shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

都知事選の顛末

今月5日に投票・開票された東京都知事選挙は、前評判通り、現職の小池百合子有権者の圧倒的な支持を受けて再選を果たした。投票率は約55%と低調な数字だったにも関わらず、得票数は、次点の宇都宮健児の約84万票の4倍以上の約366万票という歴代2位の票数だった。この点だけ見ても、都民の大多数は、小池百合子の都政運営を概ね支持したと言えるのかもしれない(必ずしも積極的支持とは言えなくても)。しかも、全ての市区町村で小池が圧倒的な得票で一位であったことは大きい。普通は、市区町村で最高得票者が一部異なることがあるのに、今回の選挙では、それすらなかった(次点は宇都宮健児という市区町村は多かったが、それでも多摩地区の一部や23区内の一部あるいは島嶼部などの村では、山本太郎が次点に入ることもあれば、反対に千代田区、港区など比較的所得の高い層が居住する地域では、山本太郎の得票率は低く、小野泰輔が次点に入るなどの違いがあった)。最終的に現れた数字を見れば、圧勝中の圧勝だったわけである。

 

前回選挙時の公約のほとんどを実現することができなかったにもかかわらず、圧倒的な得票率を勝ち得た要因は様々あるのだろうが、他の候補者が弱すぎたというのが最も大きな要因だろう。在外邦人の身の上、具体的な選挙活動がどうなっていたのかについてはネット配信の情報からしか判断できないが、「三密」を避けるために大規模な街頭演説が行いにくかったことや、地上波での討論会がなされなかったという事情が重なった事情もあろう。とはいえ、仮に通常通りの選挙戦がなされていたとしても、それが結果を左右したとは思えないほどの大差だ。ところが、宇都宮陣営は、自陣の大敗を他人に責任転嫁するばかりで何が足りなかったのかを反省する姿勢はほぼ皆無。中には、逆ギレして、山本太郎が出馬したことが原因だと言わんばかりの与太事を吐いて憂さ晴らしする者まで現れたのだからお笑いである。

 

立憲民主党日本共産党などの既存野党の選挙戦略が、候補者選定過程からして大失敗だったことを謙虚に受け止めることができないようで、こうした態度のままなら、自公政権を打倒することなど覚束ない。せいぜい、弱小政党として細々と生き残っていくより他ないだろう。「安倍晋三憎し」の一念だけで、何でもかんでもあることないこと罵詈雑言を投げつけるだけの自称「知識人」たちも(確かに、安倍晋三は酷いとは思うが)、「郵便ポストが赤いのも安倍晋三のせいだ」と言わんばかりの頓珍漢な批判に終始するばかり。発狂した言説をツイッターでまき散らかし、似たような「お仲間」がリツイートするだけのオナニーに満足するだけで、ごく少数の中だけで互いにうなずき合っている「カルト集団」と化して、周囲からの嘲笑を浴びながら人生を終えていくつもりなのだろうか。

 

前回の参議院選挙で旋風を巻き起こした「れいわ新選組」代表の山本太郎も出馬したが、前回のような風が吹かず、約65万票(約11%という得票率)にとどまった。この数字は供託金没収ライン10%すれすれの数字であって、おそらく山本太郎自身にとって予想外の少なさだったのではあるまいか(小野泰輔から先は皆供託金没収のはず)。もちろん、事前調査をしているはずだろうから、この結果もある程度は織り込み済みだったのかも知れないが、数字が数字だけに、次回の国政選挙にあたって戦略を大幅に見直さねば沈んでいくとの認識をしているはずだ。「野党統一候補」を立てれなかったという理由で、宇都宮健児を支援していた者たちの中には、山本太郎に対して下品な罵詈雑言を投げている者もいるが、こうした反応は十分予想できたこと。この者たちは、普段から独善的な体質で自らの信条に反する者を「病人化」するか「悪魔視」するかしかできず、論理的に批判する能力に乏しい人々だから、宇都宮健児の惨敗の責任を山本太郎に転嫁して自分たちは悪くないと強弁し続けるだろう。

 

当然、我が国には一定の要件を満たす者であるならば立候補する自由があるわけで、山本太郎が立候補する自由は当然に尊重されねばならない。「野党統一候補」を一本化したいというのはその者の勝手な都合であって、山本太郎がそれに従わねばならないという理由は微塵もない。ましてや、根本のところで宇都宮健児の政策と違うとなっては、山本太郎の立候補には一理も二理もあろう。実際、山本太郎は財源論のところで宇都宮健児とは異質である旨をことあるごとに強調している。その賛否は別として、山本太郎の財源論は、必ずしも画に描いた餅ではなく、実現可能性を検討するに値する提言の一つである。地方自治体が緊急時に公債発行により財源を調達し、中央銀行などにそれを引き受けてもらうという選択はありうる。そして、山本太郎は東京都にそれが可能かどうか、どこまでが許容されるのかにつき、事前に総務省に照会した上で提案している。

