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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

The business of business is business.

 ビジネス倫理学という分野は、所謂「応用倫理学」の一つとして、道徳哲学の研究者および政治哲学者が1970年代から1980年代にかけて行った研究から生まれたと言われている。倫理学者や政治哲学者に対して、ビジネスが道徳的エージェンシーの問題や真理論あるいは搾取の問題や正義論といった多くの哲学的倫理学的諸問題を提起してきたからである。しかし、現在は様相が変わり、ビジネス倫理学の主要な担い手は哲学者・倫理学者というより経営学者にシフトしているかに見える。その大きな理由は、制度上の問題にある。ビジネス倫理学を専門とする教員を擁する哲学専攻におけるPh.Dプログラムはほとんど存在せず、その結果、この分野で出されるPh.D取得者があまりいないからだ。

 

 メジャーな学位でないから取得しやすいと思われるので、留学してとにかく米国の大学院で学位取得して飯のタネにしたいと思う者にとっては狙い目だろう。それはそうと、MITが、高校や大学を卒業していなくとも実力さえあれば広く海外からの学位取得希望者を募るという方針を最近打ち出した。日本の高校生でも直にMITの大学院に進むこともできるということである。今さら落ち目の東京大学なんかに行って「井の中の蛙」となって終わるのではなく、世界中から優秀な者が集うはずのMITの大学院に直に進んで学位を取得する方が、将来の精神的かつ物質的な「財産」を得る近道だと思う。

 

 ビジネス倫理学の分野で活躍している者は、主流の倫理学の理論と政治哲学から経営学に「転向」してきた者であると言われる。この分野の研究者に飯を食わせるためにビジネス倫理学を認知させようと、AACSBなどの認定機関はビジネススクールに対して倫理を教えることを要求してきた。ただ、哲学・倫理学専攻の研究者が少ないために、ビジネススクールはその空白を埋めるために経営学者に頼る傾向にある。社会科学の訓練を受けている経営学者は、ビジネス倫理学を主に記述的な営みとして、つまり倫理的または向社会的行動の原因と影響の研究として扱う(ロースクールで学ぶ「法曹倫理」は様々な事例が載った単なるマニュアル集と化しており、法曹倫理の専門研究者というよりも現役の法曹関係者による講義が主であるとも聞く。既に教育機関の体を為していない日本の法科大学院における「法曹倫理」の授業もその程度だろうと想像する)。しかし、これは、ビジネスにおける倫理的行動に関する規範的な考察に代わるものにはなりえない。

 

 ビジネスとは、広義では何らかの生産に関わる組織的活動であり、通常は利益を得ることを目指して商品やサービスを産み出することを目的とする組織的活動である(たとえ「個人事業主」であっても、その活動は広義の「組織的」な活動である)。個人や組織などは、価値のある財またはサービスを交換するときに、別の個人や組織と「ビジネス」を行う。したがってビジネス倫理学は、生産組織と商業活動の倫理的側面の研究として一先ず理解することができる。そこで、ドナルドソンやウォルシュは、商品やサービスの生産、流通、マーケティング、販売、消費の倫理分析を包含するビジネス倫理学を構想するのである。中でも、企業倫理における問題は、ほとんどすべての人がほぼ毎日「ビジネスを行う」つまり商取引に従事し、 さらには生産的組織の一部として生産活動に従事していることから広範囲に妥当する議論を目指す。経営倫理もビジネス倫理学に含まれる。

 

 現在、米国ではこの分野に特化したジャーナルが複数存在する。そこでの中心的な問題は、例えばマネジメントとはなにか、企業は労働者に何を負ってるか、労働者は企業に何を負っているか、 企業の顧客との関わりを導く道徳的ルールは何か、企業は社会問題を解決しようと企図すべきか、サプライヤーの行動に対して彼らはどのような責任を負っているか、企業は政治過程でどのような役割を果たすべきかといった問題についての考察がなされている。会計士や弁護士を含む多くのビジネス活動に従事する人々に当てはまる「専門職」の職業倫理も広義のビジネス倫理に包含される。こうした「専門職」は、その専門家団体によって公布された行動規範に拘束されている。また企業の中には、倫理やコンプライアンスを担当するチームによって開発・実施された詳細な行動規範も持っているところもある。ビジネス倫理は、専門的実践の研究すなわちビジネスに従事する人々の行動を導くために設計された行動規範の内容、開発、管理および有効性の研究として捉えることができるだろう。

 

 範囲をやや狭めて学問分野としてのビジネス倫理学に限定すると、社会科学者と規範理論を扱う研究者の両方によって占められている。中でも、ビジネス倫理学界最大の勢力を構成する社会科学者は、先に触れた通り、ビジネス倫理学の研究に際して記述アプローチから考察するものだから、そこで問われる問題は、ウォルシュやシュミットが主として取り上げる問題すなわち企業の社会的パフォーマンスは企業の財務パフォーマンスを改善することになるかという問題(要するに「倫理はペイできるか」ということ)やベイザーマンの提起する「なぜ人々は非倫理的な行動をとるのか」という問題などが主要テーマとなる。

 

 ビジネスにおける「倫理的」あるいは「非倫理的」とは何を意味するのか。規範的な営為としての側面も有するビジネス倫理学は、応用倫理学の多くの分野と同様、既存の倫理学、政治哲学、経済学、心理学、法学、公共政策学などさまざまな分野の知見が混在している。ビジネスにおける非倫理的な行動に対する改善策として、個々の行動に対して新しい法律、政策、規制に変更するように勧めるという形をとることができるためである。だから、ビジネス倫理学を理解するにはこれらの分野にある程度通じていなければならいので、広範な領域に関する知識に乏しい倫理学の研究者にとっては荷が重すぎる。ビジネス倫理学が特に日本で広まらない所以である。例えば、功利主義や契約説的な倫理学説を主張するがパレート効率性や厚生経済学の知見を無視して論じることは、現代の倫理学の諸問題を考えるにあたってさして実りあるものとは言えないことを想像すればわかろう。

 

 米国において、規範的なアプローチからビジネス倫理学に迫る研究者でも、先ずは経済的枠組みについて特定の想定を行う。その想定の1つは、生産手段を私有することができることである。もう1つの想定は、買手と売手の間の相互に決定された価格での自発的な交換を特徴とする市場がリソースの割り当てにおいて重要な役割を果たすことである。だから、こうした仮定自体を否定する者は、ビジネス倫理学における企業の所有権と管理や広告などに関するいくつかの議論の前提を共有しないことになるので、ビジネス倫理学が成立しにくい(こうした「卓袱台をひっくり返す」ような主張をする者はビジネススクールでは稀だ。もちろん、成立しにくいというだけであって、完全に相反する関係であるわけでもない。確かにほとんどの組織は、利益追求を目的として「ビジネス」を行う。しかし、いくつかの組織はそうではない。「ビジネス」を最広義に解すれば、ビジネス倫理学は非営利組織の活動も対象に含めることもできる)。

 

 ビジネス倫理学について考える1つの方法は、ビジネスに従事するエージェントの道徳的義務の観点からの考察である。では、そもそも道徳的エージェントとは誰のことなのか。個人は明らかだが、では企業はどうか。この問題は通常、「企業の道徳的責任」の問題として扱われている。ここで言う「企業」とは、法人だけに限るというのではなく、集団または個人のグループを指す。そうすると問題は、道徳的責任を果たす道徳的エージェントが企業の個々のメンバーの集合体とは見なされず、企業そのものと見なされるかどうかという問題に逢着する。かつて日本でも盛んだった法人論争と一部重なりもするその問題は、企業をその構成員の集合とは別異の社会的実在として考え、様々な権利義務の帰属主体として観念することが妥当か否かという問題としてパラフレーズすることができるだろう。フレンチの初期の研究において、彼は企業が自らの仕事に対して道徳的に責任を帰属させるためには文字通りの道徳的人物と見なされるべきであると主張した。この結論は、企業には内部の意思決定構造があり、意図的行動を観念することができるという主張に基づいている。

 

 このフレンチの主張に対してドナルドソンは、企業は自分自身の幸福を追求する能力など重要な人間としての能力を欠いているため企業は人間になることができないと否定する。ヴェラスケスも、企業には必要なエージェンシーの条件すなわち行為能力が欠けていると主張する。後にフレンチはこうした反論を受けて前言を撤回することになるわけだが、企業の道徳的エージェンシーと道徳的責任についての議論は、ビジネス倫理学だけでなく倫理学一般における国家や団体の責任をどう考えるかという議論でも論じられている箇所だ。企業を含む集団がそれらを満足させるまたは満足させないような道徳的主体と責任の条件は何かという問題に対して、コップやヘスなどは、企業は道徳的なエージェントになることができるとしている。

 

 反対に、ギルバートやミラーなどは、企業が道徳的なエージェントになることを否定する。この主張は、機関は意図を必要としているのだから企業そのものは意図を持つことができる種類の存在ではないという反論である。フィリップスは、場合によっては、企業内の個々の従業員が企業が引き起こす危害に対して責任を負わない場合があると主張する。危害に対する責任を割り当てるのが理にかなっている限り、そしてしばしばそうであると彼は信じており、それは会社自体に割り当てられなければならない(両罰規定の根拠は、この点に関わるだろう)。フィリップスの見解では、企業の道徳的エージェンシーを認める議論は、企業の非難可能性を基礎づけるという。企業の評判は重要な資産または負債になる可能性があるため、企業が事業に十分な注意を払う動機を提供するというわけだ。

 

 コーポレート・ガバナンスの目的と手段、つまり誰が最終的には会社を管理すべきかについての議論の多くは、大規模な上場企業を考慮して行われている。まず、コーポレート・ガバナンスの適切な目的について2つの主な見方がある。一方の見解によれば、企業は株主の利益のために管理されるべきである。一般に、株主の利益のために企業を管理するには、資産を最大化する必要があると想定されている。この見方は、一般に「株主優位」と呼ばれる。米国のビジネススクールや金融の世界では当たり前の「常識」として扱われている概念である。これを義務論的な観点から擁護するミルトン・フリードマンに代表される主張がある。株主は会社を所有し、会社が彼らの利益のために管理されているという条件で彼らのためにそれを実行するための経営者を雇う。したがって、株主の優位性は、経営者が株主に対して行う約束に基づいているというわけで、ミルトン・フリードマンの主張は、経営者の株主に対する義務という観点から株主優位を肯定する見解と整理できる。

 

 対して、株主は会社の所有者ではないと主張する人もいる。ベインブリッジは、株主は企業のセキュリティの一種である株式を所有しているのであって、会社自体を所有しているわけではないというわけである。ボウトライトなどは、経営者は会社に特定の方法で会社を管理することを株主に明示的または暗黙的に約束してはいないとさえ主張する。しかし多数説は、帰結主義的な理由で株主優位を主張する。この議論では、株主の利益のために会社を管理することは他の方法で会社を管理することよりも効率的であるというものである。これを支持して、経営者に明確で測定可能な単一の目的つまり株主価値の最大化が与えられなければ、自己取引の機会が増え利益相反の関係に陥ると主張する人もいる。株主優位に関する帰結主義的な立論は、すべての会社を特定の方法で管理する必要があるため、個人の選択に十分な範囲が確保されないことになるだろう。

 

 コーポレート・ガバナンスの適切な目的に関する他方の見解は、利害関係者の理論(ステークホルダー論)によって与えられている。この理論は、1980年代にエドワード・フリーマンによって提唱され、その後フリーマンとその協調者によって30年間にわたって洗練されてきた。ステークホルダー論の初期の定式化によれば、株主のみの最善の利益のために会社を管理する代わりに、経営者はすべての会社の持分や金銭的利害に関わる者も含む利害関係者の利益の「バランス」をとるべきだというものである。批判者が投げかける第一の疑問は、その利害関係者とは一体誰のことなのかというものである。よく言われる利害関係者とは、株主、従業員、コミュニティ、サプライヤー、および顧客である。しかし、債権者、政府、競争相手を含む他のグループも会社に利害関係を持っているはずだ。そこで、どこで線引きがなされるべきかが問われることになるが、ステークホルダー論の主張者は、別の場所ではなくある場所に線を引くための明確な理論的根拠を提供していない。

 

