shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

和辻倫理学と"airheadness"

小堀桂一郎和辻哲郎と昭和の悲劇-伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人』(PHP)は、戦前・戦後を通じて時局に便乗して変節することなく、日本の文化・伝統を固守しようと奮闘した知識人の一人として和辻哲郎を取り上げる一方、対照的に、折口信夫鈴木大拙などを、まるで「マッカーサー草案」の内容を事前に聞きつけ、それにあわせるかのごとく自説を変更した宮澤俊義のような変節漢であると言わんばかりに描き出している。しかし、折口信夫に対する批判は、明らかに失当である。

 

肯定するにせよ、否定するにせよ、和辻倫理学の内容に踏み込んだ検討がなされているかのような題の書物であるが、実際には、和辻倫理学についての哲学的分析や思想史的検討は一切なされておらず、和辻哲郎が戦前戦後を通じて変節せずに一貫して日本の文化伝統の良さを守り続けた節操ある者だったという評価を、他の識者と比較して述べ立ているだけであるので、およそ哲学研究ではないことはもちろんのこと、思想史研究としても得られるところは少ないように思われる。

 

もちろん、他の変節漢と比べて和辻が筋を通したとするならば、そうした評価をする著作があっても不思議ではないだろう。ルース・ベネディクト菊と刀』の出鱈目を糾弾する和辻を評価する視点は共有できるものの、だからと言って、直ちに思想の研究として見るならば、やはり評価することはできそうもない。PHP新書として出された著作なので、著者も研究書として世に出す心算は元よりなかったのだろうが、いずれにせよ、本書の言わんとすることは、その硬質な文体にもかかわらず、さして重要な内容とは言い難い(同じPHP新書として出た『靖国神社と日本人』はまともな本であっただけに、本書はそれに比べると、どうしても見劣りすることが否めない)。

 

小堀桂一郎の若い頃の研究、例えば『若き日の森鴎外』(東京大学出版会)は、谷沢永一『雉も鳴かずば』(五月書房)の冒頭の章に書かれた適切な批判を是としてもなお、優れた比較文学の研究書であると認めるに吝かではない。また、国書刊行会から出版された『東京裁判却下未提出弁護側資料』全八巻や、特に重要な資料を一冊にまとめた上で解説を加えた『東京裁判 日本の弁明-「却下未提出弁護側資料」抜粋』(講談社)を労して編集した仕事は評価できる。この書は、米国の連邦上院の軍事外交合同委員会におけるダグラス・マッカーサーの証言も掲載されており、非常にためになるものである。

 

しかし本書は、和辻哲郎のテクストを仔細に読み込み、その思考について検討していくというようなものでもなければ、その歴史を単に追った評伝にもなっていない。ひたすら日本文化の伝統の守護者として描かれているだけで、和辻をいわば「ダシ」にして自説を延々開陳しているだけに終わっている。

 

変節であるかどうかはともかく、そもそも和辻哲郎が筋を通していたかは再検討する必要があって、実際、和辻が節操を曲げなかったと言えるのかについては、やや疑わしい点が残る。子安宣邦の指摘が正しいとするならば、和辻哲郎はその主著である『倫理学』(岩波書店)を戦後に改版する際、自身に都合の悪い文言のいくつかをこっそりとすり替えているからである。

 

更には、和辻哲郎の日本の文化・伝統についての造詣は、その全ての点において必ずしも正解な理解に基づいていたとまでは言えない面もあり、一知半解のまま観念的に捏造された描像に仕立て上げられている側面も多々ある。この点について、和辻哲郎東京帝国大学時代の同窓で、おそらく和辻よりも博識であったカトリック司祭岩下壮一による和辻批判がある。

 

そうした問題も抱えていた和辻哲郎であるが、その主著『倫理学』が畢生の大作であり、近代日本の哲学的思惟を代表する著作の一つであることに異論を挟む者は、ほとんどいないものと思われる。和辻哲郎は、近代日本における倫理学の一つの系譜の起点ともなった、我が国を代表する倫理学者であることに変わりない。そして、熊野純彦が『和辻哲郎文人哲学者の軌跡』(岩波書店)で描いているように、和辻の思考はあくまで日常の生活の襞に入りながら、そこから倫理を昇華させて行き、これまでの規範倫理やメタ倫理では触れられなかった一側面に光を当てる貴重な試みであることは確かである。

 

但し、それゆえにかえって、和辻倫理学は、ontischな記述がontologischな分析と地続きになっており、それゆえ究極的には「現状全面肯定の倫理学」と見間違えてしまいそうになる点である。そうした欠点があるとしてもなお、その魅力が色褪せてはいない。

 

倫理学』は、「人間存在の歴史的風土的構造を明らかにし、国民的存在の世界史における意義と、その当為とを考察したもの」と和辻は言う。この「人間存在の歴史的風土的構造」については、下巻の第四章第二節「人間存在の風土性」の箇所が、次のように記している。

数へ切れぬ世代の人々が、この国土によつて養はれ、この国土の開発と組織のために働らき、さうしてこの国土の土のなかへ帰つていつた。だからそこには祖先の墓があり、祖先以来耕し続けてきた田畑があり、祖先以来漸次発達してきた灌漑組織がある。それは文字通りに「父祖の国」「祖国」である。人々はそこに深い連帯感を抱かざるを得ない。

和辻にとって、「人間」とは、時間的・空間的な構造を持つ人倫的組織を形成する存在である。逆に言えば、時間も空間もそういう人倫的組織の刻印がされたものであって、その固有の歴史性や風土性を無視した時間や空間は抽象の結果でしかない。その歴史性について、和辻は次のように言う。

歴史とは、国家を形成する統一的な人間共同体が、超国家的場面において自己の統一を自覚するとともに、この統一的な共同存在の独特な個性を規定してゐる過去的内容のうちの主要なるものを、共同の知識として何人も参与し得る客観的公共的な形に表現したものである。

そして、風土性については、

国土の成立は一様に広がつてゐる土地の或る一部分に一定の固有な位置、固有な性格、固有な意義を与へるのである。それによつてこの土地は、他の土地と勝手に取りかへることのできぬもの、この位置、この形態において一定の人間存在と不可分の連関を有するもの、従つてこの人間存在に属せざる人間をそこから排除するもの、として公共的に承認される。このやうな土地の限定が人間のうちに醸し出す構造こそ、風土性の問題にほかならないのである。

と述べる。和辻哲郎は、我々人間の日常的生の表現と了解の仕方を媒介として「和辻倫理学」と呼ばれる独特の体系的な倫理学を打ち立てた。

 

和辻にとって、この「生」とは、根源的に「間柄」において存在することを意味し、この「間柄」とは、自己・他者・世間の多義性を持つ「人間」の根本理法とされた。生の根源的な実践的行為連関は、表現と了解において順次発展していく運動である。和辻倫理学の試みは、こうした人間存在の根本構造でありながら、それゆえにむしろ対自化されることのなかったこの過程を主題化した。

 

先ず、「存在」という漢字表現が元来どのような意味を持っていたのかを明らかにするために、「存」と「在」の個々の意義を抽出することから始め、「存」という語の本来の意義が主体的自己把持、忘失に対する把持すなわち生存であり、「在」が主体がある場所に位置していることを指すということが確認される。そこから、「存在」とは、「間柄」としての主体の自己把持、すなわち人間存在の本義たることが立論される(こうした和辻の方法を戸坂潤は『日本イデオロギー論』(岩波書店)所収の論文で痛烈に批判したが、果たしてその批判が正鵠を射た批判であるかは怪しい面もある)。

 

この主体の位置する「場」とは、家族でもあれば、村などの世間であることもあり、このような場所の階層的関係が、人間存在の根本理法が実現されている諸段階に対応すると考えるのが、和辻倫理学の特徴の一つである。この場所の階層的関係が、二人結合としての「夫婦」にはじまり、三人結合としての「親子」、そして順次その公共性の度合いが高まるという構成をとるので、家族、親族、地縁共同体、経済組織、文化共同体、国家といった人倫的組織の階層において全体が捉えられることになる。

 

和辻において「家族」は、二人共同としての「夫婦」、三人共同としての「親子」、同胞共同としての「兄弟姉妹」から構成される。「家」とは、屋根と壁により外部と画された内部空間であって、この内部空間は人々に休息をもたらす場でもある。また、竃をめぐる広い空間と睡眠のための狭い空間に仕切られた生活は、食物を調理してそれをともに食うことにおいて、生命と家政そして財の再生産を共同する場としての人倫的組織の最も基礎的単位を形成する。この意味で、生命と財の再生産を共同する場としての「家」こそ、根本的なものである。

 

この発想に、異性愛を当然の前提として、一夫一婦制を基礎とした近代的家族像と、封建的家族像とが結合した「家族主義」の臭いを嗅ぎ取ることは容易い。この論理は、家族共同体から国家共同体への連続性が見られる和辻倫理学に一貫している論理である。

 

もちろん、こうした「家族主義」は自明なことではなく、伝統的なものとして捉えられがちな家族共同体の描像は、実際は伝統的なそれと乖離した、明治後期から大正期に形成されてきた小ブルジョアのモデル・ファミリーを投影したものでしかない可能性もあろう。その意味では、先述の小堀桂一郎が『和辻哲郎と昭和の悲劇』において批判していた「大正教養主義」に典型的に現れる「大正的なもの」を、和辻哲郎自身が体現していないとも限らない。

 

この「大正的なもの」とは、『近代日本の批評Ⅲ-明治・大正篇』(講談社)所収の蓮實重彦の論文「『大正的』言説と批評」で述べられているように、言葉や概念に対する分析・記述を欠いた抽象的イメージが納得の風土の只中で流通するだけで人々がわかったつもりになっている状況を指して抽出された概念である。蓮實重彦に言わせると、生田長江に典型的に見られるこの「大正的なもの」から辛うじて逃れているごく少数の者として、柳田國男折口信夫の2人を取り上げていたはず。この蓮實の言に従うならば、むしろ和辻哲郎こそが「大正的なもの」の圏域に収まっていることになるはずだが、そうなると、ともに「大正教養主義」に否定的なはずの小堀と蓮實は、真逆の評価を下すことになろうか。

 

生命と財の再生産を共同する場としての「家」こそが根本的なものであると考え、「家族共同体」と、その同心円的延長の果てとしての「国家共同体」という連続性の相で把握する和辻倫理学に対して、その範型に収まりがつきにくい存在を対置することで、それがどのような変容を被るか、あるいは些かも影響を受けることがないのかを考えることを通じて、新しい社会存在論ないしは倫理が展望できるかもしれない。そう、素人ながら思うわけだが、どうだろうか。和辻が我が国の文化・伝統に精通しているのなら、『倫理学』の想定する家族共同体が一面的に過ぎることぐらいは承知していたはず。

 

例えば、我が国には、外国に比べて豊富な男色文化の歴史があるわけだし、それを記録した文書も数多く残っている。特に、武士道華やかなりし戦国の世では、男色が武士の中では当然の慣わしでもあったとされる。織田信長森蘭丸武田信玄高坂弾正の関係は恋文まで残されているほどである。最近でも、伊達政宗が、他の男に浮気したとして拗ねてしまった者に宛てた弁明の書も見つかったくらいである。江戸期の文治政治になった頃にも若衆宿があって、吉原の女郎よりも高い銭を出さねならないほど人気で、あまりの混乱ぶりに困り果てた幕府は、若衆宿を禁止してしまったというのだから驚きだ。旗本奴や町奴など不良の集まりである愚連隊は、男子が化粧をして奇抜な衣装を身にまといながら暴れ回わり、夜は夜で互いの肉体を貪り合う関係が見られ、風紀紊乱を諌めたい幕府を悩ました。山本常朝『葉隠』にも、荒々しい若武者へのほとんど同性愛的とも言える視線を感じることができるだろう。

 

寛永年間に著されたとされる『田夫物語』には、想いを潜める男との逢瀬を神仏に祈り、願いが成就しなかったとなると、自らの腕を切ったり、足の腿を突き破る者まで現れたとの記載がある。「何も、そこまですることはねぇだろう」というのが、軽重浮薄な者としての率直な感想なのだが、男が男を取り合ういざこざが絶えなかったという時代だったことを考えると、別に驚くようなことではないのかもしれない。

