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民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

ドゥルーズ・ブーム

 1980年代に浅田彰『構造と力-記号論を超えて』(勁草書房)が火付け役となってドゥルーズのブームが沸き起こり、蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』(河出文庫)や中沢新一チベットモーツアルト』(講談社学術文庫)や宇野邦一『意味の果てへの旅-境界の批評』(青土社)などが矢継ぎ早に刊行された時期があった。ブームが一旦終息した後、2010年代に入ると再び活況を呈してきたかのようにドゥルーズ関連の書籍が刊行され続けている。いくら何でも偏りすぎてはいないかと思えるほど、やや食傷気味の感がするのが正直なところだが、今のブームが明らかに80年代と異なる点は、80年代のブームが社会思想史(経済学部に講座が開設されていることが多いだろう)やフランス文学または表象文化論の領域といった哲学以外の領域の研究者に支えられていたのに対し、2010年代のそれは、もちろんこれまで通り東大駒場表象文化論系の者によるものもあるとはいえ、主として哲学を専攻してきた若手研究者によりなる書籍が目立つという点である。このことは、ドゥルーズ研究が哲学アカデミズムでの「市民権」を得てきたことの証しとも言え、それまで認められ辛かったドゥルーズの文献がいわば哲学の「古典」として認められるに至ったということを意味してもいる。こうした流れの中で、ドゥルーズを博士論文などの主題にするのは憚られてきた暗黙の軛が徐々に取り外されて行った。

 

 英米の哲学アカデミズムでは、いわゆる分析系の哲学や科学哲学ないしは従来の古典研究が主流を占めているので(カーネギーメロン大学のような極端な傾向を持つところもあるが。ここは、数学専攻か計算機科学専攻かと見紛うような研究のラインナップであるのが面白い)、「フランス現代思想」が狭義の哲学の中核に据えられて研究されることはない。しかし、その関連分野においては「フレンチセオリー」としてデリダ研究やフーコー研究とともにドゥルーズ研究は旺盛になっていることも事実のようで、この点では日本の方が先を行っているのかもしれない。日本の哲学アカデミズムでのドゥルーズ研究「解禁」に先鞭をつけたのは、おそらく2000年に刊行された小泉義之ドゥルーズの哲学-生命・自然・未来のために』(講談社現代新書)だろう。これを機に江川隆男『存在と差異-ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館)といった本格的な研究書が出され、雑誌「思想」に連載された論文をまとめた檜垣立哉『瞬間と永遠-ジル・ドゥルーズの時間論』(岩波書店)も世に出た。若手によるものだと、全ては網羅できないものの少なくとも僕自身が読んだものでは、國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)、山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学-超越論的経験論の生成と構造』(人文書院)、渡辺洋平『ドゥルーズ多様体の哲学-20世紀のエピステモロジーにむけて』(人文書院)、小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)などで、これからしばらく哲学系の領域の研究者によるドゥルーズ研究書が量産されていくことだろう(どこまで長続きするかは疑問だけれど)。

 

 そのこと自体は悪くはないものの、ちとやりすぎの感なきにしもあらず。哲学者は何もドゥルーズばかりではあるまい。ドゥルーズは確かに目立ってはいるもののアカデミズムでの主流とは言えないだろうし、さらに言うならばドゥルーズよりも冴えた哲学者もいるのだから哲学研究の全体の動向と出版業界の方向性に些かのギャップを感じてしまう人もいるだろう。もちろん、僕自身が英米系の文献を目にする機会が多い分、余計にそう感じてしまうのかもしれないが、哲学の「中心地」など観念できないとしても、やはり米国の状況と比較すると、特に日本の商業誌が牽引するブームに対してはどうしても斜に構えてしまいたくもなる。実は日本のアカデミズムにおいても、ドゥルーズ研究は必ずしもメインストリームを形成しているわけでもないのだろうが、あまりに偏りすぎると他の研究に注目がいかなくなる危険性があることに出版サイドは意識的になるべきだろう。もちろん、この責任は当のドゥルーズ研究者に帰されるべきことではなく、専ら商業誌の編集者に帰されるべき問題だ。

