shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

大東亜戦争開戦から80年目を迎えて

昭和16(1941)年12月8日は、日本が米英に宣戦を布告した大東亜戦争開戦の日であり、今日は、真珠湾攻撃から数えて、ちょうど80年目を迎える。日米対立が決定的となった直接的契機は、南部仏印進駐であると言われる。確かに、この認識自体に誤りはないだろう。事実、南部仏印進駐が現実になるや、米国は資産凍結命令と対日石油禁輸を発動したのだから。但し、この時点では、米国政府内部は対日強硬論一枚岩であったわけではなかったことも確か。

 

当時の海軍作戦部長だったターナーは、対日石油禁輸は日本の蘭印やマレー進出を招き、そうなれば、フィリピンを植民地として抱える米国としては、その権益保護のため、太平洋上での戦争に入らざるを得ない状況に至るとの内容をルーズベルトに進言していた。この進言を受け入れたルーズベルトは、ウェルズ国務副長官に対して、石油の全面禁輸を避けるようにとの指示を出し、輸出管理局も、国務・財務・司法省合同外交資金管理委員会に対して、日本向けに45万ガロンのガソリンを含む輸出許可を出していたのである。

 

しかしこの決定は、アチソン国務次官補によって覆されてしまう。ルーズベルトは、8月3日からニューファンドランド沖の船内で予定されていたチャーチルとの秘密会談のためにホワイトハウスを不在にしていた。ただ、そのルーズベルトはと言えば、チャーチルとの秘密会談の席で対日開戦を決意するとともに、開戦の口実作りのために、日本から先に攻撃させるよう如何に挑発するか、また日本に勝利した後、日本を永久に武装解除させ、米国のアジア拠点として属国化する計画を練り始める。真珠湾攻撃の4か月も前のことである。ルーズベルトは、日本が米国に対して戦争を仕掛けるように仕向け、対日戦に勝利した後の日本の武装解除まで予定していたというのである。そうすると、アチソンの決定にルーズベルトが了承を与えていたということになりそうである。

 

では、この時期に米国政府内全体の意思決定として対日開戦が決断されていたのかというと、国務省内ではまだ外交交渉による妥結を模索する動きが見られたことから、暴露された秘密会談の内容で以って断言することは難しい。他方、米国による対日石油禁輸措置に対して、近衛文麿内閣は、事態打開のために「近衛・ルーズベルト会談」を提案し外交交渉を優先する策を講じたが、東条英機陸軍大臣が拒否して近衛内閣が崩壊してしまう(一度廃された軍部大臣現役武官制廣田弘毅内閣によって再び復活されていたことのツケが、ここで回ってきたというわけだ)。

 

近衛からすれば、①シナからの撤退、②南部仏印からの撤退、③三国同盟からの離脱ないしは事実上の骨抜き、という米国側の要求に応じる心づもりはあったようで、米国国務省の側も、暫定協議案を日本に提示する予定があったという。

 

ところが、国務長官ハルが、日本としては絶対に飲めない、④満洲権益の放棄という条件を追加した「ハル・ノート」を突き付け、事態は一触即発となる。米国は、日本が④については応諾できないことを認識していた。日本側が承諾することのない条件を付加した提案を敢えてすることによって、事実上、外交交渉打ち切りを暗黙に宣言したのである。

 

日本政府としては、①~③は承諾できても、④までとなると無理な相談。結果として、日本から米国に宣戦を布告して事態を一気呵成に打開する賭けに出るより他ないと、「清水の舞台から飛び降りる覚悟」で対米英戦を決断した。「ハル・ノート」が日本政府に打電された11月26日、連合艦隊約50隻の艦艇が、ハワイ攻撃に向けて択捉島から出港した。だから問題としては、「ハル・ノート」に至る手前で阻止できたかどうかということになるだろう。したがって、④が追加された事情が明らかにされる必要があるが、これについては、どのような力が働いてそうなったのかはわかっていない。

 

大東亜戦争における「連合国」の勝利は、アジア・アフリカ諸国にとって「解放」を意味したわけではなかった。全体主義諸国に対する民主主義諸国の勝利でもなかった。スターリン率いる旧ソ連は、民主主義とは程遠い共産主義者による恐怖政治だったし、バルト三国を不当に占領した侵略者だったし、日ソ中立条約を一方的に破棄して南樺太や千島列島を占拠し、あわよくば北海道北東部をも占領しようと、ポツダム宣言受諾の意向を通知した8月15日以降においても我が国への攻撃を止めなかった。また、旧宗主国は、アジアやアフリカの植民地化は欧米列強諸国の権利であるとばかりに、日本の敗戦後に再植民地化に乗り出した。

