shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

オススメ4冊

第87回東京優駿日本ダービー)は、前評判通り、福永祐一騎乗のコントレイルの圧勝に終わった。今年はCOVID-19の影響で無観客レースだったようだが、ネット上にアップされているレース映像を視ると、コントレイルは4コーナーから直線に入って間もなく集団から抜け出し、ぐんぐんと後方との距離を開けていき楽にゴールするという、典型的な「強い馬」の勝ちっぷりだ。

 

かつての池添謙一騎乗のデュランダルのように、最後方から一気にゴボウ抜きして全頭を蹴散らして勝つというレースも面白いし、横山典弘の名騎乗冴え渡った春の天皇賞でのイングランディーレの「一人旅」を見るのも悪くはないが、やはりこういう「ザ・王道」という勝ちっぷりをみるのは爽快である。

 

今回の勝ちっぷりだけからは即断できないが、父ディープインパクトの残した偉大な事績を継承することができるのか、楽しみだ。当面は、秋の京都競馬場で開催される菊花賞で三冠をゲットすることに目標が絞られるのだろうが(その前に、阪神競馬場での神戸新聞杯あたりで一叩きするかもしんないが)、果たして、距離3000mの菊花賞に勝てるだけのステイヤー的な資質を持つのかも含めて、愉しみが尽きない。

 

同日、競艇のSG第47回ボートレースオールスターの優勝戦が「競艇のメッカ」住之江競艇場で開催された。僕は、昔の名称である「笹川賞競走」(正確には、「日本モータボート競走会会長杯争奪笹川賞競走」)の方が好きだが、なぜ通称であれ名称を変えてしまったのだろうか。競艇好きの者なら、たいてい「笹川賞」の名称を好んで使うと思われるのだが、これは年末のグランプリにも言えることで、昔のように「賞金王決定戦」の方がよほどしっくりするので、是非元に戻してもらいたい。ついでに言うと、ファンファーレも昔の方がよい。下手にいじくりまわすとロクなことはないといういい見本である。

 

ともあれ、「石野信用金庫」こと石野貴之のファンである僕としては、石野が準優選進出を逃した時点でゲンナリしたわけだ。去年の住之江で行われた賞金王決定戦は一瞬ヒヤリとする場面もあったが、優勝を決めた時は、ニューヨークから快哉を叫んだものだ。石野は、やる気のない時は「なんじゃこりゃ?」というほど酷いレースをする一方、ここぞという勝負時には俄然実力を出すというメリハリに富んだ選手だから、舟券購入にあたっても買い時と捨て時とがはっきりしている。特に、カド位置からの大胆な捲りを決めた時は爽快である。エンジンの整備力やプロペラの調整力も凄い。

 

しかも、大阪人らしく、お道化たキャラも憎めない。元々、高校までは野球部であったらしく、しかも甲子園に度々出場する強豪校近大附属高校野球部で主将を経験していたほど。競艇選手であった父親から大学進学を勧められるも、大学なんぞに興味を示さず、一か八かの勝負の世界に飛び込んだところも好感が持てる。いずれにせよ、優勝した篠崎仁志には祝福を申し述べたい。ともすれば、兄弟の元志の方が注目されがちだったこともあるし、SG初制覇ということもあって、喜びも一入ではないだろうか。しかも、ここ5年程は住之江では一般競争での優勝が1回あるだけで、G3以上のタイトルとは無縁だったので、今回のSGでの優勝は当人にとっても劇的な経験であったに違いない。

 

十代の頃は、特に博徒に強い憧れを抱くほど博打好きな僕にとって、日本の環境は最高に近い環境だったと言える。競馬、競艇、競輪と公営ギャンブルは365日どこかで開催されているし、パチンコもスロットも優良店こそ少なくなっているものの、店さえ間違えなければコンスタントに稼ぐことができたわけで、年間2、3百万円のプラスの小遣い収入が安定して得られたわけだ。カジノこそないけれど(裏カジノは、結構な数あるのが実態だが)、カジノでどうせ大金賭けるのなら日本国内でなくともマカオシンガポールにいけばいいわけだし、ショボいカジノでもよければ韓国に行けばいい。

 

IR法で日本にもカジノリゾートの誘致合戦があるわけだが、果たして日本においてカジノが繁盛するのかと言われれば、かなり怪しい。そのカジノ構想のとばっちりを喰らっているのが、スロット規制強化の流れ。まだパチンコはましな方で、スロットに関する規制は年々厳しくなっており、これは明らかにIR法に連動している。

 

と言いつつ、注文していた書籍をじっくり読む時間が確保できそうなので、後はどこでそれらを読むかが問題。あるテクストをどういう時にどういう場所で読むかによって得られるものが違ってくるはず。

 

モンゴルの大草原のゲルで、M&AだのPFIを使った仕組みファイナンスだの、どうちゃらこうちゃら言われても全くリアリティの欠片も感じられないから、読んだところで馬耳東風。ドバイのブルジュ・ハリファのてっぺんでハイデガーの『杣径』を読んでも、「なに言っての?」となってしまうだろう。デナリのクレバスに落っこちた奴が、和辻哲郎倫理学』(岩波文庫)の悠長な話を読んでも、皆目理解できない。

 

渋谷のアトムあたりで踊り狂いながら、堀辰雄風立ちぬ』なんか読もうものなら、自己嫌悪に陥りそうになる。Le vent se lève, il faut tenter de vivre.なんて言ってられない。ミラーボールの照明に照らされながらセックスに猛り狂う妄想が勝ってしまう。対して、学校や職場で廣松渉『役割理論の再構築のために』(岩波書店)を読めば妙にリアリティが感じらるし、徹夜で友人と飲み明かした宴の後の帰路であればこそ、なおのこと大森荘蔵『時は流れず』(青土社)がスッキリ頭に入ってくる。

 

アルチュセールの言った意味とは若干異なろうが、イデオロギーというのは単純な社会的意識形態ではなくて、ある種の「イデオロギー装置」とともに働く「物質的なもの」でもある。アルチュセールが例に挙げていたことだが、教会というある種の「イデオロギー装置」があるために、その空間では「敬虔な」感情が沸き起こり、跪いて祈りを捧げる行為に出ようとする。

 

伊勢の神宮を拝する時に清明心が呼び起こされるのも、あの鎮守の森の木々の木漏れ日が参道を照らしている静謐な雰囲気と無縁ではない。仮に、境内が西成の釜ヶ崎の中の三角公園のような所だったら、果たして西行法師が「何事の おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」なんてセリフを残したかどうかは怪しい。一昔前のガングロ女子高生が履きふるした異臭を放つルーズソックスの片方が近くに脱ぎ捨てられていようものなら、敬虔な気持ちが湧き起ころうはずもない。

 

ドン・キホーテの店内に響く「ミラクル・ショッピング」を耳にしながら、シモーヌ・ヴェイユ『神を待ち望む』など読めたものではない。テクストの読みも、いつ・どこで読まれるかによって、多分に異なる意味に解されてしまう。テクストの放つ意味作用の時間的・空間的規定性とでも言えようか。思想系テクストとなると、多様な意味作用があるので、自宅で真夜中に1人で読むのとエッチしながら読むのとでは全く違ってくる。

 

届いた書籍をあくまでパラパラめくった感じではあるのだが、面白い数冊を紹介。一冊目は、Quantum Worlds: Perspectives on the Ontology of Quantum Mechanics ,Cambridge UPだ。量子論は現代の物理学の基盤となり、その発想の仕方は物理学の世界だけでなく様々な領域に及んでいる。20世紀前半に大成された量子力学の恩恵を既に我々の社会は享受しているわけだが、今世紀は「量子力学的知」が全世界を席捲することになるに違いない。特に、情報科学の分野における量子論の影響は計り知れない。

 

情報科学と物理学との接点は19世紀末のルートヴィヒ・ボルツマンに遡ることができるのだろうが、最近では更に遡行して、17世紀の天才ライプニッツの哲学の構想がようやく花開いたと評価する向きもある。坂部恵の名著『ヨーロッパ精神史入門-カロリング・ルネサンスの残光』(岩波書店)の言を借りると、カントは百年単位の哲学者であるのに対して、ライプニッツは千年単位の天才であることがわかる。

 

しかし、量子力学の解釈には、多くの未解決状態の概念的・哲学的問題があり、これら個別のテーマに関しては嫌と言うほど論文が量産されている。いわゆるコペンハーゲン解釈は、ティム・モードリンが言うように、とりあえず量子力学を道具として使いこなすための「取扱説明書」であって、量子力学の認識論的・存在論的諸問題に対する応答にはなっていない。

 

こうした原理的問題について格闘する論文は、欧米やイスラエルでは特に量産され玉石混交という有様である(日本の哲学業界は層が薄すぎる)。波動関数の意味、量子状態の性質、観測者の役割、量子世界の非局所性、量子領域からの古典性の出現などのトピックが目白押しだ。物理学と哲学の分野の著名な研究者によって書かれた章を含むこの書物は、量子論解釈に関連する諸問題の学際的かつ包括的な展望を提供してくれるだろうし、何よりも量子力学の認識論・存在論的諸問題に取り組む者にとって必読の論文集となっている。

 

中でも、テレアビブ大学のヴァイドマンの論文が面白い。特に、波動関数存在論的位置づけに関するテーマを考えるにあたっての必読文献ではないだろうか(ヴァイドマンの「波動関数実在論」とでも言うべき主張には同意しかねるが)。

 

二冊目は、Quantum Field Theory for Economics and Finance, Cambridge UPである。これは僕の仕事にも直結することなので、読むべき本の一冊としてある人から紹介されたものであるが、量子場理論の数学的ツールを経済学と金融理論にどのように適用できるかを紹介し、金融商品を設計するための量子力学的手法を提供するものである。

 

一見して「胡散臭さ」がプンプンする香ばしさを醸し出しているが、最近はこの種の「量子ファイナンス理論」に関する論文が量産されていることは確か(日本では、あまりお目にかからないだろうが)。

 

特に、リーマン・ショック以後、ウォール街ではこの種の論文やレポートが読まれ始めており、これは既存の数理ファイナンス理論への信頼度への懐疑と相即している。もっとも僕は、既存のブラック=ショールズ・モデルそのものが明確に誤っているとまで断言するつもりはない。問題は、モデルの限界について意識的ではなかった点だ(MITのアンドリュー・ローのように、認知心理学的手法を加味して理論を構築するような方向性には同意できない)。ましてや、もっと単純な二項モデルに沿って考えている連中が多い業界である。だとすると、2008年のリーマン・ショックの顛末の一因としてブラック=ショールズ・モデルに求めるのは相当な無理がある。

 

ともあれ、既存のモデルの不十分を踏まえて新たなモデル構築に勤しむ数理ファイナンス業界の、ある種何でもアリの「アナーキー」さは嫌いになれない。言い方は悪いが、それなりのオツムの持ち主が鬼の形相で「博打」の研究に熱中して競争する姿は刺激的でもあるし、同時に壮観かつ滑稽な光景でもある。

 

ラグランジアンハミルトニアン、状態空間、演算子ファインマン経路積分といったアイデアは、量子場理論の数学的基礎となる概念だが、これら一連のアイディアを使って資産価格についての包括的な数学的理論を構築するために、数値アルゴリズムや資産価格モデルと非線形金利動向の研究に適用し、オプション、クーポン債、ハイリスク債などの金融的トピックに量子力学的知見を導入することが可能であることを示そうとする。人によっては「こいつ、マジかよ?」ということになりかねない「ぶっ飛び」度があるので、国際金融の世界の住人でなくとも、数学や物理学に多少案内のある人でトリップしたい人にとっては損はない書物だと言える。

 

三冊目は、飯嶋裕治『和辻哲郎の解釈学的倫理学』(東京大学出版会)である。前二書と全く趣が異なる著作だが、和辻哲郎の研究はこれまで日本の思想史的文脈に位置づける研究か、それとも単独の浮いた存在としての「和辻倫理学」の意義を説く研究が多かった。

 

