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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

マルクスとサルトル

哲学における人間社会の本質と構造についての議論は、発生論的な議論よりも存立構造論が中心に据えられる傾向にあるように見受けられるが、この点に関して、廣松渉『役割理論の再構築について』は、社会生成の基底に関して役割行動論に基づく発生論的な論理を展開しているところに特徴がある、哲学書としては比較的珍しい部類に属するのではないだろうか。

 

その役割行動について、廣松は、次のように定義する。 

<他者によって期待されている行動の-解発的に現前する当事者に対向しての-呼応的遂行>、この間主体的に共役的な関係性における実践

 

そして、役割行動の発生場面における模倣行動の持つ重大な意義を主張し、「役割交替」・「役割期待」・「役割取得」といった、役割存在の構成要素の形成機制を分析して行くのだが、廣松によると、力動的な場において<「期待され」-「期待する」>関係の経験の集積により、徐々に役割行動における当事主体・当事他者の共役的存在が形成されて行くというのである。

役割行動という所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体的他者による期待の対自化、それに即応した”この”身体の協応的応接の進展とそこにおける”あの”身体的他者に対するディスポジショナルな反応様態の対他的予期、一般化していえば、所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体と”この”身体とのあいだでの協応のディスポジショナルな相補的・共役的な期待の「対他的ー対自的」な現成、このような力動的場において「他己」と「自己」とが「対自的・対他的」に現識される。

 

ある役割を「期待する」第三者を内面化させ、「期待される」行動を自らのものとして身につけて振舞う。こうした役割行動は、一定の社会的交通を持った相対的に自律した共同体が形成されるところにおいては、一様に見られるみられる現象であろう。人間が一定の社会を形成する動物である限り、何らかの役割期待に基づいた振る舞いをしており、それが社会的・歴史的に媒介された「社会的行為」を理解する基礎となる。

 

『役割存在論の再構築のために』より前の、若い時分に出された『世界の共同主観的存在構造』を構成する論文の一つ「共同主観性の存在論的基礎」において、この認識に至る思考の萌芽を見つけることができるかもしれない。役柄扮枝と対他存在を論じる文脈において、廣松は、サルトル存在と無』の議論を取り上げ、これを批判的に検討している。

 

その前に一言。『存在と無』より前に書かれた『自我の超越』によると、現象学において意識は志向性として定義されるのであるから、「超越論的自我」というようなものはありないということになっている。

 

他方、フッサールによると、現象学的還元によって見出された超越論的主観性は、一切の客観的存在と真理に対して、その存在と認識の根拠を与えるものであるとされる。世界その他の志向的相関者は、認識論的主観の意識能作を超越して自存するものではない。したがって、世界の超越は、世界を究極的に構成する自我との相関における「超越」に他ならず、この意味において、自我は存在する一切の超越に対する絶対的な前提としての極となる。

 

ところが、サルトルに言わせると、世界のみならず自我すらも徹底的に還元の対象になるのだから、「経験的自我」と区別される「超越論的自我」なる概念は、むしろ還元の不徹底をこそ意味するものに他ならなかった。自我は、世界及びその他の対象と同じく、すべて意識の志向的対象の一つであって、「世界に向けて己を炸裂させ」ねばならない。したがって、意識それ自体は何ものでもなく、正に「白紙状態une table rase」ないしは素裸の「無」という他なくなる。

 

かくして現象学的還元は、サルトルにおいては以後、「無化作用néantisation」という意義を付与されることになる。すべてであるところの充実したものとしての、後のサルトルのいう「即自存在l'être en-soi」と、存在から抜け出た無としての「対自存在l'être-pour-soi」であるところの意識。ここにおいては、「超越論的自我」なる概念が成立する余地はない。

 

だがフッサールは、「自然的態度」において思念されたものをすべて「ノエマ的意味」に還元し、自然的に思念されていた他者も同じく還元の対象とされる。『デカルト省察』では、超越論的主観性による他者構成の機制を解明していくことになるが、ここにおいて言われる「他者」とは、世界の側の対象となる被構成体としての他者を意味するものではなく、「ともに」世界を構成する「他者」、「等しく世界をともに構成する他者」という「間接的」現前の仕方でしか現象しないところの「他者」である。とはいえ、「他者」経験を発生論的場面に即しつつ、「対化」という「受動的総合」の一形式による「類比化的統覚」が決定的役割を果たす「自己移入論」を展開する『デカルト省察』が、「他者」構成論において成功しているとは思われない。

 

サルトルの対自・対他存在としての<私>という見方の基礎には、対象についての定立的意識は、同時に自己に関する非定立的自己意識を伴うという考えが背景にある。サルトルによると、<私>は他者によってしか<私>たることはできない。「私は、私であるところのものではないje ne suis pas ce que je suis.」とは、対自存在と対他存在とに引き裂かれた存在としての<私>の存在の脆さを示している。<私>とは、この「存在論的不安定」において存在しているものというわけだ。

 

この「存在論的不安定」を必然的に受け入れざるをえない事態を、サルトルは「自己欺瞞la mauvais foi」と表現している。

 

「私としてあるところのもの」ではないというあり方において、私は、「あるところのものである」ようにせしめること、あるいは、「あるところのもの」というあり方において、「あるところのもの」でないようにせしめること。

 

我々の日常生活は、こうした「自己欺瞞」というあり方に彩られている。我々が、自己にとって何ものかであることに脅え、かつ、その我々が他者によって何ものかにせしめられていることに慄いている。

 

この「自己欺瞞」の運動を成立させているのが、「演技jeu」である。カルティエ・ラタンのカフェのギャルソンの颯爽とした振る舞いは、彼がまさにカフェのギャルソンを演じていることを示している。誰であろうと役柄を扮し、<私>を我有化させるわけであるが、こうした自らの「演技」や仮面を現実と見なし、仮象を実在とみなす態度を、サルトルは「クソ真面目な精神 l'esprit de sérieux」と表現する。なぜか?その理由は、仮象の背後の<無>に耐え切れず、<実在>の安らぎに逃げ場を求めるからだ、とサルトルは言う。

 

このような「存在論的不安定」から抜け出す道はあるのか?サルトルは、逆説的に、ジュネやボードレールの生き方にそのヒントを見つける。ジュネやボードレールの奇怪な振る舞いは、「クソ真面目な精神」を脱し、役柄を自ら率先して演じる。しかし、単に演じるのではない。仮象はどこまでいっても仮象でしかなく、演技や仮面をも現実とはみなさないからだ。

 

どこにもあるようで、どこにもない<私>。この<私>は、あの「本来的な自己」でもなく、もはや<実在>などに安らぎの場を求められないことを積極的に受け入れている。

 

他者の眼差しが<私>を「石化」させる、つまり即自存在へと変じさせてしまうとサルトルは言う。ここで意識されているのは、他者によって見られているがままの被視存在としての私ではなく、役割存在としての自己であり、ここに言う自己とは、レアールな存在としての自己ではなく、未在という仕方で「現前」している存在である。

 

泥棒であって泥棒を演じるのではなく、泥棒に敢えてなるということ。『存在と無』は、冗長に過ぎる面がないではないが、個別の実存のあり方についての微細な点まで逃さぬ記述には見るべき点があって面白い。

 

廣松は、マルクス主義との接点が希薄であった時期に書かれた『存在と無』を引用することはあっても(とはいえ、後年に書かれた文章には、サルトルはほとんど姿を消すことになるが)、マルクス主義と急接近した時期に書かれた『弁証法的理性批判』を始め、『唯物論と革命』や『共産主義者と平和』には言及しない。せいぜい、その『弁証法的理性批判』の序文にあたる『方法の問題』の一部分、すなわち、マルクス主義を現代において「乗り越え不可能な哲学」と記している箇所を、マルクス主義を宣揚する際に「飾り」として引用しているに過ぎない。

 

ということから推し量られることは、廣松は『弁証法的理性批判』を評価していなかったのではないかということである。それもそのはず。サルトルの哲学は、どこをどう読んでも、マルクス主義とは単に異なるどころか、水と油の関係であるというぐらい互いに相容れない哲学・思想ということを感じ取っていたからに違いない。そう、「実存主義マルクス主義」など、形容矛盾も甚だしい代物なのである。

 

しかもサルトル自身、マルクス主義を「現代において乗り越え不可能な哲学である」と称揚し、『弁証法的理性批判』まで著している割には、フッサールを読んだ程度にはマルクスを読んでいなかったのではないかとの疑念をつい抱いてしまいたくなるほど、その表現に引っ掛かりが感じられるし、『弁証法的理性批判』も、読みようによっては、反マルクス主義的な著作に映ってしまう。『唯物論と革命』を一瞥しても、マルクス主義からの積極的引用は、ヨシフ・スターリンの『弁証法唯物論史的唯物論』くらいなものではなかったか。

 

要は、「そもそも、マルクスに大して関心持ってねーだろ?」と。そりゃ、レジスタンスに身を投じたマルクス主義者を見て感化されたのだろうけど、サルトルは傍観者でしかなかった。それが影響したのか、後年は過激であることが自己目的化したようなアナキストになっちまった。マルクス主義の文献について読みこなしていた形跡もなく、せいぜい、エンゲルスの自然弁証法の酷さを見るに見かねて、「ここらでいっちょ、かましたろうか」というノリで書いたようにしか思えないものがチラホラ散見される。

 

『方法の問題』で、人間は所与の条件において歴史を形成していくことに触れる際、この表現が、マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』において既に述べられていることの再定式化であることにすら気づいている気配がない。『共産主義者と平和』の第三部において経済理論に触れる場面でも、マルクス自身の経済理論を新マルサス主義の理論と勘違いしていた(改版されたものは、この部分が削除されているらしい)。さらに、レーニントロツキールクセンブルググラムシルカーチのようなマルクス主義者の数多の議論に言及することもない。ラファルグ、ジョレス、マルクーゼ、ブロッホアドルノアルチュセールについてもほとんど言及されていない。

 

メルロー・ポンティは、サルトルは経済と搾取の問題には関心を示さず、専ら抑圧に関心があったと証言しているが、正鵠を射た発言だと思われる。事実、マルクスの場合、人間は階級の形で集合的に捉えられる傾向にあるのに対して、サルトルでは、『弁証法的理性批判』においてすら、人間は集団に全体化された個々の主体の集まりでしかなかった。存在論的自由に関するサルトルの理解は、自由は必然性への洞察であるというヘーゲルマルクスの両者が共有する理解とは両立しない。

 

この存在論的自由に関するサルトルの態度は、『存在と無』と『弁証法的理性批判』の間で根本的に変化はないように思われる。いずれも「奴隷も自由である」という、マルクスなら決して発しなかったであろう言葉まで残されている。

 

しかも、上部構造-下部構造の二分法をサルトルは採用しない。代わりに、実践と実践的不活性としての制度との二分法を採用している。しかし、このような実践の理解は、サルトルからすればルカーチを経由して得られたものだと言うのかもしれないが、サルトルの実践の理解を細かく見ていくと、ほとんどシュッツやフッサールの「生活世界Lebenswelt」に近づいていくのではないだろうか。もちろん、この理解は、マルクスとは程遠いもののように思われる。

