shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

感情教育

米国には、HIGH TIMESという日本では考え難い大麻推奨雑誌が存在し、特に、規制が比較的緩やかなカリフォルニア州などでは普通に売られている。かつて西海岸で跋扈したヒッピー文化を継承しているため、その背景となる政治信条は左翼的とも言え(この点は、右翼を自認する僕としては気に入らないわけだが)、米国のエスタブリッシュメントを挑発するかのようなカウンター・カルチャー雑誌と位置づけることもできるだろう。

 

中身はというと、怪しげな男がドラッグの化学組成を流暢に解説する記事やら、人目を忍んで大麻生活を謳歌するための隠し方のコツだのといった笑える記事で溢れている。大麻吸引用のBongの広告も目につく。但し、こうした一定の政治性あるメッセージとして大麻を利用しようという性根が気にくわないことも確かだ。ドラッグによる快楽を享受すること自体は、一向に構わない。しかし、ドラッグに頼ることで、何らかの発想を得ようとする魂胆が透けて見えてしまうことが気にくわない。ドラッグなくしてドラッグの快楽を享受し、ドラッグなくしてドラッグによるトリップのごとき経験を味わうことの方が、ずっと価値あることだ。ドラッグに溺れる思索者がいても構わない、むしろイカれた奴が好きな者としては、そうした者がいて欲しいとすら思う反面、ドラッグなくしては思索できないような思索者は、所詮三流でしかないという思いもある。

 

日本にも、極く少数ながら、大麻解禁論者によって出された著書や雑誌にBongの広告が掲載されたりするが、米国の事情とは違って、日本では今もなお、大麻所持の禁止が徹底されている建前になっているので(クラブに何度も足を運んでいればわかるだろうが、実態は相当蔓延している。大学生の中にも、かなり広範囲に広がっているのが実情だろう)、ここまで露骨な雑誌だと「有害図書」として指定されることになるだろう。とはいえ、米国では全面合法化されている誤解があることも確かだ。医療用大麻と嗜好用大麻とは別に扱われているし、嗜好用ともなれば、州ごとによって規制の内容も異なる。少量においては可罰的違法性が認められないということを勘違いして、これを合法と誤解する人もいる。

 

現状では、覚醒剤をも含むすべての薬物を合法化しろとまでは言う気はない。しかし、少なくとも大麻に関しては即時解禁が望ましいし、コカインあたりまでは、将来的に解除されて行けばよいだろう。そうした方が、末端価格がディスカントされ、裏社会の資金源としての魅力も失せる。残念ながら、「禁煙ファシズム」が吹き荒れる日本でそうなることはおよそ期待できそうもないが(禁煙に関しては、米国も規制が厳しいが。それ以前にバカ高い)。

 

この大麻吸引器Bongから名づけただろうサーフブランドBongの広告が、休刊した雑誌「men's egg」に掲載されていたことを思い出す。日焼けした肌にタトゥーの入った、金メッシュの髪の男たちがケツ丸出しにした広告を初めて目にした中学生の時には、ちょっとした憧れを抱いただけでなく、同時に性的な関心にもなっていたものだから、最初の方は書店で買う時にどうしてもある種の気恥ずかしさがつきまとってもいた。ギャル男の性器にバターを塗りつけ犬にそれを舐めさせることもしてたし(世間からバッシングを受けて謝罪。普段からの読者でもない者が、どこからか聞きつけて編集部に抗議したのだろう)、ギャル男の赤ふん姿や、ギャル男に首輪をつけさせソフトSMのような真似事をさせたりといった、単なるファッション雑誌ではありえない際どい内容の特集も組まれていた。購読し始めた時は多感な時期もあって、刺激的であったことは、間違いない。慣れてくればそうでもなくなったが、見る人によっては、ともすれば「エロ本」と化してしまうような内容も含まれていたに違いない。どう見ても編集部や、ギャル男の連中に、ゲイもしくはゲイよりのバイがいたはずで、事実、ゲイむけのDVD作品に出演していた人も数人いたようだ。

 

