shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

The business of business is business.

 ビジネス倫理学という分野は、所謂「応用倫理学」の一つとして、道徳哲学の研究者および政治哲学者が1970年代から1980年代にかけて行った研究から生まれたと言われている。倫理学者や政治哲学者に対して、ビジネスが道徳的エージェンシーの問題や真理論あるいは搾取の問題や正義論といった多くの哲学的倫理学的諸問題を提起してきたからである。しかし、現在は様相が変わり、ビジネス倫理学の主要な担い手は哲学者・倫理学者というより経営学者にシフトしているかに見える。その大きな理由は、制度上の問題にある。ビジネス倫理学を専門とする教員を擁する哲学専攻におけるPh.Dプログラムはほとんど存在せず、その結果、この分野で出されるPh.D取得者があまりいないからだ。

 

 メジャーな学位でないから取得しやすいと思われるので、留学してとにかく米国の大学院で学位取得して飯のタネにしたいと思う者にとっては狙い目だろう。それはそうと、MITが、高校や大学を卒業していなくとも実力さえあれば広く海外からの学位取得希望者を募るという方針を最近打ち出した。日本の高校生でも直にMITの大学院に進むこともできるということである。今さら落ち目の東京大学なんかに行って「井の中の蛙」となって終わるのではなく、世界中から優秀な者が集うはずのMITの大学院に直に進んで学位を取得する方が、将来の精神的かつ物質的な「財産」を得る近道だと思う。

 

 ビジネス倫理学の分野で活躍している者は、主流の倫理学の理論と政治哲学から経営学に「転向」してきた者であると言われる。この分野の研究者に飯を食わせるためにビジネス倫理学を認知させようと、AACSBなどの認定機関はビジネススクールに対して倫理を教えることを要求してきた。ただ、哲学・倫理学専攻の研究者が少ないために、ビジネススクールはその空白を埋めるために経営学者に頼る傾向にある。社会科学の訓練を受けている経営学者は、ビジネス倫理学を主に記述的な営みとして、つまり倫理的または向社会的行動の原因と影響の研究として扱う(ロースクールで学ぶ「法曹倫理」は様々な事例が載った単なるマニュアル集と化しており、法曹倫理の専門研究者というよりも現役の法曹関係者による講義が主であるとも聞く。既に教育機関の体を為していない日本の法科大学院における「法曹倫理」の授業もその程度だろうと想像する)。しかし、これは、ビジネスにおける倫理的行動に関する規範的な考察に代わるものにはなりえない。

 

 ビジネスとは、広義では何らかの生産に関わる組織的活動であり、通常は利益を得ることを目指して商品やサービスを産み出することを目的とする組織的活動である(たとえ「個人事業主」であっても、その活動は広義の「組織的」な活動である)。個人や組織などは、価値のある財またはサービスを交換するときに、別の個人や組織と「ビジネス」を行う。したがってビジネス倫理学は、生産組織と商業活動の倫理的側面の研究として一先ず理解することができる。そこで、ドナルドソンやウォルシュは、商品やサービスの生産、流通、マーケティング、販売、消費の倫理分析を包含するビジネス倫理学を構想するのである。中でも、企業倫理における問題は、ほとんどすべての人がほぼ毎日「ビジネスを行う」つまり商取引に従事し、 さらには生産的組織の一部として生産活動に従事していることから広範囲に妥当する議論を目指す。経営倫理もビジネス倫理学に含まれる。

 

 現在、米国ではこの分野に特化したジャーナルが複数存在する。そこでの中心的な問題は、例えばマネジメントとはなにか、企業は労働者に何を負ってるか、労働者は企業に何を負っているか、 企業の顧客との関わりを導く道徳的ルールは何か、企業は社会問題を解決しようと企図すべきか、サプライヤーの行動に対して彼らはどのような責任を負っているか、企業は政治過程でどのような役割を果たすべきかといった問題についての考察がなされている。会計士や弁護士を含む多くのビジネス活動に従事する人々に当てはまる「専門職」の職業倫理も広義のビジネス倫理に包含される。こうした「専門職」は、その専門家団体によって公布された行動規範に拘束されている。また企業の中には、倫理やコンプライアンスを担当するチームによって開発・実施された詳細な行動規範も持っているところもある。ビジネス倫理は、専門的実践の研究すなわちビジネスに従事する人々の行動を導くために設計された行動規範の内容、開発、管理および有効性の研究として捉えることができるだろう。

