shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

吉本隆明と批評

昭和史を紐解くと、昭和60(1985)年は色々な面で一つのメルクマールの年であったことがわかる。贔屓にしている阪神タイガースが21年ぶりに優勝した年で、地元西宮はもとより、神戸や大阪の街も優勝フィーバーで沸きに沸き上がったという。ミナミの街では、ケンタッキー・フライドチキンの店頭にあったカーネル・サンダース人形が道頓堀川に投げ入れられたり、それに飽き足らないお調子者は、自らあのドブ川に身投げしたりもしたというのだから、一時の渋谷のハロウィーンのバカ騒ぎのような状態だったのだろう。

 

しかし、よくよく見てみると、羽田発伊丹行の日本航空123便群馬県御巣鷹山に墜落し、乗客乗員524人中520人が亡くなられた、我が国航空史上最大で最悪の事故が起きた年でもある。更に、菓子メーカー江崎グリコの江崎勝久社長(当時)が自宅に押し入った者らに拉致監禁されるという事件を皮切りに、江崎グリコや森永製菓やハウス食品などのメーカーへの恐喝事件へと発展した警察庁広域指定第114号事件(いわゆる「グリコ森永事件」)の犯人とされる「かい人21面相」を称する者が「終結宣言」を出した年である。中曽根康弘内閣の下で進められてきた国鉄民営化もこの年。その中曽根康弘内閣総理大臣として靖国神社に「公式参拝」して政治問題化したのも、この年である。アンドロポプ、チェルネンコの相次ぐ急死の後に、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが、「ペレストロイカ」や「グラスノスチ」に着手した年でもあった。

 

そんなこんなで、日本社会にとって激動の年であった昭和60(1985)年であったわけたが、この年が後々の日本社会の行方にまで決定的な影響を及ぼしたと言えるのは、何よりも、「プラザ合意」があったからである。この「プラザ合意」こそが、日本の将来を決定づけた。米国ニューヨークのプラザホテルに集まった先進5か国の蔵相によるドル高是正の合意と各国の協調介入による急激な円高によって、「円高不況」と呼ばれる輸出産業の不調に牽引された不況を経験した後、量的緩和内需拡大策に舵を切った日本は、資金が株式や不動産の投機に集中することで、空前の「バブル景気」を招き寄せることになった。

 

バブル崩壊」とその後始末の失敗が尾を引き、日本経済は沈滞する一途を辿り続けている。この一連の日本社会の変質が、日本人の精神史にも与えた影響は頗る大きい。それを見越していたのかはわからないが、NHKの番組が大きく取り上げていたようだ。「戦後50年」を迎えた1995年に放送された主要番組を調べてみると、NHKは「戦後50年、そのとき日本は」という一年がかりのスペシャル番組を放送していたことがわかる。その最終集に、この「プラザ合意」を持ってきたところからも、当時のNHKの番組プロデューサーがまともな感覚を持っていたことがわかる。ところが、この事件に対する批評の側からの反応が極めて鈍感な言葉での対応しかなかったところを見ると、既に、我が国の批評はリアリティを喪失していたのだということが伺われるわかる。江藤淳福田恆存など、明らかに経済に疎くとも、さすが良質な文芸批評家だけあって、おそらく肌感覚で理解できていたのだろうか、それとわかるような言説を残していたが、その他の批評家となると、壊滅的であった。

 

