shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

「美的な乱暴」の系譜-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察②

1990年代後半から2000年代にかけて、東京の繁華街、中でも渋谷センター街を中心に遊んでいる、概ね15歳から22歳までの若者の中で目立った存在であった「ギャル」とその男性形の「ギャル男」といったある種の「トライブ」を対象に、比較的長期にわたる参与観察とインタビューに基づいて、その生態や価値観などを分析・記述した著書として注目を浴びたのが、荒井悠介『ギャルとギャル男の文化人類学』(新潮社)である。本書は、一種のエスノグラフィーとして社会学に分類される一般向け書物であるが、10年ほど前に出版されたかと思う。当時は大学生で、雑誌「men' egg」はまだ存在していた。方向性は全く異なるが、「有害図書」としてPTAなどから攻撃を受けた影響で、一時は「VIPカー雑誌に様変わりしてしまったのか」と思えたほど牙が抜かれていた「低迷期」を脱して元の姿に戻りつつあった雑誌「チャンプロード」も辛うじて存在していた。

 

独特の、時にはエキセントリックに見えもするファッション、濃いアイメイク、明るく染めた髪、不自然なまでに日焼けした肌の露出、キャバクラ嬢のような格好でデコレートした「ギャル」。同じく、明るい髪色に日焼けした肌、仁侠界の若い衆のような不良っぽい格好の「ギャル男」。彼ら彼女らは、様々なメディアに取り上げられたが、中には、「コギャル」、「ガングロ」、「ヤマンバ」、「マンバ」、「センターGUY」など、昔の傾奇者を彷彿とされるような素っ頓狂なファッションで注目される者も多くいた。とはいえ、社会の視線は、まるで「珍獣」を見るかのようなものでもあった。荒井の著書が対象としたのは、そうした「ギャル」や「ギャル男」の中でも、さしたる目的もない妙なイベントを企画・運営する「イベサー」と呼ばれる集団に属する若者たち、すなわち「サー人」と呼ばれる連中である。

 

「イベサー」は「イベント・サークル」の略に由来するので、若者版「お達者倶楽部」か、多摩川の河川敷でゲートボールに興じている爺さん婆さんの集まりの如きものと思われるかも知れないが、さにあらず。この集団は、クラブイベントを行う「インカレ」と、「チーマー」と呼ばれる繁華街の愚連隊擬きの文化が混ざり合って形成された、若者たちの「逸脱集団」の要素も持っていた。「イベサー」は、学生たちの集まりにしては多額の金が動くことや、場合によっては犯罪ともなりうる行為など合法・違法の境界線での「ビジネス」にも関わっている者も含まれていたこと、あるいは繁華街での大規模な集団が目立って活動することなどから様々なトラブルに遭遇することが頻繁で、それに対応するため、渋谷を「シマ」にしている地元ヤクザと交渉できる「ケツモチ」と呼ばれる管理者が置かれていた。

 

「ケツモチ」という言葉は暴走族にもあり、時代や場所によって意味合いが違ってくるのだが、概ね二つの意味で使用されている。一つは、暴走集団の最後尾を担当し、追跡する警察や、暴走族の行為に業を煮やして自動車で集団に突っ込んでくる「ツブシ」などから仲間を守るために、最後方で楯となる役割を担う者を指す。もう一つは、暴走族の「後見人的な」役割を担う暴走族OBもしくは、OBが所属する右翼団体ないしヤクザを指す。それはともかく、この「イベサー」は、主として高校1年生から大学3年生あたりまでの若者を構成員とし、22歳くらいになると、「引退式」という「儀式」を経て「イベサー」から去って行く。この点、暴走族にも「引退暴走」という「儀式」があり、それを機に引退することになるが、「高齢化」している状況では、引退したはずの20代のOBでも集会に参加してともに暴走行為に興じていることがごく普通に見られる(但し、「特攻服」は着ていないはずである)。著者である荒井悠介自身も、学生時代に大所帯の有名「イベサー」に入り、後にその代表格になったという経歴を持つ元「当事者」でもある。

