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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

デボーリンとイリエンコフ

赤色教授養成学校哲学部での教え子マルク・ミーチンによる攻撃によって失脚したアブラム・デボーリンは、ロシア革命を経て建国されたばかりのソヴィエト社会主義共和国連邦哲学界を牽引する一人であった。ゲオルギー・プレハーノフの弟子であり、1920年代に戦わされた「弁証論-機械論」論争において「弁証論派」として頭角を現し、『マルクス主義の旗の下にPod znamenem marksizma』誌の編集長まで務めた。

 

ところが1930年代に入り、ヨシフ・スターリンによる独裁が強化されていくに連れて、暗雲が立ち込めることに。遂には、ミーチンをはじめかつての教え子から攻撃を受けて失脚した。だが、デボーリンの哲学そのものは、実質的には後々まで、ソヴィエト共産党公認のイデオロギーである「マルクス=レーニン主義哲学」として生き残った。

 

ミーチンらによるデボーリン批判は思想闘争上の批判という形式を装うも、具体的中身を見るならば、およそ哲学論争の名に値しない単なる権力闘争の際の「言いがかり」に過ぎなかった。元から何らの思想的内容も無いので、デボーリンの哲学を「拝借」せざるを得なかった結果、実質的な変更を加えられずに残ったというわけである。

 

デボーリンが攻撃された直接の理由は、デボーリンがマルクス主義における「レーニン的段階」の重要性を理解できなかったことや、理論を実践から切り離して理解していたこと、弁証法理解においてヘーゲル弁証法を引き写したに過ぎないこと等であった。こうした点が、「メンシェビキ化した哲学」だの「右翼日和見主義」として断罪の対象となったのである。

 

デボーリン派一掃の報は日本にも伝わり、ミーチンらによる「言いがかり」を真に受けた戸坂潤は、『現代哲学講話』において、「右翼日和見主義」であるとデボーリン派をなじり倒していた。新カント派から唯物論への移行過程で書かれたと思われる「空間論」や、日本の思想状況に対する批評「反動期における文学と哲学」等において、時に鋭利な分析を見せた戸坂でさえ、「宗主国ソ連」への忠誠のあまり、ことソヴィエト哲学となると、完全に目が曇らされていたことを示す好例である。

 

デボーリン失脚の真相は、「スターリンを最も優れた哲学者として位置づけるように」との党中央からの要請にデボーリンが承服しないことを奇貨として、虎視眈々と共産党内での出世を狙っていたミーチンがデボーリン攻撃に対するスターリンの事前了解を取りつけ、「哲学のレーニン的段階」を掲げてデボーリン批判を展開し、デボーリンに代わってソヴィエト哲学界に君臨せんとした個人的野心も大きく寄与しているように思われる。その功績を買われてか、ミーチンは、哲学博士号を取得した。とは言うものの、論文の書面審査も口頭試問もなされずに博士号が授与されるという不可解なものであったらしい。スターリンの威を借りて出世を遂げたミーチンは、一時的な例外はあれど、スターリン勲章を授与されるなど長くソヴィエト哲学界の親玉として君臨し続けた。正に、ロシア哲学の「暗黒時代」である。

 

ミーチンは日本の哲学界の招待に応じて二度訪日しているが、このことは当時の日本の哲学界において教条的なマルクス=レーニン主義に被れた左翼が一大勢力を誇っていたことを物語る一つのエピソードでもある。しかし、ミーチンを日本に招いた者たちが果たしてミーチンの哲学者としての業績や行動履歴をどこまで把握していたのか。ほとんど何もわかっていなかったのではあるまいか。

 

『近代日本の批評Ⅰ-昭和篇(上)』(講談社)において、蓮實重彦が戦前の福本和夫の理論的水準はその他の日本やモスクワのマルクス主義者より遥か上を行くにも関わらず、この連中はそれを理解できなかったと述べていたかと記憶するが、正しくその通りだろう(当時、第一級の知性であった福本和夫が、その思想的立場を異にする柳田國男と書物のやり取りをし合う仲であったことは知る人ぞ知る事実。その使いを仰せつかっていたのが、後の日本の裏社会で暗躍するフィクサーとして名を馳せた息子福本邦雄だったというのが面白い)。

 

