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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

高天原とは

辛酉正月一日、太陽暦にして2月11日。日向を出立され、大和にたどり着かれたカムヤマトイワレヒコノスメラミコト(『古事記』と『日本書紀』とでは漢字表記が異なるだけでなく、その御名も微妙に変わるので、とりあえず『日本書紀』の記載をカタカナで表記しておく)が大和を平定し、橿原宮にて初代の天皇たる神武天皇として即位された日本建国の日である。『古事記』と『日本書紀』における東征過程の記述が微妙に異なっているのだが、変わらないのは、何れも即位そのこと自体についてはごくあっさりと記載されるにとどまっているということである。

 

記紀の記載とは別に、考古学の成果によると、紀元3世紀頃には、相当程度大きな勢力が大和地方に発生しており、それが邪馬台国と関係しているのかどうかはともかく、全国の土器が集まってくるほどの求心力を誇っていた大国の存在が徐々に明らかになってきている。なお、大和朝廷邪馬台国を連続的に捉えるのか否かという問題は、邪馬台国の比定地をめぐる論争、すなわち「邪馬台国論争」の中心争点になっている。本居宣長和辻哲郎あるいは内藤湖南の書き残した各々のテキスト、具体的には、本居宣長「馭戎慨言」、和辻哲郎『日本古代文化』、内藤湖南卑弥呼考」が邪馬台国比定地問題を扱っているし、さらに時代を遡ると、新井白石まで辿ることができる。現在もなお、未解決問題として、専門の研究者のみならず、アマチュアの歴史愛好家で、単なる趣味の域を超えたレベルの知見を持つ者もいるほどに、こうして江戸時代から戦わされてきた論争への興味は尽きない。

 

本居宣長は、邪馬台国について、次のように述べている。

筑紫の南のかたにていきほひある、熊襲のなどのたぐいなりしものの、女王の御名のもろもろのからくにまで高くかがやきませるをもて、その御使といつはりて、私につかはりたりし使也。

要するに、南九州の一部を勢力下に治め、勢い盛んだった熊襲か何かの、訳のわからん女酋長が、その名がシナにまで轟いていた皇国の女王の名声を利用し、自らがその女王であると詐称して魏に遣いを出していただけだと言うのである。邪馬台国とは、大和朝廷とは何ら関わりがない、単なる南九州の一部族集団だったと言いたいのであろう。

 

此の從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。

対して内藤湖南は、この宣長の見解を上記のように「破天荒」として一蹴し、宣長の見解を現代的な意味で「継承」しているとみなした白鳥庫吉「倭女王卑弥呼考」に見られる九州説を批判して「卑弥呼神功旧説引戻論」を立て、畿内説それも大和に比定地を求める見解を提示した。さながら古代史・考古学における東京学派対京都学派といった様相である。

 

和辻哲郎も『日本古代文化』において、この「邪馬台国論争」に首を突っ込んでおり、「魏志倭人伝」と記紀の記述の共通点を探り当てる方法に基づき、邪馬台国の比定地を九州に求めた。但し、和辻の場合、邪馬台国大和朝廷を断絶したものと見るのではなく、邪馬台国は勢力を拡大し、徐々に大和へと勢力を延ばして行ったとする見解、すなわち「邪馬台国東遷論」を提起した。「邪馬台国東遷論」にはいくつかのバリエーションが存在するが、和辻哲郎によると、天照大神卑弥呼に、高天原邪馬台国として解釈し、記紀の記述に基づきつつ、邪馬台国大和朝廷とを連続的に捉えるのである。

 

以上、この三人だけみても、内容はバラバラ。況や、その他論者の見解を見渡せば、邪馬台国の比定地をめぐって百家争鳴の様相である。その主張も玉石混交。文献学的、考古学的な裏づけに一応基づいたそれなりに堅実な立論もあれば、ほとんど思い込みの類の珍説・妄説も数多氾濫し、それら珍説・奇説・妄説の一々を相手にしていては、いつまでたっても前には進まない。

 

そんなこんなの論争状況でありながら、それなりの学者・研究者の唱える有力な説は、概ね二分されてきた。一つは、畿内説、なかでも大和に比定地を求める見解。この見解は、大和朝廷邪馬台国の延長線上の国と位置づける見解に繋がりやすい。もう一つは、北九州地方のどこに置くかどうかで様々な見解に分かれるものの、北部九州にあったと解する九州説である。邪馬台国問題に対する基本的なアプローチとしては、言うまでもなく文献学的アプローチと考古学的アプローチが考えられるが、文献学的アプローチに傾斜しがちであった過去の邪馬台国論争は考古学の発達にともない、徐々に考古学的アプローチの占める割合が相対的に高まってきた。

 

とりわけ、この時代にはこれといった文字史料は残されていないわけだから、その分考古学的知見に一層頼らざるを得ない。最近の考古学的知見により、俄然支持者が増えてきた畿内説であるが、年代測定の見方の変化にともない、大和で発掘された遺跡が従来思われてきた時代より更に遡られるのではないかとされて以降、特に纏向周辺が邪馬台国の比定地として相応しいのではないかとの見解が学界の中でも有力説を形成している。この問題は、単に邪馬台国の所在地をめぐる議論に収まらず、後の大和朝廷との連続性を考えるならば、国家成立史に深くかかわる問題であるので、歴史学・考古学上の一つの論争で済む話ではない。

 

邪馬台国については根拠薄弱な論拠しか示さなかった本居宣長であるが、それまで読めなかった『古事記』を厳密な文献学的考証に基づいて解読した『古事記伝』に見られるように、本居宣長実証主義的な方法論を身に着けていた、賀茂真淵の薫陶を受けた偉大な学者でもあった。その宣長が、弟子にせがまれて、その学問方法論として『うひ山ぶみ』を執筆した。これは、学問をするための心構えを説くものであるのだが、『古事記』などの古典を読む際の心構えとしても理解すべきでろう。そうしなければ、決して宣長を読むことはできないし、また読んだところで得られるものは少ないだろう。

道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意、儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし。

小林秀雄本居宣長』(新潮社)は、こうした姿勢に貫かれた著作であり、だからこそ、宣長を論じるまず先に、桜についての話から説き起こすことができたのだと思われる。現在の宣長研究の水準から見た場合、所々誤りも散見されるものの、そうした欠点があろうと、なお尽きせぬ魅力をたたえている名著である。

 

本居宣長は、ことのほか桜の花を愛した。現在の日本人も、桜を愛でる習慣を持っているし、そんな習慣を、谷崎潤一郎細雪』は流麗な文体で綴っている。京都の平安神宮神苑の枝垂桜を見物する有名な一節である。

古今集の昔から、何百首何千首とある桜に関する歌、-古人の多くが花の開くのを待ちこがれ、花の散るのを愛惜して、繰り返し繰り返し一つことを詠んでいる数々の歌、-少女の時分にはなんという月並みなと思いながら無感動に読み過ごして来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただ言葉の上の『風流がり』ではないことがわが身にしみてわかるようになった。

不思議なことに、『万葉集』には桜が登場することはほとんどない。『古今和歌集』になっても、意外に少ないと思われるのではないだろうか。頻繁に登場し出すのは、後の『新古今和歌集』からであろう(宣長の新古今注釈の書『美濃の家つと』は、その源氏物語論である『玉の小櫛』や『紫文要領』ほどには知られていないが、素晴らしくも謎に満ちた書である)い。吉野の山桜(現在の日本で知れ渡っている桜の大半は染井吉野であって、本居宣長の愛した桜ではない)をこよなく愛し、吉野山へ幾度となく参じた本居宣長は、上千本・中千本・下千本と山一面に咲き誇る、この吉野山について次の有名な歌を残している(谷崎潤一郎吉野葛』においても、「義経千本桜」の挿話がある)。

 

漢国にはない我が国固有の桜に対する、ある種異様なまでの執着を見せた宣長は、(小林秀雄本居宣長』の冒頭に紹介されている通り)自分の墓に桜の木を植えてくれと、遺言書に指示していたのだが、その宣長の「よし野山の歌」はこうある。

神代より たうとき山と いてましの 宮しかしけむ みよしのの山 さくら花 訪ねて 深く入る山の かひありけなる 雲の色かな 櫻花 かつ咲きそめて ここかしこ 霞色つく 美吉野の山 見渡せば 花よりほかの 色もなし さくらに 埋む み吉野の山 咲き続く さくらの中に 花ならぬ 松めずらしき み吉野の山 あかさりし 花の名残りと みよしのの 山は青葉も 懐かしきかな み吉野の 花は日数も かぎりなし 青葉の奥も なほ 盛りにて。

 

日本書紀』は明確な漢文で綴られているものの(大和言葉に関しては、漢語に訳すのではなく、音を漢語に当てているわけだけど)、一方の『古事記』はと言えば、とてもまともな漢文とは言えない奇妙な文章になっており、宣長より前は、読めない文献であると言われてきた。そのためか、『日本書紀』の写本は腐るほど存在するのに対して、『古事記』の写本はほとんど存在しない(確か、愛知県のどこぞの寺で発見されたもののみではなかったか)。だから、『古事記』は偽書であるという見解も存在するくらいである。いずれにせよ、賀茂真淵との出会い、そして「松阪の一夜」から、三十年にもわたる研究の末に出た畢生の大業『古事記伝』によって、後世の我々は、漸く『古事記』を読めるようになった。小林秀雄の言うように、「大変ありがたいこと」である。

 

その序文にあたる『直毘霊』には、

そもそも此天地のあひだに、有りとある事は悉有に神の御心なる。・・・そも此の道はいかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊によりて、神祖伊邪那岐伊邪那美大神始めたまひて天照大神の受けたまひもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。故是以神の道とは申すぞかし。

とあり、これを受けて、『古事記伝』には、

人は人事を以て神代を議るを、我は神代を以て人事を知れり。・・・凡て世間のありさま、代々時々に、天下の閲かる大事より、民草の身々のうへの事にいたるまで、悉に此の神代の始めの趣きに依るものなり。・・・古へより今に至るまで、世の中の善悪き、移りもて来しさまなどを験むるに、みな神代の趣に違へることなし。

と記す。この世に生起する出来事は、須らく神代に生い立った出来事にほかならず、したがって、この世の森羅万象すべてが神の御心なのである。そう、宣長は喝破する。ここで問題なのは、神代とは何か、神とは何かということであり、神代や高天原を現在から遡及した時点として、また、この世に一定の領域を占める空間上の地点して解する常識的な見方を宣長は排除する。『古事記伝』には、こう書かれている。

高天原は、すなわち天なり。然るを、天皇の京を云ふなど云る説は、いみじく古への伝へにそむける私説なり。凡て世の物知人みな漢意心に泥み溺れて、神の御上の奇霊きを疑ひて、虚空の上に高天の原のあることを信ぜざるはいと愚かなり。かくしてただ天と云ふと、高天の原と云との差別は如何ぞと云に、まず天は、天つ神の坐します御国なるが故に、山川木草のたぐひ、宮殿そのほか万つの物も事も全御孫命の所知看此の御国土の如くにして、なほすぐれたる処にしあれば、大方のありさまも、神たちの御上の万づの事も、此の国土に有る事の如くになむあるを、高天の原としも云ふは、其の天にして有る事を語るときの称なり。

 

産巣日は、字は皆借字にて、産霊は生なり。其は男子女子、又苔の牟須など云牟須にて、物の成出るを云ふ。日は、書紀に産霊と書れたる、霊の字よく当れり。凡て物の霊異なるを此と云。高天の原に坐します天照大御神を、此の地よりみさけ奉りて、日と申すも、天地の間に比類なく、最霊異に坐すが故の御名なり。されば産霊とは、凡て物を生成すことの霊異なる御霊を申すなり。あらゆる神たちをみな此神の御児なりと云むを違はず。神も人もみな此神の産霊より成出づればなり。されば世に神はしも多に坐せども、此の神は殊に尊く坐々して、産霊の御徳申すも更なれば、有るが中にも仰ぎ奉るべく、崇き奉るべき神になむ坐ける。

 

ここで宣長は、高天原をこの世界の特定の場所とは考えていないし、神代を現在の点として表象される線型的時間イメージの端点として措定してもいない。また、現在とそれが基底としてもたざるを得ないそれとともにある共存せる過去ととして把握される時間像をも同時に退けている。それとは別の時間把握がなされていることに注目すべきであろう。「つぎつぎとなりゆくいきおひ」を歴史意識の「古層」として取り出す丸山真男に反して、本居宣長は『古事記伝』において、正にこうした丸山真男の把握の仕方を明確に否定していたことは、注目に値するだろう。宣長にとって、神々は時間的順序にしたがって生まれてきているのではなく、一挙に与えられているものでなければならない。

 

神代とは、過去でもありかつ現在でもありかつ未来でもある。一切は、「永遠の今」での出来事として「とうの昔」に起こっており、それが「いつ」・「どこで」起こったのかと問うことが全く無意味な問になるのだ。そしてこの時間・空間の捉え方に対して視線を向けるとすれば、それは出来事が次々とある順序にしたがって出来する考えをも退けていることが指摘される。そのような考え方は、むしろ伊藤仁斎が出来事の逐次的継起としての時間という考えを示していた。また、自ずからなる流れとしての時間でもない。それは、「天地おのづからなる道」である老荘思想の一種だとして、宣長は否定していた。宣長が、仁斎に示された儒者の考えも、老荘思想のそれをも退けた上で、敢えて「ムスビの神」を持ってきている意味を理解しなければならないだろう。宣長は、注釈にて以下のように指摘する。

是をよく弁別て、かの漢国の老荘などが見と、ひとつに思ひまがへそ。

一体、なぜ「ムスビの神」の媒介を宣長は必要と考えたのか。これを物活的自然観とみることはできない。単なる物活的自然観というならば、その発想の根底は、仁斎のそれとさしたる差はないことになる。しかし、先述の通り、宣長は仁斎の考えるような自然の捉え方をしてはいなかった。これは、いまだ解明されていない謎のままである。