 

もちろん、この政策につき賛否両論あるだろう。が、少なくとも「アホ」な見解でもなければ、「カルト」な見解でもない。左派の人間の中にも右派の人間の中にも、宇都宮と山本の政策はほぼ同一と思っている者もいるようだが、その者は「野党統一候補」の実現への期待のあまり、目が曇っているとしか言いようがなく、両者の政策や政策実現に至る方法論の根本部分において異質な面が多いことが見えていなかった。要は、「反安倍政権」という点と、元々の支持層が重複するという点を以って同質と思いたいのかもしれないが、どう考えても違いは明白だ。松本清張の仲介で、創価学会会長(当時)池田大作日本共産党議長(当時)宮本顕治との間に交わされた「創共協定」は、共産党公明党の支持層が重なっていたことが大いに関係していた(なにせ、池田大作が大学紛争時に、デモ隊の学生に混じってヘルメットをかぶっている写真も残されているぐらいだし)。どちらも、地方から大都市圏に流入してきた中小零細企業に働く労働者や恵まれない階層を票田としていた。今ではだいぶ違ってきているだろうが、公明党の支持母体の創価学会の会員の中における被差別部落出身者や在日コリアンの比率は、他の宗教団体におけるそれよりも高かったと聞く。既存の宗教が、そういう階層に救いの手を差し伸べようと積極的に行動しなかったのに対して、創価学会が「折伏大行進」に見られる些か攻撃的な積極的布教を進めていった結果である。もちろん、票の食い合いになるので両者の決裂は半ば必然であって、以後、選挙のたびごとにお互いが選挙公報などを通じて相手を罵り合う光景が頻繁に見られるようになった。

 

当初、立憲民主党は、「野党統一候補」として山本太郎を擁立しようと画策したが、山本太郎としては、自党の根本政策である消費減税の主張を飲めないとした立憲民主党に合わせることなどできないと考えるのはむしろ当然だろう。経済政策にしても、大規模な積極財政を主張する山本太郎と、財務省の方針に従って緊縮財政を採る立憲民主党とは水と油の関係であって、立憲民主党日本共産党などが支援する宇都宮健児で一本化しろと迫ることの方がどうかしているわけだ。宇都宮の政策は、今ある予算を別のところへすげ替えるというものであって、山本太郎の主張する都債発行による財源調達には反対の立場であった。宇都宮健児を支援する金子勝などは、山本太郎の財政・金融政策をさして理解もしないで罵倒を繰り返しているわけで、この点だけから見ても、両者は水と油の関係であることがわかる。したがって、「統一候補」の提案に乗れるわけがなし、ましてや山本太郎が立候補を辞退して宇都宮健児支持に回ることなど無理な相談だったのである。

 

どのパラダイムに立脚して論じるかについてはもちろん争いがあるだろうから、この点について理論的な根拠に基づいて批判することは結構なことだけど、金子勝は相手の立脚する経済理論について理解をしないばかりか、経済学を本当に学んだのかとの疑念すら抱きたくなるほどの頓珍漢で支離滅裂なことまで吹聴していた。山本太郎が依って立つポスト・ケインズ主義左派の系譜に位置づけられるMMT(現代貨幣理論)については、米国の経済学界でも賛否両論あり、その是非についての見解は分かれるだろうけど(批判者が感情的に「トンデモだと」喚くほど出鱈目な理論ではなく、ケインズ主義の思想からはそういう理論的展開がありうることくらいは想像できる。もちろん、だからといって僕がMMTを支持しているというわけでは必ずしもないが)、金子勝はどうやらMMTについての正確な理解に欠け、賛否云々以前の無知と不勉強が酷い。

 