この趨勢とは異なり、和辻倫理学を欧米の解釈学的哲学の文脈の中に据えた研究書となっている。一見異なる思想体系のようでも、実は通底し合うものがあることを探りあて、その文脈の中に位置づけると違った光景が見えてくることがある。まだ斜め読みしかしていないのではっきりしたことは言えないが、本書の試みは、かつて現象学ハイデガーの哲学を英米の行為論の文脈に据えて解釈し直した門脇俊介の営為を思い出させてくれる。英米の人間がハイデガーをドレイファス経由で理解する者が結構いるが、門脇はハイデガー存在と時間』の「基礎的存在論」の箇所を、アンスコムやデイヴィッドソンの行為論やブラットマンの議論に接続可能な思想として読み直す作業を試みていた。

 

飯嶋の著書も「和辻倫理学」をそれ単独で見るのではなく、広く欧州の解釈学的文脈に置き直し、そこから捉え返されるべき和辻哲郎の思索の持つ意義を明らかにしていく。議論も緻密であって、「和辻倫理学」の研究水準を一段高めたことは間違いだろう。

 

詳細な点についてはじっくり読み込まないことには言えないが、その思想史研究上の価値は、最近読み終えた三宅芳夫『ファシズムと冷戦のはざまで:戦後思想の胎動と形成1930-1960』(東京大学出版会)と並んで強調されて然るべきだし(もっとも、僕と三宅では、丸山真男三木清そしてサルトルへの評価が異なる。しかし、そうした個別の評価なんかここではどうでもよく、思想史研究として優れていることは認めるしかない)、こういう労作に対する正当な評価がなされるべき。

 

四冊目は、鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)である。博士学位論文をもとに出版されたこの研究書は、同業者からも高い評価をもって迎え入れられたようで、なるほど、ざっと一瞥しただけでも、これまでに我が国で出版されたドゥルーズ哲学の研究書の中で、少なくなとも5本の指に入る研究書であろうことは容易に想像できる。

 

この書も飯嶋や三宅の著書と同様、とにかく分量が多い。解釈の上に更なる解釈を、先行研究の上にさらにそれを研究する執拗さでドゥルーズのテクスト解釈を遂行する、「古風な」文献解釈学を踏襲する堅実な注釈書である。先行研究が見落としていた視点や、著者のいうところの「誤読」を指摘するところも含め、「戦闘的」とも言える文体で綴られる論旨は明確で、読む者を疲れさせない。

 

もちろん、分析哲学に対する言及があり、例えば適切な箇所でラッセル『論理的原子論の哲学』を参照しているところなど好感が持てる点もあるが、但しライプニッツの理解には些か疑問符がつく箇所もある。ドゥルーズのテクストに対するのと同様の丹念な読解となっているかと言われれば、やや拍子抜けという感もある。

 

ドゥルーズ哲学が宇宙・世界の存在論的「革命」をモチーフとして「存在論アナーキズム」とでも言うべき立場を宣揚する思考であることが強調されてはいるが、ドゥルーズ哲学はそのことに失敗しているのではないかとの疑いを持つ僕のような立場の者からすれば、あまりにドゥルーズにべったりに過ぎるように思われ、もう少し距離を確保した上での批判的視角からの言及があってもよかったのではあるまいか。

 

加えて、数学に関する知見は極めて乏しかったと言わざるを得ないドゥルーズの議論を無理繰り擁護する「護教論的」な主張には閉口してしまう面もないではない。体論の説明も教科書的な文句が連ねられているばかりで、さして理解していないことが透けて見える箇所もある。

 

とはいえ、その論述のスタイルから来る印象は、村上勝三『デカルト形而上学の成立』(講談社)のような、それこそ重箱の隅をほじくるような感じでもない。村上のこの書にケチをつけているのではない。文献学というのは、これくらい緻密な作業が要求されるということの見本のような優れた研究書であるという評価は揺るがない。

 

ただ一言すると、確かに緻密ではあるし、デカルトの思考において「観念」ということで何が言われているのかを詳細に見ていくことは極めて重要だが(デカルトに限らず、17世紀西洋近世哲学において「観念」の持つ意味は注意深く見て行かねばならない)、リーディングスである『現代デカルト論集Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(勁草書房)に収録されている著名な論文を読んでいる時の、あるいはベイサードとマリオンを対決させ、またアルキエとゲルーを対決させて読む時の興奮はないということである。

 

AT(アーテー)版の編集をも批判するくらいの込み入った記載や、1630年の永遠真理創造説がどうちゃらこうちゃらという問題は、デカルト文献学にとっては重要なことなのかもしないが(この点が、所雄章の著作を読んだ時のつまらなさと重なってしまうのである。

 

所に関しては、デカルト省察』の、読みにくいわ日本語としてぎこちないわの訳文を何とかしてくれと言いたいけれど)。これは渡辺一夫『François Rabelais 研究序説 : Pantagruel 異本文考』(東京大学出版会)が、僕のような素人読者からすれば全く面白くなかったことにも似ている。

 

文献学的には凄い業績なのだろうけど、渡辺一夫の他の著作(特に、『フランス・ルネサンス断章』(岩波書店)や『世間噺後宮異聞:寵姫ガブリエル・デストレをめぐって』(筑摩書房)など)が面白いだけに、古書店で手にした時はゲンナリしたものだ(とはいえ、思わず記念に購入したけど)。

 

鹿野の著書は、そういうところなく読めるところも一般読者としては有難い。文献学におけるある種「王道」を行くその歩みは、和仁陽『教会・公法学・国家-初期カール・シュミット公法学』(東京大学出版会)という傑作を想起させもする。今後のドゥルーズ研究は、おそらく本書に対して無視を決め込むことはできないという意味で、ドゥルーズ研究の水準を一段高めたと言えるのだろうという思いが、パラパラめくるだけで強くなっていく。

 

これまでドゥルーズ研究において、その重要性の割には言及されることの少なかった『意味の論理学』の注釈作業を通じて、未だ明らかにされていない秘めたポテンシャリティが開示される。読みかけのJay RampertのDeleuze and Guattari's Philosophy of Historyと並べて読んで行きたい。

 

ちなみにランパートの書は、ドゥルーズ=ガタリと歴史哲学という一見奇異に思えるテーマを敢えて設定して、歴史、時間、記憶にまつわる問題の考察のために、ドゥルーズ=ガタリの「歴史哲学」を抽出していく。このランパートの研究書は9つの章で構成されており、その第一章が歴史哲学の観点からドゥルーズのテクストに取り組むことの価値と妥当性について論じられており、おそらくここが最も重要な箇所であろう。

 

ドゥルーズはこれまで西欧の歴史へのアプローチの仕方を常々批判を展開してきたし、歴史に還元できない「生成」と「出来事」に関心があることを明確に示してきた。ドゥルーズにとって、ヘーゲルハイデガーは、精神または存在が必然性において発展していくことで「秘密の運命」が明らかにされていく形式として歴史を捉えている。その意味で、ヘーゲルハイデガーは歴史家であるとドゥルーズは考えていた。

 

逆にドゥルーズが「地理哲学」に訴える時、そこには必然性と起源の「カルト」から歴史を奪還するという思惑があった。出来事は非歴史的な要素になる必要があるというドゥルーズの考えを承知の上で、しかしランパートは、ドゥルーズの思考によって達成されたものを「歴史哲学」と見做すわけだ。

 

もちろん、これまで盛んに論じられた『差異と反復』第二章にある時間の三つの総合という論点についての再検討も欠かさない。それが第2章から第4章にかけて行われる。周知の通り、時間の第一の総合は習慣の縮約された「現在」、第二の総合は過去と現在のヴァーチャルな共存(純粋過去として考えられた記憶の奇妙な時間としての「過去」)、そして第三の総合はニーチェ永遠回帰としての「未来」の信念である。これはちょうど、第一の総合のヒューム、第二の総合のベルクソン、第三の総合のニーチェに対応している。

 

ただ僕に言わせれば、この第三の総合の箇所は相当怪しげな議論であって、ニーチェ永遠回帰の総合は、存在論的側面において多分にベルグソンの色眼鏡を通した描像でしかないように思われる。ドゥルーズも薄々そう感じていたのかわからないが、『ニーチェと哲学』では、第三の総合については触れられていない。ともかくランパートは、ドゥルーズの「準因果」の概念のステータスを第5章で、ヘーゲルの歴史哲学との比較を第6章で取り上げていて、ドゥルールのテクストへの新たな対し方を示してくれている。

 

鹿野の著作に戻ると、パラパラめくった段階にとどまるのではっきりしたことは言えないが、先行研究を大量に読み込んだ上に、それらを批判的に乗り越えて行こうとする野心が満々の著書である。英国のエディンバラ大学では、ドゥルーズ研究叢書のようなものが次々出されており、ジェームズ・ウイリアムズの一連の研究書など、英米で主流の分析哲学や科学哲学との応接可能性をも模索する試みもあるわけで(どこまで成功しているかは若干疑問もつくが。特に、Gilles Deleuze's Philosophy of Timeを読む限り、そのレベルに達しているようには思われない。プロトニツキも量子場理論や量子情報理論ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』の視点から読み込んでいく作業をし、そのために然るべき参照文献をおさえているが、いかんせん牽強付会に過ぎるし詰めが甘い)、「ドゥルーズスタディーズ」が世界の哲学アカデミズムの一端において「市民権」を得てきている今日、日本発のドゥルーズ研究書として英語で出版されてもいいのではないか。

 

「英語帝国主義」を追認するわけではないが、残念ながら日本語だげでのみ流通するだけでは、特にジャパノロジーを学んでいる者ならいざ知らず、そうでなければ誰も読んでくれない。日本だけで完結していては話にならないわけだから、ガンガン英語で書いて行くことが望ましい。

 

著者は僕より年上だがほぼ同世代のようで、若さ故なのか、勢い余って國分功一郎東浩紀、千葉雅也、松本卓也、小倉拓也などの先行研究に対する幾分辛辣な表現もあるし(特に、小倉に対する批判は、『カオスに抗する哲学-ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)だけでなく、大学紀要掲載論文まで含めて頻繁に言及されており、ほとんど全否定である)、小泉義之訳『意味の論理学』(河出書房新社)の幾つかの訳に対する批判的言及もあり(小泉訳に関しては、哲学や思想系の翻訳にありがちな、学術的使用に耐えないような訳文だとは思わないが、うっかり見落としたと思われるケアレスミスが僅かに見られることは確かだ。conjonctionやcontractionの訳について、決して誤訳ではないが、どうして敢えてそう訳したのか訳注で断りを入れるなどして欲しかった箇所もある。conjonctionはヒュームのconstant conjunction=「恒常的連接」という訳が定着しているconjunctionの仏語に該当するconjonctionであるわけだから、「結合」とするよりも「連接」とした方が通りがいいだろう。contractionも、財津理訳の『差異と反復』では「縮約」と訳されており、特にこの訳に異論が噴出していないのであれば、「縮約」ではなく敢えて「収縮」とする必要を訳注で触れるなどの配慮が欲しかった。というのも、contractionはラテン語contractumに由来し、このcontractumはニコラス・クザーヌス『学識ある無知De docta ignorantia』に登場する重要な概念でもあるからだ)、その他にもやや気負いすぎの観がある文章が目立って、それが空回りしている面もある。そうした「血気盛んな」点も含めて、本書の魅力なのかもしれない。

 

惜しむらくは、学術研究書であるにも関わらず事項索引がないという点だ。近年の岩波書店の編集方針なのか、岩波書店の研究書は編集上の手抜き作業の粗が目立つ。事項索引なき研究書は欠陥商品であるという意識が希薄になったのだろうか(もちろん、すべての学術書に事項索引が付されていないというわけではなく、わずかな例外もある。例えば、たまたま目についた一ノ瀬正樹『確率と曖昧性の哲学』(岩波書店)は、各学術誌に掲載された論文をまとめて編集した著書だが、「事項・人名索引」がきちんと付されている。その一方で、同じ岩波書店から刊行された伊藤邦武『偶然の宇宙』には事項索引がない。同じ著者の『人間的な合理性の哲学-パスカルから現代まで』(勁草書房)には人名索引・事項索引が付されている)。「古典」として扱われている作品や浩瀚な研究書には学術書に相応しい事項索引が付加されるべきである。書誌学には「索引の研究」すら存在するほどなのである。

 

かつて、岩波書店から刊行された『プラトン全集』は「総索引」だけで一冊の書になっていたくらいだし、Great Books of the Western Worldも充実した2巻にもわたる総索引にあたるSyntopiconが付けられている。この存在によって、各テーマに関してどういう論者がどこの箇所でどういうことを書き残しているかを探すことができ、研究にも資するようにできている。もちろん、この作業は膨大な時間と労力と資金が必要となるわけだから非常に面倒な作業となる。そこで最近の岩波書店をはじめ、各種学術書を出す出版社は手抜きをするようになってしまったわけだが、書物に対する「愛情」が欠けていると言わざるを得ない。

 

多くの法学専門書や基本書を手掛ける有斐閣を少しは見倣えと言ってやりたい気分だ。一例を挙げよう。団藤重光『法学の基礎』(有斐閣)は体裁上「入門書」ということになっているが、実際は法学を一通り学んだ者を対象に、その学問的営為の基礎をなす思想にまで言及した高度な研究書としての位置づけであるので、事項索引、人名索引、判例索引いずれも充実している。手抜き作業をせず、地味な労苦を厭わない姿勢こそが編集作業の大事な仕事の一つであるのに、それをしていないのである。

 

そういう欠陥商品である学術書ではあるが、それはともかくとして、我が国で出版された極わずかな哲学・思想研究の浩瀚ドゥルーズ研究の著作、それもアカデミックな作法に則った「正統派」の研究書が出たので、これから時間を見つけてゆっくり読んでいきたいと心躍りを楽しんでいる。

Urgent Announcement : Down with the Chinese Communist Party!