危険なリベラリスト

我が国の国際政治学は、米国のそれとは全く異なる様相を呈している。特に米国では、大学のみならずシンクタンクが充実しているので、国際の政治経済状況に関する論文やレポートが飛び交い、金融業者の中でも、カントリー・リスク分析のために、その類のものを読む機会がある。それを読む限り、日本の国際政治学の状況が、いかに歪な状況であるかが理解できる。

 

戦後日本の国際政治学は、坂本義和に代表される「理想主義」の側と、高坂正尭永井陽之助に代表される「現実主義」の側に主として分かれていた時期が暫く続いた。いずれも、米国の国際政治学の主流とは異質であり、東西冷戦の二極構造がアカデミズムにも反映された状況が、日本において具現化されていたと言ってもいいだろう。例えば、高坂正尭永井陽之助などは「現実主義」と括られて理解されているが、米国の国際政治学における古典的リアリズムやネオ・リアリズムとは一部しか共通性を持たないし、「理想主義」と括られる坂本義和リベラリストであるかと問われれば、明らかに性格を異にする。

 

そもそも、「非武装中立」を叫んでいる者など、米国の国際政治学の世界には皆無に近い。坂本義和が一般読書人向けに雑誌「世界」に寄稿した論説を読む限りは、「このおっさんはアホなのか?」という感想を持つ者も多かろうが、しかし、坂本はシカゴ大学にて、攻撃的リアリズムの国際政治学者ハンス・モーゲンソーの下で学び、のみならず、保守思想のエドマンド・バークについての学術論文をものしていたたけあって、どうも、単なるアホとして片づけられるような人物ではなさそうだし、坂本が非武装中立をその学問的知見から支持したとも考えにくい。当時の「進歩的文化人」をはじめとする左翼の大半がそうだったように、むしろ戦後日本の知的空間を覆っていた左翼的イデオロギーに引きずられてしまった可能性が大きい。いずれにせよ、坂本の頭の中がどうなっていたのか、黄泉の国から引っ張り出してきて尋ねてみたいところだ。

 

米国の国際政治学の世界で、いわゆる「リベラリスト」と括られている代表的な存在は、我が国でも一般によく知られているジョセフ・ナイJr.やジョン・アイケンベリーである。学者ではない実務家だが、「知日派」ということになっている元国務次官補リチャード・アーミテージにしても、少なくともリアリストではなく、どちらかと言えばリベラリストに属するだろう。共和党がリアリストで、民主党リベラリストであるというわけでは必ずしもないのだ。

 

確かに、民主党の方がリベラリストの比率は高いと言えるが、共和党にもリベラリスト外交政策を主張する者は多い。ただ共和党には、リベラリストと歩調を合わせるネオ・コンサーバティブつまり「ネオコン」も含まれているので、より錯綜している。

 

しかし「ネオコン」は、元はと言えば、民主党だった者たちが多く、それ以上の左翼過激派だった者も含まれる。「ネオコン」の代表格であるポール・ウォルフォウィッツはケネディ政権の熱烈な支持者で民主党最左派に属していたし、その師の一人アルバート・ウォルステッターに至っては、元トロツキストである。

 

対して、リアリストとして知られる学者は、先のハンス・モーゲンソーはじめ、ケネス・ウォルツ、ロバート・ギルピン、スティーブン・ウォルト、ロバート・ジャービス、ジョン・ミアシャイマーである。実務家では、ジョージ・ケナンドワイト・アイゼンハワーが代表的(ヘンリー・キッシンジャーをリアリストに分類する向きもあるが、キッシンジャーに関しては若干疑問符が付く)。

 

興味深いことは、リベラリストこそが、米国の一極的覇権構造の維持に拘り、あるいは覇権拡張を目論み、世界中で戦争を引き起こしてきたという事実である。昔から「平和主義者が戦争を起こす」と言われてきたが、米国の外交軍事政策を顧みると、正にその言葉があてはまることが理解できよう。

 

古くは、日本との開戦に消極的であったリアリストの意見を押し切って戦争に踏み切り、その渦中で、東京や大阪など数多の都市に焼夷弾の「雨」を降らせたり、広島と長崎に原子爆弾を投下して、一般人を大量虐殺したのはフランクリン・ルーズベルトハリー・トルーマン率いる民主党政権であったし、ベトナム戦争を始めたのも民主党ケネディ政権である。その後継のリンドン・ジョンソンは更に事態を泥沼化させ、見境なく枯葉剤を散布して後遺症に苦しむ者を生み続けた。

 

中東やアフリカ諸国の大混乱を引き起こしてきたのも、クリントン政権オバマ政権といった民主党政権であった。特に、オバマ政権は、オバマはじめ、国務長官を務めたヒラリー・クリントンが何をやってきたのかを観察すれば、リベラリストこそが世界に混乱の種を蒔いてきたことがはっきりするだろう。

 

バラク・オバマは「核なき世界」を標榜し、これ見よがしに広島や長崎の原爆犠牲者追悼式典などに大使を派遣したり、オバマ自ら慰霊訪問をし被爆者団体の代表者との接触するなどの白々しいパフォーマンスをし、単純な日本人がそれを喜ぶという滑稽を見せつけられたが、なんのことはない。米国のreassurance strategyにまんまと引っかけられただけのことである。

 

そんなアホな日本人をからかうかのように、オバマは同時に、今後20年間を通して、約100兆円もの予算を費やし新しい核兵器開発に投入する政策決定を下し、更には、米国に好ましからざる者の暗殺を命じる大統領令に署名した者である(オバマが署名した数は、これまでの歴代大統領の暗殺命令の合計より多い)。

 

何のことはない。米国が、広島長崎の式典に大使を派遣したり、反核団体への支援をし始めたのは、最近のこと。そのきっかけは、北朝鮮によるミサイル発射実験や核兵器保有宣言である。日本の周りを北朝鮮中華人民共和国、ロシアと核保有国が取り囲む中、まともな安全保障論を考えるなら当然、我が国の核武装が議論されても不思議ではないはずで、そうした声が高まることを警戒する米国が、日本の反核テーゼを放棄させたくないために、一方では被爆者団体や反核団体に大使館職員を通じてコミットするようになり、他方で核武装の議論を封じ込めようと躍起になっていた(政権中枢にいながら、核武装の議論を検討するべきとの意見を表明した中川昭一は、案の定、潰された。興味深いことに、当時「中川バッシング」を最も強力に展開したのは、反核団体や左翼陣営の者ではなく、米国の息のかかった自民党の連中だったという点である。左翼の連中が何を騒ごうと、何の影響もない)。

 

米国の無謀な一極覇権主義に拘るリベラリストに対して、米国の経済的覇権の相対的低下によってその圧倒的なヘゲモニーを維持することが不可能になりつつある現実を直視し、無謀なベトナム戦争イラク戦争などに反対してきたのはリアリストであった(ついでに言えば、対日開戦ですらリアリストは消極的であった)。旧ソ連に対して圧倒的戦力格差を誇った時期に、米国ではソ連への先制攻撃論が俄に叫ばれるようになったが、その声に対して自制を呼び掛けたのは、リアリストのアイゼンハワーであった。

 

防御的リアリズムか、それとも攻撃的リアリズムに立脚するかに関わらず(ちなみに僕は、防御的リアリズムに大いに共感する)、先述のロバート・ギルピン、ケネス・ウォルツ、スティーブン・ウォルト、ロバート・ジャービス、ジョン・ミアシャイマーは、一貫して戦争という手段に訴えることを反対してきた。別に、リアリストが平和主義者であるというわけではない。また、いついかなる際にも軍事オプションをとるべきではないと主張していたわけではない。いざとなれば軍事オプションがとれるという状況を維持しつつ、それでいて軍事オプションはあくまで「最終手段」として謙抑的に行使されるべきものであって、都合よく振り回せる「玩具」ではない。

 

リアリズムに立脚すればこそ、長期的に米国の覇権低下を加速させることになる無益・無謀な戦争を諫めてきたということである。イラク戦争は合理的理由のない無謀な戦争であり、現に、リアリストが警告した通り、その後の中東情勢は一層混乱の度を増している。その意味で、ナイやアイケンベリーなどのリベラリストは、結局イラク戦争を支持し、その馬脚を現したと言える。

 

イラク戦争は、共和党ジョージ・ブッシュJr.の政権時に起きた戦争だが、実はイラクの体制を軍事的・強制的に変革する「イラク・レジーム・チェンジ」計画は、その前のクリントン政権の時に着々と進められていたことが判明しており、「9.11」はそのトリガーとなっただけのことである。ブッシュ政権時に注目されたハースやウォルフォヴィッツなど「ネオコン」と呼ばれた連中は、一見リベラリストの見解とは異なるように見えるが、実際は彼らの外交政策は米国一極覇権主義をとるリベラリストと歩調を合わせていたし、沿革的にも元トロツキストという最左派の連中であった。

 

リベラリストや「ネオコン」に対抗する言説は、主として伝統的なリアリストたちによってなされていたという事実を直視するべきだろう。リベラリストや「ネオコン」は、米国の措かれた事態を冷静に分析するよりも前に、是が非でも米国の世界覇権を維持・拡張することでアメリカン・ヘゲモニーによって世界は平和になるという誇大妄想に捉われて、合理的判断を犠牲にした。結果的に、米国のヘゲモニーはますます減退し、更に無謀な戦争とその後の混乱によって多くの命が奪われ、今も奪われ続けているのである。

 

ある意味でイラク戦争は、国際関係の研究者としての言説の信用度や深浅度を判定する「リトマス紙」のような役割を果たしたと言えるのかもしれない。日本で「現実主義」の立場にあると自他ともに認識する者の多くがイラク戦争に賛成してきたし、その際、相当無理筋な屁理屈を弄して米国の行動の合理性と正当性を擁護する活動に勤しんでいたことを想起しよう。米国の「保護領」に甘んじることこそがリアル・ポリティクスに基づく現実的な選択であると言わんばかりの言動を続けてきたわけだ。

 

北岡伸一田中明彦中西寛、坂本一哉、村田晃嗣など、こぞって盲目的と言える対米追随外交を宣伝してきた。その主張は、アングロ・サクソンと懇ろにやっていけば済むと言っていた岡崎久彦田久保忠衛のような従米派のそれと変わらなくなっていた。しかし、こうした言説は、本来のリアリズムとは言わない。

 

こうした主張をする者は、実は、米国の「知日派」とされている者に踊らされた主張をしてくれる者として表向き歓迎されているとしても、国務省国防総省のアジア担当者からは、米国の立場を率先して宣伝してくれる好都合な人間としてだけ見られている。リベラリストとされる国際政治学者や、「知日派」とされている外交担当者が、実は、最も日本を軽蔑してきたし、ことあるごとに日本の台頭を抑えてきた。

 

逆にリアリストは、殊更日本に関心があるわけではないし、日本贔屓というわけでもない。ただ、日米両国の利益が常に一致するとは限らず、時には対立する局面もあるし、将来的に国際政治のパワーバランスが変化して米国の北東アジアでのプレゼンス後退という事態に至れば(その可能性が濃厚だろう)、ますます国益の対象の不一致は増すわけだから、日本外交が対米追随姿勢に固執することは、むしろリスクを高めることに繋がりかねない。

 

現時点では、日米同盟を基軸とする方向性は是としても、しかし同時に、日米同盟への過度な思い入れを止めて、もう少しフリーハンドの度合を高めた自立的外交政策を模索しなければならないと言う。そのためには、可能な限り、自国のことは自国で防衛するための実力が伴う必要がある。軍事力の裏づけのない外交などというのは、所詮は「絵に描いた餅」、あるいは「車輪の片方のない車」でしかないので、対米従属的地位からの脱却を図りながら同時に中華勢力圏に飲み込まれることを阻止するためには、日本は、嫌が応でも自主防衛能力の向上を急がねばならず、その際は、最低限の反撃能力を確保しておくべく、必要最小限の巡航核ミサイルを自国の意思に基づいて発射できるだけの体制を構築すべく、日本の核武装の選択も視野に入れざるを得ない。

 

ところが、日本の「現実主義」と呼ばれるリアリストならぬ国際政治学者や安全保障論を研究する者の中には、米国が日本の自立に反対していることを知ってか、日米同盟の重要性だけ強調し、自主防衛能力の向上を含めた対米自立の戦略については語ろうとは決してしないし、むしろ逆に、そうした自立を求める言説を潰しにかかろうとさえしてきた。

 

この観点から興味深い著作がある。安全保障論の専門家で、MIT教授のバリー・ポーゼンによるRestraint: A New Foundation for U.S. Grand Strategy., Cornell UP.である。MITの政治学部、特にその国際関係プログラムは、今や米国で最も優れた部門の1つを形成している。ポーゼンは、米国のグランド・ストラテジー大戦略)の研究者として著名である。米国は、東西冷戦終結後の大戦略を立て直す作業に従事したが、残念ながら、バリー・ポーゼン、ハーベイ・サポルスキー、ユージン・ゴールツ、ダリル・プレスら防御的リアリズム(防御的リアリズムの巨星は、あのケネス・ウォルツだ)に立つリアリストの理論は採用されず、リベラリストの主張する米国の一極覇権構造の拡張路線が選択され、今日の大混乱に至っている。

 

ポーゼンらは、米国の一極覇権構造が安定的に推移するとは考えず、むしろ世界を不安定化させ、米国の力はさらに低下することを”Come Home, America”で警鐘を鳴らしていた。彼らは、伝統的な不介入主義のアプローチを想起させる「自己抑制」の大戦略が必要であると主張していた。

 

ポーゼンは、現在の大戦略の議論を、リベラリスト覇権主義とリアリストの抑制主義という2つの主要なライバルの間にあるものとして描く。リベラリスト覇権主義は、リベラリズムと国家安全保障のために、米国の一極覇権構造に基づく世界支配を断固として維持することを目的とした大戦略である。この大戦略は、冷戦終結以来、支配的な米国の大戦略となっており、リベラリストと「ネオコン」双方の主要な外交軍事政策設定のコンセンサスである。この大戦略に対して、ポーゼンは、「不必要で、逆効果で、費用がかかり、無駄である」、そして最終的には「自滅的」であると批判する。