常識と保守

「常識」とは何かと問う時、そこに現れた文字だけを頼りにして意味を探ると、「常人でも持っているような知識」となりそうであるが、これだと、"common sense"ではなく"common knowledge"になってしまう。そうすると、"sense"には「知識」という意味はないのではという疑問が生じてしまう。"sense"とは知識ではなく、物事を識別する能力の方を指すのではないかと。だとすれば、「常識」とは、「常人でも持っている、物事を識別する能力」という意味であって、「知識」であることを含意するような理解は誤りであるということになりそうである。

 

哲学・思想史を顧みると、この「常識」という概念の由来はアリストテレス『霊魂論』第二巻・第六章にあるkoinê aisthêsisにあるという通説を踏まえるならば、目や耳あるいは鼻などの五官は、それぞれ個別の感覚として分析的に捉えることは可能ではあるものの、人間の身体全体の中では統一されている。個別的で異質な感覚からの情報をまとめて一つのものとして平衡をとりながら調整することで知覚する能力を、アリストテレスはkoinê aisthêsisと呼んだ。

 

そのkoinê aisthêsisに語源を持つ”common sense”とは、したがって、この平衡のとれた調整機能としての意味合いを持つものとして、とりわけ近世以降の英国において理解されてきた。この"common sense"に欠けることは、人格の統一すら危ぶまれるようになるという意味で、人間をして人間たらしめる重要な要素に欠けることであると考えられるようになった。

 

特に、17世紀から18世紀あたりの英国の思想史を紐解くならば、この「常識」が極めて重要な要素として意味を持ち始めたことが理解できる。というのも、スコットランドでは、この「常識」とはかけ離れた極端な主観主義や観念論が幅を利かすようになったからである。

 

ロックは、「熱さ」や「冷たさ」あるいは「甘さ」や「辛さ」といった「第二性質」を単なる観念や印象に分類し、バークレーは、それをさらに進めて、外延や形態などの「第一性質」までをも観念か精神のもたらすものとしてみなすに至った。ヒュームは、さらにバークレーの「精神」まで否定したので、この世にあるものは観念と印象だけという、極めて奇妙でかつ不自然なことになってしまったと受け取られた。サミュエル・ジョンソンは、バークレーと会った帰り際に、次のような嫌味を残したと伝えられている。

バークレー僧正、帰らないでください。あなたが私の目の前からいなくなることは、ご自身の説によれば、あなたご自身が消滅してしまうことになりましょう。私は、あなたにこの世から消えてもらいたくないのです。

こうした観念論の隆盛に対して最も強い反動が見られたのが、ヒュームの出身地でもあるスコットランドであった。いわゆる「スコットランド常識学派」の誕生である。18世紀の「スコットランド常識学派」の中心人物であるトマス・リードに言わせると、ヒュームの観念論は、最終的には帰謬法(背理法)になるというのである。帰謬法すなわちreductio ad absurdumとは、アリストテレス論理学に由来するものであるが、ある命題を真であると仮定して推論していくと矛盾した結論に至らざるをえないことを示すことによって初めに仮定された命題が偽であることを論証する方法である(仮定された命題が真であることを証明する方法ではない)。

 

ヒュームに対する常識学派からの反論は、ヒュームの説を推し進めていくと、この宇宙の中には観念と印象だけしかなくなり、実体を備えたものは何もなくなってしまう。人間の場合も、頭の中に浮かぶ観念や印象はあっても、その人の頭もなければ肉体も実在しないことになる。これは馬鹿げた話なので、観念論の結論自体が観念論の出発点が間違っていることを証明しているのであると。この反論が成功しているか否かは疑問符がつくので、いずれが正しいかをこの場で結論づけるわけにはいかない。

 

19世紀になると、Anglo-HegelianないしNeo-Hegelianと呼ばれる、妙なことを言い出す連中が出てきたが、中でもオックスフォードのフランシス・ブラッドレイの『現象と実在Appearance and Reality』がその代表である。これに対し、ムーアが「観念論論駁」において、「外界の存在」を否定する議論が論理矛盾に陥らざるを得ないことを示すことを通じて、「常識」を擁護する主張を展開した(僕は、ムーアの「観念論論駁」は読んだことがあるが、ブラッドレイの著作は読んだことがない)。面白いことに、「常識」への懐疑論も、「常識」の擁護論も、英国においては保守主義の弁証に帰結したというのが興味深い。

 

ヒュームの懐疑論は、「方法としての懐疑」を通じて、寧ろ「常識」の土壌である「伝統」を擁護する立論としても読めるし、「常識」の擁護をしたムーアも、これまで直接的な保守主義的言説を残しているわけではないにせよ、やはり基本は、英国の伝統的な保守主義を下支えする機能を果たしている。ウィトゲンシュタインの後期に見られる哲学も、もちろん政治的な保守思想を喧伝するものではないにせよ、保守主義の社会理論の哲学的根拠を提供するものとして読む者がいてもおかしくはない。

 

日本のみならず、諸外国でも、「保守主義」ということで首尾一貫した思想的特徴が定義できるわけではないとする議論が一般的である。中には、「保守主義」でも、「社会学保守主義」、「審美的保守主義」、「性向的保守主義」、「方法的保守主義」と多元的に「保守主義」に接近しながら、「政治的保守主義」に共通する特徴を取り出そうとする試みもあるが、これと言って説得的な主張にはお目にかからない。寧ろ単純に、「常識」が、人間の社会が維持されていくため「安全装置」のように機能しているという厳然たる事実を直視することの方が重要である。

 

「常識」の効用は頗る大きいと言わねばならない。但し要注意なのは、この「常識」にどこまでの内包を読み取るかということである。もちろん、それ自体が「常識」に依拠する側面もあるので、厳格に解するならば、「論点先取」の構造になっていること否めない。この「常識」を敢えて懐疑にさらす営みも哲学ならば、同時に「常識」の効用の重要性を指摘する営みも哲学であると考えると、哲学の一部門である倫理学は、一見して前者の営みのように見えるものの、実は後者の営みであることもある。

 

いかなる国家形態も、功の側面と罪の側面を持っている。ネイション・ステイトも、その例外ではない。ネイション・ステイトにおけるネイション=国民とマスとしての大衆は同義ではないが、国民の政治参加の権利が強調されていくに連れ、「国民化」と「大衆化」の動きは、区別がつきがたく連動していった。mass mobilizationが日常化し、いざ戦争になると「総力戦」化せざるを得ないものだから、その結末は悲惨なものになる。

 

国民を戦争に駆り立てるmass mobilizationを、その政治運動に利用したのが左翼である。否、左翼とは、mass mobilizationの中で生まれ出てきた「鬼子」と言った方が正確かもしれない。前衛党を自称する政党が、影響力を及ぼしている労働組合の組合員を動員してデモをしている姿は、日本の都市に住む者なら見たことがあるだろう。殊更に「敵」を拵え、それへの憎悪を徒に掻き立て、声高に独り善がりの珍説・妄説を絶唱し、思想を一色に染め上げようとする態度には、「保守的精神」は見られない。中には、「保守」を自称しながら、在日コリアンに対する排外的な言動を繰り返している連中もいるが、これも「保守的精神」とは些かの共通性がない。

 

確かに、左翼は概して頭が悪い。しかし、その左翼を単に攻撃していれば保守であるかのような錯覚に憑りつかれている者たちは、その「頭の悪さ」が伝染して、同じようなことをしている「ミイラ取り」になってしまっていることを失念している。

 

「論客」として三流・四流の能無しが徒党を組んで保守「論壇」を荒らし回り、頭の悪い新興宗教の信者を動員した集会で奇声を上げて講演料稼ぎに精を出しながら、日本という国を蝕もうとしている姿は醜悪である。中韓には毅然とした対応をと息巻きながら(実際は、中韓に毅然とした対応をしているどころか、理不尽な目に遭っていても「事なかれ主義」で、何もしていない)、米国には毅然として屈従することを恥としない。

 

「保守」の質の劣化は、左派の質の劣化と歩調を合わせてきた。もはや「保守」の名に値しない夜郎自大な妄想狂の戯言が誌面に踊り出し、悪質なデマ雑誌まで氾濫する有様。伝統と乖離した、古典の教養すら皆無の斉東野人や米国の御殿女中のような連中が、悪質なデマゴーグと化している。

 

福田恆存は、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会)第五巻所収の「私の保守主義観」という短い文章で次のように述べている。

私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思ふからだ。

保守とは、首尾一貫したイデオロギーでもなければ、そのもとに結集した者の集まりでもない。したがって、「保守主義」ないし「保守主義者」という言葉は、文脈次第で他に適切な用語が見当たらない場合に「とりあえず」に宛がわれた符牒にすぎず、本来ならば、「保守主義」という用語は相応しくない。ただ、辛うじて言えることは、「保守的精神」ないしは「保守的態度」のみである。それが、イデオロギー的仮構と化した「保守主義」となるならば、それはもはや保守とは遠い隔たった場所にある。

 

制度的な圧迫や、知的力技を誇示することで相手の沈黙と屈服を強いる狡猾な言葉に対する抵抗の精神の働きにしか保守は宿らない。平衡感覚としての「常識」に還ることである。「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するやうに考へてゐるところにある」(小林秀雄「常識」)。小林秀雄本居宣長』(新潮社)の一節にはこうある。

心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るやうに促される。心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさへ言へよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言ふ時、ひそかに考へてゐたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせてゐれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのづから意識される、さういふ生活感情の本性への見通しなのである。・・・この誠実な思想家は、言はば、自分の身丈に、しつくり合つた思想しか、決して語らなかつた。その思想は、知的に構成されてはゐるが、又、生活感情に染められた文体であしか表現できぬものでもあつた。この困難は、彼によく意識されてゐた。

 

吉本隆明と批評

昭和史を紐解くと、昭和60(1985)年は色々な面で一つのメルクマールの年であったことがわかる。贔屓にしている阪神タイガースが21年ぶりに優勝した年で、地元西宮はもとより、神戸や大阪の街も優勝フィーバーで沸きに沸き上がったという。ミナミの街では、ケンタッキー・フライドチキンの店頭にあったカーネル・サンダース人形が道頓堀川に投げ入れられたり、それに飽き足らないお調子者は、自らあのドブ川に身投げしたりもしたというのだから、一時の渋谷のハロウィーンのバカ騒ぎのような状態だったのだろう。

 