 China’s National People’s Congress gave its approval to a controversial draft security law that will apply in Hong Kong. The New security law is intended to prevent any threat to Beijing’s authority in the city through secession, subversion, terrorism or foreign interference. It may allow mainland security forces to operate within Hong Kong, and is widely expected to curb personal liberties, such as freedom of the press, freedom of speech and freedom of assembly. The new law allows Beijing to take aim at the protests that have roiled the semiautonomous city and posed a direct challenge to the Communist Party and its leader, Xi Jinping.

 

 The Chinese communist party is painting a picture to make it seem like it is abiding by the basic law, but it is not. They’re imposing a draconian law which can be used to silence dissent in Hong Kong and infringe on freedoms guaranteed to Hong Kongers. The new security law will be used to suppress freedom of expression and curtail the activities of human rights defenders. It will be used not only to target protesters, but to permanently undermine the city’s autonomy under the “one country two systems” framework and the city’s de facto constitution, known as the basic law. It will be enacted through a provision bypasses Hong Kong’s legislature and therefore public debate and consultation on the law.

 

  Hours before the NPC vote, U.S. Secretary of State Mike Pompeo called it a “disastrous decision” as he sent a certificate to Congress saying that Hong Kong is no longer autonomous from China and no longer warrants special treatment under U.S. law.
“No reasonable person can assert today that Hong Kong maintains a high degree of autonomy from China, given facts on the ground,” said Pompeo. “While the United States once hoped that free and prosperous Hong Kong would provide a model for authoritarian China, it is now clear that China is modeling Hong Kong after itself.”

 

 U.S. President Donald Trump may now take follow-up action. These range from sanctions on individuals or organizations who have promoted the new law, through to revoking some of the tariff and trade privileges which Hong Kong, separately from China, has enjoyed since 1997. Alternatively, Trump may choose to wait. However, the list of grievances between the two superpowers is a growing one. It includes: a coronavirus blame game; security and territorial disputes in the South China Sea; a U.S. pushback against Chinese technology success; legal actions against controversial phone equipment supplier Huawei; the expulsion of journalists from operating in each other’s country; a threat to bar Chinese companies from U.S. stock exchanges; and a Phase One trade deal that looks destined never to be followed by a Part Two.

 Hong Kong ceased to be a British colony in 1997, and returned to full Chinese sovereignty. According to the Sino-British Joint Declaration, a U.N.-registered treaty, Hong Kong is designated as a Special Administrative Region. It should retain a high degree of autonomy and maintain its lifestyle and economic system for 50 years, until 2047. This arrangement is known as “One Country, Two Systems.” The Basic Law requires the Hong Kong government to enact its own local version of a national security law. But after half a million people marched against such proposals in 2003, the authorities backed down. And no Hong Kong leader has since dared. 

 

 Perceived national security threats amid an economic downturn sparked by the coronavirus pandemic and tense relationship with the US has prompted China to prod Hong Kong, roiled by months of anti-government protests since June last year, to speed up legislation of a controversial anti-subversion law which was shelved in 2003. China has long been growing impatient with Hong Kong’s perceived “waywardness” – particularly after pro-democracy movements in 2014 and last year. In a policy white paper in June 2014, China asserted that it had “comprehensive jurisdiction” over Hong Kong and ruled that it would allow “universal suffrage” so long as it can first vet the leadership candidates. In the communique of a key Communist party meeting in November 2019, the fourth plenum, Beijing told the city to “perfect” its legal system to safeguard national security. 

 

 China is still dependent on Hong Kong for trade and business, its dependency has lessened markedly over the past three decades, with Hong Kong’s GDP sliding from about a third the size of China’s in the 1980s to less than 3% in 2019. The Chinese leaders' mentality  probably is that the loss of 3% of GDP would be painful but not intolerable. But it is not the case. The Asian financial hub’s value should however not be understated as it remains a gateway for western capital to reach mainland markets - it is the home to the largest number of initial public offerings by Chinese firms and the largest offshore centre for bond sales by Chinese companies. If the anti-subversion law goes ahead, hundreds of thousands are expected to be up in arms again, reigniting the anti-government movement which has largely paused amid the coronavirus pandemic. Driving the opposition into the political wilderness serves Beijing’s short-term interest, but it will embolden the opposition in civil society and attract more, not less, international attention.

 

People all around the world as well as Hong Kongers are under the threats from the Chinese Communist Party!

感情教育

米国には、HIGH TIMESという日本では考え難い大麻推奨雑誌が存在し、特に、規制が比較的緩やかなカリフォルニア州などでは普通に売られている。かつて西海岸で跋扈したヒッピー文化を継承しているため、その背景となる政治信条は左翼的とも言え(この点は、右翼を自認する僕としては気に入らないわけだが)、米国のエスタブリッシュメントを挑発するかのようなカウンター・カルチャー雑誌と位置づけることもできるだろう。

 

中身はというと、怪しげな男がドラッグの化学組成を流暢に解説する記事やら、人目を忍んで大麻生活を謳歌するための隠し方のコツだのといった笑える記事で溢れている。大麻吸引用のBongの広告も目につく。但し、こうした一定の政治性あるメッセージとして大麻を利用しようという性根が気にくわないことも確かだ。ドラッグによる快楽を享受すること自体は、一向に構わない。しかし、ドラッグに頼ることで、何らかの発想を得ようとする魂胆が透けて見えてしまうことが気にくわない。ドラッグなくしてドラッグの快楽を享受し、ドラッグなくしてドラッグによるトリップのごとき経験を味わうことの方が、ずっと価値あることだ。ドラッグに溺れる思索者がいても構わない、むしろイカれた奴が好きな者としては、そうした者がいて欲しいとすら思う反面、ドラッグなくしては思索できないような思索者は、所詮三流でしかないという思いもある。

 

日本にも、極く少数ながら、大麻解禁論者によって出された著書や雑誌にBongの広告が掲載されたりするが、米国の事情とは違って、日本では今もなお、大麻所持の禁止が徹底されている建前になっているので(クラブに何度も足を運んでいればわかるだろうが、実態は相当蔓延している。大学生の中にも、かなり広範囲に広がっているのが実情だろう)、ここまで露骨な雑誌だと「有害図書」として指定されることになるだろう。とはいえ、米国では全面合法化されている誤解があることも確かだ。医療用大麻と嗜好用大麻とは別に扱われているし、嗜好用ともなれば、州ごとによって規制の内容も異なる。少量においては可罰的違法性が認められないということを勘違いして、これを合法と誤解する人もいる。

 

現状では、覚醒剤をも含むすべての薬物を合法化しろとまでは言う気はない。しかし、少なくとも大麻に関しては即時解禁が望ましいし、コカインあたりまでは、将来的に解除されて行けばよいだろう。そうした方が、末端価格がディスカントされ、裏社会の資金源としての魅力も失せる。残念ながら、「禁煙ファシズム」が吹き荒れる日本でそうなることはおよそ期待できそうもないが(禁煙に関しては、米国も規制が厳しいが。それ以前にバカ高い)。

 

この大麻吸引器Bongから名づけただろうサーフブランドBongの広告が、休刊した雑誌「men's egg」に掲載されていたことを思い出す。日焼けした肌にタトゥーの入った、金メッシュの髪の男たちがケツ丸出しにした広告を初めて目にした中学生の時には、ちょっとした憧れを抱いただけでなく、同時に性的な関心にもなっていたものだから、最初の方は書店で買う時にどうしてもある種の気恥ずかしさがつきまとってもいた。ギャル男の性器にバターを塗りつけ犬にそれを舐めさせることもしてたし(世間からバッシングを受けて謝罪。普段からの読者でもない者が、どこからか聞きつけて編集部に抗議したのだろう)、ギャル男の赤ふん姿や、ギャル男に首輪をつけさせソフトSMのような真似事をさせたりといった、単なるファッション雑誌ではありえない際どい内容の特集も組まれていた。購読し始めた時は多感な時期もあって、刺激的であったことは、間違いない。慣れてくればそうでもなくなったが、見る人によっては、ともすれば「エロ本」と化してしまうような内容も含まれていたに違いない。どう見ても編集部や、ギャル男の連中に、ゲイもしくはゲイよりのバイがいたはずで、事実、ゲイむけのDVD作品に出演していた人も数人いたようだ。

 

この雑誌「men's egg」と同様に、休刊の憂き目にあった「チャンプロード」は、「暴走族御用達雑誌」と言われたことだけあって、取り上げる対象は暴走族やヤンキーあるいは暴走族のOBやOGの改造「VIPカー」で、時には、道路交通法違反(共同危険行為)を助長すると受け取られても仕方のない誌面構成であった。昔は「チャンプロード」だけでなく、「ティーンズロード」や「ライダーコミック」といった暴走族雑誌が刊行され、富士山麓の河口湖を目指して暴走する「初日の出暴走」や、その他の「祭り暴走」の特集が組まれ、臨場感ある写真がその場の興奮をよく伝えてもいたらしい。かなり過激な内容のこうした雑誌が複数存在したというのであるから、昔の若者は血気盛んなエネルギーに満ち溢れた青春を謳歌していたのだろうな、と羨ましさも募る。とはいえ、少年院体験談があったり思春期のお悩み相談など真面目な企画もあり、中には自分の性的指向について率直に告白する現役暴走族の声も掲載されていて、一概に違法行為を助長する雑誌だとばかりには言えない内容を持っていた。

 

チャンプロード」に関しては、その無茶ぶりを愛さずにはいられなく、十代半ばから廃刊まで毎月26日の発売日を楽しみにしていた愛読者であり続けたが(単車乗りになったのもこの影響である)、単車にしてもサーフィンにしても、思春期に突入した中学時代にこうした雑誌に遭遇していなければ、おそらくやっていたかどうかわかならないと思われるほどに、決定的な影響を受けたわけだ。僕にとってのある種の「感情教育」であったのだろう。当時は、「チャンプロード」で取り上げられる暴走族がやけに格好よく思え、強烈な憧れを増していくに連れて、実家の近くの環状八号線を暴走する集団に会おうと、夜中密かに家を抜け出して見に行ったものである。その頃は既に暴走族の全盛期からは程遠い状況ではあり、特に東京都区内において、その傾向は顕著だった。そうであっても、週末の環八には10台程度の集団は時々暴走していたものだった。東京の族は他と比べて硬派なチームが目立ち、サラシを巻いて特攻服を着込み、足元はテープをぐるぐる巻きにしたブーツかもしくは雪駄という井出達(特攻服を着ない時には普通のサンダルだったが。こういうところにも地域色が出るもので、関西の暴走族は地下足袋が多いと聞く)。ケツに乗った者は金属バットやゴルフクラブもしくは木刀をかざして対向車を威嚇しながら爆音を奏でているところを直に目にした時は、鼓動が激しくなるほど興奮を覚えたものだ。

 