 

本書の前半部分は、リベラリスト覇権主義の内容と、それが如何に米国の最終的破局に繋がるかを滔々と説明している。後半部分は、覇権主義に対するリアリストの抑制主義について説明する。その中で、抑制主義が、米国の戦略的位置に関する事実関係の説明を通して合理的戦略であることを論じる。米国は非常に強力な「パワー」であり、地政学的に見て、海に囲まれ、周辺諸国は弱い「パワー」しか持たず、米国の脅威となる国は存在しない。社会主義国キューバの存在は、ソ連消滅後は今のところ米国の脅威にはならない。

 

ポーゼンによると、リベラリスト覇権主義の2本の柱は、第一に、「他のすべての大国と比較して米国の大国の優位性に基づいて構築されており、その優位性を可能な限り維持することを意図している」ため覇権的であるということ。それは、潜在的な挑戦者が米国と競争しようとすることさえ思いとどまらせ、世界中の米国が支配する安全保障関係を管理することを思いとどまらせる圧倒的な軍事力を構築することによってこれを達成する。

 

第二に、リベラリスト覇権主義は「リベラルである」。それは、「西洋社会一般、特に米国社会に関連する様々な価値観を擁護し促進することを目的としているからである」。特に、このアプローチが、「破綻国家、ならず者国家非自由主義的同盟国」を、米国と世界平和への脅威の主な原因として特定している。

 

要するに、これらのウィルソン主義者は、「米国は、我々のような国で満たされた世界でのみが真に安全でありえ、米国がこの結果を追求する力を持っている限り、そうすべきである」と信じているのである。

 

ポーゼンは、このリベラリスト覇権主義戦略は冷戦後の時代にはあまりうまく機能しておらず、変化する未来の世界では「ますます機能しない」と主張している。リベラリスト覇権主義は、血と財の面で非常に高額であり、今後も高額になる。米国は1992年以来、4つの戦争を戦い、これらの紛争と軍隊の維持に数兆ドルを費やしてきた。自由主義の覇権は、米国との完全なバランスをとっていないとしても、他の同盟国に対して米国への協力を促し、NATOや日本などの同盟国がより貢献できる時には「安い乗り物」に動機づけられてきた。米国の安全保障への取り組みは、コストに見合わない。

 

さらに悪いことに、リベラリスト覇権主義は、フランス革命以来のアイデンティティ・ポリティクスによってもたらされた困難を適切に考慮しておらず、したがって世界を形作るための米国の努力は国、民族、宗教的に動機づけられた力によって覆される。また、リベラルなヘゲモニストが支援する「人道的介入」は、戦略的な理由ではなく慈善活動のためにごく稀まれに行う価値があるケースの存することを認めはするものの、特に基本的な人道的危機の是正を超えた場合、軍事力で実行するのは複雑で困難を極めると釘をさす。

 

リベラルなヘゲモニストは、問題含みの「ドミノ理論」に依存して、事象の相互接続性と、それらが米国の安全保障上の懸念にどのように関連しているかを誇張している。米国の経済的利益のために覇権的な立場を維持することの重要性についての彼らの主張も誇張されている。

 

ポーゼンの主張する抑制主義は、本書の第2章で展開されている。ポーゼンは、主権・安全性・領土保全・地位を含む米国の担保についての議論から始め、次に潜在的な脅威とそれらに対処する方法を慎重に検討する。これらの中で最も重要なのは、「ユーラシア」の勢力均衡を混乱させる「大陸の覇権の台頭」である。「グローバルな野心を持っているテロ組織」の核兵器保有に注視している。ポーゼンは、「今日、ユーラシアには覇権の候補がない」ため、最初の脅威が実際に発生するリスクはほとんどないと考えている。これが、米国が段階的にコミットメントを削減し、世界的な軍事的プレゼンスを削減できる理由の1つである。

 

核兵器による脅威については、米国は他国による核攻撃とテロリストへの核物質の移送の両方を阻止する必要があり、米国は他の核保有国が核兵器を確保するのを支援すべきだと考えている。この点は、同じく防御的リアリズムに立脚するケネス・ウォルツと同じである。ポーゼンは、予防戦争の議論を正当化するために使用される仮定である「狂気の状態」を阻止することはできないという見解を支持していない。

 

しかし同時に、ポーゼンは、拡大抑止の頑健性についてそれほど楽観的ではない。したがって、米国は試練にさらされる可能性のあるコミットメントに警戒する必要があると言う。ポーゼンは、情報収集、武力の行使、特に特殊作戦やドローン攻撃、外交など、国際テロリストに対して積極的な措置を講じる必要があることを高く評価する一方で、米国の前方展開された軍隊と大規模な作戦は多くの場合事態を悪化させる可能性があると指摘している。

 

ポーゼンの分析は、特に中共が台頭する中で、東アジアを抑制主義を実施する「最も問題のある地域」として特定しており、米国は地域の勢力均衡を維持することに関心を持っている。但し、ポーゼンは中共旧ソ連ほど大きな脅威になることを心配しておらず、冷戦スタイルのアプローチは不要であると主張している。その代わりに、米国は、日本のような同盟国との安全保障支援関係を維持しながら、「同盟国が自国の防衛に対してより多くの責任を負うことを奨励する」べきであると述べ、日本の核武装の必要性を匂わせる。

 

他方、中東では、米国が地域全体、特にイスラエルパレスチナの紛争において、そのプレゼンスを減らすべきであると主張している。これは、石油の流れを維持し、単一の国がこの地域を支配するのを防ぐために、最小限の土地の存在を維持しながら「オフショア」に行くこと、すなわち、米国がこの地域の内戦に参加せず、湾岸の海軍力に焦点を合わせていくことを意味する。イスラエルに対しては、米国が「意図的に行動」して、私たちの利益にならないことが多いイスラエルの政策への補助金を削減すべきだと考えているようだ。それは、イスラエルが受ける軍事援助が少なく、自国の武器購入に資金を提供しなければならなかった、1967年以前の米国のアラブ・イスラエル戦争の立場に戻ることを意味するだろう。

 

第3章では、抑制主義と一致する軍事戦略と部隊構造について説明している。そのアプローチを「コモンズの指揮」と呼んでいる。このようなアプローチは、米国がその中核的利益を保護し、その戦略的立場を利用し、同盟国に彼らの安全に貢献するように奨励し、そして力を拡大する必要がある場合に時間を稼ぐことを可能にする。この戦略は、陸軍の削減を可能にしながら、海軍と空軍により大きな相対的負担を課すことになる。その間、海兵隊は水陸両用作戦に再び焦点を合わせるだろう。全体として、抑制主義は、特に海外での軍隊の規模とプレゼンスを縮小させることにより、国防費を約2割削減する効果を生むというのである。

 

本書の最大の強みは、リアリズムの基盤の上に構築された冷静な分析であろう。ポーゼンは世界をそのまま見て、「暗い悪夢」や「理想主義的な夢」が米国を迷わせることを拒否する。米国が国際的な課題、特に非国家主体からの挑戦の影響を受けないという楽観論に与しないが、しかし米国は、不自然な一極覇権構造を維持するために多額の代償を払わずに、リベラリリスとの覇権主義を追求し続けることは現実的に不可能であることを強調する。いずれにせよ、国際政治の急速な変化の不安定化効果に対するポーゼンの洞察は、米国の安全保障を考えたならば、不必要な戦争を狂ったように反復してきた危険なリベラリスト覇権主義からの移行の必要性を説得的に論じている。

 

イラクやイランを根絶やしにしてしまえ」と国家安全保障会議でまくし立て、リビアの独裁者カダフィ大佐がリンチによって殺害された映像を目にして、We came, We saw, He died!と目を輝かせ手を叩いて喜んだヒラリー・クリントン、そして「イスラエルを地上から抹殺せよ」と叫ぶイルハン・オマル、あるいは、非合法な暗殺を命ずる大統領令に歴代大統領のそれの合計より多く署名し、中東を大混乱に陥れて平然としているバラク・オバマのようなリベラリストこそが、世界をかえって混乱に陥れているということがよくわかる本書を読む価値は大きい。

大東亜戦争開戦から80年目を迎えて

昭和16(1941)年12月8日は、日本が米英に宣戦を布告した大東亜戦争開戦の日であり、今日は、真珠湾攻撃から数えて、ちょうど80年目を迎える。日米対立が決定的となった直接的契機は、南部仏印進駐であると言われる。確かに、この認識自体に誤りはないだろう。事実、南部仏印進駐が現実になるや、米国は資産凍結命令と対日石油禁輸を発動したのだから。但し、この時点では、米国政府内部は対日強硬論一枚岩であったわけではなかったことも確か。

 

当時の海軍作戦部長だったターナーは、対日石油禁輸は日本の蘭印やマレー進出を招き、そうなれば、フィリピンを植民地として抱える米国としては、その権益保護のため、太平洋上での戦争に入らざるを得ない状況に至るとの内容をルーズベルトに進言していた。この進言を受け入れたルーズベルトは、ウェルズ国務副長官に対して、石油の全面禁輸を避けるようにとの指示を出し、輸出管理局も、国務・財務・司法省合同外交資金管理委員会に対して、日本向けに45万ガロンのガソリンを含む輸出許可を出していたのである。

 

しかしこの決定は、アチソン国務次官補によって覆されてしまう。ルーズベルトは、8月3日からニューファンドランド沖の船内で予定されていたチャーチルとの秘密会談のためにホワイトハウスを不在にしていた。ただ、そのルーズベルトはと言えば、チャーチルとの秘密会談の席で対日開戦を決意するとともに、開戦の口実作りのために、日本から先に攻撃させるよう如何に挑発するか、また日本に勝利した後、日本を永久に武装解除させ、米国のアジア拠点として属国化する計画を練り始める。真珠湾攻撃の4か月も前のことである。ルーズベルトは、日本が米国に対して戦争を仕掛けるように仕向け、対日戦に勝利した後の日本の武装解除まで予定していたというのである。そうすると、アチソンの決定にルーズベルトが了承を与えていたということになりそうである。

 

では、この時期に米国政府内全体の意思決定として対日開戦が決断されていたのかというと、国務省内ではまだ外交交渉による妥結を模索する動きが見られたことから、暴露された秘密会談の内容で以って断言することは難しい。他方、米国による対日石油禁輸措置に対して、近衛文麿内閣は、事態打開のために「近衛・ルーズベルト会談」を提案し外交交渉を優先する策を講じたが、東条英機陸軍大臣が拒否して近衛内閣が崩壊してしまう(一度廃された軍部大臣現役武官制廣田弘毅内閣によって再び復活されていたことのツケが、ここで回ってきたというわけだ)。

 

近衛からすれば、①シナからの撤退、②南部仏印からの撤退、③三国同盟からの離脱ないしは事実上の骨抜き、という米国側の要求に応じる心づもりはあったようで、米国国務省の側も、暫定協議案を日本に提示する予定があったという。

 

ところが、国務長官ハルが、日本としては絶対に飲めない、④満洲権益の放棄という条件を追加した「ハル・ノート」を突き付け、事態は一触即発となる。米国は、日本が④については応諾できないことを認識していた。日本側が承諾することのない条件を付加した提案を敢えてすることによって、事実上、外交交渉打ち切りを暗黙に宣言したのである。

 

日本政府としては、①~③は承諾できても、④までとなると無理な相談。結果として、日本から米国に宣戦を布告して事態を一気呵成に打開する賭けに出るより他ないと、「清水の舞台から飛び降りる覚悟」で対米英戦を決断した。「ハル・ノート」が日本政府に打電された11月26日、連合艦隊約50隻の艦艇が、ハワイ攻撃に向けて択捉島から出港した。だから問題としては、「ハル・ノート」に至る手前で阻止できたかどうかということになるだろう。したがって、④が追加された事情が明らかにされる必要があるが、これについては、どのような力が働いてそうなったのかはわかっていない。

 

大東亜戦争における「連合国」の勝利は、アジア・アフリカ諸国にとって「解放」を意味したわけではなかった。全体主義諸国に対する民主主義諸国の勝利でもなかった。スターリン率いる旧ソ連は、民主主義とは程遠い共産主義者による恐怖政治だったし、バルト三国を不当に占領した侵略者だったし、日ソ中立条約を一方的に破棄して南樺太や千島列島を占拠し、あわよくば北海道北東部をも占領しようと、ポツダム宣言受諾の意向を通知した8月15日以降においても我が国への攻撃を止めなかった。また、旧宗主国は、アジアやアフリカの植民地化は欧米列強諸国の権利であるとばかりに、日本の敗戦後に再植民地化に乗り出した。

 

欧米列強、とりわけ英仏蘭など西欧の列強諸国は、単に「先発的」帝国主義国でしかなかった。英蘭は、自国だけでは我が帝国陸海軍を前にして手も足も出ず敗走するより他なかったので、彼ら彼女らのプライドが痛く傷ついたであろうことは容易に想像できよう。マレー沖海戦では、英国が誇る東洋艦隊が全滅。プリンス・オブ・ウェールズが海の藻屑と化したという報を耳にした宰相ウィンストン・チャーチルは号泣したという。栄ある我が大英帝国海軍が、「極東の猿」どもなんぞに負けるわけがないと内心で思っていたことだろう。それが、どうしたことか。日本軍の一撃に東洋艦隊は木っ端微塵に粉砕され、長年アジア地域に居座ってきた英国があっという間に蹴散らされたというのだから、チャーチルの屈辱感は相当なものであったに違いない。

 

今も、旧日本軍の行動に難癖をつけて糾弾する声が英蘭などに僅かながら存在するが、ことごとく己の行為については棚に上げていることが甚だ滑稽。英蘭が、長年にわたってインドやジャワなどで何をしてきたのかを考えてみればいい。支那事変や大東亜戦争の戦場と化した地域の住民から批判されるのなら、その批判に対しては誠実に対すべきだろうし、もちろん、旧日本軍の振る舞いにも決して誉められるような態様ではなかった点が存し、また一部捕虜の扱いについても問題があった非を認めるに吝かではないが、少なくとも、英蘭のような「先発的」帝国主義諸国から非難される言われはないだろう。