しかし、よくよく見てみると、羽田発伊丹行の日本航空123便群馬県御巣鷹山に墜落し、乗客乗員524人中520人が亡くなられた、我が国航空史上最大で最悪の事故が起きた年でもある。更に、菓子メーカー江崎グリコの江崎勝久社長(当時)が自宅に押し入った者らに拉致監禁されるという事件を皮切りに、江崎グリコや森永製菓やハウス食品などのメーカーへの恐喝事件へと発展した警察庁広域指定第114号事件(いわゆる「グリコ森永事件」)の犯人とされる「かい人21面相」を称する者が「終結宣言」を出した年である。中曽根康弘内閣の下で進められてきた国鉄民営化もこの年。その中曽根康弘内閣総理大臣として靖国神社に「公式参拝」して政治問題化したのも、この年である。アンドロポプ、チェルネンコの相次ぐ急死の後に、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが、「ペレストロイカ」や「グラスノスチ」に着手した年でもあった。

 

そんなこんなで、日本社会にとって激動の年であった昭和60(1985)年であったわけたが、この年が後々の日本社会の行方にまで決定的な影響を及ぼしたと言えるのは、何よりも、「プラザ合意」があったからである。この「プラザ合意」こそが、日本の将来を決定づけた。米国ニューヨークのプラザホテルに集まった先進5か国の蔵相によるドル高是正の合意と各国の協調介入による急激な円高によって、「円高不況」と呼ばれる輸出産業の不調に牽引された不況を経験した後、量的緩和内需拡大策に舵を切った日本は、資金が株式や不動産の投機に集中することで、空前の「バブル景気」を招き寄せることになった。

 

バブル崩壊」とその後始末の失敗が尾を引き、日本経済は沈滞する一途を辿り続けている。この一連の日本社会の変質が、日本人の精神史にも与えた影響は頗る大きい。それを見越していたのかはわからないが、NHKの番組が大きく取り上げていたようだ。「戦後50年」を迎えた1995年に放送された主要番組を調べてみると、NHKは「戦後50年、そのとき日本は」という一年がかりのスペシャル番組を放送していたことがわかる。その最終集に、この「プラザ合意」を持ってきたところからも、当時のNHKの番組プロデューサーがまともな感覚を持っていたことがわかる。ところが、この事件に対する批評の側からの反応が極めて鈍感な言葉での対応しかなかったところを見ると、既に、我が国の批評はリアリティを喪失していたのだということが伺われるわかる。江藤淳福田恆存など、明らかに経済に疎くとも、さすが良質な文芸批評家だけあって、おそらく肌感覚で理解できていたのだろうか、それとわかるような言説を残していたが、その他の批評家となると、壊滅的であった。

 

この時期に、馬脚を現した思想家の一人として、吉本隆明の名を挙げることができるように思われる。吉本隆明に対してシンパシーを抱ける点は、吉本も阪神タイガースのファンであったという点だけである。吉本を紹介する言葉として何かにつけて使用される「接頭辞」に、「戦後最大の思想家」やら「戦後思想の巨人」という表現がある。平成の御代に生まれた者からすれば、吉本隆明が「スター」であった時代など知るわけがないので、昭和10年代生まれの祖父から話を聞いて、ようやく吉本隆明が脚光を浴びていた時代の雰囲気を想像することができるというもの。新左翼の残党、特に全共闘運動という名の「革命ごっこ」に精出さしていた連中から頗る評判の悪い小熊英二『<民主>と<愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)に書かれている通り、いわゆる「60年安保」では、ある種の「反米愛国主義」が根っこに広がっていて、そうした文脈で吉本のテクストも消費されていたが、「70年安保」ともなると、その傾向は鳴りを潜め、経済成長の果実を享受してきた戦後生まれの世代が、繁栄状態で守られているとの安心感に支えられながら、その貧弱な想像力で捏ねくり回した観念の遊戯を弄ぶようになる。より「過激になること」を自己目的化させていきながら、チンケなヒロイズムに自己陶酔していく哀れな姿へと変わった。『三島由紀夫対東大全共闘』に登場するボンクラ東大生の言説が典型だろう。吉本の言説も、それに歩調を合わせながら、より過激化して行ったものと思われる。

 

吉本隆明全集撰』(大和書房)に収められている「政治思想」と題される著書に、「擬制の終焉」という文章がある。全共闘の学生集団が、東大法学部の丸山真男の研究室に押し入って荒らしまわった際、多勢に無勢を承知で応戦する意地を見せるのではなく、単に「日本の軍国主義者やナチスですらやらなかった暴挙」という捨て台詞を残しただけだった。同じく、東大法学部教授であった川島武宜は、踏み荒らされた研究室の床に落ちていた我妻栄の肖像(川島は、敬愛する我妻栄の肖像を研究室の壁に掲げていたらしい)を拾いながら涙を流した後、大学を去った。対して、団藤重光は、「大衆団交」という名の吊し上げの場で、取り囲む数百人の学生相手に討論に応じて、一向に動じなかった。理学部教授だった小平邦彦も、向かってくる学生をことごとく蹴散らした。丸山や川島は、いわゆる「進歩的文化人」として全共闘学生の目の敵にされていた手前、特に研究室が徹底的に荒らされたのかもしれないが、このエピソードは、「リベラル」とされる知識人の欺瞞を象徴するものと言えるかもしれない。

 

ただ、丸山真男の「ヘタレ」ぶりに対してチクりと嫌みの一言を述べる程度なら理解できるが、「擬制の終焉」等を読むと、どうもその域を越えていて、丸山真男を嫌悪する僕ような者ですら、何故そこまで丸山に対して憎悪の情が沸き起こるのかが全く理解できなかった。続けざまに、「言いがかり」と言ってもよい表現で以って丸山を攻撃する者が、何故に「戦後最大の思想家」などと形容されているのか、更に理解できなくなった。丸山真男にも吉本隆明にも否定的であった日本共産党の見解を見ても、吉本のことを黒田寛一・梅本克己・藤本進治・廣松渉を並べて「日本型トロツキスト反革命的哲学」とまとめるなど、完全にピンボケで参考にならない。

 

その疑問を解消しようと、『共同幻想論』(河出書房)やら、80年代の消費社会を肯定的に捉えた『マス・イメージ論』(筑摩書房)や『ハイ・イメージ論』(同)などにも目を通してみたが、やはりよくわからない。『共同幻想論』は、『古事記』と『遠野物語』の二つのテクストに定位して国家論をぶつという構想自体は面白い試みだと思うが、論証は杜撰のきわみ。80年代消費社会を肯定する著作も、日本政治史についての基本的な認識さえあれば犯さないであろう誤りがあちこちに見られ、とても現代日本社会の分析に使用できるものではなかった。

 

「読解不能」という浅田彰の感想も宜なるかな。とはいえ浅田は、英国の左翼ジャーナリズム雑誌であるNew Left Reviewに寄稿した文章で、日本の左翼の特異性を日本共産党の歴史を基軸にして論じる中で、一応吉本隆明も紹介している。当然知っておくべき左翼の歴史の略史にもなっているこの文章は、浅田彰のまとめの手際の良さがわかるものになっており、英文自体も、日本の大学教師の書く英語の割にはマシなものだった(日本人研究者の英文は、同じ論文なのに、物凄く平易な表現で書かれているかと思えば、急に物凄く気負った表現が登場するなど、まるでエッセイが突然に擬古文調の論文に変わるようなぎこちなさが目立つことがしばしばである)。一度、吉本の文章を英語に翻訳して掲載してみると面白いだろう。意味の読み取れる英文になるのか幾分怪しい気もするが、仮に有意味な文章を読んだとして、おそらく読者の多くは、「これのどこが左翼なのだろうか?」と訝しがるに違いない。吉本隆明には、自分の言葉が外国語に翻訳されるとするなら、それがどう理解され受けとめられるのだろうかということの意識は希薄であったのだろう。

 

経済決定論に与することを拒絶する吉本隆明は、『共同幻想論』でもそうであったように、「下部構造」を意図的に無視して分析する。吉本隆明の経済学の理解が古典派経済学のレベルを超えるものではなかった貧弱なものであるために(いわゆる定式化された「マルクス経済学」なるものは、別に古典派を乗り越えるものではなく、デイヴィッド・リカードの経済学の亜流でしかなかった)、そのなるもわからないではない。とはいえ、イメージ論で社会を分析できるほどに、社会は単純ではない。

 

顧みると、80年代の「消費社会」の出現に小躍りした連中は、眼前に溢れる「商品」に欣喜雀躍とするばかりで、そうした消費社会を生んだ日本の「市民社会」の構造分析に手をつけているようには思えなかった。80年代とは、それまで徐々に緩やかな下降線をたどってきた労働時間が再び上昇に転じ、史上稀に見る長時間労働が見られ、そのために過労死が激増し、ノイローゼ患者が増え、家庭崩壊・校内暴力の激増に現れる教育現場の崩壊など、陰に陽に、資本・賃労働関係の諸矛盾が一挙に周辺部分に顕在化した時代でもあった。それは、1970年代において、資本・賃労働関係の大規模な構造変動過程の中で、潜在的に醸成されてきたものの顕在化だった。しかも、生産部門での変容だけでなく、政治部門においても「支配構造」の再編成が起こっていた時期だった。

 

そうした市民社会の構造とともにあった日本経済の未曾有の「繁栄」の象徴として、例えば、「金満日本」を反映した海外旅行者の急増の一方で、海外に楽しげに出かけるその労働者がポックリ過労死するなんてことも激増した。企業別労働組合の体制内化に一段と拍車がかかり、企業社会の中での権威的支配秩序の形成によって醸成された諸矛盾が、そうした資本・賃労働関係と一見無関係に見える周辺部分において、歪な形で社会現象となって顕在化したのも、この時期であった。こうした社会構造の変動を高度成長期に実現した日本型市民社会の分析として提出した研究はまったくないわけではないが、旧来型左翼は、その「日本型」の力点を日本社会の前近代性ないし半封建制といった未成熟性に求める議論が主流で、明らかにポイントを外していた。

 

吉本のこの時期の文章は、経済成長の果実として可処分所得が増えたために、選択消費の幅が広がり、結果的に労働者の望む社会になったのだとして消費社会を肯定するものへと変質していった。浅田彰柄谷行人も全然見えてなかったようで、同様に寝惚けたことを語っていた。90年代になると、小沢一郎のグループが自民党を割って出て宮沢喜一内閣が崩壊し、日本新党率いる細川護熙を首班とする非自民連立政権が誕生した時にも、小沢一郎評価を語り、『わが「転向」』(文藝春秋)を出し、その他雑誌「諸君!」に「消費資本主義」を謳歌する文章を寄稿していた。小沢の『日本改造計画』(講談社)は、後の橋本龍太郎政権下での行政改革小泉純一郎政権下での構造改革路線の先駆けであって、そうすると、吉本隆明新自由主義路線を称揚していたということになる。

 