 第二の疑問は、株主の利益を常に優先するわけではないということ以外にすべての利害関係者の利益の「バランスをとる」とはどういう意味なのかが判然としないというものである。フリーマンは、株主の利益を最大化するよりも戦略的に会社にとって利害関係者の利益のバランスをとることの方がより良いと主張し、彼の見解に道徳的な議論を提供する。しかし、これだけでは既に株主優位を擁護する者でも認めているのである。したがって最近では、ステークホルダー論が株主優位の主張に対する真の競争相手として適切に見られているのか、そもそも「理論」と呼ばれうるのかという疑問が供されている。ノーマンが言うように、今やステークホルダー論は一つの「考え方」つまり関係のネットワークへの組み込みを強調する企業の見方として捉える方が賢明ではないかと思われる。

 

 株主優位とステークホルダー論との間の議論の解決は、ビジネスにおける倫理的諸問題のほとんどを解決するものでは決してないことを認識することが重要だろう。株主優位もステークホルダー論も、企業の経営者は株主の利益を最大化し、すべての利害関係者の利益のバランスをとるために可能な限りのことをすべきであるという見方として解釈するのではなく、 むしろ、これらの見解は、経営者がこれらの目的を達成するために道徳的に許容されるあらゆることを行うべきであるという見解として解釈されるべきである。ビジネス倫理学の大部分は、正にこの領域でどのような道徳が許されるかを決定しようとしているが、この点について、ステークホルダー論は筋が悪いように思われる。僕としては、ステークホルダーの線引きを積極的に論定する方向よりも、むしろ責任の範疇論からのアプローチすなわち危険責任の法理と報償責任の法理を道徳的責任論に拡張適用することによって責任が及びうる範囲を確定するという方法がより適切ではないかと考える。

 

 コーポレート・ガバナンスの手段に関する問題は、コーポレート・ガバナンスの目的に関する問題への回答を反映している。多くの場合、企業が特定の当事者の利益のために管理されることを保証するための最良の方法は、当事者にそれを制御させることである。別言すれば、当事者の利益のために会社を管理する必要があるとする理由の正当化は、当事者が制御する権利に訴えることである。ミルトン・フリードマンは、会社の株主の所有権が会社を管理する権利を与えると考えている。すなわち、会社が彼らの利益のために実行されることを保証するために使用できる。株主の支配権は、所有権の概念から分析的に導出できると考えるのである。モノを所有することは、そのモノに関して一連の権利を持つことである。所有権とはモノに対する使用・収益・処分の権利を有するということであり、その標準的なインシデントの1つはコントロール権である。

 

 会社は所有可能なものであるというこうした考えに対する異議は、ベインブリッジによって主張されている。企業の株主支配についての契約上の議論は、企業の所有権の仮定に依存しないように構築されてきた。これらの議論で想定されているのは、資本を所有する人もいれば労働を所有する人もいる。資本は、それが生み出す条件で労働力(および生産の他の投入物)を「雇う」ことができる。ほとんどの場合、資本は労働力を雇用している。ほとんどの企業のガバナンス構造は、ある意味で同意されているとしても、それは他の点では不当であることもありうる。アンダーソンは、標準的なコーポレート・ガバナンスを抑圧的で説明責任のない民間の「独裁」として特徴づけている。この不正に対処するために、経営者による恣意的な指令を拒否する労働者の能力や企業の方針と労働者の共同決定の慣行および労働者による生産的企業の排他的管理が主張されてもいるわけだ。

 

 これらのガバナンス構造は、さまざまな形をとる。ブレンカートの議論は、労働者の利益を保護することの価値に訴えるものであり、マコールの議論は労働者の自律性の価値または職場での行動を含む行動の自己決定権に訴える。ダールの「並行手続」の議論は、企業と国家の類似性に基づき、もし国家が民主的に統治されるべきなら企業もそうであるとするものである。しかし、批判は一般的に2つのカテゴリーに分類されるだろう。最初は、上記のような協定の規範的な優先順位の問題である。企業が持つことができるガバナンス構造のタイプには、法的な制限はほとんどない。そして、一部の企業は実際には労働者によって管理されている。他の企業がこのように統治されるべきであると主張することは、この議論によれば、人々は彼らが適切であると思うように彼らの経済生活を調整することを許されるべきではないと言うことである。労働者の参加に対するもう1つの批判は、効率性に訴える。経営者の意思決定に労働者が参加できるようにすると、意思決定のペースが低下する可能性がある。これは、多くの労働者に意見を聞く機会を与える必要があるためだ。企業の見返りとして制御を与えられない場合、投資家はより有利な条件を要求する可能性があるため、企業のコストも引き上げられる可能性がある。どちらの非効率性の原因も、競争の激しい市場で会社に重大な不利益をもたらす可能性がある。より一般的には、生産性の低下につながるという問題を抱える。

 

 ビジネス倫理学の研究者は、ビジネスの倫理的諸問題を適切な形で抽出し、ビジネスのための正しい行動の原則を考案しようとする。このプロジェクトを進める1つの方法は、規範的なフレームワークを選択しビジネスにおけるさまざまな問題への影響を取り除くことである。その主たるフレームワークは、帰結主義的アプローチの他にも、徳倫理的アプローチ、義務論的アプローチ、「市場の失敗」アプローチがある。徳倫理を利用するアプローチは、ムーアらの見解が代表的である。これはマッキンタイアの徳倫理を発展させ、ビジネスに適用するものである。また、コミュニティで善き生が実現するというアリストテレスの考えに触発される議論もある。そこで、コミュニティのメンバーが繁栄するのを助けるためにビジネス・コミュニティがどのように構造化されなければならないかがハートマンらによって論じられている。

 

 義務論的アプローチは、ボウイやアーノルドの議論に代表される。人類は常に目的として扱われるべきであり手段としてのみ扱われるべきではないというカントの主張は、商取引の中心での人間の相互作用を分析するために特に実り多いことを彼らは主張する。徳理論やカント主義的義務論を含む倫理学説は、ローティが言うようにビジネスのコンテキストで個人がどのように相互に関係すべきかを考えるのに役立つ。しかし同時に、企業倫理はまた、市場や組織を構成する法律や規制も了解しておかねばならない。ここでは政治理論がより関連を持ってくる。しかし、ビジネス倫理学の研究者は、ロールズの正義論がビジネスにとっての公平性として持つ意味を特定しようと努めてきたが、悲しいかな、ロールズが市場や組織について示唆的な発言をする際、ロールズは特定の結論を明確に述べたり、それらについての詳細な議論を展開しない。問題は、企業内の権力と権限の重大な不平等との非両立性、有意義な仕事をする機会の要求、コーポレート・ガバナンス、コーポレート・オーナーシップの代替形式が必要となるということだ。

 

 マクマホンによって提唱された「市場の失敗」アプローチも一つの有力なフレームワークとなっている。市場ベースの経済を持っている理由は、市場がより効率的だからである。しかし、不完全な情報、外部性、取引コストなどにより市場が十全に機能しなくなる場合がある。国家は規制を通じて多くの市場の失敗を修正していく。例えば、環境保全のための汚染防止の制限を設定したり、広告規制をしたりということを想起すればよい。しかし、すべての市場の失敗に対処するための規制は望んでおらず、作成することもできない。「市場の失敗」アプローチは、ここにビジネス倫理が入る余地がある。ビジネスパーソンは、法律で利用できる市場の失敗を利用しないという道徳的義務を負っているというのである。

 

 ビジネススクールでは決して主要な科目とはされていないビジネス倫理でも、こうした点でバラバラな関係する文献を大量に読まされるわけだけど、個人的には組織管理論の退屈な内容よりはまだ楽しめるというもの。ところが、それらを読んでも多くの受講者の感想はこうだろうと思われる。結局は"The business of business is business!"じゃね?と。

批評と経済小説

「経済評論家」と名乗る割には経済学的知に疎い一方で、日本企業のスキャンダラスな側面を論じる舌鋒においては異様に鋭い嗅覚で以って的確な批判を展開する資質に恵まれるという極端なギャップを見せる佐高信は、経済小説ないしは企業小説と呼ばれるジャンルを頗る評価する。対照的に、純文学とされる小説に関しては、「“他人本位の屈折”を経たことのない作家たちのギルド的文壇文学だった」として貶めている。佐高のこの主張について、言わんとするところの一部は首肯できる点もあるが、この手の主張は、結果的には、小説というものが物語とは区別された近代特有の表象形態であることに意識的ではない「通俗小説」の過剰評価と、そうした「通俗小説」しか読まない多くの日本のダメなサラリーマンたちの無教養についての居直りを肯定する役割しか果たさない。

 

佐高のこうした態度は、例えば柄谷行人に対する否定的評価にも現れている。もちろん僕も、柄谷行人のある時期の批評、とりわけ「形式化の諸問題」とやらに憑りつかれて、位相幾何学数学基礎論についてロクに知りもせずに出鱈目な戯言を吹聴していた時期の批評について、これまでも散々批判してきたように全く評価できないが、初期の文芸批評や『トランス・クリティーク-カントとマルクス』(岩波書店)以後のものについては、相応の卓見も見られるわけで、これはこれで優れた仕事であることを見ないわけにはいかない。しかし、佐高の場合、柄谷の批評を読み込んで批判しているのか、極めて怪しい。現に、内容について詳細な批判を加えた箇所は一行も見られないのである。単に、自分に基礎的な教養がないというだけのことではないのか、と疑ってみたくもなる。哲学者久野収の薫陶を受けたと言うけれど、どうやら久野からは、哲学・思想のテクストの読み方に関してまでは教わっていなかったようだ。

 

ちなみに久野収は、まとまった哲学的著作こそ出していないが、その一方で、ジャーナリスティックな文章を発言集や対談を通じて大量に残している。ジャーナリスティックな活動で目立ってはいたが、本来は、中井正一三木清あるいは戸坂潤と同じく、京都学派左派の系譜に位置づけられる哲学者であり、林達夫と同様、古今東西の膨大な量の哲学書を読み込んでいた博覧強記の大教養人であった。鶴見俊輔との共著『現代日本の思想』(岩波書店)所収の論考「日本の超国家主義昭和維新の思想」は短い論考ながらも、昭和維新の運動の祖として、安田善次郎を刺殺した朝日平吾の遺書の分析から始めるなど冴が際立っており、久野が思想というものの扱い方をいかに了解していたかが伺われる資料にもなっている。

 

簡単にまとめると、佐高信は以下のような主張をする。企業に生きる人間を捉えずして現在の人間や社会の本質を捉えることなどできない。なのに、文学界での経済小説・企業小説の地位は不当に低く見られている。「私小説」中心の日本の文学界では経済音痴の批評家ばかりだから、経済小説や企業小説を正当に評価する声がない。それは、批評家や読書人の社会に対する視野が狭く、それゆえ個人的な殻に閉じこもってしまう傾向にあることに由来するというのである。

 

このような評価が、果たして妥当と言えるだろうか?我が国の文芸批評家の多くが「経済音痴」であることは確かだろうし、ジョージ・スタイナーのような広範な領域にある程度通じている文芸批評家ともなれば、なおのこと少ない。しかし、「経済音痴」でない「経済評論家」も同じく少なく、文芸批評家の場合とそう違わない。確かに、純文学に現れる人物の境遇が一面的な傾向にあることに関して、佐高の主張も理解できないわけではない。しかし、「私(わたくし)小説」であるからといって、「個人的な殻に閉じこもって」いるとは限らない。逆に、経済小説の中でも、「個人的な殻に閉じこもって」いるものもあるだろう。

 

「売れなければ純文学で、売れれば大衆小説なのか」という梶山季之の言葉を引用するけれど、経済小説ないし企業小説のジャンルが文学の世界において地位が低い理由は、批評家が「経済音痴」であることによるのではなく、単純にその作品の質が低いからである。むしろ、経済小説で登場する人物こそ、「個人的な殻」に閉じこもっているケースが多く、しかも紋切り型でしかない。佐高信が『経済小説の読み方』(社会評論社)で紹介している小説や、その他話題になっている経済小説ないし企業小説が、今後何十年何百年と読み継がれていくであろう普遍性と質を誇れる小説であるかを問うてみればわかろう。

 

小説の「素材」を企業社会における男性サラリーマンの姿に求めたからといって、それを読むことにより、我々が意識やイメージには容易に還元できない「物質」としての言葉そのものの「肌ざわり」を得られるわけでもないし、単なる情報の伝達とは異なる「小説」としての必然性を感じることもない。企業に勤務するサラリーマンの行動類型についての情報が触れられたとしても、それだけなら単に情報を提供したという範囲を出るものではなく、「小説」であることの必然性はない。手っ取り早くレポートを読めば済む話である。

