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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

上方と関東

中沢新一は、その類稀なる想像力=妄想力によって、土地の地層、特に地質学上の「第四期」と現代の地層を重ね合わせることで、その土地の特徴から生まれる人々の潜在的な「心の無意識」を呼び起こし、そこから現在の東京や大阪の街の固有の性格を抽出する作業を試みている。その代表が、『アースダイバー-東京の聖地』(講談社)や『大阪アースダイバー』(講談社)などの一連の著者である。学術的検証にとても耐えられる代物ではないことは明らかだし、胡散臭さ漂うその主張を真に受けるのはどうかと思われるが、同時にそれを犠牲にしてもなお、余りある魅力を放つ書物であることも確か。

 

『大阪アースダイバー』では、いわゆる「釜ヶ崎」に代表される西成区の一部と、そこと地続きの「新世界」と呼ばれる浪速区の一部を中心に語られがちな(漫画「じゃりン子チエ」で描かれる街)、ありふれた「大阪論」と一線を画している。また、黒岩重吾の小説や、高村薫の『神の火』や『照柿』に描かれる「大阪」でもない。上町台地船場そして河内を中心に論じていることに特徴を見ることができそうである。

 

生駒山麓の方にいる縄文系の系譜に属する者と海民の系譜に属する者とが入り混じる「カヤ世界」という、現在の国民国家の枠組みとは別の共通世界の東端部としての「大阪」像を打ち出し、戦後に主として韓国の済州島から大阪に密航してきた「在日」の問題を重ねる筋立ても、(かなりの飛躍があるものの)読む者を楽しませてくれる。また、旧渡辺村に注目し、大阪を論ずる場合に避けては通れない同和問題にもタブー視することなく触れている。この辺りの筆致は、中沢新一の叔父であった網野善彦『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー)を思わせる貴種瑠璃譚といった調子で面白い。

 

「エゾ」と呼ばれていた時期の東京では、文化のベースが狩猟採集生活にあったことから、死や血や動物の殺害に対する不浄感が希薄であったのに対して、西日本では早くから稲作文化が進んだので、自然への畏怖感が強く、血や死に対する強い不浄感が根底にあり、また長く政治の中心地であったために、芸能に従事する者など非農業民も多く、中世に差別構造が確立して以降、今もなお根強い差別意識が残っている。この点については、総じて関東の者は疎い。しかし、関東にも同和問題は存在するのであって、単に都市型巨大被差別地域が存在しなかったことから目立たないだけのことである。ともかく、文明としての歴史が古く、長く都がおかれていた畿内は、東日本よりも良い意味でも悪い意味でも「濃厚な歴史」を歩んできた。

 

しかし、この箇所が本書の特質すべき箇所なのではない。まぎれもなく本書の中心に位置するのは、先述の通り、船場上町台地という、古くからの大阪の中心であった局所的な場である(現在の大阪の中心は、キタと呼ばれる梅田界隈とミナミと呼ばれる難波界隈であるが、実は梅田も難波も、古くからの大阪の中心であったわけではない。数キロしか離れていないキタとミナミとでは、これまた全く性格や雰囲気が異なり、いずれが好きかは分かれるだろうが、僕はミナミの方が好きである。どことなく、香港や上海の匂いがするからだろうか)。

 

船場から北御堂・南御堂を貫通して千日前へとつながる御堂筋の縦のラインにおいて形成されてきた資本主義が、商都大阪の基礎となっていることが強調される。「田舎者の集まり」である東京と違い、大阪は古くから都市であるが故に、網野善彦のいう「無縁」の原理の上に「信用」を基礎にした組合的繋がりが可能であったというのである。この組合的繋がりなくして、自生的秩序に支えられる自治が成り立つ余地はなく、したがって内発的自治が生まれなかった東京は、本来の都市としての条件を欠いている。単に、人・物・金が政策的・人為的に集積させられた結果として生じた「超巨大な田舎」と言うべきかもしれない。

 

