shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

チュチェ思想再考

チュチェ思想として知られる政治哲学は、1972年に朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)公式の「唯一思想体系」としての国家的イデオロギーに確立された。日本語では「チュチェ」を「主体」と訳し、「チュチェ思想」を「主体思想」と訳されているが、この用語の意味は実のところ微妙であると言わなければならないだろう。

 

故キム・イルソン主席は、チュチェ思想について、次のような説明をしている。

 

チュチェの確立とは、一言で言えば、自国の革命と復興の主人になることを意味する。これは、自立した立場を堅持し、他者への依存を拒否し、自分の頭脳を使い、自分の力を信じ、自立的な革命精神を示し、それによって自己の問題をあらゆる状況下で己の責任において解決することなのである。

 

朝鮮民主主義人民共和国は、「チュチェ思想とは、故キム・イルソン主席がマルクス・レーニン主義の原則を共和国の現代の政治的現実に創造的に適用したものである」と主張している。

 

キム・イルソンは、チュチェ思想の3つの具体的適用を説明する。特に、ソビエト社会主義共和国連邦中華人民共和国からの政治的独立(自主)、経済的自立(自立)と実行可能な国防システムの構想(自衛)からなるわけだが、チュチェ思想を再考するにあたっては、チュチェ思想の思想的起源とその哲学的基礎に関する考察、政治思想としてのチュチェ思想の検討、チュチェ思想に基づく政策が北朝鮮の政治的・経済的現実に応えた評価を分けて考える必要がある。

 

チュチェの統治原則は、キム・イルソンが1967年12月16日に最高人民会議で行った「国家活動のあらゆる分野において、自主、自立、自衛の革命精神をより徹底的に守ろう」と題する演説で明確に表明された。その中では、次のように宣言されている。

 

共和国政府は、国の政治的独立を強化し、わが国の完全な統一、独立、繁栄を保証し、国の防衛能力を高めることができる独立した国民経済の基盤をより強固に構築するために、祖国の安全を自力で確実に守り、党のチュチェ思想をあらゆる分野で見事に具現化することによって、自主、自立、自衛の路線を一貫して実施する。

 

国内外の自主、政治的独立の原則は、チュチェ思想の中心的な教義の一つである。国際関係に関しては、チュチェの原則は国家間の完全な平等と相互尊重を強調している。更に、チュチェ思想は、すべての国家が人民の幸福と繁栄を最も適当と考えるように確保するために、自決権を有すると主張している。これらの政治的信条つまり平等な主権と相互不干渉の原則は、北朝鮮のような小さくて弱い国民国家の生存と繁栄に対する要求に叶うものであった。

 

朝鮮労働党の解釈によると、外国の圧力に屈したり外国の介入を容認したりすることは、自主つまり国家の独立と主権の防衛を維持することを不可能にする。これは、政治的独立が経済的自立と軍事的自衛にとって絶対に重要であると見なされているため、国益を守る力を脅かすことになる。

 

キム・ジョンイル総書記は、外国勢力への依存が朝鮮社会主義革命の失敗に繋がると予測していた。一方、キム・イルソンは、中国、ソ連キューバ、いくつかのアフリカ諸国など、社会主義友邦と見なした国々で協力を促し、相互支援と限られた依存の必要性を強調していた。とはいえ、キム・イルソンは、他の社会主義国の例から学ぶことが重要であることを認めながら、モスクワと北京に対する事大主義の問題と、抗日ゲリラ闘争期に忌み嫌ったマルクス・レーニン主義の独断主義に敏感だった。

 

北朝鮮社会主義革命を構築するにあたり、キム・イルソンは、北朝鮮人民が「他人のものを未消化で飲み込んだり、機械的に模倣したりする傾向を断固として拒否する」と主張する。更に、キム・イルソン政権の「成功」は、マルクス・レーニン主義の原則を北朝鮮の特定の条件に適合させ、その基本的な内容を変えることなく、すべての問題が解決された独立した方法によるものであると主張した。