 

「小説」は、経済を学ぶ道具でも、企業社会の内情を理解する媒体でもない。サラリーマンおやじを慰撫したいのか、話の途中で挿入される恋愛描写も陳腐な表現で描かれ、早い話が頻繁に放映される暇つぶしのための2時間もののサスペンスドラマの中のチャチな「濡れ場」シーンとさしたる違いのないチープな消費財でしかないものが多い。それが悪いとは言わない。西村京太郎のトラベルミステリーが量産され続けているように。しかし、西村京太郎の小説を珠玉のミステリーと捉える者はほとんどいないだろう。題材を企業社会に置けば、それで視野が開かれたと言えるのかが、そもそも怪しい。

 

佐高信は、高杉良と対談集まで出版しているし、『経済小説の読み方』などで高杉の作品を紹介しているだけでなく、『高杉良の世界-小説が描く会社ドラマ』(社会思想社)なる著作まで出している。残念ながら、本書は高杉良の人となりを紹介する本であっても、言葉で表現された芸術(作品)である「小説」に対する批評にはなりえていない。彼は、経済小説を称揚する際に盛んに、経済小説は純文学と違って社会に発生する事実(企業社会という特殊な経済現象の一つ)を丹念に取材した上で成立する「リアリティ」に富んだ小説になっているがゆえに、現在の社会と人間の本質を捉えることに成功しているということを強調する。そこで問われている「リアリティ」なるものの内実・程度・根拠については、この場で追及するのはよしとしよう。ところが、事実の調査に基づいた「リアリティ」に富んだことを強調しておきながら、誰もがさして努力せずとも了解している基本的事実すら弁えていないのが気にかかるわけである。

 

佐高は、高杉良との対談において、『ボヴァリー夫人』の著者がバルザックであると思い込んで語っている。一瞬、言い間違いなのだろうと思っていたが、どうやら本気でそう思っているようなのである。もちろん、『ボヴァリー夫人』の著者は、ギュスターヴ・フローベールである。読書人を自認するのだから当然読んでいるだろうし、言い間違いでない以外で著者を間違えるようなことはないはず。しかし、彼はバルザックバルザックと言って憚らない。のみならず、半ば一人歩きしているといえる”Madame Bovary, c'est moi.”とのフローベールの言葉を、まったく履き違えて捉えている。『ボヴァリー夫人』の著者すら、フローベールではなくバルザックと言っているぐらいだから、当然といえば当然なのかもしれないが、この程度の知識で純文学を批判する口実として主張する「私小説に偏りすぎている」との批判が、一体どの程度の認識に基づいてなされたものなのか、その底の浅さが露呈されていると言えるのではないだろうか。

 

フローベールのこの言葉は、この評論家がこれまた批判対象にしていた小林秀雄の「私小説論」においても触れられているのである。小林秀雄は、フローベールが「近代小説の祖」というべき立場にたち、一見私小説的とはいえない『ボヴァリー夫人』の著者たるフローベールの上記表現にあらわれた等式の意味を指摘していた。この問題意識は、雑誌「改造」の懸賞論文において二等となった小林秀雄「様々なる意匠」に対して、一等の座を射止めた「敗北の文学」を著し、後の日本共産党の「首領」というべき地位にまでなった宮本顕治も共有していた。佐高の宮本批判が的確なだけに、こうした小説や文芸批評方面に関する知識があまりに貧弱であることが、残念というほかない。不案内な領域にまで出しゃばってボロを出すものだから、真っ当な企業社会批判の正しさが霞んでしまうのである。

 

このことは、三島由紀夫の小説に対する批判にも現れている。城山三郎との対談で、三島の『絹と明察』について悪口雑言を尽くして罵倒している。『絹と明察』は、三島由紀夫の小説の中でも異例の作品で、一見したところ「社会派」(実のところ、この「社会派」とは何の意味か未だに不明なのだが)である『絹と明察』に対する城山三郎の否定的評価に乗っかる形で、佐高は、

タイトルからして焦点の定まらない『絹と明察』(新潮文庫)は、いま読み返しても安手な探偵小説、もしくは薄っぺらな事件小説といった印象しか受けないが・・・誰が主人公なのかも不明で、「眼高手低」ならぬ「眼低手高」のこの作品について・・・主人公とされる駒沢善次郎のモデルは近江絹糸の社長だった夏川だが、何の魅力も伝わってこないのである。

と言い、あとは例の如く醜聞めいたことを連ねて批判するという格好になっている。城山の三島に対する批判の要諦は「社会が描かれていない社会小説」との題名のままである。城山三郎のこの批判は確かに正鵠を射た批判の一つであり、三島の筆が上滑りしている感が否めず、明らかな失敗作であろう。とってつけたような「聖戦哲学研究所」のハイデガー哲学の説明も、「お勉強ノート」の書き抜きの域を出ない。この作品で三島が「社会」を描こうとしたのか、様々な媒体での三島の言を読んでも詳らかにはわからない。少なくとも、「日本的父性」と個人主義化していく社会との相克の問題を自らの問いとして抱え、これまでに三島が表現してこなかった題材を使用した作品であることは言える。もちろん、それがいわゆる「社会派」ないし「社会小説」であるか否かは、副次的な問題である。

 

佐高信は、この題名そのものが「焦点の定まらない」としているが、一体どうしたらよかったというのだろうか。まさか、『小説近江絹糸』にしろというのだろうか。この種の題名は、『小説日本銀行』や『小説日本興業銀行』の作者に任せておけばよかろう。さらに、誰が主人公かが不明だというけれど、小説に主人公が必要不可欠であるというのだろうか。ならば、アラン・ロブ・グリエ『去年マリエンバートで』の主人公って、一体誰をもってくればいいのだろうか。あるいは、グレッグ・イーガンディアスポラ』の主人公はどうなのか? 埴谷雄高の『死霊』の場合、一応三輪與志ということになるのだろうが、いわゆる主人公というに相応しい扱いがなされているとまでは言い難い。そもそも実体に対する「虚体」をめぐるおしゃべりなのだから、主人公もヘチマもあるまい。蓮實重彦が実験的に著した奇妙な小説『陥没地帯』は、どう評価すればよいのか?

 

対して、佐高信が評価する高杉良はどうだろう。例えば『呪縛 金融腐蝕列島Ⅱ』(角川文庫)を取り上げてみよう。この作品は、かつての第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)の総会屋に対する不正融資事件をモチーフに取り上げた小説である。闇社会で大きな力を持つ大物総会屋と蜜月関係を結び朝日中央銀行(ACB)の「首領」として君臨する代表取締役相談役の娘婿である同行企画部次長という中間管理職の男が主人公である。同行と闇社会の「呪縛」が、とある証券会社絡みの商法違反事件となって白日の下に晒される。同行が東京地検特捜部の家宅捜索を受け、取締役会の面々が商法違反の被疑事実を理由に次々と逮捕されていく。混乱する銀行の「膿」を出そうと娘婿を中心とする中間管理職有志が行内改革に乗り出し、様々な妨害(闇社会からの脅しなど)を受けつつも孤軍奮闘し、やがて周囲の若手行員をも巻き込んで闇社会との決別と銀行の再生を図るべく突っ走る。遂には、相談役を退きつつも機関決定で設けられた最高顧問という地位に就いていつまでも銀行にしがみついている義父との対決をも辞さず東京地検に売り飛ばすという筋立てである。

 

要するに、ある人物がヒロイックに活躍する組織の危機と再生・復活の物語というわけだ。合併したとはいえ、今だ旧行意識が根深いために慣行化されている「たすき掛け人事」の問題やら、大手都市銀行の熾烈な派閥争いやらドロドロした人間関係は、巨大組織に身を置いている者ならば、多少は身に覚えのあるエピソードがちりばめられていて、エンタテーメントとしてはそれなりに面白く読める小説であることは確かだろう。しかし、だからと言って、これが佐高が批判する「純文学」以上に「人間の本質」とやらを的確に捉え描いていることに成功しているかは怪しい。義父とその愛人との入浴シーンやら、他の性生活の描写にしても陳腐だ(いわゆる「経済小説」のそれは、概してこの点の描写が月並みで、サラリーマンおやじのための凡庸なエロ描写でしかない)。

 

ともかく、これによって当の不正融資事件の概要と大手都市銀行と闇社会との関係の一端を掻い摘んで理解することができるのかもしれないが、問題は、それが「小説」である必然性があるのかどうかという点である。単に調査した事実を元に、ある経済的諸事象を舞台として「男のロマン」とやらを称揚したいがために、安手の物語を展開してみせることが「小説」であるわけではない。何をテーマに、どこを舞台にするかは自由。しかし、この種の「小説」にありがちなヒロイックな物語をなぞるだけでは、「小説」として書かれることの意味は、なお不明である。物語だけ聞きたければ、そのあらすじだけなぞっておけばそれでよろしい。そこで「男のロマン」とやらを感じて涙を流すもよし、義憤にかられるのもよし。ただ、この「男のロマン」とやらが、駄目サラリーマンのチンケな欲望を慰撫するために予め捏造された安手のイデオロギーであるかもしれないことに意識が向いているかが問われる。

 

書かれた文字が描く物語の内部に、その物語そのものに還元しえないような思わぬ細部を露呈させ、ともすればそれが物語自身を自壊させてしまうかもしれない当の言葉自体の持つ緊張が文章において生きられていることに、「小説」を敢えて読む喜びがあるのではないだろうか。そこにこそ、近代という特殊な時代の特殊な表象形態である「小説」であることの試金石がある。「小説」という表現形式は、大昔から存在したわけではないし、果たして未来にも存続しうるのかも疑わしい、近代社会の中で一定の条件を充足した社会において成立しえた特殊な表象形態である。そのことに無自覚な「小説」であるとすれば、やれ企業社会における人間と社会の本質を浮き彫りにするなどともてはやされようと、その言葉は陳腐な掛け声にすぎなくなるだろう。ただ単に、作者の観念するイメージを流通させて駆動する物語を再生させ、その不自由さに無自覚なまま安手のイデオロギーの機能に加担しているだけでは出来の良い「小説」とはなり得ない。

ニーチェの「リベラル化」

小説としての出来はイマイチなのだが、ジョー・ランスデール『テキサス・ナイトランナーズ』(文春文庫)は、思春期の若者なら多かれ少なかれ心奥に持っているだろう漆黒の闇に渦巻く「狂気」に導かれて、悪徳の限りを尽くす不良少年の友人の魅力に憑りつかれ、自らも悪の世界を疾走していく少年が主人公の小説である。ピカレスク・ロマンもしくはノワール・フィクションの一種と読まれがちだが、紛れもなく、青春小説の一つとして読む方がしっくりくる。主人公の十代の不良少年は、異彩を放つ悪友に誘われ、「暴力こそが我が喜び」とばかりに、道徳といった軛をものともしない何でもありの背徳の魅力にハマり、いつしか悪の魅力を放つその不良の友人の言動自体に興奮して勃起するほどに、その虜となっていく。

 

不良同士に程度の差こそあれ見られる、ある種の同性愛的傾向を嗅ぎ取ることは容易いだろう。適当な女を拉致してレイプしてから、用済みになって惨殺するその悪逆非道ぶりそのものに興奮して勃起する少年が、悪友から教えられるニーチェの思想によって自分たちの行為を正当化していく様も、別に特殊な青少年に見られる現象とは言えず、ドストエフスキー罪と罰』のラスコーリニコフの言い分とそう遠い距離にあるわけではない(僕の知り合いの右翼の先輩にあたる人は、少年院退院後に右翼団体の門を叩いて構成員として立派に活動する一方で、詐欺や傷害の罪で何度も逮捕され時には刑務所にも収監されている「懲役太郎」なのだが、この人の愛読書がニーチェだった)。

 

多感な十代の頃、ニーチェにかぶれた不良少年が、自身の都合に合わせて手前味噌なニーチェ解釈をして、自己の背徳を肯定することはありそうなことである。もちろん、通常のニーチェ解釈は、そうしたニーチェの読まれ方を否定してきたし、その暴力肯定や選民思想につながりがちなニーチェの思想とナチズムとの関係が取り沙汰される中で、暴力的な要素やナチ的な要素を脱色することで、ニーチェの思想を救い出そうとするあまり、いかにニーチェの思想がナチズムとは遠い距離にあるかを殊更に強調してきた傾向すらあった。

