shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

ニーチェの「リベラル化」

小説としての出来はイマイチなのだが、ジョー・ランスデール『テキサス・ナイトランナーズ』(文春文庫)は、思春期の若者なら多かれ少なかれ心奥に持っているだろう漆黒の闇に渦巻く「狂気」に導かれて、悪徳の限りを尽くす不良少年の友人の魅力に憑りつかれ、自らも悪の世界を疾走していく少年が主人公の小説である。ピカレスク・ロマンもしくはノワール・フィクションの一種と読まれがちだが、紛れもなく、青春小説の一つとして読む方がしっくりくる。主人公の十代の不良少年は、異彩を放つ悪友に誘われ、「暴力こそが我が喜び」とばかりに、道徳といった軛をものともしない何でもありの背徳の魅力にハマり、いつしか悪の魅力を放つその不良の友人の言動自体に興奮して勃起するほどに、その虜となっていく。

 

不良同士に程度の差こそあれ見られる、ある種の同性愛的傾向を嗅ぎ取ることは容易いだろう。適当な女を拉致してレイプしてから、用済みになって惨殺するその悪逆非道ぶりそのものに興奮して勃起する少年が、悪友から教えられるニーチェの思想によって自分たちの行為を正当化していく様も、別に特殊な青少年に見られる現象とは言えず、ドストエフスキー罪と罰』のラスコーリニコフの言い分とそう遠い距離にあるわけではない(僕の知り合いの右翼の先輩にあたる人は、少年院退院後に右翼団体の門を叩いて構成員として立派に活動する一方で、詐欺や傷害の罪で何度も逮捕され時には刑務所にも収監されている「懲役太郎」なのだが、この人の愛読書がニーチェだった)。

 

多感な十代の頃、ニーチェにかぶれた不良少年が、自身の都合に合わせて手前味噌なニーチェ解釈をして、自己の背徳を肯定することはありそうなことである。もちろん、通常のニーチェ解釈は、そうしたニーチェの読まれ方を否定してきたし、その暴力肯定や選民思想につながりがちなニーチェの思想とナチズムとの関係が取り沙汰される中で、暴力的な要素やナチ的な要素を脱色することで、ニーチェの思想を救い出そうとするあまり、いかにニーチェの思想がナチズムとは遠い距離にあるかを殊更に強調してきた傾向すらあった。だからこそ、『力への意志』など、晩年のニーチェの著作に見られる「危うい」箇所を、妹エリザベートによる改竄のせいにする言説も多く存在してきた。とはいえ、読み方いかんで犯罪とされている行為をも擁護しているように読めてしまうことも確かであって、こうした若者の自己都合的解釈を一概に誤りであると断じるわけにもいかない。

 

アドルフ・ヒトラーが、実際にニーチェの良き読者だったかと言われれば、必ずしもそうとは言えない。はっきり言ってしまえば、ヒトラーは、ニーチェからさほど影響を受けてはおらず、むしろシュペングラーやヘーゲルからの影響の方が大きい。ニーチェ知名度を単に利用したに過ぎないのではないか。ハイデガーにしても、似たことが言えるのではないか。ヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』が強調するように、ハイデガー三島由紀夫の戯曲「わが友ヒットラー」のモチーフともなった「長いナイフの夜」にて粛清されたエルンスト・レーム率いる「ナチ突撃隊」の思想と行動に相当に入れ込み、のみらならず自らの思想で以って彼らを領導しようとさえしていたことや(ハイデガーは、ナチの中でもより過激なナチ左派の支持者であり、「長いナイフの夜」は、ヒトラーが過激化しすぎた「突撃隊」を粛正して「中道」路線に戻した事件として理解されている。それは三島の戯曲「わが友ヒットラー」の「政治は常に中道を行かねばならない」という内容の最後のセリフが物語っていよう)、ハイデガーが単に政治的にナチズムを支持しただけに止まらず、それこそ「ナチ的」に思考していたという主張を是としても、だからと言って、ハイデガーがナチズムに与えた影響が大きかったと結論づけることはできないわけであって、おそらくヒトラーは、ハイデガーを読んではいなかったはずである。

 

ちなみに、ドイツ人の友人は大のハイデガー嫌いで、彼もまたハイデガーのことを「思考そのものがナチ的なんだ」とまくし立てていたことを思い出す(といっても、当人は別にユダヤ系というわけではない)。彼は戦前日本の哲学者の「ハイデガー詣」も知っていた。今もなお、日本の哲学アカデミズムの中ではハイデガー研究者の数が結構いて、しかもSein und Zeitの邦訳は10本近く存在しているくらい、ハイデガー人気が根強い一方、かつて隆盛を極めたカッシーラーなどの新カント派の研究者は皆無に近いくらいに激減した現状について教えると、怪訝な顔をしていた。彼はヘルマン・コーヘンとかエミール・ラスクとかエルンスト・カッシーラーが好きらしいし、ドイツでは、細々ではあるが、新カント派の研究は健在だと言っていた。やはり、我が国の哲学アカデミズムは流行に過敏に反応することに関しては一貫しているのだ。なお僕も、カッシーラーに対する不当な扱いはおかしいと常々思ってきた。カッシーラーやカール・レーヴィットの思考をちゃっかりネタ元にしてるくせに、表立って出そうとしない日本の哲学研究者に疑念を持ってきた。ドイツ以外では、日本ほど新カント派の影響を受けた国はないのではないかと思えるほどなのに、これが流行に靡くだけの「トランク哲学」と揶揄されもする我が国の現状なのかもしれない。