そのミーチンによって、やれ「主観的観念論だ」やれ「メンシェビキ化された観念論だ」とレッテルを貼られた多くの哲学者や科学者はたまったものではない。一切の公職を解かれた者、著作の発表を禁止された者、シベリアに流刑になった者、果ては銃殺される者までいたというのだから、いかに当時の日本の左翼の認識がボケていたかが伺われる。

 

その本質において、マルクス=レーニン主義哲学とさほど遠い距離にはないと言っても過言ではない日本共産党系統の哲学者もまた、「異端」と見なす者に対してレッテル貼りして攻撃してきた。そうした姿勢を見るにつけ、旧ソ連時代の恐怖政治を思い起こさせてくれもする。今は、何食わぬ顔して「マルクスレーニン主義」という表現を改めて「科学的社会主義」という言葉を多用して、いかにも旧ソ連共産党の公認イデオロギーと無縁であるかのように装っているものの、何のことはない、昭和51(1976)年の第13回党大会まで「マルクスレーニン主義」の名称を頻繁に使用していたし、その宣伝に努めてきた事実は誤魔化せない。

 

このように、日本共産党は何かと都合が悪くなると、言葉を封印してそしらぬ顔を決め込むことがある。例えば「プロレタリアート独裁Diktatur des Proletariats」にしてもDiktaturの訳語は「独裁」であるのに、昭和48(1973)年の第12回党大会で突如「プロレタリアートの執権」という訳語を使うと言い出し、以後息のかかった出版社から出されたテキストは、党の方針で一斉に「執権」に差し替えられた。この点について、旧日本社会党最左派「社会主義協会」の理論的支柱である向坂逸郎らが『プロレタリアート独裁』(社会主義協会出版局)という小著を著して批判を展開したものの、今も「独裁」は「執権」に差し替えられたままである。

 

マルクスレーニンのテキストに登場するGewaltも「暴力」ではなく「強力」というよくわからない言葉に差し替えられている。「強力」という名詞化表現を造語してまで誤魔化そうとする共産党の小癪ぶりには毎度呆れさせられる。

 

これだけではない。今では「護憲」を叫んでいるけれど、憲法の欠陥を追及していたのは他でもない、日本共産党自身である。当時の首相吉田茂に対して野坂参三憲法9条の不条理を追及する質問を国会で行ったことは今ではよく知られているが、この点を問い質されるや、苦しい弁明に終始している。

 

今では「人権」を強調する論陣を張っているが、これだって、ちょい前までは寧ろ「人権」概念を批判していたはずだ。そりゃ当然と言えば当然で、「人権」が前提にする「人一般」の観念は現実の階級の存在を隠蔽する機能を果たす抽象化された個人という幻想を振り撒くブルジョアイデオロギーであるという考えが、左翼とりわけマルクス主義陣営では常識であったからである。だからこそ、久野収の対話篇形式で書かれた論文「市民主義の成立-一つの対話」が『思想の科学』に掲載された時、論壇や思想界に激震が走ったのであろう。市民運動の先駆となった久野の論文は、その意味で戦後民主主義を代表する論文だったのである。

 

党派闘争が激しかった頃には「御用イデオローグ」たちを動員して、梅本克己や黒田寛一吉本隆明や藤本進治や廣松渉へのレッテル張りによる激しい攻撃をし続けた。榊利夫『現代トロツキズム批判』(新日本出版社)や山科三郎『日本型トロツキズム』(同)、岩崎允胤『「新左翼」と非合理主義』(同)などがその典型である。

 

岩崎の著書は、「新左翼」の理論的支柱の一人をフランクルト学派のマルクーゼと見て、これに攻撃を加えているものの、当時の西ドイツではともかく少なくとも日本の新左翼運動にマルクーゼが決定的な影響を及ぼしたと見るべき根拠は乏しく、全く以ってピントがずれた批判しか展開できなかった。山科の著書にしても、廣松渉の哲学を「主観的観念論に堕した非合理主義哲学」だのと攻撃し、同じく先の岩崎允胤は、日本共産党中央委員会機関誌『前衛』や共産党系の新日本出版社から刊行されている雑誌『経済』における論文や対談などを通じて、「マッハ=ボグダーノフ主義」だの「妄動集団ブントのイデオローグ」だのと言いたい放題であった(何年の何月号かは失念したが、『経済』に掲載された「現代の思想的状況について」や平野喜一郎との対談「哲学と経済学の対話」などは特に酷い内容である)。