 

この『田夫物語』は、男が「男色派」と「女色派」に分かれて喧嘩を始めたので、中立を自称する著者が間に入って双方の言い分を聞くという体裁をとっている。それぞれの言い分が面白いのだが、中でも興味をひくのは、「男色派」を「華奢で風流な伊達者」とし、女色派を「田夫者」として表現していることである。だから著者は、どうやら「隠れ男色派」なのかと思いきや、さにあらず。男性同士の性交または性交類似行為の経験はなかったらしい。おそらく、行動するにまでは至らなかったが、精神的に男色に憧れているというだけだったのだろう。

 

この物語の最後には、「女色派」がついに伝家の宝刀を抜く。曰く、我が国は、伊邪那岐伊邪那美天の浮橋で交わった以後、男女間の恋愛が連綿と続いてきたのであり、この男女間の恋仲から発展してきた男女関係のあり方や異性・同性との違いに対する考え方が、子孫を持ち家を保ち夫婦のありようをなした人間の基本的な姿を築き支えてきたと言うのである。こうした人間の存在形態の変遷において、なおそこに一貫性を認めることのできるのは、「女色派」の方である。それに比べて、「男色派」は子孫を残せず、また家を保つこともままならぬではないか。大雑把に略すと、そういう反論である。

 

この反論を滑稽であるとして一笑に付しておしまいにするのが、おそらく現代人であろうと想像するが、そう馬鹿にはできない主張である。というのも、人類の政治的・経済的・社会的諸制度やそれに関連する諸々の思想は、ことごとく前世代から次世代への「継承」という時間的連続性を陰に陽に前提することで成り立っている。すなわち、「繁殖」を大前提としたものである。とすれば、「女色派」の言い分に理がありそうに思えてしまう。

 

日本社会において長く見られた男色文化を和辻倫理学の中に位置づけるとすれば、ともすれば、それが和辻倫理学体系を自壊させるだけの「トロイの木馬」となるのかどうか、それはわからない。はっきりしていることは、和辻倫理学における人倫としての共同体の思考が想定している存在は、共同体的規範の関係性に難なく収まる者であって、少なくとも、そこから否応でも逸脱してしまう者の存在に視線が向いていないということである。しかし逆に、この「逸脱」の側面に注視した社会存在論ないしは倫理学を構想するとすればどうだろうか。

 

千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)は、ドゥルーズの思考に含まれるベルグソン的契機とヒューム的契機を取り出し、両者を下手に融合・和解させるのではなく、敢えて対立点を際立たせた上で、後者の持つ思想的可能性を押し広げた社会存在論ないしは倫理学として読むことも許されるだろう。

 

そうすれば、その後に書かれた『意味のない無意味』(河出書房新社)所収のいくつかの論文を、前著で示された思考の方向性をさらに過激に追求した思考の足跡として捉えることができそうである。その極北として、本書所収の論文「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない-倒錯の強い定義」が挙げられるだろう。和辻哲郎倫理学、あるいは和辻と一見無関係に見えるものの、通底する親和性を一面で持つ廣松渉の哲学からは一顧だにされなかったであろう「ギャル男」やその極限形態とも言える「センターGUY」といった存在に肯定的な眼差しを向けたその思考は、それが表象文化論的批評として書かれたものであっても、一つ倫理の構想として読まれる余地がある。

 

共同体規範からして、あまり好ましいものではない、もしくは注目されるに値する存在ではない「どうでもいい存在」として泡やあぶくのように浮遊する彼らの、ともすれば欲望に任せて軽々と規範を逸脱しかねない危なっかしさを肯定する筆致の先に肯定されるのは、"airheadness"=「頭空っぽ性」である。この概念は、「ギャル男」の先鋭的な形態であった「センターGUY」の「頭空っぽ性」と、盛っ髪に現れたエアー感の美学的ないしは表象文化論的な位置づけとして提起された概念だが、同時に社会的に意味づけられた行為の是非弁別とは別の次元での過剰性の表現であり、身体的なレベルにおける、ほとんどナンセンスなまでの自己享楽を肯定する概念として読むこともできなくはない。

 

さらに、極端に解釈すれば、規格化された行為の範疇に収まらないある種の過剰性が、距離や方向感覚を失って散乱するある種の「暴力性」を肯定的に捉えたものでもある。虚実の狭間をどうでもよくたむろしているギャル男のギザギザでスカスカの「盛り」を、関係へのアタッチメント・デタッチメント双方を遊動する「社交性」は、和辻が見つめる共同体的紐帯とは別種のものである。

 

「記号的乱交semiotic promiscruity」であるコラージュとしての「センターGUY」の身体と、「勃起した性器」であると同時に、それを否認的に排除しつつ欲望の理由づけすら遮断するイメージで捉えられたギザギザでスカスカの「盛り」は、「繁殖」とは異質な「絶滅」を経ているかのような「頭空っぽ性airheadness」に即して構想される多孔化された共同性のアレゴリーであると言う。ここに定位して思弁される倫理学があるとするならば、和辻倫理学との間に対決線が引かれることは必至であろう。その意味でも、今のところ「主著」にあたる『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』よりも思想的可能性を押し拡げてくれるものに違いないし、少なくとも僕は、こちらの方が圧倒的なお気に入りなのである。

現代のマルコポーロ

ライプニッツは『クラークとの往復書簡』において、空間・時間の存在に関して絶対説を採るニュートン(その代弁者サミュエル・クラーク)に対し、関係説の立場を擁護した。この関係説によると、時間は同時に存在しない諸点の順序であり、一方の他方の比率である。

 

空間は、同時に存在し相互作用によって接続されている諸点の順序である。空間は、全ての点とそれらの関係の集合に過ぎない。位置とは、異なる既存の点に対して異なる瞬間に同じ点が存在するという関係であり、いくつかの特定の点との共存関係は完全に一致する。ある点から別の点への関係を変更すると、点はその位置を変更する。

 

運動とは、時間経過に伴う位置の変化である。空間と時間についての同様の定義は、ライプニッツの数学の哲学に関する論文「数学の形而上学的原理」で与えられており、そこでは、時間と空間の大きさとしての持続時間と延長の概念が追加されている。

 

米国の科学哲学者ジョン・アーマンは、その著書World enough and space-time, MIT Press.において、次のように指摘している。

1680年代から、ライプニッツが、特に空間と時間、そして十分に根拠づけられた現象について言及している箇所がある。しかし、その箇所は、観念論のパズルを複雑にしているように見えるだけである。このパズルは、ライプニッツモナド、十分に根拠づけられた現象、そして「観念」・「中立」・「想像」と様々にラベル付けされたものからなる第三の領域からなる三分法を利用し始める1690年代には、以前のような文言が姿を消し、それによって、このパズルは氷解した。ライプニッツの後の著作では、空間と時間は、この第三の領域に限定されている。

アーマンの解釈によれば、ライプニッツの空間と時間の概念は、形而上学的レベルにも現象的レベルの観察と測定にも対応していないが、ライプニッツが観念と呼んでいる中間レベルの知識に対応しており、それを理論レベルと呼んでいる。存在論において、ライプニッツは「モナドジー」を提示したわけだが、このモナドは、この理論レベルにおける幾何学的点に対応すると同時に、実体的形相を持つ物体の形而上学的統一でもある。

 

バリエーションは多岐に及ぶものの、ライプニッツの関係説の路線を継承する現代の著名な理論物理学者は数多く存在する。カルロ・ロヴェッリやジュリアン・バーバーは、その代表であろう。ロヴェッリやバーバーの路線は広く知れ渡っている(といっても、ロヴェッリとバーバーでは、時間と変化の関係について根本から違った見方をしているように思われるが)。彼らの著作は漸く、その一般向け著作のいくつが日本語に訳されているが(但し、訳文を一瞥すると、非常にまずい訳である。特に、バーバーのThe End of Timeの日本語訳はかなりヤバい。バーバーの書く英文はかなり平易な表現が用いられているので、原書で読んだ方がよいだろう)、やや立ち入って知りたければ、本人の論文を読むに越したことはないが、より理解する助けにぬるのが、ロヴェッリの場合だと、哲学者バス・ファン=フラーセンによる“Rovelli's World”という論文である(一部に、テンソル解析の知識が必要な箇所があるが、テンソル解析すら知らずして一般相対論を理解することなど不可能だから、その時点で、時空の存在論について云々すること自体が論外。多くの教科書があるのだから、それを読む作業を惜しまないこと)。

 

同じ広義の関係説に位置付けられると言っても、ロヴェッリやバーバーとは一線を画した異なる路線を追求する者も存在する。中でも、ロバート・フィンケルシュタイン、ラファエル・ソーキンの影響を深く受けているフォッティーニ・マルコポーロ女史の議論が、僕のような物理学にも哲学にも不案内な素人から見ても、物理学的な観点、哲学的な観点双方から極めて興味深い主張を展開している。

 

ユダヤ系物理学者の傾向なのだろうか、(名前からして、明らかにそうであろう)フィンケルシュタインという人もその例に漏れず、極めて抽象的な思考をする物理学者として著名である(ユダヤ系ではないが、極度に抽象的な思考をする物理学者が、カトリックの信徒で神学に関する論文やら、ジェレミー・バターフィールドなどの科学哲学者との共著論文やら、数多の論文を書いている英国のクリストファー・アイシャムである。確か、アイシャムの著作は量子力学の教科書の邦訳があったかと思う。といっても、並みの教科書のような「使用手引書」ではなく、基礎的な概念についての哲学的問題意識に貫かれた教科書)。

 

フィンケルシュタインによると、世界は量子過程のネットワークによって表され、チェッカーボード・トポロジーで構造を形成する唯一の基本的な接続要素としてテトラッドから構築されている。ここでは、チェッカーボードは、時空多様体の基礎となる構造を構成し、この離散構造は、素粒子の変位と相互作用が起こる「アリーナ」と見なすことができる。チェッカーボードで個別のステップを進めると、新たなテトラッドが現れ、ネットワーク内での伝播が発生する。フィンケルシュタインが展開した、こうしたモナドの概念から始まる過程の存在論は、空間と時間の構造についてのライプニッツの考えを想起させるだろう。それゆえ、フィンケルスタインの議論は、空間と時間の存在を前提とはしていない。

 

離散的な事象集合の要素間の因果関係を考慮したスピンネットワークのいくつかのバリエーションを扱うソーキンとマルコポーロは、連続的空間の根底には離散的実在があるという仮説を立てる。この「実在」とは、因果集合のことである。ソーキンによると、それはリーマンの離散的な多様体概念にその沿革を持つ。この場合、そのメトリック関係の原理は、多様体自体の概念に既に含まれている。ソーキンがインターネット上に公開している論文 “Causal sets: Discrete Gravity”によると、

因果集合は、時空の深層構造であることを意味する。時空は十分に小さなスケールでは存在しなくなり、それは連続体が粗視化された巨視的な近似にすぎず、順序付けられた離散構造に取って代わられる。

因果集合を仮定するソーキンの議論は、自然のすべての知識が実験データを観察する一連の操作に還元されるという、科学の操作主義的見解に対する反応でもあったようだ。ソーキンは、因果集合は実在の基盤であり、我々の部分的な実験とは無関係に存在し、因果集合の要素は実在であり、長さと時間の概念はいくつかの基本的な実体間の関係から生じるという存在論的見解を主張した。

 

リーマンによって提案された空間の離散構造は、4次元の平坦な時空の幾何学が基礎となる点集合と点間の順序関係からのみ構成できる。実は、科学哲学者ハンス・ライヘンバッハが既に、この点についてAxiomatization of the theory of relativityにおいて指摘していたのが興味深い。ライヘンバッハの科学哲学観や頻度説に立つ確率解釈や、有名な「共通原因原理Principle of Common Cause」などについては留保抜きで賛同するわけには行かないが、総じてみた場合、やはりライヘンバッハという人は偉大な哲学者だったというべきだろう。

 

フィンケルシュタインが提示した因果集合のモデルは、その数学的構造として、因果集合は局所的有限順序集合、つまりは、以下の3つの特性を持つ2値先行関係<を持つ集合C<である。