社会学には、こうした規範逸脱的な若者の行動態様や価値観などを調査した先行研究は、古くは佐藤郁哉『暴走族のエスグラフィー』(新曜社)があるし、打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房)など結構存在する。最近では、米国のオハイオ州コロンバスのゲイのギャング集団などへの参与観察を通してゲイやバイのギャング構成員の行為態様や内面等に迫った、犯罪社会学者バネッサ・パンフィルのThe Gang's All Queer: The Lives of Gay Gang Members. New York UP.などもある。荒井の著書は、暴走族など地域社会に生きるヤンキーたちを扱ったエスノグラフィーとは違って、地域社会とは切断された「渋谷」に集う、かつ必ずしも貧困家庭の子女とは言えない階層の若者たちの逸脱行動を扱っている点で、特徴ある研究であった。

 

.但し、僕が興味深いと感じるのは、この点ではない。社会学の研究は、それとして重要なのかもしれないが、荒井の研究目的や意図とは違って、これを社会学研究とは別の光のあて方をすることで、様々な読み方が可能であろう。例えば、『知の技法』(東京大学出版会)所収の松浦寿輝「レトリック-Madonnaの発見、そしてその彼方」のような表象文化論としての読み方もできるかもしれない。哲学的解釈学的に読むと、九鬼周造『「いき」の構造』のような思考が開けるかもしれないとの密かな期待が持てるという点でも興味深い。例えば、「サー人」のメンタリティにおいて高い価値が付与された「悪徳性」の徴表として、①非常識で煽情的な方法で注目を集めたり、脱社会的な発想や行動をするという「ツヨメ(脱社会的逸脱行動)」・②異性愛を利用するという「チャライ(性愛の活用)」・③逮捕されない範囲で反社会的行動をとるという「オラオラ(反社会的暴力性)」が抽出されるわけだが、それを社会学的に分析・記述するという範囲を超えて、それこそ九鬼が行ったような哲学的な分析によって、九鬼の言葉でいう「大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つ」を顕揚する仕事になれば、それは現代における『「いき」の構造』の再来となるやもしれないと。新たな社会的存在論倫理学を思考する契機にもなり得るだろう。

 

九鬼周造の哲学的営みは、戦前日本の哲学研究の世界で決して主流ではなく、傍流の中の傍流である。京都帝国大学で教鞭をとり西田幾多郎からも高く評価されていたことから九鬼周造を「京都学派」に含める者もいるようだが、「京都学派」はやはり西田幾多郎の後継の田辺元であるとか高山岩男高坂正顕あるいは戸坂潤や三木清中井正一久野収あたりまでを指し、和辻哲郎九鬼周造を含めると、「京都学派」の意味がインフレ化してしまって何が何だかわからなくなる。いずれにせよ、「ハグレ者」としての九鬼周造が選んだ最大のテーマは、「偶然性の問題」であった。

 

『「いき」の構造』において、相対立する要素の二元性を弁証法的に止揚してしまうのではなく、個々の異質な要素を緊張関係において捉える思考を顕著に見せる九鬼周造だが、主著『偶然性の問題』では、偶然性を「偶々然かあるの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないこと」であり、「有と無の接触面に介在する極限的存在」と位置づける。九鬼は、偶然性が必然性の対概念であることに着目し、必然性の三様態に応じた偶然性の三様態を「定言的偶然」・「仮説的偶然」・「離接的偶然」と振り分けて、それぞれについて思弁的な「偶然性」論を展開していた。あのままでは、「確率の哲学」で世界的に見て主流の議論に直ちに接続可能とは行かないが、九鬼が考えていたことを考えている者は、少なくとも僕の知る限り、英米にもイスラエルにもいる。「定言的」・「仮説的」・「離接的」という表現では若干わかりにくいが、要するに九鬼自身も言い換えているように「論理的」・「経験的」・「形而上学的」と理解しておけばよい。一つ目が単なる現実としての一つの実存がこの偶然性を実践的内面化するときに、無数の個同士の「間柄」の自覚に至るというのである。この『偶然性の問題』が、『「いき」の構造』とがどのように関係しているかについての論考はおそらく存在するのだろう。

 

九鬼周造は、「いき」という我が民族独特の概念の意味を明らかにするために、西洋哲学の流儀に合わせて、『「いき」の構造』を著した。但し、九鬼自身が予め断っている通り、「類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によつて何らか共通点を見出す」方法は、民族の存在様態としての文化存在の理解にとって適切な方法論的態度ではない。なぜなら、民族的、歴史的存在規定をもった現象を自由に変更して可能の領域において理念化したところで、それは単にその現象を包含する抽象的類概念を得るに過ぎないからであり、文化存在の理解の要諦にとっては、「事実としての具体性を害うことなくありのままの生ける形態において把握すること」が肝要だからである。さらに、「いき」を単に種概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を求めてはならないとも言う。