 

但し、日本の哲学者の中には新カント派の哲学を自家薬籠中のものにして思考を展開している廣松渉もいるということを伝えるも、いかんせん、廣松哲学の海外への紹介はまだなされておらず、南京大学の廣松哲学研究室の面々が訳した北京語の翻訳書があるだけではないだろうか。後は、欧州のジャパノロジー専攻の日本語が堪能な研究者による論考があるだけだ。欧米の哲学・思想を「輸入」ばかりするのではなく、逆に「輸出」するくらいの野心があってもおかしくはないのに、悲しいかな、欧米の哲学・思想の層の厚さに圧倒されてか、怖気づいているのかもしれない。

 

しかし、それでは何のために欧米語を学ぶのだろうか。まさか、毛唐の思想を有難くいただくためなのか、それとも異文化コミュニケーションとやらがやりたいからか。そんなことだから、いつまで経っても、日本人の外国語のスキルが成長しないのである。外国語を学ぶ目的はなにか。蓮實重彦も指摘していたことだが、その目的は、アメ公や露助など外国人と丁々発止ケンカするためである。

 

ファシズムの思想は、アルフレート・ローゼンベルク『20世紀の神話』やルドルフ・スメンド『新カント派法哲学批判』やオートマル・シュパン『真正国家論』、『全体主義の原理』やカール・シュミット『国家・運動・国民-政治的統一の三重構造』やアルフレッド・ロッコの方である。もちろんファシズムといっても、ドイツのそれとイタリアのそれとは異なる(日独伊三国軍事同盟の影響からか、はたまた「枢軸国」と名指されたためか、戦前の日本の体制を「ファシズム」と捉える極めて杜撰な理解が蔓延しているが、戦前の日本は「ファシズム国家」に該当しない)。実際のニーチェ研究ではニーチェの危険な部分が換骨奪胎され、ともすれば「人畜無害」の思想に仕立て上げられる傾向にあることも否めないわけであって、こうした解釈は、腐った「末人」を踏みつける選ばれた最高のカーストにある「金髪の野獣」を封印するに等しい、つまり「臭いものには蓋をする」というものである。

 

ナチは、その内容がチンケなものであれ、独自の「民族的世界観」に基づく国家観を構築している。世界史に燦然と輝く文化や芸術そして科学等の発展は「アーリア人種」によって築き上げられたものであり、この人種が他人種と混交すれば、人種的衰亡を来すことになる。ドイツ民族はこの「アーリア人種」に属するので、ドイツ民族こそが世界史を先導する役割を担う。だからドイツ国家はこの民族の人種的資質の保持と発展に努める義務を負うというのである(ほとんど噴飯モノの根拠なき戯言の類なわけだが)。

 

興味深いのは、必ずしもドイツ国家の存立を第一義とはしていないことであり、ドイツ国家をも目的達成のための一手段と見なしているところが、通常の国家主義と一線を画している点である。よく、ニーチェ国家主義には否定的であったとの「弁明」がなされるわけだが、それを言うなら、ヒトラー自身も典型的な国家主義者とは言えなかった。したがって、国家主義に否定的であったことをもって、ナチズムとは根本的に異なると言う理屈は、ことナチズムとの距離を主張する理屈としては弱い。ヒトラー『わが闘争』には、こうある。

民族的世界観は、まず人種的要因のうちに人類の意義を認めるものである。それは原則として、国家を目的に対する手段として把握するものであり、目的とするところは人類の人種的生存の維持を考えるものである。民族的世界観は決して人種の平等を信ずるものではなく、人種における差異、およびその価値の高低を認め、この認識に立って宇宙の永遠の法則に従いながら優秀民族の人種的優位を主張し、劣等民族の追随を主張するものである。民族的世界観はさらに人種の根本的価値を認めるのみでなく、また個人の根本的価値をも認めるものである。

もちろん、ニーチェ自身はこのような奇異な人種主義を採らず、しかも反ユダヤ主義の立場を採るものでなかったことが事実であるとしても、それがニーチェの思想に見られる「暴力肯定」の思想を否定する根拠とするには乏しい。無理やりにでもニーチェを「リベラル化」するような解釈をしても、ほとんど無意味なことであろう。

 