そもそも、都知事選において山本太郎MMTに基づく財政金融政策など述べていない。専ら、都債発行による財源捻出による東京都独自の財政出動を主張しているに過ぎず、これまた山本太郎の主張を聞いていれば、混同することのないはずの罵倒を繰り返すばかり。その他にも、きちんと経済学の各学派の理論を学んだ者ならおかすことのない初歩的な知識が欠落しており、ここまで酷い人だったのかと漠然とさせられる。正に、御自身が「アホの極み」であることの自覚がない。皮肉なことに、金子勝に見られる主張は、彼らが忌み嫌っているはずの「ネオ・リベラリズム」と歩調を同じくしているわけだ。生活困窮者にとって、実は金子のような存在(要は既に小金を貯め込み、一定の地位が保証されている大学教員によくいるタイプ)こそが「敵」である。金子勝の主張でまだましな主張と言えば、再生可能エネルギー開発への支援や、食糧安全保障の観点からの農業支援の主張くらいのものである(もっとも、再生可能エネルギーの開発研究への資金投下は賛成できるものの、そこから飛躍して「脱原発」の過激な主張にまで至ると、途端にボロが出る)。

 

なぜ、朝日新聞日本経済新聞から「新自由主義」者(「新自由主義」の概念が曖昧で、論者によって異なる意味に解されているので、あまり使いたくないのだが)に至るまで、基本的に金融緩和と財政出動に反対するのかと言えば、「財政破綻」や「ハイパー・インフレーション」を危惧しているからなのではない。もし、本気で信じているのなら、相当なイカれポンチだろう。この種の議論は何年も前から主張されている「オオカミ少年」的な戯言であるのだけれど、もし彼ら彼女らの危惧が正しいとするなら、今頃、国債長期金利が暴騰する兆候となる現象が見られておかしくないのに、そうした現象が見られないどころか、逆になっていることをどう説明するのだろうか。国債の日銀による間接的引受についても、政府と日銀との間の償還メカニズムを知っていれば口に出さないような出鱈目を弄して批判する。もし無知ならば、財政学者としてあまりに不勉強。もし知っているならば、嘘つきということになってしまう。実際は、もっと卑俗なレベルでの話なのだろうと思われてならない。つまり、既に小金を貯めた逃げ切りを図ろうとする自分たちの現有貨幣価値が相対的に低下してしまうことを恐れているからである。それゆえ資産価値を何とか死守しようと、マネーの逃避先として一時的に金に流れたりする(金先物が1800ドルを超えて1900ドルに達しようかという勢いだ。ともすれば2011年以来の高値更新も考えられる)。単に経済状況の不安定から逃避先として金が選ばれているわけではない。

 

立憲民主党日本共産党など宇都宮健児を推す陣営は、宇都宮を「日本のサンダース」と売り出していたが、バーニー・サンダースが唱える政策は、宇都宮やその支持者の主張とはまるで逆の方向であることくらい調べればわかるはずなのに、あからさまな虚偽宣伝をしていた。サンダースの財政金融政策の最大の眼目は、大規模な歳出拡大による積極財政政策と金融制度改革である。メディケア・フォー・オールの導入と民間医療保険の廃止、数兆ドル規模の気候変動対策や公共事業の拡充、学生ローンの債務帳消しや公立大学の無償化、発電事業の国有化や銀行業と証券業の分業を定めたグラス・スティーガル法の復活などである。確か、金子勝は公共事業を無駄と言い募り、消費減税は意味がないと叫び、積極財政に反対し続けている財務省の意向に沿った主張を展開する人物であって、サンダースの政策とは真逆である。ちなみに、ウォール街の面々が一時戦々恐々としていたのは、サンダース大統領が誕生し、エリザベス・ウォーレン上院議員を財務長官に指名するといった事態だった(2020年の米国大統領選挙の民主党の候補に指名されるだろうバイデンが予定している女性の副大統領候補の一人としてウォーレンの名が挙がっているが、もし実現しようものなら、ニューヨーク株式市場は一旦大暴落し、それにつられて欧州市場や東京市場も連鎖的な暴落となるかもしれない。ウォール街の全体的な総意としては、大統領はトランプ続投が望ましいが、別にバイデンがなろうと構わない。但し、エリザベス・ウォーレンの副大統領就任だけは勘弁してくれというものだ)。そうなれば、FRB議長を意に沿う人物にすげ替えて過激な金融規制を講じることになり、金融市場の大混乱を招き寄せることになるシナリオを恐れたのだった。それはともかく、宇都宮健児を「日本のサンダース」だと立憲民主党などが持ち上げるのは、ちゃんちゃらおかしい。

 