 

だからこそ、『力への意志』など、晩年のニーチェの著作に見られる「危うい」箇所を、妹エリザベートによる改竄のせいにする言説も多く存在してきた。とはいえ、読み方いかんで犯罪とされている行為をも擁護しているように読めてしまうことも確かであって、こうした若者の自己都合的解釈を一概に誤りであると断じるわけにもいかない。

 

アドルフ・ヒトラーが、実際にニーチェの良き読者だったかと言われれば、必ずしもそうとは言えない。はっきり言ってしまえば、ヒトラーは、ニーチェからさほど影響を受けてはおらず、むしろシュペングラーやヘーゲルからの影響の方が大きい。ニーチェ知名度を単に利用したに過ぎないのではないか。ハイデガーにしても、似たことが言えるのではないか。

 

ヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』が強調するように、ハイデガー三島由紀夫の戯曲「わが友ヒットラー」のモチーフともなった「長いナイフの夜」にて粛清されたエルンスト・レーム率いる「ナチ突撃隊」の思想と行動に相当に入れ込み、のみらならず自らの思想で以って彼らを領導しようとさえしていたことや(ハイデガーは、ナチの中でもより過激なナチ左派の支持者であり、「長いナイフの夜」は、ヒトラーが過激化しすぎた「突撃隊」を粛正して「中道」路線に戻した事件として理解されている。それは三島の戯曲「わが友ヒットラー」の「政治は常に中道を行かねばならない」という内容の最後のセリフが物語っていよう)、ハイデガーが単に政治的にナチズムを支持しただけに止まらず、それこそ「ナチ的」に思考していたという主張を是としても、だからと言って、ハイデガーがナチズムに与えた影響が大きかったと結論づけることはできないわけであって、おそらくヒトラーハイデガーを読んではいなかったはずである。

 

ちなみに、ドイツ人の友人は大のハイデガー嫌いで、彼もまたハイデガーのことを「思考そのものがナチ的なんだ」とまくし立てていたことを思い出す(といっても、当人は別にユダヤ系というわけではない)。彼は戦前日本の哲学者の「ハイデガー詣」も知っていた。

 

今もなお、日本の哲学アカデミズムの中ではハイデガー研究者の数が結構いて、しかもSein und Zeitの邦訳は10本近く存在しているくらい、ハイデガー人気が根強い一方、かつて隆盛を極めたカッシーラーなどの新カント派の研究者は皆無に近いくらいに激減した現状について教えると、怪訝な顔をしていた。

 

彼はヘルマン・コーヘンとかエミール・ラスクとかエルンスト・カッシーラーが好きらしいし、ドイツでは、細々ではあるが、新カント派の研究は健在だと言っていた。やはり、我が国の哲学アカデミズムは流行に過敏に反応することに関しては一貫しているのだ。

 

なお僕も、カッシーラーに対する不当な扱いはおかしいと常々思ってきた。カッシーラーやカール・レーヴィットの思考をちゃっかりネタ元にしてるくせに、表立って出そうとしない日本の哲学研究者に疑念を持ってきた。ドイツ以外では、日本ほど新カント派の影響を受けた国はないのではないかと思えるほどなのに、これが流行に靡くだけの「トランク哲学」と揶揄されもする我が国の現状なのかもしれない。

 

但し、日本の哲学者の中には新カント派の哲学を自家薬籠中のものにして思考を展開している廣松渉もいるということを伝えるも、いかんせん、廣松哲学の海外への紹介はまだなされておらず、南京大学の廣松哲学研究室の面々が訳した北京語の翻訳書があるだけではないだろうか。後は、欧州のジャパノロジー専攻の日本語が堪能な研究者による論考があるだけだ。欧米の哲学・思想を「輸入」ばかりするのではなく、逆に「輸出」するくらいの野心があってもおかしくはないのに、悲しいかな、欧米の哲学・思想の層の厚さに圧倒されてか、怖気づいているのかもしれない。

 

しかし、それでは何のために欧米語を学ぶのだろうか。まさか、毛唐の思想を有難くいただくためなのか、それとも異文化コミュニケーションとやらがやりたいからか。そんなことだから、いつまで経っても、日本人の外国語のスキルが成長しないのである。外国語を学ぶ目的はなにか。蓮實重彦も指摘していたことだが、その目的は、アメ公や露助など外国人と丁々発止ケンカするためである。

 

ファシズムの思想は、アルフレート・ローゼンベルク『20世紀の神話』やルドルフ・スメンド『新カント派法哲学批判』やオートマル・シュパン『真正国家論』、『全体主義の原理』やカール・シュミット『国家・運動・国民-政治的統一の三重構造』やアルフレッド・ロッコの方である。もちろんファシズムといっても、ドイツのそれとイタリアのそれとは異なる(日独伊三国軍事同盟の影響からか、はたまた「枢軸国」と名指されたためか、戦前の日本の体制を「ファシズム」と捉える極めて杜撰な理解が蔓延しているが、戦前の日本は「ファシズム国家」に該当しない)。

 

実際のニーチェ研究ではニーチェの危険な部分が換骨奪胎され、ともすれば「人畜無害」の思想に仕立て上げられる傾向にあることも否めないわけであって、こうした解釈は、腐った「末人」を踏みつける選ばれた最高のカーストにある「金髪の野獣」を封印するに等しい、つまり「臭いものには蓋をする」というものである。

 

ナチは、その内容がチンケなものであれ、独自の「民族的世界観」に基づく国家観を構築している。世界史に燦然と輝く文化や芸術そして科学等の発展は「アーリア人種」によって築き上げられたものであり、この人種が他人種と混交すれば、人種的衰亡を来すことになる。ドイツ民族はこの「アーリア人種」に属するので、ドイツ民族こそが世界史を先導する役割を担う。だからドイツ国家はこの民族の人種的資質の保持と発展に努める義務を負うというのである(ほとんど噴飯モノの根拠なき戯言の類なわけだが)。

 

興味深いのは、必ずしもドイツ国家の存立を第一義とはしていないことであり、ドイツ国家をも目的達成のための一手段と見なしているところが、通常の国家主義と一線を画している点である。

 

よく、ニーチェ国家主義には否定的であったとの「弁明」がなされるわけだが、それを言うなら、ヒトラー自身も典型的な国家主義者とは言えなかった。したがって、国家主義に否定的であったことをもって、ナチズムとは根本的に異なると言う理屈は、ことナチズムとの距離を主張する理屈としては弱い。ヒトラー『わが闘争』には、こうある。

民族的世界観は、まず人種的要因のうちに人類の意義を認めるものである。それは原則として、国家を目的に対する手段として把握するものであり、目的とするところは人類の人種的生存の維持を考えるものである。民族的世界観は決して人種の平等を信ずるものではなく、人種における差異、およびその価値の高低を認め、この認識に立って宇宙の永遠の法則に従いながら優秀民族の人種的優位を主張し、劣等民族の追随を主張するものである。民族的世界観はさらに人種の根本的価値を認めるのみでなく、また個人の根本的価値をも認めるものである。

もちろん、ニーチェ自身はこのような奇異な人種主義を採らず、しかも反ユダヤ主義の立場を採るものでなかったことが事実であるとしても、それがニーチェの思想に見られる「暴力肯定」の思想を否定する根拠とするには乏しい。無理やりにでもニーチェを「リベラル化」するような解釈をしても、ほとんど無意味なことであろう。

 

そもそも思想というものは「毒」があるわけで、「無毒」な思想は、むしろ思想としての幅は狭くなる。思うに、仮にセックスとバイオレンスへの欲望を剥き出しにし、他人の利害得失など構うことなく、只管己の欲望の実現に突き進む野獣の如き者がいるとするなら、そうした者をニーチェなら肯定しただろう。

 

ニーチェの『力への意志』でいう「力」とは、文字通りの「権力」や「暴力」だけを指す概念ではないことは確かである。しかし、文字通りの「権力」も「暴力」もまた、広義の「力」に包含されていると読む方が自然であろう。世間から白い目で見られるような「暴力」にエクスタシーを覚えるような人間をも肯定したのではあるまいか。

 

「無茶苦茶にする・される」ことに性的興奮を覚える若者はそこそこいるはずだ。こうした読み方は確かに一面的な読み方であるに違いなかろうが、しかし事実としてニーチェに見られる一面でもあるわけだ。そういう面を「無害化」された解釈は覆い隠してしまうのである。この点について、永井均がこうしたニーチェの思想にある一面を素直に肯定しており、他のニーチェ解釈との違いが際立っていて面白い。

 

ニーチェの思想から引き出される倫理学的帰結は、規範倫理学の主流を形成する功利主義や契約説の双方が前提にする土俵そのものを御破算にしてしまうので、通常の「対話」はおそらく成り立たない。「自らの意思によって効果が発生した契約には拘束される」だの「自由な行為によって生じた帰結については行為者に一定の責任が帰される」だの「自由な行為と言えども他者に危害を加えるような行為は許されない」だのいった諸々の命題が共通して前提にしていることはreciprocityである。おそらくニーチェは、このreciprocityの原理を共有すらしていないだろうから、そうなると「対話」の可能性が初めからないということになりそうである。

 

自由を論じる際に必ずセットにして語られる「自由には責任がともなう」だの「自由は一定の規範を前提にする」だの紋切型な言い草があるが、果たしてそうだろうか。よく持ち出されるミルの「他者危害原則」にしても、ならシャブセックスの快楽に溺れることが悪徳とされるのはなぜなのか。シャブに溺れて生活が破綻することから当人の利益を保護するための「限定されたパターナリスティックな制約」として肯定されるのか、それとも反社会的組織としてのマフィアの資金源となることを防止するための社会的法益保護のための規制として是認されるのか。いずれにせよ、解禁すれば末端市場での価格は安くなる蓋然性が大きいので生活の破綻は回避できるし、そうなればマフィアとしても資金源としての旨味もなくなるわけだから、解禁が望ましいという選択に至るはずだし、できるものなら解禁が望ましい。

 

なによりも、相互主義を是認しないと言う立場なら、上記議論すら成り立たないことになるだろう。暴走行為は他人の権利ないし法律上保護された利益を侵害することは明らかだが、社会公共の規範を逸脱して他人の迷惑も顧みずに傍若無人に公道を改造単車で暴走する行為は、相互主義を前提にした「他者危害原則」からすれば許容されない行為であっても、初めから相互主義を共有しない者からすれば、欲望を抑圧する声に聞こえてしまう。

 

族からすれば他人に迷惑をかけようが楽しけりゃいいのであって、その欲望を無理にでも抑圧するぐらいなら他人に迷惑をかけて暴走による快楽を味わうことをしても構わないという結論になろう。他人に迷惑をかける自由はないとか、あるいは自由は一定の制約の下で許容されるとか、そういう「公共的」には「正しい」とされる理屈を弄したとしても何ら通用しない。再度言うように、reciprocityを認めなければならないとする原則すら否定しうるからである。

 

ニーチェツァラトゥストラかく語りき』には、傍若無人に爆音を鳴り響かせる族の狂喜乱舞する「真夏の夜の夢」の宴が高らかに肯定される。

わたしは、「すべての事物の上には、偶然という空、無邪気という空、無計画という空、放恣という空がかかっている」と教えるが、これはひとつの祝福であって、けっして冒涜ではない。「無計画に」-これは世界でもっとも由緒の正しい貴族性なのである。わたしはこれをすべての事物を目的への隷属から解放してやったのである。・・・ああ頭上の星よ、清らかなものよ。今のわたしにとって、おまえの清らかさとは、永遠に紡ぎつづける理性のクモとその綱とが存在しないということ-おまえがわたしにとって、神聖な偶然のための舞踏場であるということ、おまえが神聖な骰子と、ギャンブラーのための神々のテーブルだということなのである。

ともかく、ニーチェの思想の持つ「危険性」をできるだけ「無害化」・「リベラル化」して解釈する歩み自体を全否定するつもりはないが、しかし同時に、そうした「無害化」・「リベラル化」されたニーチェは、「タコの入っていないタコ焼き」(確か、尼崎競艇場にはタコが入っていない「多幸焼」が売られていたと思うが、どうなっているのだろうか?)か「クリープのないコーヒー」にようなものになって、その魅力が一気に消え失せてしまうのである。

TOKYO解体!