ところが、こうした雑誌が2010年代に休刊となり、もはや刺激的な雑誌の居場所が消失してしまったかに見える。「チャンプロード」は行政から「有害図書」指定されてもなおしばらく生き延びてきたとはいえ、とうとう時代の趨勢に抗しきれなくなった。読者層の十代にとって紙媒体をわざわざ買うことが億劫になったこともあろうが、全体的にヤンキーやヤンキー好きな人間が激減したことが大きい。少子化の加速で十代の絶対数が減少し、それだけにヤンキー人口も激減するだけでなく、世の中全体の「クリーン化」とでもいうべき状況に、そうした存在の居場所がなくなっていったことも大きく影響しているのかもしれない。もちろん、規制が厳しくなり社会がコンプライアンスに小うるさくなってきたことも手伝っているだろう。

 

街が「クリーン化」されると同時に、その街独特のいかがわしさからくる魅力も消え失せてしまった。パチンコやスロットの人口が20年前比べて約三分の一にまで激減したことも、同じ背景を持っているのではないかと勘繰りたくもなる。最も主要な原因は、おそらく90年代後半から日本経済がデフレ状況に突入したことだろう。日本経済全体のパイが縮小していくにつれて、社会の活力も減衰していったのである。実際、日本経済の衰退傾向とは逆に勃興してきた韓国やシナあるいは東南アジア諸国の都市では、かつての日本の暴走族と見紛う集団が公道を暴走するようになったし、ヤンキーも増えて行った。こうした現象を規定しているのも経済的な要素なのである(やはり、デフレが問題なのだ!右であろうが左であろうが、最も忌むべき敵は、デフレ推進策を支持することによって日本社会の長期停滞をもたらそうとしている輩なのである)。

 

東京に関しては、特に石原慎太郎東京都知事に就任して以降の時期と重なったこともあり、その環境「浄化作戦」によって歌舞伎町の様相も様変わりし、民族派の大型街宣車ディーゼル規制の影響で都内を自由に街宣できなくなり、風俗店への締め付けや伝統的に繁華街を縄張りにしていたヤクザへの弾圧も厳しくなっていった。民族派の団体には様々境遇の者がいて、現役のヤクザももちろんいるにはいるが、むしろそうした存在は数としては少数であって、ほとんどはカタギの者である。土木・建設会社を経営する者もいれば現役のホストもいる。トラックやタクシーの運転手もいれば、大学生や高校生、それに現役の暴走族や暴走族のOBもいる。美容師だっているし、公務員や大企業のサラリーマンもいる。そうした面々が口を揃えて石原慎太郎の悪口を言うのだから面白い(世間のイメージはどうだか知らないが、まともな民族派石原慎太郎を「憂国の士」と思っている者は皆無に近い。彼は典型的なポピュリストであるにすぎない)。いずれにせよ、それなりの自生的秩序が形成されていたところに警察官僚の利権が入り込んだ結果、元の緩やかな秩序が崩壊し、ますますつまらない街と化していったことは間違いない。作家の宮崎学が言うところの「コンプライアンス利権」の住処へと変貌したのである。

 

もっとも、警察官僚の「コンプライアンス利権」が狙うような社会に直ちに様変わりするかと言えば、必ずしもそううまくは行くまい。天下の悪法である暴力団対策法や内閣法制局による「事前審査」を通しては違憲の判断がなされるだろうことを考え、その抜け駆けとして地方自治体における条例として規制することを図った暴力団排除条例の影響で既存のヤクザ組織が弱体化し、代わりに一般人を直接狙った犯罪が密行性を高めた形で行われるようになったし、ちょっと前まではチャイニーズ・マフィアが我が国の繁華街を大手を振ってもいた。特殊詐欺案件の急増が何を意味しているのか、その背景となる要因を分析していくと、明らかに暴対法や暴力団排除条例が直接ないしは間接に関係しているはずである。いわゆる「半グレ」の暗躍も、その例から漏れるものではない。

 

徒に規制が強化され街の「無菌化」が図られようと、大半の「いい子ちゃん」はそれに盲目的に従うかもしれないが、いくら少子化になったとはいってもそうしたものに抗いたくなる「アウトロー」的な若者は一定数は存在する。若者のエネルギーがここまでスポイルされようとも、それには満足できない「荒くれ者」は、それがたとえ違法と評価されるような行為であったとしても、「のし上がること」に優先的な興味を抱き、またそうして成功した者に強い憧れを抱く。それは、そうした者たちが他の一般人にない魅力を湛えているからでもある。衰退していく日本社会の動向に歩調を合わせるのではなく、それに逆行して荒々しく生きていく者に対して若者が憧憬を抱くのはむしろ自然なことであって、それがマネーが特にモノを言う今日の世界においては、是が非でも他人より稼ぐことにより強烈な刺激と快感を覚えるようになるのも無理ない話である。そういう一定数の者たちにとって、やれ「スローライフ」だの「脱経済成長至上主義からのライフスタイルへの転換」だのといったところで全く魅力的には映らないし、そもそも絵空事の偽善くらいにしか思われないのである。偽善・欺瞞に関しては敏感な嗅覚を持つ彼らにとって、人間の欲望を素直に肯定しようとしないこうした言説は、その嘘っぽさがプンプンして反吐が出る思いすらするだろう。

 

型通りのレールに乗ったところで稼げる額はたかが知れている。しかし、そこからズレたところでは知恵と度胸さえあれば他人の何倍もの金を稼ぐことは意外と容易い。ならば、そうした進路を選択するのも悪くはないと思う若者が出てきて当然なのだ。特にごく一部の「エリート」とされた者(日本社会は、先進諸国において稀に見る平板化された社会なので、「エリート」とされる者が必ずしも高所得であるわけではないが)でなければ、手っ取り早く稼ぐことのできるのはグレーな領域においてである。ホワイトでもなくブラックでもないグレーゾーンに金のなる木が植わっている。とするなら、そこを目掛けて突き進む血気盛んな若者は、一昔前から極道も選択肢に入っただろうが、今ではその選択はむしろ行動の幅を狭めてしまうから端から見向きもしない。そこで最も動きがとりやすい「半グレ」を選択することになるわけだ。この姿は、ある意味スポイルされてしまった日本の若者のネガでもあるのだ。

法律の勉強の仕方とは

 世の中、勉強法の類に関する書物が氾濫しているけれど、「このやり方でいけば万事うまくいく」などという方法はもちろん存在しない。もし、そのように謳っているHow toモノの本ががあるとするならば、ほぼ100%クワセと思って間違いないだろう。すぐに役に立つような本となると、かえって耐用年数が短いだろうから(すぐに役立つものは、同時にすぐに役に立たなくなるから)、読んだ直後に「賞味期限切れ」という滑稽な事態になりかねない。

 

 かつて文芸批評の世界で、谷沢永一関西大学教授が三好行雄東京大学教授に舌鋒鋭く噛み付いた「方法論論争」があった。ある女性研究者の論文に対する三好のコメントに端を発したこの論争の中身はといえば、大の大人が口角泡を飛ばして激論するほどのことではなかったが、既発表の文章を読む限り、この論争の勝負は明らかに谷沢永一の方に分があった。この辺の事情は谷沢永一『牙ある蟻』(冬樹社)を読めばわかる。和泉書院から出された「谷沢永一書誌学研叢」シリーズの一冊(四巻目だったか?)の『方法論論争』にも収録されていたかと記憶している。谷沢の主張は至ってシンプルなものだ。曰く、「文学研究において便利な方法論などない」という単純極まる主張である。しかし三好行雄は、谷沢の批判に対して説得力ある反論ができなかった。のみならず、三好の言う「方法論」なるものが雲を掴むような絵空事であることが白日の下に曝される結果に終わった。確かに、そんな好都合な方法論があり、誰もがそれを実践してやりさえすれば一端の研究が成立するというのなら、誰しも機械的にその方法論とやらに則り論文をせっせと量産すれば済む話だ。しかし、そんな魔法の如意棒のようなものがあるわけがない。

 

 では、勉強においてそんな便利な道具があるのか?ペーパー試験で測られる傾向の強い法律の勉強において、上で述べられているような便利な方法論があるのだろうか?勉強法を売り物にした本が矢鱈と書かれていることは書店を巡ればわかろう。大学生協の書店の法学書コーナーには必ずといっていいほど司法試験や公務員試験などの勉強法の本が平積みにされているはずだ。中には、なるほど参考になるものもあるかもしれない。しかし大部分は、おそらく使い物にならないだろう。方法論というより、もはや精神論に傾斜してしまっていて、何ゆえ司法試験なのか、何ゆえ公務員試験なのか、という核心となる点がボヤけてしまっているものが目立つのも特徴だ。資格試験予備校の講師が執筆した本となると、勉強法というよりも主宰する講座の受講パンフレットといった塩梅で、法律の勉強にとって役に立たないどころか、かえって有害ですらあるものもある。


 かつては「入門講座」とか何とか銘打って、100万円近く中にはそれ以上の受講料をとって荒稼ぎしていた資格試験予備校もあるが、新司法試験導入以後は、その勢いも一旦下火に見なったものの、今度は予備試験が導入されるや反転攻勢をかけているかに見える。少子化の上に法曹離れの影響でどこまで生徒を獲得できるのかわからないが、模擬試験や答練などを餌に生徒獲得に必死になり、悪辣な受験産業お得意のセールストークで、時には学生たちの不安を煽り、時には過剰な期待をもたせ、予備校を利用することが合格のための得策だという思い込みを広げんと躍起になっている。旧司法試験の場合、多くの受験生は予備校を利用していたし、合格者の多くは答練や模擬試験で予備校の「お世話」になっていた(僕はほとんど利用しなかったが)。そうした傾向から、予備校を利用しなければ司法試験には合格しないかのような「信仰」が受験生の中で常識化してしまったことも確かである。


 しかし見落としてはならないのは、合格者に予備校利用者が多いのと同様、不合格者にも予備校利用者が多いということである。だから、合格者に予備校利用者が多いからといって、直ちに予備校教育が効果的であると結論づけることはできないのであって、不合格者に占める予備校利用者の比率との比較を取り上げなければ意味がない。予備校のパンフレットには盛んに合格者に占める当該予備校の利用者の比率を掲げるが、不合格者に占める当該予備校の利用者の比率を掲載している予備校のパンフレットにお目にかかったことはない。これでは巷に氾濫する健康食品のCMと何ら変わらないではないか。予備校利用者の多くは予備校が編集したテキスト(中身を一瞥すれば、学者の執筆したいわゆる基本書の抜粋を継ぎ接ぎしたもの)に依拠して、たまに基本書を見る程度。判例の知識も、当のテキストにまとめた事案と判旨を暗記しただけで試験にのぞむ。それでも受かる者もいることは確かだし(ということは、その程度の試験であるということの何よりの証左なのであるが)、それゆえ「効率的な」勉強法として重宝されるというのが実態であった。

 

 そうした予備校依存型の勉強の問題点が指摘されはじめ、法科大学院設置・新司法試験導入(新制度導入された数年間は旧司法試験も合格人数を絞って細々を続いていたが)という結果に至った側面も否定できないものと思われる。事実、司法試験の論文式試験における「金太郎飴答案」に辟易した試験委員の声や、予備校のテキストに書かれていることのみを鵜呑みにして、あとは自分で調べもせずに安易な結論を出したがる風潮に危惧の念を表明する最高裁判所司法研修所の教官を担当した者の意見が紹介され、旧試験制度の問題の克服が叫ばれもした。とはいえ、新制度がうまく機能しているとまでは言えない現状から、新制度導入を「改革の成功例」として結論づけることは到底できそうもない。合格者増員もあって、導入直後には旧制度で合格した者からは新制度での合格者の「質」を疑問視する声もあり、露骨に旧制度と新制度の合格者に差を設ける者まで現れた。


 僕から言わせれば、旧制度であろうと新制度であろうと、上質な者などほとんど存在しないし存在しなかったし、のみならず、これからも存在しないであろうと思われるが(そもそも最も優れた頭脳に恵まれた者が法曹なんぞになるわけがない)、些細なことであろうと差をつけなければ安心できない者らが存在することは、社会の有様をみるだけでも十分予想できることだ。したがって、今後もとるに足らない些細な差異を殊更針小棒大に評価し、何かにつけて他人との差をつけずには自尊心を満足でいない人種がまたぞろ湧いて出てくることは火を見るより明らかなことである。

 