 

欧米列強、とりわけ英仏蘭など西欧の列強諸国は、単に「先発的」帝国主義国でしかなかった。英蘭は、自国だけでは我が帝国陸海軍を前にして手も足も出ず敗走するより他なかったので、彼ら彼女らのプライドが痛く傷ついたであろうことは容易に想像できよう。マレー沖海戦では、英国が誇る東洋艦隊が全滅。プリンス・オブ・ウェールズが海の藻屑と化したという報を耳にした宰相ウィンストン・チャーチルは号泣したという。栄ある我が大英帝国海軍が、「極東の猿」どもなんぞに負けるわけがないと内心で思っていたことだろう。それが、どうしたことか。日本軍の一撃に東洋艦隊は木っ端微塵に粉砕され、長年アジア地域に居座ってきた英国があっという間に蹴散らされたというのだから、チャーチルの屈辱感は相当なものであったに違いない。

 

今も、旧日本軍の行動に難癖をつけて糾弾する声が英蘭などに僅かながら存在するが、ことごとく己の行為については棚に上げていることが甚だ滑稽。英蘭が、長年にわたってインドやジャワなどで何をしてきたのかを考えてみればいい。支那事変や大東亜戦争の戦場と化した地域の住民から批判されるのなら、その批判に対しては誠実に対すべきだろうし、もちろん、旧日本軍の振る舞いにも決して誉められるような態様ではなかった点が存し、また一部捕虜の扱いについても問題があった非を認めるに吝かではないが、少なくとも、英蘭のような「先発的」帝国主義諸国から非難される言われはないだろう。

 

列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル恂ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ。

と、大東亜戦争の開戦の詔書にはある。大東亜戦争単独で捉えるとするならば、昭和26(1951)年5月3日に行われた、米国連邦議会上院軍事外交合同委員会の席において、後にダグラス・マッカーサーも“Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.”と認めざるを得なかった通り、主として安全保障上の必要に迫れての自存自衛のための戦争という理屈は成り立つかも知れない。このマッカーサー証言の最後は、次の一文で締めくくられている。

There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asian basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

すなわち上記の通り、当時の日本には、蚕を除いて国産の資源は実質的にほとんど存在しなかった。綿も羊毛も石油製品もスズもゴムもその他多くの資源もなく、それらすべての物はアジア海域に存在していた。"They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan."とあるように、これら必需品の供給が断たれた場合、日本では1000万人から1200万人の失業者が発生するだろうとの恐怖に駆られてもいた。それゆえ、"Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security."と、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったという結論を下した。

 

なるほど、そういう一面は確かにある。しかしながら、開戦に至る過程全体を俯瞰して見るならば、全くの「自存自衛のための戦争」と位置づけることは難しい。しかし、20世紀に入ってからの我が国の振舞は(日露戦争より後というべきかも知れないが、対朝鮮関係については微妙な問題が残る。朝鮮からすれば日本の保護国にされた契機だったかも知れないが、我が国からすれば、日露戦争の原因を作ったのは、元はと言えば朝鮮の事大主義的外交政策なのであって、それによって我が国は安全保障上の危機が切迫する事態にまで陥ったのだから、朝鮮こそある意味で「加害者」であるとの論理も成り立つ。とはいえ、保護国化までに留めておくべきであった)、「後発的」帝国主義国家としての一面を有していたことは否めず、こうした視点から捉えるならば、大東亜戦争とは、「先発的」帝国主義諸国と「後発的」帝国主義諸国との権益争い・勢力争いの末、我邦が選択肢を狭められ、追い込まれた状況において起きた、ある種重層的ともいうべき構造を持つ戦争であったのではないだろうか。

 

それゆえ、単純に「自存自衛の戦い」であったとするわけにも、ましてや、「アジア解放のための聖戦」とするわけにも行かない。確かに、「大東亜共栄圏」の理念を本気で信じた者もいて、敗戦後も現地に居残り、再植民地化を仕掛ける欧州帝国主義諸国に対して現地人に協力して戦った旧日本軍兵士も数多く存在した。また当時の世情を見ても、欧米列強に対抗する「アジアの盟主」としての日本という認識が蔓延していたことも確かである。しかし、大東亜戦争の遂行に携わっていた政策決定者の意思は必ずしもそうではなく、「アジア解放」という理念は後知恵的に付加されたものでしかなかったと言われても仕方ない実態を参酌するならば、「アジア解放のための戦い」と理解することは、かなり無理筋なことである。