不思議なことに、意味不明な「戦後最大の思想家」という「接頭辞」に対して、アカデミズムの「権威」を叩いてきた吉本隆明が違和感を表明した形跡はない。「まんざらでもない」と思っていたのだろうか。「偉大なる首領」だの「親愛なる指導者」だのいった接頭辞のようで、吉本についてまわる「戦後最大の思想家」という陳腐な「接頭辞」が、かえって吉本隆明の思想の程度を伺いしめるものとなっているのが何とも皮肉である。いずれにせよ、「戦後最大の思想家」だの「戦後思想の巨人」だのと吉本隆明を崇め奉る者たちへの軽蔑を、僕は抱き続けてきた。数々の論争を罵倒の連呼で凌ぎながら論壇での地歩を確固たるものとしてきた吉本隆明の歩みは、後世「論壇政治」の中でのヘゲモニー奪取過程の悪しき先例として語り継がれることはあれど、肝心の吉本が遺したものはといえば、歴史に残る思想家の業績としては、見るべきものはほとんどない。なぜ、吉本隆明の言説が一定の領域で機能し受容され、あげくは「戦後最大の思想家」だのといった実態とかけはなれた虚像が形づくられ祭り上げられていったのか。後の世に「墜ちた偶像としての吉本隆明」として俎上に乗せられることになるだろう。

 

吉本隆明は、新左翼運動に影響を与えた人物とされているが、吉本の遺した文章を孫の世代よりも更に若い世代に属する僕が読む限り、吉本は「反体制」を貫くどころか、露骨なまでに「体制」の擁護者であり、一見「反体制」を装いつつも、「反体制」運動が盛り上がりかけると、水をさして早急な火消しにまわる役割に担ってきたと言ってもよい。埴谷雄高との論争(いわゆる「コム・デ・ギャルソン論争」という下らない論争)の、いわば「場外戦」として大岡昇平に噛みついた際も、大岡・埴谷の共著『二つの同時代史』(岩波書店)における大岡の発言に怒り狂って、「裁判闘争も辞さず」との穏やかならざる対応をしていた。具体的な言説をあげつらえばキリがないので、ここでは吉本の論争での態度が強圧的であったことを思い返そう。先ほどの埴谷雄高との論争は、大岡昇平とのそれを除くならば幾分か穏やかなものであるが、例えば花田清輝との論争にしても、谷沢永一との論争にしても、論理は支離滅裂で一貫して相手を罵倒・中傷する子供の喧嘩の態度をとり続けた。『情況への発言』(洋泉社)を読めば、「知の三馬鹿」と罵られた蓮實重彦柄谷行人浅田彰に対する罵倒も、それを裏づける論拠をさして挙げられていなかった。

 

谷沢永一の他人に対する批判・罵倒も凄まじいものがあったが、こと吉本隆明との論争に関しては、谷沢の主張に理があることは、この論争の過程を調べた者ならば理解できるだろう。と同時に、浦西和彦の求めに対して理不尽な言動で返した吉本の非常識ぶりと権力欲剥き出しの態度に閉口する思いをするに違いない。丸山真男に対する態度に見られるアカデミズムの権威を非難する吉本その人自身も権威主義的なパーソナリティの最たるものであることを証明する結果に終わったのが、谷沢永一との論争の顛末であった。

 

言行不一致・支離滅裂な人物は、左派やリベラルと称する者、あるいは少なくとも保守派とみられていない者に目立つように思われるが、どうなのだろう。米国政治の歴史に関する著作を読むと、「自由とデモクラシー」国を自認する合衆国の歴代大統領は、建国初期からロクでもない人間も相当数量産していたことがわかる。ネイティブ・アメリカンを大量虐殺し、アフリカから連行した者を奴隷として酷使し、メキシコからテキサスやカリフィルニアなどを強奪していながら、表向きは自由主義・民主主義を言祝ぐ言説を垂れ流していた。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンも、奴隷売買に関わっていたし、奴隷にしていた女性を強姦して妊娠させるなどしていた男である。

 

一見美しい言葉で人間の平等を謳いながら、その実、奴隷制度の擁護者や人種差別主義者であった大統領がどれほどいたか。第一次世界大戦後、「国際協調」外交を呼び掛け、国際連盟を提唱したウッドロウ・ウィルソンは強烈な人種差別主義者であり、パリ講和会議の際に、人種差別撤廃を主張する日本の提案を拒絶した者でもある。歴代大統領の中で最も残忍な大統領であるバラク・オバマの二枚舌について語り出したらキリがない。オバマ政権で国務長官を務めたヒラリー・クリントンも、オバマと同様に殺人に興じることに喜びを見出す人物だった。女中との間にできた子には教育を授けず、正妻との間の子どもと差別的に取り扱っていたくせに、一方で人間の解放を叫ぶという、分裂した精神の持ち主であったカール・マルクスを彷彿とさせる。

 

社会主義者を自認していたフランソワ・ミッテランは、実生活ではフランス貴族のような豪奢な生活を謳歌していた「シャンパ社会主義者」であった。対して、私生活では極めて質素で慎ましやかな生活を送り、精神的な障害を持っていた娘に対しても、他の子どもと分け隔てなく愛情を注いでいた人物は、左翼から嫌われているシャルル・ド・ゴールである。資本主義を嫌うポーズをとりながら、恋人との邸宅での生活を送るために金にがめつかったスーザン・ソンタグも、「キャビア左翼」の一人に数えていいだろう。人種差別主義者で、陰険な臆病者だったフランクリン・ルーズベルトハリー・トルーマンを称賛する癖に、勇敢でかつ合衆国に貢献したバランス感覚に優れたドワイト・アイゼンハワーを批判する米国のリベラルもどうかしている。コンスタントに間違い続けたジャン・ポール・サルトルを持てはやす一方で、退屈ではあるが常識的なことを述べていたレーモン・アロンが正当に評価されない奇妙な状況もある。

 

批評家と称する者たちが、自身を売り込むことに傾注し、「論壇政治」に明け暮れてなんとかヘゲモニーを確保せんと、時には「重鎮」に媚を売り、時には敢えて相手と反対の立場に立って目立とうして小賢しい小細工をしながら「身を立て」ていくことは何も吉本に始まったわけではなく、昔から存在した。「論壇」自体が消滅した今の日本で、そういった事態が出来することはないのかと言えば、甚だ疑問だ。メディアは商品として何かを無理やりにでも担ぎ出す。何度も繰り返されていることだ。中には優れた批評がゴミの山から発見されることもある。だからこそ、「これだ!」と見つけた時の喜びは大きくもなる。

 

ただ気になるのは、現在の批評家とされる者の経歴が、極めて画一的であるということである。大学から禄をもらうサラリーマンとして収入を得ながら、いわば「余興」として書いたと思われる批評が大半になってしまった。「余興」とはいっても、あまりに暇なために他にやることがなく「役にも立たない」教養を腹いっぱいためこんだ大教養人が「余興」として書いたものとは違う。一方で、筆一本で勝負していた「文士」は、それだけでは飯が食えなくなったのか、ほぼ皆無となり、そうした事情もあって、殺気立った批評がほとんど存在しなくなった。この点だけは、己の筆一本で戦っていた吉本隆明は偉かったのかもしれない。

 

批評の読者層が薄くなっていって久しい。が同時に、批評家の劣化も著しいものであった。かつての西欧社会が良かったとは全く思わないが、階級社会が顕著であった頃の批評は今でも読んでいて面白いものが多い。悔しいかな、今日の日本と比べて書き手の教養の差が歴然としているのである。余裕のある暇人が単に暇で暇で仕方がないので、小賢しい立身出世のための知識ではなく、それ自身では直接「役に立たない」教養を腹に貯めていたからこそ得られた批評だったのだろう。

憲法制定権力と一般意志

1789年の「人および市民の諸権利の宣言(いわゆる「フランス人権宣言」)」16条に明記されている「権利保障」と「権力分立」の概念は、近代立憲主義の下での憲法を支える主要な構成原理である。この「フランス人権宣言」は、英国の1215年の「マグナ・カルタ(大憲章)」と身分制議会に象徴される中世立憲主義の伝統と、連続していると同時に断絶している。英国の「市民革命」期には、この「マグナ・カルタ」が議会の反王権闘争のシンボル的機能を持ち、名誉革命の成果として定められた1689年の「権利章典」では、「人一般」ではなく「聖俗の貴族および庶民」が「彼らの古来の権利と自由」を持つという構成が採られており、我々が学校教育で教わる内容から来る「権利章典」のイメージとは大きく隔たっている。教科書からもたらされるイメージは、今日のリベラル・デモクラシーの「起源」の一つとしての「権利章典」という色に染め上げられたイメージでしかないようである。

 

名誉革命」の成果を弁護する目的で書かれたジョン・ロックの『統治二論』または『国政二論』と訳されているTwo Treatises of Governmentは、この「名誉革命」の意義をロック独自の、しかも、やや強引な解釈を加えることによって、「古来の身分的自由」ではなく「自然状態」の想定を前提とする「諸個人」から出発した体系と位置づけた。ここに、中世立憲主義との切断を見ることができる。テキストを、「敢えて」読み替えることによって、将来世界へ多大な影響を及ぼすことがありうるということを示す例の一つかもしれない。

 

ホッブズの『リヴァイアサン』は、第二部「コモンウェルスについて」の前に、第一部「人間について」を置き、更にその第一部における人間の考察を、第一章「感覚について」から始めている。「社会」を与件とするのではなく、感覚で捉えることの可能な人間諸個人を出発点として社会を考えたのであるが、ホッブズの体系は、諸個人の生存を第一義において国家=リヴァイアサンと諸個人との二極構造を前面に出す体系である。

 

対して、ロックの体系では、諸個人を最優先にするために諸個人の生命・自由・財産を包括するpropertyの保全のために、「自然状態」で手にしていた「自然権」を一部放棄して、「市民社会」ないしは「政治社会」に移行して「政治権力」を創設し、信託(trust)を受けた公権力が寄託者に対して政治責任を負うという近代統治原理の骨格をなす考えが打ち出された。すなわち、「諸個人のproperty保全を目的とする諸個人の同意による統治権力の設定」というロックの説明は、一方で信託目的に適合するよう権力を規制する身分制的分権とは異なる「権力分立」原理と、他方で信託目的違反の場合の最終的責任追及手段としての抵抗権論に結びついていく。実態としては中世立憲主義への復古の形式をとった「革命」を、「敢えて」読み替えによることによって「伝統」との切断を図ったというわけである。

 

英国の事情と違って、フランスでは、初めから「身分的自由」ではない「人」一般の権利としての「人権」が宣言され、身分制三部会ではなく、一院制の「国民議会」が設立される。中世立憲主義において「国王といえども、神と法の下にある」と説かれたのは、王権への権力集中が一元化せず、ローマ教皇を頂点とする位階秩序や封建諸侯あるいは自治都市などが存在し、各々の内部での分散的権力行使が重畳的になっていたことから、結果的に王権の権力行使が実態として制限されていたことの裏返しの表現である。絶対王政とは、まさにそのような分権的重畳的権力を王権に一元化するための模索であったが、結局は多元的身分制秩序が社会編成原理として機能していたがゆえに、権力の集中化が阻まれていた。

 