 但し、ここ何十年の試験問題を一瞥するに、こと試験問題の「質」に限っては明らかによくなっているものと思われる。昔なら、単に覚えたことを吐き出すだけの一行問題や一読しただけで論点丸わかりのパターン化された事例問題が目立ったが、現在の試験問題は、比較的長めの文章で具体的な事案を出し、法的問題の抽出過程から問う問題がチラホラ見受けられ、どの論点について書けばよいのかがほとんどそのまま書かれている類のご丁寧に整理された問題は少なくなっているだけでなく、重要判例の射程を意識せざるをえないような、つまり判例の事案そのものではなく、そこから事案を少しずらすなどして当該判例の今後持つであろう意味への自覚を問う良質な問題も中には含まれている。単なる予備校の模擬試験問題なのか、それとも本番の試験問題であるのか、ここには大きな隔たりがある(その意味では、試験委員は優秀な人たちのだと思われる。もっとも、受験生の出来が悪いためなのか、「誘導」の類の説明が付加されている問題もあるので、一概にそう結論づけることは乱暴かもしれないが)。

 

 もちろん、問題の「質」によって合格者全体の「質」を直ちに云為することはできない。一定数の合格人数が予め決められた上での相対評価の試験なので、たとえ問題の「質」が良化しようとも合格水準とみなされる答案が酷い有様なら事態は何ら好転しているとは言い難いからだ(想像するに、合格者の答案の正味の出来はといえば、ごく一部を除いて惨憺たる有様であろう。昔、東京大学入学試験問題の数学の採点作業に従事したことのある教員が言っていたことだが、合格者の答案は相当甘めに採点しているとのことで、シビアに採点すれば大幅に減点される者が大半だったらしい)。

 

 COVID-19の影響で国家公務員試験総合職(少し前までは国家公務員試験Ⅰ種)の試験日が再延期されるという。本来なら今頃、一次試験の多肢択一式試験の合格発表を終えて二次試験の論述式試験が行われている時期であろう。来月に控える人事院面接を終えて最終合格発表がなされた直後に「官庁訪問」が始まって本格的な「就職レース」となるわけだが、今年は事情が違って再延期されるということのようだから、各省庁としてもスケジュール的に相当厳しい状況に追い込まれるだろう。というのも、夏頃から各省庁で来年度の概算要求の作成が始まるだろうし、秋頃には来年1月からの通常国会対策の準備に取り掛からないと間に合わなくなるだろうし、ましてや臨時国会が開かれたものならその対策にも追われることになる。優秀な人材が民間へ流出しないよう早めに採用業務を行いたいという思惑も当然あるのだろうが、やはり各省庁の多忙な時期を避ける意味もあってこの時期に試験日をセッティングしているだろうから、てんやわんやの騒動になるに違いない。

 

 以前の国家公務員試験Ⅰ種(法律)の専門科目に関しては、司法試験の難易度より格段に易しいが、国家公務員の総合職試験として大学院修了者区分が別個に設けられたのは、明らかに法科大学院修了者の流入が急激に増加したためであろうから、その分、こと法律の専門試験ではそれなりの実力者も参戦することになる。とはいえ、司法試験と国家公務員試験の上級職の法律の試験といっても、法律を勉強する仕方が根本的に異なるものとは思わないので(今はどうだか知らないが、僕が受験した国家公務員試験Ⅰ種(法律)の専門試験の論述式試験は、六法の持ち込みが許されていなかったので、逆に誰もが知るような頻出条文に絡む問題しか出題されなかったわけで、超典型論点さえおさえておけば何とかなるような試験であったのに対して、司法試験の論述式試験はそうとは言えないという違いはもちろんある)、僕の法解釈学の初歩を学ぶ際にとった手法を述べてみたい。

 

 僕が「法学入門」として手に取ったものは、我妻栄民法案内1-私法の道しるべ』(勁草書房)だったと記憶している。随分昔に出版され、その後は長く絶版状態であったものが復刊されたのである。概念法学の影響が強い日本の法学教育は、そうでない米国のそれとはおよそ異質な面が際立つけれど、我妻栄も本書の「はしがき」に記しているように、法学の学修にはまず法律が社会の中でどのように生きているかということをおぼろげながらでも理解することが先決であって、例えば民法でならパンデグテン方式によって編成されている各条文を頭から勉強していくということはかえって遠回りである。「使える知識」として定着しないからだ。

 

 ちなみに、この我妻の書にある「私の勉強法」だったかに面白い記載があるので、ゲラゲラ笑いながら読むといいだろう。それは安倍晋三の祖父である岸信介との学生時代のエピソードである。その内容を掻い摘んで言うとこうである。岸信介東京帝国大学法学部において我妻栄や三輪寿壮らと首席を争う友人であったことは知られているが、我妻栄岸信介は旧制第一高等学校入学時には特に親しい間柄ではなかったというのである。その理由は、我妻栄が一番で合格して岸信介がビリから三番で合格したからではないとわざわざ書くあたりが我妻の嫌らしさで、さらにこうも書くのである。入学して以後、岸はメキメキと頭角を現していき三番に躍り出たことから急に親しくなったとまで言うのだ(これを読んだ時、我が国の民法学者として最高の存在である我妻栄までが席次で友人を決めていたのかと思って愕然とした。「おいおい、とっつぁん随分とクズなこと言いやがるなあ」と。とはいうものの、やはり『民法講義』(岩波書店)や『近代法における債権の優越的地位』(有斐閣)は、我が国民法学の金字塔であることに変わりない)。なお、岸は旧制高校時代は芝居に興味を持ったり、思想家北一輝のもとを訪れたりと、我妻と違って学校の勉学以外の多方面に興味関心をもって行動していたのであって、必ずしも出来が悪かったというわけでも何でもないの。

 

 米国のロースクールでは先ず契約法や不法行為法の学修から始めるようだ。僕も民法の基本書を最初から読んでいくことはせずに、債権の発生原因のうちの主たる二つすなわち契約や不法行為を中心に勉強していった。いわゆる債権各論の勉強から始めたわけである。もちろん、完全にわかるわけではない。それというのも、結局は民法総則や債権総論などを理解しないとわからないところが多々存在するからである。ただ、契約が履行される典型的なケースを頭に入れて、そこからの逸脱としてのケースがどのようなものかを考えつつ、典型的な場合と歪な場合とがどういう理由で腑分けされていくのかを幾通りのケースを参照しながら学んでいくという方法を採った(訴訟にまで発展するということは、概して歪なケースとなった場合だろう)。そうやって具体的なイメージをつかんだところで、民法総則を読むなり債権総論を読むなりして、当初わからなかったところや更に深く理解すべきところを学修して知識を定着させるようにするといった段取りで進めていったのである。

 

 このように、僕の法学の勉強は主として民法から始めたのであるが、今から振り返っても決して間違ったやり方ではないと思っている。「リーガル・マインド」というものの中身をどう考えるかにもよるが、民法の中でも「契約」から始めるのは、この「リーガル・マインド」を身に着けるのに格好だと思われるからである。各法によって独自の考え方もあるが、法解釈の基本にある要件・効果・事案へのあてはめの要素・過程の一々を確認しながら勉強するのに最適なのはやはり民法であろう(ただ基本六法の中で最も好きだったのは、評判の悪い「眠素」こそ民事訴訟法だった。憲法と比べたらはっきりするが、民事訴訟法が一番理論的に思えたからである。好きが講じてドイツの民事訴訟法学も特にレオ・ローゼンベルクによる証明責任規範論のところに興味があって読んだものである。このローゼンベルクという人は物凄いキレ者で、確かこの証明責任規範論で21歳の時に博士号を取得したはず。論理的に首尾一貫した理論構成になっていて、現在の日本の民事訴訟実務での通説がいかに論理の点でハチャメチャであるかがよくわかるし、法科大学院教育にも導入されているらしい要件事実論も機能的ではあっても理論としては欠陥含みであるかもよくわかった)。

 

 後は、定評のある基本書を何回も読む作業を怠らないこと。一度目はざっと流して全体の流れを概観して略画を描くノリでイメージを形成していく。ついで、じっくり読み込んで、できるだけ正確に理解することに努める。その後は、ざっと読み返してみて、それまでに形成されていた略画的イメージから今度は密画を描くが如く情報を詰め込んでいく。この三段階の読書によって正確な理解に到るはず。その際、最重要な判例に関しては、基本書でまとめられたような事案と判旨を読んで事足れりと満足するのではなく、面倒であろうが判決文を丁寧に読む作業を怠らないことが肝要。中には、三行半の最高裁の判決文では全くわからないものがあるが、その場合は高裁の判決文を読む。本来は一審から読み始めるのが好ましいだろうが、さすがにロッキード事件丸紅ルートの判決文を一審から読んでいくのはつらいものがあるだろうから(ちょっとした電話帳並みの分量になる)、すべてにわたって一審から読むべきであるとまでは言えない。

 

 ただ、そうであっても、『判例百選』でごまかすのではなく、せめて『最高裁判所判例解説』を読んでいくべきと思われる。『最高裁判例解説』は最高裁調査官により執筆されたものなので、実質的に最高裁の判決文を草案を起草しているこの調査官の解説によって最高裁としての考えを理解する(最高裁調査官は、我が国の法曹界で飛び切りのエース級人材で、将来の最高裁判事の有力候補である)。のみならず、最高裁の解釈とは異なる解釈を提示する有力な学説にも丁寧に触れている解説なので、最高裁の見解と学説との分かれ目の理由が奈辺にあるのかなどの理解には必要欠くべからざるものである。

 

 加えて、判決文に引用されている判例にも注意しておかねばならないだろう。単に基本書を読んでいるだけでは思いもつかない、一見無関係ではないかと思えるような判例最高裁がわざわざ引用していることもあるからである。この一見無関係に見える判例の引用から、当該判決を導く際の最高裁なりの論理が理解されることもあるのだ。こういうところは、予備校のテキストをいくら読んでもわかるわけないのである。

アイデンティティ・ポリティクスの脅威

必ずしもその主張に同意するわけではないのだが、日系米国人フランシス・フクヤマの新著Identity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentmentが、現在の米国政治の背景をみる上で参考になる主張を展開している。

 

フクヤマは、ハーバード大学政治学Ph.D.を取得し、スタンフォード大学の上席研究員に就いていた1993年に出版されたThe End of History and the Last Man(渡部昇一の訳・特別解説で、『歴史のおわり』(三笠書房)として日本でも出版された)で世界的な注目を集めたことは日本でも知られ、その大半の著書は訳されている。この書は米国の国務省に勤務していた1989年に雑誌『ナショナル・インタレスト』に発表した論文「歴史は終焉をむかえたのか?The End of History?」を大幅に加筆したものである。

 

本書において、フクヤマヘーゲルの歴史哲学を下敷きにして、ソ連の崩壊と冷戦の終焉において、我々は世界的なイデオロギーの進歩の最終段階に到達し、西側陣営のリベラルな民主主義が世界中で恒久的な勝利を手にしたことは良いものの、イデオロギーをめぐる闘争が終焉を迎え、退屈な世界が出来したことで、かえって危機に直面していることを主張していた。

 

ヘーゲルの歴史哲学を下敷きにしたとは言うものの、より正確を期すならば、アレクサンドル・コジェーブによって解釈された独特のヘーゲル歴史哲学の理解に基づいて執筆されたと言った方がよいだろう。このコジェーブによるヘーゲル解釈は、我が国でも『ヘーゲル読解入門』(国文社)として邦訳されている。事実、フクヤマが参照している箇所は、このコジェーブの著書の第7章に文章に付された膨大な注釈箇所である。コジェーブはそこで、「ポスト・ヒストリー」の状態について描いている。つまり、「ポスト・ヒストリ-」の状態とは、「本来の意味での人間の言説(ロゴス)の決定的な消滅」であり、米国の生活様式(American way of life)こそがその具体化である。コジェーブの言う「日本的スノビズム」をも含む「ポスト・ヒストリー」の問題意識は、昭和63(1988)年に出版された柄谷行人蓮實重彦闘争のエチカ』(河出書房新社)においても取り上げられていた話題でもある。

 