 日本でも方言の訛りというかある種の「癖」があるように、米国にも当然そうした「癖」が存在する。そうは言っても、インドやシナのように全く通じない程の乖離を持つわけではない。もっとも、米国にはヒスパニック系移民の数が尋常ではないので、英語に不自由な外国人観光客(特に日本人観光客。もちろん観光客と言わず、我が国には語学力の乏しい大学教員の無理して書いたヘンテコな英文や、「Go Toキャンペーン」というインチキ英語に反映されている通り、中途半端な英語しか知らないアホ役人たちに事欠かないわけだが)にとって概して不親切な米国と言えども、公共交通機関には英語とスペイン語が併記されている案内が目立つ。これは大量のヒスパニック系移民が英語に不案内であることに加え、貧困層が多いために公共交通機関の利用者の比率が高い現状に合わせたものである。例えばニューヨークの「メトロ・カード」の購入に際しても、主要駅の発券機では日本語案内があるものの、ほとんどは中文表記はあっても日本語表記まで整備されているものは極端に少ない。ロサンゼルスの「Tapカード」の発券機も日本語表記はない。

 

 ニューヨーク市民でも英語がまともに使えない人が相当数存在し、それゆえ公立学校では複数の言語で教育が受けられるプログラムがある。こうした現状に対して、フランシス・フクヤマは英語で統一しろと主張している。複数の異なる言語での教育は国民国家としての統合を毀損させ、それぞれのエスニック・グループのアイデンティティ固執するアイデンティティ・ポリティクスの強化となって米国の分断を増々加速させることにしかならないというわけである。確かに、国民国家の統合が図れなくなるほどに全く異なる言語体系が乱立するような事態となるのは如何なものかとは思うが、逆に人々が同じ言語しか用いていないというのも気色が悪い。同一の言語体系に属しているものの、しかしその内部で各々の地の言葉が飛び交う姿はむしろ壮観であり、その国の文化の豊かさを示すものであるとさえ思われる。その意味で、「方言」があることはその国の文化的成熟度を示す一つのバロメーターでもある。フランスのように人工的に拵えられた標準フランス語で染め上げるような文化政策をとることは、人間の画一化に資することはあっても、決して文化的な豊かさをもたらすものではない。

 

 米国で面白いのは、首都ワシントンD.Cや最大の都市ニューヨークで使われている英語が標準的な英語では決してないという点である。俗に「ニューヨーク訛り」と言われるニューヨークの住民のある一定層の使う英語は「癖」があり、その「癖」は南部のヴァージニア州などの主として黒人層が用いる英語に比べて「癖」はないとはいえ、例えばミネソタ州などの中西部の英語に比べるとやや「訛り」がある。報道機関のキャスターの「癖」の少ない英語は、だから東海岸北部の英語ではなく、中西部の英語を模範としていると言われる。この点が日本と大違いなのだ。日本では事情が違って、NHKのアナウンサーが使用する「標準的な」日本語は特定の地域の日本語ではないが、イントネーションに関してはやや関東圏の言葉に合わせているようにも思える。もちろん、東京弁=標準的日本語であるわけではない。東京弁を「標準語」と勘違いしている者が今も多く存在しているが、東京弁はあくまでローカルな方言の一つでしかない。

 

 東京は「都会」ではない。特にバブル以降の東京は、歴史の浅い「巨大な田舎」である。「巨大な田舎」とは、何も名古屋ばかりではないのである。日本で「都会」といえるのは、洛中と呼ばれた現在の京都市街地と平安末期から外国との交易が盛んだった港町の神戸、あるいは古代から一時は都がおかれ後には町人による自治から商都になった長い歴史を持つ大阪あたりではないだろうか。日本の中心は、神武帝橿原宮にて即位あらせられた時期から、あるいは、どれだけ遅くとも大和朝廷が開かれた時代より一貫して京阪神地域にあり、日本文化と呼ばれるもののほぼ全てこの地域から生れ出たのであって、東京が政治経済とも他を圧倒するのは高度成長以後のことである。東京は公権力が作為的に周辺の人的・物的資源を「上から」動員して形成された街であって、そこには都市の要件としての内発的自治が醸成されていたわけでもなかったのである。関東とは、そうした「巨大な田舎」でしかなかったということである。東京も大阪も知るニューヨークの者は、「ニューヨークは東京よりも大阪に近い」と言うし、在留外国人の多くも東京よりも大阪の方が過ごしやすいと漏らす(逆に、ニューヨーク在住の日本人も、大阪をはじめとする関西の出身者が多いのだ。気質的に合うのだろう)。それもそのはず、ボトムアップ型の自治が広く行き渡っていた伝統を持つ都市であるから、「都市の空気は自由にする」ということが体感できるわけだが、東京は政治権力の中心が偶然に置かれた関係で、トップダウン型に街づくりが計画的に行われ、町民の自治が内発的に起こった歴史がなく、常に「お上」頼みであったからだ。要は都市としての条件を欠いているのである。

 

 海外ではロンドンやイスタンブールそして上海(今の上海というより、外灘地区が繁栄を極めた「魔都」と呼ばれていた頃の上海のことだ)。歴史は浅いが香港も「都会」のイメージに相応しい。元々我が国は多様な方言が溢れていた。維新直後の新政府内部ではお国訛りが激しく、所々通じないこともあったようなので、オランダ語やフランス語で意思疎通をとったこともあったという面白いエピソードが残されている。ところが明治維新以後の中央集権化政策により藩ごとの豊かな文化的多様性が破壊され、特に戦後のマスメディアにおける在東京キー局を中心とする全国ネットワークによって東京中心の番組が大量に垂れ流されたために画一化が加速度的に進行してしまった。

 

 これは文化の暴力的な破壊行為の何物でもなく、明治期の神社合祀令の最悪な文化破壊政策と並ぶ暴挙だったのである。明治維新による近代化の方向性に進むことが内外の情勢からやむを得なかったことであるとしても、中にはやるべきではないことまでやってしまったことへの反省に欠けたまま、日本は文化的貧困化の路線を突き進んでおり、今もそのことに変わりない(神社合祀令は完全な誤りであるが、それだけでなく廃藩置県も誤りであり、いわゆる廃刀令ならびに武士階級の解体も誤りであった)。それにともない江戸言葉の艶もなくなってしまった。江戸は江戸の、上方は上方の言葉が持つ艶と色気が消失した次にやってきたものは、無個性な味もそっ気もない下劣な言葉の氾濫である。せめて古典落語の世界に誘われて、大好きな三代目古今亭志ん朝や六代目笑福亭松鶴の色艶鮮やかな言葉の世界に浸ることが何よりの贅沢な体験にまでなっているのである(かつて小林秀雄は講演のためもあって、五代目古今亭志ん生の落語を聴きまくったという)。それぞれ江戸や上方の匂いがプンプンしてくるからだ。

 

 言葉というものは、単に事実に関する情報を伝達する道具であるわけではなく、思考や物の感じ方や行動の様式に到るまでその言葉を用いる者の実存に深く根差すものであって、言葉を用いる動物である人間にとっては生そのものであるとさえ言える。だから、言語を奪われるということは当人にとっては自らの生そのものを奪われることに等しいと感じる者が多いのも理解できる。シナの侵略を受け、今も占領下にあって過酷な弾圧に苦しむチベットウイグルの人々が焼身自殺や暴力行為などに訴えて抵抗する姿勢を示そうとするのも、言葉や文化が自らの実存を形成する核心だと考えているからである。日韓併合による朝鮮総督府の統治政策が韓国や北朝鮮そしてその代弁者となっている日本の左翼の主張通りに暗黒の統治であったと判断するに足る根拠は乏しいが、それでも朝鮮半島の言語や文化を真に尊重したものであったかは多分に怪しいわけであって、この点で日本の政策に猛省すべき点が多々あったことも確かである。それだけ言葉には独特の「重み」がある。

 

 高度成長期からバブル崩壊を介してデフレ期に突入してからは特に東京一極集中が加速した。これは目先の経済的効率など比較にならぬほどの安全保障上のリスクにもなっている。文化的画一化による貧困化とともに具体的な安全保障上のリスクをも抱えてながらもなお東京一極集中の流れが止まることはない。その流れを加速させている張本人が在東京のマスメディアである。出版業なども含めた広義のメディアともなると、ほとんどが東京に拠点を置いている。そうした連中が「無自覚な帝国主義者」を生み出す元凶である。この流れを阻止するには物理的に東京を破壊してしまえばいいわけだが、もちろんそんな真似はできない。問題を指摘する声もあるが、中々実行に移されない。東京が経済的繁栄を謳歌する一方で地方の経済は増々脆弱になっている。これは意図的な政策の結果であって自然現象ではない。

 

 そして「無自覚な帝国主義者」は東京を「標準」と措定して、そこから逸脱するものを排除しようとする。もちろん、東京といってもローカルなものでしかない。決して日本全体を画一化する規準となるわけではないにもかかわらず、邪気か無邪気か、東京中心の視点を当然のものとしている。悲しいかな、質が悪いのは周辺の地方から東京に流入してきた「ニューカマー」であって、こうした者たちが極端な東京視線を内面化してしまうのである(変な例かも知れないが、山の手と下町では多少事情は違うかも知れないが、東京に生まれ育った者の中で生粋の「東京読売巨人軍」のファンは意外に少ない。むしろ、「ニューカマー」の方に占める巨人ファンの比率は相当なものではないかと勘繰っている。もちろん、これは僕がアンチ巨人阪神ファンであることも手伝っているのだろうが)。

 

 「標準語」とやらによる画一化は文化的豊かさを破壊し、人間を画一化させてしまう。意図的になされた政策ならば、これを意図的にやめさせるより他ないだろう。まさか、北朝鮮に頼んで東京にノドンミサイルでも撃ち込んでくれとは言えないだろうし、首都直下型地震で東京が壊滅状態になることを望むわけにもいかないだろう。少なくとも官庁や国会等の政府機関を東京から別の地域に移転し、千代田城は武家の棟梁たる徳川将軍家の居城であって御所が存する場としては本来相応しくないわけだから、そろそろ長い行幸を終えて、本来の御所のあるべき京都に還幸あらせられることが望ましい。これは政府の政策一つで実現できることである。そして東京へのこれ以上のインフラ投資をやめて別の地域にシフトさせることもできる(この点でも、東京五輪には賛成できない。日本で五輪が開催されること自体は喜ばしいとは思うが、やるなら福岡なり仙台なりがよかったのではないか。東京ほどの財政規模がないと言うが、政府の支援でどうにでもなるし、かつては福岡や仙台よりも遥かに小さい町であるリレハンメルが冬季五輪を成功させているわけだから、決して不可能なことではないはず)。インフラの整備されたところに経済機能は集まるので、これだけでも本社機能を移転する企業も増えてくるだろう。なにより全国ネットの影響は甚大なので、NHKだけは残しておいて、他のキー局による全国ネットワークの解体により、日本国民が一様に同一の番組を見るようなことがないようにして、銘々の地方独自の放送内容に改めさせるなどして中央集権化の先兵となってきたメディアの改編を行う。

 

 といって、いわゆる「道州制」を主張しているわけではない。ただこれ以上の東京一極集中が進行することにともなう弊害を避けるために、TOKYOと化した「東京」を叩くべしと敢えて「暴論」をまくしたてたまでである。江戸から東京、そして東京からTOKYOへと変質したこの街の表向きの「繁栄」は、他の地域の屍の上に立った虚妄の繁栄である。地方から流入してきた者が極度にTOKYOを内面化して「文化帝国主義者」として振る舞う醜態を見るにつけ、心の奥底では(東京で生まれ育ったがゆえの愛憎相半ばする)TOKYO CRISISの待望も否定できないでいるのである。

ミネアポリス事件?