対して、近代市民革命とりわけフランスの「大革命」は、領有制土地所有と身分制的社会編成原理をともに解体することによって、社会経済と政治の双方の面における大改造をもたらした。そうすることによって、一方では諸個人が「解放」されるとともに、他方で権力の一元化を阻む機構の解体によって、「国民」単位で成立する領域国家の中央集権化が実現した。つまり、自由な諸個人とそれに対質する国家の二極構造が志向されたのが、「フランス革命」であった。それゆえ、この「大革命」では、国家と諸個人の間に介在する「中間団体」は、一方で諸個人の解放を阻むものとして、他方では権力の一元化を阻むものとして、徹底的に敵視されたのである。

 

憲法学の権威で、フランス憲法史にも精通する樋口陽一は、『憲法(第三版)』(創文社)において、次のように述べている。

一方で個人=自由、他方で国家=権力という二極構造図式がこうして成立するが、それはとりもなおさず、近代憲法学の二つの大きな主題である「人権」と「主権」とのあいだの、密接な相互連関と緊張関係が成立するということでもある。すなわち、第一に、身分制原理を否定する国民主権によってはじめて、個人が解放され、人一般の権利としての人権を語るための論理的前提がもたらされた、という相互連関である。第二に、それまで諸個人の解放を妨げていたと同時に保護の楯の役目をもしていた身分制が否定されることによって、いわば裸の個人が集権的な国家と向き合わなければならなくなったことから生ずる、主権と人権のあいだの緊張関係である。

さらに続けて、

一七八九年の『人および市民の諸権利の宣言』は、その一六条の定式化にのっとっていえば、権利保障と権力分立という二つの場面それ自体で、個人対国家の二極構造を、絶対王制下よりもはるかに強くおしすすめた。人一般の権利という観念、および、権力分立機構の中心におかれた議会の国民代表性は、両方あいまって、身分制的諸特権と身分代表の観念にとどめを刺し、近代国民国家の構造を定礎させたからである。このような基礎のうえに成立する近代国民国家の主権性(国家の主権と、国家における国民の主権の二要素をあわせて)は、権力の正統性根拠を君主から国民に転換したということと同時に、-むしろ、それ以前に-、集権的国家と諸個人の二極構造のかたちで個人を析出した-近代憲法の想定する個人対国家の二極構造が権力への制約のとりでを弱めた、とする見地からすると、個人を析出してしまった-、という点で、最も深い意味を持っている。

樋口陽一は、近代国家の二つのモデルとして、「ルソー=ジャコバン型」ないし「ルソー=一般意志モデル」と、「トクヴィル多元主義モデル」を提示している。前者は1789年の「人および市民の諸権利の宣言」に「結社の自由」が明記されていないことに象徴されているように(日本国憲法では、第21条に結社の自由が明記されている)、「中間団体」=結社を諸個人への抑圧機能を持つ集団と捉え、これを原理的に否定する、国家と諸個人だけからなる社会モデルであり、その徹底形態が「ジャコバン主義」である。国民主権という正統性根拠と結びついた国家権力だけを正統なものとみなす考えである。ドイツの公法学カール・シュミットは『憲法理論』において、「フランス革命の偉大さ」と評価する。諸個人と集権的国家の二極構造が、多元的社会編成秩序によって阻まれていた当時のドイツでは実現しづらかったこともあって、政治的統一体としての主権国家のモデルをフランスに見たのである。

 

それに対して後者は、合衆国の伝統に見られるように、国家と諸個人の間に介在する「中間団体」の果たす肯定的役割を重視する。マディソン『ザ・フェデラリスト』は、経済生活における5つの基本的カテゴリーを列挙し、様々な利害対立を調整することこそが近代立法の主目的であると位置づけ、様々な社会的諸権力が各々の意見を背景として法が形成されるという立法過程での諸活動に見られるせめぎあいを承認し、法形成過程における各種団体やコミュニティタウンの自治を強調することで、結社の積極的役割を評価する。フランス人の外交官として合衆国を観察したトクヴィルの『アメリカン・デモクラシー』では、米国社会への辛辣な言辞が目立つ格好になっているものの、この「中間団体」の積極的役割が肯定されている。トクヴィルは、司法権の役割の重視、連邦制と分権の重要性、「中間団体」への積極的評価を表明していた。

 

樋口陽一は、近代的な「強い個人」の析出が日本社会において求められると考え、「ルソー=一般意志モデル」の方を評価する。この観点から、例えば、「八幡製鉄事件」最高裁判決への批判的論評に繋がるのである。会社法や労働法上の論点などが目白押しの事件だが、憲法上の論点となったのは、「法人の人権享有主体性」の問題であった。旧「八幡製鐡株式会社」(現「日本製鐵株式会社」)の取締役が、自由民主党に対して政治資金のための寄付に際して、その金員を会社財産から拠出した行為の是非が問われた事件である。定款所定の目的の範囲外の行為をしたとして、株主の一人が取締役に当該寄付金相当額の金銭を会社へ返納するよう要求した訴訟において、最高裁は、判決主文を導くための理由の中で、法人も権利の性質に応じて人権の享有主体たりえ、民間企業には当然に政治活動の自由があると判示した。日本国憲法の人権論の中でも、この両者の緊張関係は、先の「法人の人権享有主体性」をめぐる議論や、いわゆる「部分社会の法理」をめぐる議論において問題となり、更に統治機構論では、「代表」制論のところで、最も鮮明な形で現れる。

 

ルソーの『社会契約論』は、ホッブズやロックとともに、「社会契約説」の思想家の系譜に位置づけられる割には、なぜか「自然法」や「自然権」についての言及がほとんどないという奇妙なテキストである。第一編において叙述されている、社会契約に至るまでの筋をまとめると、以下のようになるだろう。すなわち、自然的社会と言えるものは唯一「家族」であるが、その「家族」の結合さえも一種の合意によって維持されており、この合意は自由意志を前提とするものの、その自由とは、自己のみが自己保存の手段の判定者となり、自らの主人になるという人間の本性から出てくる。力それ自体は、道徳的意味を持つ権利や義務を生み出す源泉足りえず、正当な権力に対してしか服従義務は生じない。そこで、人間の間の正当な権威は、自然に発生するのではなく、力から生じるものでもなく、合意conventionのみによって生じる。合意といっても正当な合意とそうでないものが区別され、正当な合意であるためには、人間の本性とりわけ自由に基づく必要があり、それを損なうものであってはならない。ルソーは、自由に関して、それを「外的障害の不在」として定義したホッブズとも、また「神の自然法以外の外的強制を受け入れないこと」として定義したロックとも異なり、「自己が自己を支配すること」、すなわち「自己支配」としての自由の概念をルソーは提起した。

 

しかしながら、なぜ人間が自然状態を離れて国家を形成しなければならなくなったのかという問いへの解答は、実のところ、『社会契約論』には触れらていない。辛うじて論じられているところは、『社会契約論』でなく『人間不平等起源論』である。『人間不平等起源論』には、意志の自由とともに自己を発展させる能力、すなわち自己実現の能力が人間の特質として挙げられ、この能力ゆえに、社会状態への移行が必然となるという。しかし、その論証はほとんど成功していない。人間は自然状態から離脱し人為によって悪しき社会状態を作り上げてきたが、いまさら自然状態に回帰することなど不可能であって、人為によってこの悪しき社会状態をより良い社会状態を作り上げること。しかるべき社会契約によって、各構成員の身体と財産を共同の力のすべてをあげて守り保護するような結合の一形式を見出すこと。各人がすべての人々と結びつきながらも自己自身にしか服従せずに自由であること。自然状態の人為的拘束なき自由ではなく、契約後の人為的拘束の下での自由はありうる。しかし、この自由が同じ自由であるとの保証はない。この二つの自由を調停する概念が、「一般意志」である。

 

ルソーによると、我々は身体とすべての力を共同のものとして、「一般意志」の指導の下におく。そして、各構成員を全体の不可分の一部としてひとまとめのものとして受け取る。ルソーにおける社会契約とは、各個人の全面譲渡による共同体形成の契約と言える。つまり、各人の全面的な譲渡によって、誰に対しても平等ということにより、完全な人々の結合がもたらされ、その結果として一つの精神的で集合的な共同体が生まれ、各人はこの結合から生まれた共同体の全体に対して自らを全面譲渡する。各人は、この共同体全体と契約する。この共同体全体は、各人の構成員の特殊人格とは異なる公的人格を持つ。この公的人格は、受動的には「国家」、能動的には「主権者」と呼ばれる。のみならず、共同体の各構成員も主権に参加しその不可分の一部となるときは「市民citoyen」、国家の法に服従するものとしては「臣民sujets」と呼ばれる。

 

ルソーにおいて最も基本的な権利は、確認したように、人が自らの行為を自らで決め、自己が自己を支配する自由、すなわち「自己支配」ないしは「自己統治」としての自由であった。ここから、政治社会を形成する社会契約や人為的合意においても毀損されてはならない基本的価値であることが帰結する。また、この自由に基づき、契約やその他合意が成立し、自然社会にはなかった規範と義務が発生する。契約の拘束力の根拠は、この「自己支配」ないし「自己統治」としての自由にある。それゆえ、自由の課す法のみが正当であり、そのような法に従うことこそが自由であるとの結論に至る。よって、このような自由の概念から、社会契約では共同の保存と、そのための「一般意志」への服従が合意される。結合された共同体の能動的側面が主権者として人格化され、その意志こそが「一般意志」として措定されるのである。

 

ところが、ここには重大な欠陥が潜んでいる。なぜならルソーは、社会の各構成員が不変の「一般意志」を持つとの根拠なき仮定をおいているからである。「一般意志」には法を定立する権限、すなわち立法権が帰属するとはいっても、具体的内容は全く付与されていない。ルソーも薄々認めている通り、「一般意志」に具体的内容を与え、かつそのことを各構成員に認識せしめるには、ある種の「宗教的権威」が要請されざるを得ない。見方によっては、現在の朝鮮民主主義人民共和国における「唯一思想体系」であるチュチェ思想に基づく、「首領」の領導により独裁体制を想起させもしよう。

 

日本国憲法はルソーの思想の影響を受けていると一般に解されているが、大部分は必ずしもルソーの思想の影響を大きく受けているとは言い難い。それどころか寧ろ、明白にルソーの思想と対立するところが多い。問題が顕在化するのは、その主権論においてである。「国民主権論争」で戦わされた一方の学説である杉原泰雄の特殊な学説、すなわち統治権者としての主権者概念を採るものでない限り、ルソーの諸説から日本国憲法を解するわけには到底いかないのである。

 

ここで、憲法制定権力とルソーの「一般意志」についての関係を軽く確認しておきたい。教科書的な事柄から確認しておくと、憲法制定権力は、英語でconstituent power、独語でVerfassunggebende Gewalt、仏語でpouvoir constituantといい、憲法を作る力もしくは法秩序を創造する権力という意味である。法秩序の諸原則を確定し、諸制度を確立する力であるから、芦部信喜の表現を借りれば、「政治と法の交叉点に位する」力であると言えるだろう。

 