谷崎潤一郎細雪』には、そんな船場の商慣行が描かれている。日本で唯一「ブルジョア文化」が華開いた関西の形式的洗練さに惹かれたのが、関東から流れ着いた「亡命者」谷崎である。この谷崎の世界は、明らかに織田作之助夫婦善哉』の世界とは異なる。最近では、千日前や西成の世界に代表される庶民の文化や、吉本興業が席巻するコテコテのお笑い文化ばかりが強調される大阪の文化であるが、これは東京のメディアが捏造した虚像であり、大阪の文化というのは本来多層的である(お笑いだけとっても、今でこそ吉本興業の勢力が強いものの、元々は松竹芸能の方が大きかった。ドタバタ喜劇の吉本新喜劇ばかりが注目されがちだが、少し前までは、藤山寛美率いる、徹底的に作り込まれた松竹新喜劇もあった。東京のコメディアンである志村けんは、そんな藤山寛美への憧憬を抱いていたという)。日本の資本主義の発展やそれを担った資本家の多くは船場商人に由来するものであって、その船場商人が上町台地から阪神間に移り住んだことによって、「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化が起こり、それが徐々に東京にも移っていった。

 

大阪に行って注意深く耳を澄ませていると、同じ大阪人でも話す言葉が全く異なることに気づかされる。船場言葉に由来する「はんなり」とした言葉もあれば、河内や泉州のように「どぎつい」言葉もある。ましてや、京都や神戸ともなると、全く言っていいほど言葉や文化の底流が違っている。それもそのはず、現在の大阪府は、摂津と河内と和泉という異なる国が入り交じった場所にあり、当然に文化や風土、そこに住む人々の気質は異なる。豊中や吹田や箕面といった北大阪と、岸和田や泉佐野などの地域とは相当雰囲気が異なる(だから、東京から大阪へ転勤などで家族全体で移る予定の人に対して言われることは、住むなら豊中か吹田、もしくは隣の兵庫県の西宮市や宝塚市などが良いのではないかというものだ)。

 

面白いことに、ニューヨークと比較される日本の都市は、東京ではなく大阪である。確かに、経済規模や都市の持つ機能の面で比較されるのは東京であるが、ここでいう類似性は、都市の機能や経済規模の話ではなく、都市の基底に流れる人々の思考様式や行動形態あるいは「雰囲気」である。事実、ニューヨークから日本を訪問した米国人の多くは、ニューヨークの雰囲気は東京よりもむしろ大阪の方に近いと口にする。米国人のみならず、様々な国からの訪日外国人にとって居心地がいいのは、やはり東京ではなく大阪であるという。人懐っこい住民の気質も似ていて、これは上海と北京の違いにも言えることである。また、僕自身ニューヨークに住んでいて感じるのも、ニューヨークの空気は大阪に似ているというものだし、実際、ニューヨーク在住の日本人も、相当な割合で関西出身者が多いような気がする。政策的に東京一極集中化が促進されることにより、経済の中心であった大阪の「地盤沈下」が著しくなって久しいが、大阪が「大大阪」と呼ばれていた時代にいたなら、なおのこと、そう感じたに違いない。東京にはない「都市の空気は自由にする」と感じられる開放性と、その開放性を担保する底流にある人的紐帯が根を張っていたからである。こうした街は、経済活動の担い手である商人が牽引していく街でなければ形成されにくい。江戸から続く東京に、こうした基盤はない。

 

それはともかく、谷崎潤一郎細雪』は、俗に「現代版源氏物語」とも称される通り、関西の上流階級の一家である蒔岡家の四姉妹の生活を淡々と描くことで完結している。昭和10年代の阪神間に住むブルジョア階級の典雅な生活・風俗が絵巻物のように描かれていくばかりで、政治経済的な「大事件」は直接には描かれてはいない。「阪神大水害」であったり東京の台風被害であったりと、自然の猛威を前に為す術なく呆然と事態をやり過ごすしかない儚い人間の生態が描写されているにすぎない。あとは、三女の雪子の縁談話であったり、蛍狩りに行ったり、京都の平安神宮での花見やら奈良への旅行、あるいは稽古事の「お師匠さん」の死であったり、鯖寿司を食したせいで赤痢に罹患したりといったことばかり。日常に起こりうる個人的事件の逐次が、さしたる登場人物の内面の描写もなく、むしろ滑稽に描かれている。