この時期に、馬脚を現した思想家の一人として、吉本隆明の名を挙げることができるように思われる。吉本隆明に対してシンパシーを抱ける点は、吉本も阪神タイガースのファンであったという点だけである。吉本を紹介する言葉として何かにつけて使用される「接頭辞」に、「戦後最大の思想家」やら「戦後思想の巨人」という表現がある。平成の御代に生まれた者からすれば、吉本隆明が「スター」であった時代など知るわけがないので、昭和10年代生まれの祖父から話を聞いて、ようやく吉本隆明が脚光を浴びていた時代の雰囲気を想像することができるというもの。新左翼の残党、特に全共闘運動という名の「革命ごっこ」に精出さしていた連中から頗る評判の悪い小熊英二『<民主>と<愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)に書かれている通り、いわゆる「60年安保」では、ある種の「反米愛国主義」が根っこに広がっていて、そうした文脈で吉本のテクストも消費されていたが、「70年安保」ともなると、その傾向は鳴りを潜め、経済成長の果実を享受してきた戦後生まれの世代が、繁栄状態で守られているとの安心感に支えられながら、その貧弱な想像力で捏ねくり回した観念の遊戯を弄ぶようになる。より「過激になること」を自己目的化させていきながら、チンケなヒロイズムに自己陶酔していく哀れな姿へと変わった。『三島由紀夫対東大全共闘』に登場するボンクラ東大生の言説が典型だろう。吉本の言説も、それに歩調を合わせながら、より過激化して行ったものと思われる。

 

吉本隆明全集撰』(大和書房)に収められている「政治思想」と題される著書に、「擬制の終焉」という文章がある。全共闘の学生集団が、東大法学部の丸山真男の研究室に押し入って荒らしまわった際、多勢に無勢を承知で応戦する意地を見せるのではなく、単に「日本の軍国主義者やナチスですらやらなかった暴挙」という捨て台詞を残しただけだった。同じく、東大法学部教授であった川島武宜は、踏み荒らされた研究室の床に落ちていた我妻栄の肖像(川島は、敬愛する我妻栄の肖像を研究室の壁に掲げていたらしい)を拾いながら涙を流した後、大学を去った。対して、団藤重光は、「大衆団交」という名の吊し上げの場で、取り囲む数百人の学生相手に討論に応じて、一向に動じなかった。理学部教授だった小平邦彦も、向かってくる学生をことごとく蹴散らした。丸山や川島は、いわゆる「進歩的文化人」として全共闘学生の目の敵にされていた手前、特に研究室が徹底的に荒らされたのかもしれないが、このエピソードは、「リベラル」とされる知識人の欺瞞を象徴するものと言えるかもしれない。

 

ただ、丸山真男の「ヘタレ」ぶりに対してチクりと嫌みの一言を述べる程度なら理解できるが、「擬制の終焉」等を読むと、どうもその域を越えていて、丸山真男を嫌悪する僕ような者ですら、何故そこまで丸山に対して憎悪の情が沸き起こるのかが全く理解できなかった。続けざまに、「言いがかり」と言ってもよい表現で以って丸山を攻撃する者が、何故に「戦後最大の思想家」などと形容されているのか、更に理解できなくなった。丸山真男にも吉本隆明にも否定的であった日本共産党の見解を見ても、吉本のことを黒田寛一・梅本克己・藤本進治・廣松渉を並べて「日本型トロツキスト反革命的哲学」とまとめるなど、完全にピンボケで参考にならない。

 

その疑問を解消しようと、『共同幻想論』(河出書房)やら、80年代の消費社会を肯定的に捉えた『マス・イメージ論』(筑摩書房)や『ハイ・イメージ論』(同)などにも目を通してみたが、やはりよくわからない。『共同幻想論』は、『古事記』と『遠野物語』の二つのテクストに定位して国家論をぶつという構想自体は面白い試みだと思うが、論証は杜撰のきわみ。80年代消費社会を肯定する著作も、日本政治史についての基本的な認識さえあれば犯さないであろう誤りがあちこちに見られ、とても現代日本社会の分析に使用できるものではなかった。

 