カール・シュミットは『憲法論』において、この力を「国家の政治的実存の様式および形態に関する具体的な全体的決断をなす政治的意思である」と説明する。この憲法制定権力は法秩序そのものを創造する権力であるので、当然に一般の実定法規に服さない。だが、それが直ちに「生の実力」であることを是認することに結びつくわけではない、と芦部信喜はシュミットに異議を唱える。つまり、何ら規範的拘束を受けることなき「憲法秩序を自由に左右できる実力」としての憲法制定権力観に同意できないというのである。

 

憲法制定権力の理論は、人民主権論と分かちがたく結びついて展開されてきた。というより、憲法制定権力論を必要としたのは、近代啓蒙期に入り自然法思想が発達するのにともない、例えばルソーの国家論において、peuple(プープル=人民)が政治的単一体として、政治的存在の方法および形式に関する根本的決断を行う使命をもっているということが強調されたように、プープル主権論の確立期においてであった。しかし、ルソー自身は、憲法制定権力論を展開してはいない。のみならず、ルソーのプープル主権論は立法権と機能的に区別された憲法制定権力を認めていない。事実、ルソーの『社会契約論』で展開された民主主義的同一性原理からすれば、主権は立法権の中に吸収・解消されてしまっているからである。

 

憲法制定権力の観念を統一的に体系化したのがシエイエスである(『第三身分とは何か』。なお、芦部信喜憲法制定権力』(東京大学出版会)では、「第三階級」と訳されている)。

憲法は公権力の必要な交流およびその相互の独立を組織し、人間および市民の権利を宣言し拡張し確保することによって、公権力の制限・規制を目的とする。この公権力は、憲法によって組織され規制された権力として意思する権力(立法権)と行動する権力(執行権)に分かれる。これら権力の分立が不均衡や混乱の危険を惹起しないのは、すべての憲法がなによりもまず憲法制定権力を前提にしているからである。

②「憲法はいかなる部分においても憲法制定権力の作品である」。憲法によってつくられた権力、言い換えれば、「いかなる種類の委任された権力も、決して委任の条件を変えることはできない。いかなる方法においても通常の立法権憲法制定権力の行使に介入することはできない。立法権憲法制定権力を行使しないことは基本的な憲法原則である。

③かような憲法制定権力を持っているのは「国民=ナシオン」だけである。このナシオンの憲法制定権力は単一不可分であり、実質的にも手続的にも法的制限には服さない。

 

上記シエイエス憲法制定権力論の主張に対して、芦部は「憲法と通常の法律とを厳格に区別するアメリカ形式と、すべての国家意思の源泉をプープルに帰一せしめるルソーの実質をとって、これを新しい概念に組み立てたところに」この考えの特色を見る。もっとも、シエイエスとルソーとでは、以下の点で袂を分かつ。すなわち、シエイエス自然法の存在を認め、国家はプープルの合意によって基礎づけられるという社会契約説に賛同し、したがって憲法制定権力の主体もプープルでしかありえないという結論をとりつつも、ルソーと違って、代表制が必要であることを説く。この点で、シエイエスはプープルではなくナシオンに目を向けるようになる。つまり、憲法制定権力が通常の代表者たる立法機関と異なるreprésentants extraordinairesによって行使されなければならないという点において、ルソーのプープル主権論の本質を維持しているものの、代表制を認める点で決定的に違ってくる。シエイエスは「プープルの意思は法の性格を洗い去った赤裸々な力ではなくそれ自身が既に法」と説いているように、この点でも

主権者がみずから破ることのできない法律をみずからに課するということは政治体の性質に反する・・・。社会契約でさえプープルという団体を拘束するものではない。

とするルソーと酷似している。しかし、ルソーは、憲法制定権と憲法改正権とが同じ形式であると捉えている点で、シエイエスとは完全に異なる。プレローが言うところの、théorie du pouvoir spontané de révisionとthéorie du parallélisme des formesとの区別である。

 

では、なぜルソーにおいて、憲法制定権力と憲法改正権の区別がなされなかったのか?同義反復的表現になるが、ルソーの体系においては主権を持つプープルが全ての権力を保有するということになっている。そして立法権の創作物たる法律は、プープルの一般意志の表明として憲法とは別異に解されなかったのである。この点につき、ドイツの憲法学者ヘンケは、Die Verfassunggebende Gewalt des deutschen Volkesにおいて、「憲法制定権力と国家権力は、国民の全権すなわち国民主権の中に結合する。したがって、この二つを区別し対立的に認識することは不可能になる」と言っている。

 

他方、シュミットは、憲法制定権力を「みずからの政治的実存の様式および形態について具体的な全体的決断をなし、したがって政治的統一体の実存を全体として確定することができる実力または権威を持った政治的意思である」と規定する。かかる前提に立脚して、この決断の所産を憲法Verfassungとする一方で、この憲法の根拠に基づいて妥当し、それを前提とする個々の憲法規定の集合を憲法律Verfassungsgesetzとして区別する。憲法は、規範的正当性とか体系的完結性によって妥当するのではなく、すべての規範化の前に存在し、憲法を制定する者の実存する政治意思によって妥当するというのである。

 

しかも、シュミットにおいては、憲法制定権力の主体はプープルであることもナシオンであることも要しない。政治的実存の特定の様式は、正当化される必要もない。否、正当化することは不可能なのである。ここでジャック・デリダ『法の力』が主題化する「原-暴力」の問題系との邂逅を果たすとも言える。憲法改正権は、この憲法制定権力とは全く異なる概念として厳密に区別され、力そのものの脱人称化さえ果たされる。シュミットによって、あるいはシエイエスのように、プープルと結び付けられた憲法制定権力でも、ルソーのような主権者としてのプープルという考えが一切放棄されたと言えるだろう。

 

逆にルソーは、結局その主権者としての主体を憲法によって構成された権力の主体として措定して、そこからの逆照射によって当該上位概念である主権者を措定する仕掛けを施しているといえる。この逆照射のメカニズムを捉える機能概念として、単なる民意の集約としての「全体意志」とは区別された「一般意志」の概念が理解される。かくして、ルソーにいう「一般意志」とは、人民の「意志」が意識的であるか無意識的であるかに関係なく、何らかの民意の集約作業によって求められたり何らかの仕方で可視化されるといった類の実体概念でも何でもないことが明らかとなる。

グロティウスとストア派

ベンヤミン・シュトラウマンのHugo Grotius und die Antike. Römisches Recht und römische Ethik im frühneuzeitlichen Naturrecht (Baden-Baden)は、フーゴ―・グロティウスの著作の中でも、主に『捕獲法論De jure praedae commentarius』と『戦争と平和の法De jure belli ac pacis』などを扱っている。

 

グロティウスは、公海の法的位置づけをめぐる論争相手との議論において、盛んに古典を法源とする立論をしているのだが、著者シュトラウマンは、その立論がグロティウスの主張の全体にどのように機能しているのかについて論じている。国際公法の法制史を知る上で、有益な著作であることは間違いない。

 

そもそも、なぜグロティウスが公海や領海などについて自然法論に基づく根拠づけが必要と考えたかというと、その背景に、オランダとスペイン(ポルトガルも含めてもいいだろう)が17世紀に入って利害対立が深刻化したことが挙げられるからである。スペインとポルトガルは15世紀半ばから海洋権益を独占するために、ローマ教皇の教書や条約や先占などを論拠とした。ところが、海洋進出がスペインなどより遅れたオランダは、1602年に東インド会社を「先兵」として海洋進出を拡大させていく。この文脈の中で『捕獲法論』が著された。

 

グロティウスが参照した古典のテキストは、キケロである。有名な『バルブス弁護Pro Balbo』や『法律についてDe legibus』や『善と悪の究極についてDe finibus (bonorum et malorum)』を引用しながら、自然法が神の意志とは独立した理性の命令としての規範であることが確認される。各国の慣習法で流通している財産秩序と自然的財産秩序が区別され、公海は後者の性質を帯びている。オランダ東インド会社ポルトガルとの争いについては、各国の慣習法に現れた実定法に基づく処理はできないと論じた。

 

本書で特に面白いのは、自然法国際法を区分けし、自然法が自明な諸原理からアプリオリに導出できるものであるのに対し、後者は実定法上の概念から経験的に導出されるとするグロティウスの定式化がrhetoric上の演繹法帰納法に由来していると論定するところかもしれない。あとは、ストア派の人間観との関係を論じる場面であろうか。

 

グロティスのアプリオリな議論の基盤となっている人間観は、ストア派のoikeiosis(親近性)・appetitus societastis(社交欲求)に支えられる人間観である。キケロの『善と悪の究極について』からは、ストア派ではoikeiosisは自己保存欲求という第一段階から自然に一致したものを選び取るhonestum(徳)を備えた第二段階への移行が重要であり、この考えがグロティスの議論を突き動かしているのではないか、とシュトラウマンは論じていく。

 

自然状態における正義の概念が論じられる箇所は、prima naturaeという生活必需品に倫理学的・自然法的重要性を認め、これを正義論に組み入れ、ストア派のhonestumを他人の財産の侵害禁止として再構成し、アリストテレスで言うところの配分的正義より匡正的正義の文脈に位置づける。

 

グロティウスは、この「自然的正義」と「自然状態」から「主権的自然権」の観念を生み出した。この観念を理由に、オランダはポルトガルとの紛争において、causus belliに基づいて実力行使に踏み切ったのである、つまり、「自然状態」において司法権が不在の下では、「主観的自然権」の行使として正当化されるというのである。

 

本書は、その知名度の割には、その立論過程における古典とりわけストア派の思想に強い影響について知られているとは言い難いグロティウスの思考の道筋を知る上で、ひじょうに参考になる著作である。

TreatiseとEnquiry

デイヴィッド・ヒュームほど、哲学者の中でその人格につき毀誉褒貶著しい人物も珍しい。ヒュームの哲学が、ピューリタンにとって不都合と受け止められたため、真っ先に、ビーティやウォーバトンのような神学者からの批判があった。猛烈なバッシングに対して、それまで比較的寛容だったヒュームも、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、「(連中は)私を紳士として扱わなかった」と激怒したようだ。

 

ジョン・ブラウン『当代の風俗と徳義考』には、ヒュームのことを「人気取りと金儲けに腐心した」という激しい人格攻撃の表現がなされている。また、スコットランド人嫌いで有名なサミュエル・ジョンソンは、「愚鈍で悪者で嘘つき」であると罵倒したし、ボズウェルは、「虚栄こそが彼を魅了した愛人であり、一生彼の心を掴まえて離さず、彼を支配し続けたものである」と散々の言い様。あのジョン・スチューアート・ミルまでもが、「文学趣味の奴隷」と罵っていたし、ハクスレーも「単なる有名欲や世俗的成功欲が多分にあり、それゆえに哲学を捨てて、受けのいい政治論や歴史に向かうようになった」と罵倒する。更に、デンマークのクルーゼも、「文学的野心に憑りつかれて真理の探究に無関心になった」と述べ、米国のジョン・ランドルも「ヒュームは二つの目的のために物を書いた。一つは金を儲けるためにであり、一つには文学的名声を得るためにである」と中傷して止まない。