 

もちろん、左翼が主張するように、「アジア諸国に対する侵略戦争」と断罪して済ますわけにも行かない。自分たちの政治的主張を実現するための「印籠」としての「アジアの民衆」を有効に活用するため、アジア諸国の領土を侵略した「悪の帝国」日本と、それに抵抗した「アジアの民衆」という単純な善悪二元論的構図の中にあの戦争を位置づける左翼の主張も恐るべき単純化であり、歴史を単なるイデオロギーとしてしか見ていないことの何よりの証左であろう。特異なイデオロギーに任せて、特定の局面のみを都合よく切り取って平仄を合わせるような見方は、極めて乱暴な歴史の切り取り方であり、その道徳主義的断罪の姿勢は、必ずどこかの国の利益を代弁するプロパガンダに容易く変貌してしまう。どの視点から見るかによっても見方は違ってくるだけでなく、どういう文脈に位置づけて理解するかによっても見方は大いに異なってくる。

 

大東亜戦争に至る過程で致命的だったのは、我が国の大陸政策が既に失敗を決定づけられていたという点である。個別の戦局においては、俄然その能力を遺憾なく発揮し、国民党軍に勝利を収めていた我が軍であったが、大局的な見通しに基づく国家戦略に欠き、場当たり的な対応に終始した。こうした大陸政策の失敗の起点は、対華二十一か条の要求をした大正4(1915)年にまで遡ることができる。中共は、日清戦争以後の我が国の行為を糾弾するが、日清戦争に関して言えば、元は双方の対朝鮮政策の衝突の末に起きた戦争であって、我が国が清国に対して侵略した戦争ではない。

 

問題は、大正4年以後の我が国の対支外交が露骨な覇権主義的な行動に様変わりしたことである。当時は、列挙諸国に共通して見られた振舞いであったとはいえ、対華二十一か条の要求は、中華民国に対する露骨な覇権主義的な恫喝行為であり、これを理不尽な要求だと反発して、「中華ナショナリズム」が湧き起こるのも無理ない話であった。仮に、大東亜戦争で日本が敗北せず、大陸での権益を確保できていたとしても、おそらく、その後、「植民地解放」の世界的な流れの渦中に我が国も巻き込まれ、大陸や台湾、朝鮮など現地人からの猛烈な反発に悩まされていた可能性もあろう。

 

ハル・ノート」については、近年、中華民国の対米ロビー活動が果たした役割も注目されているようだが、それが決定的な重要性を持っていたかは、歴史学の研究者でもない僕にはわからない。ただ、いずれにせよ、突如として④の項目が追加されたのはなぜなのかを理解するにあたって、注目しなければならないのは、やはりニューファンドランド島沖に停泊していた船内でのルーズベルトチャーチルの秘密会合の果たした役割と、中華民国側からの猛烈な対日強硬策の具申ではないかと思われる。だとするなら、対米開戦は、米国により仕掛けられた罠にまんまと嵌められた結果だと言えなくもないけど、その前提には対支政策の失敗という観点を無視するわけにはいかないのではないか。罠であれ何であれ、罠を罠として見抜けず、しかも早期収拾が可能だとの甘い見込みに反して泥沼化した支那事変を抱えながら対米開戦に踏み切った判断は、当時の状況に身を置いて考えたとしても肯定できるものではないだろう。

 

昭和6(1931)年9月に勃発した満洲事変は、旧関東軍高級参謀の石原莞爾板垣征四郎が首謀した事件であることは明らかで、あの事件は中華民国への侵略行為とは言えないとしても、少なくとも、「後発的」帝国主義国である日本が、大陸での権益確保(当時の日本は、満洲に莫大な資本を投下していた)と防共のための防波堤構築の一環として満洲地域に地歩を固めるための行為であり、事変の発端となった柳条湖事件は日本政府の意向に基づくものではなかったとはいえ、満洲事変を事後追認し、挙句は満洲国を建国させ、日満議定書を締結し、満洲総務庁など主要部門に大量の官僚を投入していった過程を総合的に勘案すれば、覇権主義的拡張政策として評価されても仕方がない。

 

