shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

危険なリベラリスト

我が国の国際政治学は、米国のそれとは全く異なる様相を呈している。特に米国では、大学のみならずシンクタンクが充実しているので、国際の政治経済状況に関する論文やレポートが飛び交い、金融業者の中でも、カントリー・リスク分析のために、その類のものを読む機会がある。それを読む限り、日本の国際政治学の状況が、いかに歪な状況であるかが理解できる。

 

戦後日本の国際政治学は、坂本義和に代表される「理想主義」の側と、高坂正尭永井陽之助に代表される「現実主義」の側に主として分かれていた時期が暫く続いた。いずれも、米国の国際政治学の主流とは異質であり、東西冷戦の二極構造がアカデミズムにも反映された状況が、日本において具現化されていたと言ってもいいだろう。例えば、高坂正尭永井陽之助などは「現実主義」と括られて理解されているが、米国の国際政治学における古典的リアリズムやネオ・リアリズムとは一部しか共通性を持たないし、「理想主義」と括られる坂本義和リベラリストであるかと問われれば、明らかに性格を異にする。

 

そもそも、「非武装中立」を叫んでいる者など、米国の国際政治学の世界には皆無に近い。坂本義和が一般読書人向けに雑誌「世界」に寄稿した論説を読む限りは、「このおっさんはアホなのか?」という感想を持つ者も多かろうが、しかし、坂本はシカゴ大学にて、攻撃的リアリズムの国際政治学者ハンス・モーゲンソーの下で学び、のみならず、保守思想のエドマンド・バークについての学術論文をものしていたたけあって、どうも、単なるアホとして片づけられるような人物ではなさそうだし、坂本が非武装中立をその学問的知見から支持したとも考えにくい。当時の「進歩的文化人」をはじめとする左翼の大半がそうだったように、むしろ戦後日本の知的空間を覆っていた左翼的イデオロギーに引きずられてしまった可能性が大きい。いずれにせよ、坂本の頭の中がどうなっていたのか、黄泉の国から引っ張り出してきて尋ねてみたいところだ。

 

米国の国際政治学の世界で、いわゆる「リベラリスト」と括られている代表的な存在は、我が国でも一般によく知られているジョセフ・ナイJr.やジョン・アイケンベリーである。学者ではない実務家だが、「知日派」ということになっている元国務次官補リチャード・アーミテージにしても、少なくともリアリストではなく、どちらかと言えばリベラリストに属するだろう。共和党がリアリストで、民主党リベラリストであるというわけでは必ずしもないのだ。

 

確かに、民主党の方がリベラリストの比率は高いと言えるが、共和党にもリベラリスト外交政策を主張する者は多い。ただ共和党には、リベラリストと歩調を合わせるネオ・コンサーバティブつまり「ネオコン」も含まれているので、より錯綜している。

 

しかし「ネオコン」は、元はと言えば、民主党だった者たちが多く、それ以上の左翼過激派だった者も含まれる。「ネオコン」の代表格であるポール・ウォルフォウィッツはケネディ政権の熱烈な支持者で民主党最左派に属していたし、その師の一人アルバート・ウォルステッターに至っては、元トロツキストである。

 

対して、リアリストとして知られる学者は、先のハンス・モーゲンソーはじめ、ケネス・ウォルツ、ロバート・ギルピン、スティーブン・ウォルト、ロバート・ジャービス、ジョン・ミアシャイマーである。実務家では、ジョージ・ケナンドワイト・アイゼンハワーが代表的(ヘンリー・キッシンジャーをリアリストに分類する向きもあるが、キッシンジャーに関しては若干疑問符が付く)。

 

興味深いことは、リベラリストこそが、米国の一極的覇権構造の維持に拘り、あるいは覇権拡張を目論み、世界中で戦争を引き起こしてきたという事実である。昔から「平和主義者が戦争を起こす」と言われてきたが、米国の外交軍事政策を顧みると、正にその言葉があてはまることが理解できよう。

 

古くは、日本との開戦に消極的であったリアリストの意見を押し切って戦争に踏み切り、その渦中で、東京や大阪など数多の都市に焼夷弾の「雨」を降らせたり、広島と長崎に原子爆弾を投下して、一般人を大量虐殺したのはフランクリン・ルーズベルトハリー・トルーマン率いる民主党政権であったし、ベトナム戦争を始めたのも民主党ケネディ政権である。その後継のリンドン・ジョンソンは更に事態を泥沼化させ、見境なく枯葉剤を散布して後遺症に苦しむ者を生み続けた。

 