「読解不能」という浅田彰の感想も宜なるかな。とはいえ浅田は、英国の左翼ジャーナリズム雑誌であるNew Left Reviewに寄稿した文章で、日本の左翼の特異性を日本共産党の歴史を基軸にして論じる中で、一応吉本隆明も紹介している。当然知っておくべき左翼の歴史の略史にもなっているこの文章は、浅田彰のまとめの手際の良さがわかるものになっており、英文自体も、日本の大学教師の書く英語の割にはマシなものだった(日本人研究者の英文は、同じ論文なのに、物凄く平易な表現で書かれているかと思えば、急に物凄く気負った表現が登場するなど、まるでエッセイが突然に擬古文調の論文に変わるようなぎこちなさが目立つことがしばしばである)。一度、吉本の文章を英語に翻訳して掲載してみると面白いだろう。意味の読み取れる英文になるのか幾分怪しい気もするが、仮に有意味な文章を読んだとして、おそらく読者の多くは、「これのどこが左翼なのだろうか?」と訝しがるに違いない。吉本隆明には、自分の言葉が外国語に翻訳されるとするなら、それがどう理解され受けとめられるのだろうかということの意識は希薄であったのだろう。

 

経済決定論に与することを拒絶する吉本隆明は、『共同幻想論』でもそうであったように、「下部構造」を意図的に無視して分析する。吉本隆明の経済学の理解が古典派経済学のレベルを超えるものではなかった貧弱なものであるために(いわゆる定式化された「マルクス経済学」なるものは、別に古典派を乗り越えるものではなく、デイヴィッド・リカードの経済学の亜流でしかなかった)、そのなるもわからないではない。とはいえ、イメージ論で社会を分析できるほどに、社会は単純ではない。

 

顧みると、80年代の「消費社会」の出現に小躍りした連中は、眼前に溢れる「商品」に欣喜雀躍とするばかりで、そうした消費社会を生んだ日本の「市民社会」の構造分析に手をつけているようには思えなかった。80年代とは、それまで徐々に緩やかな下降線をたどってきた労働時間が再び上昇に転じ、史上稀に見る長時間労働が見られ、そのために過労死が激増し、ノイローゼ患者が増え、家庭崩壊・校内暴力の激増に現れる教育現場の崩壊など、陰に陽に、資本・賃労働関係の諸矛盾が一挙に周辺部分に顕在化した時代でもあった。それは、1970年代において、資本・賃労働関係の大規模な構造変動過程の中で、潜在的に醸成されてきたものの顕在化だった。しかも、生産部門での変容だけでなく、政治部門においても「支配構造」の再編成が起こっていた時期だった。

 

そうした市民社会の構造とともにあった日本経済の未曾有の「繁栄」の象徴として、例えば、「金満日本」を反映した海外旅行者の急増の一方で、海外に楽しげに出かけるその労働者がポックリ過労死するなんてことも激増した。企業別労働組合の体制内化に一段と拍車がかかり、企業社会の中での権威的支配秩序の形成によって醸成された諸矛盾が、そうした資本・賃労働関係と一見無関係に見える周辺部分において、歪な形で社会現象となって顕在化したのも、この時期であった。こうした社会構造の変動を高度成長期に実現した日本型市民社会の分析として提出した研究はまったくないわけではないが、旧来型左翼は、その「日本型」の力点を日本社会の前近代性ないし半封建制といった未成熟性に求める議論が主流で、明らかにポイントを外していた。

 

吉本のこの時期の文章は、経済成長の果実として可処分所得が増えたために、選択消費の幅が広がり、結果的に労働者の望む社会になったのだとして消費社会を肯定するものへと変質していった。浅田彰柄谷行人も全然見えてなかったようで、同様に寝惚けたことを語っていた。90年代になると、小沢一郎のグループが自民党を割って出て宮沢喜一内閣が崩壊し、日本新党率いる細川護熙を首班とする非自民連立政権が誕生した時にも、小沢一郎評価を語り、『わが「転向」』(文藝春秋)を出し、その他雑誌「諸君!」に「消費資本主義」を謳歌する文章を寄稿していた。小沢の『日本改造計画』(講談社)は、後の橋本龍太郎政権下での行政改革小泉純一郎政権下での構造改革路線の先駆けであって、そうすると、吉本隆明新自由主義路線を称揚していたということになる。