 

 範囲をやや狭めて学問分野としてのビジネス倫理学に限定すると、社会科学者と規範理論を扱う研究者の両方によって占められている。中でも、ビジネス倫理学界最大の勢力を構成する社会科学者は、先に触れた通り、ビジネス倫理学の研究に際して記述アプローチから考察するものだから、そこで問われる問題は、ウォルシュやシュミットが主として取り上げる問題すなわち企業の社会的パフォーマンスは企業の財務パフォーマンスを改善することになるかという問題(要するに「倫理はペイできるか」ということ)やベイザーマンの提起する「なぜ人々は非倫理的な行動をとるのか」という問題などが主要テーマとなる。

 

 ビジネスにおける「倫理的」あるいは「非倫理的」とは何を意味するのか。規範的な営為としての側面も有するビジネス倫理学は、応用倫理学の多くの分野と同様、既存の倫理学、政治哲学、経済学、心理学、法学、公共政策学などさまざまな分野の知見が混在している。ビジネスにおける非倫理的な行動に対する改善策として、個々の行動に対して新しい法律、政策、規制に変更するように勧めるという形をとることができるためである。だから、ビジネス倫理学を理解するにはこれらの分野にある程度通じていなければならいので、広範な領域に関する知識に乏しい倫理学の研究者にとっては荷が重すぎる。ビジネス倫理学が特に日本で広まらない所以である。例えば、功利主義や契約説的な倫理学説を主張するがパレート効率性や厚生経済学の知見を無視して論じることは、現代の倫理学の諸問題を考えるにあたってさして実りあるものとは言えないことを想像すればわかろう。

 

 米国において、規範的なアプローチからビジネス倫理学に迫る研究者でも、先ずは経済的枠組みについて特定の想定を行う。その想定の1つは、生産手段を私有することができることである。もう1つの想定は、買手と売手の間の相互に決定された価格での自発的な交換を特徴とする市場がリソースの割り当てにおいて重要な役割を果たすことである。だから、こうした仮定自体を否定する者は、ビジネス倫理学における企業の所有権と管理や広告などに関するいくつかの議論の前提を共有しないことになるので、ビジネス倫理学が成立しにくい(こうした「卓袱台をひっくり返す」ような主張をする者はビジネススクールでは稀だ。もちろん、成立しにくいというだけであって、完全に相反する関係であるわけでもない。確かにほとんどの組織は、利益追求を目的として「ビジネス」を行う。しかし、いくつかの組織はそうではない。「ビジネス」を最広義に解すれば、ビジネス倫理学は非営利組織の活動も対象に含めることもできる)。

 

 ビジネス倫理学について考える1つの方法は、ビジネスに従事するエージェントの道徳的義務の観点からの考察である。では、そもそも道徳的エージェントとは誰のことなのか。個人は明らかだが、では企業はどうか。この問題は通常、「企業の道徳的責任」の問題として扱われている。ここで言う「企業」とは、法人だけに限るというのではなく、集団または個人のグループを指す。そうすると問題は、道徳的責任を果たす道徳的エージェントが企業の個々のメンバーの集合体とは見なされず、企業そのものと見なされるかどうかという問題に逢着する。かつて日本でも盛んだった法人論争と一部重なりもするその問題は、企業をその構成員の集合とは別異の社会的実在として考え、様々な権利義務の帰属主体として観念することが妥当か否かという問題としてパラフレーズすることができるだろう。フレンチの初期の研究において、彼は企業が自らの仕事に対して道徳的に責任を帰属させるためには文字通りの道徳的人物と見なされるべきであると主張した。この結論は、企業には内部の意思決定構造があり、意図的行動を観念することができるという主張に基づいている。

 

