ない。問題なのは、「補償なき休業要請」なのである。

 

 安倍政権は緊急時の財政出動に関して事業規模で108兆円を掲げているが、その中身はというと、いわゆる「真水」に相当する金額はわずかで、その証拠に新規国債発行も約17兆円程度しか計上されていない。この「事業規模」というのが曲者で、ここに官僚お得意のゴマカシとデタラメを見てとることもできる。明らかに緊急の用とは言い難い事業に対する予算もこの108兆円に含まれており、中には国土交通省農林水産省経済産業省の所管する「Go to キャンペーン」のための約2兆円の予算がどさくさ紛れに含められている(そもそも「Go to キャンペーン」という名称からして、英語にすら不案内な役人の間抜けぶりがさらけ出されている。多少英語に慣れた者ならば違和感だらけのインチキ英語を用いていること自身が、何よりも政策のインチキぶりを暴露した格好になっているのだ)。国民経済の窮状に対応する対策として明らかにケチっていると思われても仕方のない内容であり、国民は政府に完全に舐められている。休業要請と引き換えの損失補償の給付も渋る政府のことであるから出される対策もある程度は予想がついたが、まさかここまでひどいデタラメ、ハッタリ、ゴマカシで満ち溢れた内容だとは思わなかった。このことは裏を返せば、今の政権中枢の者のかなりの部分が「日本国民と日本経済の屋台骨を守るという意思はない」という表明をしたと受けとることもできるだろう。でなければ、相当な無能な政権ということになる。諸外国のメディアの日本についての報道には著しい事実誤認と偏見に基づくものが多々見られるが、これではさすがに嘲笑されても仕方あるまい。

 

 使いふるされた財政破綻論のデタラメを信じている人間が、財務省茶坊主と化している朝日新聞などのマスメディアの人間を中心として存在するし、安倍晋三の御用聞きのような自称「評論家」や自称「ジャーナリスト」は、今もなお政府の一連の愚策に理解を示している。財政破綻論者の主張が仮に正しいのだとすれば、国債金利はとうの昔に暴騰しているし、とうの昔にデフォルトを起こしているはずだ。酷い例だと、ギリシャベネズエラを持ち出し、やれ「財政ファイナンス」だの「これ以上の財政赤字ハイパーインフレーションをもたらす」だのとナンセンスな戯言を吹聴する者すらいる。橋本龍太郎政権から露骨になってきたデフレ化によって日本経済がなお一層沈滞する一方で、この流れに拍車をかけるような緊縮財政をとってきた結果、日本国民は相対的に貧しくなっていく一方だ。経済のパイが縮小すれば、その分「食えなくなる」者が増えてくるのは当然のことである。餓死寸前の者に対して肥満を心配してダイエットの効用を説いているようなものだということに気づきもしない。

 

 普段は「弱者救済」やら「貧困問題の解決」やらを表向き主張している者でも「脱成長」だのと抜かしつつこうした主張を展開して憚らない者もいるが、当人はその主張がより事態を悪化させることになることに理解が及ばないらしい。あるいは、ご自分が関与する「貧困ビジネス」の食い扶持のために、貧困層が増えて欲しいと密かに願っている確信犯なのであろうか。それとも、日本社会を全体的に弱体化させることを目的に外国の手先となっている破壊工作員なのだろうか。この点でも、マルキシズムに立つ多くの論者とニュークラシシズムに立つ多くの論者は、ともに同じ論理に立脚していることに気づきもしないで支離滅裂な主張を繰り返しているわけだ。こうしたアホな連中が国策を誤らせてきた一因となっているのである。酷い者になると、「働かざる者、食うべからず」との暴言を吐いた与党議員がいるというのだから、もしそれが事実だとするなら、その者は既に狂っているわけだから国会議員としての職責を全うすることは期待できない以上、とっとと議員の職を辞すべきである。その者こそ「働かざる者、食うべからず」という言葉が最も当てはまる張本人である事実を有権者が突きつけてやるべきだろう(こうした議員に相応しい言葉は、まさしく「売国奴」である)。「国民を甘やかしてはいけない」と連呼する「評論家」の類いも、実は自身が最も「甘えた」存在であることに気づきもしない。

 

 再度言うが、不要不急の物理的接触を最小化するために自粛要請を出すのはやむを得ない。むしろ単なる自粛要請では感染拡大防止は期待できないので、仮に強制的に外出禁止を一時的に出したとしても事態を正確に認識して危機感を持つ国民の理解も得られるはずだ(もっとも、憲法上の疑念が生じうるケースが出てくるだろうが)。「金を出すから、とにかく家にいろ!」でいいわけである。「家にいろ!でも金は出さない」となると誰が率先して要請に従うというのか。その要請に応えることのできる者は安定した給料が支給される保証のある者や当面は生活を維持していけるだけの十分な資力のある者だけである。ともかく、強制処分が可能な不要不急の外出を控えることを求める時限法令を施行するなりして早期の収拾を図ることくらいのことをしない限り、手の打ちようのない事態に陥る危険性があるというくらいの「過剰な」警戒をしておくに越したことはない。

 