 

しかし、ヒュームはそこまで罵倒されるような人格であったのかというと、どうも実態は異なるようだ。ヒュームは、「もし、私がスコットランドに年収百ポンドも収益できるような土地を相続していたならば、私は一生郷里にとどまり、農業に勤しみ、土地を改良し、読書をし、哲学について書いたことであろう」と友人に宛てた書簡にて述べている。しかしヒュームは、その家柄が伯爵家につながる小領主で、母方の祖父はスコットランドの最高民事裁判所長官であるなど、法律家の家系に生まれたとはいえ、次男であったために、当時のスコットランド法ではさしたる相続持分はなく、自力で経済的基礎を築き上げねばならなかった。しかも、カルヴァン派の教会に目をつけられていたために、エディンバラ大学グラスゴー大学の教授にもなり損ねてしまい、やっとのことでありつけた職であるスコットランド法廷弁護士図書館司書の年棒は、僅か40ポンドだったという(晩年のヒュームは、不労所得だけで毎年1000ポンドの年収があったらしい)。

 

『自伝』によれば、「徹底的に節約した生活をやって資産不足を補い、何とかして独立してやっていきたいと思った」とある。ヒュームは、自らの活動のためには経済的自立が必須だとしていた。サラリ―をもらって生活している者は、経済的独立なきゆえ、真に利害関係を超えた立ち位置を確保することはできない。大学の教員も、結局は雇われの身なので、経済的独立はなく、思い切った言動はできずにいる。Fuck you money!とは中々言えず、自身のポジション確保のために小判鮫とならざるを得ない、しがないサラリーマンというわけだ。

 

ヒュームはこうした事態を打開せんと、英国スチュワート朝成立過程を描いた『ジェームズ1世及びチャールズ1世治下の英国史』を1754年に上梓した。ジェームズ1世は元々スコットランド王ジェームズ6世であったが、未婚のエリザベス1世の死去を受けて英国国王に即位してジェームズ1世となった人物である。元はスコットランドの出であるので、エディンバラにあるスコットランド法廷弁護士図書館の司書であるヒュームにとって資料集めが容易であったことも手伝って、首尾よく第1巻を飾ることになった。ところが、この第1巻は頗る評判が悪く、1年間で45部しか売れなかったらしい。相当へこんで、フランスへの隠遁も考えたというが、その2年後には続編としてチャールズ1世の処刑からクロムウェルピューリタン革命までの歴史を書き上げ成功を収めてから、3年後にはチューダー王朝の歴史を書き、その2年後には、遡って『ジュリアス・シーザーの侵入よりヘンリー7世までの英国史』を完成させる。すなわちヒュームは、自分の一番身近な時代から書き起こし、そこから遡及する形で歴史を叙述していった。

 

実は、こうした書き方は、ヒュームの哲学的主著とされる『人間本性論(人性論)A Treatise of Human Nature』にも見られる。『人性論』は、第1巻の悟性(知性)論、第2巻の情念論、第3巻の道徳論から構成されるが、当初の計画では、悟性・情念・道徳・政治・趣味判断の5つの主題について論じる構想であったという。ところが、ケンプ・スミスやジェソップよるヒューム研究の成果によって明らかになったことは、ヒュームは先に第2巻、第3巻の内容を考え、ある程度書いた上で第1巻を書き始めたというのである。ヒュームにとって、純粋哲学的な仕事の周辺に政治や歴史といった余技があったのではなく、すべてが混然一体になっていた。

 

A Treatise of Human NatureとAn Enquiry Concerning Human Understandingとを読み比べてみると一読瞭然であろうが、明らかに後者の方が読みやすい簡潔・明晰な文章になっている。デカルトゆかりの地であるラ・フレーシュにおいて、3年がかりで書き上げ、ロンドンのジョン・ヌーンとの交渉の結果、漸く出版にこぎつけた主著の英語は、ところどころスコットランド表現が使用されていたり、必ずしもジェントルマンの上品な英語とまでは言えない。日本人研究者が海外の学会に送付した論文の文章のように妙なぎこちなさが残っていて、決して貴族階級の好む美しい英文とは言えない。それに引き換え、後者の英文は、まるで英国貴族階級が書いたような簡潔極まりない美文である。

 

ヒュームは、Treatiseの興業的な失敗の理由を、その内容ではなく文体に帰していた。「いかなる著述の企ても、私の『人間本性論』ほど不運なものはなかった。それは印刷機から死んで生まれおちたのであった(dead-born from the Press)」という表現までしている)」と述べている。この失敗で相当意気消沈したようだが、「しかし、生まれつき楽天的な性格だったから、すぐに速やかに立ち直って」、田舎で研究を続けたとヒュームは語っている。

 

ヒュームは、英語力を磨こうとして英語の勉強にとりかかる。ヒュームが手本にしたのは『スペクテーター』誌の文章で、そこの明晰でかつ上品、さらにユーモアに富んだイングリッシュ・エッセイを書いていたアディソンの機知と諧謔を交えた明晰な文体を真似て文章修行を続けた。その結果、Treatiseに無かった奇蹟論を追加して、Enquiryを書き上げた。文体を改めたことが功を奏したのか、Enquiryやその他政治論集も版を重ねるように売れ、名声も得ていった。ハーファド伯爵やコンウェイ将軍の後ろ盾で国務次官まで上り詰め、パリの社交界でもle bon Davidと呼ばれるほどの人気者となった。

 

言葉は、単に情報を伝達するだけの手段ではない。内容さえよければ形式はどうでもいい、というわけでもない。「内容と形式」という、使い古された文学研究上の枠組みも、あながち的外れというわけでもないという好例であろう。

 

ブルシット・ジョブ

将棋の棋士で、一時は弟弟子の大山康晴十五世名人と鎬を削りあった「升田・大山時代」を演じた升田幸三実力制四代名人は、「棋士という仕事は、別に世になくてはならない仕事というものではない」と言った。もちろん、この言葉は、棋士という職を貶めたい意図で述べられたものではない。むしろ「有用性」・「無用性」という次元では語り尽くせない、己の頭脳と魂と生き様すべてを盤面の死闘に捧げた天才の誇りから出た言葉に違いない。

 

人類学者でありアナーキストを自称するデイヴィッド・グレーバーのBullshit Job: A Theory.,Allen Laneが出版されたのは2018年。この書は数か国語に翻訳され、日本でも『ブルシット・ジョブ-クソどうでもいい仕事の理論』として、2年後に岩波書店から邦訳本が出され、特にコロナ禍の最中と重なって、今も売れ行き好調のようである。Bullshitとは元々「牛の糞」の意味であり、ホラを吹くことをmake up bullshitと言うように、「でたらめ」を指す際によく使われる。

「わたし自身の政治的立場は、はっきりと反国家主義である。つまりアナキストとして、国家の完全なる解体を望んでいる・・・」

 

グレーバーは、「反国家」の無政府主義者として自身の思想的立場を明確にしている人である。そういう思想を持つ者は昔から存在したが、そのくせ国家の存在と切り離せないはずの大学で教鞭をとって禄を得ているという、言行不一致の「キャビア左翼」・「シャンパ社会主義者」の一面を持つ。「一番のbullshit jobは、お前さんのやってることだよ!」と突っ込む人もいるだろうが、グレーバーはそこまでバカではないので、一応の予防線を張っている。「ブルシット・ジョブ」と、そうでないジョブとの間の対立を煽るようなことは、ドナルド・トランプのやり口と同様であるから、厳に慎まれるべきであるとの断りを入れることも忘れない。

 

世間では、おそらく読みもしないで、「ブルシット・ジョブ」と「エッセンシャル・ワーク」を対立概念と捉えて、後者を称揚しているかのように理解している酷い誤解が見られるが、グレーバーはもちろん、そこまで杜撰な主張はしていない。「エッセンシャル・ワーカー」が低収入の傾向にあるのは、「ブルシット・ジョブ」が高収入であるのとは別の理由からである。しかし問題は、グレーバー自身でもグレーバーの著書でもなく、グレーバーの表向きのパフォーマンスと著作によるアジテーションを真に受けて、意味もよく分かりもしないで「ブルシット・ジョブ」を連呼する連中を大量に生んでいまったことかもしれない。

 

本書は、独創性に満ちた面白い着眼点を提示してくれてもいるし、勉強になることは間違いないけれど、全体の印象としては、「左翼のアジビラ」の延長で、長々と事例を列挙する割には、学術的な裏付けが最後の最後までなされていない欠点が目につく。Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Lifeにおいてナシーム・タレブが言っていたことだったと思うが、理論的な裏付けが乏しい著論文は、そのことをごまかすために、やたらと事例や統計データを列挙しまくる傾向にある(トマ・ピケティの『21世紀の資本』が典型)。事例は、あくまで理論的に証明されるべき命題を補強するための手段でしなく、論証や実証がロクになされていないままで、単に自説をごり押しするために、いくら自説に都合のいい事例を枚挙したところで、それが証明の代わりになるわけではない(タレブは、グレーバー死去の報に接し、追悼の言葉を残している)。

 

グレーバーが提起する問題は、大多数の労働者が全く無意味に思える仕事に生活の大半の時間を費やしているのはなぜなのかという問題である。グレーバーは、この「全く無意味に思える仕事」のことを「ブルシット・ジョブbullshit job」と命名する。

 

現代の病でもあるこの「ブルシット・ジョブ」は、次の三要素を充足する有償労働として定義される。一つ目は、それ自体が実質的な価値が無く、無意味・不必要・時に有害になりうる仕事であること。二つ目は、それに従事している者自身が、当該仕事の内容に対して無意味・不必要・時に有害であると考えていること。三つ目は、しかし、あたかもそうでないかのように振舞う欺瞞を強いられていることである。

 

必ずしも低収入で割の合わない仕事であるわけではない。こちらの方の仕事はshit jobと言われ、明確に区別されている。shit jobの方は社会的有用性が高いにも関わらず低収入である仕事であることが多い傾向にあるのに対して、「ブルシット・ジョブ」の方は、一般に高収入であるけれど社会的有用性のない無意味な仕事とされる。

 

グレーバーが挙げている「ブルシット・ジョブ」の5類型は、①flunkies、②goons、③duct tapers、④box tickers、⑤taskmastersである。①は、上司の提灯持ちのような、いわば取りまき連中の仕事。②は、人々に脅威をチラつかせて徒に不安を煽ることで、人々から利益を掠め取る恐喝屋のような仕事。元々ありはしなかった需要を捏造する仕事といってもいい。③は、組織や上司の無能の後始末をさせられる尻ぬぐいのための仕事。④は、組織の煩雑な手続上必要とされる書類作成など、それ自体が自己目的化してしまった儀礼的な仕事。⑤は、こうした「ブルシット・ジョブ」全般を他人にあてがって監督したり、場合によっては、それを自分で作るというような仕事。

 

