shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

バイと献血

 どこまで裏づけとなる医学的証拠が積み上げられているのかわからないが、COVID-19の重症患者に対する回復した元患者の血漿輸血による治療法が一部の国々で注目されている中、米国では献血者の確保が叫ばれている。抗体ができた者から採取した血漿を投与する治療法は、これまでエボラ出血熱SARSなどにおいて用いられてきた実績があるとのことで、COVID-19の重症化した患者に対してもこの治療法が有望ではないかとの期待が持たれるからだという。

 

 これまで米国では、HIV感染防止を理由に、ゲイやバイの男性に対する厳しい献血制限措置が講じられていたが、今回の騒動を期に先月、緩和措置がとられることになった。数年前までは、ゲイやバイの男性は全て献血が禁止されていたのが、最後に性交渉した時を起算点として1年間経過した後という条件つきで献血禁止措置が緩和されていた。今回の緩和措置は、待機期間を3ケ月に短縮するというものである。米国のみならず欧州や日本においても、こうした献血制限措置は採られている。中には、今も全面禁止の措置を講じている国も残っているが、日本では過去6ヶ月の間に男性同士の性交渉をした者は献血ができないことになっている。

 

 HIVB型肝炎ないしはC型肝炎のウイルスは、制度の高い検査法を用いても検出が難しい時期が存在するので、6ヶ月間という余裕を持たせた待機期間を設けているのだろう。期間の長さの判断が合理的なのかわからないが、いずれにせよ、一定期間の待機を要請すること自体は不合理な措置とは言えない。とはいえ、6ヶ月もの間、全く性交渉しないことを期待するのは非現実的だろう。自分自身の経験と照らし合わせて見ても、ゲイやバイの男性の性行為の回数は、ヘテロ男性の異性との性行為の回数よりも遥かに多い。異性との性行為にしても、特定のパートナーのみとしかしないという者が何人いるのかという疑問もつきまとう。不特定多数の異性や同性との性行為を楽しんでいる者の数は相当数に上るはずだ。

 

 もちろん個人差もあるだろうし、あくまで自分の周囲を見渡しての話でしかない。恋愛の対象としての異性との性交渉をした後で不特定の同性とも平気で性交渉できる僕のような人間からすれば、ほとんど永久に献血ができないことになってしまう。幸か不幸かわからないが、異性との性行為よりも同性との性行為の方が性的快感の度合いが遥かに高いのが、これまた厄介なのだ。背後にある種の「物語」が控えているだろう異性との行為より即物性の度合いが強いのだろうか、ただひたすら目先の性的快感だけを目的に突っ走るからかもしれない。いずれにせよ、得であることに違いない。特定の異性愛や同性愛に拘るのではなく、両性愛を肯定した方が楽しみも増えるので、ぜひおすすめしたい。

 

 明治より前の時代の日本では、今でいうゲイやバイが禁忌化されてはいなかった。大多数を占めていた農業民の実態に関しては知らないが、特に武家社会では男色の嗜みはむしろ当然視されていたわけで、数々の武将も男性同士の性行為を楽しんでいたし、江戸時代の一時期に奇抜な格好をして街中で暴れ回った不良集団である旗本奴や町奴は仲間内でも夜な夜な行為に及んでいたし、若衆宿はあまりの人気で混乱したために幕府が閉鎖するほどの活況ぶりであったというのだから、近代化されて以降の日本社会がむしろ異常な状態であると言うべきなのかもしれない。

 

 その理由は、はっきりしないところもあるが、キリスト教道徳の影響もあるのかもしれない。しかし、キリスト教の我が国への浸透具合を見れば、信者数は多く見積もっても人口のわずか1%程度でしかない世界有数の非キリスト教国家である日本(イスラーム化したアラブ諸国ですら人口の5%から10%ほどのキリスト教信者がいるというのだから、先進資本主義諸国であり信教の自由が保障されている日本のキリスト教信者の低比率が際立つ)で、それほどキリスト教道徳が浸透しているとは思えず、事は産業化に関係しているのかもしれない。「富国強兵」・「殖産興業」の国策の下、直接生産活動に資する生殖に結びつく異性間の性愛のみが称揚され、人口の再生産に役立たない同性愛が禁忌化されたのか(一時期、代議士の杉田水脈の発言が話題に上ったが、ある意味で近代社会の本音が現れ出たものかもしれない。杉田発言はこの本音が低レベル化されたものと言えるのだろう)。この辺の事情についての社会学の研究があってもよさそうだが。

 

 いずれにせよ、同性同士の性交渉や多数との性交渉を過剰に禁忌視する社会は、単純に息苦しい。もちろん、あらゆる物事において禁忌があってはならぬという意味ではない。人間の社会が円滑に機能するには、ある種の禁忌化が必要となる場面はある。逆に禁忌化されることなしにはあらゆる文化は成立しないだろうとさえ言える。しかも、禁忌なくしてエロティシズムもへったくれもないだろう。禁忌がなくてよいとは思えず、あった方が良いとさえ思える。問題は、それが窒息しそうになるまで過剰になることである。同性との性行為に対する禁忌視が多少あるのならば、それはそれで構わないだろう。但し、それが性的興奮を掻き立てくれる「香辛料」である限りにおいて。