 

不思議なことに、意味不明な「戦後最大の思想家」という「接頭辞」に対して、アカデミズムの「権威」を叩いてきた吉本隆明が違和感を表明した形跡はない。「まんざらでもない」と思っていたのだろうか。「偉大なる首領」だの「親愛なる指導者」だのいった接頭辞のようで、吉本についてまわる「戦後最大の思想家」という陳腐な「接頭辞」が、かえって吉本隆明の思想の程度を伺いしめるものとなっているのが何とも皮肉である。いずれにせよ、「戦後最大の思想家」だの「戦後思想の巨人」だのと吉本隆明を崇め奉る者たちへの軽蔑を、僕は抱き続けてきた。数々の論争を罵倒の連呼で凌ぎながら論壇での地歩を確固たるものとしてきた吉本隆明の歩みは、後世「論壇政治」の中でのヘゲモニー奪取過程の悪しき先例として語り継がれることはあれど、肝心の吉本が遺したものはといえば、歴史に残る思想家の業績としては、見るべきものはほとんどない。なぜ、吉本隆明の言説が一定の領域で機能し受容され、あげくは「戦後最大の思想家」だのといった実態とかけはなれた虚像が形づくられ祭り上げられていったのか。後の世に「墜ちた偶像としての吉本隆明」として俎上に乗せられることになるだろう。

 

吉本隆明は、新左翼運動に影響を与えた人物とされているが、吉本の遺した文章を孫の世代よりも更に若い世代に属する僕が読む限り、吉本は「反体制」を貫くどころか、露骨なまでに「体制」の擁護者であり、一見「反体制」を装いつつも、「反体制」運動が盛り上がりかけると、水をさして早急な火消しにまわる役割に担ってきたと言ってもよい。埴谷雄高との論争(いわゆる「コム・デ・ギャルソン論争」という下らない論争)の、いわば「場外戦」として大岡昇平に噛みついた際も、大岡・埴谷の共著『二つの同時代史』(岩波書店)における大岡の発言に怒り狂って、「裁判闘争も辞さず」との穏やかならざる対応をしていた。具体的な言説をあげつらえばキリがないので、ここでは吉本の論争での態度が強圧的であったことを思い返そう。先ほどの埴谷雄高との論争は、大岡昇平とのそれを除くならば幾分か穏やかなものであるが、例えば花田清輝との論争にしても、谷沢永一との論争にしても、論理は支離滅裂で一貫して相手を罵倒・中傷する子供の喧嘩の態度をとり続けた。『情況への発言』(洋泉社)を読めば、「知の三馬鹿」と罵られた蓮實重彦柄谷行人浅田彰に対する罵倒も、それを裏づける論拠をさして挙げられていなかった。

 

谷沢永一の他人に対する批判・罵倒も凄まじいものがあったが、こと吉本隆明との論争に関しては、谷沢の主張に理があることは、この論争の過程を調べた者ならば理解できるだろう。と同時に、浦西和彦の求めに対して理不尽な言動で返した吉本の非常識ぶりと権力欲剥き出しの態度に閉口する思いをするに違いない。丸山真男に対する態度に見られるアカデミズムの権威を非難する吉本その人自身も権威主義的なパーソナリティの最たるものであることを証明する結果に終わったのが、谷沢永一との論争の顛末であった。

 

言行不一致・支離滅裂な人物は、左派やリベラルと称する者、あるいは少なくとも保守派とみられていない者に目立つように思われるが、どうなのだろう。米国政治の歴史に関する著作を読むと、「自由とデモクラシー」国を自認する合衆国の歴代大統領は、建国初期からロクでもない人間も相当数量産していたことがわかる。ネイティブ・アメリカンを大量虐殺し、アフリカから連行した者を奴隷として酷使し、メキシコからテキサスやカリフィルニアなどを強奪していながら、表向きは自由主義・民主主義を言祝ぐ言説を垂れ流していた。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンも、奴隷売買に関わっていたし、奴隷にしていた女性を強姦して妊娠させるなどしていた男である。