 

谷崎は、近代小説にみられる「内面なるもの」への疑念を抱き、私小説的描写をこの『細雪』をはじめとして、『吉野葛』や『蘆刈』といった中期の傑作群でも意識的に排除している(特に、『吉野葛』は傑作中の傑作で、ともすれば、谷崎の代表作である『細雪』よりも優れた作品ではないかと思われるほどだ。世間では代表作とみなされる作品が必ずしも最高の傑作であるとは限らない例は他にもあって、例えば小津安二郎の映画を考えても、確かに『東京物語』は小津の代表作であり、言わずと知れた世界映画史上の名画であることに違いないが、『晩春』や『麦秋』の方が、作品としての出来が良いはず。この二作は非の打ちどころがない点で完璧の域に達しているからだ)。その試みは、近代に背を向けた「アンチ・モダン」な作風を醸し出しているかに見えるが、敢えて意識的に文体上の工夫を凝らしてある種の実験をしていたという意味で、逆説的ながら、驚くほどモダンな振る舞いをしていたとも解釈できそうである。それゆえ『細雪』は、「現代版源氏物語」という一面からではなく、最も完成された近代小説という一面からも見直されるべき作品なのかもしれない。

 

細雪』は、徳川の世から連綿と続く大阪船場の老舗問屋蒔岡家を舞台としている。昭和10年代といえば、軍国主義の風潮が徐々に社会を覆い始め、戦争のきな臭さが漂い始めた時期。にもかかわらず谷崎は、そのような世相を直接反映させた野暮な表現は一切とらなかった。戦争などあたかもないように、ただひたすら淡々と蒔岡家四姉妹の生活を、主として雪子の視点から描いていく。世の事件や時局の緊張など我関せず、興味の向かう先は、戦争の行く末よりも醍醐の花見に行く際の着物のことである。

 

出入りの写真屋で、四女妙子と恋仲になる板倉が中耳炎の手術の失敗のために突如死を迎える物語中最大の事件が、これまで進んできた物語を中断させるかのように不意に出来するわけだが、その伏線は、そのような言葉を言いそうにもない雪子の「うち、板倉みたいなもん、弟にもつのかなわんわ」という言葉にあった。淡々と進む物語にある種の亀裂を生じさせる微妙な細部が、じわりじわりと物語を侵食してゆく。蒔岡家の令嬢とそこに出入りする板倉との階級関係が露呈される瞬間である。関東には遂に生まれることのなかったブルジョア社会の見えない階級関係の露呈。関東大震災後に、関東から「亡命者」として芦屋に移住してきた谷崎は、大正デモクラシー期の大衆化を東京で経験したその先に、近世から続く蒔岡家とその周囲の者との階級関係についての婉曲的表現を介して、近代社会の出現を示してもいた。

 

大衆社会の全面化によって、露骨なまでの階層分化を見ることはなくなったものの、関西には、今もその名残とでもいうべきものが見られる。それは一言でいうと「阪神間モダニズム」の形成に一役も二役も買った「阪急的なもの」の貢献を無視することはできない(阪急沿線といっても、阪急京都線は除く。京都線は元々京阪であり、戦時中に無理やり統一された後に、そのまま阪急のままでいたというにすぎず、その名残が中津駅のホームである。京都線には普通電車が停車するホームが存在しない。ちょうど、南海本線高野線が並行する区間にある今宮戎駅と萩之茶屋駅に本線のホームが存在しないのと同様である)。

 