 このフレンチの主張に対してドナルドソンは、企業は自分自身の幸福を追求する能力など重要な人間としての能力を欠いているため企業は人間になることができないと否定する。ヴェラスケスも、企業には必要なエージェンシーの条件すなわち行為能力が欠けていると主張する。後にフレンチはこうした反論を受けて前言を撤回することになるわけだが、企業の道徳的エージェンシーと道徳的責任についての議論は、ビジネス倫理学だけでなく倫理学一般における国家や団体の責任をどう考えるかという議論でも論じられている箇所だ。企業を含む集団がそれらを満足させるまたは満足させないような道徳的主体と責任の条件は何かという問題に対して、コップやヘスなどは、企業は道徳的なエージェントになることができるとしている。

 

 反対に、ギルバートやミラーなどは、企業が道徳的なエージェントになることを否定する。この主張は、機関は意図を必要としているのだから企業そのものは意図を持つことができる種類の存在ではないという反論である。フィリップスは、場合によっては、企業内の個々の従業員が企業が引き起こす危害に対して責任を負わない場合があると主張する。危害に対する責任を割り当てるのが理にかなっている限り、そしてしばしばそうであると彼は信じており、それは会社自体に割り当てられなければならない(両罰規定の根拠は、この点に関わるだろう)。フィリップスの見解では、企業の道徳的エージェンシーを認める議論は、企業の非難可能性を基礎づけるという。企業の評判は重要な資産または負債になる可能性があるため、企業が事業に十分な注意を払う動機を提供するというわけだ。

 

 コーポレート・ガバナンスの目的と手段、つまり誰が最終的には会社を管理すべきかについての議論の多くは、大規模な上場企業を考慮して行われている。まず、コーポレート・ガバナンスの適切な目的について2つの主な見方がある。一方の見解によれば、企業は株主の利益のために管理されるべきである。一般に、株主の利益のために企業を管理するには、資産を最大化する必要があると想定されている。この見方は、一般に「株主優位」と呼ばれる。米国のビジネススクールや金融の世界では当たり前の「常識」として扱われている概念である。これを義務論的な観点から擁護するミルトン・フリードマンに代表される主張がある。株主は会社を所有し、会社が彼らの利益のために管理されているという条件で彼らのためにそれを実行するための経営者を雇う。したがって、株主の優位性は、経営者が株主に対して行う約束に基づいているというわけで、ミルトン・フリードマンの主張は、経営者の株主に対する義務という観点から株主優位を肯定する見解と整理できる。

 

 対して、株主は会社の所有者ではないと主張する人もいる。ベインブリッジは、株主は企業のセキュリティの一種である株式を所有しているのであって、会社自体を所有しているわけではないというわけである。ボウトライトなどは、経営者は会社に特定の方法で会社を管理することを株主に明示的または暗黙的に約束してはいないとさえ主張する。しかし多数説は、帰結主義的な理由で株主優位を主張する。この議論では、株主の利益のために会社を管理することは他の方法で会社を管理することよりも効率的であるというものである。これを支持して、経営者に明確で測定可能な単一の目的つまり株主価値の最大化が与えられなければ、自己取引の機会が増え利益相反の関係に陥ると主張する人もいる。株主優位に関する帰結主義的な立論は、すべての会社を特定の方法で管理する必要があるため、個人の選択に十分な範囲が確保されないことになるだろう。

 

 コーポレート・ガバナンスの適切な目的に関する他方の見解は、利害関係者の理論(ステークホルダー論)によって与えられている。この理論は、1980年代にエドワード・フリーマンによって提唱され、その後フリーマンとその協調者によって30年間にわたって洗練されてきた。ステークホルダー論の初期の定式化によれば、株主のみの最善の利益のために会社を管理する代わりに、経営者はすべての会社の持分や金銭的利害に関わる者も含む利害関係者の利益の「バランス」をとるべきだというものである。批判者が投げかける第一の疑問は、その利害関係者とは一体誰のことなのかというものである。よく言われる利害関係者とは、株主、従業員、コミュニティ、サプライヤー、および顧客である。しかし、債権者、政府、競争相手を含む他のグループも会社に利害関係を持っているはずだ。そこで、どこで線引きがなされるべきかが問われることになるが、ステークホルダー論の主張者は、別の場所ではなくある場所に線を引くための明確な理論的根拠を提供していない。