①推移性:(∀x、y、z∈C<)(x < y <z⇒x<z)、

②非反射性(∀x∈C)(x≮x)、

③局所的有限性:(∀x、z∈C<)(card {y∈C<| x <y <z} <∞ )

である。離散因果集合を連続時空と比較するために、ソーキンは、

(i)離散内の点間の因果関係が連続で保持され、

(ii)埋め込まれた点が均一に分散されるように埋め込みを導入する。

これらの条件が満たされる場合、それぞれが1点に対応するように連続多様体を分解する。このようにして、リーマンの基準が満たされるという方向である。

 

マルコポーロは、プランク・スケールでの基礎となる実在は離散的であり、因果関係を備えたスピンネットワークによって説明できるという仮説を立てる。これは、ループ量子重力の意味での一般相対性理論正準量子化に適している。

 

ループ量子重力は、スピンネットワークと呼ばれる基本的な状態の観点から空間の量子幾何学の正確な微視的記述を提供している。動力学は、スピンネットワークに沿った局所的な運動の振幅に関して定義された経路積分で表される。マルコポーロによると、この構造は、プランク・スケールでは幾何学が離散的であることを示唆している。それに加えて、理論は背景独立的であり、既存の時空は存在しない。

 

ループ量子重力の主な問題の1つは、低エネルギー限界の問題である。低エネルギーでの基本的な組み合わせの動力学から、古典的な時空と一般相対性理論の動力学を出現させる必要がある。

 

マルコポーロは、時空の微視的構造のモデルと共通するいくつかの特徴を以下の通りに要約した。

プランクスケールに近いエネルギーでは、宇宙は離散的である。

②因果関係は存続する。宇宙は、ソーキンらによって提示された因果集合の規則によって記述される。

量子論は、このレベルでもまだ有効である。

④モデルは、背景独立的である必要がある。

 

Science and ultimate reality: quantum theory, cosmology and complexity,Cambridge.U.P.所収の論文“Planck-scale models of the universe”や、その他“Quantum causal histories”において、マルコポーロは、量子論的因果関係の歴史を構築するために、因果集合を次の形で導入する。

①因果集合。これは部分的に順序付けられた集合で、局所的に有限な集合{C、

②因果的過去:{r | r <p、r∈C<}≡P(p)、

③因果的未来:{q | p <q、q∈C<}≡F(p)

である。P(p)のすべての事象がaに関係している場合、集合aはpの過去である。また、F(p)のすべての事象がbに関係している場合、集合bはpの未来である。aがbの過去であり、bがaの未来である場合、2つの集合a y bは完全なペアである。

 

量子因果集合とは、基本系を表す因果集合の各事象にヒルベルト空間を付加したものである。量子因果歴史において、量子因果集合の進展は、完全なペアのヒルベルト空間間のユニタリーな作用素によって実装される。量子スピンネットワークは、局所的移動を繰り返す、あるスピンネットワークの別のスピンネットワークへの移動である。ヒルベルト空間と因果関係の演算子を使用した量子因果歴史では、基礎となる因果集合を厳密に保つ。存在論的に背景独立的な量子時空は、操作によって結合された開放系の集合で構成されており、ユニタリーな進展は完全なペアに対してのみ生じる。

 

ピンフォーム・モデルには、重要な特性がある。それは、背景独立的な量子重力モデルだということである。それは、空間的・時間的な幾何学を参照せずに、基礎となるプランクスケールの量子系から始まる。幾何学は、部分系とその関係を使用することによって定義されるというわけだ(量子幾何学と重力の両方が低エネルギーの連続限界として現れる)。空間的および時間的距離は、系内の観測者によって内部的に定義される。マルコポーロは、

理論は、その基本的な量と概念が特定の時空メトリックの存在を前提としない場合、それは背景独立的である。

であると言う。

 

物理的世界の理解における人間の知識の3つのレベルは、

(レベル①)距離、間隔、質量、事象、力など、我々の感覚と知覚によって与えられる物理量についての知識。

(レベル②)理論モデル。これは、測定値とそれらの間の数値関係によって与えられるメトリックの性質の一般化の理論モデル。

(レベル③)我々の意識によって与えられた物理的世界の存在論的特性を表す基本的な概念についての知識。

 

問題は、この3つのレベルの間を接続する必要があるということである。量子力学では、(レベル②)の微視的物理学の理論モデルは、対応則によって、(レベル①)の観測可能量に関連づけられている。(レベル③)を(レベル②)に接続する必要があることを受け入れる場合、当面の問いは、理論の構築を管理するルールの正当性について問うことである。例えば、量子力学相対性理論の統合は、それらが属する(レベル②)で行う必要があるが、基礎となる存在論的概念は、(レベル③)から取得する必要がある。

 

しかし、次の疑問を提起することができるだろう。(レベル①)では、原始的概念から派生した概念が見つかる。「新科学哲学」のハンソンらによって主張される観察の理論負荷性のテーゼを是とするならば、単純な観察が原始的であるかどうかを判断することはほとんど不可能である。なぜなら、それは我々がそれを定義するために使用した実験のタイプに依存するからである。

 

では、空間と時間の概念は原始的概念か、それとも派生概念か。絶対説では、空間は粒子が移動するコンテナのようなものであり、時間は運動とは独立な実体である。したがって、空間と時間は原始的な概念であり、粒子がない場合にも考えることができる。対して関係説では、空間と時間はいくつかの基本的な対象の関係の集合で構成されている。この場合に、派生的に空間と時間の概念が導き出される。つまり、マルコポーロが説明するように、時空幾何学は派生概念である。これは、空間的および時間的距離が系内の観測者によって内部的に定義されるという関係性から来る結論である。

 

マルコポーロの言う時空の形式的構造の構築は、以下の手順で進行する。まず我々は、それらの間で作用し、関係のネットワークを生み出す一連の基本的な対象を考えることができる。(レベル②)で対象を物理的世界の要素と見なすと、対象はどこにも存在しない。具体的に言うと、単純なネットワークとして3次元の立方格子を利用する。ネットワークは、三角形、準周期的、またはランダム格子など、様々な構造で取見られる。ユークリッド幾何学との接続を確立するために簡便を期して、相互作用する点の無限集合を取るとしよう。すべての関係の集合は、次のように定義できる2次元の格子を形成する。

(1)2次元の正方格子の点を通過するのは、2つの異なる主直線のみである(直交直線)。

(2)直交していない2つの主直線は、すべての点が共通または分離している(平行直線)。

これらの2つの定理から、デカルト(離散)座標と、ヒルベルトの仮説を適用できるユークリッド空間を定義できる(但し、連続性の公理を除く)。

 

この2次元空間の構造は、3次元立方格子に簡単に一般化できる。空間の構造に関するこれらの仮定は(レベル②)で与えられているが、それは我々の感覚によって(レベル①)で説明されている物理的空間の特性に対応している。時空の物理的構造を、基本的な実体間の相互関係のネットワークに置き換えたのである。

 

この時空の性質を見ていくと、(レベル②)の物理的特性が物質的対象の形而上学的原理で解釈される存在論的レベル(レベル③)があると仮定する。因果集合モデルでは、ソーキンは、物理理論が3つの段階を経過することを前提としていた。特定の「物質」または物質のタイプが、特徴的な現象のグループに現れる第1段階である。そして、物質が現象に関連して明確に識別されるのが、第2段階である。この物質を特徴づける包括的な動力学が理解されるのが第3段階である。

 

ソーキンは、操作主義の存在論とは反対に、因果集合の要素は実在であると確信している。したがって、ソーキンのモデルには、現象、物理理論、実在の3つのレベルの知識がある。因果スピンフォーム・モデルと量子論的因果歴史のモデルでは、宇宙の波動関数が存在せず、因果集合のみがある。そして、ヒルベルト空間が因果集合の事象に関連づけられている。

 

これらの2つのモデルは、(レベル①)と(レベル②)に関しては、モデルと非常に似ているが、存在論の解釈が欠けている。時空の解釈に関する認識論的前提では、(レベル②)の理論モデルの存在論的背景として(レベル③)を仮定していた。時空の性質の関係理論では、実体の概念は、モナドや事象など基本的な独立した一意の対象に帰属する必要がある。そして、それらの相互作用は時空の構造をもたらす一連の関係を生じさせる。

 

では、これらの基本的な対象の性質についていくつかの仮説を立てることは可能だろうか?ソーキンの因果集合や、マルコポーロ量子論的因果歴史などは、時空の関係説に基づく理論の、(レベル③)の存在論的背景と見なすことができる。しかし、それでも全体像は完全には把握されない。というのも、因果関係の原理が、古典力学または特殊相対性理論または一般相対性理論に適用される場合、決定論的法則に従うことになっているからである。

 

特定の初期条件下での力学系が与えられると、同じ力が常に同じ効果を生み出す。因果関係の原理を量子効果で実装したい場合は、量子力学の仮定で要求されるように、生成の原因・効果に確率論の法則を導入する必要がある。(レベル③)に戻ると、物質的対象の存在論は、因果関係の原理だけでなく、確率論の法則によっても特徴づけられることになるからである。

マルクスとサルトル

哲学における人間社会の本質と構造についての議論は、発生論的な議論よりも存立構造論が中心に据えられる傾向にあるように見受けられるが、この点に関して、廣松渉『役割理論の再構築について』は、社会生成の基底に関して役割行動論に基づく発生論的な論理を展開しているところに特徴がある、哲学書としては比較的珍しい部類に属するのではないだろうか。

 

その役割行動について、廣松は、次のように定義する。 

<他者によって期待されている行動の-解発的に現前する当事者に対向しての-呼応的遂行>、この間主体的に共役的な関係性における実践

 

そして、役割行動の発生場面における模倣行動の持つ重大な意義を主張し、「役割交替」・「役割期待」・「役割取得」といった、役割存在の構成要素の形成機制を分析して行くのだが、廣松によると、力動的な場において<「期待され」-「期待する」>関係の経験の集積により、徐々に役割行動における当事主体・当事他者の共役的存在が形成されて行くというのである。

役割行動という所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体的他者による期待の対自化、それに即応した”この”身体の協応的応接の進展とそこにおける”あの”身体的他者に対するディスポジショナルな反応様態の対他的予期、一般化していえば、所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体と”この”身体とのあいだでの協応のディスポジショナルな相補的・共役的な期待の「対他的ー対自的」な現成、このような力動的場において「他己」と「自己」とが「対自的・対他的」に現識される。

 

ある役割を「期待する」第三者を内面化させ、「期待される」行動を自らのものとして身につけて振舞う。こうした役割行動は、一定の社会的交通を持った相対的に自律した共同体が形成されるところにおいては、一様に見られるみられる現象であろう。人間が一定の社会を形成する動物である限り、何らかの役割期待に基づいた振る舞いをしており、それが社会的・歴史的に媒介された「社会的行為」を理解する基礎となる。

 

『役割存在論の再構築のために』より前の、若い時分に出された『世界の共同主観的存在構造』を構成する論文の一つ「共同主観性の存在論的基礎」において、この認識に至る思考の萌芽を見つけることができるかもしれない。役柄扮枝と対他存在を論じる文脈において、廣松は、サルトル存在と無』の議論を取り上げ、これを批判的に検討している。

 

その前に一言。『存在と無』より前に書かれた『自我の超越』によると、現象学において意識は志向性として定義されるのであるから、「超越論的自我」というようなものはありないということになっている。

 

他方、フッサールによると、現象学的還元によって見出された超越論的主観性は、一切の客観的存在と真理に対して、その存在と認識の根拠を与えるものであるとされる。世界その他の志向的相関者は、認識論的主観の意識能作を超越して自存するものではない。したがって、世界の超越は、世界を究極的に構成する自我との相関における「超越」に他ならず、この意味において、自我は存在する一切の超越に対する絶対的な前提としての極となる。

 

ところが、サルトルに言わせると、世界のみならず自我すらも徹底的に還元の対象になるのだから、「経験的自我」と区別される「超越論的自我」なる概念は、むしろ還元の不徹底をこそ意味するものに他ならなかった。自我は、世界及びその他の対象と同じく、すべて意識の志向的対象の一つであって、「世界に向けて己を炸裂させ」ねばならない。したがって、意識それ自体は何ものでもなく、正に「白紙状態une table rase」ないしは素裸の「無」という他なくなる。

