哲学における人間社会の本質と構造についての議論は、発生論的な議論よりも存立構造論が中心に据えられる傾向にあるように見受けられるが、この点に関して、廣松渉『役割理論の再構築について』は、社会生成の基底に関して役割行動論に基づく発生論的な論理を展開しているところに特徴がある、哲学書としては比較的珍しい部類に属するのではないだろうか。
その役割行動について、廣松は、次のように定義する。
<他者によって期待されている行動の-解発的に現前する当事者に対向しての-呼応的遂行>、この間主体的に共役的な関係性における実践
そして、役割行動の発生場面における模倣行動の持つ重大な意義を主張し、「役割交替」・「役割期待」・「役割取得」といった、役割存在の構成要素の形成機制を分析して行くのだが、廣松によると、力動的な場において<「期待され」-「期待する」>関係の経験の集積により、徐々に役割行動における当事主体・当事他者の共役的存在が形成されて行くというのである。
役割行動という所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体的他者による期待の対自化、それに即応した”この”身体の協応的応接の進展とそこにおける”あの”身体的他者に対するディスポジショナルな反応様態の対他的予期、一般化していえば、所与のシチュエイションのもとにおける”あの”身体と”この”身体とのあいだでの協応のディスポジショナルな相補的・共役的な期待の「対他的ー対自的」な現成、このような力動的場において「他己」と「自己」とが「対自的・対他的」に現識される。
ある役割を「期待する」第三者を内面化させ、「期待される」行動を自らのものとして身につけて振舞う。こうした役割行動は、一定の社会的交通を持った相対的に自律した共同体が形成されるところにおいては、一様に見られるみられる現象であろう。人間が一定の社会を形成する動物である限り、何らかの役割期待に基づいた振る舞いをしており、それが社会的・歴史的に媒介された「社会的行為」を理解する基礎となる。
『役割存在論の再構築のために』より前の、若い時分に出された『世界の共同主観的存在構造』を構成する論文の一つ「共同主観性の存在論的基礎」において、この認識に至る思考の萌芽を見つけることができるかもしれない。役柄扮枝と対他存在を論じる文脈において、廣松は、サルトル『存在と無』の議論を取り上げ、これを批判的に検討している。
その前に一言。『存在と無』より前に書かれた『自我の超越』によると、現象学において意識は志向性として定義されるのであるから、「超越論的自我」というようなものはありないということになっている。
他方、フッサールによると、現象学的還元によって見出された超越論的主観性は、一切の客観的存在と真理に対して、その存在と認識の根拠を与えるものであるとされる。世界その他の志向的相関者は、認識論的主観の意識能作を超越して自存するものではない。したがって、世界の超越は、世界を究極的に構成する自我との相関における「超越」に他ならず、この意味において、自我は存在する一切の超越に対する絶対的な前提としての極となる。
ところが、サルトルに言わせると、世界のみならず自我すらも徹底的に還元の対象になるのだから、「経験的自我」と区別される「超越論的自我」なる概念は、むしろ還元の不徹底をこそ意味するものに他ならなかった。自我は、世界及びその他の対象と同じく、すべて意識の志向的対象の一つであって、「世界に向けて己を炸裂させ」ねばならない。したがって、意識それ自体は何ものでもなく、正に「白紙状態une table rase」ないしは素裸の「無」という他なくなる。
かくして現象学的還元は、サルトルにおいては以後、「無化作用néantisation」という意義を付与されることになる。すべてであるところの充実したものとしての、後のサルトルのいう「即自存在l'être en-soi」と、存在から抜け出た無としての「対自存在l'être-pour-soi」であるところの意識。ここにおいては、「超越論的自我」なる概念が成立する余地はない。
だがフッサールは、「自然的態度」において思念されたものをすべて「ノエマ的意味」に還元し、自然的に思念されていた他者も同じく還元の対象とされる。『デカルト的省察』では、超越論的主観性による他者構成の機制を解明していくことになるが、ここにおいて言われる「他者」とは、世界の側の対象となる被構成体としての他者を意味するものではなく、「ともに」世界を構成する「他者」、「等しく世界をともに構成する他者」という「間接的」現前の仕方でしか現象しないところの「他者」である。とはいえ、「他者」経験を発生論的場面に即しつつ、「対化」という「受動的総合」の一形式による「類比化的統覚」が決定的役割を果たす「自己移入論」を展開する『デカルト的省察』が、「他者」構成論において成功しているとは思われない。
サルトルの対自・対他存在としての<私>という見方の基礎には、対象についての定立的意識は、同時に自己に関する非定立的自己意識を伴うという考えが背景にある。サルトルによると、<私>は他者によってしか<私>たることはできない。「私は、私であるところのものではないje ne suis pas ce que je suis.」とは、対自存在と対他存在とに引き裂かれた存在としての<私>の存在の脆さを示している。<私>とは、この「存在論的不安定」において存在しているものというわけだ。
この「存在論的不安定」を必然的に受け入れざるをえない事態を、サルトルは「自己欺瞞la mauvais foi」と表現している。
「私としてあるところのもの」ではないというあり方において、私は、「あるところのものである」ようにせしめること、あるいは、「あるところのもの」というあり方において、「あるところのもの」でないようにせしめること。
我々の日常生活は、こうした「自己欺瞞」というあり方に彩られている。我々が、自己にとって何ものかであることに脅え、かつ、その我々が他者によって何ものかにせしめられていることに慄いている。