 

一見美しい言葉で人間の平等を謳いながら、その実、奴隷制度の擁護者や人種差別主義者であった大統領がどれほどいたか。第一次世界大戦後、「国際協調」外交を呼び掛け、国際連盟を提唱したウッドロウ・ウィルソンは強烈な人種差別主義者であり、パリ講和会議の際に、人種差別撤廃を主張する日本の提案を拒絶した者でもある。歴代大統領の中で最も残忍な大統領であるバラク・オバマの二枚舌について語り出したらキリがない。オバマ政権で国務長官を務めたヒラリー・クリントンも、オバマと同様に殺人に興じることに喜びを見出す人物だった。女中との間にできた子には教育を授けず、正妻との間の子どもと差別的に取り扱っていたくせに、一方で人間の解放を叫ぶという、分裂した精神の持ち主であったカール・マルクスを彷彿とさせる。

 

社会主義者を自認していたフランソワ・ミッテランは、実生活ではフランス貴族のような豪奢な生活を謳歌していた「シャンパ社会主義者」であった。対して、私生活では極めて質素で慎ましやかな生活を送り、精神的な障害を持っていた娘に対しても、他の子どもと分け隔てなく愛情を注いでいた人物は、左翼から嫌われているシャルル・ド・ゴールである。資本主義を嫌うポーズをとりながら、恋人との邸宅での生活を送るために金にがめつかったスーザン・ソンタグも、「キャビア左翼」の一人に数えていいだろう。人種差別主義者で、陰険な臆病者だったフランクリン・ルーズベルトハリー・トルーマンを称賛する癖に、勇敢でかつ合衆国に貢献したバランス感覚に優れたドワイト・アイゼンハワーを批判する米国のリベラルもどうかしている。コンスタントに間違い続けたジャン・ポール・サルトルを持てはやす一方で、退屈ではあるが常識的なことを述べていたレーモン・アロンが正当に評価されない奇妙な状況もある。

 

批評家と称する者たちが、自身を売り込むことに傾注し、「論壇政治」に明け暮れてなんとかヘゲモニーを確保せんと、時には「重鎮」に媚を売り、時には敢えて相手と反対の立場に立って目立とうして小賢しい小細工をしながら「身を立て」ていくことは何も吉本に始まったわけではなく、昔から存在した。「論壇」自体が消滅した今の日本で、そういった事態が出来することはないのかと言えば、甚だ疑問だ。メディアは商品として何かを無理やりにでも担ぎ出す。何度も繰り返されていることだ。中には優れた批評がゴミの山から発見されることもある。だからこそ、「これだ!」と見つけた時の喜びは大きくもなる。

 

ただ気になるのは、現在の批評家とされる者の経歴が、極めて画一的であるということである。大学から禄をもらうサラリーマンとして収入を得ながら、いわば「余興」として書いたと思われる批評が大半になってしまった。「余興」とはいっても、あまりに暇なために他にやることがなく「役にも立たない」教養を腹いっぱいためこんだ大教養人が「余興」として書いたものとは違う。一方で、筆一本で勝負していた「文士」は、それだけでは飯が食えなくなったのか、ほぼ皆無となり、そうした事情もあって、殺気立った批評がほとんど存在しなくなった。この点だけは、己の筆一本で戦っていた吉本隆明は偉かったのかもしれない。

 

批評の読者層が薄くなっていって久しい。が同時に、批評家の劣化も著しいものであった。かつての西欧社会が良かったとは全く思わないが、階級社会が顕著であった頃の批評は今でも読んでいて面白いものが多い。悔しいかな、今日の日本と比べて書き手の教養の差が歴然としているのである。余裕のある暇人が単に暇で暇で仕方がないので、小賢しい立身出世のための知識ではなく、それ自身では直接「役に立たない」教養を腹に貯めていたからこそ得られた批評だったのだろう。