中東やアフリカ諸国の大混乱を引き起こしてきたのも、クリントン政権オバマ政権といった民主党政権であった。特に、オバマ政権は、オバマはじめ、国務長官を務めたヒラリー・クリントンが何をやってきたのかを観察すれば、リベラリストこそが世界に混乱の種を蒔いてきたことがはっきりするだろう。

 

バラク・オバマは「核なき世界」を標榜し、これ見よがしに広島や長崎の原爆犠牲者追悼式典などに大使を派遣したり、オバマ自ら慰霊訪問をし被爆者団体の代表者との接触するなどの白々しいパフォーマンスをし、単純な日本人がそれを喜ぶという滑稽を見せつけられたが、なんのことはない。米国のreassurance strategyにまんまと引っかけられただけのことである。

 

そんなアホな日本人をからかうかのように、オバマは同時に、今後20年間を通して、約100兆円もの予算を費やし新しい核兵器開発に投入する政策決定を下し、更には、米国に好ましからざる者の暗殺を命じる大統領令に署名した者である(オバマが署名した数は、これまでの歴代大統領の暗殺命令の合計より多い)。

 

何のことはない。米国が、広島長崎の式典に大使を派遣したり、反核団体への支援をし始めたのは、最近のこと。そのきっかけは、北朝鮮によるミサイル発射実験や核兵器保有宣言である。日本の周りを北朝鮮中華人民共和国、ロシアと核保有国が取り囲む中、まともな安全保障論を考えるなら当然、我が国の核武装が議論されても不思議ではないはずで、そうした声が高まることを警戒する米国が、日本の反核テーゼを放棄させたくないために、一方では被爆者団体や反核団体に大使館職員を通じてコミットするようになり、他方で核武装の議論を封じ込めようと躍起になっていた(政権中枢にいながら、核武装の議論を検討するべきとの意見を表明した中川昭一は、案の定、潰された。興味深いことに、当時「中川バッシング」を最も強力に展開したのは、反核団体や左翼陣営の者ではなく、米国の息のかかった自民党の連中だったという点である。左翼の連中が何を騒ごうと、何の影響もない)。

 

米国の無謀な一極覇権主義に拘るリベラリストに対して、米国の経済的覇権の相対的低下によってその圧倒的なヘゲモニーを維持することが不可能になりつつある現実を直視し、無謀なベトナム戦争イラク戦争などに反対してきたのはリアリストであった(ついでに言えば、対日開戦ですらリアリストは消極的であった)。旧ソ連に対して圧倒的戦力格差を誇った時期に、米国ではソ連への先制攻撃論が俄に叫ばれるようになったが、その声に対して自制を呼び掛けたのは、リアリストのアイゼンハワーであった。

 

防御的リアリズムか、それとも攻撃的リアリズムに立脚するかに関わらず(ちなみに僕は、防御的リアリズムに大いに共感する)、先述のロバート・ギルピン、ケネス・ウォルツ、スティーブン・ウォルト、ロバート・ジャービス、ジョン・ミアシャイマーは、一貫して戦争という手段に訴えることを反対してきた。別に、リアリストが平和主義者であるというわけではない。また、いついかなる際にも軍事オプションをとるべきではないと主張していたわけではない。いざとなれば軍事オプションがとれるという状況を維持しつつ、それでいて軍事オプションはあくまで「最終手段」として謙抑的に行使されるべきものであって、都合よく振り回せる「玩具」ではない。

 

リアリズムに立脚すればこそ、長期的に米国の覇権低下を加速させることになる無益・無謀な戦争を諫めてきたということである。イラク戦争は合理的理由のない無謀な戦争であり、現に、リアリストが警告した通り、その後の中東情勢は一層混乱の度を増している。その意味で、ナイやアイケンベリーなどのリベラリストは、結局イラク戦争を支持し、その馬脚を現したと言える。

 

イラク戦争は、共和党ジョージ・ブッシュJr.の政権時に起きた戦争だが、実はイラクの体制を軍事的・強制的に変革する「イラク・レジーム・チェンジ」計画は、その前のクリントン政権の時に着々と進められていたことが判明しており、「9.11」はそのトリガーとなっただけのことである。ブッシュ政権時に注目されたハースやウォルフォヴィッツなど「ネオコン」と呼ばれた連中は、一見リベラリストの見解とは異なるように見えるが、実際は彼らの外交政策は米国一極覇権主義をとるリベラリストと歩調を合わせていたし、沿革的にも元トロツキストという最左派の連中であった。

 

