shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

選挙制度の抜本的改正に向けて

 今年7月に行われた参議院議員選挙における所謂「1票の格差」が最大3倍であったことに関して、この選挙が投票価値の平等に反し違憲だとして四国の有権者が選挙無効を求めた訴訟の判決で、一審にあたる高松高裁は「違憲状態」との判断を示した。かつて最高裁大法廷は、参議院選挙における各選挙区の投票価値の最大格差が5倍に達していた事態につき、「参議院選挙の選挙区の1票の格差違憲の問題が生じる程度の著しい不平等状態だった」と判示していた。また衆議院議員総選挙における2.3倍の格差も違憲状態にあると判断していることから、昔と違って投票価値の平等を至上視する司法の姿勢は一段と明らかにされる形となっており、今日の高松高裁の一審判決もその方向性に位置づけられる判決と見ることができよう。

 

 これまで長きにわたる衆議院議員定数不均衡訴訟最高裁判決の判例に形式的に照らしてみるならば、1対3を超えない場合は、その程度の格差が生じるのも国会の合理的な裁量権の範囲内として問題なしとの判断がなされてきたし、参議院議員選挙の場合には概ね1対6に収まっていれば合憲との判断が下されきたが、ここ数年の裁判所は原則として1対2を下回ることを求める姿勢が顕著になってきた。選挙権の平等と言う時の「平等」が、人格平等の原則に基づき、実質的平等というよりもむしろ人間1人を単位とした形式的平等を意味し、かつ各人の投票結果に及ぼす影響の度合いすなわち「投票価値の平等」を志向するものであるという通説・判例の理解に立脚するならば、違憲判断をした高松高裁判決は解釈論としては一見筋が通っているように思われる。少なくとも、一人が二人以上の投票価値を有するという事態は、形式的平等を貫く限り正当化するのは難しい。事実、芦部信喜をはじめとし、憲法学の多数説は、格差が許容されるのは概ね1対2までであると主張してきた。

 

 対して最高裁は、長きにわたり、衆議院参議院とを区別し、衆議院に関しては概ね1対3の範囲に収まるようにとの判断をしてきた。しかも、仮に違憲状態の認定を超えて違憲であることが確認されたとしても(違憲判決と違憲状態を認める判決とは異なる)、その効力は、無効にした場合の著しい公益上の損害を理由として、(公職選挙法上、行政事件訴訟法31条を直接適用することが許容されていないにもかかわらず)同条の背後にある「事情判決の法理」なる理屈を持ち出し、違憲であることを宣言するにとどめ、請求棄却判決をするというアクロバティックな解釈を展開してきた。選挙権の平等とは「投票価値の平等」であって、それが形式的に平等化されているかをみるべきであるとする解釈は、先述の通り解釈論としては妥当である。また半数改選の参議院とは異なり、衆議院は総選挙の制度になっていることに加え、必ずしも都道府県代表的性格を色濃く持っているというわけでもないから(この参議院の特色も最高裁判決から出てきたわけだが)、専ら「投票価値の平等」を形式的に見るほかないとする考えは、特に衆議院の場合に言えることも理解できる。

 

 しかしながら、それは選挙権の平等を一人一票というにとどまらず、当該一票が選挙に及ぼす影響の度合すなわち「投票価値の平等」をも志向するものであるとの最高裁の解釈を至上のものとする限りでのことである。なるほど、「投票価値の平等」が図られなければ、実質的に選挙権が平等であるとまでは言えないという主張はもっともなことである。しかし、いかなる利益にもまして「投票価値の平等」を最優先にしなければならないとの解釈は、現行憲法14条1項及び15条3項の解釈論としては非常に筋が通っていても、直ちに帰結する解釈でもなければ、政策論としても妥当なものとは思えない。これは、大都市の選挙人の理屈ではないかとも思われるのである。最高裁もかつて判示していたように、「国会は、都道府県という単位や人口密度、人口の集中化と過疎化の現象などの要素をも」考慮することができるはずだ。

 