この「自己欺瞞」の運動を成立させているのが、「演技jeu」である。カルティエ・ラタンのカフェのギャルソンの颯爽とした振る舞いは、彼がまさにカフェのギャルソンを演じていることを示している。誰であろうと役柄を扮し、<私>を我有化させるわけであるが、こうした自らの「演技」や仮面を現実と見なし、仮象を実在とみなす態度を、サルトルは「クソ真面目な精神 l'esprit de sérieux」と表現する。なぜか?その理由は、仮象の背後の<無>に耐え切れず、<実在>の安らぎに逃げ場を求めるからだ、とサルトルは言う。
このような「存在論的不安定」から抜け出す道はあるのか?サルトルは、逆説的に、ジュネやボードレールの生き方にそのヒントを見つける。ジュネやボードレールの奇怪な振る舞いは、「クソ真面目な精神」を脱し、役柄を自ら率先して演じる。しかし、単に演じるのではない。仮象はどこまでいっても仮象でしかなく、演技や仮面をも現実とはみなさないからだ。
どこにもあるようで、どこにもない<私>。この<私>は、あの「本来的な自己」でもなく、もはや<実在>などに安らぎの場を求められないことを積極的に受け入れている。
他者の眼差しが<私>を「石化」させる、つまり即自存在へと変じさせてしまうとサルトルは言う。ここで意識されているのは、他者によって見られているがままの被視存在としての私ではなく、役割存在としての自己であり、ここに言う自己とは、レアールな存在としての自己ではなく、未在という仕方で「現前」している存在である。
泥棒であって泥棒を演じるのではなく、泥棒に敢えてなるということ。『存在と無』は、冗長に過ぎる面がないではないが、個別の実存のあり方についての微細な点まで逃さぬ記述には見るべき点があって面白い。
廣松は、マルクス主義との接点が希薄であった時期に書かれた『存在と無』を引用することはあっても(とはいえ、後年に書かれた文章には、サルトルはほとんど姿を消すことになるが)、マルクス主義と急接近した時期に書かれた『弁証法的理性批判』を始め、『唯物論と革命』や『共産主義者と平和』には言及しない。せいぜい、その『弁証法的理性批判』の序文にあたる『方法の問題』の一部分、すなわち、マルクス主義を現代において「乗り越え不可能な哲学」と記している箇所を、マルクス主義を宣揚する際に「飾り」として引用しているに過ぎない。
ということから推し量られることは、廣松は『弁証法的理性批判』を評価していなかったのではないかということである。それもそのはず。サルトルの哲学は、どこをどう読んでも、マルクス主義とは単に異なるどころか、水と油の関係であるというぐらい互いに相容れない哲学・思想ということを感じ取っていたからに違いない。そう、「実存主義的マルクス主義」など、形容矛盾も甚だしい代物なのである。
しかもサルトル自身、マルクス主義を「現代において乗り越え不可能な哲学である」と称揚し、『弁証法的理性批判』まで著している割には、フッサールを読んだ程度にはマルクスを読んでいなかったのではないかとの疑念をつい抱いてしまいたくなるほど、その表現に引っ掛かりが感じられるし、『弁証法的理性批判』も、読みようによっては、反マルクス主義的な著作に映ってしまう。『唯物論と革命』を一瞥しても、マルクス主義からの積極的引用は、ヨシフ・スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』くらいなものではなかったか。
要は、「そもそも、マルクスに大して関心持ってねーだろ?」と。そりゃ、レジスタンスに身を投じたマルクス主義者を見て感化されたのだろうけど、サルトルは傍観者でしかなかった。それが影響したのか、後年は過激であることが自己目的化したようなアナキストになっちまった。マルクス主義の文献について読みこなしていた形跡もなく、せいぜい、エンゲルスの自然弁証法の酷さを見るに見かねて、「ここらでいっちょ、かましたろうか」というノリで書いたようにしか思えないものがチラホラ散見される。
『方法の問題』で、人間は所与の条件において歴史を形成していくことに触れる際、この表現が、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』において既に述べられていることの再定式化であることにすら気づいている気配がない。『共産主義者と平和』の第三部において経済理論に触れる場面でも、マルクス自身の経済理論を新マルサス主義の理論と勘違いしていた(改版されたものは、この部分が削除されているらしい)。さらに、レーニン、トロツキー、ルクセンブルグ、グラムシ、ルカーチのようなマルクス主義者の数多の議論に言及することもない。ラファルグ、ジョレス、マルクーゼ、ブロッホ、アドルノ、アルチュセールについてもほとんど言及されていない。
メルロー・ポンティは、サルトルは経済と搾取の問題には関心を示さず、専ら抑圧に関心があったと証言しているが、正鵠を射た発言だと思われる。事実、マルクスの場合、人間は階級の形で集合的に捉えられる傾向にあるのに対して、サルトルでは、『弁証法的理性批判』においてすら、人間は集団に全体化された個々の主体の集まりでしかなかった。存在論的自由に関するサルトルの理解は、自由は必然性への洞察であるというヘーゲルとマルクスの両者が共有する理解とは両立しない。
この存在論的自由に関するサルトルの態度は、『存在と無』と『弁証法的理性批判』の間で根本的に変化はないように思われる。いずれも「奴隷も自由である」という、マルクスなら決して発しなかったであろう言葉まで残されている。
しかも、上部構造-下部構造の二分法をサルトルは採用しない。代わりに、実践と実践的不活性としての制度との二分法を採用している。しかし、このような実践の理解は、サルトルからすればルカーチを経由して得られたものだと言うのかもしれないが、サルトルの実践の理解を細かく見ていくと、ほとんどシュッツやフッサールの「生活世界Lebenswelt」に近づいていくのではないだろうか。もちろん、この理解は、マルクスとは程遠いもののように思われる。