 

 ところでそのドゥルーズだが、『スピノザ-実践の哲学』(平凡社ライブラリー)には次のような一説がある。ドゥルーズは優れた哲学史研究者でもあり、ベルグソンをはじめヒュームやライプニッツあるいはニーチェやカントを取り上げていたことで知られているが、いずれも全面的な肯定まではしていない中で唯一手放しで称賛しているのがスピノザである。

スピノザは、きわめて精巧な体系的で、学識の深さをうかがわせる並外れた概念装置をそなえた哲学者であると同時に、それでいて、哲学を知らない者でも、あるいはまったく教養をもたない者でも、これ以上ないほど直接に、予備知識なしに出会うことができ、そこから突然の啓示、『閃光』を受けとることができる稀な存在である。・・・他に類を見ないスピノザの特徴は、じつに哲学者中の哲学者である彼が、哲学者自身に、哲学者でなくなることを教えている点にある。そして、けっして難しくはないが、最も速い、無限の速度に達している『エチカ』の第五部において、まさに哲学者と哲学者ならざる者、この両者はただひとつの同じ存在となって結び合っているのだ。

 

 『差異と反復』(河出書房新社)によると、ドゥルーズ潜在的多様体の現働化として延長において現実化する能力を強度的差異すなわちスパティウムと呼び、この強度的差異の分布はノマド的で瞬間的な配分すなわち「戴冠せるアナーキー」であるという。そうすると、このスパティウムと潜在的多様体とそれが現働化した延長のうえに個体化したものは異なるレベルにあることがわかる。そこで、この三者の関係をいかに解すればよいか。「潜在性の存在論」としての自然哲学を捉えようとするドゥルーズにとって重要な問いである。ドゥルーズ潜在的多様体微分多様体を指す。そうすると、ここで考えられることは、潜在的多様体とスパティウムの関係をベクトル空間とその双対空間の関係として理解する方途である。

 

 そこでベクトル空間を考えてみる。行ベクトルと列ベクトルを掛け合わせてスカラー値を得る作業を想起しよう。この行ベクトルは列ベクトル全体上に定義された線形関数とみなすことができる。ある経路に沿った関数の方向微分が関数の勾配とその経路に接する接ベクトルの積として表現することができ、余接ベクトルはこの積により接ベクトルに対する線形関数とみることができる。ここで、ひとつのベクトル空間を構成する任意の集合Xのスカラー値関数全体を考えてみよう。このベクトル空間の双対空間と構成すると、仮に当該双対空間が有限次元であれば前記ベクトル空間と同サイズになる。しかし、無限次元であるならばその差異が明確になる。スパティウムは個体化の強度的な場である。この場において一定の微分関係と一定の点が現実化するというのが、ドゥルーズの描く個体化のメカニズムである。

 

 先にあげた三者のレベルの違いを踏まえるならば、この双対空間は無限次元を構成する。しかし、この双対空間はもちろん有限次元で構成することもできる。概念上両者の差異はあるものの、有限次元だと両者のサイズは見分けがつかない。とはいえ、ドゥルーズの立論では、三者の関係において不明な点が以前残るのである。ベクトルの完全な測定ないし認識において、基底の選択はベクトルを測る特定の「座標系」ともいうべきものを導入していることを意味する。どのような座標系において見るかは、何らかの恣意性ないし状況依存性を伴わざるを得ない。基底とは無関係に線型構造だけで決まるベクトル空間を持ってくるのも、この恣意性ないし状況依存性を排除した世界を措定するために有用な概念装置として利用することができるというわけだ。ところが、ベクトル空間そのものを恣意性・状況依存性を排除した世界として提出できたとしても、ベクトル空間だけで世界が完結しはしない。ある種の「外部」の視点が関係していること、そしてベクトル空間と双対空間の関係は双対という関係を通して相互規定しあっていることをみなければならないのである。ドゥルーズ『差異と反復』は、結論を言ってしまえば「潜在的なもの」を捉え損なっているようだ。