しかし別の側面から見れば、山本太郎にとって今回の都知事選は一つの成果をもたらしたと言えるかもしれない。内ゲバを繰り返し自滅していくだけしか能のない旧態依然とした左翼体質から抜けきれない者の正体がはっきり認識できたわけだから、こうした人々と「共闘」していてはとてもじゃないが政権をとることなど不可能だし、山本太郎が目標とする政策を実現することなど覚束ないことが理解できたはずだから。僕は「れいわ新選組」の支持者ではないし、ポスト・ケインズ主義に一定の理解を示しはしても、全面的にMMTに賛同する者でもないが、既存政党のどうしようもなさを感じている点で、「れいわ新選組」に期待する声が、今の日本社会で一定数存在することは理解できる。沈みゆく泥船に乗ったままともに水没していくのではなく、そこから脱出してより広範な層を取り込めるだけの脱イデオロギー的で国民の生活に直結する政策課題を着実に実行に移していくだけの影響力を持つ政党であることを強調していく方がいいだろう(もちろん、現実主義的な安全保障政策を採ることを条件で)。この日本社会を維持していくためにも、個別の社会問題によって生じた困窮者の具体的救済に直結するきめ細かい政策の実現に傾注することで支持拡大を図るのである。

 

旧来の左翼の内ゲバを続けていては、反自公政権の意見を持つ特に「無党派層」の票は逃げて行き、いわば「第三の選択肢」として日本維新の会へと集まっていくことだろう。今回の都知事選も、東京では無名の小野泰輔元熊本県副知事が当初の予想に反して健闘し、ともすれば山本太郎を抜くやもしれぬところまで迫ったことをその兆候と見ることができる。もちろん、日本維新の会の政策は、都市部のホワイトカラー層や「改革バカ」には受けがよく、千代田区や港区で比較的多くの票を得られることは事前に予想できたことであって、このことは、いわゆる「大阪都構想」の是非をめぐる住民投票の結果にも現れていた。大阪市の24の行政区ごとの投票結果を見れば歴然で、比較的高所得者が居住する北区や中央区あるいは西区など大阪市中枢部では賛成多数であったのに対して、市の南部・沿岸部に位置する行政区では反対多数。南北ではっきり分かれる結果となった。例えば、「港区」といっても、東京の特別区である港区と大阪市の行政区である港区では全く性格を異にする。前者は、東京の都市機能の中枢を担う地域の一つで、住人の平均年収は約1100万円程度で、足立区のそれの約3倍ほどの開きがある。大阪市港区の住人の平均年収についての統計的数字は持ち合わせていないが、おそらく工場地帯に位置している土地柄からして、足立区のそれとさして違いはないだろう。

 

今年の秋に、仮に「勝つまでジャンケン」の如き再度の住民投票となれば、おそらく賛成多数という結果になるのだろう。大阪市以外の府内の市町村からすればともかく、少なくとも大阪市民にとって益することのない都構想に賛成するのは不思議な感じもするが、要は「二重行政の解消」という「改革バカ」の口車に乗せられて、自らわざわざ政令指定都市としての大阪市をぶっ壊して何がしたいのか。思い出してみればよい。東京市が解体されて特別区として再編成されたのは、東条英機内閣の頃である。これは、東京の都市機能を強化するためではなく、逆に強すぎる東京市の力を削ぐために東京市そのものを解体する思惑でなされたものである。「大阪都構想」とは、巨大政令指定都市大阪市を解体し、その行政機能を弱体化させるための構想であるというのが実態だ(どさくさに紛れて、性格の異なる大阪市立大学大阪府立大学を統合して何になるのか。多くの蔵書量を誇る指折りの公立図書館である大阪市立中央図書館と大阪府立中央図書館をも「二重行政の解消」と称して一つにするのだろうか。全くバカげている。図書館は一つあるより二つある方がいいに決まってる)。他の都市は無理やり併合してまで政令指定都市になることを目指して懸命になるほどなのに、わざわざ政令指定都市である利点を放棄するとは、自宅の壁をハンマーで叩き壊しているようなものである。

 

抽象的なイデオロギーを振りかざして「社会的弱者」を好都合な道具としてしか考えていない左翼の支援を期待していては、多数の国民の評価は得られない(イデオロギーで空腹は満たせないのだ。マキャベリも言っている。人間にとって何が究極の欲求かと言えば、「身の安全」と「明日の食」であると。既存左翼に見切りをつけ、「れいわ新選組」に期待を寄せる他ないという者からすれば、おそらく「同情するなら金をくれ!」というのが本音なのだろう)。ましてや、山本太郎が喫緊の課題としている生活困窮者の生活を底上げするという目標は達成できない。自らの陣営の不甲斐なさを自覚せずに逆ギレして、山本太郎に責任を転嫁したり罵倒を繰り返す連中の面々を見れば一目瞭然だ。たいてい、そこそこの生活レベルが保障されている小金を貯め込んでいる大学の教師または元教師だ。

 