 

岩崎允胤弁証法現代社会科学』(未来社)や『中国の哲学とソヴェトの哲学』(啓隆閣)などの著書でも盛んに、プラグマティズム分析哲学あるいは確率論や集合論に対してまで唯物弁証法に反するものとして非難していた。そもそも分析哲学論理実証主義と解している時点で「誤解も大概にしてくれ!」と言いたいところだが、確率の解釈にしても、これまでに散々なされてきた科学哲学や数理哲学での議論をほとんど無視する形で(エヴェレット以後の「量子確率」については、当然に全く触れられていない。デイヴィッド・ウォレスやイタマール・ピロフスキらの登場はずっと後なので、年齢的に厳しかったかもしれないが)、統計的合法則性に還元してしまうという恐るべき単純化をし、その他の哲学の見解については「ブルジョアイデオロギー」とレッテルを貼って葬り去るという旧ソ連の体制イデオローグのような主張を繰り返すばかりであった。マルクス主義者の立場から実りある批判をしたいというのなら、ヘンリー・カイバーグやデイヴィッド・ウォレスあるいは最近亡くなったイタマール・ピロフスキなどの洗練された確率の哲学までは射程を及ぼさなくてもいいから(ウォレスは無理か。岩崎死後に注目されるようになったので)、最低でもThe Oxford Handbook of Probability and Philosophyに収録されている諸論文で紹介されている当該分野でのベーシックな知識を身につけてから論じてくれと叫びたいくらいだ。

 

こうした「思想闘争」が「マルクス・サークル」内で完結する分には支障はないだろうが、他に普及して「思想検閲」のようなことに至ると、取り返しのつかない悲惨な事態に陥ることは必至。第二第三の「ルイセンコ」擬きの連中が幅をきかせ真の研究者の活動が阻害され、学問の発展の芽がことごとく摘み取られてしまう。旧東側諸国で見られた教条的マルクス=レーニン主義に基づく弾圧によりどれだけの可能性が流産させられてきたのか。

 

こうした教条的マルクス=レーニン主義の犠牲にされた典型に、確率論や集合論を例に挙げることができる。

 

公理論的な確率論や集合論の草創期において、それらに対する「ブルジョア的」とのレッテル貼りによる攻撃は、ロシアの偉大な数学者コルモゴロフにも襲い掛かった。コルモゴロフは既に1922年時点で数学者としての国際的な名声を確立し、ロシア内戦の終わり頃には関数解析で重要な結果を生み出していた。1929年に博士号を取得し1931年にモスクワ大学教授就任。フランスとドイツへの旅行中に確率に興味を持ったという。

 

1874年から1884年までの一連の論文でカントルが代数的集合論を導入したことで数学にパラダイム・シフトが起こり、大部分の数学者はカントルの理論とその超限数の考えを受け入れたが、マルクス主義数学者のシュトリュークやブラウアーは物理的徴表のない「理念的な」実体に依存する証明を拒否した。

 

コルモゴロフの指導教官であったニコライ・ルージンは「抽象的すぎてブルジョア的である」と批判され、1936年にはその廉で有罪判決を受けた。コルモゴロフは自らにもそうした嫌疑がかけられないか敏感にならざるを得ず、当時のソ連数学界の意向を絶えず意識ながら研究を進める他なかった。こうした弾圧がなかったとするならばおそらくもっと幅広い領域でコルモゴロフの才能が活かされていただろうと想像すると、教条的なマルクス=レーニン主義哲学を信奉する哲学者たちの罪は重いと言わざるをえない。

 

それでもなおソヴィエト数学・物理学が一定の水準を誇っていたのは、皮肉なことに米ソ冷戦における軍拡競争が寄与していたのだろう。宇宙科学や情報科学の進展も、軍事抜きではありえなかった。量子力学草創期には、唯物弁証法に反する観念論として攻撃し、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスが登場した際も、「ブルジョア科学」と非難していたマルクスレーニン主義者たちであったが、それを無視しては米国との冷戦において敗北必至なので、どうにか唯物弁証法と矛盾を来さないように屁理屈を弄して折り合いをつけていたようだ(なお、あれほどサイバネティクスを攻撃していた旧ソ連だが、ちゃっかり情報科学研究所を設立していたわけで、日本より早かった。当時も今も大して変わらないが、日本の場合、旧通産省、旧文部省、旧科学技術庁、旧防衛庁と関係省庁が「縦割り」行政となっていたために情報科学や宇宙科学の発展の弊害になっていた)。