 東京オリンピックパラリンピック組織委員会の事務局長を務める元財務事務次官武藤敏郎が、緊急事態宣言が出され経済活動が数ヶ月ストップすると来年夏に開催が延期された大会の準備に間に合わなく恐れがあることを危惧していたが、このような中途半端な政策を講じているようでは来年夏の開催すら危うい。そもそも延期というなら、日本だけでなく世界中での収束が明らかになった段階となるわけだから、今後のアフリカや南米などでの拡散が予想される状態では、せめて2年の時間を要するに違いない。オリンピックやパラリンピックに向けて多大の準備をし、場合によっては自分の人生をそこに賭けていたかもしれぬ選手をはじめとする大会関係者、そして大会を楽しみにしていた多くの日本国民や世界中の五輪ファンのことを思えば、安易に中止などという言葉を吐くことはできないが、冷静に考えてみて、来年夏の開催は絶望的な状況であり、にもかかわらず無理やり断行に踏み切れば、世界から逆に総スカンの状態になること必定。また、そうした無理な計画のために感染拡大防止対策が更に中途半端なものになるのなら、五輪の更なる延期すなわち2年延期がかなわぬ限り、中止という選択をすべき時が早いうちにやってくるだろう。

 

 感染拡大で病床数の不足が叫ばれているが、昨年に地方の病床数が多すぎるとして約13万床の削減方針を打ち出したのは他でもない安倍晋三政権である。今後、小泉純一郎政権から旧民主党政権を含め第二次安倍晋三政権まで一貫して講じられてきた地域医療破壊政策のつけを国民は払わされることになるだろう。一般論として効率化の重要性は否定しないが、いざというときのための安全装置までをも目先の効率化のために削減したら、緊急時における対応が不可能になってしまう。広義の安全保障を考えない政策は愚策である所以である。目先の「オゼゼ」の勘定だけに捕らわれ、安全保障の観点を欠落させた一連のアホな政策によって、国民の生活の安寧が毀損されかかっている。国民一人一人の自助努力だけでは到底対処しがたい退引きならぬ事態が発生した時、国民の生命や財産などの重要な権利利益を守り抜くのが国家の果たすべき最大の役割であり、それが国家の権力行使を最終的に正当化する国民の承認の源泉でもある。政権の政策担当能力の劣化は官僚機構の劣化と関係し、更にはそうした政権を作り出す選挙権者の劣化をも意味している。事態の深刻化を想定し、最悪のケースに備えて早期に大胆な措置を講じて予防に努めることが危機管理において求められるのに、この政府はどういうわけか、すべてにおいて後手に回ってきた。昨年末に武漢新型コロナウイルス蔓延の兆候は既に知られていたものの、中共政府の情報隠蔽により実態を正しく把握できなかったことまでは理解しよう。しかも、中共政府が隠蔽に加えて責任転嫁と事態の漫然な放置により初期対応に失敗したために、世界全体の危機を招いたわけであるから、最大の責任者は中共政府にあることもはっきりしている。

 

 しかし、その後の対応において日本政府は致命的な過ちを犯してしまった。一つは、コロナウイルス感染の拡大が誰の目にも明らかになった1月においても、春節期のインバウンド需要目当てと春に国賓としての訪日が予定されていた習近平に配慮して中華人民共和国からの入国者や直近に中華人民共和国を経由した入国者に対する制限をかけなかったことである。さらに、世界中に拡大した後でも、我が国は諸外国からの入国者(帰国者含む)に対する検疫措置ないし一時的入国制限措置を講じることもなかった。確かに、今回の緩すぎる緊急事態宣言の内容ですら、「自由がどうのこうの」、「国家による管理がどうのこうの」と騒ぎ出す連中がいるわけだから、仮にあの時期に入国制限に踏み切っていたならば、ことあるごとに「日中友好」の綺麗事を叫んでいる連中は、なおのこと騒ぎ出していたに違いないだろう。少なくとも日本の左翼は、普段から中共政府の残忍極まる振る舞いは指摘せずに日本政府の批判ばかりする偏向した考えを持っているわけだから、当然に予想できたことではある。なにせ、米国の核兵器は汚い兵器だが、旧ソ連中共核兵器はきれいな兵器だと最近まで強弁していたのが日本の左翼である。そうした連中が騒ぎ出すことを承知の上で、政府としては早期に入国制限をかけ、国内感染者が少数でその行動過程から感染経路を容易に追跡可能であった段階で最大限の封じ込め対策を講じておけば、ここまでの状態にはならなかったはずである。

 

 もちろん、初期対応の遅れは何も日本政府ばかりに見られたことではなく、明らかに欧米諸国の方が初期段階では油断していた。その意味で、欧米諸国に日本政府の対応を批判する資格はない。但し、国内の感染拡大となって以後の対応において日本政府は再び過ちを犯してしまった。これが二つ目の過ちである。緊急事態であることを率直に認め、不要不急の外出制限をかけず漫然と放置し続けた。いざ緊急事態宣言を出して外出自粛や営業自粛を要請しても、休業補償すらしないといち早く表明したことで、生活困窮者を生み出し、営業継続困難な店舗や会社を量産させ、ひいては供給能力そのものの毀損すらもたらそうとしている。このままでは、医療崩壊と経済崩壊に至りついてしまうだろう。亡国の道をまっしぐらに爆進しているのだ。

 