 

列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル恂ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ。

と、大東亜戦争の開戦の詔書にはある。大東亜戦争単独で捉えるとするならば、昭和26(1951)年5月3日に行われた、米国連邦議会上院軍事外交合同委員会の席において、後にダグラス・マッカーサーも“Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.”と認めざるを得なかった通り、主として安全保障上の必要に迫れての自存自衛のための戦争という理屈は成り立つかも知れない。このマッカーサー証言の最後は、次の一文で締めくくられている。

There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asian basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

すなわち上記の通り、当時の日本には、蚕を除いて国産の資源は実質的にほとんど存在しなかった。綿も羊毛も石油製品もスズもゴムもその他多くの資源もなく、それらすべての物はアジア海域に存在していた。"They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan."とあるように、これら必需品の供給が断たれた場合、日本では1000万人から1200万人の失業者が発生するだろうとの恐怖に駆られてもいた。それゆえ、"Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security."と、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったという結論を下した。

 

なるほど、そういう一面は確かにある。しかしながら、開戦に至る過程全体を俯瞰して見るならば、全くの「自存自衛のための戦争」と位置づけることは難しい。しかし、20世紀に入ってからの我が国の振舞は(日露戦争より後というべきかも知れないが、対朝鮮関係については微妙な問題が残る。朝鮮からすれば日本の保護国にされた契機だったかも知れないが、我が国からすれば、日露戦争の原因を作ったのは、元はと言えば朝鮮の事大主義的外交政策なのであって、それによって我が国は安全保障上の危機が切迫する事態にまで陥ったのだから、朝鮮こそある意味で「加害者」であるとの論理も成り立つ。とはいえ、保護国化までに留めておくべきであった)、「後発的」帝国主義国家としての一面を有していたことは否めず、こうした視点から捉えるならば、大東亜戦争とは、「先発的」帝国主義諸国と「後発的」帝国主義諸国との権益争い・勢力争いの末、我邦が選択肢を狭められ、追い込まれた状況において起きた、ある種重層的ともいうべき構造を持つ戦争であったのではないだろうか。

 

それゆえ、単純に「自存自衛の戦い」であったとするわけにも、ましてや、「アジア解放のための聖戦」とするわけにも行かない。確かに、「大東亜共栄圏」の理念を本気で信じた者もいて、敗戦後も現地に居残り、再植民地化を仕掛ける欧州帝国主義諸国に対して現地人に協力して戦った旧日本軍兵士も数多く存在した。また当時の世情を見ても、欧米列強に対抗する「アジアの盟主」としての日本という認識が蔓延していたことも確かである。しかし、大東亜戦争の遂行に携わっていた政策決定者の意思は必ずしもそうではなく、「アジア解放」という理念は後知恵的に付加されたものでしかなかったと言われても仕方ない実態を参酌するならば、「アジア解放のための戦い」と理解することは、かなり無理筋なことである。

 

もちろん、左翼が主張するように、「アジア諸国に対する侵略戦争」と断罪して済ますわけにも行かない。自分たちの政治的主張を実現するための「印籠」としての「アジアの民衆」を有効に活用するため、アジア諸国の領土を侵略した「悪の帝国」日本と、それに抵抗した「アジアの民衆」という単純な善悪二元論的構図の中にあの戦争を位置づける左翼の主張も恐るべき単純化であり、歴史を単なるイデオロギーとしてしか見ていないことの何よりの証左であろう。特異なイデオロギーに任せて、特定の局面のみを都合よく切り取って平仄を合わせるような見方は、極めて乱暴な歴史の切り取り方であり、その道徳主義的断罪の姿勢は、必ずどこかの国の利益を代弁するプロパガンダに容易く変貌してしまう。どの視点から見るかによっても見方は違ってくるだけでなく、どういう文脈に位置づけて理解するかによっても見方は大いに異なってくる。

 

大東亜戦争に至る過程で致命的だったのは、我が国の大陸政策が既に失敗を決定づけられていたという点である。個別の戦局においては、俄然その能力を遺憾なく発揮し、国民党軍に勝利を収めていた我が軍であったが、大局的な見通しに基づく国家戦略に欠き、場当たり的な対応に終始した。こうした大陸政策の失敗の起点は、対華二十一か条の要求をした大正4(1915)年にまで遡ることができる。中共は、日清戦争以後の我が国の行為を糾弾するが、日清戦争に関して言えば、元は双方の対朝鮮政策の衝突の末に起きた戦争であって、我が国が清国に対して侵略した戦争ではない。

 

問題は、大正4年以後の我が国の対支外交が露骨な覇権主義的な行動に様変わりしたことである。当時は、列挙諸国に共通して見られた振舞いであったとはいえ、対華二十一か条の要求は、中華民国に対する露骨な覇権主義的な恫喝行為であり、これを理不尽な要求だと反発して、「中華ナショナリズム」が湧き起こるのも無理ない話であった。仮に、大東亜戦争で日本が敗北せず、大陸での権益を確保できていたとしても、おそらく、その後、「植民地解放」の世界的な流れの渦中に我が国も巻き込まれ、大陸や台湾、朝鮮など現地人からの猛烈な反発に悩まされていた可能性もあろう。

 

ハル・ノート」については、近年、中華民国の対米ロビー活動が果たした役割も注目されているようだが、それが決定的な重要性を持っていたかは、歴史学の研究者でもない僕にはわからない。ただ、いずれにせよ、突如として④の項目が追加されたのはなぜなのかを理解するにあたって、注目しなければならないのは、やはりニューファンドランド島沖に停泊していた船内でのルーズベルトチャーチルの秘密会合の果たした役割と、中華民国側からの猛烈な対日強硬策の具申ではないかと思われる。だとするなら、対米開戦は、米国により仕掛けられた罠にまんまと嵌められた結果だと言えなくもないけど、その前提には対支政策の失敗という観点を無視するわけにはいかないのではないか。罠であれ何であれ、罠を罠として見抜けず、しかも早期収拾が可能だとの甘い見込みに反して泥沼化した支那事変を抱えながら対米開戦に踏み切った判断は、当時の状況に身を置いて考えたとしても肯定できるものではないだろう。

 

昭和6(1931)年9月に勃発した満洲事変は、旧関東軍高級参謀の石原莞爾板垣征四郎が首謀した事件であることは明らかで、あの事件は中華民国への侵略行為とは言えないとしても、少なくとも、「後発的」帝国主義国である日本が、大陸での権益確保(当時の日本は、満洲に莫大な資本を投下していた)と防共のための防波堤構築の一環として満洲地域に地歩を固めるための行為であり、事変の発端となった柳条湖事件は日本政府の意向に基づくものではなかったとはいえ、満洲事変を事後追認し、挙句は満洲国を建国させ、日満議定書を締結し、満洲総務庁など主要部門に大量の官僚を投入していった過程を総合的に勘案すれば、覇権主義的拡張政策として評価されても仕方がない。

 

但し、中華民国への領土侵略と断ずることができないのは、あの地域がそもそも中華民国領土と誰もが認めるような事由が存在せず、歴史的に見ても、漢族が長くあの地域を支配していた歴史もないからである。昔から、様々な民族・部族が群雄割拠する領域だったのであり、領域国家が主流になった時代の論理を直接当てはめて理解することは困難である。だからこそ、国際連盟の「リットン報告書」にも、日本による中華民国領土に対する侵略とは記されていない(対日非難の理屈は、既に日本が締結していた九ヶ国条約に違反するという内容である)。例えば、幣原喜重郎の認識によれば満洲地域はロシア領であったし、軍閥の張学良からすれば、満洲中華民国の領土であるということになる。それほど人によって認識が異なっていて、共通認識が形成されていたとは言えない状況であった。

 

とはいえ、どう理屈を捏ね繰り回そうと、日本領であると強弁することは不可能であるから、あくまで満洲族による独立国家の体をとるより他なかった。「五族協和」・「王道楽土」との掛け声は形ばかりの欺瞞であったことは確かだろうが、馬賊が闊歩するあの荒野を開発して短期間で近代国家に仕上げた満洲国の経験は、我が国の戦後の高度成長のための政策に活きたし、何より、中華人民共和国も、建国後しばらくは、全工業生産の9割を旧満州国の遺産から賄っていたわけで、結果的には、中華人民共和国の経済を支える源に満州国がなっていたという点も見なければならないだろう。

 

そうした点を踏まえてもなお、こうした日本の一連の行動が、中華民国からすれば、自分たちの権益を侵食する行為に映ったのも当然と言えば当然で、五・四運動あたりから徐々に芽生えてきた「中華ナショナリズム」に基づく「日貨排斥運動」への「逆ギレ」から華人蔑視の態度を強くしていった日本の傲慢な姿勢に対する、「国民」化していった華人の憤怒が沸点に達した事情も理解できる。

 

日本側の認識としては領土侵略の意図はなくとも(いわゆる東京裁判において認定された「共同謀議」などあろうはずもない。もし、あったとするならば、あのような場当たり的とも言える戦略性に欠く行動はとらなかっただろう)、中華民国から見て、日本の行動によってもたらされた一連の事象を連続的に捉えるとするならば、満洲事変から支那事変への流れを「侵略戦争」という一語で片づける乱暴な主張には与し得なくとも、我が国の大陸政策の一側面に「侵略性」が微塵もなかったと断言することもできそうにない。

 

支那事変における南京攻防戦の末に生じたとされる、いわゆる「南京事件」が、歴史的事実としてあったのか、なかったのか。仮にあったとして、それが実際にはどの程度の規模だったのかという問題は、専ら歴史学の議論の範疇を超えて、政治問題やイデオロギー対立にまで飛び火しているので、中々冷静な議論ができない状況が続いている。

 

中共はもとより、中共と懇ろな関係にある日本の左翼が、日本批判を展開するための恫喝用カードとして最大限利用する際に、殊更事件を大きく見せようと躍起になっており、逆に、そうした恫喝外交に屈しまいと意気込むあまり、全くの虚構であると抗弁する者たちの極端な主張が対置されるという、およそ建設的とは言えない茶番劇が反復されているというのが実態である。

 

一つ確認しておきたい点は、毛沢東自身は「南京事件」について触れたことがないという事実である。中共中央が編纂した『毛沢東年譜』にも、「南京事件」が発生したとされる昭和12(1937)年12月13日から数週間もの間、事件についての直接的な言及もなければ、事件を匂わせる記載すらない。それ以後も、毛沢東自身が「南京事件」に言及した形跡もない。

 

もちろん、日本軍と戦闘していたのは、主として蒋介石率いる国民党軍であって、共産党はというと、延安に引きこもって大したことをしておらず、散発的にゲリラ戦を遂行していたに過ぎないので、ほとんど無関心だったとも考えられよう(中共が「抗日戦勝利」などというのは、実態とは程遠い戯言の類である)。あるいは、秦の始皇帝より多くの人間を殺害したことを自慢していたほどの稀代の「殺人鬼」であった毛沢東のことであるから、「南京事件」で何人死のうと、取るに足らないことだと考えていたのかもしれない。ただ、後の中共があれほど大仰に騒ぎ立て、対日外交のカードとして利用している割には、毛沢東自身がこれについて何も触れていないのは、極めて不自然と言える。

 

もちろん、これを根拠に、「南京事件」は捏造された虚構の事実であったと言いたいわけではないし、これによって、渡部昇一東中野修道のような「まぼろし派」の主張が肯定されるわけでもない。渡部昇一は、東京裁判で証言したマギー神父が実際に目撃したとする人数を以って、南京での虐殺行為を否定する論陣を張っていたかと思われるが、さすがに根拠薄弱であるし、他の否定派の論者にしても、例えば松井石根の日記を改竄した者もいるなど、その主張の信頼性は乏しい。

 

とはいえ、もし「南京事件」が、現在の中共が主張するような数十万人規模の組織的な大量虐殺であったというのならば、毛沢東は何らかの言及をしていて然るべきではないかという疑問は依然として残る。しかも毛沢東は、中華人民共和国建国後、その能力を高く評価していた、支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将を北京に招待していたというのだから(岡村は、台湾への気遣いから、この申し出を断って北京に行くことはなかったが)、この点から見ても、少々合点のいかぬ話ではある。

 

戦史研究者でも何でもない素人の認識が正しいのかどうかわからないが、いわゆる「南京事件」と称される虐殺行為が事実としてあったと思うかと問われたら、規模の点ではまだ不明確な点が残るものの、何らかの虐殺行為があったのだろうと答えることにしている。但し、中共の政治プロパガンダと化している数十万人規模の大虐殺とも、上海派遣軍の組織的方針に基づく虐殺とも思わない。

 

南京陥落時において、日本軍の軍紀が相当に乱れていたのは確かであって、「便衣兵」の存在に悩まされ混乱状況にあった現場のレベルで、「便衣兵」狩りと称した捕虜殺害や一般市民の虐殺あるいは婦女への暴行・強姦といった事案が方々で発生し、収拾つかなくなったというのが真相なのではあるまいか。「首都攻防戦」で誰が敵かと疑心に苛まれている状況において、正気を保ち続けられる者は中々いないのではないか。特に、職業軍人ではなく、徴兵された市井の者であるならばなおのことである。そのように、素人として考えるより他ない。

 

いずれにせよ、近・現代史ないしは戦史を専門で研究している者の著作や論文を見渡すと、先の「まぼろし派」は皆無に等しいのが現状で、規模や態様などについて争いはあるものの、何らかの虐殺行為の存在はあったとする見解が支配的であるように見受けられる。と同時に、数十万人規模の大虐殺があったとする、中共の政治プロパガンダに呼応する見解に与する者は、もはや少なくなっているように思われる。

 