 

確率への従来の頻度主義的アプローチの問題は、物理学における確率への転換とともに明らかになった。1890年ポアンカレは、(宇宙が想定されているように)固定された総エネルギーを持つ有限空間に閉じられた系が最終的に初期状態に近づく必然性があることを証明したし、この結果は宇宙が「再発」することを意味すると解する者もいて、ニーチェの『悦ばしき知識Die fröhliche Wissenschaft』における「永劫回帰」の考えに関心のある人々によって取り上げられたりもした。物理学の問題は、時間の確率論の文脈において、この結果は時間が可逆的であり熱力学の第二法則が破られたという含意を持つのではないかと考えられたのだった。

 

何より、量子物理学の影響である。19世紀の終わりには、物理​​学における連続的な現象は決定論的であると見なされ、離散的な現象はランダムであると見なされていた。1877年に離散エネルギー状態が特定された結果、プランクの1900量子仮説と離散的時間と長さの考えが生まれた。この離散化は、物理法則が確率論的であり決定論的ではないことを示唆するとされた。

 

物理学からの確率の問題に取り組む最も洗練された試みは、論理実証主義者の「ウィーン学団」と関係するリヒャルト・フォン・ミーゼスに由来する。彼は観察可能な事実に基づいて確率の公理を定めようとした。結果は1931年にドイツ語で公開され、『確率、統計、真理』として英語版で普及した。これは、非決定論の原則に基づいて「ラプラスの魔」に関連する確率論的アプローチの正当化と見なされたのだった。

 

一方、経済学も同様に確率に対する従来のアプローチに挑戦していた。フランク・ナイトは『リスク・不確実性・利益』で、経済学が財の価値(価格)をコストと等しくする競争理論を発展させたとの見方をした。しかし、この平等は実際には「偶発的な事故」に過ぎなかった。経済問題における利益(および損失)は、「リスク」(つまり、既知の確率)に基づく分析に従わなかった根本的に不確実な事象(ナイト的不確実性)だったのである。ナイトは、不確実性が偶然性を支配しなければすべての価格がわかり、起業家は冗長になるだろうと主張した。経済学には「自由意志」はなくなってしまう。

 

同時にジョン・メイナード・ケインズは『確率論』の中で、場合によっては基本的な確率が推定される可能性があることを主張した。他の例では、序数の確率(さしあたり、ある事象が別の事象よりも多かれ少なかれ可能性が高いかの大きさくらいに思っておけばよい)を推測できたが、確率の概念に還元できない大きなクラスの問題があった。やがてケインズはナイトのように、彼の経済学の中心に不確実性を置くことになった。

 

フランク・ラムジーは論文「真理と確率」で、前提と結論の間に確率関係が存在すると主張したケインズに異議を唱えた。ラムジーは(賭け)市場を通じて確立できる「合理的信念の度合」という意味で「確率」を定義している。現代の経済学者が主張するように、ラムジーが合理的期待を正当化しているとする主張が正しいかどうかは再考する余地があるが、いずれにせよこのラムジーのアプローチは、ブルーノ・デ・フィネッティとレナード・サヴェッジを通じて知れ渡った。まとめると、これらのアプローチは主観主義者またはベイズ主義と見なされ、18世紀のベイズの定理との関係を示していた。

 

コルモゴロフは、確率を事象の測度と等置することによって確率の基礎を築いた。確率変数は事象空間から数値への写像であり、これは数学的期待値が確率測度に関して確率変数の積分になることを意味する。これに基づいてコルモゴロフは、頻度主義的確率概念の基本である大数の法則と主観主義的概念の基本であるベイズの法則の両方を導き出すことができた。

 