 日銭で暮らしている人々からすれば、休業により日々の生活すら立ち居かなくなり、新型ウイルスによる死よりも先に経済的な死の方が脅威となるに違いない。そうした人々に対して無理やりにでも休業を事実上強制することは「死ね」というに等しい。最低限の社会生活を送れるだけの資力すら失った者が大量に現れることがいかなる悲劇を招き寄せてしまうかは、多少の想像を働かせれば明らかではないか。職を失い、住む家さえ奪われ、日々の食事にすらありつけなくなった困窮者の中には自暴自棄となって強盗するより他ないというところまで追い詰められてしまうだろう。資本主義社会は、確かに競争社会である。その弱肉強食の力学が機能して貧富の格差が生じることは仕方のない面もある。皆一律に結果の平等を実現することは不可能だし、不可能であるにも関わらず無理矢理にでもそうしようとすると、かつてのポル・ポト政権による最悪の大惨事を招くだろう。とはいえ、「機会の平等」もあくまで理念でしかなく、現実の世界に「機会の平等」が実現したためしなどない。せいぜい「宝くじ」や「ギャンブル」など局所的場面においてのみしか一律の「機会の平等」はありえない。それもあって、一定の是正措置が必要になるわけだし、そもそもセイフティネットが施されていないと、健全な競争の基盤となる社会環境すら毀損されてしまう。ましてや、自己の責任の及ぶ範囲を超える事由により理不尽にも所得が急減した者に対する緊急の手当を講じることは必要なことである。特に、誰しもが公平にリスクを分担しているならともかく、そうではなくてある特定の者にだけ過重なリスク負担を強いている構造が明らかな場合、その者に対する措置が求められることだろう。

 

 困窮者対策は、困窮者への単なる福祉政策という意味を持つだけでなく、社会防衛のための施策でもある。延いては、感染拡大防止にも資する施策ともなる。人命が第一ということならば、先ずは徹底した防疫体制の強化により事態の長期化を回避することを優先し、他方で経済的死活問題に対処するために政府による史上最大規模の財政出動を講じることで傷口がこれ以上広がらないようにする。最悪なのは、中途半端な緩やかな規制にとどまることで感染が更に拡大し、また経済的打撃が長期化してしまうことである。安倍政権の後手後手に回った施策は、この最悪のコースを選択したかのようだ。

 

 マスメディアやSNSを通じて、各界の著名人が外出や営業の自粛を呼び掛ける姿を目にすることが多くなったが、残念ながらその中には外出せざるを得ない人々や営業を休止してしまえば明日から生活が成り立たない境遇に置かれた多くの人々に対する想像力や配慮に欠けるものが少なからず見受けられる。当人は良かれと思って意見表明しており、その良心を疑うわけではないが、悲しいかな現実の世界が見えておらず、せいぜい自分の周囲の生活圏しか視界に入っていないので、非現実的なことしか言えない。その姿は、普段は「リベラル」なことばかり口にして、「格差社会」や「貧困問題」を取り上げながら「経済成長は要らない」だの「これからは贈与経済だ」だの世迷言を繰り出しながら、ド厚かましく消費生活を謳歌する姿をSNS上にアップして顰蹙を買った「思想家」と自称する一介の大学教員の姿と重なる。

 

 政府が休業に伴う損失を補償することが筋であるが、政府が大胆な国債発行による財政出動を渋るのならば、この際「背に腹はかえられぬ」とばかりに、今回の惨禍によっても給料がほぼ満額保証されている者たちからその一部を徴収して、困窮者や営業補償のための資金に回すなどある種の「シェアリング」を徹底するということも考えて良さそうだ。もちろん、私有財産制の核心部分に触れる内容となるから、実現は困難を極めるだろうが、あくまで業界ごとに「自主的」になされた体裁で、公務員や大企業の社員の給料の何割かを特別徴収するのも一つの可能性だろう。大学の常勤教職員の給料もほぼ満額支給されるはずだから、それらの給料の2割から3割程度カットして非常勤教職員の補償にあてたり、アルバイトの収入が途切れた学生の補償に回すなどの声が上がっても良さそうだ。同一価値労働・同一賃金の原則が徹底されず、最も搾取の度合いが著しいのが大学である。普段から「格差社会」を批判し「弱者救済」など上っ面の言葉だけ述べ、自らはそのための具体的行動を何一つしない偽善者が大学教員には多いが、事ここに至れば、こうしたセンセーたちもこぞって協力してくれるに違いない(?)。

COVID-19とパチンコ

 全米で感染者数が20万人を超えてしまったCOVID-19だが、中でもニューヨーク州の感染者が8万人以上と偏りを見せている。しばらくすると、さらに被害は拡大していくだろう。ワシントン州武漢から入国した者の感染者が発見されたのが1月下旬だったかと記憶している。当初、トランプ大統領だけでなく米国全体が、事がここまで大きくなるとは想像もせず、はっきり言って甘く見ていた。特に、若年層は完全に舐めきっていたと言われても仕方がない。

 

 パニックになることを恐れてか、当初はやたらと若年層は軽症で済むという情報だけが独り歩きしたこともあって、どこか他人事だと思い込み、ともすれば自らの行動が感染拡大に拍車をかけ、多数の死者すら生み出してしまうかもしれないという想像を欠いた者が街に溢れた。自分自身も含め人間は、概して自分や身内の者に被害が及ぶ危険が切迫しない限り気がつかないのかもしれない。「バカは死ななきゃ治らない」とはよく言ったものである。とはいえ、実際に直接被害を被った者や近しい身内の者からすれば、そう言って笑っていられる状況にはないだろう。