こうした面々は、ナシーム・タレブが散々おちょくっている通り、自らは身銭を切らず、すなわちリスクに身を晒さず、無責任でいい加減な言説を吹聴するだけで、いざその主張の欠陥が露呈するや、ツケを他人に転嫁するだけで、大学から支給される給与に依存したり贅沢をしなければそれなりに生きていけるだけの余力を持てる年金を受給して生活を維持している者だから、本音のところではデフレが続いてくれた方が相対的に優位な地位を維持できることもあって好都合。「社会的弱者」の救済など、実は微塵も考えていない。逆に、こうした連中は、表向き「きれいごと」を口にしつつも、実際はその心底に嫉妬深さを隠し持っているので、自分たちより圧倒的に高所得の人間を妬んでおり、しかしその妬みをオブラートに包んで攻撃する。反面、「憐れむべき存在」としてのわかりやすい「社会的弱者」を表向き「思いやる」言説を吐いて自己満足する。中には、この「社会的弱者」を「飯のタネ」にする大学人もいる。表向き「弱者救済」の御題目を連呼し、それに騙された情報弱者喝采をあげるという構図。山本太郎が本気で現状を改善したいと思うなら、こうした「シャンパ社会主義者」や「キャビア左翼」といった旧態依然の左翼とは一線を画すことだ。

 

今回の都知事選挙は、立憲民主党日本共産党などの支援する候補者に拭い難く感じ取られる極左的なイデオロギーを嫌悪した者も多いことだろう。そもそも宇都宮健児を候補者として推すことを決めた時から「野党統一候補」など不可能だということは決定づけられていた。事実、立憲民主党の支持層の相当な割合の者が宇都宮健児に投票しなかったようだし、支持母体の一つであるはずの連合東京も小池百合子を支持した。国民民主党にいたっては自主投票の方針を採ったこともあって、小池支持を言う者もいれば山本の支援を打ち出す者もいるし、宇都宮の応援に駆け付ける者もいれば、日本維新の会の小野泰輔の支援に回る者もいて、もはや空中分解の様相。

 

大阪でも、維新に抗するために共産党と手を組んだ自民党大阪府連は支持者離れが加速した。つまり、共産党と協力することは共産党支持者の票を得られる反面、共産党だけは避けたいと考える者の票は逃げていく。多様な意見があることは大いに結構であるが、その多様な意見の存在を許容できず抹殺すら厭わない共産主義者との協力だけは御免こうむりたい。そう考える者は多い。そして、こういったイデオロギーに惑溺するような旧来型左翼こそが、真に困窮している人々の状況を改善することの妨げになっているのである。

 

来るべき衆議院総選挙において、「野党統一候補」を各選挙区で擁立することはもちろん勝手にやればいいわけだが、各々の政策の相違を過度に圧し殺してまでそれに拘るのならば、早晩頓挫することは必定。有権者もその欺瞞に気がついてかえって票は逃げて行くだろう。仮に、日本共産党とも共闘する路線を立憲民主党が選択するならば、その時こそ立憲民主党の壊滅を告げる日になるだろう。「野党統一候補」を擁立するとなると、当然に共産の候補を立てる選挙区を要求してくるに決まっているわけで、そうすると立憲民主党支持層には共産党員に投票することは願い下げという者が少なからずいるわけだから(今回の都知事選ですら、立憲民主党支持層の半数も宇都宮健児に投票しなかったことがわかっている)、もちろん当選はほぼ不可能だろうし、立憲民主党など共産党以外の候補者を擁立するに際しても、共産党から事細かい注文を聞き入れざるを得ないだろうから、結局共産党の意向に振り回されることになる。

 

共産党がよくやる手法で、相手方の陣営に甘い顔をして近づいていって、いつの間にか主導権を握る方策を画策するに違いなく、それが透けて見えてしまうことで立憲民主党共産党とともに沈んでいく。万が一、野党が勝利して連立政権を組む際に閣外協力ではなくて共産党からも閣僚入りするという事態になった場合、どうするのだろうか。我が国の皇室伝統を否定し、自衛隊や日米同盟を否定し続けてきた共産党が内閣に入るや、全会一致原則をとる閣議を成立させるために結局共産党の意向に沿った政策が実行されていくという悪夢が現実のものとなってしまうだろうし、何より破壊活動防止法に基づく調査監視団体として公安調査庁警察庁警備局から目をつけらている団体が内閣の構成員になるという戯画のような状態となるわけで、まさかこのような事態を大多数の日本国民が支持するわけがないことを考えるならば、共産党と協力した「野党共闘」は早くも瓦解にするに決まっている。