日本屈指の高級邸宅街を抱える、神戸線夙川駅から御影駅までの沿線には、昔ほどではないにせよ、我が国の資本主義社会を支えてきた財閥惣領家や数多の大企業創業家ないしは大手新聞社社主が居を構え、旧華族の邸宅もそれに連なっている。明らかに小金持ちの成金が多い東京の高級住宅地とは趣が異なる。芦屋の六麓荘町や、有料の芦有トンネルを超えたところに控える奥池など、条例で他の町とは別異の規制がなされているし、そもそも六麓荘町の道は公道ですらなく、町内会所有の私道であり、当然電柱も地中化されている(もっとも、財閥の当主や旧華族の邸宅は、六麓荘よりむしろ御影山手住吉山手の方にあるらしいが)。

 

「阪急的なもの」とは、単に「高級感がある」といった安っぽいものではなく、強いて言えば、他の私鉄沿線にはない独特の「落着き」ないしは「品」である。関東でいえば、阪急創業者小林一三に協力を仰いで五島慶太が阪急を真似て作った東急に近いものがあるが、やはり東急には「阪急的なもの」が醸し出す「落ち着き」に欠ける(電車の車両や座席の材質からして差は歴然としている。ステンレスむき出しの安上がりな車両で、座席の材室もさして高価なものを使用しているわけではない東急と、破格の値段のする阪急の車両とは違うのである)。東急が近年開発した、たまプラーザやら青葉台など田園都市線の新興住宅地にプンプンと漂う「エセ」臭はない。このような如実な違いは、他の地域の私鉄沿線には見られない現象であり、東京に生まれ育った僕ですら肌で感じ取れるし、なんと、訪日外国人にすらもが感じとっている決定的違いなのである。

 

大阪の隣の京都となると、まるで大阪とは異なる趣がある。明治期に訪日した外国人が「日本には二種類の人種が存在する。一つは日本人で、もう一つは京都人である」と言ったように、京都と大阪の違いは、東京と大阪の違いよりも大きい。神戸と大阪もまた異なった文化風土で、距離的に近いこの三都市が、その古い歴史に裏打ちされてきた文化伝統を反映するかのように、異なる気風で彩られているところが、関東の人間にはピンとこない点かもしれない。面白いことに、このことは人々の性格にも反映していて、京都と大阪では裁判所からの和解勧告への対し方がまるで異なると耳にしたことすらあるくらいだ。

 

とはいえ、京都市街地は大阪や東京と比べて格段に狭い範囲に収まっている。それもあって、地下鉄にしても、路線数の多い東京や大阪と違って、京都には南北に走る烏丸線と東西に走る東西線の二本だけしかない。市内を走る路面電車である嵐電叡電もあるが、前者は四条大宮から嵐山まで(北野白梅町から帷子ノ辻までの区間もあるが)、後者は出町柳から鞍馬や八瀬方面に走っているだけで、情趣ある電車ではあっても、観光列車としての側面の方が強い。JRにしても、阪急京都線にしても、京阪本線鴨東線にしても、京都と大阪を結ぶことがメインであって、市内巡りに便利とまでは言えない。京都市営バスや京都バスなどが網の目のように市内に張り巡らされているが、車内は観光客で混雑し、また交通渋滞に巻き込まれるやほとんど身動きがとれず、一日で数か所周ろうと思うなら絶望的な状況となる(コロナ禍で、京都を訪れる観光客は激減していると聞くが、果たしてどうなのか)。

 

京都は、何と言っても狭い街。しかも東京と違って、坂道のアップダウンが極端に少ない平坦な土地だから、結局、自転車か原付があれば、それで不便を感じさせない。坂道があるといっても、東山や北山の一部が多いくらいで(清水寺南禅寺などに行く際は上り坂が控えることになる)、残りは平地だ。そんな狭い市街地しかない京都市の人口の約1割は、大学生・大学院生・専門学校生などの学生で占められている。大阪や滋賀など他府県から通う学生を合わせると、昼間の学生人口は相当な率になろう。各大学のキャンパスが町中に点在しているので、ちょっとしたオックスフォードのような大学町といった風情すら感じられる。また、学者や文化人も多く京都に住んでいるので、異分野同士の交流が東京に比べても盛んで、それが京都大学人文科学研究所(人文研)の「共同研究」などに結実したりもしていた(今はどうか知らない)。そんな事情も伝ってかは知らないが、京都からは独創的な研究が出されているのだと何かの本で目にしたことがある。