 

かくして現象学的還元は、サルトルにおいては以後、「無化作用néantisation」という意義を付与されることになる。すべてであるところの充実したものとしての、後のサルトルのいう「即自存在l'être en-soi」と、存在から抜け出た無としての「対自存在l'être-pour-soi」であるところの意識。ここにおいては、「超越論的自我」なる概念が成立する余地はない。

 

だがフッサールは、「自然的態度」において思念されたものをすべて「ノエマ的意味」に還元し、自然的に思念されていた他者も同じく還元の対象とされる。『デカルト省察』では、超越論的主観性による他者構成の機制を解明していくことになるが、ここにおいて言われる「他者」とは、世界の側の対象となる被構成体としての他者を意味するものではなく、「ともに」世界を構成する「他者」、「等しく世界をともに構成する他者」という「間接的」現前の仕方でしか現象しないところの「他者」である。とはいえ、「他者」経験を発生論的場面に即しつつ、「対化」という「受動的総合」の一形式による「類比化的統覚」が決定的役割を果たす「自己移入論」を展開する『デカルト省察』が、「他者」構成論において成功しているとは思われない。

 

サルトルの対自・対他存在としての<私>という見方の基礎には、対象についての定立的意識は、同時に自己に関する非定立的自己意識を伴うという考えが背景にある。サルトルによると、<私>は他者によってしか<私>たることはできない。「私は、私であるところのものではないje ne suis pas ce que je suis.」とは、対自存在と対他存在とに引き裂かれた存在としての<私>の存在の脆さを示している。<私>とは、この「存在論的不安定」において存在しているものというわけだ。

 

この「存在論的不安定」を必然的に受け入れざるをえない事態を、サルトルは「自己欺瞞la mauvais foi」と表現している。

 

「私としてあるところのもの」ではないというあり方において、私は、「あるところのものである」ようにせしめること、あるいは、「あるところのもの」というあり方において、「あるところのもの」でないようにせしめること。

 

我々の日常生活は、こうした「自己欺瞞」というあり方に彩られている。我々が、自己にとって何ものかであることに脅え、かつ、その我々が他者によって何ものかにせしめられていることに慄いている。

 

この「自己欺瞞」の運動を成立させているのが、「演技jeu」である。カルティエ・ラタンのカフェのギャルソンの颯爽とした振る舞いは、彼がまさにカフェのギャルソンを演じていることを示している。誰であろうと役柄を扮し、<私>を我有化させるわけであるが、こうした自らの「演技」や仮面を現実と見なし、仮象を実在とみなす態度を、サルトルは「クソ真面目な精神 l'esprit de sérieux」と表現する。なぜか?その理由は、仮象の背後の<無>に耐え切れず、<実在>の安らぎに逃げ場を求めるからだ、とサルトルは言う。

 

このような「存在論的不安定」から抜け出す道はあるのか?サルトルは、逆説的に、ジュネやボードレールの生き方にそのヒントを見つける。ジュネやボードレールの奇怪な振る舞いは、「クソ真面目な精神」を脱し、役柄を自ら率先して演じる。しかし、単に演じるのではない。仮象はどこまでいっても仮象でしかなく、演技や仮面をも現実とはみなさないからだ。

 

どこにもあるようで、どこにもない<私>。この<私>は、あの「本来的な自己」でもなく、もはや<実在>などに安らぎの場を求められないことを積極的に受け入れている。

 

他者の眼差しが<私>を「石化」させる、つまり即自存在へと変じさせてしまうとサルトルは言う。ここで意識されているのは、他者によって見られているがままの被視存在としての私ではなく、役割存在としての自己であり、ここに言う自己とは、レアールな存在としての自己ではなく、未在という仕方で「現前」している存在である。

 

泥棒であって泥棒を演じるのではなく、泥棒に敢えてなるということ。『存在と無』は、冗長に過ぎる面がないではないが、個別の実存のあり方についての微細な点まで逃さぬ記述には見るべき点があって面白い。

 

廣松は、マルクス主義との接点が希薄であった時期に書かれた『存在と無』を引用することはあっても(とはいえ、後年に書かれた文章には、サルトルはほとんど姿を消すことになるが)、マルクス主義と急接近した時期に書かれた『弁証法的理性批判』を始め、『唯物論と革命』や『共産主義者と平和』には言及しない。せいぜい、その『弁証法的理性批判』の序文にあたる『方法の問題』の一部分、すなわち、マルクス主義を現代において「乗り越え不可能な哲学」と記している箇所を、マルクス主義を宣揚する際に「飾り」として引用しているに過ぎない。

 

ということから推し量られることは、廣松は『弁証法的理性批判』を評価していなかったのではないかということである。それもそのはず。サルトルの哲学は、どこをどう読んでも、マルクス主義とは単に異なるどころか、水と油の関係であるというぐらい互いに相容れない哲学・思想ということを感じ取っていたからに違いない。そう、「実存主義マルクス主義」など、形容矛盾も甚だしい代物なのである。

 

しかもサルトル自身、マルクス主義を「現代において乗り越え不可能な哲学である」と称揚し、『弁証法的理性批判』まで著している割には、フッサールを読んだ程度にはマルクスを読んでいなかったのではないかとの疑念をつい抱いてしまいたくなるほど、その表現に引っ掛かりが感じられるし、『弁証法的理性批判』も、読みようによっては、反マルクス主義的な著作に映ってしまう。『唯物論と革命』を一瞥しても、マルクス主義からの積極的引用は、ヨシフ・スターリンの『弁証法唯物論史的唯物論』くらいなものではなかったか。

 

要は、「そもそも、マルクスに大して関心持ってねーだろ?」と。そりゃ、レジスタンスに身を投じたマルクス主義者を見て感化されたのだろうけど、サルトルは傍観者でしかなかった。それが影響したのか、後年は過激であることが自己目的化したようなアナキストになっちまった。マルクス主義の文献について読みこなしていた形跡もなく、せいぜい、エンゲルスの自然弁証法の酷さを見るに見かねて、「ここらでいっちょ、かましたろうか」というノリで書いたようにしか思えないものがチラホラ散見される。

 

『方法の問題』で、人間は所与の条件において歴史を形成していくことに触れる際、この表現が、マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』において既に述べられていることの再定式化であることにすら気づいている気配がない。『共産主義者と平和』の第三部において経済理論に触れる場面でも、マルクス自身の経済理論を新マルサス主義の理論と勘違いしていた(改版されたものは、この部分が削除されているらしい)。さらに、レーニントロツキールクセンブルググラムシルカーチのようなマルクス主義者の数多の議論に言及することもない。ラファルグ、ジョレス、マルクーゼ、ブロッホアドルノアルチュセールについてもほとんど言及されていない。

 

メルロー・ポンティは、サルトルは経済と搾取の問題には関心を示さず、専ら抑圧に関心があったと証言しているが、正鵠を射た発言だと思われる。事実、マルクスの場合、人間は階級の形で集合的に捉えられる傾向にあるのに対して、サルトルでは、『弁証法的理性批判』においてすら、人間は集団に全体化された個々の主体の集まりでしかなかった。存在論的自由に関するサルトルの理解は、自由は必然性への洞察であるというヘーゲルマルクスの両者が共有する理解とは両立しない。

 

この存在論的自由に関するサルトルの態度は、『存在と無』と『弁証法的理性批判』の間で根本的に変化はないように思われる。いずれも「奴隷も自由である」という、マルクスなら決して発しなかったであろう言葉まで残されている。

 

しかも、上部構造-下部構造の二分法をサルトルは採用しない。代わりに、実践と実践的不活性としての制度との二分法を採用している。しかし、このような実践の理解は、サルトルからすればルカーチを経由して得られたものだと言うのかもしれないが、サルトルの実践の理解を細かく見ていくと、ほとんどシュッツやフッサールの「生活世界Lebenswelt」に近づいていくのではないだろうか。もちろん、この理解は、マルクスとは程遠いもののように思われる。

常識と保守

「常識」とは何かと問う時、そこに現れた文字だけを頼りにして意味を探ると、「常人でも持っているような知識」となりそうであるが、これだと、"common sense"ではなく"common knowledge"になってしまう。そうすると、"sense"には「知識」という意味はないのではという疑問が生じてしまう。"sense"とは知識ではなく、物事を識別する能力の方を指すのではないかと。だとすれば、「常識」とは、「常人でも持っている、物事を識別する能力」という意味であって、「知識」であることを含意するような理解は誤りであるということになりそうである。

 

哲学・思想史を顧みると、この「常識」という概念の由来はアリストテレス『霊魂論』第二巻・第六章にあるkoinê aisthêsisにあるという通説を踏まえるならば、目や耳あるいは鼻などの五官は、それぞれ個別の感覚として分析的に捉えることは可能ではあるものの、人間の身体全体の中では統一されている。個別的で異質な感覚からの情報をまとめて一つのものとして平衡をとりながら調整することで知覚する能力を、アリストテレスはkoinê aisthêsisと呼んだ。

 

そのkoinê aisthêsisに語源を持つ”common sense”とは、したがって、この平衡のとれた調整機能としての意味合いを持つものとして、とりわけ近世以降の英国において理解されてきた。この"common sense"に欠けることは、人格の統一すら危ぶまれるようになるという意味で、人間をして人間たらしめる重要な要素に欠けることであると考えられるようになった。

 

特に、17世紀から18世紀あたりの英国の思想史を紐解くならば、この「常識」が極めて重要な要素として意味を持ち始めたことが理解できる。というのも、スコットランドでは、この「常識」とはかけ離れた極端な主観主義や観念論が幅を利かすようになったからである。

 

ロックは、「熱さ」や「冷たさ」あるいは「甘さ」や「辛さ」といった「第二性質」を単なる観念や印象に分類し、バークレーは、それをさらに進めて、外延や形態などの「第一性質」までをも観念か精神のもたらすものとしてみなすに至った。ヒュームは、さらにバークレーの「精神」まで否定したので、この世にあるものは観念と印象だけという、極めて奇妙でかつ不自然なことになってしまったと受け取られた。サミュエル・ジョンソンは、バークレーと会った帰り際に、次のような嫌味を残したと伝えられている。

バークレー僧正、帰らないでください。あなたが私の目の前からいなくなることは、ご自身の説によれば、あなたご自身が消滅してしまうことになりましょう。私は、あなたにこの世から消えてもらいたくないのです。

こうした観念論の隆盛に対して最も強い反動が見られたのが、ヒュームの出身地でもあるスコットランドであった。いわゆる「スコットランド常識学派」の誕生である。18世紀の「スコットランド常識学派」の中心人物であるトマス・リードに言わせると、ヒュームの観念論は、最終的には帰謬法(背理法)になるというのである。帰謬法すなわちreductio ad absurdumとは、アリストテレス論理学に由来するものであるが、ある命題を真であると仮定して推論していくと矛盾した結論に至らざるをえないことを示すことによって初めに仮定された命題が偽であることを論証する方法である(仮定された命題が真であることを証明する方法ではない)。

 

ヒュームに対する常識学派からの反論は、ヒュームの説を推し進めていくと、この宇宙の中には観念と印象だけしかなくなり、実体を備えたものは何もなくなってしまう。人間の場合も、頭の中に浮かぶ観念や印象はあっても、その人の頭もなければ肉体も実在しないことになる。これは馬鹿げた話なので、観念論の結論自体が観念論の出発点が間違っていることを証明しているのであると。この反論が成功しているか否かは疑問符がつくので、いずれが正しいかをこの場で結論づけるわけにはいかない。

 

19世紀になると、Anglo-HegelianないしNeo-Hegelianと呼ばれる、妙なことを言い出す連中が出てきたが、中でもオックスフォードのフランシス・ブラッドレイの『現象と実在Appearance and Reality』がその代表である。これに対し、ムーアが「観念論論駁」において、「外界の存在」を否定する議論が論理矛盾に陥らざるを得ないことを示すことを通じて、「常識」を擁護する主張を展開した(僕は、ムーアの「観念論論駁」は読んだことがあるが、ブラッドレイの著作は読んだことがない)。面白いことに、「常識」への懐疑論も、「常識」の擁護論も、英国においては保守主義の弁証に帰結したというのが興味深い。

 