 

 第二の疑問は、株主の利益を常に優先するわけではないということ以外にすべての利害関係者の利益の「バランスをとる」とはどういう意味なのかが判然としないというものである。フリーマンは、株主の利益を最大化するよりも戦略的に会社にとって利害関係者の利益のバランスをとることの方がより良いと主張し、彼の見解に道徳的な議論を提供する。しかし、これだけでは既に株主優位を擁護する者でも認めているのである。したがって最近では、ステークホルダー論が株主優位の主張に対する真の競争相手として適切に見られているのか、そもそも「理論」と呼ばれうるのかという疑問が供されている。ノーマンが言うように、今やステークホルダー論は一つの「考え方」つまり関係のネットワークへの組み込みを強調する企業の見方として捉える方が賢明ではないかと思われる。

 

 株主優位とステークホルダー論との間の議論の解決は、ビジネスにおける倫理的諸問題のほとんどを解決するものでは決してないことを認識することが重要だろう。株主優位もステークホルダー論も、企業の経営者は株主の利益を最大化し、すべての利害関係者の利益のバランスをとるために可能な限りのことをすべきであるという見方として解釈するのではなく、 むしろ、これらの見解は、経営者がこれらの目的を達成するために道徳的に許容されるあらゆることを行うべきであるという見解として解釈されるべきである。ビジネス倫理学の大部分は、正にこの領域でどのような道徳が許されるかを決定しようとしているが、この点について、ステークホルダー論は筋が悪いように思われる。僕としては、ステークホルダーの線引きを積極的に論定する方向よりも、むしろ責任の範疇論からのアプローチすなわち危険責任の法理と報償責任の法理を道徳的責任論に拡張適用することによって責任が及びうる範囲を確定するという方法がより適切ではないかと考える。

 

 コーポレート・ガバナンスの手段に関する問題は、コーポレート・ガバナンスの目的に関する問題への回答を反映している。多くの場合、企業が特定の当事者の利益のために管理されることを保証するための最良の方法は、当事者にそれを制御させることである。別言すれば、当事者の利益のために会社を管理する必要があるとする理由の正当化は、当事者が制御する権利に訴えることである。ミルトン・フリードマンは、会社の株主の所有権が会社を管理する権利を与えると考えている。すなわち、会社が彼らの利益のために実行されることを保証するために使用できる。株主の支配権は、所有権の概念から分析的に導出できると考えるのである。モノを所有することは、そのモノに関して一連の権利を持つことである。所有権とはモノに対する使用・収益・処分の権利を有するということであり、その標準的なインシデントの1つはコントロール権である。

 

 会社は所有可能なものであるというこうした考えに対する異議は、ベインブリッジによって主張されている。企業の株主支配についての契約上の議論は、企業の所有権の仮定に依存しないように構築されてきた。これらの議論で想定されているのは、資本を所有する人もいれば労働を所有する人もいる。資本は、それが生み出す条件で労働力(および生産の他の投入物)を「雇う」ことができる。ほとんどの場合、資本は労働力を雇用している。ほとんどの企業のガバナンス構造は、ある意味で同意されているとしても、それは他の点では不当であることもありうる。アンダーソンは、標準的なコーポレート・ガバナンスを抑圧的で説明責任のない民間の「独裁」として特徴づけている。この不正に対処するために、経営者による恣意的な指令を拒否する労働者の能力や企業の方針と労働者の共同決定の慣行および労働者による生産的企業の排他的管理が主張されてもいるわけだ。

 