 

 自由な行為によって他人の権利または利益を侵害する結果が惹起された場合、行為者には何らかの責任が帰される、と一般に考えられている。たとえその結果が故意に基づくものではないとしても、当該結果発生の予見可能性ないしは認識可能性がある限り、広義の意図的行為の範疇に入り、それによって惹起された結果に対する責めを負う。つまり、たとえ故意でなくとも結果発生のある程度の予見可能性があれば、当然に自らの行為が当該結果発生をもたらさないよう注意する義務が生じるわけであり、この注意義務違反としての過失が認められるのである。例えば、行為時において社会に属する一般人ならば認識可能であった事情や、その人自身が特に認識していた事情から、結果発生の蓋然性が予見しえたにも関わらず敢えて当該行為に踏み切り、他人の権利利益を侵害する結果が惹起されたならば、当該行為者として社会通念上期待された注意を尽くすという義務に違背したことになるのだから、「注意義務違反」としての過失責任を問われても仕方がないという理屈である。

 

 度重なる注意勧告にも関わらず、勧告を無視して不要不急の外出をした結果として感染が拡大するという事態が世界各地で報道されているが、その者に過失責任が生じるケースがいくつかある。酷いケースだと、ほとんど故意と同視しうる重過失と言えるケースさえある。やや極端なケースによっては、傷害罪や傷害致死罪に問える事案すらある。殺人の故意までは認められないまでも、他人に感染させてしまう可能性が大きいという事実を認識認容しつつ敢えて当該行為を行い、その結果として他人が感染して死に至ったのだとすれば、傷害致死罪に問えるはずだ。先立って愛知県において、自らが感染者であることを承知しながら、「他人に感染させてやる」と言ってスナックに飲みに行った男がいたが、この男には店に対する業務妨害の罪が成立することはもちろんのこと、もしそのことにより店内に居合わせた誰かが感染するようなことがあれば、同時にその人に対する傷害罪も成立しうるのである(もっとも、数日後にこの男自身が亡くなったので、たとえ起訴されたとしても被告人死亡につき公訴棄却で終わったであろうが)。当人だけが感染して死ぬのは一向に構わないが、巻き込まれる者からすればたまったものではない。

 

 但し、感染者を糾弾したところで事態が改善するわけではないので、殊更バッシングすることは建設的なことではないし、集団で寄ってたかって非難攻撃することも不健全な姿ではある。しかも、そうなることによって当事者が正直に申告しにくい状況がつくられようものなら、事態の更なる悪化を招くことすら考えておかねばならない。加えて、具体的事情を無視して、単に感染してしまったという一事を以って過失ありと認定してしまう誤謬を増長させ、最悪の場合、それが差別の温床と化すことも憂慮しておかなければならない。だから、一般人の立場から彼ら彼女らを執拗に非難することは慎まれるべきだし、そうしたバッシングが起こることを危惧する者の意見には首肯しうる点が多々あるわけである。

 

 しかし同時に、著しく不注意な行動であるとうことが誰の目にも明白な行動をした者まで全く責任はないと開き直ることも誤っている。例えば、感染拡大が危惧されている状況で、政府が渡航自粛を勧告しているにも関わらず敢えて渡航に踏み切り、帰国後に感染の疑いが生じるような症状を自覚しつつも不用意に活動し、その結果として国内の感染拡大に寄与してしまったケースがまま見られるが、当該渡航が危険をおかしてまでなさねばならないと考えることに一定の合理性があり、かつ招来されるリスクを背負うのが当人だけにとどまるという事情があるのなら格別、そうでない不要不急なケースであるのに十分な注意を尽くさずに他人の権利または利益を侵害する結果をもたらせば、当該行為者にどこまでの範囲の損害まで帰責させるかの争いが生じるものの、侵害結果発生に対して一定の過失が認められるはずである。行為の自由が認められているからこそ、当該行為によって他人の権利や法律上保護される利益を侵害することになれば、不法行為責任が生じるというのと同様の理屈である。

 

 逆に、行為の自由が一切ないところでは、そもそも期待可能性がないのだから、責任が阻却されることになる。この点、渡航自粛要請がなされていたからといっても禁止されていたわけではないのだから、要請を無視して渡航することは何ら違法ではなく、責任など生じないなどと頓珍漢な主張をする一部の「有識者(?)」が存在するが、全く真逆のことである。ここで問われているのは、渡航そのものの違法性ないし不当性なのではなく、許される行為であっても、その行為が他人の権利や法律上保護される利益の侵害にならないよう注意しなければならないところ、その注意義務を懈怠したのか否かということなのである。渡航したこと自体や感染したこと自体の責任を問題にしているわけではないのである。この点を取り違えると、議論は良からぬ方向へと独り歩きしてしまうだろう。自由な行為だからこそ、当該行為の是非弁別の判断が必要となり、この是非弁別の判断に対する非難可能性としての責任が発生する余地が生じるのである。

 