リベラリストや「ネオコン」に対抗する言説は、主として伝統的なリアリストたちによってなされていたという事実を直視するべきだろう。リベラリストや「ネオコン」は、米国の措かれた事態を冷静に分析するよりも前に、是が非でも米国の世界覇権を維持・拡張することでアメリカン・ヘゲモニーによって世界は平和になるという誇大妄想に捉われて、合理的判断を犠牲にした。結果的に、米国のヘゲモニーはますます減退し、更に無謀な戦争とその後の混乱によって多くの命が奪われ、今も奪われ続けているのである。

 

ある意味でイラク戦争は、国際関係の研究者としての言説の信用度や深浅度を判定する「リトマス紙」のような役割を果たしたと言えるのかもしれない。日本で「現実主義」の立場にあると自他ともに認識する者の多くがイラク戦争に賛成してきたし、その際、相当無理筋な屁理屈を弄して米国の行動の合理性と正当性を擁護する活動に勤しんでいたことを想起しよう。米国の「保護領」に甘んじることこそがリアル・ポリティクスに基づく現実的な選択であると言わんばかりの言動を続けてきたわけだ。

 

北岡伸一田中明彦中西寛、坂本一哉、村田晃嗣など、こぞって盲目的と言える対米追随外交を宣伝してきた。その主張は、アングロ・サクソンと懇ろにやっていけば済むと言っていた岡崎久彦田久保忠衛のような従米派のそれと変わらなくなっていた。しかし、こうした言説は、本来のリアリズムとは言わない。

 

こうした主張をする者は、実は、米国の「知日派」とされている者に踊らされた主張をしてくれる者として表向き歓迎されているとしても、国務省国防総省のアジア担当者からは、米国の立場を率先して宣伝してくれる好都合な人間としてだけ見られている。リベラリストとされる国際政治学者や、「知日派」とされている外交担当者が、実は、最も日本を軽蔑してきたし、ことあるごとに日本の台頭を抑えてきた。

 

逆にリアリストは、殊更日本に関心があるわけではないし、日本贔屓というわけでもない。ただ、日米両国の利益が常に一致するとは限らず、時には対立する局面もあるし、将来的に国際政治のパワーバランスが変化して米国の北東アジアでのプレゼンス後退という事態に至れば(その可能性が濃厚だろう)、ますます国益の対象の不一致は増すわけだから、日本外交が対米追随姿勢に固執することは、むしろリスクを高めることに繋がりかねない。

 

現時点では、日米同盟を基軸とする方向性は是としても、しかし同時に、日米同盟への過度な思い入れを止めて、もう少しフリーハンドの度合を高めた自立的外交政策を模索しなければならないと言う。そのためには、可能な限り、自国のことは自国で防衛するための実力が伴う必要がある。軍事力の裏づけのない外交などというのは、所詮は「絵に描いた餅」、あるいは「車輪の片方のない車」でしかないので、対米従属的地位からの脱却を図りながら同時に中華勢力圏に飲み込まれることを阻止するためには、日本は、嫌が応でも自主防衛能力の向上を急がねばならず、その際は、最低限の反撃能力を確保しておくべく、必要最小限の巡航核ミサイルを自国の意思に基づいて発射できるだけの体制を構築すべく、日本の核武装の選択も視野に入れざるを得ない。

 

ところが、日本の「現実主義」と呼ばれるリアリストならぬ国際政治学者や安全保障論を研究する者の中には、米国が日本の自立に反対していることを知ってか、日米同盟の重要性だけ強調し、自主防衛能力の向上を含めた対米自立の戦略については語ろうとは決してしないし、むしろ逆に、そうした自立を求める言説を潰しにかかろうとさえしてきた。

 

この観点から興味深い著作がある。安全保障論の専門家で、MIT教授のバリー・ポーゼンによるRestraint: A New Foundation for U.S. Grand Strategy., Cornell UP.である。MITの政治学部、特にその国際関係プログラムは、今や米国で最も優れた部門の1つを形成している。ポーゼンは、米国のグランド・ストラテジー大戦略)の研究者として著名である。米国は、東西冷戦終結後の大戦略を立て直す作業に従事したが、残念ながら、バリー・ポーゼン、ハーベイ・サポルスキー、ユージン・ゴールツ、ダリル・プレスら防御的リアリズム(防御的リアリズムの巨星は、あのケネス・ウォルツだ)に立つリアリストの理論は採用されず、リベラリストの主張する米国の一極覇権構造の拡張路線が選択され、今日の大混乱に至っている。

 