 

長い歴史に培われた伝統と新しいものとが邂逅することで独特の緊張が生み出され、そこから様々な独創的な(時には、論理的に飛躍した)発想がもたらされ、更にそれが次第に堆積していくに連れて洗練度と成熟度を増していく文化伝統を形作ってきた京都という街。ヒト・モノ・カネそして情報ばかりが、ただ単に忙しなく集約され、各々が忙しなく流通しているだけでは得られない「特権」を持つ街。

 

そこに憧憬を抱いてしまうのが正直なところなのだが、同時に東京に生まれ育った者からすると、「敵わない」との思いから、どこか反発してしまいたくなる一面が自分の中に存在することも否めない。文化の成熟度合において、上方の文化的蓄積に敵わない関東ならば、その歴史の長さが重石となることから来る「意味の過剰」から解放された「空虚さ」を活かせるはずなのに、どうやら自らの特色を活かしきれていない。市川崑監督によって映画化された谷崎潤一郎細雪』の蒔岡四姉妹の長女鶴子の夫は銀行員である。その夫が東京の丸の内支店長に栄転との報を聞いて悲しむ鶴子演じる岸恵子が放った「うちは、京都より東へは出たことあらしまへん」という台詞に現れた、上方文化に対する強烈な自負とそこに見え隠れする独特の「嫌らしさ」は、関東には、少なくとも東京には、見られないのではあるまいか。東京だと、単に「ひなびた地方に飛ばされるのはごめん被りたい」という程度の感覚であって、鶴子の放った台詞に含まれる自負の感覚はない。

 

関西出身者に聞くと、関西人にとっても最も馴染みがない地域、イメージが持てない地域の筆頭は、茨城県や栃木県や群馬県といった北関東だという。曰く、「何もない」というイメージばかりで、この三県の区別すらつかない人がかなりの数に上る。全国調査ですらそうなのだから何も不思議なことはないのだろうが、特に関西ではその傾向が強い。別に憎しみあっているわけではないが、両者は「水と油の関係」なのかもしれない。

 

茨城や群馬や栃木といった北関東地方は、一昔前と比べたら減少したものの、今もなおヤンキーが数多く生息している地域である。中でも、茨城県は群を抜いていて、小さな町であるのに族のチームが存在することは稀ではなかった。意外なことかも知れないが、関西はヤンキー比率は高くはない。沖縄県や福岡県にも数多くのヤンキーがいるだろうが、それらの県と北関東との間には目立った違いが存在しており、これは関西との決定的な違いだと思われる点の一つである。一つは、先ほども言った通り、伝統的な「老舗」のチームが数多く存在し、チーム名も、横文字名のチームも多少あるものの、基本的には漢字を用いた古風なチーム名が圧倒的多数である。ロングの特攻服や右翼団体の隊服とほぼ同スタイルの特攻服で統一するところが多く、特攻服すら持っていずにチームを名乗ることが考えにくい雰囲気に支配されているところだ。

 

最近では、ブーツにテープをぐるぐる巻きしたスタイルのチームが目立つが、地下足袋で統一するチームや、ちょっと前ならば雪駄履きのチームも散見された(関西では、地下足袋のスタイルが圧倒的で、雪駄というスタイルのチームは見たことがない)。また、示威行為のために週末の駅前に特攻服姿で集合し、しかるべき時間になると、近くの駐車や公園なりパチンコ屋の駐車場なりのスペースを利用して「声出し」を含む集会を行う。特に、夏祭りの時期には、祭りの会場に場合によっては昼間から特攻服で参上し、自らをアピールすることを欠かさない。こうした現象は、他の都道府県でも見られないわけではないが、北関東はこぞってこのタイプの行為で統一されているという点に違いがある。

いずれにせよ、ヤンキーの比率が高い北関東というイメージはヤンキーですらない者を含む世間一般にも定着し、そのイメージは決して事実に反していない。

 