 ちょっとした戦時体制下(実際の戦時体制はこんなものじゃないだろうけど、米国の戦争では国内に深刻な脅威を意識づけるような状況になることはほとんどなかったことを考えると、一般の米国人にとっては戦争とは違う別の脅威が身に迫る経験をしているのだろうと思われる)のニューヨーク。可能な限り他人との物理的接触を回避するためにとられた自粛行動によって仕事の内容にも徐々に変化が生じていることをひしひしと感じる日々。在宅勤務が可能な職業ゆえにさほど困難は感じないものの、何とも形容しがたい焦燥感に覆われた状態でやらねばならない反面、相場変動のボラティリティの大きさから絶好の「稼ぎ時」とばかりに、ありったけの注力を傾け利潤追求に勤しむ対照的な己の有り様を反省するや、勢い複雑な思いにならざるを得ない。

 

 先月22日以降、ニューヨークの住民は食糧調達など不可欠な場合を除いて自宅待機が義務づけられ、食料品店、ガソリンスタンド、病院、警察など最低限の生活を送るのに必要不可欠な業種を除いた全労働者に対して在宅勤務が強制されている。とりわけ、屋内で多数の人と接する業種については営業停止命令が出されている。幸い、今のところニューヨーク住民は平静を保っているが、これは「同時多発テロ」や大規模停電などの大惨事の際に、住民同士が協力しあって秩序維持に努めてきた経験が生きていることの現れとも言えよう。

 

 ニューヨークは、日本の都市と比べてみると、東京というよりも寧ろ大阪に近いという印象を日増に抱くようになる。都市の規模からすれば東京との対比となるだろうが、数字には表れにくいその都市の持つ「風土」が明らかに東京とは違い、大阪の方に類似している。街が碁盤の目のように整備されているという表面的な類似性だけではない、人々の立ち振舞いや物の考え方が大阪に類似しているのではないかと思われるのである。実際、統計をとったわけではないものの、ニューヨーク在住の邦人のかなりの割合が大阪をはじめとする関西の出身者で占められる。日本人の集まりで交わされる会話に関西の言葉が飛び交うこともしばしばだ。変な例だが、別の土地ではありながら関西の言葉が飛び交う空間として東京大学医学部附属病院がある。この理由は簡単で、医学部医学科進学が予定されている東京大学教養学部理科三類の入学者における相当な割合を灘高等学校出身者が占めているからである。

 

 それもそのはず、大阪の住民の気質とニューヨークの住民の気質はかなり似ていているように思われる。陽気でかつ人間関係の細やかな機微を心得た独特の間の取り方、新規なものをとりあえずは受け入れてみようとする柔軟性、そして何より現実に臨機応変に対応するリアリズム、そうそう若干せっかちな面なども共通しているし、普段は「お上」の言うことを本気にせず、むしろ小馬鹿にして好き勝手に行動していても、危急の際にはその互助機能が発揮されるanti-fragileな都市である点でも共通している。道端に倒れている人がいても知らんぷりを決め込む東京の冷淡さとは異質な面が際立つ。事実、日本に長く済む外国出身者も東京と大阪の違いは肌で感じることができるようで、大阪の方が住みやすさの点で断然勝るという。

 

 喫煙環境を考えると、僕のような愛煙家にとってニューヨークの規制は厳しすぎるので、この点、喫煙規制がルーズな日本や欧州の一部地域の方が居心地がよい。もっとも、日本では改正健康増進法という名のお節介な法が今月から施行され、ますます居心地の悪い環境になりつつあるようだ。分煙化を徹底すればよいものの、受動喫煙防止を掲げれば何でもゴリ押しできると、嫌煙家の一方的な言い分を全体化しようという動きに対して、いずれブチギレした愛煙家が反旗を翻すようになれば面白いのだが。喫煙だけでなく、いずれはアルコールも禁止という方向へと動き出すのだろう。しかし、タバコの臭いを指摘する当の嫌煙家の口の方が余程臭いことだってあるのだ。

 

 故あって日雇労働者になって流れついた場所が西成の釜が崎であったり、朝鮮半島からの密航者が多くいついたのも大阪というように、大阪には綺麗も汚いも関係なく全てを受け入れていく包容力あるのだろう。周知の通り、米国では東海岸だけ取り出しても、政治の中心と経済の中心は異なる都市であり、ほんの数十年前までの日本もそうだった。政治の中心は東京だが、経済の中心は大阪であって、人口も大阪市東京市を上回っていた時期もある(いわゆる「大大阪時代」)。日本で唯一花開いたブルジョア文化も京阪神地域とりわけ「阪神間モダニズム」として知られる阪急神戸線沿線を中心に育まれた文化であった。不幸なことに、「東京一極集中化」という誤った国策のせいで関西の地盤沈下は著しくなりはしたが、都市の持つ本来の魅力まではまだ失われていないと期待したい。是が非でも関西経済を復活しないことには、日本の再復活もあったものではないのだ。

 

 閑話休題。ニューヨークの医療現場は混乱を極め、日本でもこうした医療崩壊の現状が伝えられているはずだが、果たしてどこまで深刻に捉えられているか怪しい。まだかろうじて維持できている医療体制を日本が今後においても維持できるかどうか、極めて不安にならざるを得ない。外から眺めていると、今の日本社会は「釜中の魚」そのものではあるまいか。予想されていた通り、東京や大阪などの大都市では急速に感染者が増加し、増加率の上昇具合から今月中旬までに感染爆発が起きても不思議ではない状況になってきている。これら大都市で感染爆発が起こり、ニューヨークのように現場の医療体制が崩壊することにもなれば、公衆衛生的にも経済的にも目も当てられぬ大惨事の長期化という最悪の事態を迎えることになるだろう。