フクヤマの著作は、ほぼコジェーブが敷いたヘーゲル解釈のレールの上を歩むものでしかないとも言える。フクヤマは、1980年代にレーガン政権の政策アドバイザーを務めるなど、米国のネオ・コンサーバティブの一員であり(フクヤマの師の一人は、『アメリカン・マインドの終焉』の著者アラン・ブルーム)、その延長で書かれた著作であったから、邦訳者が『歴史の鉄則-税金が国家の盛衰を決める』(PHP文庫)などで英国のマーガレット・サッチャーを礼賛していた渡部昇一であるのも、なるほどといったところだろうか。浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(小学館)において、浅田はフクヤマに対して、著作の邦訳者である渡部昇一の立ち位置について説明しており、フクヤマは当然そのことを知っている旨の返答をしていたかと思う。

 

以後、フクヤマは、1999年にThe Great Disruption: Human Nature and the Reconstitution of Social Order(鈴木主税の訳で『大崩壊の時代-人間の本質と社会秩序の再構築』(早川書房)として出版されている)や、2002年にOur Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution(鈴木淑美の訳で『人間の終わり-バイオテクノロジーはなぜ危険か』(ダイヤモンド社)として出版されている)などセンセーショナルな著作を矢継ぎ早に出し続けてきた。どうもこの辺りから、フクヤマの思想上の「転向」が起こってきたようで、事実2008年の米国大統領選挙において、フクヤマ民主党バラク・オバマへの支持を表明し、ポピュリズム政治と移民バッシングに反対する言論活動を展開してきた(僕から言わせると、バラク・オバマは毎週火曜日の午後に趣味と化した「殺人ゲーム」に興じていた最低の大統領であって、元国務長官ヒラリー・クリントンと並んで、最もえげつない偽善者として後世語り継がれることになるものと思われる)。

 

そして2018年に出版されたIdentity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentmentも、特に欧米の言論シーンで大きな話題をさらっており、本書に言及する書評や論文があちこちで書かれている。本書は、人間のアイデンティティの問題の政治哲学的意味について取り組んだもので、特に欧米におけるナショナリズムと人種差別の台頭について深刻な警告を発している。フクヤマは政治哲学の研究者であるので、引用される文献は、ソクラテスプラトンヘーゲル、マルクーゼやニーチェなど広範囲にわたる。フクヤマの主張の根本には、リベラルな民主制にとって国家の成員としての「国民」という身分が不可欠なものであるという考えがあり、この点は、国家の成員としての「国民」という身分の重要性を無視するどころか、場合によっては敵視すらする他の「リベラル」を自称する識者との大きな違いになっている。さらにフクヤマは、多文化主義と異なる民族性や性的指向固執を言祝ぐことがより個人的な自由への前進となるとする見方を断固拒否している点も特徴である。のみならず、フクヤマはこうした個人のアイデンティティに対する新しい要求を現代の国民国家を不安定にするものとして警戒する。

 

フクヤマは、「自己のアイデンティティを認識したいとする要求は、現在の世界の政治状況で起こっていることの多くを捉えるための基本概念である」と述べている。アイデンティティ・ポリティクスの問題である。人種、宗教、性別に基づく個人のアイデンティティの認識に対するこの要求は、国際貿易と旅行の爆発的増加そしてインターネットやソーシャルメディアの台頭により加速されていっている。とりわけ、インターネットやソーシャルメディアといったコミュニケーション・ツールは、「物理的な障壁ではなく、共有されたアイデンティティへの信念によって壁に囲まれた自給自足のコミュニティの出現」を促しもしたという。

 

この辺りの見解は、誰もが概ね共通に抱いている見解だろう。フクヤマの診断によれば、現在の左翼は「取り残されていると認識されている多種多様なグループ、黒人、移民、女性、LGBTコミュニティ」を促進したいがあまり、経済的平等と労働者の保護を要求するという従来の目標を失念してしまうという重大な誤りを犯したと言うのである。これに応じて、権利は「伝統的な国民のアイデンティティを保護しようとする愛国的な内容」として転化される基礎が提供された。その一つの結果が、マイノリティを社会的に追放したり、あるいは物理的に追放したりしようとする「極右」的な政府の台頭が挙げられる。

 

リベラルな民主主義が伝統的な自由を強化しながらマイノリティを保護するためにどうすればよいかという点について、フクヤマが提案するのが、国民がつくりあげる国家のアイデンティティの発展である。個人は、共有された個人の特性ではなくて、自国の核心となる価値によって社会統合が図られる。そこでフクヤマは、英語の基本的な知識や国家の歴史と民主主義の原則の理解を試す「市民権テスト」を要求している米国が先進的な国家であると考える。この辺りは『歴史の終焉』の頃と基本的な考えが変わっていないことがうかがわれる。それに対して、欧州諸国は市民権を得るのに同様の要件を課していないことを強調する。その代わりにEUは「多文化主義」を奨励するばかりで、その国の歴史と民主的価値を強調する特定の国民文化に移民を統合することの重要性を軽視した。その結果が、今の欧州諸国の混乱の根になっているのだと。

 

ダグラス・マレーのThe Strange Death of Europe: Immigration, Identity, Islam(町田敦夫の訳で『西洋の自死-移民・アイデンティティイスラム』(東洋経済新報社)として出版されている)が、多文化主義リベラリズムを言祝いできた知識人を痛烈に批判する文脈とも重なるものがある。といっても、マレーもフクヤマも、「レイシスト」というわけではない。むしろ、何でもかでも反対者に「レイシスト」のレッテルを貼るばかりで後先を顧みないような言説こそが、アイデンティティ・ポリティクスの泥沼を招き、それが欧州では修復不能なまでに進行していることの問題に危機感をもたせてくれているとも言えるだろう。リベラルな価値観に則り大量の移民を受け入れたはいいが、明らかに共同体の規範から遥かに逸脱する者の存在もいることを見て見ぬ振りをしてごまかし続けてきたツケが、今日の西欧社会の深刻な歪みとなって現象していると。ユルゲン・ハーバーマスもその一員に含む西欧のリベラリストたちが多文化主義と寛容を掲げながら想定している他者とは、あくまでも西欧市民社会のコードに随順するコミュニケーション可能な他者でしかなく、彼らは西欧市民社会の基底となる規範に包摂可能な他者という想定内で考えていたに過ぎない。

 

一部のムスリム移民の中には、少女奴隷売買や集団での強姦あるいは少女への強制割礼を当然と見なしているが、現在の西欧のリベラリズムからすればおよそ容認し難い行為がなされても適切な対処を怠ってきた(西欧社会に移民として流入した者の中には、イスラームの規範を可能な限り遵守しつつも「郷に入っては郷に従う」としてその社会の根本規範に抵触せぬように努める者も多いだろう。宗教と世俗の分離が当然の事理となってはいないイスラーム社会の規範を受け入れて育った者からすれば容認し難いことであっても、溶け込める範囲で溶け込もうとしてきた)。しかし同時に、原理主義的傾向を持つ厳格なムスリムにとって、西欧市民社会のコードに随順させようという明示的・黙示的な要求は、自らの人格的核心を土足で踏みにじる暴力と映じる。厳格なムスリムにとって、イスラームの教義は単なる趣味嗜好とも違うし、場当たり的に変化する政治思想とも違う自分の存在を支える基盤なのであって、西欧的なリベラリズムの規範や価値観を押しつけることは、存在を否定されたと考えることも理解できる。

 

ところが、西欧社会の伝統的な価値観や規範を当然の理として生きている者にとっては、自分たちのコミュニティに入ってきたからには、その価値観や規範を遵守してもらうよう望むのも無理ないことである。当然、摩擦や衝突が起こり、それがエスカレートしていくにしたがって、当初は寛容だった市民も遂には堪忍袋の緒が切れたとばかりに移民への違和感がふつふつと募り出し、その怒りの感情が移民排斥という極論に吸収されて排外主義という良からぬ方向へと推移していった側面を見逃してはならないわけである。


かつて、詩人のトマス・エリオットは、移民自体に反対はしないが、保守的な立場から、ある一定数以上の移民があるコミュニティに一気に流入するとそのコミュニティは瞬く間に崩壊していくと警告していた。このエリオットの言葉は極めて常識的なことを述べたに過ぎないわけだが、左翼の側からの「レイシスト」というレッテル貼りを警戒して編集者が新しく刊行された全集からこの言葉を削除している。コミュニティが崩壊しかねない程の大量かつ急速な移民の流入に対して慎重な態度をとることと、移民を排斥せよという排外主義者との主張の間には相当な距離があるにもかかわらず、その区別をせず乱暴に同じように「レイシスト」のレッテルを貼り、その理想主義の御旗の下で大量かつ急激な移民の流入を容認してきた結果が、西欧の市民社会の基礎的なコミュニティの崩壊を招きかねない事態を招来し、各種アイデンティティの危機をもたらしもしたという事実を正視する時である。

 

こうしたアイデンティティへの動機をフクヤマが説明する時に導入する概念は、以前『歴史の終焉』でも登場したことでお馴染みの「対等願望」と「優越願望」類似の概念である。古代ギリシアに端を発するthymosという概念である。フクヤマはこれを「認識や尊厳を切望する魂の一部」と説明する。フクヤマは対になる概念としてisothymiaとmegalothymiaという概念を提示する。isothymiaは「他の人々と平等に尊重されるべき要求」と定義されるのに対し、megalothymiaは「優れていると認められることへの欲求」である。先の「対等願望」と「優越願望」に対応することにすぐに気がつくだろう。これら2つの動機の間の緊張は、すべての個人に平等な敬意を払うことを目指しているすべてのリベラルな民主主義国家に存在している。特に宗教的または民族的マイノリティは与党の過半数によって疎外されたり軽視されたりしていると感じる可能性がある。megalothymiaは攻撃的な多数派グループが権力を握り、マイノリティ集団を社会的に追放するか根絶しようとするときに大きな問題を巻き起こす。フクヤマは、ナチス・ドイツこそが、20世紀におけるこの傾向の究極的表現であるという。

 

さらにアイデンティティ・ポリティクスの動向を追跡していく。本書のラストの章で、レーニンが1902年に書いた政治パンフレットの題をもじって、以下の提案をしている。その提案の趣旨は、もし進歩主義者であるならば「同化主義」を採用するべきだというものである。これには国境の強化も含まれる。他方で、現在米国にいる1200万人もの数の公的機関の記録にはいないことになっている男女に米国の市民権を付与するための道を提供することの必要性をも強調する。公教育がバイリンガル教育を段階的に廃止し、すべての学生に英語のスキルを教えることに焦点を合わせることも提案する。ニューヨーク市の公立学校では13の異なる言語で教育が行われているが、フクヤマはこうした政策は逆に対立要因となりうることを指摘する。それは、国民としてのアイデンティティを弱め、隔離されたコミュニティを育成してしまうことにつながるからだと言う。

 

加えてフクヤマは、新たに流入してきた者を合衆国の文化に統合する強力な方法として、すべての若者に対して普遍的な国民奉仕を義務づける提案もしている。そこでは「合衆国国民の物語の正当性を損なわしめる進歩主義者を批判する。左派がそういうことにかまけている間に共和党と他の保守派は、国民の身分を保護しようとする愛国者として自分自身を位置づけることができるようになったのだと。進歩主義者もしくは左翼は経済再分配と公共サービスの拡充といった伝統的な労働者階級の問題に傾注し、国民間の各々のアイデンティティに基づく分断をもたらす傾向に走ることのないように進歩主義者や左翼の陣営の者に助言する。

 

 

 

ドナルド・トランプの登場が、本書の執筆の動機となっているとフクヤマは言う。序文においてフクヤマは、「2016年11月にドナルドJ.トランプが大統領に選出されなかった場合、この本は書かれなかっただろう」と記している。フクヤマは、トランプは直感的に政治学者が考えてきた問題を理解して、権力奪取のための道具として利用したというのである。それは「あなたの境遇は、かくかくしかじかの陰謀によってもたらされてきたのだよ」と、これまで不可視であった「敵」を可視化し、ルサンチマンに訴える手法を徹底したというのである。トランプは、こう言う。”The United States is rigged!”。面白いことに、この類の表現は、前回の民主党の大統領候補の一人であったバーニー・サンダースもしていた。”Top 0.1% of Americans controll our country. This is rigged system!”と。

 