ヒュームの懐疑論は、「方法としての懐疑」を通じて、寧ろ「常識」の土壌である「伝統」を擁護する立論としても読めるし、「常識」の擁護をしたムーアも、これまで直接的な保守主義的言説を残しているわけではないにせよ、やはり基本は、英国の伝統的な保守主義を下支えする機能を果たしている。ウィトゲンシュタインの後期に見られる哲学も、もちろん政治的な保守思想を喧伝するものではないにせよ、保守主義の社会理論の哲学的根拠を提供するものとして読む者がいてもおかしくはない。

 

日本のみならず、諸外国でも、「保守主義」ということで首尾一貫した思想的特徴が定義できるわけではないとする議論が一般的である。中には、「保守主義」でも、「社会学保守主義」、「審美的保守主義」、「性向的保守主義」、「方法的保守主義」と多元的に「保守主義」に接近しながら、「政治的保守主義」に共通する特徴を取り出そうとする試みもあるが、これと言って説得的な主張にはお目にかからない。寧ろ単純に、「常識」が、人間の社会が維持されていくため「安全装置」のように機能しているという厳然たる事実を直視することの方が重要である。

 

「常識」の効用は頗る大きいと言わねばならない。但し要注意なのは、この「常識」にどこまでの内包を読み取るかということである。もちろん、それ自体が「常識」に依拠する側面もあるので、厳格に解するならば、「論点先取」の構造になっていること否めない。この「常識」を敢えて懐疑にさらす営みも哲学ならば、同時に「常識」の効用の重要性を指摘する営みも哲学であると考えると、哲学の一部門である倫理学は、一見して前者の営みのように見えるものの、実は後者の営みであることもある。

 

いかなる国家形態も、功の側面と罪の側面を持っている。ネイション・ステイトも、その例外ではない。ネイション・ステイトにおけるネイション=国民とマスとしての大衆は同義ではないが、国民の政治参加の権利が強調されていくに連れ、「国民化」と「大衆化」の動きは、区別がつきがたく連動していった。mass mobilizationが日常化し、いざ戦争になると「総力戦」化せざるを得ないものだから、その結末は悲惨なものになる。

 

国民を戦争に駆り立てるmass mobilizationを、その政治運動に利用したのが左翼である。否、左翼とは、mass mobilizationの中で生まれ出てきた「鬼子」と言った方が正確かもしれない。前衛党を自称する政党が、影響力を及ぼしている労働組合の組合員を動員してデモをしている姿は、日本の都市に住む者なら見たことがあるだろう。殊更に「敵」を拵え、それへの憎悪を徒に掻き立て、声高に独り善がりの珍説・妄説を絶唱し、思想を一色に染め上げようとする態度には、「保守的精神」は見られない。中には、「保守」を自称しながら、在日コリアンに対する排外的な言動を繰り返している連中もいるが、これも「保守的精神」とは些かの共通性がない。

 

確かに、左翼は概して頭が悪い。しかし、その左翼を単に攻撃していれば保守であるかのような錯覚に憑りつかれている者たちは、その「頭の悪さ」が伝染して、同じようなことをしている「ミイラ取り」になってしまっていることを失念している。

 

「論客」として三流・四流の能無しが徒党を組んで保守「論壇」を荒らし回り、頭の悪い新興宗教の信者を動員した集会で奇声を上げて講演料稼ぎに精を出しながら、日本という国を蝕もうとしている姿は醜悪である。中韓には毅然とした対応をと息巻きながら(実際は、中韓に毅然とした対応をしているどころか、理不尽な目に遭っていても「事なかれ主義」で、何もしていない)、米国には毅然として屈従することを恥としない。

 

「保守」の質の劣化は、左派の質の劣化と歩調を合わせてきた。もはや「保守」の名に値しない夜郎自大な妄想狂の戯言が誌面に踊り出し、悪質なデマ雑誌まで氾濫する有様。伝統と乖離した、古典の教養すら皆無の斉東野人や米国の御殿女中のような連中が、悪質なデマゴーグと化している。

 

福田恆存は、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会)第五巻所収の「私の保守主義観」という短い文章で次のように述べている。

私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思ふからだ。

保守とは、首尾一貫したイデオロギーでもなければ、そのもとに結集した者の集まりでもない。したがって、「保守主義」ないし「保守主義者」という言葉は、文脈次第で他に適切な用語が見当たらない場合に「とりあえず」に宛がわれた符牒にすぎず、本来ならば、「保守主義」という用語は相応しくない。ただ、辛うじて言えることは、「保守的精神」ないしは「保守的態度」のみである。それが、イデオロギー的仮構と化した「保守主義」となるならば、それはもはや保守とは遠い隔たった場所にある。

 

制度的な圧迫や、知的力技を誇示することで相手の沈黙と屈服を強いる狡猾な言葉に対する抵抗の精神の働きにしか保守は宿らない。平衡感覚としての「常識」に還ることである。「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するやうに考へてゐるところにある」(小林秀雄「常識」)。小林秀雄本居宣長』(新潮社)の一節にはこうある。

心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るやうに促される。心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさへ言へよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言ふ時、ひそかに考へてゐたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせてゐれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのづから意識される、さういふ生活感情の本性への見通しなのである。・・・この誠実な思想家は、言はば、自分の身丈に、しつくり合つた思想しか、決して語らなかつた。その思想は、知的に構成されてはゐるが、又、生活感情に染められた文体であしか表現できぬものでもあつた。この困難は、彼によく意識されてゐた。

 

吉本隆明と批評

昭和史を紐解くと、昭和60(1985)年は色々な面で一つのメルクマールの年であったことがわかる。贔屓にしている阪神タイガースが21年ぶりに優勝した年で、地元西宮はもとより、神戸や大阪の街も優勝フィーバーで沸きに沸き上がったという。ミナミの街では、ケンタッキー・フライドチキンの店頭にあったカーネル・サンダース人形が道頓堀川に投げ入れられたり、それに飽き足らないお調子者は、自らあのドブ川に身投げしたりもしたというのだから、一時の渋谷のハロウィーンのバカ騒ぎのような状態だったのだろう。

 

しかし、よくよく見てみると、羽田発伊丹行の日本航空123便群馬県御巣鷹山に墜落し、乗客乗員524人中520人が亡くなられた、我が国航空史上最大で最悪の事故が起きた年でもある。更に、菓子メーカー江崎グリコの江崎勝久社長(当時)が自宅に押し入った者らに拉致監禁されるという事件を皮切りに、江崎グリコや森永製菓やハウス食品などのメーカーへの恐喝事件へと発展した警察庁広域指定第114号事件(いわゆる「グリコ森永事件」)の犯人とされる「かい人21面相」を称する者が「終結宣言」を出した年である。中曽根康弘内閣の下で進められてきた国鉄民営化もこの年。その中曽根康弘内閣総理大臣として靖国神社に「公式参拝」して政治問題化したのも、この年である。アンドロポプ、チェルネンコの相次ぐ急死の後に、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが、「ペレストロイカ」や「グラスノスチ」に着手した年でもあった。

 

そんなこんなで、日本社会にとって激動の年であった昭和60(1985)年であったわけたが、この年が後々の日本社会の行方にまで決定的な影響を及ぼしたと言えるのは、何よりも、「プラザ合意」があったからである。この「プラザ合意」こそが、日本の将来を決定づけた。米国ニューヨークのプラザホテルに集まった先進5か国の蔵相によるドル高是正の合意と各国の協調介入による急激な円高によって、「円高不況」と呼ばれる輸出産業の不調に牽引された不況を経験した後、量的緩和内需拡大策に舵を切った日本は、資金が株式や不動産の投機に集中することで、空前の「バブル景気」を招き寄せることになった。

 

バブル崩壊」とその後始末の失敗が尾を引き、日本経済は沈滞する一途を辿り続けている。この一連の日本社会の変質が、日本人の精神史にも与えた影響は頗る大きい。それを見越していたのかはわからないが、NHKの番組が大きく取り上げていたようだ。「戦後50年」を迎えた1995年に放送された主要番組を調べてみると、NHKは「戦後50年、そのとき日本は」という一年がかりのスペシャル番組を放送していたことがわかる。その最終集に、この「プラザ合意」を持ってきたところからも、当時のNHKの番組プロデューサーがまともな感覚を持っていたことがわかる。ところが、この事件に対する批評の側からの反応が極めて鈍感な言葉での対応しかなかったところを見ると、既に、我が国の批評はリアリティを喪失していたのだということが伺われるわかる。江藤淳福田恆存など、明らかに経済に疎くとも、さすが良質な文芸批評家だけあって、おそらく肌感覚で理解できていたのだろうか、それとわかるような言説を残していたが、その他の批評家となると、壊滅的であった。

 

この時期に、馬脚を現した思想家の一人として、吉本隆明の名を挙げることができるように思われる。吉本隆明に対してシンパシーを抱ける点は、吉本も阪神タイガースのファンであったという点だけである。吉本を紹介する言葉として何かにつけて使用される「接頭辞」に、「戦後最大の思想家」やら「戦後思想の巨人」という表現がある。平成の御代に生まれた者からすれば、吉本隆明が「スター」であった時代など知るわけがないので、昭和10年代生まれの祖父から話を聞いて、ようやく吉本隆明が脚光を浴びていた時代の雰囲気を想像することができるというもの。新左翼の残党、特に全共闘運動という名の「革命ごっこ」に精出さしていた連中から頗る評判の悪い小熊英二『<民主>と<愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)に書かれている通り、いわゆる「60年安保」では、ある種の「反米愛国主義」が根っこに広がっていて、そうした文脈で吉本のテクストも消費されていたが、「70年安保」ともなると、その傾向は鳴りを潜め、経済成長の果実を享受してきた戦後生まれの世代が、繁栄状態で守られているとの安心感に支えられながら、その貧弱な想像力で捏ねくり回した観念の遊戯を弄ぶようになる。より「過激になること」を自己目的化させていきながら、チンケなヒロイズムに自己陶酔していく哀れな姿へと変わった。『三島由紀夫対東大全共闘』に登場するボンクラ東大生の言説が典型だろう。吉本の言説も、それに歩調を合わせながら、より過激化して行ったものと思われる。

 

吉本隆明全集撰』(大和書房)に収められている「政治思想」と題される著書に、「擬制の終焉」という文章がある。全共闘の学生集団が、東大法学部の丸山真男の研究室に押し入って荒らしまわった際、多勢に無勢を承知で応戦する意地を見せるのではなく、単に「日本の軍国主義者やナチスですらやらなかった暴挙」という捨て台詞を残しただけだった。同じく、東大法学部教授であった川島武宜は、踏み荒らされた研究室の床に落ちていた我妻栄の肖像(川島は、敬愛する我妻栄の肖像を研究室の壁に掲げていたらしい)を拾いながら涙を流した後、大学を去った。対して、団藤重光は、「大衆団交」という名の吊し上げの場で、取り囲む数百人の学生相手に討論に応じて、一向に動じなかった。理学部教授だった小平邦彦も、向かってくる学生をことごとく蹴散らした。丸山や川島は、いわゆる「進歩的文化人」として全共闘学生の目の敵にされていた手前、特に研究室が徹底的に荒らされたのかもしれないが、このエピソードは、「リベラル」とされる知識人の欺瞞を象徴するものと言えるかもしれない。

 

ただ、丸山真男の「ヘタレ」ぶりに対してチクりと嫌みの一言を述べる程度なら理解できるが、「擬制の終焉」等を読むと、どうもその域を越えていて、丸山真男を嫌悪する僕ような者ですら、何故そこまで丸山に対して憎悪の情が沸き起こるのかが全く理解できなかった。続けざまに、「言いがかり」と言ってもよい表現で以って丸山を攻撃する者が、何故に「戦後最大の思想家」などと形容されているのか、更に理解できなくなった。丸山真男にも吉本隆明にも否定的であった日本共産党の見解を見ても、吉本のことを黒田寛一・梅本克己・藤本進治・廣松渉を並べて「日本型トロツキスト反革命的哲学」とまとめるなど、完全にピンボケで参考にならない。

 