 

 いまだに「緊急事態宣言」を出すタイミングではないと言い張り、事態が進展していくのをやり過ごすだけに見える後手後手の政治。「お肉券」や「お魚券」だの、挙げ句は「布マスク」を世帯ごとに二枚配布ときた。フェイクニュースだろうと思っていたが、どうやら本当に発案されたらしいというから、政府が命懸けでギャグを演じているとしか思えない。しかし、東京や大阪といった大都市で感染拡大が発生し、そのせいでニューヨークなど欧米の大都市で発生している医療崩壊となれば、大都市圏から「脱出」した人々が一斉に地方に飛び散り、地方の医療崩壊を連鎖的に招く危険性が高まり、他の病傷患者にまでも波及し助かる生命ですら助からない悲劇が生まれる。また事態が長期化することによる世界恐慌すら間近に差し迫っていることからして、最悪のケースとして世界大戦へと突入してしまう可能性すら想定しておかねばならない非常時を、我々は正に今経験している。

 

 邪気か無邪気かはわからないが、案の定一部の左翼が戯言を弄しているようだ。しかも、無知であることを自覚することもなく、更に事態の深刻さを直視しようとすることすらしないクズぶりをさらけ出してもいる。自身はお気楽な身分故に好き勝手言うばかりの無責任な態度も際立っている。政府は、よもやこうした「人権派」を自称する左翼リベラルが騒ぎ出すことを恐れているわけでもあるまい。連中がメディアを通してけたたましく騒ごうと、まともな判断力を持った人間ならば「いつものバカ騒ぎ」程度に聞き流すわけだから、何ら影響を与えることはないはず。実際、完全にイカれた左翼は国家権力の発動が前面にせり出す事態を喚き立てている。しかも、その内容が支離滅裂であることがお笑いだ。日本の大学教員にそういう手合が多いが、実は、こうした連中こそ無自覚に国家権力に最も寄生しているにも関わらず、手前勝手に頭の中の観念をこねくり回しているだけで現実の世界について何事か思考している気になっている極楽トンボである滑稽は、とうの昔から見抜かれている。

 

 こうした連中は、たとえ世界恐慌になろうが世界大戦が起ころが大量の餓死者が出ようが、「生権力だー」だの「管理社会がー」と喚き続けてオナニーするだけしか能がない「ヘタレ左翼」であるケースが大半だ。日本の人文系大学教員の集団は、崩れ左翼の掃き溜めか、就活に失敗した落ちこぼれの成れの果てだとバレてしまい、今ではお笑いの対象と化しているピエロなのかもしれない。だとすれば、何を躊躇することがあるのか。一時的な経済の大きな落ち込みを恐れてか。しかし、事態の漫然な放置こそ取り返しのつかない経済的大惨事を招くことを考えるならば、手をこまねいている暇などないはずだ。

 

 「緊急事態宣言」発出に躊躇していた財界ですらも、日本経団連経済同友会からはやむ無しとの考えが出されている。日本医師会からも各都道府県知事からも早期に宣言を出すべしとの意見が提出されている。中には、小池百合子東京都知事のように都市封鎖(ロックダウン)の可能性について言及する発言もある。「緊急事態宣言」発出=都市封鎖を意味するわけではない。仮に都市封鎖がなされ、それが長期化するような事態に至れば、日本経済への壊滅的打撃となり、大量の失業者が発生することは必定。昭和初期の金融恐慌、世界恐慌の結果生じた大量の失業者の群れで溢れることすら警戒しなければならないわけだ。案の定、この事態を捉えて、国民が自ら権力に対して強権発動を求めることで支配されたがっているのだなどとアホな主張をしている左翼リベラルが出てきたが、今後予想しておかねばならない最悪の事態に対する切迫した危機感が欠如しており、相変わらずの「お花畑」の住人であり続けている。

 

 いずれにせよ、政府により行動等を管理されるのは嫌だの何だのと、自身に直接被害が生じる可能性をつゆだに考えず、今ある立場がそのまま維持されるだろうとの過度な楽観に基づき現実を認識しようと努める態度すらない想像力の貧困な「お花畑」に住む自称「インテリ」どもには、今そこにある危機がまるで見えていないのである。加えて、「治者と被治者の自同性」を原理とする民主制国家の権力観が理解できていないというおまけつきだ。労働者の味方を自認する義理はないが、労働者の真の敵とは、こういう類の「似非インテリ」どもであることに気がつくべきだろう。

 

 しかも、仮に「緊急事態宣言」を発したとしても、諸外国と違って個々の国民の行動の自由を強制的に制約する法的建てつけになっていないのであるから、事ここまでに至れば何ら躊躇することはない。今となっては遅すぎるし、罰則を伴う強制措置が可能な規定ではないのでどこまで実効性があるか不明なところもあるが、とはいえある程度の効果が期待できるだろうから、一刻も早い「緊急事態宣言」の発出が必要だろう。

 