ポーゼンらは、米国の一極覇権構造が安定的に推移するとは考えず、むしろ世界を不安定化させ、米国の力はさらに低下することを”Come Home, America”で警鐘を鳴らしていた。彼らは、伝統的な不介入主義のアプローチを想起させる「自己抑制」の大戦略が必要であると主張していた。

 

ポーゼンは、現在の大戦略の議論を、リベラリスト覇権主義とリアリストの抑制主義という2つの主要なライバルの間にあるものとして描く。リベラリスト覇権主義は、リベラリズムと国家安全保障のために、米国の一極覇権構造に基づく世界支配を断固として維持することを目的とした大戦略である。この大戦略は、冷戦終結以来、支配的な米国の大戦略となっており、リベラリストと「ネオコン」双方の主要な外交軍事政策設定のコンセンサスである。この大戦略に対して、ポーゼンは、「不必要で、逆効果で、費用がかかり、無駄である」、そして最終的には「自滅的」であると批判する。

 

本書の前半部分は、リベラリスト覇権主義の内容と、それが如何に米国の最終的破局に繋がるかを滔々と説明している。後半部分は、覇権主義に対するリアリストの抑制主義について説明する。その中で、抑制主義が、米国の戦略的位置に関する事実関係の説明を通して合理的戦略であることを論じる。米国は非常に強力な「パワー」であり、地政学的に見て、海に囲まれ、周辺諸国は弱い「パワー」しか持たず、米国の脅威となる国は存在しない。社会主義国キューバの存在は、ソ連消滅後は今のところ米国の脅威にはならない。

 

ポーゼンによると、リベラリスト覇権主義の2本の柱は、第一に、「他のすべての大国と比較して米国の大国の優位性に基づいて構築されており、その優位性を可能な限り維持することを意図している」ため覇権的であるということ。それは、潜在的な挑戦者が米国と競争しようとすることさえ思いとどまらせ、世界中の米国が支配する安全保障関係を管理することを思いとどまらせる圧倒的な軍事力を構築することによってこれを達成する。

 

第二に、リベラリスト覇権主義は「リベラルである」。それは、「西洋社会一般、特に米国社会に関連する様々な価値観を擁護し促進することを目的としているからである」。特に、このアプローチが、「破綻国家、ならず者国家非自由主義的同盟国」を、米国と世界平和への脅威の主な原因として特定している。

 

要するに、これらのウィルソン主義者は、「米国は、我々のような国で満たされた世界でのみが真に安全でありえ、米国がこの結果を追求する力を持っている限り、そうすべきである」と信じているのである。

 

ポーゼンは、このリベラリスト覇権主義戦略は冷戦後の時代にはあまりうまく機能しておらず、変化する未来の世界では「ますます機能しない」と主張している。リベラリスト覇権主義は、血と財の面で非常に高額であり、今後も高額になる。米国は1992年以来、4つの戦争を戦い、これらの紛争と軍隊の維持に数兆ドルを費やしてきた。自由主義の覇権は、米国との完全なバランスをとっていないとしても、他の同盟国に対して米国への協力を促し、NATOや日本などの同盟国がより貢献できる時には「安い乗り物」に動機づけられてきた。米国の安全保障への取り組みは、コストに見合わない。

 

さらに悪いことに、リベラリスト覇権主義は、フランス革命以来のアイデンティティ・ポリティクスによってもたらされた困難を適切に考慮しておらず、したがって世界を形作るための米国の努力は国、民族、宗教的に動機づけられた力によって覆される。また、リベラルなヘゲモニストが支援する「人道的介入」は、戦略的な理由ではなく慈善活動のためにごく稀まれに行う価値があるケースの存することを認めはするものの、特に基本的な人道的危機の是正を超えた場合、軍事力で実行するのは複雑で困難を極めると釘をさす。

 

リベラルなヘゲモニストは、問題含みの「ドミノ理論」に依存して、事象の相互接続性と、それらが米国の安全保障上の懸念にどのように関連しているかを誇張している。米国の経済的利益のために覇権的な立場を維持することの重要性についての彼らの主張も誇張されている。

 

ポーゼンの主張する抑制主義は、本書の第2章で展開されている。ポーゼンは、主権・安全性・領土保全・地位を含む米国の担保についての議論から始め、次に潜在的な脅威とそれらに対処する方法を慎重に検討する。これらの中で最も重要なのは、「ユーラシア」の勢力均衡を混乱させる「大陸の覇権の台頭」である。「グローバルな野心を持っているテロ組織」の核兵器保有に注視している。ポーゼンは、「今日、ユーラシアには覇権の候補がない」ため、最初の脅威が実際に発生するリスクはほとんどないと考えている。これが、米国が段階的にコミットメントを削減し、世界的な軍事的プレゼンスを削減できる理由の1つである。