こうした一般化は、確率に対する物理学および社会科学のアプローチの統合に繋がるかもしれない。確率論や集合論の発展やその哲学的思考への刺激的な影響に対して、教条的なマルクス=レーニン主義は抑圧ないしは弾圧をする立場にあった。マルクスエンゲルスレーニンのテキストの内容と齟齬を来すものは許さざるものとばかりに、多くの哲学者は「異端審問官」として振る舞ったのだ。

 

弁証法唯物論」ないし「唯物弁証法」という呼称は、周知の通りマルクスはもちろんエンゲルスも使わなかった。この呼称が使われる契機となったのは、「ロシア・マルクス主義の父」と言われるゲオルギー・プレハーノフであり、デボーリンはプレハーノフに大きな影響を受け、その「唯物弁証法(Diamat)」のソビエト流解釈の存在論的基礎を提供したと言われる。

 

但し、ソビエト哲学に顕著に見られる「存在論化」傾向の理由は、フリードリヒ・エンゲルスと彼の「自然弁証法」の影響はもちろん否めないだろうが、それだけでなく元々ロシア哲学の傾向として、カントによる「コペルニクス的転回」以降の認識論の優位性の考えに対する拒絶があり、この反カント主義的傾向が革命後のソヴィエト哲学の存在論優位の傾向を用意した可能性があるように思われる。

 

ソヴィエト哲学の基礎となった存在論優位の傾向が徹底された唯物弁証法の教義的概念は、レーニンからよりもプレハーノフとデボーリンに多くを負っていると見る者もいるようである。プレハーノフとデボーリンにとって、弁証法とは「全体としての世界」について科学であり、この弁証法が「すべてが発展している」ことを継続的に強調したことを除いて、クリスチャン・ヴォルフの『神、世界、そして人間の魂、その他すべての事物についての理性的思考Der Vernünfftige Gedancken von Gott, der Welt und der Seele des Menschen, auch allen Dingen überhaupt』で展開された存在論のような、一種の形而上学と化してしまった。ヴォルフにとって、存在論は哲学の始原または形而上学に他ならず、その任務は存在の最も一般的な特徴を分析・記述することであり、存在論は、最も一般的な科学であるという点でのみ他の領域科学と異なっていた。つまり、物理学は物体の相互作用と運動を研究し、数学は更に抽象的で量自体についての研究であり、存在論は最も抽象的な科学であり一般的に「存在」そのものを反映しているというのである。

 

唯物弁証法を定式化したデボーリンは、このヴォルフの哲学に極めて近い距離にいる。1920年代の哲学的議論の間に発表されたデボーリンの論文では、弁証法についてのデボーリンの定義は存在論的アプローチに基づいていた。弁証法は、自然、社会、思考における一般法則と運動の形態の科学であり、実在を扱う真に科学的な方法を構成するのである。

 

マルクスエンゲルスによって考案されたマルクス主義の全体像は、デボーリンによれば、Engel’s i dialektičeskoe ponimanie prirodyで以下のように要約される。①法則に支配された関係の科学としての唯物弁証法は、一般的方法論、一般的運動法則の抽象的科学を構成する。②自然弁証法は、数学、力学、物理学、化学、生物学のレベルで構成される。③社会に適用される唯物弁証法史的唯物論である。デボーリンもヴォルフもともに、哲学は一領域を扱う学問分野ではなく全体についての「科学」であった。

 

どちらの場合も、科学と哲学は存在論的特徴を持ち、存在の異なる層が従属し、各層に存在する統一されたシステムを形成する。デボーリンの場合、最も抽象的な(したがって哲学的な)「科学」は、自然と社会、弁証法唯物論及び史的唯物論の科学である。マルクス主義哲学のデボーリン主義者の解釈は非常に影響力があった。

 

こうした哲学を抱くデボーリンからすれば、ジェルジ・ルカーチ『歴史と階級意識マルクス主義弁証法の研究Geschichte und Klassenbewußtsein–Studien über marxistische Dialektik』の立場は容認できないものに映った。ルカーチマルクス主義の「主観主義」的解釈を提示し、「自然弁証法」は一種の自然主義的な形而上学に過ぎないと喝破した。ルカーチからすれば弁証法は人間の主体を前提としているので、それは歴史と社会でのみ起こり得る。このルカーチの見解に対するデボーリンの批判は、Lukač i ego kritika marksizmaにある通り、ヘーゲルのEnzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisseの弁証法の定義を以って返すしかできなかった。デボーリンの弁証法は、対象の存在を前提とはしていない。それはむしろ存在論的性格を持った普遍的発展理論でなければならなかった。