 公衆衛生学や感染症学などの専門家の知見をどこまで本気で取り入れて政治判断しているか怪しい安倍政権だけでなく、「安倍晋三のやることは全て気に食わない。諸悪の根源は安倍晋三にある!」と水を得た魚のようにここぞとばかりに勝手気ままな政権批判に精を出す連中も安倍晋三と同じく脳天気であること寸分も違わず、完全にボケたことしか言っていないし、事態の深刻さを理解していない。だが、こういう連中こそ、事態が悪化し目も当てられぬ状況に立ち至るや、冷静さを欠いたあわてふためいた醜い様を見せつけることになるヘタレであるに違いない。見たくない現実を直視しようとせず、想像上の「お花畑」の中での観念遊戯に耽ることにしか能のない連中のいつもの習性が現れ出たものとも言える。その姿は、国際政治のリアルな力学を見ようとせず、ひたすら「非武装中立」だの「憲法九条を守ることが平和を実現する道」だのと世迷い事を繰り返し唱え続けるばかりで、安全保障に関わる国民的議論を妨害し続けてきた戦後日本の左翼の姿と重なりもする。

 

 一連の騒動で、経営的に立ち行かなくなっている資本力のない個人経営の商店や零細企業の悲鳴が伝わってきているが、米国でも大量の解雇者が出て、失業保険申請者数は過去最高を更新した。マーケットの事前予想よりは少なかったということもあり、発表後のマーケットの反応は薄かったとはいえ、日本時間第一金曜夜に発表予定の先月の雇用統計の結果が市場予想より大幅に悪化した結果が発表されるとどうなるかわからない。FRBも大規模な金融緩和に踏み切ることになり、また連邦政府としてもムニューシン財務長官の財政措置を講ずる旨の発言からマーケットの動揺は一時的に沈静化し、とりあえずは最悪のケースを回避したかのように見えるものの、今後の感染拡大状況いかんでどうなるか誰もが予想できなくなっている。

 

 より状況が悪化する可能性の濃厚な日本においても、俄に急増した生活困窮者に対する緊急支援と産業が一気に崩壊することを防ぐ緊急経済対策を二段階三段階と順をつけながら講じていくことになろうが、あろうことか、一部の業種に関するバッシングの声が漏れ伝わってくるたびに、開いた口が塞がらない思いにかられる。それはパチンコ業界に対する過度なバッシングである。

 

 新型ウイルスの影響で営業自粛を余儀なくされた店舗がある一方で、パチンコ店は多数の者が集散する場でありながら、いまだに営業を続けているのは怪しからんというわけである。叩きやすい所を叩くというのは、何も日本社会にのみ当てはまる傾向ではなく、多かれ少なかれどの国でも見られる現象ではある。ただ、パチンコやスロットといったグレーなイメージが付着する業種は、このことに限らず何かとやり玉に挙げられる傾向が強い。パチンコ店に人が集中し、ともすればクラスターの発生源となりうる危険性を有することは想像される。とはいえ、パチンコ店は営業を許されているからこそ営業を続けていて、そこに客が来店するからこそ経営困難には陥っていないというだけのことである。

 

 もし、パチンコ店が他業種の店舗と比較して危険度が大きいというのなら、その営業を停止させるだけの明確なデータもしくはデータが今のところなくともその蓋然性が大きいと判断するに足る科学的根拠が要求されるところ、そうした理由づけが提示されている状況ではない。「だからパチンコ店は堂々と営業を続けるべきだ」と言っているわけではない。クラスターの発生を極力防止するためには、できれば営業しない方が望ましいだろう。他業種の店舗と比較して殊更危険度が大きいとは必ずしも言えないとはいえ、多数の人が密集する場であることは確かであるので、多人数の参集を回避すること自体はリスクを軽減するのに資すると考えるのは自然なことである。

 

 但し、営業を半ば強制的に停止させるのだとするなら、逸失利益の補填がなされるべきところ、果たしてパチンコ店への営業休止に伴う損失補償を国が行うことに同意する声が起こるだろうか。少なからず反対の声が出てくるはずだ。また、そうした社会的偏見も手伝って、大手はともかく中小零細のパチンコホールを経営する会社には金融機関からの融資がつきにくい。しかし、パチンコ店も遊戯業として合法的に営業しているわけだから、その営業が停止されたことによる逸失利益の補填を求めざるを得ないだろう。

 

 改めて強調するが、パチンコ店をことさら槍玉にあげて問題視するのならば、パチンコ店が他の業種の店舗よりも特にクラスターの発生源となる危険性が大きいという事実もあわせて示さないことには、単なる無知と偏見そして職業差別からくるパチンコ叩きの片棒を担ぐことにしかならないだろう。おそらく、過度にパチンコ店をバッシングする者は、自身がパチンコやスロットを打った経験に乏しく、勝手なイメージに基づいて非難攻撃しているに過ぎないのではないかという疑念がもたれる。要するに、COVID-19の騒動が起こると起こるまいと関係なく、パチンコやスロットが嫌いで、できればこのような単なる遊戯業を超えた事実上の「ギャンブル産業」として実態を有するパチンコ産業そのものを潰したいと目論む者が往々にして描きがちなイメージに基づく故のない糾弾でしかないということである。

 