 

国内では、自主を確保するために内部の政治力を構築することが不可欠であると主張され、自主の成功の極めて重要な要素は、人々が党と指導者、そして後にキム・ジョンイル自身の周りに凝集する度合である。おそらく、朝鮮戦争前の内部の派閥主義に対するキム・イルソンの嫌悪感から生じた、内部の支持統一に対するこの主張は、個人的な権力の統合を正当化するのに都合よく使われた。

 

政治的完全性を確保し、国家の繁栄を達成するためには、独立した自給自足の国民経済が必要である。経済的自立は、自主または政治的独立の重要な基盤と見なされているからだ。キム・イルソンは、対外援助への経済的依存が国家を他国の政治的衛星国にせしめることを恐れた。キム・イルソンは、自立した国民経済に由来する物質的・技術的基盤なしに社会主義の共和国を首尾よく構築することは不可能であると信じていた。

 

キム・ジョンイルによれば、朝鮮が独立した国民経済を構築するということは、他国への依存から解放され、自立した経済、自国民への奉仕、自国の資源の力と人民の努力によって発展する経済の構築を意味した。国民経済の存続と独立にとって同様に重要なのは、信頼できる独立した資源・資材の供給源の確立である。経済の広範な近代化と技術者幹部の訓練は、独立した国民経済の構築にも不可欠であると考えられていた。

 

但し、キム・イルソンは、チュチェの「自立の原則」に基づいて独立した国民経済を構築することは、孤立した経済を構築することと同義ではないことを同時に主張していた。戦後すぐの新興国経済の国内総生産に匹敵する韓国への米国の援助の規模を見て、キム・イルソンは、北朝鮮ソ連共産党というスポンサーからの多大な援助なしでは生き残れないことを認識していた。それゆえ、キム・イルソンは、経済発展とイデオロギーの統一の支援として、社会主義国新興国との間の緊密な経済的および技術的協力を奨励した。

 

独立主権国家へのチュチェ思想の特徴的な基本である防衛における自立(自衛)について、キム・イルソンは次のように主張していた。

 

我々は戦争を望んでいないが、同時に我々は戦争を恐れない。我々は帝国主義者に平和を懇願しない。

 

帝国主義の侵略と戦争の動き」に暴力で対抗するという政策は、国家の独立を守り、革命の大義を勝ち取るための最良の方法と見なされていた。この自立した防衛システムの実施には、人民全体の動員と軍隊へのイデオロギーの完全な浸透が含まれる。直接武器を取っていない人々は、国内の防衛産業の建設と維持に貢献し、イデオロギー的に準備された銃後の戦線が社会政治的優越感によって団結することになっていた。キム・イルソンは、外国の支援が外国の「帝国主義者」と「侵略者」に対する全面戦争において二次的な役割を果たしたことを認めたが、同時に、決定的な要因は国内目的の準備であると強調していた。したがってキム・イルソンは、朝鮮人民軍が戦争に対処するためにイデオロギー的にも武装し、独立した国民経済に頼って国を守るための完全な物質的準備をすることを要求したのである。

 

そのチュチュ思想であるが、この思想の起源については今も学術的にも争いがあるようで、ざっくり整理すると、三つの視点がある。第1の視点は、国内及び国際関係の要因を強調する道具主義的視点である。第2の視点は、朝鮮の伝統的な政治事情からの影響に焦点を当てる視点である。第3の視点は、チュチェ思想をキム・イルソンの人生経験に直接起因させる、独創的な政治思想であると考える視点である。

 