この雑誌「men's egg」と同様に、休刊の憂き目にあった「チャンプロード」は、「暴走族御用達雑誌」と言われたことだけあって、取り上げる対象は暴走族やヤンキーあるいは暴走族のOBやOGの改造「VIPカー」で、時には、道路交通法違反(共同危険行為)を助長すると受け取られても仕方のない誌面構成であった。昔は「チャンプロード」だけでなく、「ティーンズロード」や「ライダーコミック」といった暴走族雑誌が刊行され、富士山麓の河口湖を目指して暴走する「初日の出暴走」や、その他の「祭り暴走」の特集が組まれ、臨場感ある写真がその場の興奮をよく伝えてもいたらしい。かなり過激な内容のこうした雑誌が複数存在したというのであるから、昔の若者は血気盛んなエネルギーに満ち溢れた青春を謳歌していたのだろうな、と羨ましさも募る。とはいえ、少年院体験談があったり思春期のお悩み相談など真面目な企画もあり、中には自分の性的指向について率直に告白する現役暴走族の声も掲載されていて、一概に違法行為を助長する雑誌だとばかりには言えない内容を持っていた。

 

チャンプロード」に関しては、その無茶ぶりを愛さずにはいられなく、十代半ばから廃刊まで毎月26日の発売日を楽しみにしていた愛読者であり続けたが(単車乗りになったのもこの影響である)、単車にしてもサーフィンにしても、思春期に突入した中学時代にこうした雑誌に遭遇していなければ、おそらくやっていたかどうかわかならないと思われるほどに、決定的な影響を受けたわけだ。僕にとってのある種の「感情教育」であったのだろう。当時は、「チャンプロード」で取り上げられる暴走族がやけに格好よく思え、強烈な憧れを増していくに連れて、実家の近くの環状八号線を暴走する集団に会おうと、夜中密かに家を抜け出して見に行ったものである。その頃は既に暴走族の全盛期からは程遠い状況ではあり、特に東京都区内において、その傾向は顕著だった。そうであっても、週末の環八には10台程度の集団は時々暴走していたものだった。東京の族は他と比べて硬派なチームが目立ち、サラシを巻いて特攻服を着込み、足元はテープをぐるぐる巻きにしたブーツかもしくは雪駄という井出達(特攻服を着ない時には普通のサンダルだったが。こういうところにも地域色が出るもので、関西の暴走族は地下足袋が多いと聞く)。ケツに乗った者は金属バットやゴルフクラブもしくは木刀をかざして対向車を威嚇しながら爆音を奏でているところを直に目にした時は、鼓動が激しくなるほど興奮を覚えたものだ。

 

ところが、こうした雑誌が2010年代に休刊となり、もはや刺激的な雑誌の居場所が消失してしまったかに見える。「チャンプロード」は行政から「有害図書」指定されてもなおしばらく生き延びてきたとはいえ、とうとう時代の趨勢に抗しきれなくなった。読者層の十代にとって紙媒体をわざわざ買うことが億劫になったこともあろうが、全体的にヤンキーやヤンキー好きな人間が激減したことが大きい。少子化の加速で十代の絶対数が減少し、それだけにヤンキー人口も激減するだけでなく、世の中全体の「クリーン化」とでもいうべき状況に、そうした存在の居場所がなくなっていったことも大きく影響しているのかもしれない。もちろん、規制が厳しくなり社会がコンプライアンスに小うるさくなってきたことも手伝っているだろう。

 

街が「クリーン化」されると同時に、その街独特のいかがわしさからくる魅力も消え失せてしまった。パチンコやスロットの人口が20年前比べて約三分の一にまで激減したことも、同じ背景を持っているのではないかと勘繰りたくもなる。最も主要な原因は、おそらく90年代後半から日本経済がデフレ状況に突入したことだろう。日本経済全体のパイが縮小していくにつれて、社会の活力も減衰していったのである。実際、日本経済の衰退傾向とは逆に勃興してきた韓国やシナあるいは東南アジア諸国の都市では、かつての日本の暴走族と見紛う集団が公道を暴走するようになったし、ヤンキーも増えて行った。こうした現象を規定しているのも経済的な要素なのである(やはり、デフレが問題なのだ!右であろうが左であろうが、最も忌むべき敵は、デフレ推進策を支持することによって日本社会の長期停滞をもたらそうとしている輩なのである)。

 