 パチンコ店でパチンコやスロットを何度も打った経験のある者ならば承知のことだが、パチンコ店は前々から喫煙者対策に気をつかい、空調設備のための投資を行ってきている。そこらの他業種の店舗の空調設備とは比べ物にならず、圧倒的に換気が行き届いている。加えて、パチンコ店は本来人々がおしゃべりする場ではなく、基本的には各自が黙々と台に向かって打っているだけである。何も狭い個室の中で数人が大声で音痴の絶唱を鳴り響かせるカラオケボックスでもなければ、口角泡を飛ばしてがなりあっている居酒屋でもない。空調設備に金をかけず、酸欠状態気味のライブハウスやクラブの換気の悪さもない。しかも、店員は人が入れ替わるたびに頻繁に台を消毒するなどの対策も行っている。何よりも、各施設でのクラスター発生がいくつか報告されているが、パチンコホールが数多く報告されているという事実があるのだろうか。特にパチンコ店をやり玉に挙げるのであれば、パチンコ店がカラオケボックスやクラブなどよりもなお一層クラスターの発生源となる蓋然性が大きいと考えられる根拠に加え、実際にそうした実例を列挙できなければならず、それができないのならば、ことさらパチンコ店だけを叩く行為は実態についての無知と己の偏見に由来する根拠薄弱な考えでしかない。

 

 改めて確認するが、「パチンコ店は、これからも何ら変わらず営業し続けろ!」と主張しているのではない。この騒動に乗じて、単にパチンコ業界が嫌いだという理由から、一見もっともらしく取り繕いながら実のところ過度にパチンコ店を問題視する主張は、単なる無知と偏見に由来するものであって、その主張は根拠が希薄であるということを確認しているに過ぎない。もちろん、今のところパチンコ店がクラスターの発生源となった事例が報告されていないだけであって、今後の状況次第でそうした事案が発生することを否定するものではない。不特定多数の者が集散する場であることにはかわりなく、その意味で営業しない方がリスクを減じさせることになるだろう。できるものなら、事態が終息の方向に向かい出したと確信が持てるまで、客にはそうした場所に集まることは避け、当面は極力行かないようにして店側の決断を促すなりする方が、最悪の事態の回避に資するはずだ。

 

 競馬や競艇など公営ギャンブルも一応レースを行ってはいるものの、無観客でのレースを続けている。これはネット環境が充実して、多くの人々にネットを通じた馬券や舟券などの購入が普及しているからこそ可能なことであって、現に競輪では、以前から「ミッドナイト競輪」と称して夜遅く無観客でのレースを行い、ネットを通じた車券の購入で一定の成果をおさめている。ところが、パチンコやスロットはそういうわけには行かないところが難しいところだ。

 

 ワクチンや治療薬が開発されていない状況で、これ以上の感染拡大による大惨事をできるだけ防いでいくには、とりあえずは人々の物理的接触を避けて必要不可欠な最低限の活動にとどめることが重要というわけだから、飲食業や遊戯業など必要性・緊急性の希薄な業種全体の休業(損失保証は当然行った上で)を強制的に命令するようなこともやむない事態だが、これまた法制度の欠陥というべきか、我が国の法制度はそこまで強力な内容を持つ法律を持たない。これも通常考えられない程の緊急事態が起こる可能性を見たくないから直視しようとしない戦後日本の現れである。

 

 いずれにせよ、事ここに至れば、政府としては国民の生命と安全を守り、かつ国民経済が再起不能となるまで壊滅してしまう最悪の事態の回避に最善を尽くすべく、可能な権力行使のシナリオを早急に描いて国民にそれを開示する必要がある。さもなくば、東京においてもニューヨークや欧州の大都市の二の舞としてのある種の地獄絵が目の前に現れることも近くやってくるかもしれない。とにもかくにも、人間の物理的接触を可能な限り避けるようにして、感染爆発による医療体制の完全麻痺や社会全体の崩壊といった最悪の事態だけは招かぬよう、現在の法制度では効果は限定的なものにとどまる可能性があろうとも「緊急事態宣言」を発出し、今が生きるか死ぬかの瀬戸際である旨を周知させるとともに、第二次世界大戦以後に生じた人類最大の危機を是が非でも沈静化の方向へもっていこうとする国家意思を示すことが必要だ。

 

 同時に、その実効性を高めるためにも、自粛の要請及び指示に従った企業なり個人事業主に対する休業補償(全額にするかは議論の余地はあれど、最低でも6割程度の補償は必要だろう)を確約し、更には今回の事態の発生で所得が激減した生活困窮者に対する早期の現金給付が求められる。もっとも、今回の事態の発生により所得がほとんど変わらないだろう公務員や大企業のサラリーマンあるいは小中高大の常勤教職員などへの現金給付は原則不要だろうが、該当者と非該当者を事前に仕分けする作業をしていたら逆に緊急性の要求が果たし得ないだろうから、とりあえず緊急の一時的給付として一律に個人単位の現金給付(政府発行小切手の形にして郵送するなど色々な方法が考えられるだろう)を行い、事後において改めて本来給付が不要な者に対する給付金につき、徴税やら年末調整やらの場面で回収するなどの方策を講じることで解決を図ることも考えてよいだろう。本格的な経済対策としては、緊急の生活保障のための給付とは別に、事態終息の方向性が見えてきた段階で大胆に実施するなど、目的を定めて段階ごとに施策を講じていくことが望ましい。事態はそこまで切迫しているのである。