 先週、ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性が警官による拘束下で死亡した事件(全米の報道はかなり偏向していて、事件の真相を調査することなく、あたかも人種差別による「殺人」であると宣伝されているが、実際はそう断定するに足る根拠が今のところ希薄ではないかと僕には思われる。この種の過剰な取締り行為は何も黒人に対してだけでなく、白人に対しても行われているからだ。だから先ずは、解雇されたこの警官たちの行為、日本でなら差し当たり特別公務員暴行陵虐致死が疑われる行為がどういう状況においてなされたのか、その背景となる動機にまで踏み込んだ検討が求められるはずなのに、初めから何の検証もなく決めつけてかかる報道をしているのは問題である)に端を発した抗議活動が全米各地で激化し、当初の平和的な抗議活動も様変わりして暴徒と化す動きが目立ってきている。とうとうニューヨークでも東部標準時6月1日午後11時から6月2日午前5時までessential workerを除く者のcitywide curfewを告げるEmergency Alertが伝達された。思わず、ロバート・デニーロトニー賞授賞式に出てくるや発したI'm going to say one thing,"Fuck Trump!"という言葉が脳裏をよぎった。

 

 ニューヨークでも一部の暴徒による店舗の破壊や略奪が起こっている(僕の住んでいるところの間近でも放火騒ぎがあり、ブランド品を扱う店舗のショウウインドウが破壊されていた)。アッパー・マンハッタンにあるハーレムやブルックリン区でもデモが行われているが、ここでは概ね平和的なプロテストの意思表示にとどまっている。とはいえ、暴徒化する者がこれ以上増えるようなら、早々に軍の治安出動という事態にまで至りつくだろう。軍が、直接暴徒化した群衆に対してであれ、自国民に対する直接的武力行使を伴う鎮圧行動に乗り出すようなことになれば、かえって取り返しのつかない事態を招く恐れがあるだけでなく、対中関係において米国の主張の国際的な説得力が低下することで、延いては香港情勢にも間接的な影響が及ぶことにもなる。おそらく北京政府は、今回の米国での暴動を利用して香港市民に対する武力弾圧を正当化することになるだろう。

 

 香港でも大規模な抗議活動が今も展開され、あちこちで「分断」による惨劇が反復される中、緊急事態宣言が解けた日本は世界情勢などどこ吹く風、相も変わらず能天気な極楽とんぼを決め込んでいるようだが、僕の見るところ、日本のおかれた状況も相当危機的な状況であるのにもかかわらず、多くの者は日本社会の中だけで完結しているという故のない錯覚のために事態の深刻さに気がつきもしない。相変わらず空虚な理想主義を唱えているだけに終始している(今日の香港の姿は明日の日本の姿かもしれないのに。シナは着々と覇権を拡張し、日本を含む東アジア一帯を中華勢力圏に組むこむ国家戦略を簡単には放棄しはしない。この点、さすが台湾の蔡英文総統は状況を冷静に分析し将来ありうる可能性を常に考えているから切迫した危機感を持っている。どうやら我が母国の盆暗総理とは出来が違うようだ)。

 

 強硬的な鎮圧体制が敷かれているものの、この混乱を奇貨として米国社会の破壊そのものを画策する極左暴力集団によるキナ臭い動きも見え始めてきたと伝えられている。確かに昼間の平穏なデモが夜になると、どこから沸いて出てきたのか知らないが、いずれにせよ明らかに昼間の面子と異なる奇妙な連中が暴れだす。案の定、こうした過激な破壊活動を正当な抗議の声と評価する住民は徐々に少なくなってきているし、逆に白人至上主義者の声に耳を傾け始める者もチラホラ出始めてることだろう。「分断」の溝はますます広く深くなる一方だ。ワシントンD.Cのホワイトハウス周辺での暴動は、シークレットサービスの50人もが負傷するといった状況(僕の知人はワシントンD.Cの周辺に位置する国防総省ペンタゴン)があるアーリントンに住んでいるのだが、アーリントン自体は住民のかなりの割合が外国籍の住人であるので大丈夫かなと思っていたところ、今のところは平穏を保っている状況であると言う)。

 

 ホワイトハウス周辺での暴動に衝撃を受けたのか、(プロテスタント長老派の信者であるはずの)ドナルド・トランプ大統領は近くのアングリカン・チャーチであるはずの聖ヨハネ教会の前でこれみよがしに聖書を手にポーズをとって写真撮影するものの、デモ隊に向かっての催涙ガスを使用したことを批判する司教の「勝手に教会利用するんじゃねえ!」という抗議に遭う始末。カトリックプロテスタントの中間みたいな存在だから、そうした配慮もあるのかもしれないが、気になるのは、日本ではカトリックもアングリカンもプロテスタントもオーソドックスもごたまぜに理解している人がいて、神父と牧師の区別すらしない酷いキリスト教理解がまかり通っているので、少なくともこうした区別すらつかない者の主張は信用しない方がいい。再度確認するが、トランプの信仰はプロテスタントの中の長老派でカルヴァン主義の系譜に位置づけられるものである。それはそうと、リチャード・ニクソンに倣ってか、ローズガーデンで「法と秩序」の大統領だと演説をぶち、これまた反発を喰らっている。民主党も大統領選挙を意識して火に油を注ぐ行動をしている。今頃、前まで落ち目であった民主党のバイデンは小躍りしてこの事態を眺めていることだろう。

 

 しかし、僕の周りの米国人もそうだが、普段はトランプの悪口を言うことが日常的な挨拶代わりとしている者も、内心ではバイデンよりトランプの方がましだと思っているし(サンダースになる悪夢を回避できただけでも幸いということだろうが)、早期鎮圧が望ましいとすら本音をこぼす。そりゃそうだろう。多くの米国民はたとえトランプ嫌いであっても、今のような一部の極左暴力集団による破壊行為に対してなぜ手をこまねいているのだという苛立ちが出てきている。「反トランプ」一色の全米メディアは、今回のジョージ・フロイド氏の死が警官による行き過ぎた拘束によってもたらされたことが事実であるとしても、その理由が人種差別によるものであると断定しうる確たる根拠を示さないまま煽動行為を続けている。この状況に薄々気がつき始めている国民もかなり増えてきて、おおっぴらにトランプを擁護することはなくとも、トランプの行動に理解を示してきつつもある。

 

 そうなればなるほど、かつての米国のGood old daysを懐かしむも潜在的に増してくることになる。この点は欧州でも日本でも変わらない現象である。そして、その懐かしさに焦がれる人々の気持ちは十分に理解できるのである(かつて田中美知太郎が、戦前の日本人の方が明らかに戦後の日本人より上質な存在であったと述べていたが、こうした発言の意味するところと一部重なるような気もする)。トランプの言動は問題だらけであり、特に「お上品」な人々の神経を逆撫でしている。にもかかわらず、なぜトランプが一定の支持を得ているのか、そして表向きトランプを批判するものの内心は「隠れトランプファン」と言える者が相当数いるのかについて反省しないと、リベラルの単なる嘆き節にしかならない。これまでの政治やメディアの傾向に見られる欺瞞に辟易している者が増えてきていることは間違いない。そうした鬱積がコアなトランプ支持者または隠れトランプ支持者を生んでいることも見ないといけないのに、相も変わらず混乱を徒に煽動するばかりのメディアの姿勢は、日本の現状とそう多くは違わない。いやむしろ、現在の米国のメディア状況は、日本のそれよりも偏向しているのかもしれず、そうした偏向報道を鵜呑みにするか利用する者と、そうした現状に反発する者に更なる分断を持ち込もうとしている。その隙に入り込んでくるのは、人種差別反対というお題目に隠れて破壊活動に勤しむ極左暴力集団の存在である。

 

外出禁止令明けの陽光を浴びながら。

オススメ4冊

第87回東京優駿日本ダービー)は、前評判通り、福永祐一騎乗のコントレイルの圧勝に終わった。今年はCOVID-19の影響で無観客レースだったようだが、ネット上にアップされているレース映像を視ると、コントレイルは4コーナーから直線に入って間もなく集団から抜け出し、ぐんぐんと後方との距離を開けていき楽にゴールするという、典型的な「強い馬」の勝ちっぷりだ。

 

かつての池添謙一騎乗のデュランダルのように、最後方から一気にゴボウ抜きして全頭を蹴散らして勝つというレースも面白いし、横山典弘の名騎乗冴え渡った春の天皇賞でのイングランディーレの「一人旅」を見るのも悪くはないが、やはりこういう「ザ・王道」という勝ちっぷりをみるのは爽快である。

 

今回の勝ちっぷりだけからは即断できないが、父ディープインパクトの残した偉大な事績を継承することができるのか、楽しみだ。当面は、秋の京都競馬場で開催される菊花賞で三冠をゲットすることに目標が絞られるのだろうが(その前に、阪神競馬場での神戸新聞杯あたりで一叩きするかもしんないが)、果たして、距離3000mの菊花賞に勝てるだけのステイヤー的な資質を持つのかも含めて、愉しみが尽きない。

 

同日、競艇のSG第47回ボートレースオールスターの優勝戦が「競艇のメッカ」住之江競艇場で開催された。僕は、昔の名称である「笹川賞競走」(正確には、「日本モータボート競走会会長杯争奪笹川賞競走」)の方が好きだが、なぜ通称であれ名称を変えてしまったのだろうか。競艇好きの者なら、たいてい「笹川賞」の名称を好んで使うと思われるのだが、これは年末のグランプリにも言えることで、昔のように「賞金王決定戦」の方がよほどしっくりするので、是非元に戻してもらいたい。ついでに言うと、ファンファーレも昔の方がよい。下手にいじくりまわすとロクなことはないといういい見本である。

 

ともあれ、「石野信用金庫」こと石野貴之のファンである僕としては、石野が準優選進出を逃した時点でゲンナリしたわけだ。去年の住之江で行われた賞金王決定戦は一瞬ヒヤリとする場面もあったが、優勝を決めた時は、ニューヨークから快哉を叫んだものだ。石野は、やる気のない時は「なんじゃこりゃ?」というほど酷いレースをする一方、ここぞという勝負時には俄然実力を出すというメリハリに富んだ選手だから、舟券購入にあたっても買い時と捨て時とがはっきりしている。特に、カド位置からの大胆な捲りを決めた時は爽快である。エンジンの整備力やプロペラの調整力も凄い。

 

しかも、大阪人らしく、お道化たキャラも憎めない。元々、高校までは野球部であったらしく、しかも甲子園に度々出場する強豪校近大附属高校野球部で主将を経験していたほど。競艇選手であった父親から大学進学を勧められるも、大学なんぞに興味を示さず、一か八かの勝負の世界に飛び込んだところも好感が持てる。いずれにせよ、優勝した篠崎仁志には祝福を申し述べたい。ともすれば、兄弟の元志の方が注目されがちだったこともあるし、SG初制覇ということもあって、喜びも一入ではないだろうか。しかも、ここ5年程は住之江では一般競争での優勝が1回あるだけで、G3以上のタイトルとは無縁だったので、今回のSGでの優勝は当人にとっても劇的な経験であったに違いない。

 

十代の頃は、特に博徒に強い憧れを抱くほど博打好きな僕にとって、日本の環境は最高に近い環境だったと言える。競馬、競艇、競輪と公営ギャンブルは365日どこかで開催されているし、パチンコもスロットも優良店こそ少なくなっているものの、店さえ間違えなければコンスタントに稼ぐことができたわけで、年間2、3百万円のプラスの小遣い収入が安定して得られたわけだ。カジノこそないけれど(裏カジノは、結構な数あるのが実態だが)、カジノでどうせ大金賭けるのなら日本国内でなくともマカオシンガポールにいけばいいわけだし、ショボいカジノでもよければ韓国に行けばいい。

 

IR法で日本にもカジノリゾートの誘致合戦があるわけだが、果たして日本においてカジノが繁盛するのかと言われれば、かなり怪しい。そのカジノ構想のとばっちりを喰らっているのが、スロット規制強化の流れ。まだパチンコはましな方で、スロットに関する規制は年々厳しくなっており、これは明らかにIR法に連動している。

 

と言いつつ、注文していた書籍をじっくり読む時間が確保できそうなので、後はどこでそれらを読むかが問題。あるテクストをどういう時にどういう場所で読むかによって得られるものが違ってくるはず。

 

モンゴルの大草原のゲルで、M&AだのPFIを使った仕組みファイナンスだの、どうちゃらこうちゃら言われても全くリアリティの欠片も感じられないから、読んだところで馬耳東風。ドバイのブルジュ・ハリファのてっぺんでハイデガーの『杣径』を読んでも、「なに言っての?」となってしまうだろう。デナリのクレバスに落っこちた奴が、和辻哲郎倫理学』(岩波文庫)の悠長な話を読んでも、皆目理解できない。

 

渋谷のアトムあたりで踊り狂いながら、堀辰雄風立ちぬ』なんか読もうものなら、自己嫌悪に陥りそうになる。Le vent se lève, il faut tenter de vivre.なんて言ってられない。ミラーボールの照明に照らされながらセックスに猛り狂う妄想が勝ってしまう。対して、学校や職場で廣松渉『役割理論の再構築のために』(岩波書店)を読めば妙にリアリティが感じらるし、徹夜で友人と飲み明かした宴の後の帰路であればこそ、なおのこと大森荘蔵『時は流れず』(青土社)がスッキリ頭に入ってくる。