但し、中華民国への領土侵略と断ずることができないのは、あの地域がそもそも中華民国領土と誰もが認めるような事由が存在せず、歴史的に見ても、漢族が長くあの地域を支配していた歴史もないからである。昔から、様々な民族・部族が群雄割拠する領域だったのであり、領域国家が主流になった時代の論理を直接当てはめて理解することは困難である。だからこそ、国際連盟の「リットン報告書」にも、日本による中華民国領土に対する侵略とは記されていない(対日非難の理屈は、既に日本が締結していた九ヶ国条約に違反するという内容である)。例えば、幣原喜重郎の認識によれば満洲地域はロシア領であったし、軍閥の張学良からすれば、満洲中華民国の領土であるということになる。それほど人によって認識が異なっていて、共通認識が形成されていたとは言えない状況であった。

 

とはいえ、どう理屈を捏ね繰り回そうと、日本領であると強弁することは不可能であるから、あくまで満洲族による独立国家の体をとるより他なかった。「五族協和」・「王道楽土」との掛け声は形ばかりの欺瞞であったことは確かだろうが、馬賊が闊歩するあの荒野を開発して短期間で近代国家に仕上げた満洲国の経験は、我が国の戦後の高度成長のための政策に活きたし、何より、中華人民共和国も、建国後しばらくは、全工業生産の9割を旧満州国の遺産から賄っていたわけで、結果的には、中華人民共和国の経済を支える源に満州国がなっていたという点も見なければならないだろう。

 

そうした点を踏まえてもなお、こうした日本の一連の行動が、中華民国からすれば、自分たちの権益を侵食する行為に映ったのも当然と言えば当然で、五・四運動あたりから徐々に芽生えてきた「中華ナショナリズム」に基づく「日貨排斥運動」への「逆ギレ」から華人蔑視の態度を強くしていった日本の傲慢な姿勢に対する、「国民」化していった華人の憤怒が沸点に達した事情も理解できる。

 

日本側の認識としては領土侵略の意図はなくとも(いわゆる東京裁判において認定された「共同謀議」などあろうはずもない。もし、あったとするならば、あのような場当たり的とも言える戦略性に欠く行動はとらなかっただろう)、中華民国から見て、日本の行動によってもたらされた一連の事象を連続的に捉えるとするならば、満洲事変から支那事変への流れを「侵略戦争」という一語で片づける乱暴な主張には与し得なくとも、我が国の大陸政策の一側面に「侵略性」が微塵もなかったと断言することもできそうにない。

 

支那事変における南京攻防戦の末に生じたとされる、いわゆる「南京事件」が、歴史的事実としてあったのか、なかったのか。仮にあったとして、それが実際にはどの程度の規模だったのかという問題は、専ら歴史学の議論の範疇を超えて、政治問題やイデオロギー対立にまで飛び火しているので、中々冷静な議論ができない状況が続いている。

 

中共はもとより、中共と懇ろな関係にある日本の左翼が、日本批判を展開するための恫喝用カードとして最大限利用する際に、殊更事件を大きく見せようと躍起になっており、逆に、そうした恫喝外交に屈しまいと意気込むあまり、全くの虚構であると抗弁する者たちの極端な主張が対置されるという、およそ建設的とは言えない茶番劇が反復されているというのが実態である。

 

一つ確認しておきたい点は、毛沢東自身は「南京事件」について触れたことがないという事実である。中共中央が編纂した『毛沢東年譜』にも、「南京事件」が発生したとされる昭和12(1937)年12月13日から数週間もの間、事件についての直接的な言及もなければ、事件を匂わせる記載すらない。それ以後も、毛沢東自身が「南京事件」に言及した形跡もない。

 

もちろん、日本軍と戦闘していたのは、主として蒋介石率いる国民党軍であって、共産党はというと、延安に引きこもって大したことをしておらず、散発的にゲリラ戦を遂行していたに過ぎないので、ほとんど無関心だったとも考えられよう(中共が「抗日戦勝利」などというのは、実態とは程遠い戯言の類である)。あるいは、秦の始皇帝より多くの人間を殺害したことを自慢していたほどの稀代の「殺人鬼」であった毛沢東のことであるから、「南京事件」で何人死のうと、取るに足らないことだと考えていたのかもしれない。ただ、後の中共があれほど大仰に騒ぎ立て、対日外交のカードとして利用している割には、毛沢東自身がこれについて何も触れていないのは、極めて不自然と言える。

 