その疑問を解消しようと、『共同幻想論』(河出書房)やら、80年代の消費社会を肯定的に捉えた『マス・イメージ論』(筑摩書房)や『ハイ・イメージ論』(同)などにも目を通してみたが、やはりよくわからない。『共同幻想論』は、『古事記』と『遠野物語』の二つのテクストに定位して国家論をぶつという構想自体は面白い試みだと思うが、論証は杜撰のきわみ。80年代消費社会を肯定する著作も、日本政治史についての基本的な認識さえあれば犯さないであろう誤りがあちこちに見られ、とても現代日本社会の分析に使用できるものではなかった。

 

「読解不能」という浅田彰の感想も宜なるかな。とはいえ浅田は、英国の左翼ジャーナリズム雑誌であるNew Left Reviewに寄稿した文章で、日本の左翼の特異性を日本共産党の歴史を基軸にして論じる中で、一応吉本隆明も紹介している。当然知っておくべき左翼の歴史の略史にもなっているこの文章は、浅田彰のまとめの手際の良さがわかるものになっており、英文自体も、日本の大学教師の書く英語の割にはマシなものだった(日本人研究者の英文は、同じ論文なのに、物凄く平易な表現で書かれているかと思えば、急に物凄く気負った表現が登場するなど、まるでエッセイが突然に擬古文調の論文に変わるようなぎこちなさが目立つことがしばしばである)。一度、吉本の文章を英語に翻訳して掲載してみると面白いだろう。意味の読み取れる英文になるのか幾分怪しい気もするが、仮に有意味な文章を読んだとして、おそらく読者の多くは、「これのどこが左翼なのだろうか?」と訝しがるに違いない。吉本隆明には、自分の言葉が外国語に翻訳されるとするなら、それがどう理解され受けとめられるのだろうかということの意識は希薄であったのだろう。

 

経済決定論に与することを拒絶する吉本隆明は、『共同幻想論』でもそうであったように、「下部構造」を意図的に無視して分析する。吉本隆明の経済学の理解が古典派経済学のレベルを超えるものではなかった貧弱なものであるために(いわゆる定式化された「マルクス経済学」なるものは、別に古典派を乗り越えるものではなく、デイヴィッド・リカードの経済学の亜流でしかなかった)、そのなるもわからないではない。とはいえ、イメージ論で社会を分析できるほどに、社会は単純ではない。

 

顧みると、80年代の「消費社会」の出現に小躍りした連中は、眼前に溢れる「商品」に欣喜雀躍とするばかりで、そうした消費社会を生んだ日本の「市民社会」の構造分析に手をつけているようには思えなかった。80年代とは、それまで徐々に緩やかな下降線をたどってきた労働時間が再び上昇に転じ、史上稀に見る長時間労働が見られ、そのために過労死が激増し、ノイローゼ患者が増え、家庭崩壊・校内暴力の激増に現れる教育現場の崩壊など、陰に陽に、資本・賃労働関係の諸矛盾が一挙に周辺部分に顕在化した時代でもあった。それは、1970年代において、資本・賃労働関係の大規模な構造変動過程の中で、潜在的に醸成されてきたものの顕在化だった。しかも、生産部門での変容だけでなく、政治部門においても「支配構造」の再編成が起こっていた時期だった。

 

そうした市民社会の構造とともにあった日本経済の未曾有の「繁栄」の象徴として、例えば、「金満日本」を反映した海外旅行者の急増の一方で、海外に楽しげに出かけるその労働者がポックリ過労死するなんてことも激増した。企業別労働組合の体制内化に一段と拍車がかかり、企業社会の中での権威的支配秩序の形成によって醸成された諸矛盾が、そうした資本・賃労働関係と一見無関係に見える周辺部分において、歪な形で社会現象となって顕在化したのも、この時期であった。こうした社会構造の変動を高度成長期に実現した日本型市民社会の分析として提出した研究はまったくないわけではないが、旧来型左翼は、その「日本型」の力点を日本社会の前近代性ないし半封建制といった未成熟性に求める議論が主流で、明らかにポイントを外していた。

 

吉本のこの時期の文章は、経済成長の果実として可処分所得が増えたために、選択消費の幅が広がり、結果的に労働者の望む社会になったのだとして消費社会を肯定するものへと変質していった。浅田彰柄谷行人も全然見えてなかったようで、同様に寝惚けたことを語っていた。90年代になると、小沢一郎のグループが自民党を割って出て宮沢喜一内閣が崩壊し、日本新党率いる細川護熙を首班とする非自民連立政権が誕生した時にも、小沢一郎評価を語り、『わが「転向」』(文藝春秋)を出し、その他雑誌「諸君!」に「消費資本主義」を謳歌する文章を寄稿していた。小沢の『日本改造計画』(講談社)は、後の橋本龍太郎政権下での行政改革小泉純一郎政権下での構造改革路線の先駆けであって、そうすると、吉本隆明新自由主義路線を称揚していたということになる。

 

不思議なことに、意味不明な「戦後最大の思想家」という「接頭辞」に対して、アカデミズムの「権威」を叩いてきた吉本隆明が違和感を表明した形跡はない。「まんざらでもない」と思っていたのだろうか。「偉大なる首領」だの「親愛なる指導者」だのいった接頭辞のようで、吉本についてまわる「戦後最大の思想家」という陳腐な「接頭辞」が、かえって吉本隆明の思想の程度を伺いしめるものとなっているのが何とも皮肉である。いずれにせよ、「戦後最大の思想家」だの「戦後思想の巨人」だのと吉本隆明を崇め奉る者たちへの軽蔑を、僕は抱き続けてきた。数々の論争を罵倒の連呼で凌ぎながら論壇での地歩を確固たるものとしてきた吉本隆明の歩みは、後世「論壇政治」の中でのヘゲモニー奪取過程の悪しき先例として語り継がれることはあれど、肝心の吉本が遺したものはといえば、歴史に残る思想家の業績としては、見るべきものはほとんどない。なぜ、吉本隆明の言説が一定の領域で機能し受容され、あげくは「戦後最大の思想家」だのといった実態とかけはなれた虚像が形づくられ祭り上げられていったのか。後の世に「墜ちた偶像としての吉本隆明」として俎上に乗せられることになるだろう。

 

吉本隆明は、新左翼運動に影響を与えた人物とされているが、吉本の遺した文章を孫の世代よりも更に若い世代に属する僕が読む限り、吉本は「反体制」を貫くどころか、露骨なまでに「体制」の擁護者であり、一見「反体制」を装いつつも、「反体制」運動が盛り上がりかけると、水をさして早急な火消しにまわる役割に担ってきたと言ってもよい。埴谷雄高との論争(いわゆる「コム・デ・ギャルソン論争」という下らない論争)の、いわば「場外戦」として大岡昇平に噛みついた際も、大岡・埴谷の共著『二つの同時代史』(岩波書店)における大岡の発言に怒り狂って、「裁判闘争も辞さず」との穏やかならざる対応をしていた。具体的な言説をあげつらえばキリがないので、ここでは吉本の論争での態度が強圧的であったことを思い返そう。先ほどの埴谷雄高との論争は、大岡昇平とのそれを除くならば幾分か穏やかなものであるが、例えば花田清輝との論争にしても、谷沢永一との論争にしても、論理は支離滅裂で一貫して相手を罵倒・中傷する子供の喧嘩の態度をとり続けた。『情況への発言』(洋泉社)を読めば、「知の三馬鹿」と罵られた蓮實重彦柄谷行人浅田彰に対する罵倒も、それを裏づける論拠をさして挙げられていなかった。

 

谷沢永一の他人に対する批判・罵倒も凄まじいものがあったが、こと吉本隆明との論争に関しては、谷沢の主張に理があることは、この論争の過程を調べた者ならば理解できるだろう。と同時に、浦西和彦の求めに対して理不尽な言動で返した吉本の非常識ぶりと権力欲剥き出しの態度に閉口する思いをするに違いない。丸山真男に対する態度に見られるアカデミズムの権威を非難する吉本その人自身も権威主義的なパーソナリティの最たるものであることを証明する結果に終わったのが、谷沢永一との論争の顛末であった。

 

言行不一致・支離滅裂な人物は、左派やリベラルと称する者、あるいは少なくとも保守派とみられていない者に目立つように思われるが、どうなのだろう。米国政治の歴史に関する著作を読むと、「自由とデモクラシー」国を自認する合衆国の歴代大統領は、建国初期からロクでもない人間も相当数量産していたことがわかる。ネイティブ・アメリカンを大量虐殺し、アフリカから連行した者を奴隷として酷使し、メキシコからテキサスやカリフィルニアなどを強奪していながら、表向きは自由主義・民主主義を言祝ぐ言説を垂れ流していた。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンも、奴隷売買に関わっていたし、奴隷にしていた女性を強姦して妊娠させるなどしていた男である。

 

一見美しい言葉で人間の平等を謳いながら、その実、奴隷制度の擁護者や人種差別主義者であった大統領がどれほどいたか。第一次世界大戦後、「国際協調」外交を呼び掛け、国際連盟を提唱したウッドロウ・ウィルソンは強烈な人種差別主義者であり、パリ講和会議の際に、人種差別撤廃を主張する日本の提案を拒絶した者でもある。歴代大統領の中で最も残忍な大統領であるバラク・オバマの二枚舌について語り出したらキリがない。オバマ政権で国務長官を務めたヒラリー・クリントンも、オバマと同様に殺人に興じることに喜びを見出す人物だった。女中との間にできた子には教育を授けず、正妻との間の子どもと差別的に取り扱っていたくせに、一方で人間の解放を叫ぶという、分裂した精神の持ち主であったカール・マルクスを彷彿とさせる。

 

社会主義者を自認していたフランソワ・ミッテランは、実生活ではフランス貴族のような豪奢な生活を謳歌していた「シャンパ社会主義者」であった。対して、私生活では極めて質素で慎ましやかな生活を送り、精神的な障害を持っていた娘に対しても、他の子どもと分け隔てなく愛情を注いでいた人物は、左翼から嫌われているシャルル・ド・ゴールである。資本主義を嫌うポーズをとりながら、恋人との邸宅での生活を送るために金にがめつかったスーザン・ソンタグも、「キャビア左翼」の一人に数えていいだろう。人種差別主義者で、陰険な臆病者だったフランクリン・ルーズベルトハリー・トルーマンを称賛する癖に、勇敢でかつ合衆国に貢献したバランス感覚に優れたドワイト・アイゼンハワーを批判する米国のリベラルもどうかしている。コンスタントに間違い続けたジャン・ポール・サルトルを持てはやす一方で、退屈ではあるが常識的なことを述べていたレーモン・アロンが正当に評価されない奇妙な状況もある。

 

批評家と称する者たちが、自身を売り込むことに傾注し、「論壇政治」に明け暮れてなんとかヘゲモニーを確保せんと、時には「重鎮」に媚を売り、時には敢えて相手と反対の立場に立って目立とうして小賢しい小細工をしながら「身を立て」ていくことは何も吉本に始まったわけではなく、昔から存在した。「論壇」自体が消滅した今の日本で、そういった事態が出来することはないのかと言えば、甚だ疑問だ。メディアは商品として何かを無理やりにでも担ぎ出す。何度も繰り返されていることだ。中には優れた批評がゴミの山から発見されることもある。だからこそ、「これだ!」と見つけた時の喜びは大きくもなる。

 

ただ気になるのは、現在の批評家とされる者の経歴が、極めて画一的であるということである。大学から禄をもらうサラリーマンとして収入を得ながら、いわば「余興」として書いたと思われる批評が大半になってしまった。「余興」とはいっても、あまりに暇なために他にやることがなく「役にも立たない」教養を腹いっぱいためこんだ大教養人が「余興」として書いたものとは違う。一方で、筆一本で勝負していた「文士」は、それだけでは飯が食えなくなったのか、ほぼ皆無となり、そうした事情もあって、殺気立った批評がほとんど存在しなくなった。この点だけは、己の筆一本で戦っていた吉本隆明は偉かったのかもしれない。

 

批評の読者層が薄くなっていって久しい。が同時に、批評家の劣化も著しいものであった。かつての西欧社会が良かったとは全く思わないが、階級社会が顕著であった頃の批評は今でも読んでいて面白いものが多い。悔しいかな、今日の日本と比べて書き手の教養の差が歴然としているのである。余裕のある暇人が単に暇で暇で仕方がないので、小賢しい立身出世のための知識ではなく、それ自身では直接「役に立たない」教養を腹に貯めていたからこそ得られた批評だったのだろう。