我々は、有限なものすべてが変化し、破壊されることを知っている。その変化と破壊は、その弁証法に他ならない。それはそれ自身に他なるものを含むので、それは即自存在の境界を超えて、その反対に向かう。

 

散々指摘されている通り、エンゲルスの「自然弁証法」は、哲学として見た場合、決して水準が高いとは言えないものである。しかし、少なくともエンゲルスは、デボーリンやその他のソビエト哲学を担った者らに顕著に伺える存在論優位の主張などしていない。それどころか、状況によってエンゲルスは明確な「認識論者」の立場を採ってさえいたとも言える。

 

『反デューリング論Anti-Dühring』において「すべてを包括するもの」の理論を供することを豪語していたオイゲン・デューリングを批判する際、エンゲルスはそのような荒唐無稽な野心を嘲笑していたはずだ。エンゲルスによれば、デューリングの考えの最も滑稽な部分は、無神論者であるにもかかわらず我々が存在しているということを考える際、それを単独の思惟として考えていることを証明しようとする神学上の存在論的議論を利用していることであった。エンゲルスは世界の統一はその存在にあるのではないと述べ、我々の観察範囲が終了する時点を超えて存在しているか否かという問題は未解決の問題であると釘をさしていた。エンゲルスのこの発言は、カントによるヴォルフ批判と極めて類似してるだろう。エンゲルスが指摘したことは、認識プロセスと認識対象の独立性の問題であって、この点に関しては別にカントも否定していないことである。

 

とはいえエンゲルスは、ヘーゲルフォイエルバッハ以外の哲学者・思想家のテキストについてはさほど読み込んでいなかったようである。実際、エンゲルスは明らかにカントの哲学を、そのテキストに沿って研究したわけではない。というのも、カントの哲学を新カント派の立場と混同していると思われる節が所々見られ、そのためエンゲルスのカントに対する見方は極めて偏頗している。カントについての新カント派の解釈を額面通りに受け止めており、カントは不可知論者ないしは主観的観念論者であると考えていた。

 

『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie』を読むと、エンゲルスは認識論的問題を「実践」の問題についての理論に置き換えているとさえ言える。そこまでは言えるだろう。では、エンゲルス存在論優位の思想を抱いていたとまで言えるかと問われると、そうは結論づけられない。マルクス主義哲学における「存在論主義者」はプレハーノフやデボーリンであると見た方が正しいだろう。

 

デボーリンは、カントの超越論的統覚の考えに誤りを見つけたという。そして以下のように、Očerki po istorii dialektiki. Očerk pervyj. Dialektika u Kantaにて、カントを批判する。

主観的なエゴの内容をすべての人間に移すことは、重大な矛盾である。・・・超越論的統覚、一般的意識は、主観の境界を越える必要性を示すものに他ならない。

明確なことは、超越論的統覚が我々に意識の一般的な構造を与え、それがすべての個々の意識に適用できるというカントの考えを、デボーリンは明らかに誤解しているということである。デボーリンは、カントの超越論的統覚の考え全体をそれとはほとんど関係のない理論つまりカント以前の存在論的カテゴリーに分類されるものに結びつけているのである。

認識内における弁証法は対象が判断を表現することであり、その内容は対象から完全に独立している。判断では、私は常に自分の判断の境界を超え、あらゆる「私」から抽象化される。これは、「我思う」という思考が私の判断にまったく付随していないことを意味する。認識的判断は本質的に客観的な意味を持ち、外界や脱私的領域つまり私の表現ではない領域を指す。私の表現は主観的だが、表現されるものは客観的である。つまり外界を参照する限り、主観的であるという特徴はないのである。