 

核兵器による脅威については、米国は他国による核攻撃とテロリストへの核物質の移送の両方を阻止する必要があり、米国は他の核保有国が核兵器を確保するのを支援すべきだと考えている。この点は、同じく防御的リアリズムに立脚するケネス・ウォルツと同じである。ポーゼンは、予防戦争の議論を正当化するために使用される仮定である「狂気の状態」を阻止することはできないという見解を支持していない。

 

しかし同時に、ポーゼンは、拡大抑止の頑健性についてそれほど楽観的ではない。したがって、米国は試練にさらされる可能性のあるコミットメントに警戒する必要があると言う。ポーゼンは、情報収集、武力の行使、特に特殊作戦やドローン攻撃、外交など、国際テロリストに対して積極的な措置を講じる必要があることを高く評価する一方で、米国の前方展開された軍隊と大規模な作戦は多くの場合事態を悪化させる可能性があると指摘している。

 

ポーゼンの分析は、特に中共が台頭する中で、東アジアを抑制主義を実施する「最も問題のある地域」として特定しており、米国は地域の勢力均衡を維持することに関心を持っている。但し、ポーゼンは中共旧ソ連ほど大きな脅威になることを心配しておらず、冷戦スタイルのアプローチは不要であると主張している。その代わりに、米国は、日本のような同盟国との安全保障支援関係を維持しながら、「同盟国が自国の防衛に対してより多くの責任を負うことを奨励する」べきであると述べ、日本の核武装の必要性を匂わせる。

 

他方、中東では、米国が地域全体、特にイスラエルパレスチナの紛争において、そのプレゼンスを減らすべきであると主張している。これは、石油の流れを維持し、単一の国がこの地域を支配するのを防ぐために、最小限の土地の存在を維持しながら「オフショア」に行くこと、すなわち、米国がこの地域の内戦に参加せず、湾岸の海軍力に焦点を合わせていくことを意味する。イスラエルに対しては、米国が「意図的に行動」して、私たちの利益にならないことが多いイスラエルの政策への補助金を削減すべきだと考えているようだ。それは、イスラエルが受ける軍事援助が少なく、自国の武器購入に資金を提供しなければならなかった、1967年以前の米国のアラブ・イスラエル戦争の立場に戻ることを意味するだろう。

 

第3章では、抑制主義と一致する軍事戦略と部隊構造について説明している。そのアプローチを「コモンズの指揮」と呼んでいる。このようなアプローチは、米国がその中核的利益を保護し、その戦略的立場を利用し、同盟国に彼らの安全に貢献するように奨励し、そして力を拡大する必要がある場合に時間を稼ぐことを可能にする。この戦略は、陸軍の削減を可能にしながら、海軍と空軍により大きな相対的負担を課すことになる。その間、海兵隊は水陸両用作戦に再び焦点を合わせるだろう。全体として、抑制主義は、特に海外での軍隊の規模とプレゼンスを縮小させることにより、国防費を約2割削減する効果を生むというのである。

 

本書の最大の強みは、リアリズムの基盤の上に構築された冷静な分析であろう。ポーゼンは世界をそのまま見て、「暗い悪夢」や「理想主義的な夢」が米国を迷わせることを拒否する。米国が国際的な課題、特に非国家主体からの挑戦の影響を受けないという楽観論に与しないが、しかし米国は、不自然な一極覇権構造を維持するために多額の代償を払わずに、リベラリリスとの覇権主義を追求し続けることは現実的に不可能であることを強調する。いずれにせよ、国際政治の急速な変化の不安定化効果に対するポーゼンの洞察は、米国の安全保障を考えたならば、不必要な戦争を狂ったように反復してきた危険なリベラリスト覇権主義からの移行の必要性を説得的に論じている。

 

イラクやイランを根絶やしにしてしまえ」と国家安全保障会議でまくし立て、リビアの独裁者カダフィ大佐がリンチによって殺害された映像を目にして、We came, We saw, He died!と目を輝かせ手を叩いて喜んだヒラリー・クリントン、そして「イスラエルを地上から抹殺せよ」と叫ぶイルハン・オマル、あるいは、非合法な暗殺を命ずる大統領令に歴代大統領のそれの合計より多く署名し、中東を大混乱に陥れて平然としているバラク・オバマのようなリベラリストこそが、世界をかえって混乱に陥れているということがよくわかる本書を読む価値は大きい。