 

アルチュセールの言った意味とは若干異なろうが、イデオロギーというのは単純な社会的意識形態ではなくて、ある種の「イデオロギー装置」とともに働く「物質的なもの」でもある。アルチュセールが例に挙げていたことだが、教会というある種の「イデオロギー装置」があるために、その空間では「敬虔な」感情が沸き起こり、跪いて祈りを捧げる行為に出ようとする。

 

伊勢の神宮を拝する時に清明心が呼び起こされるのも、あの鎮守の森の木々の木漏れ日が参道を照らしている静謐な雰囲気と無縁ではない。仮に、境内が西成の釜ヶ崎の中の三角公園のような所だったら、果たして西行法師が「何事の おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」なんてセリフを残したかどうかは怪しい。一昔前のガングロ女子高生が履きふるした異臭を放つルーズソックスの片方が近くに脱ぎ捨てられていようものなら、敬虔な気持ちが湧き起ころうはずもない。

 

ドン・キホーテの店内に響く「ミラクル・ショッピング」を耳にしながら、シモーヌ・ヴェイユ『神を待ち望む』など読めたものではない。テクストの読みも、いつ・どこで読まれるかによって、多分に異なる意味に解されてしまう。テクストの放つ意味作用の時間的・空間的規定性とでも言えようか。思想系テクストとなると、多様な意味作用があるので、自宅で真夜中に1人で読むのとエッチしながら読むのとでは全く違ってくる。

 

届いた書籍をあくまでパラパラめくった感じではあるのだが、面白い数冊を紹介。一冊目は、Quantum Worlds: Perspectives on the Ontology of Quantum Mechanics ,Cambridge UPだ。量子論は現代の物理学の基盤となり、その発想の仕方は物理学の世界だけでなく様々な領域に及んでいる。20世紀前半に大成された量子力学の恩恵を既に我々の社会は享受しているわけだが、今世紀は「量子力学的知」が全世界を席捲することになるに違いない。特に、情報科学の分野における量子論の影響は計り知れない。

 

情報科学と物理学との接点は19世紀末のルートヴィヒ・ボルツマンに遡ることができるのだろうが、最近では更に遡行して、17世紀の天才ライプニッツの哲学の構想がようやく花開いたと評価する向きもある。坂部恵の名著『ヨーロッパ精神史入門-カロリング・ルネサンスの残光』(岩波書店)の言を借りると、カントは百年単位の哲学者であるのに対して、ライプニッツは千年単位の天才であることがわかる。

 

しかし、量子力学の解釈には、多くの未解決状態の概念的・哲学的問題があり、これら個別のテーマに関しては嫌と言うほど論文が量産されている。いわゆるコペンハーゲン解釈は、ティム・モードリンが言うように、とりあえず量子力学を道具として使いこなすための「取扱説明書」であって、量子力学の認識論的・存在論的諸問題に対する応答にはなっていない。

 

こうした原理的問題について格闘する論文は、欧米やイスラエルでは特に量産され玉石混交という有様である(日本の哲学業界は層が薄すぎる)。波動関数の意味、量子状態の性質、観測者の役割、量子世界の非局所性、量子領域からの古典性の出現などのトピックが目白押しだ。物理学と哲学の分野の著名な研究者によって書かれた章を含むこの書物は、量子論解釈に関連する諸問題の学際的かつ包括的な展望を提供してくれるだろうし、何よりも量子力学の認識論・存在論的諸問題に取り組む者にとって必読の論文集となっている。

 

中でも、テレアビブ大学のヴァイドマンの論文が面白い。特に、波動関数存在論的位置づけに関するテーマを考えるにあたっての必読文献ではないだろうか(ヴァイドマンの「波動関数実在論」とでも言うべき主張には同意しかねるが)。

 

二冊目は、Quantum Field Theory for Economics and Finance, Cambridge UPである。これは僕の仕事にも直結することなので、読むべき本の一冊としてある人から紹介されたものであるが、量子場理論の数学的ツールを経済学と金融理論にどのように適用できるかを紹介し、金融商品を設計するための量子力学的手法を提供するものである。

 

一見して「胡散臭さ」がプンプンする香ばしさを醸し出しているが、最近はこの種の「量子ファイナンス理論」に関する論文が量産されていることは確か(日本では、あまりお目にかからないだろうが)。

 

特に、リーマン・ショック以後、ウォール街ではこの種の論文やレポートが読まれ始めており、これは既存の数理ファイナンス理論への信頼度への懐疑と相即している。もっとも僕は、既存のブラック=ショールズ・モデルそのものが明確に誤っているとまで断言するつもりはない。問題は、モデルの限界について意識的ではなかった点だ(MITのアンドリュー・ローのように、認知心理学的手法を加味して理論を構築するような方向性には同意できない)。ましてや、もっと単純な二項モデルに沿って考えている連中が多い業界である。だとすると、2008年のリーマン・ショックの顛末の一因としてブラック=ショールズ・モデルに求めるのは相当な無理がある。

 

ともあれ、既存のモデルの不十分を踏まえて新たなモデル構築に勤しむ数理ファイナンス業界の、ある種何でもアリの「アナーキー」さは嫌いになれない。言い方は悪いが、それなりのオツムの持ち主が鬼の形相で「博打」の研究に熱中して競争する姿は刺激的でもあるし、同時に壮観かつ滑稽な光景でもある。

 

ラグランジアンハミルトニアン、状態空間、演算子ファインマン経路積分といったアイデアは、量子場理論の数学的基礎となる概念だが、これら一連のアイディアを使って資産価格についての包括的な数学的理論を構築するために、数値アルゴリズムや資産価格モデルと非線形金利動向の研究に適用し、オプション、クーポン債、ハイリスク債などの金融的トピックに量子力学的知見を導入することが可能であることを示そうとする。人によっては「こいつ、マジかよ?」ということになりかねない「ぶっ飛び」度があるので、国際金融の世界の住人でなくとも、数学や物理学に多少案内のある人でトリップしたい人にとっては損はない書物だと言える。

 

三冊目は、飯嶋裕治『和辻哲郎の解釈学的倫理学』(東京大学出版会)である。前二書と全く趣が異なる著作だが、和辻哲郎の研究はこれまで日本の思想史的文脈に位置づける研究か、それとも単独の浮いた存在としての「和辻倫理学」の意義を説く研究が多かった。

 

この趨勢とは異なり、和辻倫理学を欧米の解釈学的哲学の文脈の中に据えた研究書となっている。一見異なる思想体系のようでも、実は通底し合うものがあることを探りあて、その文脈の中に位置づけると違った光景が見えてくることがある。まだ斜め読みしかしていないのではっきりしたことは言えないが、本書の試みは、かつて現象学ハイデガーの哲学を英米の行為論の文脈に据えて解釈し直した門脇俊介の営為を思い出させてくれる。英米の人間がハイデガーをドレイファス経由で理解する者が結構いるが、門脇はハイデガー存在と時間』の「基礎的存在論」の箇所を、アンスコムやデイヴィッドソンの行為論やブラットマンの議論に接続可能な思想として読み直す作業を試みていた。

 

飯嶋の著書も「和辻倫理学」をそれ単独で見るのではなく、広く欧州の解釈学的文脈に置き直し、そこから捉え返されるべき和辻哲郎の思索の持つ意義を明らかにしていく。議論も緻密であって、「和辻倫理学」の研究水準を一段高めたことは間違いだろう。

 

詳細な点についてはじっくり読み込まないことには言えないが、その思想史研究上の価値は、最近読み終えた三宅芳夫『ファシズムと冷戦のはざまで:戦後思想の胎動と形成1930-1960』(東京大学出版会)と並んで強調されて然るべきだし(もっとも、僕と三宅では、丸山真男三木清そしてサルトルへの評価が異なる。しかし、そうした個別の評価なんかここではどうでもよく、思想史研究として優れていることは認めるしかない)、こういう労作に対する正当な評価がなされるべき。

 

四冊目は、鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)である。博士学位論文をもとに出版されたこの研究書は、同業者からも高い評価をもって迎え入れられたようで、なるほど、ざっと一瞥しただけでも、これまでに我が国で出版されたドゥルーズ哲学の研究書の中で、少なくなとも5本の指に入る研究書であろうことは容易に想像できる。

 

この書も飯嶋や三宅の著書と同様、とにかく分量が多い。解釈の上に更なる解釈を、先行研究の上にさらにそれを研究する執拗さでドゥルーズのテクスト解釈を遂行する、「古風な」文献解釈学を踏襲する堅実な注釈書である。先行研究が見落としていた視点や、著者のいうところの「誤読」を指摘するところも含め、「戦闘的」とも言える文体で綴られる論旨は明確で、読む者を疲れさせない。

 

もちろん、分析哲学に対する言及があり、例えば適切な箇所でラッセル『論理的原子論の哲学』を参照しているところなど好感が持てる点もあるが、但しライプニッツの理解には些か疑問符がつく箇所もある。ドゥルーズのテクストに対するのと同様の丹念な読解となっているかと言われれば、やや拍子抜けという感もある。

 

ドゥルーズ哲学が宇宙・世界の存在論的「革命」をモチーフとして「存在論アナーキズム」とでも言うべき立場を宣揚する思考であることが強調されてはいるが、ドゥルーズ哲学はそのことに失敗しているのではないかとの疑いを持つ僕のような立場の者からすれば、あまりにドゥルーズにべったりに過ぎるように思われ、もう少し距離を確保した上での批判的視角からの言及があってもよかったのではあるまいか。

 

加えて、数学に関する知見は極めて乏しかったと言わざるを得ないドゥルーズの議論を無理繰り擁護する「護教論的」な主張には閉口してしまう面もないではない。体論の説明も教科書的な文句が連ねられているばかりで、さして理解していないことが透けて見える箇所もある。

 

とはいえ、その論述のスタイルから来る印象は、村上勝三『デカルト形而上学の成立』(講談社)のような、それこそ重箱の隅をほじくるような感じでもない。村上のこの書にケチをつけているのではない。文献学というのは、これくらい緻密な作業が要求されるということの見本のような優れた研究書であるという評価は揺るがない。

 

ただ一言すると、確かに緻密ではあるし、デカルトの思考において「観念」ということで何が言われているのかを詳細に見ていくことは極めて重要だが(デカルトに限らず、17世紀西洋近世哲学において「観念」の持つ意味は注意深く見て行かねばならない)、リーディングスである『現代デカルト論集Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(勁草書房)に収録されている著名な論文を読んでいる時の、あるいはベイサードとマリオンを対決させ、またアルキエとゲルーを対決させて読む時の興奮はないということである。

 

AT(アーテー)版の編集をも批判するくらいの込み入った記載や、1630年の永遠真理創造説がどうちゃらこうちゃらという問題は、デカルト文献学にとっては重要なことなのかもしないが(この点が、所雄章の著作を読んだ時のつまらなさと重なってしまうのである。

 

所に関しては、デカルト省察』の、読みにくいわ日本語としてぎこちないわの訳文を何とかしてくれと言いたいけれど)。これは渡辺一夫『François Rabelais 研究序説 : Pantagruel 異本文考』(東京大学出版会)が、僕のような素人読者からすれば全く面白くなかったことにも似ている。

 

文献学的には凄い業績なのだろうけど、渡辺一夫の他の著作(特に、『フランス・ルネサンス断章』(岩波書店)や『世間噺後宮異聞:寵姫ガブリエル・デストレをめぐって』(筑摩書房)など)が面白いだけに、古書店で手にした時はゲンナリしたものだ(とはいえ、思わず記念に購入したけど)。

 

鹿野の著書は、そういうところなく読めるところも一般読者としては有難い。文献学におけるある種「王道」を行くその歩みは、和仁陽『教会・公法学・国家-初期カール・シュミット公法学』(東京大学出版会)という傑作を想起させもする。今後のドゥルーズ研究は、おそらく本書に対して無視を決め込むことはできないという意味で、ドゥルーズ研究の水準を一段高めたと言えるのだろうという思いが、パラパラめくるだけで強くなっていく。

 