意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問ふ前に、まず「いき」の existentia を問ふべきである。一言にしていへば「いき」の研究は「形相的」であつてはならない。「解釈的」であるべきはずである。

 

そこで、まず意識現象の名の下に成立する存在様態としての「いき」を会得し、その次に客観的表現を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならないことを主張する。決して、前者を無視したり、または前者と後者との考察の順序を逆にしては、「いき」の把握は覚束ないのである。

既にいつたやうに、この種の現象と「いき」との共通点を形式化的抽象によつて見出すことは必ずしも困難ではない。しかしながら、形相的方法を採ることはこの種の文化存在の把握に適した方法論的態度ではない。しかるに客観的表現を出発点として「いき」の闡明を計る者は多くみなかやうな形相的方法に陥るのである。要するに、「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づひて自然形式および芸術形式に現はれたる客観的表現を妥当に理解することができるのである。一言にしていへば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。

 

九鬼によると、「いき」とは三つの徴表をその契機とするいう。第一の徴表は、異性に対する「媚態」である。第二の徴表は「意気地」である。第三の徴表は「諦め」である。但し、注意しなければならないことは、これら三つの徴表は、それらが構成要素となって集まることによって「いき」となると考えてはならないということである。この徴表は、あくまで三つの「契機」として分析的に見出される徴表であって、各々を分離可能な構成要素として捉えるならば、「いき」を捉えそこなうことになる。

 

第一の徴表の「媚態」、すなわちの異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかると九鬼は主張する。異性間の尋常ならざる交渉は媚態の皆無を前提としては成立を想像することができない。そして、この「媚態」とは、「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」である。「いき」のうちに見られる、「なまめかしさ」や「つやつぽさ」あるいは「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする「緊張」だという。にほかならない。いわゆる「上品」と違う。「上品」だと何かが足りない。媚態とは、「その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたもの」でなければならないからこそ、「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者、「無窮に」追跡して倒れないアキレスといった人間だけが本当の「媚態」を知っていると九鬼は説明する。

しからば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。さうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いはゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示してゐる。さうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であつて、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失ふ場合には媚態はおのづから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもつたものである。

 

第二の徴表は、「意気」すなわち「意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されており、「江戸児の気概」が契機として含まれていると言うのである。九鬼は言う。

意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されてゐる。江戸児の気概が契機として含まれてゐる。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」を尚だ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ」といふやうに、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもつた意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋なゆかり」を象徴する助六は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といつて喧嘩を売る助六であつた。「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌はれた三浦屋の揚巻も髭の意休に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思ひ切つた気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、気立が粋で」とはこの事である。かくして高尾も小紫も出た。「いき」のうちには溌剌として武士道の理想が生きてゐる。

 

第三の徴表は「諦め」である。「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」であるので、「いき」は垢抜けがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。

運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしてゐなくてはならぬ。あつさり、すつきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。この解脱は何によつて生じたのであらうか。異性間の通路として設けられてゐる特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与へやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿にあり乍ら、お前は鬼か清心様」といふ歎きは十六夜ひとりの歎きではないであらう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴な信頼を失つてさつぱりと諦むる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情ないは唯うつり気な、どうでも男は悪性者」といふ煩悩の体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻びて」といふ万法の運命とを蔵してゐる。さうしてその上で「人の心は飛鳥川、変るは勤めのならひぢやもの」といふ懐疑的な帰趨と、「わしらがやうな勤めの身で、可愛と思ふ人もなし、思うて呉れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」といふ厭世的な結論とを掲げてゐるのである。

 

以上から、九鬼は「いき」を次のように概括している。

「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示してゐる。さうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定してゐる。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一相容れないやうであるが、はたして真に相容れないであらうか。さきに述べたやうに、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめやうとする。すなはち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によつて限定することは、畢竟、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かへつて媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依が運命によつて強要され、可能性の措定が必然性によつて規定されたことを意味してゐる。すなはち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」といふ存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによつて、存在完成にまで限定されるのである。

 