憲法制定権力と一般意志

1789年の「人および市民の諸権利の宣言(いわゆる「フランス人権宣言」)」16条に明記されている「権利保障」と「権力分立」の概念は、近代立憲主義の下での憲法を支える主要な構成原理である。この「フランス人権宣言」は、英国の1215年の「マグナ・カルタ(大憲章)」と身分制議会に象徴される中世立憲主義の伝統と、連続していると同時に断絶している。英国の「市民革命」期には、この「マグナ・カルタ」が議会の反王権闘争のシンボル的機能を持ち、名誉革命の成果として定められた1689年の「権利章典」では、「人一般」ではなく「聖俗の貴族および庶民」が「彼らの古来の権利と自由」を持つという構成が採られており、我々が学校教育で教わる内容から来る「権利章典」のイメージとは大きく隔たっている。教科書からもたらされるイメージは、今日のリベラル・デモクラシーの「起源」の一つとしての「権利章典」という色に染め上げられたイメージでしかないようである。

 

名誉革命」の成果を弁護する目的で書かれたジョン・ロックの『統治二論』または『国政二論』と訳されているTwo Treatises of Governmentは、この「名誉革命」の意義をロック独自の、しかも、やや強引な解釈を加えることによって、「古来の身分的自由」ではなく「自然状態」の想定を前提とする「諸個人」から出発した体系と位置づけた。ここに、中世立憲主義との切断を見ることができる。テキストを、「敢えて」読み替えることによって、将来世界へ多大な影響を及ぼすことがありうるということを示す例の一つかもしれない。

 

ホッブズの『リヴァイアサン』は、第二部「コモンウェルスについて」の前に、第一部「人間について」を置き、更にその第一部における人間の考察を、第一章「感覚について」から始めている。「社会」を与件とするのではなく、感覚で捉えることの可能な人間諸個人を出発点として社会を考えたのであるが、ホッブズの体系は、諸個人の生存を第一義において国家=リヴァイアサンと諸個人との二極構造を前面に出す体系である。

 

対して、ロックの体系では、諸個人を最優先にするために諸個人の生命・自由・財産を包括するpropertyの保全のために、「自然状態」で手にしていた「自然権」を一部放棄して、「市民社会」ないしは「政治社会」に移行して「政治権力」を創設し、信託(trust)を受けた公権力が寄託者に対して政治責任を負うという近代統治原理の骨格をなす考えが打ち出された。すなわち、「諸個人のproperty保全を目的とする諸個人の同意による統治権力の設定」というロックの説明は、一方で信託目的に適合するよう権力を規制する身分制的分権とは異なる「権力分立」原理と、他方で信託目的違反の場合の最終的責任追及手段としての抵抗権論に結びついていく。実態としては中世立憲主義への復古の形式をとった「革命」を、「敢えて」読み替えによることによって「伝統」との切断を図ったというわけである。

 

英国の事情と違って、フランスでは、初めから「身分的自由」ではない「人」一般の権利としての「人権」が宣言され、身分制三部会ではなく、一院制の「国民議会」が設立される。中世立憲主義において「国王といえども、神と法の下にある」と説かれたのは、王権への権力集中が一元化せず、ローマ教皇を頂点とする位階秩序や封建諸侯あるいは自治都市などが存在し、各々の内部での分散的権力行使が重畳的になっていたことから、結果的に王権の権力行使が実態として制限されていたことの裏返しの表現である。絶対王政とは、まさにそのような分権的重畳的権力を王権に一元化するための模索であったが、結局は多元的身分制秩序が社会編成原理として機能していたがゆえに、権力の集中化が阻まれていた。

 

対して、近代市民革命とりわけフランスの「大革命」は、領有制土地所有と身分制的社会編成原理をともに解体することによって、社会経済と政治の双方の面における大改造をもたらした。そうすることによって、一方では諸個人が「解放」されるとともに、他方で権力の一元化を阻む機構の解体によって、「国民」単位で成立する領域国家の中央集権化が実現した。つまり、自由な諸個人とそれに対質する国家の二極構造が志向されたのが、「フランス革命」であった。それゆえ、この「大革命」では、国家と諸個人の間に介在する「中間団体」は、一方で諸個人の解放を阻むものとして、他方では権力の一元化を阻むものとして、徹底的に敵視されたのである。

 

憲法学の権威で、フランス憲法史にも精通する樋口陽一は、『憲法(第三版)』(創文社)において、次のように述べている。

一方で個人=自由、他方で国家=権力という二極構造図式がこうして成立するが、それはとりもなおさず、近代憲法学の二つの大きな主題である「人権」と「主権」とのあいだの、密接な相互連関と緊張関係が成立するということでもある。すなわち、第一に、身分制原理を否定する国民主権によってはじめて、個人が解放され、人一般の権利としての人権を語るための論理的前提がもたらされた、という相互連関である。第二に、それまで諸個人の解放を妨げていたと同時に保護の楯の役目をもしていた身分制が否定されることによって、いわば裸の個人が集権的な国家と向き合わなければならなくなったことから生ずる、主権と人権のあいだの緊張関係である。

さらに続けて、

一七八九年の『人および市民の諸権利の宣言』は、その一六条の定式化にのっとっていえば、権利保障と権力分立という二つの場面それ自体で、個人対国家の二極構造を、絶対王制下よりもはるかに強くおしすすめた。人一般の権利という観念、および、権力分立機構の中心におかれた議会の国民代表性は、両方あいまって、身分制的諸特権と身分代表の観念にとどめを刺し、近代国民国家の構造を定礎させたからである。このような基礎のうえに成立する近代国民国家の主権性(国家の主権と、国家における国民の主権の二要素をあわせて)は、権力の正統性根拠を君主から国民に転換したということと同時に、-むしろ、それ以前に-、集権的国家と諸個人の二極構造のかたちで個人を析出した-近代憲法の想定する個人対国家の二極構造が権力への制約のとりでを弱めた、とする見地からすると、個人を析出してしまった-、という点で、最も深い意味を持っている。

樋口陽一は、近代国家の二つのモデルとして、「ルソー=ジャコバン型」ないし「ルソー=一般意志モデル」と、「トクヴィル多元主義モデル」を提示している。前者は1789年の「人および市民の諸権利の宣言」に「結社の自由」が明記されていないことに象徴されているように(日本国憲法では、第21条に結社の自由が明記されている)、「中間団体」=結社を諸個人への抑圧機能を持つ集団と捉え、これを原理的に否定する、国家と諸個人だけからなる社会モデルであり、その徹底形態が「ジャコバン主義」である。国民主権という正統性根拠と結びついた国家権力だけを正統なものとみなす考えである。ドイツの公法学カール・シュミットは『憲法理論』において、「フランス革命の偉大さ」と評価する。諸個人と集権的国家の二極構造が、多元的社会編成秩序によって阻まれていた当時のドイツでは実現しづらかったこともあって、政治的統一体としての主権国家のモデルをフランスに見たのである。

 

それに対して後者は、合衆国の伝統に見られるように、国家と諸個人の間に介在する「中間団体」の果たす肯定的役割を重視する。マディソン『ザ・フェデラリスト』は、経済生活における5つの基本的カテゴリーを列挙し、様々な利害対立を調整することこそが近代立法の主目的であると位置づけ、様々な社会的諸権力が各々の意見を背景として法が形成されるという立法過程での諸活動に見られるせめぎあいを承認し、法形成過程における各種団体やコミュニティタウンの自治を強調することで、結社の積極的役割を評価する。フランス人の外交官として合衆国を観察したトクヴィルの『アメリカン・デモクラシー』では、米国社会への辛辣な言辞が目立つ格好になっているものの、この「中間団体」の積極的役割が肯定されている。トクヴィルは、司法権の役割の重視、連邦制と分権の重要性、「中間団体」への積極的評価を表明していた。

 

樋口陽一は、近代的な「強い個人」の析出が日本社会において求められると考え、「ルソー=一般意志モデル」の方を評価する。この観点から、例えば、「八幡製鉄事件」最高裁判決への批判的論評に繋がるのである。会社法や労働法上の論点などが目白押しの事件だが、憲法上の論点となったのは、「法人の人権享有主体性」の問題であった。旧「八幡製鐡株式会社」(現「日本製鐵株式会社」)の取締役が、自由民主党に対して政治資金のための寄付に際して、その金員を会社財産から拠出した行為の是非が問われた事件である。定款所定の目的の範囲外の行為をしたとして、株主の一人が取締役に当該寄付金相当額の金銭を会社へ返納するよう要求した訴訟において、最高裁は、判決主文を導くための理由の中で、法人も権利の性質に応じて人権の享有主体たりえ、民間企業には当然に政治活動の自由があると判示した。日本国憲法の人権論の中でも、この両者の緊張関係は、先の「法人の人権享有主体性」をめぐる議論や、いわゆる「部分社会の法理」をめぐる議論において問題となり、更に統治機構論では、「代表」制論のところで、最も鮮明な形で現れる。

 

ルソーの『社会契約論』は、ホッブズやロックとともに、「社会契約説」の思想家の系譜に位置づけられる割には、なぜか「自然法」や「自然権」についての言及がほとんどないという奇妙なテキストである。第一編において叙述されている、社会契約に至るまでの筋をまとめると、以下のようになるだろう。すなわち、自然的社会と言えるものは唯一「家族」であるが、その「家族」の結合さえも一種の合意によって維持されており、この合意は自由意志を前提とするものの、その自由とは、自己のみが自己保存の手段の判定者となり、自らの主人になるという人間の本性から出てくる。力それ自体は、道徳的意味を持つ権利や義務を生み出す源泉足りえず、正当な権力に対してしか服従義務は生じない。そこで、人間の間の正当な権威は、自然に発生するのではなく、力から生じるものでもなく、合意conventionのみによって生じる。合意といっても正当な合意とそうでないものが区別され、正当な合意であるためには、人間の本性とりわけ自由に基づく必要があり、それを損なうものであってはならない。ルソーは、自由に関して、それを「外的障害の不在」として定義したホッブズとも、また「神の自然法以外の外的強制を受け入れないこと」として定義したロックとも異なり、「自己が自己を支配すること」、すなわち「自己支配」としての自由の概念をルソーは提起した。

 

しかしながら、なぜ人間が自然状態を離れて国家を形成しなければならなくなったのかという問いへの解答は、実のところ、『社会契約論』には触れらていない。辛うじて論じられているところは、『社会契約論』でなく『人間不平等起源論』である。『人間不平等起源論』には、意志の自由とともに自己を発展させる能力、すなわち自己実現の能力が人間の特質として挙げられ、この能力ゆえに、社会状態への移行が必然となるという。しかし、その論証はほとんど成功していない。人間は自然状態から離脱し人為によって悪しき社会状態を作り上げてきたが、いまさら自然状態に回帰することなど不可能であって、人為によってこの悪しき社会状態をより良い社会状態を作り上げること。しかるべき社会契約によって、各構成員の身体と財産を共同の力のすべてをあげて守り保護するような結合の一形式を見出すこと。各人がすべての人々と結びつきながらも自己自身にしか服従せずに自由であること。自然状態の人為的拘束なき自由ではなく、契約後の人為的拘束の下での自由はありうる。しかし、この自由が同じ自由であるとの保証はない。この二つの自由を調停する概念が、「一般意志」である。

 

ルソーによると、我々は身体とすべての力を共同のものとして、「一般意志」の指導の下におく。そして、各構成員を全体の不可分の一部としてひとまとめのものとして受け取る。ルソーにおける社会契約とは、各個人の全面譲渡による共同体形成の契約と言える。つまり、各人の全面的な譲渡によって、誰に対しても平等ということにより、完全な人々の結合がもたらされ、その結果として一つの精神的で集合的な共同体が生まれ、各人はこの結合から生まれた共同体の全体に対して自らを全面譲渡する。各人は、この共同体全体と契約する。この共同体全体は、各人の構成員の特殊人格とは異なる公的人格を持つ。この公的人格は、受動的には「国家」、能動的には「主権者」と呼ばれる。のみならず、共同体の各構成員も主権に参加しその不可分の一部となるときは「市民citoyen」、国家の法に服従するものとしては「臣民sujets」と呼ばれる。