第1の道具主義的視点は、チュチェ思想の起源として国内外の政治的要因に焦点を当てている。一部の者は、朝鮮戦争中および直後の不安定な権力基盤により、民族連帯のチュチェ原則を個人的な教義構築の手段として利用し、キム・イルソンの政治的立場を強化するためにイデオロギー上での粛清を展開したと論じている。この目的のために、キム・イルソンは、他のイデオロギー北朝鮮で議論されたり教えられたりすることを禁じた。チュチェ思想の内容とその適用は1960年代後半まで非常に曖昧だったため、キム・イルソンはチュチェ思想を上手く利用することができた唯一の人物だった。

 

このように、チュチェ思想に基づく政策の実行は、キム・イルソンの絶対的な政治権力を効果的に強化し、間接的に北朝鮮における独裁政権イデオロギー的正当化を提供することになった。北朝鮮の内政への中ソの関与に対するキム・イルソンの警戒心は、ソ連に対する個人的な嫌悪感と大国に対する劣等感によってより悪化した。キム・イルソンキムは、1960年代にソ連が米国との平和共存に向けて徐々に動き始めていることに不安を感じていた。しかし、ピョンヤンがモスクワから受けていた経済的および軍事的援助と、帝国主義に対するマルクス・レーニン主義の闘争における団結に対するキム・イルソンキムの宣言を公にしていた手前、北朝鮮はほとんどの問題でソ連の立場を支持し続けた。

 

次第に、北朝鮮は、モスクワと北京からのコントロールを封殺するためのイデオロギー的弁明として、外国の不介入と民族自決のチュチェの信条を使用し始めた。最終的に、北朝鮮ソビエト社会主義共和国連邦中華人民共和国の双方を「社会帝国主義国家」として批判し、指導者が資本主義的利益を追求するためにマルクス・レーニン主義の原則を放棄したと非難した。

 

 第2の視点はより歴史的スパンが長く、朝鮮の伝統的な政治文化の影響に焦点を当てている。この視点によると、チュチェ思想は、何世紀にもわたる外国勢力からの独立の伝統を反映していると主張される。地政学上東アジアの半島端に戦略的位置にある朝鮮は、長い間、2つの強力な隣国であるシナ大陸と日本の間の争いの駹だった。

 

朝鮮の人々は、蒙古族満州族、漢族、そして日本の倭寇豊臣秀吉による侵攻に直面して、独立を維持するために衝突してきた。更に、1392年から1910年の日韓併合までの期間、朝鮮半島を統治してきた李王朝の下で、朝鮮は外国に対して孤立した外交政策をとった防御的な国家になった。キム・イルソンが1945年の日本の大東亜戦争敗北の後に朝鮮半島北部で権力を握ろうとしていた時、前近代の朝鮮の孤立主義的な政策に戻った。

 

更に、この視点は、「朝鮮的レーニン主義ナショナリズム」のブランドとしてのチュチェ思想を、朝鮮の政治情勢に適した「マルクス・レーニン主義の創造的採用」として包含し、「日本帝国主義」を標的として、反帝国主義、民族解放革命の任務に対処しなければならない困難で複雑な革命として説明する。キム・イルソンは、朝鮮のおかれた状況においては、マルクス主義レーニン主義の創造的な採用、そしてナショナリズム社会主義の独特の統合が必要であったとしている。キム・イルソンは言う。

 

チュチェを樹立することは、わが国の地理的状況と環境、歴史的発展の特殊性、革命の複雑で困難な性質に照らして、我々にとって特に重要な問題である。

 

 第3の視点は、最高指導者の栄光と独創性の例としてチュチェ思想を見なす視点である。この視点によると、チュチェ思想は、1930年代に抗日ゲリラ闘争を展開していたキム・イルソンの、誇張された経験の帰結と主張している。チュチェ思想が、キム・イルソンの個人史に帰着されることは、息子であり後継者となったキム・ジョンイルが、その著書『チュチェ思想について』において強調している。

 

キム・ジョンイルは、キム・イルソンが「朝鮮革命のためにチュチェ指向の路線を提唱した」と主張し、

 