そして、これを踏まえて、

認識行為の前に、既に我々の「自我」が客観的存在の一部であるため、客観的知識が可能である。

と結論づけている。言い換えればデボーリンは、私の表現には客観的内容と主観的内容の両方があり、心の中に客観的内容が存在することは、外界におけるその存在の十分な証拠であるという主張に同意している。デボーリンは、カントが超越論的統覚の行為について話す時、異なるのはこの行為自体であるということに気づいていない。「我思う」が物質界を構成するものの表現に反対しているからこそ、後者の存在は思考の行為から結論づけることはできない。我々の表現の中に、我々の外にあるものの存在の存在論的理論の真理を保証する客観的な証拠が既にあるというデボーリンの主張は、ウルフが既に行っていた主張と類似した形而上学である。

 

唯物弁証法の教義は、同様の存在論的仮説に基づいていると言える。しかし、デボーリンは、独自の存在論的視点をそこに付加する。デボーリンは、カントに対するヘーゲルの批判を利用して、カントのコペルニクス的転回は主観主義者の逸脱であると考えた。この時デボーリンの脳裏には、Conspectus of Hegel’s Book The Science of Logicにおけるレーニンの言葉すなわち

ある観念論者が別の観念論者の観念論の基礎を批判する時、唯物論は常にそれによって何かを獲る。

という言葉がよぎっていたのかもしれない。カントの「物自体Ding an sich」の概念自体を批判するデボーリンによれば、

カントの形而上学において、物自体と現象との間に弁証法的な関係は何もない。しかし、この裂け目は、不可避的に問題の弁証法的解決を準備するはずである。

 

デボーリンによる弁証法存在論的解釈の主な支持者である哲学者ヴァシーリ・トゥガリノフに代表される「レニングラード存在論学派」は、スピノザの哲学的遺産に目を向ける。スピノザ哲学は形而上学存在論として解釈され、マルクス主義哲学でも存在論的カテゴリーにおける物質の優位性を主張する文脈で参照されてきた。

 

しかし、スターリンの死後では、マルクスレーニン主義哲学内部で綻びの兆しが出始めてきた。1955年から始まった、モスクワ大学でのいわゆる「イリエンコフ-コロビコフ事件」は、マルクス主義哲学が存在論の教義であるか否かという問題についての論争の渦中で起きた。エヴァルド・イエレンコフとヴァレンティン・コロヴィコフは、認識論を強調しすぎたと非難された。

 

「認識論者」とのレッテルを貼られたイリエンコフは唯物弁証法存在論的解釈を批判し、ドイツの古典哲学特にヘーゲルの遺産の重要性を強調した。曰く「存在論」は本質的にカント以前の形而上学への回帰であり、「認識論」はロックとヒュームの認識論への回帰であると。「存在論主義」とは「ヴォルフに回帰する」方法である。したがって、ソヴィエト哲学の特徴の一つである「弁証法存在論化する」ことは、ドイツ古典哲学によってもたらされた成果さえ奪ってしまうことになる。イリエンコフのようなヘーゲル学派の見方は、ソヴィエト哲学の一般的な「存在論主義」との決別を意味していたのであった。

 

ヘーゲルによれば、カントは現象と物自体あるいは感性と悟性など未解決の対立に満ちた二元論的哲学を構築することによって多くのアポリアをもたらしたという。ヘーゲルは、これらの対立するものの高いレベルの「同一性」において「和解Versöhnung」させる。この観点から、カントのコペルニクス的転回による存在論と認識論の間の対立でさえ、主客の「調停Vermittlung」のプロセスの産物の絶対精神において解消される。そこでは、存在論と認識論は進化する精神の全体に従属する視点に還元されることだろう。

 

イリエンコフはヘーゲルの絶対的観念論そのものは拒否した。イリエンコフにとって、存在論と認識論の間の隔たりは、ヘーゲルのような絶対精神においてではなく、またそれを物質にパラフレーズしただけのソヴィエト的唯物弁証法哲学の全体性においてでもなく、人間の「社会的協働連関(この言葉は、廣松渉の言葉であるが)」つまりは「活動dejatel’nost ’」または「実践」の過程で実現される高次の「同一性」において解決される。優秀の誉高く、ソヴィエト哲学界を背負って立つ存在と嘱望されたイリエンコフは、公認イデオロギーから離れた地点に辿り着いた。当局から睨まれ弾圧を受けていたエヴァルド・イリエンコフは、1979年自ら命を絶った。この年、ソ連最高指導者レオニード・ブレジネフ共産党書記長は、アフガニスタン侵攻の決定を下した。