東京に関しては、特に石原慎太郎東京都知事に就任して以降の時期と重なったこともあり、その環境「浄化作戦」によって歌舞伎町の様相も様変わりし、民族派の大型街宣車ディーゼル規制の影響で都内を自由に街宣できなくなり、風俗店への締め付けや伝統的に繁華街を縄張りにしていたヤクザへの弾圧も厳しくなっていった。民族派の団体には様々境遇の者がいて、現役のヤクザももちろんいるにはいるが、むしろそうした存在は数としては少数であって、ほとんどはカタギの者である。土木・建設会社を経営する者もいれば現役のホストもいる。トラックやタクシーの運転手もいれば、大学生や高校生、それに現役の暴走族や暴走族のOBもいる。美容師だっているし、公務員や大企業のサラリーマンもいる。そうした面々が口を揃えて石原慎太郎の悪口を言うのだから面白い(世間のイメージはどうだか知らないが、まともな民族派石原慎太郎を「憂国の士」と思っている者は皆無に近い。彼は典型的なポピュリストであるにすぎない)。いずれにせよ、それなりの自生的秩序が形成されていたところに警察官僚の利権が入り込んだ結果、元の緩やかな秩序が崩壊し、ますますつまらない街と化していったことは間違いない。作家の宮崎学が言うところの「コンプライアンス利権」の住処へと変貌したのである。

 

もっとも、警察官僚の「コンプライアンス利権」が狙うような社会に直ちに様変わりするかと言えば、必ずしもそううまくは行くまい。天下の悪法である暴力団対策法や内閣法制局による「事前審査」を通しては違憲の判断がなされるだろうことを考え、その抜け駆けとして地方自治体における条例として規制することを図った暴力団排除条例の影響で既存のヤクザ組織が弱体化し、代わりに一般人を直接狙った犯罪が密行性を高めた形で行われるようになったし、ちょっと前まではチャイニーズ・マフィアが我が国の繁華街を大手を振ってもいた。特殊詐欺案件の急増が何を意味しているのか、その背景となる要因を分析していくと、明らかに暴対法や暴力団排除条例が直接ないしは間接に関係しているはずである。いわゆる「半グレ」の暗躍も、その例から漏れるものではない。

 

徒に規制が強化され街の「無菌化」が図られようと、大半の「いい子ちゃん」はそれに盲目的に従うかもしれないが、いくら少子化になったとはいってもそうしたものに抗いたくなる「アウトロー」的な若者は一定数は存在する。若者のエネルギーがここまでスポイルされようとも、それには満足できない「荒くれ者」は、それがたとえ違法と評価されるような行為であったとしても、「のし上がること」に優先的な興味を抱き、またそうして成功した者に強い憧れを抱く。それは、そうした者たちが他の一般人にない魅力を湛えているからでもある。衰退していく日本社会の動向に歩調を合わせるのではなく、それに逆行して荒々しく生きていく者に対して若者が憧憬を抱くのはむしろ自然なことであって、それがマネーが特にモノを言う今日の世界においては、是が非でも他人より稼ぐことにより強烈な刺激と快感を覚えるようになるのも無理ない話である。そういう一定数の者たちにとって、やれ「スローライフ」だの「脱経済成長至上主義からのライフスタイルへの転換」だのといったところで全く魅力的には映らないし、そもそも絵空事の偽善くらいにしか思われないのである。偽善・欺瞞に関しては敏感な嗅覚を持つ彼らにとって、人間の欲望を素直に肯定しようとしないこうした言説は、その嘘っぽさがプンプンして反吐が出る思いすらするだろう。

 

型通りのレールに乗ったところで稼げる額はたかが知れている。しかし、そこからズレたところでは知恵と度胸さえあれば他人の何倍もの金を稼ぐことは意外と容易い。ならば、そうした進路を選択するのも悪くはないと思う若者が出てきて当然なのだ。特にごく一部の「エリート」とされた者(日本社会は、先進諸国において稀に見る平板化された社会なので、「エリート」とされる者が必ずしも高所得であるわけではないが)でなければ、手っ取り早く稼ぐことのできるのはグレーな領域においてである。ホワイトでもなくブラックでもないグレーゾーンに金のなる木が植わっている。とするなら、そこを目掛けて突き進む血気盛んな若者は、一昔前から極道も選択肢に入っただろうが、今ではその選択はむしろ行動の幅を狭めてしまうから端から見向きもしない。そこで最も動きがとりやすい「半グレ」を選択することになるわけだ。この姿は、ある意味スポイルされてしまった日本の若者のネガでもあるのだ。