これまでドゥルーズ研究において、その重要性の割には言及されることの少なかった『意味の論理学』の注釈作業を通じて、未だ明らかにされていない秘めたポテンシャリティが開示される。読みかけのJay RampertのDeleuze and Guattari's Philosophy of Historyと並べて読んで行きたい。

 

ちなみにランパートの書は、ドゥルーズ=ガタリと歴史哲学という一見奇異に思えるテーマを敢えて設定して、歴史、時間、記憶にまつわる問題の考察のために、ドゥルーズ=ガタリの「歴史哲学」を抽出していく。このランパートの研究書は9つの章で構成されており、その第一章が歴史哲学の観点からドゥルーズのテクストに取り組むことの価値と妥当性について論じられており、おそらくここが最も重要な箇所であろう。

 

ドゥルーズはこれまで西欧の歴史へのアプローチの仕方を常々批判を展開してきたし、歴史に還元できない「生成」と「出来事」に関心があることを明確に示してきた。ドゥルーズにとって、ヘーゲルハイデガーは、精神または存在が必然性において発展していくことで「秘密の運命」が明らかにされていく形式として歴史を捉えている。その意味で、ヘーゲルハイデガーは歴史家であるとドゥルーズは考えていた。

 

逆にドゥルーズが「地理哲学」に訴える時、そこには必然性と起源の「カルト」から歴史を奪還するという思惑があった。出来事は非歴史的な要素になる必要があるというドゥルーズの考えを承知の上で、しかしランパートは、ドゥルーズの思考によって達成されたものを「歴史哲学」と見做すわけだ。

 

もちろん、これまで盛んに論じられた『差異と反復』第二章にある時間の三つの総合という論点についての再検討も欠かさない。それが第2章から第4章にかけて行われる。周知の通り、時間の第一の総合は習慣の縮約された「現在」、第二の総合は過去と現在のヴァーチャルな共存(純粋過去として考えられた記憶の奇妙な時間としての「過去」)、そして第三の総合はニーチェ永遠回帰としての「未来」の信念である。これはちょうど、第一の総合のヒューム、第二の総合のベルクソン、第三の総合のニーチェに対応している。

 

ただ僕に言わせれば、この第三の総合の箇所は相当怪しげな議論であって、ニーチェ永遠回帰の総合は、存在論的側面において多分にベルグソンの色眼鏡を通した描像でしかないように思われる。ドゥルーズも薄々そう感じていたのかわからないが、『ニーチェと哲学』では、第三の総合については触れられていない。ともかくランパートは、ドゥルーズの「準因果」の概念のステータスを第5章で、ヘーゲルの歴史哲学との比較を第6章で取り上げていて、ドゥルールのテクストへの新たな対し方を示してくれている。

 

鹿野の著作に戻ると、パラパラめくった段階にとどまるのではっきりしたことは言えないが、先行研究を大量に読み込んだ上に、それらを批判的に乗り越えて行こうとする野心が満々の著書である。英国のエディンバラ大学では、ドゥルーズ研究叢書のようなものが次々出されており、ジェームズ・ウイリアムズの一連の研究書など、英米で主流の分析哲学や科学哲学との応接可能性をも模索する試みもあるわけで(どこまで成功しているかは若干疑問もつくが。特に、Gilles Deleuze's Philosophy of Timeを読む限り、そのレベルに達しているようには思われない。プロトニツキも量子場理論や量子情報理論ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』の視点から読み込んでいく作業をし、そのために然るべき参照文献をおさえているが、いかんせん牽強付会に過ぎるし詰めが甘い)、「ドゥルーズスタディーズ」が世界の哲学アカデミズムの一端において「市民権」を得てきている今日、日本発のドゥルーズ研究書として英語で出版されてもいいのではないか。

 

「英語帝国主義」を追認するわけではないが、残念ながら日本語だげでのみ流通するだけでは、特にジャパノロジーを学んでいる者ならいざ知らず、そうでなければ誰も読んでくれない。日本だけで完結していては話にならないわけだから、ガンガン英語で書いて行くことが望ましい。

 

著者は僕より年上だがほぼ同世代のようで、若さ故なのか、勢い余って國分功一郎東浩紀、千葉雅也、松本卓也、小倉拓也などの先行研究に対する幾分辛辣な表現もあるし(特に、小倉に対する批判は、『カオスに抗する哲学-ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)だけでなく、大学紀要掲載論文まで含めて頻繁に言及されており、ほとんど全否定である)、小泉義之訳『意味の論理学』(河出書房新社)の幾つかの訳に対する批判的言及もあり(小泉訳に関しては、哲学や思想系の翻訳にありがちな、学術的使用に耐えないような訳文だとは思わないが、うっかり見落としたと思われるケアレスミスが僅かに見られることは確かだ。conjonctionやcontractionの訳について、決して誤訳ではないが、どうして敢えてそう訳したのか訳注で断りを入れるなどして欲しかった箇所もある。conjonctionはヒュームのconstant conjunction=「恒常的連接」という訳が定着しているconjunctionの仏語に該当するconjonctionであるわけだから、「結合」とするよりも「連接」とした方が通りがいいだろう。contractionも、財津理訳の『差異と反復』では「縮約」と訳されており、特にこの訳に異論が噴出していないのであれば、「縮約」ではなく敢えて「収縮」とする必要を訳注で触れるなどの配慮が欲しかった。というのも、contractionはラテン語contractumに由来し、このcontractumはニコラス・クザーヌス『学識ある無知De docta ignorantia』に登場する重要な概念でもあるからだ)、その他にもやや気負いすぎの観がある文章が目立って、それが空回りしている面もある。そうした「血気盛んな」点も含めて、本書の魅力なのかもしれない。

 

惜しむらくは、学術研究書であるにも関わらず事項索引がないという点だ。近年の岩波書店の編集方針なのか、岩波書店の研究書は編集上の手抜き作業の粗が目立つ。事項索引なき研究書は欠陥商品であるという意識が希薄になったのだろうか(もちろん、すべての学術書に事項索引が付されていないというわけではなく、わずかな例外もある。例えば、たまたま目についた一ノ瀬正樹『確率と曖昧性の哲学』(岩波書店)は、各学術誌に掲載された論文をまとめて編集した著書だが、「事項・人名索引」がきちんと付されている。その一方で、同じ岩波書店から刊行された伊藤邦武『偶然の宇宙』には事項索引がない。同じ著者の『人間的な合理性の哲学-パスカルから現代まで』(勁草書房)には人名索引・事項索引が付されている)。「古典」として扱われている作品や浩瀚な研究書には学術書に相応しい事項索引が付加されるべきである。書誌学には「索引の研究」すら存在するほどなのである。

 

かつて、岩波書店から刊行された『プラトン全集』は「総索引」だけで一冊の書になっていたくらいだし、Great Books of the Western Worldも充実した2巻にもわたる総索引にあたるSyntopiconが付けられている。この存在によって、各テーマに関してどういう論者がどこの箇所でどういうことを書き残しているかを探すことができ、研究にも資するようにできている。もちろん、この作業は膨大な時間と労力と資金が必要となるわけだから非常に面倒な作業となる。そこで最近の岩波書店をはじめ、各種学術書を出す出版社は手抜きをするようになってしまったわけだが、書物に対する「愛情」が欠けていると言わざるを得ない。

 

多くの法学専門書や基本書を手掛ける有斐閣を少しは見倣えと言ってやりたい気分だ。一例を挙げよう。団藤重光『法学の基礎』(有斐閣)は体裁上「入門書」ということになっているが、実際は法学を一通り学んだ者を対象に、その学問的営為の基礎をなす思想にまで言及した高度な研究書としての位置づけであるので、事項索引、人名索引、判例索引いずれも充実している。手抜き作業をせず、地味な労苦を厭わない姿勢こそが編集作業の大事な仕事の一つであるのに、それをしていないのである。

 

そういう欠陥商品である学術書ではあるが、それはともかくとして、我が国で出版された極わずかな哲学・思想研究の浩瀚ドゥルーズ研究の著作、それもアカデミックな作法に則った「正統派」の研究書が出たので、これから時間を見つけてゆっくり読んでいきたいと心躍りを楽しんでいる。

Urgent Announcement : Down with the Chinese Communist Party!

 China’s National People’s Congress gave its approval to a controversial draft security law that will apply in Hong Kong. The New security law is intended to prevent any threat to Beijing’s authority in the city through secession, subversion, terrorism or foreign interference. It may allow mainland security forces to operate within Hong Kong, and is widely expected to curb personal liberties, such as freedom of the press, freedom of speech and freedom of assembly. The new law allows Beijing to take aim at the protests that have roiled the semiautonomous city and posed a direct challenge to the Communist Party and its leader, Xi Jinping.

 

 The Chinese communist party is painting a picture to make it seem like it is abiding by the basic law, but it is not. They’re imposing a draconian law which can be used to silence dissent in Hong Kong and infringe on freedoms guaranteed to Hong Kongers. The new security law will be used to suppress freedom of expression and curtail the activities of human rights defenders. It will be used not only to target protesters, but to permanently undermine the city’s autonomy under the “one country two systems” framework and the city’s de facto constitution, known as the basic law. It will be enacted through a provision bypasses Hong Kong’s legislature and therefore public debate and consultation on the law.

 

  Hours before the NPC vote, U.S. Secretary of State Mike Pompeo called it a “disastrous decision” as he sent a certificate to Congress saying that Hong Kong is no longer autonomous from China and no longer warrants special treatment under U.S. law.
“No reasonable person can assert today that Hong Kong maintains a high degree of autonomy from China, given facts on the ground,” said Pompeo. “While the United States once hoped that free and prosperous Hong Kong would provide a model for authoritarian China, it is now clear that China is modeling Hong Kong after itself.”

 

 U.S. President Donald Trump may now take follow-up action. These range from sanctions on individuals or organizations who have promoted the new law, through to revoking some of the tariff and trade privileges which Hong Kong, separately from China, has enjoyed since 1997. Alternatively, Trump may choose to wait. However, the list of grievances between the two superpowers is a growing one. It includes: a coronavirus blame game; security and territorial disputes in the South China Sea; a U.S. pushback against Chinese technology success; legal actions against controversial phone equipment supplier Huawei; the expulsion of journalists from operating in each other’s country; a threat to bar Chinese companies from U.S. stock exchanges; and a Phase One trade deal that looks destined never to be followed by a Part Two.

 Hong Kong ceased to be a British colony in 1997, and returned to full Chinese sovereignty. According to the Sino-British Joint Declaration, a U.N.-registered treaty, Hong Kong is designated as a Special Administrative Region. It should retain a high degree of autonomy and maintain its lifestyle and economic system for 50 years, until 2047. This arrangement is known as “One Country, Two Systems.” The Basic Law requires the Hong Kong government to enact its own local version of a national security law. But after half a million people marched against such proposals in 2003, the authorities backed down. And no Hong Kong leader has since dared. 

 

 Perceived national security threats amid an economic downturn sparked by the coronavirus pandemic and tense relationship with the US has prompted China to prod Hong Kong, roiled by months of anti-government protests since June last year, to speed up legislation of a controversial anti-subversion law which was shelved in 2003. China has long been growing impatient with Hong Kong’s perceived “waywardness” – particularly after pro-democracy movements in 2014 and last year. In a policy white paper in June 2014, China asserted that it had “comprehensive jurisdiction” over Hong Kong and ruled that it would allow “universal suffrage” so long as it can first vet the leadership candidates. In the communique of a key Communist party meeting in November 2019, the fourth plenum, Beijing told the city to “perfect” its legal system to safeguard national security. 

 

 China is still dependent on Hong Kong for trade and business, its dependency has lessened markedly over the past three decades, with Hong Kong’s GDP sliding from about a third the size of China’s in the 1980s to less than 3% in 2019. The Chinese leaders' mentality  probably is that the loss of 3% of GDP would be painful but not intolerable. But it is not the case. The Asian financial hub’s value should however not be understated as it remains a gateway for western capital to reach mainland markets - it is the home to the largest number of initial public offerings by Chinese firms and the largest offshore centre for bond sales by Chinese companies. If the anti-subversion law goes ahead, hundreds of thousands are expected to be up in arms again, reigniting the anti-government movement which has largely paused amid the coronavirus pandemic. Driving the opposition into the political wilderness serves Beijing’s short-term interest, but it will embolden the opposition in civil society and attract more, not less, international attention.

 

People all around the world as well as Hong Kongers are under the threats from the Chinese Communist Party!