あくまで素人の意見でしかないことの断りを入れての話だが、事件そのものを映した写真や映像など、事件の存在を直接的に証明する証拠として大部分の専門家が認める物証は、今のところ見当たらないことが事実であるとしても(証拠とされてきた写真や映像には、それが旧日本軍による南京での行為を映したものであるのか大いに疑わしいもの、国民党軍による自国民殺害の写真、プロパガンダ用に捏造されたことが明白なものまであり、学術的検証に耐えうる直接証拠は、将来はともかく、現時点では存在しないようだ)、岡村寧次大将の残した日誌など諸々の間接証拠を積み重ねることから推察されることは、東京の陸軍中央に動揺が走るほど緊迫した状況があり、その渦中で、ある程度の規模に及ぶ虐殺事案が発生したのだろうということである。少なくとも、昭和12(1937)年12月13日から数週間、捕虜や兵士あるいは「便衣兵」に対する虐殺が行われ、その中には、巻き添えを喰らった無辜の一般市民も含まれていたと推察される。したがって、「まぼろし派」の見解は採れない。

 

さりとて、中共が主張する30万人ないしは40万人という規模の大虐殺が起きたとは信じられず、また犠牲者全てが「無辜の一般市民」であったのかどうかも疑わしく、一般市民を装った「便衣兵」が相当数存在したのではないかと思われる(確定的なことは言えないが)。

 

いずれにせよ、「大虐殺派」の主張は誇張に過ぎるし、さりとて「まぼろし派」の主張は無理筋の説に思える。「便衣兵」の存在をどの程度見積もるか、あるいは南京城外の戦死者まで計測に入れるのか、はたまた通常の戦闘行為による戦闘員の死者数まで含めるのか否か、こうした諸々の点から被害規模の評価も異なってくるのだろうから、規模については当然に諸説争いは残るだろうが、終局的には、秦郁彦南京事件』(中央公論社)のような「中間派(数百人~数万人まで幅広い)」の主張に収束して行くのではないだろうか(個人的な想像では、数千人から1万人、最大見積もって2万人くらいの数かなと。もちろん、それでも虐殺であることに変わりないのだけれどね)。

和辻倫理学と"airheadness"

小堀桂一郎和辻哲郎と昭和の悲劇-伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人』(PHP)は、戦前・戦後を通じて時局に便乗して変節することなく、日本の文化・伝統を固守しようと奮闘した知識人の一人として和辻哲郎を取り上げる一方、対照的に、折口信夫鈴木大拙などを、まるで「マッカーサー草案」の内容を事前に聞きつけ、それにあわせるかのごとく自説を変更した宮澤俊義のような変節漢であると言わんばかりに描き出している。しかし、折口信夫に対する批判は、明らかに失当である。

 

肯定するにせよ、否定するにせよ、和辻倫理学の内容に踏み込んだ検討がなされているかのような題の書物であるが、実際には、和辻倫理学についての哲学的分析や思想史的検討は一切なされておらず、和辻哲郎が戦前戦後を通じて変節せずに一貫して日本の文化伝統の良さを守り続けた節操ある者だったという評価を、他の識者と比較して述べ立ているだけであるので、およそ哲学研究ではないことはもちろんのこと、思想史研究としても得られるところは少ないように思われる。

 

もちろん、他の変節漢と比べて和辻が筋を通したとするならば、そうした評価をする著作があっても不思議ではないだろう。ルース・ベネディクト菊と刀』の出鱈目を糾弾する和辻を評価する視点は共有できるものの、だからと言って、直ちに思想の研究として見るならば、やはり評価することはできそうもない。PHP新書として出された著作なので、著者も研究書として世に出す心算は元よりなかったのだろうが、いずれにせよ、本書の言わんとすることは、その硬質な文体にもかかわらず、さして重要な内容とは言い難い(同じPHP新書として出た『靖国神社と日本人』はまともな本であっただけに、本書はそれに比べると、どうしても見劣りすることが否めない)。

 

小堀桂一郎の若い頃の研究、例えば『若き日の森鴎外』(東京大学出版会)は、谷沢永一『雉も鳴かずば』(五月書房)の冒頭の章に書かれた適切な批判を是としてもなお、優れた比較文学の研究書であると認めるに吝かではない。また、国書刊行会から出版された『東京裁判却下未提出弁護側資料』全八巻や、特に重要な資料を一冊にまとめた上で解説を加えた『東京裁判 日本の弁明-「却下未提出弁護側資料」抜粋』(講談社)を労して編集した仕事は評価できる。この書は、米国の連邦上院の軍事外交合同委員会におけるダグラス・マッカーサーの証言も掲載されており、非常にためになるものである。

 

しかし本書は、和辻哲郎のテクストを仔細に読み込み、その思考について検討していくというようなものでもなければ、その歴史を単に追った評伝にもなっていない。ひたすら日本文化の伝統の守護者として描かれているだけで、和辻をいわば「ダシ」にして自説を延々開陳しているだけに終わっている。

 

変節であるかどうかはともかく、そもそも和辻哲郎が筋を通していたかは再検討する必要があって、実際、和辻が節操を曲げなかったと言えるのかについては、やや疑わしい点が残る。子安宣邦の指摘が正しいとするならば、和辻哲郎はその主著である『倫理学』(岩波書店)を戦後に改版する際、自身に都合の悪い文言のいくつかをこっそりとすり替えているからである。

 

更には、和辻哲郎の日本の文化・伝統についての造詣は、その全ての点において必ずしも正解な理解に基づいていたとまでは言えない面もあり、一知半解のまま観念的に捏造された描像に仕立て上げられている側面も多々ある。この点について、和辻哲郎東京帝国大学時代の同窓で、おそらく和辻よりも博識であったカトリック司祭岩下壮一による和辻批判がある。

 

そうした問題も抱えていた和辻哲郎であるが、その主著『倫理学』が畢生の大作であり、近代日本の哲学的思惟を代表する著作の一つであることに異論を挟む者は、ほとんどいないものと思われる。和辻哲郎は、近代日本における倫理学の一つの系譜の起点ともなった、我が国を代表する倫理学者であることに変わりない。そして、熊野純彦が『和辻哲郎文人哲学者の軌跡』(岩波書店)で描いているように、和辻の思考はあくまで日常の生活の襞に入りながら、そこから倫理を昇華させて行き、これまでの規範倫理やメタ倫理では触れられなかった一側面に光を当てる貴重な試みであることは確かである。

 

但し、それゆえにかえって、和辻倫理学は、ontischな記述がontologischな分析と地続きになっており、それゆえ究極的には「現状全面肯定の倫理学」と見間違えてしまいそうになる点である。そうした欠点があるとしてもなお、その魅力が色褪せてはいない。

 

倫理学』は、「人間存在の歴史的風土的構造を明らかにし、国民的存在の世界史における意義と、その当為とを考察したもの」と和辻は言う。この「人間存在の歴史的風土的構造」については、下巻の第四章第二節「人間存在の風土性」の箇所が、次のように記している。

数へ切れぬ世代の人々が、この国土によつて養はれ、この国土の開発と組織のために働らき、さうしてこの国土の土のなかへ帰つていつた。だからそこには祖先の墓があり、祖先以来耕し続けてきた田畑があり、祖先以来漸次発達してきた灌漑組織がある。それは文字通りに「父祖の国」「祖国」である。人々はそこに深い連帯感を抱かざるを得ない。

和辻にとって、「人間」とは、時間的・空間的な構造を持つ人倫的組織を形成する存在である。逆に言えば、時間も空間もそういう人倫的組織の刻印がされたものであって、その固有の歴史性や風土性を無視した時間や空間は抽象の結果でしかない。その歴史性について、和辻は次のように言う。

歴史とは、国家を形成する統一的な人間共同体が、超国家的場面において自己の統一を自覚するとともに、この統一的な共同存在の独特な個性を規定してゐる過去的内容のうちの主要なるものを、共同の知識として何人も参与し得る客観的公共的な形に表現したものである。

そして、風土性については、

国土の成立は一様に広がつてゐる土地の或る一部分に一定の固有な位置、固有な性格、固有な意義を与へるのである。それによつてこの土地は、他の土地と勝手に取りかへることのできぬもの、この位置、この形態において一定の人間存在と不可分の連関を有するもの、従つてこの人間存在に属せざる人間をそこから排除するもの、として公共的に承認される。このやうな土地の限定が人間のうちに醸し出す構造こそ、風土性の問題にほかならないのである。

と述べる。和辻哲郎は、我々人間の日常的生の表現と了解の仕方を媒介として「和辻倫理学」と呼ばれる独特の体系的な倫理学を打ち立てた。

 

和辻にとって、この「生」とは、根源的に「間柄」において存在することを意味し、この「間柄」とは、自己・他者・世間の多義性を持つ「人間」の根本理法とされた。生の根源的な実践的行為連関は、表現と了解において順次発展していく運動である。和辻倫理学の試みは、こうした人間存在の根本構造でありながら、それゆえにむしろ対自化されることのなかったこの過程を主題化した。

 

先ず、「存在」という漢字表現が元来どのような意味を持っていたのかを明らかにするために、「存」と「在」の個々の意義を抽出することから始め、「存」という語の本来の意義が主体的自己把持、忘失に対する把持すなわち生存であり、「在」が主体がある場所に位置していることを指すということが確認される。そこから、「存在」とは、「間柄」としての主体の自己把持、すなわち人間存在の本義たることが立論される(こうした和辻の方法を戸坂潤は『日本イデオロギー論』(岩波書店)所収の論文で痛烈に批判したが、果たしてその批判が正鵠を射た批判であるかは怪しい面もある)。

 

この主体の位置する「場」とは、家族でもあれば、村などの世間であることもあり、このような場所の階層的関係が、人間存在の根本理法が実現されている諸段階に対応すると考えるのが、和辻倫理学の特徴の一つである。この場所の階層的関係が、二人結合としての「夫婦」にはじまり、三人結合としての「親子」、そして順次その公共性の度合いが高まるという構成をとるので、家族、親族、地縁共同体、経済組織、文化共同体、国家といった人倫的組織の階層において全体が捉えられることになる。

 

和辻において「家族」は、二人共同としての「夫婦」、三人共同としての「親子」、同胞共同としての「兄弟姉妹」から構成される。「家」とは、屋根と壁により外部と画された内部空間であって、この内部空間は人々に休息をもたらす場でもある。また、竃をめぐる広い空間と睡眠のための狭い空間に仕切られた生活は、食物を調理してそれをともに食うことにおいて、生命と家政そして財の再生産を共同する場としての人倫的組織の最も基礎的単位を形成する。この意味で、生命と財の再生産を共同する場としての「家」こそ、根本的なものである。

 

この発想に、異性愛を当然の前提として、一夫一婦制を基礎とした近代的家族像と、封建的家族像とが結合した「家族主義」の臭いを嗅ぎ取ることは容易い。この論理は、家族共同体から国家共同体への連続性が見られる和辻倫理学に一貫している論理である。

 

もちろん、こうした「家族主義」は自明なことではなく、伝統的なものとして捉えられがちな家族共同体の描像は、実際は伝統的なそれと乖離した、明治後期から大正期に形成されてきた小ブルジョアのモデル・ファミリーを投影したものでしかない可能性もあろう。その意味では、先述の小堀桂一郎が『和辻哲郎と昭和の悲劇』において批判していた「大正教養主義」に典型的に現れる「大正的なもの」を、和辻哲郎自身が体現していないとも限らない。

 

この「大正的なもの」とは、『近代日本の批評Ⅲ-明治・大正篇』(講談社)所収の蓮實重彦の論文「『大正的』言説と批評」で述べられているように、言葉や概念に対する分析・記述を欠いた抽象的イメージが納得の風土の只中で流通するだけで人々がわかったつもりになっている状況を指して抽出された概念である。蓮實重彦に言わせると、生田長江に典型的に見られるこの「大正的なもの」から辛うじて逃れているごく少数の者として、柳田國男折口信夫の2人を取り上げていたはず。この蓮實の言に従うならば、むしろ和辻哲郎こそが「大正的なもの」の圏域に収まっていることになるはずだが、そうなると、ともに「大正教養主義」に否定的なはずの小堀と蓮實は、真逆の評価を下すことになろうか。

 

生命と財の再生産を共同する場としての「家」こそが根本的なものであると考え、「家族共同体」と、その同心円的延長の果てとしての「国家共同体」という連続性の相で把握する和辻倫理学に対して、その範型に収まりがつきにくい存在を対置することで、それがどのような変容を被るか、あるいは些かも影響を受けることがないのかを考えることを通じて、新しい社会存在論ないしは倫理が展望できるかもしれない。そう、素人ながら思うわけだが、どうだろうか。和辻が我が国の文化・伝統に精通しているのなら、『倫理学』の想定する家族共同体が一面的に過ぎることぐらいは承知していたはず。

 

例えば、我が国には、外国に比べて豊富な男色文化の歴史があるわけだし、それを記録した文書も数多く残っている。特に、武士道華やかなりし戦国の世では、男色が武士の中では当然の慣わしでもあったとされる。織田信長森蘭丸武田信玄高坂弾正の関係は恋文まで残されているほどである。最近でも、伊達政宗が、他の男に浮気したとして拗ねてしまった者に宛てた弁明の書も見つかったくらいである。江戸期の文治政治になった頃にも若衆宿があって、吉原の女郎よりも高い銭を出さねならないほど人気で、あまりの混乱ぶりに困り果てた幕府は、若衆宿を禁止してしまったというのだから驚きだ。旗本奴や町奴など不良の集まりである愚連隊は、男子が化粧をして奇抜な衣装を身にまといながら暴れ回わり、夜は夜で互いの肉体を貪り合う関係が見られ、風紀紊乱を諌めたい幕府を悩ました。山本常朝『葉隠』にも、荒々しい若武者へのほとんど同性愛的とも言える視線を感じることができるだろう。

 

寛永年間に著されたとされる『田夫物語』には、想いを潜める男との逢瀬を神仏に祈り、願いが成就しなかったとなると、自らの腕を切ったり、足の腿を突き破る者まで現れたとの記載がある。「何も、そこまですることはねぇだろう」というのが、軽重浮薄な者としての率直な感想なのだが、男が男を取り合ういざこざが絶えなかったという時代だったことを考えると、別に驚くようなことではないのかもしれない。