これは、チュチェ思想の創造とチュチェ思想革命路線の誕生を告げる歴史的出来事だった。キム・イルソン主席は、チュチェ思想は抗日革命闘争中で感じた2つの大きな不満から生まれたと主張していた。その不満とは第一に、革命的前衛がプロレタリア大衆との接触を失い、大衆の支持なしに理論的闘争に終始していたこと。第二に、モスクワの顔色を伺う事大主義と派閥主義が革命を内部から堕落させていた。

 

チュチェ思想によれば、人間だけが創造性と意識を持っているので、人間は世界と自分の運命を究極的に支配することができる。チュチェ思想の信奉者は、「世界を支配し、再構築するという人間」というこの見方は、哲学的知に対するチュチェ思想の独自の貢献であると主張しているが、実際は、チュチェ思想の教義に特に革命的で斬新と呼べるものはない。階級闘争、大衆路線の思想、歴史における唯一の偉大な指導者の役割、自分の能力を信じることの重要性などの主題に関する金日成の政策スタンスはすべて、主に毛沢東の思想や日本の京都学派左派の哲学から引き出された。キム・イルソンの才は、これらの要素を「融合」させて朝鮮独立運動に利用する能力にあった。

 

キム・イルソンの共産主義に関する最初の知識は、1935年から1941年まで訓練を受けた中共ゲリラから、中でも、このゲリラグループの政治将校である魏正民から指導を受け、影響を受けた。キム・イルソン自身は、中共への従属と所属の程度をなかなか認めようとはしなかったが、多くの研究者は、キム・イルソンが中共のメンバーであったと見ている。朝鮮戦争の終わり頃には、北朝鮮における中華人民共和国の影響力はソビエト連邦の影響力を抜いていた。キム・イルソンは、1940年代後半から1950年代にかけて北朝鮮の政治制度の発展に大きな影響を与えた毛沢東の政治思想と行動に厳密に従っていた。その模倣の一例は、1958年から1960年にかけての毛沢東が主導した「大躍進運動」に触発された、北朝鮮の「千里馬運動」だった。

 

キム・イルソンの思想の主な信条は毛沢東にまで辿ることができる。しかし、様々な証拠にもかかわらず、キム・イルソンは、特に1960年代初頭に北朝鮮チュチェ思想北朝鮮の「唯一思想体系」として制度化した後、毛沢東に負っていることを公に認めることは決してなかった。チュチェ思想北朝鮮ナショナリズムとのこの正式な結びつきに続いて、外国の指導者に対するそのような大きな負債を認めることの劣等感は、独立したチュチェ思想の一貫性とキム・イルソンの個人的な誇りの両方にとっておそらく克服できなかったのだろう。

 

北朝鮮がキム・イルソンの独創的で独創的な政治哲学への貢献として吹聴しているチュチェ思想は、実際には、朝鮮の政治思想の伝統からの影響も見られる。キム・イルソン自身は、20世紀初頭に日本の京都学派左派の哲学者から「チュチェ(主体)」の用語と考えを拝借し、朝鮮の歴代支配者によって支持された儒教的思考からインスピレーションを得ていた。

 

チュチェ思想の教化は、国家の尊厳と革命的な誇りの醸成にとって特に重要な意味を持ち、キム・ジョンイルの下で、音楽や娯楽などの北朝鮮の生活の文化的側面が党によって独占され、指示されていたわけだが、キム・イルソンは、解剖学から引き出されたアナロジーを用いてチュチェ思想を指導した。「偉大な首領」は決定を下し命令を出す「頭脳」であり、党は情報伝達する「神経系」であり、人民は命令を物理的に実行する「骨と筋肉」である。チュチェ思想北朝鮮人民の間で支持されたのは、社会主義革命の成功は、人民大衆がどの程度結集し、指導部を支持するかにかかっているという教義のためである。

 