もっとも、彼らの主張も故のないことではなく、実際に米国政治は、トップ0.1%もしくは0.01%の超富裕層によって動かされているわけで、ホワイトハウスは常に、ウォール街の意向を気にした政策を実行している。数年前のoccupy wall street movementでは99%の庶民と1%の富裕層の対立図式を強調したが、幸か不幸か、1%の層といえども、ホワイトハウス連邦議会を動かす力は持っていないのが実情である(おそらく、ジョセフ・スティグリッツの著書の影響を受けているのだろうが。ちなみにスティグリッツは、僕の制度上の師の一人である。とはいえ僕は、スティグリッツ教授の見解には反対の立場である)。米国のトップ1%といっても、その平均所得は約130万ドル程度の「小金持ち」である。この程度の所得は、ウォール街では高所得とは呼ばないし、権力など持ちようがないのである。キャピタルゲインで年間1億ドル以上の所得のある者でないと、政策決定過程において何らの力も及ぼしえない。

 

フクヤマは、左派の一部はアイデンティティに基づく衝突にあまりにも多くの時間を費やしていると彼は信じているが、フクヤマは、Black Lives Matterや#MeToo運動は具体的な公共政策の歓迎すべき変化をもたらしたと評価する一方、アイデンティティ・ポリティクスの過剰は、主要な経済問題を覆い隠したり、自由な発言を抑制したり、ポリティカル・コレクトネスによる分断をもたらしたりするに至ると、逆効果にしかならないことを強調するのである。「トランプはポリティカル・コレクトネスを前向きに受け止めることで、アイデンティティ・ポリティクスの焦点を、それが生まれた場所である左翼から右翼に移すことにおいて重要な役割を果たした」と言う。1968年にリチャード・ニクソンは、アイデンティティに基づく人種差別的な「南方戦略」のおかげで大統領になれた。それから数十年の間に、右派はアイデンティティ・ポリティクスの枠組みを、学校での神への祈りや中絶あるいは銃による武装の権利などに組み替えることをしてきた。つまり、「双方がますます狭いアイデンティティへと後退することは、社会全体による討議と集団行動の可能性を脅かす」のである。

 

そのような悲惨な結果を防ぐためには、共有された一連の価値観へのコミットメントを増すべきだとフクヤマは強調する。その意味で、「現代のリベラルの民主主義におけるアイデンティティ・ポリティクスの台頭は、直面する主要な脅威の1つ」と言い、さらに「人間の尊厳についてのより普遍的な理解に戻ることができない限り、争いは継続することになるだろう」と。しかし、フクヤマは一抹の希望を託すことも忘れない。「アイデンティティは分断に利用できるが、統合にも利用できる」と言うわけである。

豊饒の海・虚無の海

たいていの物事は、それに長く付き合っているうちに慣れていくものであるが、世の中どうにも慣れようもないものが結構ある。米国在留邦人の悩みの種の一つである米国の食文化が、その好例かもしれない。米国といっても、ニューヨークはまだましな方で、一応世界中の料理を食することもできないわけではない。米だって、一応食べられるレベルのものは日系スーパーもあるので、賄うことはできる。おにぎりだって、「おむすび権米衛」に行けば、そこそこうまいものにありつける。

 

他人様の食文化にあれこれケチをつけるのは端ない振る舞いだ、と理解しているつもりでも、限度を超えた不味さだと、つい愚痴が零れてしまうのも人間の悲しい性。日本の中では、決して食文化が発達しているとは言い難い東京で生まれ育った身なので、「日本料理とは云々」と講釈垂れる資格はないのだろうが、いくらなんでも米国料理は単調に過ぎる。元来、出汁をとるということをしなかった関東の料理は、概して醤油や塩一辺倒な味つけが多く、決して高いレベルとは思わないが、米国料理はその比ではない。だから、米国大統領を迎える宮中晩餐会で出される料理の味つけがどうなっているのだろうか、と要らぬ詮索をしてしまう。というのも、宮中では、原則京風の味つけだからだ。

 

清涼飲料水となると、酷いと言うレベルを超えている酷さである。ルート・ビアだの、ドクター・ペッパーだの、チェリー・コークだの、どれも薬品っぽい味で、とても飲めたものではない。少なくとも、日本では間違いなく売れないだろう。以前、ロサンゼルス国際空港の到着ロビーの真ん前に控えるセブンイレブンで売られていたファンタ・ストロベリーを口にした途端、吐きそうになり、そのまま捨ててしまったことを思い出す。スポーツドリンクにしても、いかにも人口着色料を使いまくりましたと言わんばかりの奇妙な色のものが多く、日本の清涼飲料水がいかに美味しいか、改めて気づかされる。同僚などは、「そのうちに慣れるよ」と言うものの、長く生活しても慣れない。不味いものは、何年経過しようと不味い。ニューヨーク在住20年を超える日系コミュニティの中のある日本人も、「まだ慣れないどころか、死ぬまで慣れそうもない」と。

 

日本の書籍を買うことにも若干の不便がある。そういうと、「紀伊国屋書店があるではないか」との声が聞こえてきそうだが、確かに僕も、BOOKS KINOKUNIYAは頻繁に利用する。特に、日本語の書籍が恋しくなった場合、店に入るや、一目散に地下階の日本語書籍コーナーに駆け込む。しかも、海外の日系書店にしては、品揃えも比較的ましだ。同じ紀伊国屋書店でも、ロサンゼルスやその横のサンタモニカの店舗は、町の本屋さんというレベルのショボさなので、それと比べればましだということ。ロサンゼルスのダウンタウンとサンタモニカの間は、ほとんど地上を走っている地下鉄一本で繋がっているが(ちょうど、安倍晋三が留学していたという南カリフォルニア大学が沿線にある)。しかし、何といっても値段が日本で購入するよりも1.5倍から2倍近くかかる。そうすると次は、「値段に拘るのならば、アマゾン・グローバルを利用すればよいではないか」との声が聞こえてきそうだが、それはそれで問題があるわけで、僕のような書店巡りをしながら色々の本を手に取って物色しながら、これぞという本を数冊買いこむことが習慣になっている者にとって、単にネットで購入が可能であるのだから構わないではないかと言われても、「そうですか」とはならない。たまたま手にした本の内容が面白そうだからといって、当初のお目当ての本ではなく、その本の購入に意を変えたという経験をした者ならば理解されよう。逆に、お目当ての本であったが、実際に手にとって読んでみると大した内容ではなかったので、立ち読みで済ませてしまうという経験もあるだろう。書店とは、ネットと違って、必ずしも当初の目当ての本ではなかった本との偶然の遭遇の場でもある。

 

残念ながら今は、そのBOOKS KINOKUNIYAもCOVID-19の感染拡大防止のために臨時休業している有様。アマゾンで面白そうな日本の書籍を漁っていると、今年になって続け様に、熊野純彦が2冊の著作を出しているではないか。1冊は『三島由紀夫』(清水書院)で、もう1冊が『源氏物語-反復と模倣』(作品社)である。『三島由紀夫』の方は、清水書院の「人と思想シリーズ」の一冊として出されたものだから、ほぼ新書程度の分量である。後者の『源氏物語-反復と模倣』については手にしていないが、収録されている論考の一つは、かつて日本思想史関係の学術雑誌で目にした熊野の論文のタイトルと同じなので、それを再録したごく短い小品といったところだろうと思われる。

 

三島由紀夫』は、三島の人生の経過に合わせて代表的な作品を追っていく批評的評伝という性格を持つ。『和辻哲郎文人哲学者の軌跡』(岩波新書)や『戦後思想の一断面-哲学者廣松渉の軌跡』(ナカニシヤ出版)のような、決して著者自身の見解を押しつけがましく挿入することなく、丹念にその人のテクストからその人の思想を徐々に浮かび上がらせていく手法を採っている良質な著作である。

 

前作の『本居宣長』にしても、「内篇」と「外篇」に分け、宣長その人に語らせていくところと並べて、宣長研究の歴史や宣長に言及してきた者の言説を網羅的に扱って論じていた。イデオロギー的裁断が透けて見えてしまう宣長研究に陥ることもないので、安心して読むことができるだろう。分量は相当な量に上るが、比較的大きめのフォントで印刷されており、思ったよりも早く読めてしまえる。ちなみに「外篇」では、僕の好きな蓮田善明にまで言及するほどの力の入れよう。蓮田善明に関しては、この『三島由紀夫』でも言及されている。日本浪漫派との結びつきの点で、とかく保田與重郎との関係が注目されがちだが、実際は、三島由紀夫保田與重郎との関係は、一般に思われているより希薄で、同じ日本浪漫派に位置づけられる蓮田善明との雑誌『文藝文化』を通した関係の方が強く、熊野はこの点についても適切に触れている。

 

三島由紀夫の人生のエピソードや、三島由紀夫研究文献を手広くおさえ、かつ代表的な小説に関しても、必要な分量を割いている。不満が残るとすれば、『近代能楽集』に代表される戯曲についてあまり触れていないことだろう(三島の戯曲「喜びの琴」をめぐる文学座の分裂騒動の記述があるのに)。もっとも、熊野はこの点を承知していているし、本書の分量で、そこまで求めるのは欲張りすぎというものだろう。

 

マルクス資本論の思考』(せりか書房)の時もそうだった。熊野自身の自説を前面に押し出すのではなく、対象に寄り添い対象に語らせるというやり方は、簡単なようでいて、実は難しい。相当の分量の関連文献を読みこなしたという自負がないことには真似できない芸当だからだ。こうしたやり方は、小林秀雄本居宣長』(新潮社)が既にしており、これは小林の並々ならぬ自信の現れでもあった。

 

それにしても興味深いのは、熊野純彦は(制度上は違うが)廣松渉の薫陶を受けた哲学者・倫理学者であるものの、師の廣松と違って、小説や古典文学に親しんでいる好対照な様である。あくまで想像の域を出ないが、廣松渉は文学にほとんど関心がなかったに違いない。もちろん、廣松の論文の中に、小説からの引用が挿入されることは稀にあった(不確かな記憶だが、『マルクス主義の地平』(勁草書房)の中の、疎外の概念を扱った箇所において、『ラモーの甥』に触れていたかと思う)。しかし、その引用は、当の論文の主題に完全に沿う内容のものが選ばれたというだけで、レトリックとしてさえも、廣松は、古典文学や近代小説から引用することはほとんどなかった。マルクスが詩人に憧れ、また弟子の熊野も、同じく文学に慣れ親しんでいることと対照的である。

 

文体にしても、過度なまでに漢語表現を用いる廣松に対して、逆に過度なまでに仮名表現を用いる熊野の姿は、あたかも意図的に師の影響圏から抜け出ようとしているかのように見える。現に、熊野の若い頃に書いた論文を読むと、今のような仮名表記の多用は見られない。リゴリスティックな廣松のような文体でこそなかったが、しかし、簡潔で読みやすい文体で書かれていた。ひょっとすると、和辻哲郎のように、「日本語で哲学すること」に相当意識的になっているのかもしれないし、極論すれば、「やまとことば」で哲学することを究極の理想として描いているのかもしれないとすら思われるふしがある。

 

 熊野の著書は、高橋和巳との対比について触れた冒頭をおいておくと、初めと終わりに、三島自決の「十一月二十五日」のテーマを据えている。三島由紀夫陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面部総監室にて割腹自決を遂げた11月25日という日は、大蔵省退官後、職業作家としてのデビュー作『仮面の告白』が起筆された日であり、『豊饒の海』四部作の最終をかざる『天人五衰』の脱稿日でもある。そして、四十九日経った1月14日は、三島の誕生日である。計算高い三島のことだから、決行日はこの日以外には考えられなかったのだろう。

 

「創造と破壊」・「瞬間の超脱」にこだわる三島由紀夫の最期に遺した小説『豊饒の海』四部作は、我が国の古典『浜松中納言物語』に典拠した「夢と転生の物語」として物語られる。第三部の『暁の寺』は、仏教の唯識論の解説めいた箇所が延々と並べ立てられ、第一部の『春の雪』や第二部の『奔馬』と比べて、小説としては大して面白くもないこともあって悪評高い小説であり、批評でまともに取り扱われた例は少ない。しかしこの作品は、三島自決の鍵を握る謎を解明する上で必要欠くべからざる作品であり、もちろん熊野はこの作品の重要性を見落とさない。

 

三島由紀夫は、「七生報國」の鉢巻をして、総監室ベランダから階下にいる自衛隊員にクーデター決起を呼び掛けるも、それが果たし得ぬことと悟るや、古来の作法に則り、日本刀・関孫六で以って切腹し、最終的に古賀浩靖の介錯によって首が斬り落とされた。七度生まれ変わっても朝敵を討ち御國に報いんとする「七生報國」をうたい、檄文においても、三島は盛んに「魂」なる語を頻繁に用いている。しかし三島は、おそらく「魂」なるものの実在を否定していたに違いない。それは、『暁の寺』と『天人五衰』を読むことで明らかとなる。特に、『天人五衰』で登場する安永透という、生まれ変わりと思われた少年は「偽者」ではなかったか!