 今日、著しい過疎化に苦悶している地域の意見を国会に反映させる機会として、衆参両議院の議員選挙の持つ意味は色褪せてはないのであって、もし専ら形式的な「投票価値の平等」だけを志向するならば、大都市住民の意向のみが国会に反映され、過疎地住民の声はこれまでよりもなお一層届かなくなる恐れがある。ただでさえ、マスメディアを中心として、在京大手マスコミが中央の視点のみで全国の諸現象を切り分け、訳知り顔で地方の「問題」を語っている状況である。そして、そうしたことがほとんど自覚されずに、中央視点の報道が垂れ流され続けている。全国ニュースであるにもかかわらず、単なる関東ローカルの内容をさも全国的なニュースであるかのように報道したり、地方により悲惨な被害をもたらしている災害報道ですら東京中心の視点でやっているのが現状。質が悪いのは、そのことを東京の住民の多くが自覚していないということである。東京に降りかかったさしたることもない気象変化には、全国的一大事であるかのごとく騒ぎ立てる。逆に、「無駄な公共事業」として槍玉に上がるのは地方。それも比較にならぬほど多額の公共投資が東京になされ、しかも比較にならぬほどの赤字を垂れ流している東京の事業には見てみぬ振り。しかも、公共事業を受注するのは、東京に本社をおく大手商社やらゼネコンであって、地元業者におちるのは下請け孫請けの仕事ばかり。東日本大震災の主要な被災地である東北の復興をスローガンに掲げるだけで、実際にやっていることと言えば、東京五輪のためのインフラ整備のために東北の復興の足を引っ張り続けている。この国は東北を見捨て、それをよしとしている国民によって覆い尽くされている。なんと「美しい国」であることよ!かく言う僕自身も、知らず知らずのうちに東京目線でおしゃべりを続けているかも知れないのである。

 

 橋本龍太郎政権下での「行革」路線の延長で、一層の新自由主義政策を講じた小泉純一郎内閣の方針によって、地方は特に医療分野において悲惨な状況に追い込まれている。そのうえ、経済が疲弊し雇用の場も喪失、若年人口が減少する全国的な傾向の中で、さらに若年層の職場が消え、過疎化に拍車をかけている状況であることも散々知られているところである。これらは全て自然現象ではなく、明治期以来の中央集権化の国策の結果であり、極めて人為的な現象である。日本の人口の3分の1は、いわゆる首都圏に集中し過密状態となっている。もし人口比例配分が徹底されたとすれば、過疎地から議員を出すことなどできず、首都圏から出馬した議員が3分の1を占めることになり、さらなる東京中心の政治が営まれる恐れが生じる。こうした状況の中で、過疎地の意向を国政に反映させる一定の必要性が認められるとする政治判断が、公職選挙法上の選挙区割りに反映しても、それが相当なレベルにとどまるものであるならば、立法府に認められた裁量権の行使において著しい不合理性があるとまでは言えないだろう。

 

 確かに、国会議員は「全国民の代表」であって、特定の地域の代表ではない。この43条の規定を以って、最高裁が示した「地域代表的性格」なるものを斟酌するのは矛盾した判断であると糾弾する渋谷秀樹など多数の憲法学者の考えもあるだろう。しかし、本当に矛盾した判断であるといえるのか。というのも、「全国民の代表」としての性格を持つとする43条の規定は、国会議員が特定の有権者団の意思に拘束されることなく、自由に国会の表決や意見表明などを行うことを旨とする自由委任の原則を規定した条文であって、そのことが直接、選挙区割りに関して地域代表的性格を斟酌することを不当ならしめる理屈を供するわけではない。自由委任原則の大前提を持ちつつ、実質は各地域や各業界の利益代表的性格を帯びた各議員が各々の利害を衝突させ、議論を尽くしつつ国家意思を形成する場が議会なのであって、そうした「自由な議論の遊動域としての議会」が制度上確保されるか否かが、議会制民主主義の本質にとっての重要事であるのだから、渋谷らの批判は的を外しているものと思われる。カール・シュミットが『現代議会主義の精神史的地位』においてこうした遊動域である議会を国家意思の決定を常に遅延ないし不能にさせるものとして批判の槍玉にあげたことを再度想起したい。それに賛同するしないに関わりなく、議会とは、そもそも各地域や各業界等の諸利害が一堂にもたらされ、衝突し、そこから交渉や闘争等を通じて譲歩や妥協を導きいれつつ国家意思を形成していく場であるのだから。