なぜ、こうした「ブルシット・ジョブ」が問題なのかというと、人間は、自己の意志と能力に基づき社会的に有意味な貢献をすることによってこそ、自身の存在理由を確認できる存在であるにもかかわらず、無意味な業務である「ブルシット・ジョブ」を強いられることは、その存在理由の自己確認を損なわせてしまい、自己実現を妨げてしまう。また、欺瞞を強いる「ブルシット・ジョブ」には、自己のアイデンティティ形成にとっての阻害要因になる。これは、「他者からの自己への攻撃」であると同時に、「自己からの自己への攻撃」でもあり、いずれにしても自己破壊的な状況を生み出している。そうように、グレーバーは主張する。このような「ブルシット・ジョブ」は、往々にして人を服従させる暴力によって可能となるので、そのことで人は単なる道具的存在として扱われることにより、人間は自身の尊厳を喪失していくことになる。

 

「こうした『ブルシット・ジョブ』を生んだのは資本主義である!」と言いそうだが、さにあらず。グレーバーは、そこまで単細胞な人間ではなく、一応慎重な態度をとっている。結論から言うと、「ブルシット・ジョブ」を生んだのは、必ずしも資本主義であるわけでない。ただ、産業資本主義から金融資本主義へと進展は、「ブルシット・ジョブ」の急増をもたらしたということである。見方によっては、この主張は至極凡庸なものであって、生産能力が飛躍的に向上した高度資本主義下では、当然に第三次産業の占める割合が大きくなったことに伴い、サービス業も差別化を図りながら多様化していったことを、別の言葉で置き換えただけだと理解する者もいるだろう。

 

ともあれ、グレーバーに言わせると、「ブルシット・ジョブ」を生むことになった主要因は、資本主義というより、むしろmanagerialism(管理主義)である。産業資本主義では、企業は実物財を生産することで利益を上げていたのに対して、金融資本主義に展開していくに連れ、金融・保険・不動産など、実物財の生産によって利益を上げるよりも資産を増殖させることによって利益を上げる業種が主流になっていった。複雑な資産の運用を管理するためには操作の適正性の保証が重視されるので、細分化した手続きが増加することになり、その結果として管理部門に多数人が割り当てられることになったというのである(この辺は、かなり怪しい議論だけど)。この金融部門の人事形態が他の業種にも拡散し、あらゆる企業において、管理上の形式的手続業務としての「ブルシット・ジョブ」が生み出されていった。社会的には無価値な「ブルシット・ジョブ」を担う専門職ホワイトカラーの存在感が増していったというわけである(「グレーバーさん、もちろん、あんたのやっている大学教師も、その例に漏れるものではないですよね!」という突っ込みを入れる者もいることだろう)。金融資本主義では、あらゆるものが計量可能・交換可能なものとして扱われるので、本来数量化しえないものまで数量化して扱われるようになる。効率化を目指す運動は、実は、その運動を駆動させるために、裏方では膨大な人的労働を必要とする。これが「ブルシット・ジョブ」を生む元となるというのである。

 

効率化至上主義に彩られる新自由主義というイメージからすれば(「新自由主義」の徴表は、必ずしも効率至上主義ではなく、それは「新自由主義」に限らず、効用最大化・利潤最大化のための合理的意思決定モデルに基づく新古典派の枠組からの帰結であろうと考える。特に、一般均衡理論を数学的に定式化したアロー=ドブリュー・モデルに由来すると)、「ブルシット・ジョブ」を生む「新自由主義」というのは、一見して非効率の最たるもののように映るはず。グレーバーは、この点でも賢明なことに、「ブルシット・ジョブ」を「新自由主義」に帰責させることはしていない。異なる要因が潜んでいるはずと考えるわけである。つまり、資本主義の力学とは別の力学が働いているからではないかとグレーバーは見るのである。

 

この力学についてグレーバーは、management feudalism(経営封建主義)と名づける。グレーバーは、現代の資本主義を純粋な資本主義の形態というよりも、むしろ西欧中世の封建制と類似しているのではないかと見るのである。封建制では、領主が法的強制力を用いて農奴の生産物を徴収し、その徴収された財を、諸侯やその他臣下の者に再配分する。この点だけ見れば、国家も同様である。政府は強制力を用いて徴税し、それを国家の成員に再配分する役割を担っている。その再配分する還元方法が若干異なると言うに過ぎない。財の生産・運搬・保全よりも、その財の配分に基盤におくものだから、諸々のリソースをまわす作業に人員を割かねばならない政治経済システムが、現代の資本主義システムなのであり、この諸々のリソースの再配分にともなって生じる位階秩序ゆえに、それを可視化するようなジョブが再生産されていく。現代の職業従事者の大半が従事しているジョブは、この政治経済システムの位階秩序によって生み出された仕事である。

 

こうしてみると、資本主義が徹底・純化されていないために「ブルシット・ジョブ」が生み出されているのではないかという意見が出てきそうであるが、もちろんグレーバーは、資本主義を徹底化させる方向を目指していない。おそらく、この辺りがアナルコ・キャピタリストと分かれるところなのだろうが、なぜグレーバーはアナルコ・キャピタリズムあるいはリバタリアニズムの方向を目指さないのか、本書を読む限りでは判然としない。

 

本書の問題点として指摘できることは、その独創性にもかかわらず、キャッチーなコピーとして流通する可能性を秘めている「ブルシット・ジョブ」の概念ではあっても、その内実がほとんどない、という身も蓋もない結論で終わってしまうのであるが、真面目に考えるとしても、「ブルシット・ジョブ」の三要素を充足するジョブが、実際のところ、どの程度存在するのか。見ようによっては、現代の資本主義の下での大半の仕事がそうだと言えるし、逆にそうでないとも言えてしまう(「ブルシット・ジョブ」の三要素からすれば)。その人の、しかもその時々の状況によって、融通無碍にその範疇が揺れ動いてしまう概念なので、社会経済分析のための概念装置としては、ほとんど使い物にならないという致命的な欠陥を抱えるのだ。

 

そうした事情ゆえ、いかようにも受け取ることができる。そこで、自身の気に入らない職業を「ブルシット・ジョブ」だとレッテルを貼っていれば、それでいっぱしのことを言えたと勘違いするアホを量産することになってしまった。酷いケースでは、単に高所得層へのルサンチマンを募らせた連中が絶叫する標語と化していたり、「福祉職こそが厚遇されるべき、『ブルシット・ジョブ』とは区別されるエッセンシャル・ワーカーだ」と言って、他の仕事を貶めることに精を出す盆暗も登場してきたりする。おそらく、読みもしないで、字面からイメージされることを思い込んで叫んでいるのだろう。改めて確認するまでもないが、「エッセンシャル・ワーク」と「ブルシット・ジョブ」は対概念ではない。したがって、「福祉職」であろうと、「医療職」であろうと、警察や消防など「公安系公務職」であろうと、「ブルシット・ジョブ」は存在する。

 

企業の社会的役割の一つは「雇用を生むこと」も含まれると考える僕のような立場からすれば、それが「ブルシット」であろうと、「シット」であろうと、「エッセンシャル」であろうと、「非エッセンシャル」であろうと、相当な態様での雇用を生んでその者を食わせているのならば、それだけで立派に社会的役割を果たしているのであって、あるジョブの必要・不必要を区別する一元的基準が存在するわけではない。要・不要は、究極のところ、社会が決定するとしか言えない。

 

「社会的有用性」という概念は、それこそ一律に決定できるものでもないので、分析の道具として用いるには不適当であろう。それに「有用性」・「無用性」ないしは「要」・「不要」という対概念を徒に用いることは、極めて危険な思想に至りかねないという危惧が欠けている。人間の価値については「役に立つ」・「役に立たない」という基準で判断することは憚れるのに、特定の仕事を一律に「役に立つ」・「役に立たない」と区分けすることに何の躊躇もないというのは、どうしてなのか。むしろ、特定の仕事に従事する者に対して、「役に立たない」から社会的に存在する必要はないし、それどころか有害であると裁断する思考と、特定の人間を「役に立たない」から社会に存在する必要はないし、それどこか有害であると裁断する思考との間に、どれほどの距離があるのだろうか。特異な基準を一律に当てはめて、「社会的有用性」の大小でその存在価値を判断する思考という点では、結局、同じ穴の狢ではないか。

 

一見役に立たない儀礼的な仕事であっても、本当に役に立たないかと言われれば、そうではあるまい。そもそも、人間の文化的行為が何らかの儀礼性を帯びており、ことさら可視化された儀礼行為を取り上げなくとも、そのことは薄々気づいているはずである。逆に、何らの儀礼性も不要というのであれば、人間は文化を持つことなどなかっただろう。「社会的有用性」を強調するのであれば、元は「役にも立たない」ことの典型であった学問はどうなのか。英語のschoolの語源はギリシャ語のscholēであり、これは確か「暇」という意味ではなかったか。大学で研究された学問も、元はと言えば、修道院で暇こいている連中に、役にも立たないことを目いっぱい学ばせたことから始まったわけだし、暇で暇で仕方がない貴族が他にやることがないので、学問研究に打ち込んできた歴史がある。役にも立たない学問を腹いっぱいにため込むことこそが、本来のsuperior educationだと言ったのは、対ソ封じ込めを提唱した大外交官ジョージ・ケナンである。

 

もちろん、グレーバーはこうした諸活動を否定的に捉えていたわけではない。しかし、「社会的有用性」を安易に持ち出すことが、どのような効果をもたらすことに至るかへの意識が些か不足していたのは確かだろう。当初の意図に反して、「ブルシット・ジョブ」であるか否かの物差しに「社会的有用性」の基準が使われるという単純化が起きてしまう。そこで、一部のアホが騒ぎ出すということになってしまう。コロナ禍において「不要不急」とされた文化芸術活動に携わっている者たちの多くが、自分たちの存在意義について悩みを深くしたという。「社会的有用性」という物差しを持ち出し、それを手前勝手に振り回して他人の仕事を貶めて憚らない者が出てくるのは、必然的な帰結でもあった。

 

そうすると、グレーバーとある意味真逆を行く(と見えて、実は同一方向を向いていると理屈を弄することもできそうであるが)ウォルター・ブロックのDefending the Undefendable.の方がよほど論理的に筋が通っているように思えてくる。ブロックは、シカゴ学派頭目ミルトン・フルードマンの愛弟子ゲーリー・ベッカーに教わった経済学者で、アナルコ・キャピタリストないしはリバタリアンとしても知られる。麻薬取引をも擁護したオーストリア学派のフォン・ミーゼスやフリードリッヒ・ハイエクらの思想の系譜と、シカゴ学派の系譜の双方に位置する思想の持主といえば、それほど奇異に感じないかもしれない。違法ドラッグの売人であったり、高利貸しや薬物中毒者、賄賂を受け取る悪徳警察官やダフ屋、売春婦、闇金融業者など社会で犯罪または不道徳的とされている行為や仕事を丸ごと肯定するわけだが、こちらの方がよほど清々しく思えてしまうのは、グレーバーを持ち上げる者たちの思想に潜む度し難い差別意識が透けて見えてしまうからである。