 

三島が『暁の寺』で論じているように、仏教を他の宗教と分ける特色の一つに、「諸法無我」という概念がある。仏教は、生命の中心実体となるアートマンを否定し、「無我」説を称える。よって、アートマンといった、「来世」へ存続する実体として考えられる「霊魂」なるものも否定される。三島は、『ミリンダ王の問い-インドとギリシアの対決-』を引用し、仏教における「無我」説の論証を説明している。

 

そうすると、この「無我」説と、「輪廻転生」の思想の整合性が問われることになる。このために持ち出されるのが、中観派と並んで、その教説が難解なことで知られる唯識派の教説である。『豊饒の海』第一部にあたる『春の雪』に登場する綾倉聡子が出家した月修寺は法相宗の寺院であり、この法相宗とは、唯識派仏教を研究する場でもある。日本では、奈良の興福寺薬師寺が有名である。

 

仏教哲学としての唯識論は、インドの無著や世親によって大成され、やがてその教説が玄奘三蔵によってインドからシナへと伝わり、法相宗が創立された。世親の『唯識三十頌』によると、「縁起」に関する「頼耶(ラヤ)縁起説」を基礎の中核をなすものが「阿頼耶(アーラヤ)識」である。この「阿頼耶(アーラヤ)」の原義は、一切の活動の結果である種子を蔵めることであるという。我々は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に第七識としての「末那識」という自我の意識を持っているが、「阿頼耶識」とは更にその奥に潜むものである。

 

しかし、注意しなければならないことは、このレベルになると、識の各私性はなく、相続転起して絶えることのない「有情」の総報の果体であるという点である。無著『摂大乗論』は、時間に関する縁起説を展開し、「阿頼耶識」と「染汚法」の同時更互因果を説明する。つまり唯識論は、ある刹那だけ諸法が存在し刹那を過ぎれば滅して無くなるという刹那滅の考えをとる。因果同時とは、「阿頼耶識」と「染汚法」が現在の刹那に同時存在していて、それが互いに因となり果となる関係をいう。この刹那を過ぎれば双方共に無に帰するが、次の刹那には再び「阿頼耶識」と「染汚」とが新たに生じ、それが更互に因となり果となって存在者が刹那毎に滅することによって時間が成立すると説くのである。

 

仏教は自己なる実体を認めない。それゆえ、仏教哲学の帰結として「自我」は存在しないことが導かれる。存在しないにも関わらず、なぜ存在するかのように映ずるのか。その理由は、「阿頼耶識」と「末那識」との間の相互作用によって、「末那識」は「存在しないもの」を錯覚を起こして「存在するもの」だと思量してしまうからである。ここに自我執着心=我執の発生を見る。「阿頼耶識」から一切は生成され、またこれによって一切のものが認識される。「存在するのは識だけ」であるという究極の観念論が帰結するかに見える。但し、仏教哲学にあって、「観念論」であるのか「実在論」であるのかは、実はほとんど無意味である。「存在するのは知覚することである」という英国のバークリーの表現に似た「存在するのは識だけである」というこの表現を文字通り受けとられるほど、仏教は単純なことを述べているわけではない。「存在する」という表現は、あくまで説明のための「方便」に過ぎず、より正確を期せば、「存在するものでもあり、かつ、存在しないものでもある」と言うべきであろう。熱心な真宗門徒なら、誰でも諳んじることのできる親鸞正信偈』の一節にもある「有無の邪見」に陥ってはならないというわけだ。

 

もちろん、「阿頼耶識」といっても、実体として存在しているわけではない。『暁の寺』による記述によると、「世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であった」という。今なら、さしづめカナダの哲学者ジョン・レスリーが言いそうなことだが、それが「なぜ世界は存在する必要があるのか」という問いに対する「阿頼耶識」の側からの最終解答なのだと。迷界としての世界の実在が究極の道徳的要請であるならば、一切諸法を生ずる「阿頼耶識」こそが、その道徳的要請の源だというわけでる。「阿頼耶識」と迷界としての世界は、相互に依拠している。だとすれば、「阿頼耶識」がなければ世界は存在しないが、同時に世界が存在しなければ「阿頼耶識」は自ら主体となって輪廻転生をするべき場を持たず、悟達への道は永久に閉ざされることになるだろう。現在の一刹那だけが実在であり、一刹那の実在を保証する最終の根拠が「阿頼耶識」であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている「阿頼耶識」は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在する。デカルトの言う神による連続創造説と比較したくなる誘惑にかられもするところである。

 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』によると、「実体」とは「意志」そのものであり、「意志」は非時間的なものである。実在の唯一の形は「現在」であり、実在的なものに直接に遭遇するのは「現在」のみであって、また実在が全体として含まれているのは「現在」である。回帰的時間に宇宙の始まりも終わりもなく、更にエスカトロジーが入る余地もない(僕はショーペンハウアーが大嫌いだし、ニーチェにしても過大評価されていると思っている。ニーチェの「永劫回帰」の概念よりも、ボルツマンのエルゴード仮説の方が、よほど重要な問題を提起している)。『ミリンダ王の問い』において、ナーガセーナは、時間の回帰的な性質を説明するのに、種子と植物の循環や鶏と卵の循環を例に挙げている。「輪廻転生」とは、この回帰的なイメージで語られる時間概念と相関する。ニーチェの「永劫回帰Ewig Wiederkehren」の概念は、その「瞬間」の概念と結びつく。『ツァラトストラは、かく語りき』の「贈り与える徳」・「幻影と謎」・「正午」の各章において、この「瞬間」の概念について触れている。この「瞬間」には、「時間が停止する瞬間」と「自己を反復することを欲する瞬間」が存在している。そこから一気に飛躍して「時間のない瞬間」の観念を得る。

 

大乗経典の中の『法華経』には「一念三千」の概念が登場し、これは小宇宙と大宇宙とが同一の統一的原理に支配されており、単一で無二の存在を形作ることが意味されている。また『華厳経』には、「一即一切」・「一切即一」という言葉があって、これは単に空間的にのみではなく時間的にも妥当する。つまり、ここでいう「一」とは「瞬間」の意味である。道元正法眼蔵』の「有時」という章には、「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」とある。 「時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり」と。

 

熊野は、三島の「瞬間」への視線に目をつける。もちろん、紙幅の関係上長々と論述することは避けてはいるが、間違いなくこの点の重要性を掴んでいる。こうした視点から三島に迫る論考が全くなかったとまでは言わないが、『豊饒の海』四部作を読み解くために『暁の寺』の重要性を指摘して、それを哲学的な議論にまで昇華させて論じる批評が少なかったために、この熊野純彦三島由紀夫』という批評的評伝は読む価値のある著作になっている。

バイと献血

 どこまで裏づけとなる医学的証拠が積み上げられているのかわからないが、COVID-19の重症患者に対する回復した元患者の血漿輸血による治療法が一部の国々で注目されている中、米国では献血者の確保が叫ばれている。抗体ができた者から採取した血漿を投与する治療法は、これまでエボラ出血熱SARSなどにおいて用いられてきた実績があるとのことで、COVID-19の重症化した患者に対してもこの治療法が有望ではないかとの期待が持たれるからだという。

 

 これまで米国では、HIV感染防止を理由に、ゲイやバイの男性に対する厳しい献血制限措置が講じられていたが、今回の騒動を期に先月、緩和措置がとられることになった。数年前までは、ゲイやバイの男性は全て献血が禁止されていたのが、最後に性交渉した時を起算点として1年間経過した後という条件つきで献血禁止措置が緩和されていた。今回の緩和措置は、待機期間を3ケ月に短縮するというものである。米国のみならず欧州や日本においても、こうした献血制限措置は採られている。中には、今も全面禁止の措置を講じている国も残っているが、日本では過去6ヶ月の間に男性同士の性交渉をした者は献血ができないことになっている。

 

 HIVB型肝炎ないしはC型肝炎のウイルスは、制度の高い検査法を用いても検出が難しい時期が存在するので、6ヶ月間という余裕を持たせた待機期間を設けているのだろう。期間の長さの判断が合理的なのかわからないが、いずれにせよ、一定期間の待機を要請すること自体は不合理な措置とは言えない。とはいえ、6ヶ月もの間、全く性交渉しないことを期待するのは非現実的だろう。自分自身の経験と照らし合わせて見ても、ゲイやバイの男性の性行為の回数は、ヘテロ男性の異性との性行為の回数よりも遥かに多い。異性との性行為にしても、特定のパートナーのみとしかしないという者が何人いるのかという疑問もつきまとう。不特定多数の異性や同性との性行為を楽しんでいる者の数は相当数に上るはずだ。

 

 もちろん個人差もあるだろうし、あくまで自分の周囲を見渡しての話でしかない。恋愛の対象としての異性との性交渉をした後で不特定の同性とも平気で性交渉できる僕のような人間からすれば、ほとんど永久に献血ができないことになってしまう。幸か不幸かわからないが、異性との性行為よりも同性との性行為の方が性的快感の度合いが遥かに高いのが、これまた厄介なのだ。背後にある種の「物語」が控えているだろう異性との行為より即物性の度合いが強いのだろうか、ただひたすら目先の性的快感だけを目的に突っ走るからかもしれない。いずれにせよ、得であることに違いない。特定の異性愛や同性愛に拘るのではなく、両性愛を肯定した方が楽しみも増えるので、ぜひおすすめしたい。

 

 明治より前の時代の日本では、今でいうゲイやバイが禁忌化されてはいなかった。大多数を占めていた農業民の実態に関しては知らないが、特に武家社会では男色の嗜みはむしろ当然視されていたわけで、数々の武将も男性同士の性行為を楽しんでいたし、江戸時代の一時期に奇抜な格好をして街中で暴れ回った不良集団である旗本奴や町奴は仲間内でも夜な夜な行為に及んでいたし、若衆宿はあまりの人気で混乱したために幕府が閉鎖するほどの活況ぶりであったというのだから、近代化されて以降の日本社会がむしろ異常な状態であると言うべきなのかもしれない。

 

 その理由は、はっきりしないところもあるが、キリスト教道徳の影響もあるのかもしれない。しかし、キリスト教の我が国への浸透具合を見れば、信者数は多く見積もっても人口のわずか1%程度でしかない世界有数の非キリスト教国家である日本(イスラーム化したアラブ諸国ですら人口の5%から10%ほどのキリスト教信者がいるというのだから、先進資本主義諸国であり信教の自由が保障されている日本のキリスト教信者の低比率が際立つ)で、それほどキリスト教道徳が浸透しているとは思えず、事は産業化に関係しているのかもしれない。「富国強兵」・「殖産興業」の国策の下、直接生産活動に資する生殖に結びつく異性間の性愛のみが称揚され、人口の再生産に役立たない同性愛が禁忌化されたのか(一時期、代議士の杉田水脈の発言が話題に上ったが、ある意味で近代社会の本音が現れ出たものかもしれない。杉田発言はこの本音が低レベル化されたものと言えるのだろう)。この辺の事情についての社会学の研究があってもよさそうだが。

 

 いずれにせよ、同性同士の性交渉や多数との性交渉を過剰に禁忌視する社会は、単純に息苦しい。もちろん、あらゆる物事において禁忌があってはならぬという意味ではない。人間の社会が円滑に機能するには、ある種の禁忌化が必要となる場面はある。逆に禁忌化されることなしにはあらゆる文化は成立しないだろうとさえ言える。しかも、禁忌なくしてエロティシズムもへったくれもないだろう。禁忌がなくてよいとは思えず、あった方が良いとさえ思える。問題は、それが窒息しそうになるまで過剰になることである。同性との性行為に対する禁忌視が多少あるのならば、それはそれで構わないだろう。但し、それが性的興奮を掻き立てくれる「香辛料」である限りにおいて。