キム・イルソンが一方的にチュチェ思想北朝鮮の生活のあらゆる側面の統治原理であり、すべての国家政策のイデオロギー的基盤であると宣言した時、その哲学はキム・イルソンを「神」のような地位を持つ権威を与えることになった。チュチェ哲学の不可謬性を確立し、自らの政治権力を強化したキム・イルソンとキム・ジョンイルは、飢饉が人民大衆を苦しめていようと、国民所得の大部分を軍事費に向けるなどの政策の正当化として、チュチェの「自立」と政治的および軍事的独立の原理(「自主」・「自衛」)を利用することができた。かくして、「偉大な首領」である一人の男の力とその影響力により、チュチェ思想は、北朝鮮の生活の経済的、政治的、軍事的、文化的側面に密接に組み込まれるようになる。

 

マルクス・レーニン主義の原則に対するチュチェ思想の忠実性が繰り返し強調されているにもかかわらず、哲学思想としてのチュチェ思想は、北朝鮮が主張するマルクス・レーニン主義の原則を厳格に遵守していないことは明白であろう。第一に、チュチェ思想の基本的な教義、つまり「人間は万物の主人であり、すべてを決定し、思想的意識が歴史的発展における人間の行動を決定する」という教義は、カール・マルクスの主張した命題と矛盾する。マルクスは、個々の人物は所与の歴史的発展の一般的な傾向を制御できないとしており、重要な歴史の決定要因の諸階層において、「人間」に高い地位を与えなかった。対照的に、キム・イルソンは、抑圧的なブルジョア階級に対する労働者大衆の闘争において絶対に不可欠な人物であるとされていた。

 

チュチェ思想はまた、「革命的前衛」の教育と組織機能に対するレーニンの思考から逸脱している。権威主義チュチェ思想に内在しているのは、「極めて優秀で傑出した領導者」の指導が労働者階級の動員に不可欠であると考えられているからである。レーニンとは異なり、キム・イルソンは、革命闘争を指導する傑出した献身的な指導者の中核ではなく、単一の指導者主導の革命的階層を提唱していた。

 

北朝鮮孤立主義は、米国との瀬戸際政策の危険なゲームに国を巻き込んでいる。何年にもわたって、世界で最も重武装した陸地である朝鮮半島の「非武装地帯」に沿って軍事的緊張が維持されている。朝鮮民主主義人民共和国は、半島統一の問題に関して特に強硬な姿勢を取っており、キム・イルソンは、外国の調停や干渉の試みとの協力は、チュチェ民族の民族自決の原則に真っ向から反して、朝鮮の運命を事実上外国人の手に委ねることになるため、考えられないと宣言していた。実際は、国は飢饉の苦しみにあり、慢性的なエネルギー危機に悩まされて、自国のエネルギー源と農業生産に頼るどころか、以前は「帝国主義侵略者」として軽蔑していた国際社会の他の国々からの食糧援助を受領するほかなく、依然として兵器と技術をモスクワと北京に依存しているにもかかわらず。

 

国内的には、チュチェ思想は、キム・イルソンによるマルクス・レーニン主義の朝鮮化と、キム・イルソンの個人的権力の下でのスターリン主義体制の強化を正当化するために利用されてきたが、同時に、チュチェ思想は、韓国との政治経済競争に直面して、北朝鮮の国家の誇りを強化するのにも貢献してきた。キム・イルソンは、チュチェ思想と最高位に置かれた「人間」を強調して、北朝鮮人民のナショナリズムと革命的エネルギーを搔き立て来た。

 

他方、国際的には、キム・イルソンはチュチェ思想ソビエト連邦中華人民共和国の影響力を排除するための正当化として使用しました。より大きな隣国からの政治的独立は、もとより朝鮮の歴史において常に重要な希求でもあったところ、キム・イルソンは、北朝鮮が一方的にソビエト連邦または中華人民共和国のいずれか一方に味方することを避けている限り、北朝鮮は国内および外交政策において比較的自律的であり続けることができることを理解していた。この慎重なバランスをとる行為は、チュチェ思想の形で表現されていたのである。