九鬼は、具体的には化政期における京の島原、江戸における吉原の遊女の姿を念頭においているのかも知れない。「いき」を示す身体の例として、冬であろうと素足で通そうとする遊女が挙げられているが、こうしたことは、実は、時代を下った現代でも見られたと言えそうえある。

素足もまた「いき」の表現となる場合がある。「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といひながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を履かない者も多かつたといふ。着物に包んだ全身に対して足だけを露出させるのは、確かに媚態の二元性を表はしてゐる。しかし、この着物と素足との関係は、全身を裸にして足だけに靴下または靴を履く西洋風の露骨さと反対の方向を採つてゐる。そこにまた素足の「いき」たる所以がある。

 

花街の遊女ではないが、例えば、特にヤンキーには、冬でもサンダルに素足というスタイルを通そうとする者をちらほら散見する。一昔前では、ボンタンのようにダボダボな感じに着流したスウェット姿あるいはジャージに、足元はハローキティの健康サンダルという格好の者が多くいたし、それがクロックスやナイキのベナッシに変遷しても、この点は変わらなかった。あるいは、僕の父親の世代のヤンキーの写真なり映像なりを見ると、確かに素足にサンダルかスリッポン姿の者が目立つ。米国にもギャングその他不良集団は存在するが、そのようなスタイルの一貫性はない。明らか、他国の文化にはない「いなせ」な気風が現在も続いているのではないか。

 

あるいは、今ではめっきり姿を見なくなった東京都内や千葉県や茨城県南部の「老舗」の硬派の暴走族チームは、日章旗旭日旗のワッペンや刺繍を施した右翼スタイルの「特攻服」に雪駄履きというスタイルのところが多かった(これが、群馬や栃木といった北関東になると、「特攻服」自体がロングにびっちり刺繍を施したスタイルが多くなり、また足元はビニールテープを巻いたブーツというのが多くなる。関西になると、雪駄はもとより、ブーツも少なくなり、白の地下足袋が多くなる傾向が見られたように思われる。あくまで、僕自身の経験や、休刊した暴走族雑誌「チャンプロード」を見た印象に基づくので、必ずしもそうではないのかもしれないが)。

 

こうした若者の文化は、何も現代だけに見られるものではなく、相当古くから存在した。江戸時代には、傾奇者と呼ばれた若者の不良集団が暴れ回って、幕府は手をこまねいていたわけで、旗本奴やそれに影響を受けた町奴がその典型である。いずれも、人が思わず目を背けるような派手な衣装を身にまとい、男でも華美な化粧を施して、秩序を逸脱する行為それ自体に快楽を見出していたわけだし、女であるか男であるか関係なく放縦な性行為に耽り合っていた。暴走族の「特攻服」も、様々な古風な文言(民族派右翼が街宣車に掲げている文句など)を始めとして、銘々の誌めいた文言が刺繍されている。優に十万円くらい費やしたと思われる立派な衣装に仕上げている者もいるくらいだ。以前、存在した「センターGUY」も、奇抜なメイクと派手な髪型、アルバローザの華美な衣装を纏ったその姿は、乱暴・狼藉こそ働かないまでも、かつての旗本奴の華美な装いを思い起こさせてくれよう(元暴走族のGUYが、知る限り一人は存在したが)。

 

折口信夫によると、規範逸脱行動著しい「ごろつき」と呼ばれた連中は、鎌倉期から存在したというのである。『古代研究Ⅱ-祝詞の発生』(中央公論新社)所収の「ごろつきの話」という文章がある。そこで、折口は次のように言う。

無頼漢などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。・・・ごろつきが発生したには長い歴史があるが、其は略する。此が追々に目立つて来たのは、まづ、鎌倉の中期と思ふ。そして、其末頃になると、此やり方をまねる者も現れて来た。かくて、室町を経て、戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつきから出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。

 