そもそも思想というものは「毒」があるわけで、「無毒」な思想は、むしろ思想としての幅は狭くなる。思うに、仮にセックスとバイオレンスへの欲望を剥き出しにし、他人の利害得失など構うことなく、只管己の欲望の実現に突き進む野獣の如き者がいるとするなら、そうした者を、ニーチェなら肯定しただろう。ニーチェの『力への意志』でいう「力」とは、文字通りの「権力」や「暴力」だけを指す概念ではないことは確かである。しかし、文字通りの「権力」も「暴力」もまた、広義の「力」に包含されていると読む方が自然であろう。世間から白い目で見られるような「暴力」にエクスタシーを覚えるような人間をも肯定したのではあるまいか。

 

「無茶苦茶にする・される」ことに性的興奮を覚える若者はそこそこいるはずだ。こうした読み方は確かに一面的な読み方であるに違いなかろうが、しかし事実としてニーチェに見られる一面でもあるわけだ。そういう面を「無害化」された解釈は覆い隠してしまうのである。この点について、永井均がこうしたニーチェの思想にある一面を素直に肯定しており、他のニーチェ解釈との違いが際立っていて面白い。

 

ニーチェの思想から引き出される倫理学的帰結は、規範倫理学の主流を形成する功利主義や契約説の双方が前提にする土俵そのものを御破算にしてしまうので、通常の「対話」はおそらく成り立たない。「自らの意思によって効果が発生した契約には拘束される」だの「自由な行為によって生じた帰結については行為者に一定の責任が帰される」だの「自由な行為と言えども他者に危害を加えるような行為は許されない」だのいった諸々の命題が共通して前提にしていることはreciprocityである。おそらくニーチェは、このreciprocityの原理を共有すらしていないだろうから、そうなると「対話」の可能性が初めからないということになりそうである。

 

自由を論じる際に必ずセットにして語られる「自由には責任がともなう」だの「自由は一定の規範を前提にする」だの紋切型な言い草があるが、果たしてそうだろうか。よく持ち出されるミルの「他者危害原則」にしても、ならシャブセックスの快楽に溺れることが悪徳とされるのはなぜなのか。シャブに溺れて生活が破綻することから当人の利益を保護するための「限定されたパターナリスティックな制約」として肯定されるのか、それとも反社会的組織としてのマフィアの資金源となることを防止するための社会的法益保護のための規制として是認されるのか。いずれにせよ、解禁すれば末端市場での価格は安くなる蓋然性が大きいので生活の破綻は回避できるし、そうなればマフィアとしても資金源としての旨味もなくなるわけだから、解禁が望ましいという選択に至るはずだし、できるものなら解禁が望ましい。

 

なによりも、相互主義を是認しないと言う立場なら、上記議論すら成り立たないことになるだろう。暴走行為は他人の権利ないし法律上保護された利益を侵害することは明らかだが、社会公共の規範を逸脱して他人の迷惑も顧みずに傍若無人に公道を改造単車で暴走する行為は、相互主義を前提にした「他者危害原則」からすれば許容されない行為であっても、初めから相互主義を共有しない者からすれば、欲望を抑圧する声に聞こえてしまう。族からすれば他人に迷惑をかけようが楽しけりゃいいのであって、その欲望を無理にでも抑圧するぐらいなら他人に迷惑をかけて暴走による快楽を味わうことをしても構わないという結論になろう。他人に迷惑をかける自由はないとか、あるいは自由は一定の制約の下で許容されるとか、そういう「公共的」には「正しい」とされる理屈を弄したとしても何ら通用しない。再度言うように、reciprocityを認めなければならないとする原則すら否定しうるからである。

 

ニーチェツァラトゥストラかく語りき』には、傍若無人に爆音を鳴り響かせる族の狂喜乱舞する「真夏の夜の夢」の宴が高らかに肯定される。

わたしは、「すべての事物の上には、偶然という空、無邪気という空、無計画という空、放恣という空がかかっている」と教えるが、これはひとつの祝福であって、けっして冒涜ではない。「無計画に」-これは世界でもっとも由緒の正しい貴族性なのである。わたしはこれをすべての事物を目的への隷属から解放してやったのである。・・・ああ頭上の星よ、清らかなものよ。今のわたしにとって、おまえの清らかさとは、永遠に紡ぎつづける理性のクモとその綱とが存在しないということ-おまえがわたしにとって、神聖な偶然のための舞踏場であるということ、おまえが神聖な骰子と、ギャンブラーのための神々のテーブルだということなのである。

ともかく、ニーチェの思想の持つ「危険性」をできるだけ「無害化」・「リベラル化」して解釈する歩み自体を全否定するつもりはないが、しかし同時に、そうした「無害化」・「リベラル化」されたニーチェは、「タコの入っていないタコ焼き」(確か、尼崎競艇場にはタコが入っていない「多幸焼」が売られていたと思うが、どうなっているのだろうか?)か「クリープのないコーヒー」にようなものになって、その魅力が一気に消え失せてしまうのである。