 

この『田夫物語』は、男が「男色派」と「女色派」に分かれて喧嘩を始めたので、中立を自称する著者が間に入って双方の言い分を聞くという体裁をとっている。それぞれの言い分が面白いのだが、中でも興味をひくのは、「男色派」を「華奢で風流な伊達者」とし、女色派を「田夫者」として表現していることである。だから著者は、どうやら「隠れ男色派」なのかと思いきや、さにあらず。男性同士の性交または性交類似行為の経験はなかったらしい。おそらく、行動するにまでは至らなかったが、精神的に男色に憧れているというだけだったのだろう。

 

この物語の最後には、「女色派」がついに伝家の宝刀を抜く。曰く、我が国は、伊邪那岐伊邪那美天の浮橋で交わった以後、男女間の恋愛が連綿と続いてきたのであり、この男女間の恋仲から発展してきた男女関係のあり方や異性・同性との違いに対する考え方が、子孫を持ち家を保ち夫婦のありようをなした人間の基本的な姿を築き支えてきたと言うのである。こうした人間の存在形態の変遷において、なおそこに一貫性を認めることのできるのは、「女色派」の方である。それに比べて、「男色派」は子孫を残せず、また家を保つこともままならぬではないか。大雑把に略すと、そういう反論である。

 

この反論を滑稽であるとして一笑に付しておしまいにするのが、おそらく現代人であろうと想像するが、そう馬鹿にはできない主張である。というのも、人類の政治的・経済的・社会的諸制度やそれに関連する諸々の思想は、ことごとく前世代から次世代への「継承」という時間的連続性を陰に陽に前提することで成り立っている。すなわち、「繁殖」を大前提としたものである。とすれば、「女色派」の言い分に理がありそうに思えてしまう。

 

日本社会において長く見られた男色文化を和辻倫理学の中に位置づけるとすれば、ともすれば、それが和辻倫理学体系を自壊させるだけの「トロイの木馬」となるのかどうか、それはわからない。はっきりしていることは、和辻倫理学における人倫としての共同体の思考が想定している存在は、共同体的規範の関係性に難なく収まる者であって、少なくとも、そこから否応でも逸脱してしまう者の存在に視線が向いていないということである。しかし逆に、この「逸脱」の側面に注視した社会存在論ないしは倫理学を構想するとすればどうだろうか。

 

千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)は、ドゥルーズの思考に含まれるベルグソン的契機とヒューム的契機を取り出し、両者を下手に融合・和解させるのではなく、敢えて対立点を際立たせた上で、後者の持つ思想的可能性を押し広げた社会存在論ないしは倫理学として読むことも許されるだろう。

 

そうすれば、その後に書かれた『意味のない無意味』(河出書房新社)所収のいくつかの論文を、前著で示された思考の方向性をさらに過激に追求した思考の足跡として捉えることができそうである。その極北として、本書所収の論文「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない-倒錯の強い定義」が挙げられるだろう。和辻哲郎倫理学、あるいは和辻と一見無関係に見えるものの、通底する親和性を一面で持つ廣松渉の哲学からは一顧だにされなかったであろう「ギャル男」やその極限形態とも言える「センターGUY」といった存在に肯定的な眼差しを向けたその思考は、それが表象文化論的批評として書かれたものであっても、一つ倫理の構想として読まれる余地がある。

 

共同体規範からして、あまり好ましいものではない、もしくは注目されるに値する存在ではない「どうでもいい存在」として泡やあぶくのように浮遊する彼らの、ともすれば欲望に任せて軽々と規範を逸脱しかねない危なっかしさを肯定する筆致の先に肯定されるのは、"airheadness"=「頭空っぽ性」である。この概念は、「ギャル男」の先鋭的な形態であった「センターGUY」の「頭空っぽ性」と、盛っ髪に現れたエアー感の美学的ないしは表象文化論的な位置づけとして提起された概念だが、同時に社会的に意味づけられた行為の是非弁別とは別の次元での過剰性の表現であり、身体的なレベルにおける、ほとんどナンセンスなまでの自己享楽を肯定する概念として読むこともできなくはない。

 

さらに、極端に解釈すれば、規格化された行為の範疇に収まらないある種の過剰性が、距離や方向感覚を失って散乱するある種の「暴力性」を肯定的に捉えたものでもある。虚実の狭間をどうでもよくたむろしているギャル男のギザギザでスカスカの「盛り」を、関係へのアタッチメント・デタッチメント双方を遊動する「社交性」は、和辻が見つめる共同体的紐帯とは別種のものである。

 

「記号的乱交semiotic promiscruity」であるコラージュとしての「センターGUY」の身体と、「勃起した性器」であると同時に、それを否認的に排除しつつ欲望の理由づけすら遮断するイメージで捉えられたギザギザでスカスカの「盛り」は、「繁殖」とは異質な「絶滅」を経ているかのような「頭空っぽ性airheadness」に即して構想される多孔化された共同性のアレゴリーであると言う。ここに定位して思弁される倫理学があるとするならば、和辻倫理学との間に対決線が引かれることは必至であろう。その意味でも、今のところ「主著」にあたる『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』よりも思想的可能性を押し拡げてくれるものに違いないし、少なくとも僕は、こちらの方が圧倒的なお気に入りなのである。

現代のマルコポーロ

ライプニッツは『クラークとの往復書簡』において、空間・時間の存在に関して絶対説を採るニュートン(その代弁者サミュエル・クラーク)に対し、関係説の立場を擁護した。この関係説によると、時間は同時に存在しない諸点の順序であり、一方の他方の比率である。

 

空間は、同時に存在し相互作用によって接続されている諸点の順序である。空間は、全ての点とそれらの関係の集合に過ぎない。位置とは、異なる既存の点に対して異なる瞬間に同じ点が存在するという関係であり、いくつかの特定の点との共存関係は完全に一致する。ある点から別の点への関係を変更すると、点はその位置を変更する。

 

運動とは、時間経過に伴う位置の変化である。空間と時間についての同様の定義は、ライプニッツの数学の哲学に関する論文「数学の形而上学的原理」で与えられており、そこでは、時間と空間の大きさとしての持続時間と延長の概念が追加されている。

 

米国の科学哲学者ジョン・アーマンは、その著書World enough and space-time, MIT Press.において、次のように指摘している。

1680年代から、ライプニッツが、特に空間と時間、そして十分に根拠づけられた現象について言及している箇所がある。しかし、その箇所は、観念論のパズルを複雑にしているように見えるだけである。このパズルは、ライプニッツモナド、十分に根拠づけられた現象、そして「観念」・「中立」・「想像」と様々にラベル付けされたものからなる第三の領域からなる三分法を利用し始める1690年代には、以前のような文言が姿を消し、それによって、このパズルは氷解した。ライプニッツの後の著作では、空間と時間は、この第三の領域に限定されている。

アーマンの解釈によれば、ライプニッツの空間と時間の概念は、形而上学的レベルにも現象的レベルの観察と測定にも対応していないが、ライプニッツが観念と呼んでいる中間レベルの知識に対応しており、それを理論レベルと呼んでいる。存在論において、ライプニッツは「モナドジー」を提示したわけだが、このモナドは、この理論レベルにおける幾何学的点に対応すると同時に、実体的形相を持つ物体の形而上学的統一でもある。

 

バリエーションは多岐に及ぶものの、ライプニッツの関係説の路線を継承する現代の著名な理論物理学者は数多く存在する。カルロ・ロヴェッリやジュリアン・バーバーは、その代表であろう。ロヴェッリやバーバーの路線は広く知れ渡っている(といっても、ロヴェッリとバーバーでは、時間と変化の関係について根本から違った見方をしているように思われるが)。彼らの著作は漸く、その一般向け著作のいくつが日本語に訳されているが(但し、訳文を一瞥すると、非常にまずい訳である。特に、バーバーのThe End of Timeの日本語訳はかなりヤバい。バーバーの書く英文はかなり平易な表現が用いられているので、原書で読んだ方がよいだろう)、やや立ち入って知りたければ、本人の論文を読むに越したことはないが、より理解する助けにぬるのが、ロヴェッリの場合だと、哲学者バス・ファン=フラーセンによる“Rovelli's World”という論文である(一部に、テンソル解析の知識が必要な箇所があるが、テンソル解析すら知らずして一般相対論を理解することなど不可能だから、その時点で、時空の存在論について云々すること自体が論外。多くの教科書があるのだから、それを読む作業を惜しまないこと)。

 

同じ広義の関係説に位置付けられると言っても、ロヴェッリやバーバーとは一線を画した異なる路線を追求する者も存在する。中でも、ロバート・フィンケルシュタイン、ラファエル・ソーキンの影響を深く受けているフォッティーニ・マルコポーロ女史の議論が、僕のような物理学にも哲学にも不案内な素人から見ても、物理学的な観点、哲学的な観点双方から極めて興味深い主張を展開している。

 

ユダヤ系物理学者の傾向なのだろうか、(名前からして、明らかにそうであろう)フィンケルシュタインという人もその例に漏れず、極めて抽象的な思考をする物理学者として著名である(ユダヤ系ではないが、極度に抽象的な思考をする物理学者が、カトリックの信徒で神学に関する論文やら、ジェレミー・バターフィールドなどの科学哲学者との共著論文やら、数多の論文を書いている英国のクリストファー・アイシャムである。確か、アイシャムの著作は量子力学の教科書の邦訳があったかと思う。といっても、並みの教科書のような「使用手引書」ではなく、基礎的な概念についての哲学的問題意識に貫かれた教科書)。

 

フィンケルシュタインによると、世界は量子過程のネットワークによって表され、チェッカーボード・トポロジーで構造を形成する唯一の基本的な接続要素としてテトラッドから構築されている。ここでは、チェッカーボードは、時空多様体の基礎となる構造を構成し、この離散構造は、素粒子の変位と相互作用が起こる「アリーナ」と見なすことができる。チェッカーボードで個別のステップを進めると、新たなテトラッドが現れ、ネットワーク内での伝播が発生する。フィンケルシュタインが展開した、こうしたモナドの概念から始まる過程の存在論は、空間と時間の構造についてのライプニッツの考えを想起させるだろう。それゆえ、フィンケルスタインの議論は、空間と時間の存在を前提とはしていない。

 

離散的な事象集合の要素間の因果関係を考慮したスピンネットワークのいくつかのバリエーションを扱うソーキンとマルコポーロは、連続的空間の根底には離散的実在があるという仮説を立てる。この「実在」とは、因果集合のことである。ソーキンによると、それはリーマンの離散的な多様体概念にその沿革を持つ。この場合、そのメトリック関係の原理は、多様体自体の概念に既に含まれている。ソーキンがインターネット上に公開している論文 “Causal sets: Discrete Gravity”によると、

因果集合は、時空の深層構造であることを意味する。時空は十分に小さなスケールでは存在しなくなり、それは連続体が粗視化された巨視的な近似にすぎず、順序付けられた離散構造に取って代わられる。

因果集合を仮定するソーキンの議論は、自然のすべての知識が実験データを観察する一連の操作に還元されるという、科学の操作主義的見解に対する反応でもあったようだ。ソーキンは、因果集合は実在の基盤であり、我々の部分的な実験とは無関係に存在し、因果集合の要素は実在であり、長さと時間の概念はいくつかの基本的な実体間の関係から生じるという存在論的見解を主張した。

 

リーマンによって提案された空間の離散構造は、4次元の平坦な時空の幾何学が基礎となる点集合と点間の順序関係からのみ構成できる。実は、科学哲学者ハンス・ライヘンバッハが既に、この点についてAxiomatization of the theory of relativityにおいて指摘していたのが興味深い。ライヘンバッハの科学哲学観や頻度説に立つ確率解釈や、有名な「共通原因原理Principle of Common Cause」などについては留保抜きで賛同するわけには行かないが、総じてみた場合、やはりライヘンバッハという人は偉大な哲学者だったというべきだろう。

 

フィンケルシュタインが提示した因果集合のモデルは、その数学的構造として、因果集合は局所的有限順序集合、つまりは、以下の3つの特性を持つ2値先行関係<を持つ集合C<である。

①推移性:(∀x、y、z∈C<)(x < y <z⇒x<z)、

②非反射性(∀x∈C)(x≮x)、

③局所的有限性:(∀x、z∈C<)(card {y∈C<| x <y <z} <∞ )

である。離散因果集合を連続時空と比較するために、ソーキンは、

(i)離散内の点間の因果関係が連続で保持され、

(ii)埋め込まれた点が均一に分散されるように埋め込みを導入する。

これらの条件が満たされる場合、それぞれが1点に対応するように連続多様体を分解する。このようにして、リーマンの基準が満たされるという方向である。

 

マルコポーロは、プランク・スケールでの基礎となる実在は離散的であり、因果関係を備えたスピンネットワークによって説明できるという仮説を立てる。これは、ループ量子重力の意味での一般相対性理論正準量子化に適している。

 

ループ量子重力は、スピンネットワークと呼ばれる基本的な状態の観点から空間の量子幾何学の正確な微視的記述を提供している。動力学は、スピンネットワークに沿った局所的な運動の振幅に関して定義された経路積分で表される。マルコポーロによると、この構造は、プランク・スケールでは幾何学が離散的であることを示唆している。それに加えて、理論は背景独立的であり、既存の時空は存在しない。

 

ループ量子重力の主な問題の1つは、低エネルギー限界の問題である。低エネルギーでの基本的な組み合わせの動力学から、古典的な時空と一般相対性理論の動力学を出現させる必要がある。

 

マルコポーロは、時空の微視的構造のモデルと共通するいくつかの特徴を以下の通りに要約した。

プランクスケールに近いエネルギーでは、宇宙は離散的である。

②因果関係は存続する。宇宙は、ソーキンらによって提示された因果集合の規則によって記述される。

量子論は、このレベルでもまだ有効である。

④モデルは、背景独立的である必要がある。

 