先の旗本奴や町奴の「奴」とは、この「ごろつき」のことである。折口は、この「奴」について、以下のように表現している。

「奴」といつた。奴の名は髪の格好から出たものと思はれる。鬢を薄く、深く剃り込んだ其形が、当時ははいから風であつたのだ。そして、其が江戸で流行を極める様になつた。町奴の称が出来たのは、旗本奴が出来たからであつて、もとは、かぶきものと言うた。旗本奴もかぶきもの・かぶき衆などいはれたのであつた。併し、後には、此二者が交錯して、かぶきの中に奴が出る様なことにもなつたのであつた。・・・かぶかんとは「あばれよう」と言ふ事である。即、舞ひに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、此が六法となつて残つてゐる。尚、六法は、前に言うたかぶき者の別名ともなり、其一分派には、丹前など言ふものも出来た。共に、あばれ者であり、伊達な風をして、市中を練つて歩いたのであつた。「六法はむほふとも訓むべし」など言ふやうになつたのは、恐らく、彼等の、さうした行動から出たものであつたらう。併し、六法は、其以前からもあつた。室町の中期頃に、六法々師と言ふものがあつて、祭礼に練つて歩いた。京の街では、早くから、祇園祭に異風の行列が流行つた。これのはつきりして来たのは、室町からであつたが、既に、其以前、平安朝に於ても、其風はあつたのだ。さうして、これの愈発達して来たものが、風流であり、六法である。彼等は、仮装をして、盛んに暴れ廻つた。当時としては、其がはいからであり、さうして人目を驚かすことに、社会一般の興味があつたのだと思ふ。彼等は、好んで外国渡来の品などを身に著けた。かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じたのである。

 

こうして見ると、今も昔も「ヤンキー」と呼べるであろうような連中は存在している点で、何ら変わらないことが理解できる。しかも、そのメンタリティまで現代の者ですら想像できるくらいである。「かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じた」とあるように、イケイケな状態で逸脱行動に踏み切った際の興奮に伴う快楽には、単に「心地よい」というのではなく、ある種の「性的興奮」によってもたらされる「性的快楽」が付随する。公道を暴走しながら興奮状態が高じて雄たけびをあげタコ踊りする暴走族の脳内は快楽物質が大量に分泌し、中には、性行為をしているわけでもなく勃起してしてしまう者もいる。「異風と荒っぽいことに性欲を感じた」というのは、この文脈においても想像できるだろう。

 

人生行路の上では、単にメリットがないというだけでなく、警察に逮捕される危険性や暴走中の事故による死傷の可能性あるいは対立チームとの抗争による負傷の危険性という大きなデメリットを抱えながら、それでも敢えて危険を冒し、彼女とのデートなどにも目もくれずに暴走行為に向かうのは、それだけの「見返り」となる「快楽」が伴ってのことであると考えれば、その行為を理解することができよう。荒井悠介が研究対象にした「サー人」の特徴の一つである③「オラオラ」は、反社会的逸脱行動に喜びを見出す面が含まれている点で共通性があるが、「オラオラ」は「サー人」の持つ打算性のために自制がかかっているという点では、暴走族その他「ごろつき」の系譜とズレる面もあるようだ。しかも、ここには、我が民族独特の特質もあることを忘れてはならないだろう。この点についても、折口は次のように述べている。

 

此二者が相寄つて、美的な乱暴を創始した。美的とは言うても、其は美学的見地からのものではない。尤、中には「助六」の様な美しくて、力のあるものもある。殊に、当時の、さうした風潮を念頭に置いて此を見るならば、団十郎の此を作つた気持ちは、容易に訣ると思ふのである。かやうに、かぶき・かぶくと言ふ語の、元の意味は、乱暴する・狼藉するといふことであつたので、歌舞妓芝居はそれから生れたのである。

 

美学的意味とは異なる「美的な乱暴」、これも一つの我が国の伝統を形づくる「ごろつき」のもたらした文化の徴表の一つとなっているのではないか。折口信夫国学者民俗学者であったので、この点について哲学的に概念化するような思考はしていない。しかし、間違いなく、我が国の社会の伝統には、和辻哲郎的な伝統や社会の捉え方では削ぎ落されてしまう「美的な乱暴」の系譜が存在する。飛躍を承知で言うならば、この系譜に視線を注ぐことから構想される新たな社会哲学、ないしは和辻哲郎的営為として遂行される倫理学を考えることができそうである。それは、和辻倫理学とは全く異なるものになるだろうし、さらには「近代的市民」を理想化して、その人間類型にそぐわない存在を「アウトロー」として排除することによって得られた、「公-私」のリゴリスティックな分離を言祝ぐ「リベラル」の思想に激しい違和感を持つ者が待望する哲学・倫理学になるに違いない。哲学にとって、「レーニン的段階」理解など、取るにたらない。重要なのは「哲学のヤンキー的段階」理解なのである。