 

ルソーにおいて最も基本的な権利は、確認したように、人が自らの行為を自らで決め、自己が自己を支配する自由、すなわち「自己支配」ないしは「自己統治」としての自由であった。ここから、政治社会を形成する社会契約や人為的合意においても毀損されてはならない基本的価値であることが帰結する。また、この自由に基づき、契約やその他合意が成立し、自然社会にはなかった規範と義務が発生する。契約の拘束力の根拠は、この「自己支配」ないし「自己統治」としての自由にある。それゆえ、自由の課す法のみが正当であり、そのような法に従うことこそが自由であるとの結論に至る。よって、このような自由の概念から、社会契約では共同の保存と、そのための「一般意志」への服従が合意される。結合された共同体の能動的側面が主権者として人格化され、その意志こそが「一般意志」として措定されるのである。

 

ところが、ここには重大な欠陥が潜んでいる。なぜならルソーは、社会の各構成員が不変の「一般意志」を持つとの根拠なき仮定をおいているからである。「一般意志」には法を定立する権限、すなわち立法権が帰属するとはいっても、具体的内容は全く付与されていない。ルソーも薄々認めている通り、「一般意志」に具体的内容を与え、かつそのことを各構成員に認識せしめるには、ある種の「宗教的権威」が要請されざるを得ない。見方によっては、現在の朝鮮民主主義人民共和国における「唯一思想体系」であるチュチェ思想に基づく、「首領」の領導により独裁体制を想起させもしよう。

 

日本国憲法はルソーの思想の影響を受けていると一般に解されているが、大部分は必ずしもルソーの思想の影響を大きく受けているとは言い難い。それどころか寧ろ、明白にルソーの思想と対立するところが多い。問題が顕在化するのは、その主権論においてである。「国民主権論争」で戦わされた一方の学説である杉原泰雄の特殊な学説、すなわち統治権者としての主権者概念を採るものでない限り、ルソーの諸説から日本国憲法を解するわけには到底いかないのである。

 

ここで、憲法制定権力とルソーの「一般意志」についての関係を軽く確認しておきたい。教科書的な事柄から確認しておくと、憲法制定権力は、英語でconstituent power、独語でVerfassunggebende Gewalt、仏語でpouvoir constituantといい、憲法を作る力もしくは法秩序を創造する権力という意味である。法秩序の諸原則を確定し、諸制度を確立する力であるから、芦部信喜の表現を借りれば、「政治と法の交叉点に位する」力であると言えるだろう。

 

カール・シュミットは『憲法論』において、この力を「国家の政治的実存の様式および形態に関する具体的な全体的決断をなす政治的意思である」と説明する。この憲法制定権力は法秩序そのものを創造する権力であるので、当然に一般の実定法規に服さない。だが、それが直ちに「生の実力」であることを是認することに結びつくわけではない、と芦部信喜はシュミットに異議を唱える。つまり、何ら規範的拘束を受けることなき「憲法秩序を自由に左右できる実力」としての憲法制定権力観に同意できないというのである。

 

憲法制定権力の理論は、人民主権論と分かちがたく結びついて展開されてきた。というより、憲法制定権力論を必要としたのは、近代啓蒙期に入り自然法思想が発達するのにともない、例えばルソーの国家論において、peuple(プープル=人民)が政治的単一体として、政治的存在の方法および形式に関する根本的決断を行う使命をもっているということが強調されたように、プープル主権論の確立期においてであった。しかし、ルソー自身は、憲法制定権力論を展開してはいない。のみならず、ルソーのプープル主権論は立法権と機能的に区別された憲法制定権力を認めていない。事実、ルソーの『社会契約論』で展開された民主主義的同一性原理からすれば、主権は立法権の中に吸収・解消されてしまっているからである。

 

憲法制定権力の観念を統一的に体系化したのがシエイエスである(『第三身分とは何か』。なお、芦部信喜憲法制定権力』(東京大学出版会)では、「第三階級」と訳されている)。

憲法は公権力の必要な交流およびその相互の独立を組織し、人間および市民の権利を宣言し拡張し確保することによって、公権力の制限・規制を目的とする。この公権力は、憲法によって組織され規制された権力として意思する権力(立法権)と行動する権力(執行権)に分かれる。これら権力の分立が不均衡や混乱の危険を惹起しないのは、すべての憲法がなによりもまず憲法制定権力を前提にしているからである。

②「憲法はいかなる部分においても憲法制定権力の作品である」。憲法によってつくられた権力、言い換えれば、「いかなる種類の委任された権力も、決して委任の条件を変えることはできない。いかなる方法においても通常の立法権憲法制定権力の行使に介入することはできない。立法権憲法制定権力を行使しないことは基本的な憲法原則である。

③かような憲法制定権力を持っているのは「国民=ナシオン」だけである。このナシオンの憲法制定権力は単一不可分であり、実質的にも手続的にも法的制限には服さない。

 

上記シエイエス憲法制定権力論の主張に対して、芦部は「憲法と通常の法律とを厳格に区別するアメリカ形式と、すべての国家意思の源泉をプープルに帰一せしめるルソーの実質をとって、これを新しい概念に組み立てたところに」この考えの特色を見る。もっとも、シエイエスとルソーとでは、以下の点で袂を分かつ。すなわち、シエイエス自然法の存在を認め、国家はプープルの合意によって基礎づけられるという社会契約説に賛同し、したがって憲法制定権力の主体もプープルでしかありえないという結論をとりつつも、ルソーと違って、代表制が必要であることを説く。この点で、シエイエスはプープルではなくナシオンに目を向けるようになる。つまり、憲法制定権力が通常の代表者たる立法機関と異なるreprésentants extraordinairesによって行使されなければならないという点において、ルソーのプープル主権論の本質を維持しているものの、代表制を認める点で決定的に違ってくる。シエイエスは「プープルの意思は法の性格を洗い去った赤裸々な力ではなくそれ自身が既に法」と説いているように、この点でも

主権者がみずから破ることのできない法律をみずからに課するということは政治体の性質に反する・・・。社会契約でさえプープルという団体を拘束するものではない。

とするルソーと酷似している。しかし、ルソーは、憲法制定権と憲法改正権とが同じ形式であると捉えている点で、シエイエスとは完全に異なる。プレローが言うところの、théorie du pouvoir spontané de révisionとthéorie du parallélisme des formesとの区別である。

 

では、なぜルソーにおいて、憲法制定権力と憲法改正権の区別がなされなかったのか?同義反復的表現になるが、ルソーの体系においては主権を持つプープルが全ての権力を保有するということになっている。そして立法権の創作物たる法律は、プープルの一般意志の表明として憲法とは別異に解されなかったのである。この点につき、ドイツの憲法学者ヘンケは、Die Verfassunggebende Gewalt des deutschen Volkesにおいて、「憲法制定権力と国家権力は、国民の全権すなわち国民主権の中に結合する。したがって、この二つを区別し対立的に認識することは不可能になる」と言っている。

 

他方、シュミットは、憲法制定権力を「みずからの政治的実存の様式および形態について具体的な全体的決断をなし、したがって政治的統一体の実存を全体として確定することができる実力または権威を持った政治的意思である」と規定する。かかる前提に立脚して、この決断の所産を憲法Verfassungとする一方で、この憲法の根拠に基づいて妥当し、それを前提とする個々の憲法規定の集合を憲法律Verfassungsgesetzとして区別する。憲法は、規範的正当性とか体系的完結性によって妥当するのではなく、すべての規範化の前に存在し、憲法を制定する者の実存する政治意思によって妥当するというのである。

 

しかも、シュミットにおいては、憲法制定権力の主体はプープルであることもナシオンであることも要しない。政治的実存の特定の様式は、正当化される必要もない。否、正当化することは不可能なのである。ここでジャック・デリダ『法の力』が主題化する「原-暴力」の問題系との邂逅を果たすとも言える。憲法改正権は、この憲法制定権力とは全く異なる概念として厳密に区別され、力そのものの脱人称化さえ果たされる。シュミットによって、あるいはシエイエスのように、プープルと結び付けられた憲法制定権力でも、ルソーのような主権者としてのプープルという考えが一切放棄されたと言えるだろう。

 

逆にルソーは、結局その主権者としての主体を憲法によって構成された権力の主体として措定して、そこからの逆照射によって当該上位概念である主権者を措定する仕掛けを施しているといえる。この逆照射のメカニズムを捉える機能概念として、単なる民意の集約としての「全体意志」とは区別された「一般意志」の概念が理解される。かくして、ルソーにいう「一般意志」とは、人民の「意志」が意識的であるか無意識的であるかに関係なく、何らかの民意の集約作業によって求められたり何らかの仕方で可視化されるといった類の実体概念でも何でもないことが明らかとなる。

グロティウスとストア派

ベンヤミン・シュトラウマンのHugo Grotius und die Antike. Römisches Recht und römische Ethik im frühneuzeitlichen Naturrecht (Baden-Baden)は、フーゴ―・グロティウスの著作の中でも、主に『捕獲法論De jure praedae commentarius』と『戦争と平和の法De jure belli ac pacis』などを扱っている。

 

グロティウスは、公海の法的位置づけをめぐる論争相手との議論において、盛んに古典を法源とする立論をしているのだが、著者シュトラウマンは、その立論がグロティウスの主張の全体にどのように機能しているのかについて論じている。国際公法の法制史を知る上で、有益な著作であることは間違いない。

 

そもそも、なぜグロティウスが公海や領海などについて自然法論に基づく根拠づけが必要と考えたかというと、その背景に、オランダとスペイン(ポルトガルも含めてもいいだろう)が17世紀に入って利害対立が深刻化したことが挙げられるからである。スペインとポルトガルは15世紀半ばから海洋権益を独占するために、ローマ教皇の教書や条約や先占などを論拠とした。ところが、海洋進出がスペインなどより遅れたオランダは、1602年に東インド会社を「先兵」として海洋進出を拡大させていく。この文脈の中で『捕獲法論』が著された。

 

グロティウスが参照した古典のテキストは、キケロである。有名な『バルブス弁護Pro Balbo』や『法律についてDe legibus』や『善と悪の究極についてDe finibus (bonorum et malorum)』を引用しながら、自然法が神の意志とは独立した理性の命令としての規範であることが確認される。各国の慣習法で流通している財産秩序と自然的財産秩序が区別され、公海は後者の性質を帯びている。オランダ東インド会社ポルトガルとの争いについては、各国の慣習法に現れた実定法に基づく処理はできないと論じた。

 

本書で特に面白いのは、自然法国際法を区分けし、自然法が自明な諸原理からアプリオリに導出できるものであるのに対し、後者は実定法上の概念から経験的に導出されるとするグロティウスの定式化がrhetoric上の演繹法帰納法に由来していると論定するところかもしれない。あとは、ストア派の人間観との関係を論じる場面であろうか。

 

グロティスのアプリオリな議論の基盤となっている人間観は、ストア派のoikeiosis(親近性)・appetitus societastis(社交欲求)に支えられる人間観である。キケロの『善と悪の究極について』からは、ストア派ではoikeiosisは自己保存欲求という第一段階から自然に一致したものを選び取るhonestum(徳)を備えた第二段階への移行が重要であり、この考えがグロティスの議論を突き動かしているのではないか、とシュトラウマンは論じていく。

 

自然状態における正義の概念が論じられる箇所は、prima naturaeという生活必需品に倫理学的・自然法的重要性を認め、これを正義論に組み入れ、ストア派のhonestumを他人の財産の侵害禁止として再構成し、アリストテレスで言うところの配分的正義より匡正的正義の文脈に位置づける。

 

グロティウスは、この「自然的正義」と「自然状態」から「主権的自然権」の観念を生み出した。この観念を理由に、オランダはポルトガルとの紛争において、causus belliに基づいて実力行使に踏み切ったのである、つまり、「自然状態」において司法権が不在の下では、「主観的自然権」の行使として正当化されるというのである。

 

本書は、その知名度の割には、その立論過程における古典とりわけストア派の思想に強い影響について知られているとは言い難いグロティウスの思考の道筋を知る上で、ひじょうに参考になる著作である。