Science and ultimate reality: quantum theory, cosmology and complexity,Cambridge.U.P.所収の論文“Planck-scale models of the universe”や、その他“Quantum causal histories”において、マルコポーロは、量子論的因果関係の歴史を構築するために、因果集合を次の形で導入する。

①因果集合。これは部分的に順序付けられた集合で、局所的に有限な集合{C、

②因果的過去:{r | r <p、r∈C<}≡P(p)、

③因果的未来:{q | p <q、q∈C<}≡F(p)

である。P(p)のすべての事象がaに関係している場合、集合aはpの過去である。また、F(p)のすべての事象がbに関係している場合、集合bはpの未来である。aがbの過去であり、bがaの未来である場合、2つの集合a y bは完全なペアである。

 

量子因果集合とは、基本系を表す因果集合の各事象にヒルベルト空間を付加したものである。量子因果歴史において、量子因果集合の進展は、完全なペアのヒルベルト空間間のユニタリーな作用素によって実装される。量子スピンネットワークは、局所的移動を繰り返す、あるスピンネットワークの別のスピンネットワークへの移動である。ヒルベルト空間と因果関係の演算子を使用した量子因果歴史では、基礎となる因果集合を厳密に保つ。存在論的に背景独立的な量子時空は、操作によって結合された開放系の集合で構成されており、ユニタリーな進展は完全なペアに対してのみ生じる。

 

ピンフォーム・モデルには、重要な特性がある。それは、背景独立的な量子重力モデルだということである。それは、空間的・時間的な幾何学を参照せずに、基礎となるプランクスケールの量子系から始まる。幾何学は、部分系とその関係を使用することによって定義されるというわけだ(量子幾何学と重力の両方が低エネルギーの連続限界として現れる)。空間的および時間的距離は、系内の観測者によって内部的に定義される。マルコポーロは、

理論は、その基本的な量と概念が特定の時空メトリックの存在を前提としない場合、それは背景独立的である。

であると言う。

 

物理的世界の理解における人間の知識の3つのレベルは、

(レベル①)距離、間隔、質量、事象、力など、我々の感覚と知覚によって与えられる物理量についての知識。

(レベル②)理論モデル。これは、測定値とそれらの間の数値関係によって与えられるメトリックの性質の一般化の理論モデル。

(レベル③)我々の意識によって与えられた物理的世界の存在論的特性を表す基本的な概念についての知識。

 

問題は、この3つのレベルの間を接続する必要があるということである。量子力学では、(レベル②)の微視的物理学の理論モデルは、対応則によって、(レベル①)の観測可能量に関連づけられている。(レベル③)を(レベル②)に接続する必要があることを受け入れる場合、当面の問いは、理論の構築を管理するルールの正当性について問うことである。例えば、量子力学相対性理論の統合は、それらが属する(レベル②)で行う必要があるが、基礎となる存在論的概念は、(レベル③)から取得する必要がある。

 

しかし、次の疑問を提起することができるだろう。(レベル①)では、原始的概念から派生した概念が見つかる。「新科学哲学」のハンソンらによって主張される観察の理論負荷性のテーゼを是とするならば、単純な観察が原始的であるかどうかを判断することはほとんど不可能である。なぜなら、それは我々がそれを定義するために使用した実験のタイプに依存するからである。

 

では、空間と時間の概念は原始的概念か、それとも派生概念か。絶対説では、空間は粒子が移動するコンテナのようなものであり、時間は運動とは独立な実体である。したがって、空間と時間は原始的な概念であり、粒子がない場合にも考えることができる。対して関係説では、空間と時間はいくつかの基本的な対象の関係の集合で構成されている。この場合に、派生的に空間と時間の概念が導き出される。つまり、マルコポーロが説明するように、時空幾何学は派生概念である。これは、空間的および時間的距離が系内の観測者によって内部的に定義されるという関係性から来る結論である。

 

マルコポーロの言う時空の形式的構造の構築は、以下の手順で進行する。まず我々は、それらの間で作用し、関係のネットワークを生み出す一連の基本的な対象を考えることができる。(レベル②)で対象を物理的世界の要素と見なすと、対象はどこにも存在しない。具体的に言うと、単純なネットワークとして3次元の立方格子を利用する。ネットワークは、三角形、準周期的、またはランダム格子など、様々な構造で取見られる。ユークリッド幾何学との接続を確立するために簡便を期して、相互作用する点の無限集合を取るとしよう。すべての関係の集合は、次のように定義できる2次元の格子を形成する。

(1)2次元の正方格子の点を通過するのは、2つの異なる主直線のみである(直交直線)。

(2)直交していない2つの主直線は、すべての点が共通または分離している(平行直線)。

これらの2つの定理から、デカルト(離散)座標と、ヒルベルトの仮説を適用できるユークリッド空間を定義できる(但し、連続性の公理を除く)。

 

この2次元空間の構造は、3次元立方格子に簡単に一般化できる。空間の構造に関するこれらの仮定は(レベル②)で与えられているが、それは我々の感覚によって(レベル①)で説明されている物理的空間の特性に対応している。時空の物理的構造を、基本的な実体間の相互関係のネットワークに置き換えたのである。

 

この時空の性質を見ていくと、(レベル②)の物理的特性が物質的対象の形而上学的原理で解釈される存在論的レベル(レベル③)があると仮定する。因果集合モデルでは、ソーキンは、物理理論が3つの段階を経過することを前提としていた。特定の「物質」または物質のタイプが、特徴的な現象のグループに現れる第1段階である。そして、物質が現象に関連して明確に識別されるのが、第2段階である。この物質を特徴づける包括的な動力学が理解されるのが第3段階である。

 

ソーキンは、操作主義の存在論とは反対に、因果集合の要素は実在であると確信している。したがって、ソーキンのモデルには、現象、物理理論、実在の3つのレベルの知識がある。因果スピンフォーム・モデルと量子論的因果歴史のモデルでは、宇宙の波動関数が存在せず、因果集合のみがある。そして、ヒルベルト空間が因果集合の事象に関連づけられている。

 

これらの2つのモデルは、(レベル①)と(レベル②)に関しては、モデルと非常に似ているが、存在論の解釈が欠けている。時空の解釈に関する認識論的前提では、(レベル②)の理論モデルの存在論的背景として(レベル③)を仮定していた。時空の性質の関係理論では、実体の概念は、モナドや事象など基本的な独立した一意の対象に帰属する必要がある。そして、それらの相互作用は時空の構造をもたらす一連の関係を生じさせる。

 

では、これらの基本的な対象の性質についていくつかの仮説を立てることは可能だろうか?ソーキンの因果集合や、マルコポーロ量子論的因果歴史などは、時空の関係説に基づく理論の、(レベル③)の存在論的背景と見なすことができる。しかし、それでも全体像は完全には把握されない。というのも、因果関係の原理が、古典力学または特殊相対性理論または一般相対性理論に適用される場合、決定論的法則に従うことになっているからである。

 

特定の初期条件下での力学系が与えられると、同じ力が常に同じ効果を生み出す。因果関係の原理を量子効果で実装したい場合は、量子力学の仮定で要求されるように、生成の原因・効果に確率論の法則を導入する必要がある。(レベル③)に戻ると、物質的対象の存在論は、因果関係の原理だけでなく、確率論の法則によっても特徴づけられることになるからである。

マルクスとサルトル

哲学における人間社会の本質と構造についての議論は、発生論的な議論よりも存立構造論が中心に据えられる傾向にあるように見受けられるが、この点に関して、廣松渉『役割理論の再構築について』は、社会生成の基底に関して役割行動論に基づく発生論的な論理を展開しているところに特徴がある、哲学書としては比較的珍しい部類に属するのではないだろうか。

 

その役割行動について、廣松は、次のように定義する。 

<他者によって期待されている行動の-解発的に現前する当事者に対向しての-呼応的遂行>、この間主体的に共役的な関係性における実践

 

そして、役割行動の発生場面における模倣行動の持つ重大な意義を主張し、「役割交替」・「役割期待」・「役割取得」といった、役割存在の構成要素の形成機制を分析して行くのだが、廣松によると、力動的な場において<「期待され」-「期待する」>関係の経験の集積により、徐々に役割行動における当事主体・当事他者の共役的存在が形成されて行くというのである。

役割行動という所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体的他者による期待の対自化、それに即応した”この”身体の協応的応接の進展とそこにおける”あの”身体的他者に対するディスポジショナルな反応様態の対他的予期、一般化していえば、所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体と”この”身体とのあいだでの協応のディスポジショナルな相補的・共役的な期待の「対他的ー対自的」な現成、このような力動的場において「他己」と「自己」とが「対自的・対他的」に現識される。

 

ある役割を「期待する」第三者を内面化させ、「期待される」行動を自らのものとして身につけて振舞う。こうした役割行動は、一定の社会的交通を持った相対的に自律した共同体が形成されるところにおいては、一様に見られるみられる現象であろう。人間が一定の社会を形成する動物である限り、何らかの役割期待に基づいた振る舞いをしており、それが社会的・歴史的に媒介された「社会的行為」を理解する基礎となる。

 

『役割存在論の再構築のために』より前の、若い時分に出された『世界の共同主観的存在構造』を構成する論文の一つ「共同主観性の存在論的基礎」において、この認識に至る思考の萌芽を見つけることができるかもしれない。役柄扮枝と対他存在を論じる文脈において、廣松は、サルトル存在と無』の議論を取り上げ、これを批判的に検討している。

 

その前に一言。『存在と無』より前に書かれた『自我の超越』によると、現象学において意識は志向性として定義されるのであるから、「超越論的自我」というようなものはありないということになっている。

 

他方、フッサールによると、現象学的還元によって見出された超越論的主観性は、一切の客観的存在と真理に対して、その存在と認識の根拠を与えるものであるとされる。世界その他の志向的相関者は、認識論的主観の意識能作を超越して自存するものではない。したがって、世界の超越は、世界を究極的に構成する自我との相関における「超越」に他ならず、この意味において、自我は存在する一切の超越に対する絶対的な前提としての極となる。

 

ところが、サルトルに言わせると、世界のみならず自我すらも徹底的に還元の対象になるのだから、「経験的自我」と区別される「超越論的自我」なる概念は、むしろ還元の不徹底をこそ意味するものに他ならなかった。自我は、世界及びその他の対象と同じく、すべて意識の志向的対象の一つであって、「世界に向けて己を炸裂させ」ねばならない。したがって、意識それ自体は何ものでもなく、正に「白紙状態une table rase」ないしは素裸の「無」という他なくなる。

 

かくして現象学的還元は、サルトルにおいては以後、「無化作用néantisation」という意義を付与されることになる。すべてであるところの充実したものとしての、後のサルトルのいう「即自存在l'être en-soi」と、存在から抜け出た無としての「対自存在l'être-pour-soi」であるところの意識。ここにおいては、「超越論的自我」なる概念が成立する余地はない。

 

だがフッサールは、「自然的態度」において思念されたものをすべて「ノエマ的意味」に還元し、自然的に思念されていた他者も同じく還元の対象とされる。『デカルト省察』では、超越論的主観性による他者構成の機制を解明していくことになるが、ここにおいて言われる「他者」とは、世界の側の対象となる被構成体としての他者を意味するものではなく、「ともに」世界を構成する「他者」、「等しく世界をともに構成する他者」という「間接的」現前の仕方でしか現象しないところの「他者」である。とはいえ、「他者」経験を発生論的場面に即しつつ、「対化」という「受動的総合」の一形式による「類比化的統覚」が決定的役割を果たす「自己移入論」を展開する『デカルト省察』が、「他者」構成論において成功しているとは思われない。

 

サルトルの対自・対他存在としての<私>という見方の基礎には、対象についての定立的意識は、同時に自己に関する非定立的自己意識を伴うという考えが背景にある。サルトルによると、<私>は他者によってしか<私>たることはできない。「私は、私であるところのものではないje ne suis pas ce que je suis.」とは、対自存在と対他存在とに引き裂かれた存在としての<私>の存在の脆さを示している。<私>とは、この「存在論的不安定」において存在しているものというわけだ。

 

この「存在論的不安定」を必然的に受け入れざるをえない事態を、サルトルは「自己欺瞞la mauvais foi」と表現している。

 

「私としてあるところのもの」ではないというあり方において、私は、「あるところのものである」ようにせしめること、あるいは、「あるところのもの」というあり方において、「あるところのもの」でないようにせしめること。

 

我々の日常生活は、こうした「自己欺瞞」というあり方に彩られている。我々が、自己にとって何ものかであることに脅え、かつ、その我々が他者によって何ものかにせしめられていることに慄いている。

 

この「自己欺瞞」の運動を成立させているのが、「演技jeu」である。カルティエ・ラタンのカフェのギャルソンの颯爽とした振る舞いは、彼がまさにカフェのギャルソンを演じていることを示している。誰であろうと役柄を扮し、<私>を我有化させるわけであるが、こうした自らの「演技」や仮面を現実と見なし、仮象を実在とみなす態度を、サルトルは「クソ真面目な精神 l'esprit de sérieux」と表現する。なぜか?その理由は、仮象の背後の<無>に耐え切れず、<実在>の安らぎに逃げ場を求めるからだ、とサルトルは言う。

 

このような「存在論的不安定」から抜け出す道はあるのか?サルトルは、逆説的に、ジュネやボードレールの生き方にそのヒントを見つける。ジュネやボードレールの奇怪な振る舞いは、「クソ真面目な精神」を脱し、役柄を自ら率先して演じる。しかし、単に演じるのではない。仮象はどこまでいっても仮象でしかなく、演技や仮面をも現実とはみなさないからだ。

 

どこにもあるようで、どこにもない<私>。この<私>は、あの「本来的な自己」でもなく、もはや<実在>などに安らぎの場を求められないことを積極的に受け入れている。

 

他者の眼差しが<私>を「石化」させる、つまり即自存在へと変じさせてしまうとサルトルは言う。ここで意識されているのは、他者によって見られているがままの被視存在としての私ではなく、役割存在としての自己であり、ここに言う自己とは、レアールな存在としての自己ではなく、未在という仕方で「現前」している存在である。