 

 最高裁は、衆議院との比較において、参議院都道府県代表的性格をもあわせ持っていること、並びに、半数改選であること等の理由から、衆議院よりも投票価値の格差が大きくなったとしても、合理的な範囲で許されてしかるべきとの判断をしてきた。ところが、最近の傾向では、どうも地方代表的性格という特殊性が軽視されつつある。立法論として、本当に「投票価値の平等」を至上の価値としていいのかどうかという議論がそろそろなされてもよい時期なのではないか。参考になるのは、米国の連邦議会選挙である。米国の連邦議会上院は、州ごとの人口に関わりなく各州2名ずつの議員が選出され、人口比例配分によって選挙区割りされている下院とは異なる選出システムを採っている。選出システムを異なるものにすることによって上院下院の各々の独自性を確保しているわけだ。ここに二院制を採用する意義がある。ところが、衆参両議院が類似した選出システムを採用していれば、選出される議員が同種の構成になってしまうのは必定で、これでは参議院衆議院のチェック機関としての機能を果たしうるか大いに疑問符がつこう。

 

 そこで我が国の選挙制度においても、例えば参議院議員選挙に関しては都道府県代表的性格を重視して人口に関係なく各都道府県から数名ずつ選出する制度に改め、その代わりとして、参議院より優越することがいくつかの面で認められている衆議院の総選挙に関しては人口比例配分の選挙区割りを徹底する制度にするという案が考えられる。もちろん、こうした選挙制度に改めても、最高裁憲法解釈が変更されない限りは違憲の判断が下される恐れがあるので、抜本的な憲法改正作業が求められるだろう。具体的な選挙制度に関しては現行憲法上では法律事項とされているが、それでは憲法14条適合性が問われる事態を招く恐れがあるので、これを憲法事項として個別の修正事項に関して法律事項にするという方法が考えられる。なるほど合衆国は連邦国家であって、日本のような中央集権国家ではない。歴史的沿革から上院の各州2名ずつの選出という制度になっていることからも、わが国の選挙制度に持ち込むことへの疑問が供されよう。しかし何度も強調するが、憲法の文言から直ちに「投票価値の平等」を至上のものとし、それより他の要素を優先することを違憲ならしめる解釈が必然となるのかと問われれば、これも同じく疑問なしとしない。また、特定の選挙区から選出されたとしても、つまりは都市部の選挙区から選出されようと「全国民の代表」であるとの前提があり、この「全国民の代表」という時の「全国民」とは、畢竟観念上の主体であり、このような観念上の主体という発想は「国民主権」という際の「国民」と同じ謂いであるという解釈も成り立つ。いかに「国民」という観念上の主体を立ち上げるかは、具体的な有権者団の各々の存在とは別に考えられているのであって、この考えを押し進めるならば、たとえ都道府県各数名ずつとする選挙制度を設けたとしても、「投票価値の平等」を犠牲にすることこそあれ、「全国民の代表」を選出することを不可能ならしめることには結びつかない。たとえ圧倒的多数の有権者団が都市部に集中し、都市部から圧倒的多数の議員が選出されようとも、「全国民の代表」とみなされる、つまりは「全国民」が代表を選んだということになるという理屈は、具体的な有権者団と「全国民」とを等値させる一種の擬制が施されているわけであって、それを肯定する理屈は同じく、仮に都道府県各数名ずつというアメリカ合衆国連邦議会上院の選挙方式を採ったとしても当てはまるということなのである。

 

 自民党改憲草案には、選挙制度に関する条文改正は一切なされていない。二院制の意義を強調したければ、両院の選出システムそのものを抜本的に改正することが必須であり、しかもこれまでの最高裁の判断を踏まえるならば、この改正は法律事項ではなく憲法事項でなければならないということである。