 これらのガバナンス構造は、さまざまな形をとる。ブレンカートの議論は、労働者の利益を保護することの価値に訴えるものであり、マコールの議論は労働者の自律性の価値または職場での行動を含む行動の自己決定権に訴える。ダールの「並行手続」の議論は、企業と国家の類似性に基づき、もし国家が民主的に統治されるべきなら企業もそうであるとするものである。しかし、批判は一般的に2つのカテゴリーに分類されるだろう。最初は、上記のような協定の規範的な優先順位の問題である。企業が持つことができるガバナンス構造のタイプには、法的な制限はほとんどない。そして、一部の企業は実際には労働者によって管理されている。他の企業がこのように統治されるべきであると主張することは、この議論によれば、人々は彼らが適切であると思うように彼らの経済生活を調整することを許されるべきではないと言うことである。労働者の参加に対するもう1つの批判は、効率性に訴える。経営者の意思決定に労働者が参加できるようにすると、意思決定のペースが低下する可能性がある。これは、多くの労働者に意見を聞く機会を与える必要があるためだ。企業の見返りとして制御を与えられない場合、投資家はより有利な条件を要求する可能性があるため、企業のコストも引き上げられる可能性がある。どちらの非効率性の原因も、競争の激しい市場で会社に重大な不利益をもたらす可能性がある。より一般的には、生産性の低下につながるという問題を抱える。

 

 ビジネス倫理学の研究者は、ビジネスの倫理的諸問題を適切な形で抽出し、ビジネスのための正しい行動の原則を考案しようとする。このプロジェクトを進める1つの方法は、規範的なフレームワークを選択しビジネスにおけるさまざまな問題への影響を取り除くことである。その主たるフレームワークは、帰結主義的アプローチの他にも、徳倫理的アプローチ、義務論的アプローチ、「市場の失敗」アプローチがある。徳倫理を利用するアプローチは、ムーアらの見解が代表的である。これはマッキンタイアの徳倫理を発展させ、ビジネスに適用するものである。また、コミュニティで善き生が実現するというアリストテレスの考えに触発される議論もある。そこで、コミュニティのメンバーが繁栄するのを助けるためにビジネス・コミュニティがどのように構造化されなければならないかがハートマンらによって論じられている。

 

 義務論的アプローチは、ボウイやアーノルドの議論に代表される。人類は常に目的として扱われるべきであり手段としてのみ扱われるべきではないというカントの主張は、商取引の中心での人間の相互作用を分析するために特に実り多いことを彼らは主張する。徳理論やカント主義的義務論を含む倫理学説は、ローティが言うようにビジネスのコンテキストで個人がどのように相互に関係すべきかを考えるのに役立つ。しかし同時に、企業倫理はまた、市場や組織を構成する法律や規制も了解しておかねばならない。ここでは政治理論がより関連を持ってくる。しかし、ビジネス倫理学の研究者は、ロールズの正義論がビジネスにとっての公平性として持つ意味を特定しようと努めてきたが、悲しいかな、ロールズが市場や組織について示唆的な発言をする際、ロールズは特定の結論を明確に述べたり、それらについての詳細な議論を展開しない。問題は、企業内の権力と権限の重大な不平等との非両立性、有意義な仕事をする機会の要求、コーポレート・ガバナンス、コーポレート・オーナーシップの代替形式が必要となるということだ。

 

 マクマホンによって提唱された「市場の失敗」アプローチも一つの有力なフレームワークとなっている。市場ベースの経済を持っている理由は、市場がより効率的だからである。しかし、不完全な情報、外部性、取引コストなどにより市場が十全に機能しなくなる場合がある。国家は規制を通じて多くの市場の失敗を修正していく。例えば、環境保全のための汚染防止の制限を設定したり、広告規制をしたりということを想起すればよい。しかし、すべての市場の失敗に対処するための規制は望んでおらず、作成することもできない。「市場の失敗」アプローチは、ここにビジネス倫理が入る余地がある。ビジネスパーソンは、法律で利用できる市場の失敗を利用しないという道徳的義務を負っているというのである。

 

 ビジネススクールでは決して主要な科目とはされていないビジネス倫理でも、こうした点でバラバラな関係する文献を大量に読まされるわけだけど、個人的には組織管理論の退屈な内容よりはまだ楽しめるというもの。ところが、それらを読んでも多くの受講者の感想はこうだろうと思われる。結局は"The business of business is business!"じゃね?と。