 

泥棒であって泥棒を演じるのではなく、泥棒に敢えてなるということ。『存在と無』は、冗長に過ぎる面がないではないが、個別の実存のあり方についての微細な点まで逃さぬ記述には見るべき点があって面白い。

 

廣松は、マルクス主義との接点が希薄であった時期に書かれた『存在と無』を引用することはあっても(とはいえ、後年に書かれた文章には、サルトルはほとんど姿を消すことになるが)、マルクス主義と急接近した時期に書かれた『弁証法的理性批判』を始め、『唯物論と革命』や『共産主義者と平和』には言及しない。せいぜい、その『弁証法的理性批判』の序文にあたる『方法の問題』の一部分、すなわち、マルクス主義を現代において「乗り越え不可能な哲学」と記している箇所を、マルクス主義を宣揚する際に「飾り」として引用しているに過ぎない。

 

ということから推し量られることは、廣松は『弁証法的理性批判』を評価していなかったのではないかということである。それもそのはず。サルトルの哲学は、どこをどう読んでも、マルクス主義とは単に異なるどころか、水と油の関係であるというぐらい互いに相容れない哲学・思想ということを感じ取っていたからに違いない。そう、「実存主義マルクス主義」など、形容矛盾も甚だしい代物なのである。

 

しかもサルトル自身、マルクス主義を「現代において乗り越え不可能な哲学である」と称揚し、『弁証法的理性批判』まで著している割には、フッサールを読んだ程度にはマルクスを読んでいなかったのではないかとの疑念をつい抱いてしまいたくなるほど、その表現に引っ掛かりが感じられるし、『弁証法的理性批判』も、読みようによっては、反マルクス主義的な著作に映ってしまう。『唯物論と革命』を一瞥しても、マルクス主義からの積極的引用は、ヨシフ・スターリンの『弁証法唯物論史的唯物論』くらいなものではなかったか。

 

要は、「そもそも、マルクスに大して関心持ってねーだろ?」と。そりゃ、レジスタンスに身を投じたマルクス主義者を見て感化されたのだろうけど、サルトルは傍観者でしかなかった。それが影響したのか、後年は過激であることが自己目的化したようなアナキストになっちまった。マルクス主義の文献について読みこなしていた形跡もなく、せいぜい、エンゲルスの自然弁証法の酷さを見るに見かねて、「ここらでいっちょ、かましたろうか」というノリで書いたようにしか思えないものがチラホラ散見される。

 

『方法の問題』で、人間は所与の条件において歴史を形成していくことに触れる際、この表現が、マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』において既に述べられていることの再定式化であることにすら気づいている気配がない。『共産主義者と平和』の第三部において経済理論に触れる場面でも、マルクス自身の経済理論を新マルサス主義の理論と勘違いしていた(改版されたものは、この部分が削除されているらしい)。さらに、レーニントロツキールクセンブルググラムシルカーチのようなマルクス主義者の数多の議論に言及することもない。ラファルグ、ジョレス、マルクーゼ、ブロッホアドルノアルチュセールについてもほとんど言及されていない。

 

メルロー・ポンティは、サルトルは経済と搾取の問題には関心を示さず、専ら抑圧に関心があったと証言しているが、正鵠を射た発言だと思われる。事実、マルクスの場合、人間は階級の形で集合的に捉えられる傾向にあるのに対して、サルトルでは、『弁証法的理性批判』においてすら、人間は集団に全体化された個々の主体の集まりでしかなかった。存在論的自由に関するサルトルの理解は、自由は必然性への洞察であるというヘーゲルマルクスの両者が共有する理解とは両立しない。

 

この存在論的自由に関するサルトルの態度は、『存在と無』と『弁証法的理性批判』の間で根本的に変化はないように思われる。いずれも「奴隷も自由である」という、マルクスなら決して発しなかったであろう言葉まで残されている。

 

しかも、上部構造-下部構造の二分法をサルトルは採用しない。代わりに、実践と実践的不活性としての制度との二分法を採用している。しかし、このような実践の理解は、サルトルからすればルカーチを経由して得られたものだと言うのかもしれないが、サルトルの実践の理解を細かく見ていくと、ほとんどシュッツやフッサールの「生活世界Lebenswelt」に近づいていくのではないだろうか。もちろん、この理解は、マルクスとは程遠いもののように思われる。

常識と保守

「常識」とは何かと問う時、そこに現れた文字だけを頼りにして意味を探ると、「常人でも持っているような知識」となりそうであるが、これだと、"common sense"ではなく"common knowledge"になってしまう。そうすると、"sense"には「知識」という意味はないのではという疑問が生じてしまう。"sense"とは知識ではなく、物事を識別する能力の方を指すのではないかと。だとすれば、「常識」とは、「常人でも持っている、物事を識別する能力」という意味であって、「知識」であることを含意するような理解は誤りであるということになりそうである。

 

哲学・思想史を顧みると、この「常識」という概念の由来はアリストテレス『霊魂論』第二巻・第六章にあるkoinê aisthêsisにあるという通説を踏まえるならば、目や耳あるいは鼻などの五官は、それぞれ個別の感覚として分析的に捉えることは可能ではあるものの、人間の身体全体の中では統一されている。個別的で異質な感覚からの情報をまとめて一つのものとして平衡をとりながら調整することで知覚する能力を、アリストテレスはkoinê aisthêsisと呼んだ。

 

そのkoinê aisthêsisに語源を持つ”common sense”とは、したがって、この平衡のとれた調整機能としての意味合いを持つものとして、とりわけ近世以降の英国において理解されてきた。この"common sense"に欠けることは、人格の統一すら危ぶまれるようになるという意味で、人間をして人間たらしめる重要な要素に欠けることであると考えられるようになった。

 

特に、17世紀から18世紀あたりの英国の思想史を紐解くならば、この「常識」が極めて重要な要素として意味を持ち始めたことが理解できる。というのも、スコットランドでは、この「常識」とはかけ離れた極端な主観主義や観念論が幅を利かすようになったからである。

 

ロックは、「熱さ」や「冷たさ」あるいは「甘さ」や「辛さ」といった「第二性質」を単なる観念や印象に分類し、バークレーは、それをさらに進めて、外延や形態などの「第一性質」までをも観念か精神のもたらすものとしてみなすに至った。ヒュームは、さらにバークレーの「精神」まで否定したので、この世にあるものは観念と印象だけという、極めて奇妙でかつ不自然なことになってしまったと受け取られた。サミュエル・ジョンソンは、バークレーと会った帰り際に、次のような嫌味を残したと伝えられている。

バークレー僧正、帰らないでください。あなたが私の目の前からいなくなることは、ご自身の説によれば、あなたご自身が消滅してしまうことになりましょう。私は、あなたにこの世から消えてもらいたくないのです。

こうした観念論の隆盛に対して最も強い反動が見られたのが、ヒュームの出身地でもあるスコットランドであった。いわゆる「スコットランド常識学派」の誕生である。18世紀の「スコットランド常識学派」の中心人物であるトマス・リードに言わせると、ヒュームの観念論は、最終的には帰謬法(背理法)になるというのである。帰謬法すなわちreductio ad absurdumとは、アリストテレス論理学に由来するものであるが、ある命題を真であると仮定して推論していくと矛盾した結論に至らざるをえないことを示すことによって初めに仮定された命題が偽であることを論証する方法である(仮定された命題が真であることを証明する方法ではない)。

 

ヒュームに対する常識学派からの反論は、ヒュームの説を推し進めていくと、この宇宙の中には観念と印象だけしかなくなり、実体を備えたものは何もなくなってしまう。人間の場合も、頭の中に浮かぶ観念や印象はあっても、その人の頭もなければ肉体も実在しないことになる。これは馬鹿げた話なので、観念論の結論自体が観念論の出発点が間違っていることを証明しているのであると。この反論が成功しているか否かは疑問符がつくので、いずれが正しいかをこの場で結論づけるわけにはいかない。

 

19世紀になると、Anglo-HegelianないしNeo-Hegelianと呼ばれる、妙なことを言い出す連中が出てきたが、中でもオックスフォードのフランシス・ブラッドレイの『現象と実在Appearance and Reality』がその代表である。これに対し、ムーアが「観念論論駁」において、「外界の存在」を否定する議論が論理矛盾に陥らざるを得ないことを示すことを通じて、「常識」を擁護する主張を展開した(僕は、ムーアの「観念論論駁」は読んだことがあるが、ブラッドレイの著作は読んだことがない)。面白いことに、「常識」への懐疑論も、「常識」の擁護論も、英国においては保守主義の弁証に帰結したというのが興味深い。

 

ヒュームの懐疑論は、「方法としての懐疑」を通じて、寧ろ「常識」の土壌である「伝統」を擁護する立論としても読めるし、「常識」の擁護をしたムーアも、これまで直接的な保守主義的言説を残しているわけではないにせよ、やはり基本は、英国の伝統的な保守主義を下支えする機能を果たしている。ウィトゲンシュタインの後期に見られる哲学も、もちろん政治的な保守思想を喧伝するものではないにせよ、保守主義の社会理論の哲学的根拠を提供するものとして読む者がいてもおかしくはない。

 

日本のみならず、諸外国でも、「保守主義」ということで首尾一貫した思想的特徴が定義できるわけではないとする議論が一般的である。中には、「保守主義」でも、「社会学保守主義」、「審美的保守主義」、「性向的保守主義」、「方法的保守主義」と多元的に「保守主義」に接近しながら、「政治的保守主義」に共通する特徴を取り出そうとする試みもあるが、これと言って説得的な主張にはお目にかからない。寧ろ単純に、「常識」が、人間の社会が維持されていくため「安全装置」のように機能しているという厳然たる事実を直視することの方が重要である。

 

「常識」の効用は頗る大きいと言わねばならない。但し要注意なのは、この「常識」にどこまでの内包を読み取るかということである。もちろん、それ自体が「常識」に依拠する側面もあるので、厳格に解するならば、「論点先取」の構造になっていること否めない。この「常識」を敢えて懐疑にさらす営みも哲学ならば、同時に「常識」の効用の重要性を指摘する営みも哲学であると考えると、哲学の一部門である倫理学は、一見して前者の営みのように見えるものの、実は後者の営みであることもある。

 

いかなる国家形態も、功の側面と罪の側面を持っている。ネイション・ステイトも、その例外ではない。ネイション・ステイトにおけるネイション=国民とマスとしての大衆は同義ではないが、国民の政治参加の権利が強調されていくに連れ、「国民化」と「大衆化」の動きは、区別がつきがたく連動していった。mass mobilizationが日常化し、いざ戦争になると「総力戦」化せざるを得ないものだから、その結末は悲惨なものになる。

 

国民を戦争に駆り立てるmass mobilizationを、その政治運動に利用したのが左翼である。否、左翼とは、mass mobilizationの中で生まれ出てきた「鬼子」と言った方が正確かもしれない。前衛党を自称する政党が、影響力を及ぼしている労働組合の組合員を動員してデモをしている姿は、日本の都市に住む者なら見たことがあるだろう。殊更に「敵」を拵え、それへの憎悪を徒に掻き立て、声高に独り善がりの珍説・妄説を絶唱し、思想を一色に染め上げようとする態度には、「保守的精神」は見られない。中には、「保守」を自称しながら、在日コリアンに対する排外的な言動を繰り返している連中もいるが、これも「保守的精神」とは些かの共通性がない。

 

確かに、左翼は概して頭が悪い。しかし、その左翼を単に攻撃していれば保守であるかのような錯覚に憑りつかれている者たちは、その「頭の悪さ」が伝染して、同じようなことをしている「ミイラ取り」になってしまっていることを失念している。

 

「論客」として三流・四流の能無しが徒党を組んで保守「論壇」を荒らし回り、頭の悪い新興宗教の信者を動員した集会で奇声を上げて講演料稼ぎに精を出しながら、日本という国を蝕もうとしている姿は醜悪である。中韓には毅然とした対応をと息巻きながら(実際は、中韓に毅然とした対応をしているどころか、理不尽な目に遭っていても「事なかれ主義」で、何もしていない)、米国には毅然として屈従することを恥としない。

 

「保守」の質の劣化は、左派の質の劣化と歩調を合わせてきた。もはや「保守」の名に値しない夜郎自大な妄想狂の戯言が誌面に踊り出し、悪質なデマ雑誌まで氾濫する有様。伝統と乖離した、古典の教養すら皆無の斉東野人や米国の御殿女中のような連中が、悪質なデマゴーグと化している。

 

福田恆存は、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会)第五巻所収の「私の保守主義観」という短い文章で次のように述べている。

私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思ふからだ。

保守とは、首尾一貫したイデオロギーでもなければ、そのもとに結集した者の集まりでもない。したがって、「保守主義」ないし「保守主義者」という言葉は、文脈次第で他に適切な用語が見当たらない場合に「とりあえず」に宛がわれた符牒にすぎず、本来ならば、「保守主義」という用語は相応しくない。ただ、辛うじて言えることは、「保守的精神」ないしは「保守的態度」のみである。それが、イデオロギー的仮構と化した「保守主義」となるならば、それはもはや保守とは遠い隔たった場所にある。

 

制度的な圧迫や、知的力技を誇示することで相手の沈黙と屈服を強いる狡猾な言葉に対する抵抗の精神の働きにしか保守は宿らない。平衡感覚としての「常識」に還ることである。「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するやうに考へてゐるところにある」(小林秀雄「常識」)。小林秀雄本居宣長』(新潮社)の一節にはこうある。

心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るやうに促される。心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさへ言へよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言ふ時、ひそかに考へてゐたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせてゐれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのづから意識される、さういふ生活感情の本性への見通しなのである。・・・この誠実な思想家は、言はば、自分の身丈に、しつくり合つた思想しか、決して語らなかつた。その思想は、知的に構成されてはゐるが、又、生活感情に染められた文体であしか表現できぬものでもあつた。この困難は、彼によく意識されてゐた。