 

 ソーカルによる批判以後、悪名高い微分解釈が展開される第四章の「微分」の節に続く「量化可能性および規定可能性の原理」において、原始関数と導関数とを取り上げ、微分が理念の理念を発生させていくピュイサンス(力=累乗)であることを論じていくわけだが、実関数を微分したところで導出されるのは実関数であって、なぜそれが内包的な差異と絡む概念として提示されねばならないのか理解ができない。この点に関して比較的丁寧に触れている論文は、僕の知る限り小泉義之ドゥルーズにおける普遍数学-『差異と反復』を読む」と近藤和敬「『差異と反復』における微分法の位置と役割」ぐらいなものである。両者ともまともな論文だが、それでもなおドゥルーズは失敗しているとしか思われないのは、ドゥルーズの念頭には複素空間が全く念頭におかれていないのである。

 

 檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』(講談社学術文庫)の最後にある小泉義之檜垣立哉との対談における小泉の発言にあるように、西田幾多郎の「場所」論を当時の場の量子論の展開に重ねて読み込むという強引な読み方ができるのに対して、『差異と反復』における差異化=微分化の議論はそこらにまで思考が届いていないのではないかと思われるのである。加えて、ユークリッド空間を数個張り合わせることにより位相多様体が構成できるが、潜在的多様体=位相多様体というわけにはいかない。なぜなら、位相多様体の中には微分の操作が不可能なものまで構成されてしまうからである。微分トポロジーにおける多様体の可微分写像の構造を明らかにされないから、多様体の可微分構造とその可微分写像の上にあらわれる特異点との関係がわかるわけがない。

 

 『差異と反復』は、確かに優れた書物である。だが同時に、かなりの欠陥を併せ持つ書物でもある。ところが、些か過剰に評価する研究書が日本だけでなく海外の研究書にも見られる。例えば、James Williamsの一連の研究書が典型である。ここでは、その一つのGilles Deleuze's Philosophy of Timeにある次のような一節を見ておこう。

Deleuze sets out one of the most original and sophisticated philosophies of time to have appeared in the history of philosophy. It ranks alongside the work on time achieved by Kant in the Critique of Pure Reason, Heidegger in Being and Time and later essays, and by Henri Bergson in Time and Free Will and Matter and Memory. It allows for productive debates with the emerging scienntific and philosophical views of time in twentieth-century physics, not only in terms of dynamic systems and relativity but also in terms of quantum mechanics.

 

要するに、ドゥルーズはこれまでの哲学史において現れた時間論の中でも最も独創的かつ洗練された時間論の一つを提示し、それはカント『純粋理性批判』やハイデガー存在と時間』やその他後期の著述あるいはアンリ・ベルグソン『時間と自由意思』や『物質と記憶』によって達成された業績に並び立つ仕事であって、しかも力学系や相対論のみならず量子力学といった20世紀の物理学の知見から新たに生み出された科学的かつ哲学的な時間の見方とも生産的な対話可能な時間論になっているとまでかなり大風呂敷を広げた物言いをするのである。

 

 この研究書は、ドゥルーズの『差異と反復』の時間の三つの総合の議論や『意味の論理学』のクロノスやアイオーンの時間の議論を中心に取り上げつつ、最後に『シネマ』の時間論をあっさり触れるといった構成なのだが、最大の不満は冒頭で触れられていた相対論や量子論の知見から得られた時間論との「生産的な対話」の可能性がどこを読んでもまともに論じられぬままに終始し、表面的な部分を軽くなぞるだけになっている点である。確かに「注」において、しかるべき人物によるテキストには触れてはいる。しかし、どれもこれも問題の核心に斬りこむ考察がほとんどないのである。冒頭、期待させる文言があったのに、いざ読んでみるとがっかりさせられる著作になっているのが非常に残念である。