もちろん、これを根拠に、「南京事件」は捏造された虚構の事実であったと言いたいわけではないし、これによって、渡部昇一東中野修道のような「まぼろし派」の主張が肯定されるわけでもない。渡部昇一は、東京裁判で証言したマギー神父が実際に目撃したとする人数を以って、南京での虐殺行為を否定する論陣を張っていたかと思われるが、さすがに根拠薄弱であるし、他の否定派の論者にしても、例えば松井石根の日記を改竄した者もいるなど、その主張の信頼性は乏しい。

 

とはいえ、もし「南京事件」が、現在の中共が主張するような数十万人規模の組織的な大量虐殺であったというのならば、毛沢東は何らかの言及をしていて然るべきではないかという疑問は依然として残る。しかも毛沢東は、中華人民共和国建国後、その能力を高く評価していた、支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将を北京に招待していたというのだから(岡村は、台湾への気遣いから、この申し出を断って北京に行くことはなかったが)、この点から見ても、少々合点のいかぬ話ではある。

 

戦史研究者でも何でもない素人の認識が正しいのかどうかわからないが、いわゆる「南京事件」と称される虐殺行為が事実としてあったと思うかと問われたら、規模の点ではまだ不明確な点が残るものの、何らかの虐殺行為があったのだろうと答えることにしている。但し、中共の政治プロパガンダと化している数十万人規模の大虐殺とも、上海派遣軍の組織的方針に基づく虐殺とも思わない。

 

南京陥落時において、日本軍の軍紀が相当に乱れていたのは確かであって、「便衣兵」の存在に悩まされ混乱状況にあった現場のレベルで、「便衣兵」狩りと称した捕虜殺害や一般市民の虐殺あるいは婦女への暴行・強姦といった事案が方々で発生し、収拾つかなくなったというのが真相なのではあるまいか。「首都攻防戦」で誰が敵かと疑心に苛まれている状況において、正気を保ち続けられる者は中々いないのではないか。特に、職業軍人ではなく、徴兵された市井の者であるならばなおのことである。そのように、素人として考えるより他ない。

 

いずれにせよ、近・現代史ないしは戦史を専門で研究している者の著作や論文を見渡すと、先の「まぼろし派」は皆無に等しいのが現状で、規模や態様などについて争いはあるものの、何らかの虐殺行為の存在はあったとする見解が支配的であるように見受けられる。と同時に、数十万人規模の大虐殺があったとする、中共の政治プロパガンダに呼応する見解に与する者は、もはや少なくなっているように思われる。

 

あくまで素人の意見でしかないことの断りを入れての話だが、事件そのものを映した写真や映像など、事件の存在を直接的に証明する証拠として大部分の専門家が認める物証は、今のところ見当たらないことが事実であるとしても(証拠とされてきた写真や映像には、それが旧日本軍による南京での行為を映したものであるのか大いに疑わしいもの、国民党軍による自国民殺害の写真、プロパガンダ用に捏造されたことが明白なものまであり、学術的検証に耐えうる直接証拠は、将来はともかく、現時点では存在しないようだ)、岡村寧次大将の残した日誌など諸々の間接証拠を積み重ねることから推察されることは、東京の陸軍中央に動揺が走るほど緊迫した状況があり、その渦中で、ある程度の規模に及ぶ虐殺事案が発生したのだろうということである。少なくとも、昭和12(1937)年12月13日から数週間、捕虜や兵士あるいは「便衣兵」に対する虐殺が行われ、その中には、巻き添えを喰らった無辜の一般市民も含まれていたと推察される。したがって、「まぼろし派」の見解は採れない。

 

さりとて、中共が主張する30万人ないしは40万人という規模の大虐殺が起きたとは信じられず、また犠牲者全てが「無辜の一般市民」であったのかどうかも疑わしく、一般市民を装った「便衣兵」が相当数存在したのではないかと思われる(確定的なことは言えないが)。

 

いずれにせよ、「大虐殺派」の主張は誇張に過ぎるし、さりとて「まぼろし派」の主張は無理筋の説に思える。「便衣兵」の存在をどの程度見積もるか、あるいは南京城外の戦死者まで計測に入れるのか、はたまた通常の戦闘行為による戦闘員の死者数まで含めるのか否か、こうした諸々の点から被害規模の評価も異なってくるのだろうから、規模については当然に諸説争いは残るだろうが、終局的には、秦郁彦南京事件』(中央公論社)のような「中間派(数百人~数万人まで幅広い)」の主張に収束して行くのではないだろうか(個人的な想像では、数千人から1万人、最大見積もって2万人くらいの数かなと。もちろん、それでも虐殺であることに変わりないのだけれどね)。