では、なぜ北関東でヤンキー比率が高いといえるのか。また、関西のヤンキーと違って、なぜ集団の統一的なスタイルに拘る者が多いのか。この点を解明する社会学的研究があってもよさそうなものだけど、残念ながらそれをテーマにした著作を目にしたことはない。ただ、北関東には荒っぽいヤンキー文化が根づく土壌が元々あるのではないか。そして、それは、少なくとも江戸期にまで遡るのではあるまいか。

 

対人コミュニケーションの能力では、一般的に関西の者が長けていると考えられてきたのは、大阪や京都といった上方は、主として町人が主導する街であって、一次産業に従事する者の比率が元から低かった。家内事業として完結する一次産業従事者が多く、町民の内発的自治が見られなかった北関東は、元来都市と呼べる街が発生することはなかった。上方は商業の中心地であった歴史が長いので、先に見た「信用」に基づく組合的繋がりに支えられた商業的コミュニケーションが発達し、独特の「間」の取り方や対人関係の機微について、自ずとその勘所を心得ていく。なお、賭場においても、関東では賽本引きが主流であるのに対して、関西では相手の心理の読み合い・駆け引きを要する手本引きが主流である。

 

北関東には商都はなかったので、そうした「信用」に基づく組合的繋がりが形成されてこなかった。ここまでは、北関東も他の農村部と同じである。ただ、他の農村部と異なる点は、坂東武者に代表されるように、元から荒々しい気風が育っているところに、江戸期には幕府天領とされた土地が多く、他の地方のような藩ごとの「個性」が育まれる状況とは違っていた。半農半兵のような生活スタイルを営む者が多く、感情のマグマを貯め込む気質の者が多く育ったことも関係しているのではないだろうか。

 

「何者でもない」存在であるがゆえに、かえって自らを主張しようとする「粋がり」が跋扈し、江戸の「粋」が歪な形で伝わることによって、「鯔背」な土壌が培われてきたとも言える。群馬・栃木・茨城にまたがる国道50号線沿線は、確かに暴走族が過剰なまでに多かった時期が長い。真夜中のドン・キホーテの駐車場に群がってくるブチ上げの族単や、銘々がカスタマイズした改造車の明かりが乱舞する。走りの上ではとても非合理な過剰なまでのブチ上げ単車。極端に派手なデコレーションにして露骨な「ダサさ」を際立たせる無意味な装飾。空虚な文句が刻まれた刺繍が施された華美な特攻服。

 

この無意味さと等価な「不毛さ」の砂漠の中で咲いた花は、あたかも「文化」の軛から逃れる自由の惠沢としてのある種の「豊かさ」、すなわち「何もない」=「何者でもない」ことが寧ろ「何でもなりうる」余地を持つという意味での「豊かさ」を逆説的ながら浮かび上がらせもする。「意味の過剰」に溢れた関西の風土とは著しくかけ離れたこの「不毛さ」こそが特徴といわんばかりの北関東に咲いた仇花としての「ヤンキー文化」。いずれの目的も方向性の感覚も喪失した「狂宴」が、国道に爆音を轟かせながら繰り広げられた北関東と、それとは真逆な関西が「水と油の関係」であることは、ある意味当然と言える。

 

関西と北関東の間に横たわる「齟齬」の感覚は、千葉雅也の小説「オーバーヒート」に、それとなく表現されている。もちろん、それが主で書かれているわけではないのだけれど、所々の細部に見え隠れする。こうした少し変わった視点を添えてみることによって、なおいっそうこの小説の魅力を引き出すことができるかもしれない。全く相反する北関東と上方の狭間に、また、自身はヤンキーになりきることへの逡巡の中にありながら、自身の一部に巣くう抗い難いヤンキーへの誘惑の狭間に生きる姿を思い浮かべて読むと、更なる輝きを放つことだろう。(『オーバーヒート』所収の短編「マジックミラー」も面白いというか、こちらの方が好みではある)。